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第0014話

Author: 龍之介
夜、沁香園

古風な趣のある高級レストラン、静かな雰囲気が漂い、どこか雅やかな空気が広がっていた。

綿は深い緑色のチャイナドレスを纏い、手には折りたたみ式の扇を持って、少し遅れて個室へと足を踏み入れた。

彼女がドアを押し開けると、中で茶を飲みながら談笑していた人々が、一斉に彼女の方を振り向いた。

ライトが当たると、綿の肌は透き通るように白く、チャイナドレスのスリットから覗く足は長くすらりとしていた。その姿は、華やかさと品の良さを兼ね備えていた。

髪は精巧にまとめられ、簪で軽く飾られている。額にできた傷は、前髪でさりげなく隠されていた。

部屋の空気が一瞬静まり、誰もがその美しさに息を呑んだ。

「おや、これは桜井のお嬢さんじゃないか?」

五十代の男性が、にこやかに声をかける。

木村恒――綿の父である桜井天河の親友。今日のこの集まりを主催したのも彼で、ここにいるのは業界でも名の知れた大物ばかりだった。

「おいおい、『桜井のお嬢さん』なんて他人行儀な呼び方をするなよ。天河さんの大事な一人娘の綿ちゃんだろ?」

別の男が笑いながらそう言うと、周囲の空気がさらに和やかになった。

綿は部屋をぐるりと見渡し、穏やかに微笑むと、軽やかな足取りで歩み寄り、一人一人に挨拶をしていった。

「皆さん、遅れてしまって、本当に申し訳ありません!」

「いやいや、いいものは遅れてくるものさ」

「久しぶりだね。ますます美しくなったじゃないか!」

「昔、息子と綿ちゃんの縁談をどうにか決めようと、何度も足を運んだものさ。で、結局どうなったと思う?」

皆が笑いながら興味を示した。「どうなった?」

「うちに生まれたのは娘だったんだよ!」

場内はまたしても笑いに包まれた。

綿は促されて席につき、料理が次々と運ばれてきた。彼女の隣にはまだ二つの空席があり、誰かがまだ来ていないことに、ほんの少し安堵した。

そんな中、誰かがふと話題を変えた。

「そういえば、もうすぐ高杉家の奥様の誕生日だが、皆はどんな贈り物を用意しているんだ?」

綿はお茶を飲もうとしたが、その言葉を聞いてふと顔を上げた。

すぐに、周囲から軽妙な声が上がる。

「今年もまたプレゼント合戦か?」

「毎年、奥様の誕生日では、どんな豪華な贈り物が出てくるのか楽しみだよな」

「一番いいものを持ってきた人が、最も高杉家に近づける……そんなイベントだ」

綿は茶を一口含みながら、心の中で静かに頷いた。

確かに――

おばあさんの誕生日は、高杉家に取り入る絶好の機会だ。毎年、業界の有力者たちはこぞって珍しい品を持参し、どれだけの誠意を示せるか競い合う。

高杉家の祖母は「面子」を何よりも重んじる人だ。彼女を喜ばせることができれば、一介の実業家でもたちまち名門の一員として認められる可能性があった。

「ねえ、皆さん、南城に『百年雪蓮草』があるって聞いたことは?」

その言葉に、綿の眉がわずかに動く。――百年雪蓮草?

「それは何だ?」

「貴重な薬草、世に一株しかないと言われている。特に年配の方には効果抜群だとか。高杉家の奥様の体調も万全とは言えないし、もしこの草を贈ることができれば……」

話の流れに、皆が興味を示す。

「へえ、そんなものがあるのか? でも、世に一株しかないと言われるほどのものを、一体誰が手に入れられるんだ?」

木村恒が笑いながら言うと、隣の矢野誠がふと綿に視線を向けた。

「桜井家にはないのか?」

話を振られた綿は、口に含んだ茶をゆっくりと飲み込み、軽く微笑んだ。

「うち?さすがに、そんなものは持っていないわ」

「医学の名家である桜井家にもないなら、本当に手に入らないんだな……」

矢野誠は残念そうに肩をすくめた。

すると、その場にいた三十代半ばの男性が、ゆっくりと口を開いた。

「その雪蓮草を見つけられる人を知っているよ」

一瞬、空気が変わる。

「誰だ?」

皆が男に注目する中、綿もまた期待のこもった視線を向けた。その表情には、少し驚いたような可愛らしさも混じっていた。

男は微かに笑い、答えた――

「M様だよ!」

「コホンコホン――」

綿は突然むせ込み、咳をした。

「綿ちゃん、大丈夫か?」

周囲の視線が一斉に綿に集まる。

綿は手を振り、咳を抑えながら合間に言った。

「大丈夫です。それより、続けてください」

「みんな、ブラックマーケットを聞いたことがあるか?今日、ついにM様が帰ってきたんだよ!」

そう言った男は興奮気味に続ける。

「あの人はどんな取引も簡単にこなす。たった一株の雪蓮草なんて、M様にとっては赤子の手をひねるようなものさ!」

綿:「……」

言うのは簡単ね。口先だけなら何とでもなる。

彼女が水を飲もうとしたその時、部屋のドアがノックされた。

「遅刻者は、罰を受けてもらうぞ!」

矢野誠が冗談めかした口調で言う。

綿は扉の方を向き、聞き慣れた声が耳に届いた。

「遅れて申し訳ない」

……この声は――

「おお、輝明か。てっきりお父さんが来るのかと思ってたよ」

「秋年、お前のお父さんも来てないのか?」

木村恒の問いかけに、綿の指が無意識に扇を強く握る。

屏風の向こうから、二つの影がゆっくりと近づいてくる。

高杉輝明と岩段秋年。

黒いスーツを身にまとった輝明は、会場に入るや否や、真っ先に綿を見つけた。

チャイナドレスに包まれた彼女の姿は、人々たちの中では一際目立っていた。スリットから覗く長い脚、しなやかな指先、無造作にかき上げられた髪――どこをとっても完璧だった。

輝明は眉をひそめ、胸がざわつくのを感じた。落ち着かない。

秋年もまた、綿の姿に驚きを隠せなかった。

彼女がこんな場にいるとは――

秋年は輝明を一瞥し、彼が入り口で立ち尽くしているのを見て、軽く咳払いをして場を和ませるように言った。

「皆さん、父はまだ釣りから戻っていません。急遽、俺が代理で参りました。これは父が持たせてくれた良い酒です。皆さんでどうぞ」

「遠慮しないでくれ。これは私的な集まりだからな」

木村恒は手を振り、二人に座るよう促す。

輝明と秋年が並んで席へと向かう。

問題は、誰が綿の隣に座るのか――

秋年はわずかに唇を引き締めた後、何も言わずに輝明に、綿の隣の席を譲った。

輝明が腰を下ろすと、場の空気が一気に静まり返った。

この場にいる誰もが、二人の関係を知らないわけではない。

二人は離婚間近。今日ここに来る前に、すでにそんな噂が流れていた。

これが……

秋年は手のひらを擦りながら、この重苦しい沈黙をどう打破するか考えた。

「……酒を開けて試してみようか?」

秋年が立ち上がる。

「そうだな、飲もう飲もう!」

木村恒も頷き、場を盛り上げる。

「秋年、最近会社の経営はどうだ?何か困ったことがあれば、いつでも相談しろ」

木村恒が親しげに話しかけると、秋年は苦笑しながら答えた。

「もし山梨の土地を譲ってくれるなら、もっと順調にいくでしょうね」

この冗談に、場の空気が和らぎ、皆が笑い出した。

綿は足を組み、茶をゆっくりと口に含みながら微笑んだ。

だが、その視線に気づく。

――隣にいる輝明の。

一挙手一投足に意識を向け、視線はスリットから覗く脚にまで落ちていた。

綿はわずかに顔をそむけ、内心で息をついた。

……気まずい。

彼女はカップを置き、木村恒に向かって言った。

「少し外の空気を吸ってきます」

「わかった」

木村恒は頷いた。

綿は静かに部屋を出た。

輝明もまた、しばらくしてから彼女を追った。

秋年は、その様子を見て微かに眉をひそめる。

最近の輝明は、綿に対して妙に執着している。以前は見向きもしなかったのに、今さら何を考えているのか――

綿は扇を軽く揺らしながら、ゆっくりと廊下を歩いていた。

このまま食事会が終わる頃に戻ればいい。

彼女は、輝明と同じ空間にいること自体が息苦しかった。彼を見るたびに、彼が吐いた冷たい言葉が脳裏に蘇る。

特に、あの時――

自分と嬌が同時に階段から落ちそうになった瞬間、ためらいもなく嬌を選んだ彼の姿。

あの記憶が、今も胸を締めつける。

綿は深く息を吐き、目の奥に暗い色を宿しながら廊下の角を曲がった。

――その瞬間、突然、男の体にぶつかった。

酒の匂いが鼻を刺す。

見上げると、男は四十代くらい、身長は180センチほど。がっしりとした体格をしており、すでに泥酔しているようだった。

ニヤついた顔で、綿の腰を掴み、ふっと鼻を鳴らす。

「いい香りだ……」

綿の表情が一瞬で冷え込んだ。

次の瞬間、彼の急所を思い切り蹴り上げる。

「変態!」

男は苦しげに顔を歪め、蹲ったが、すぐに顔を上げた。そして、綿の顔をじっくりと見た瞬間、驚きに目を見開く。

「おお……!美人だ!」

男の興奮した声が廊下に響く。

「南城にこんな綺麗な女がいたとはな……!」

ろれつの回らない口調、酒の匂い、男の視線――すべてが不快だった。

綿は眉をひそめ、冷ややかに睨みつけたあと、何も言わずにその場を去ろうとした。

しかし、男はすぐに腕を伸ばし、彼女の手首を掴む。

「おい、演技はいいからさ。いくらだ?」

綿は静かに男を見つめ、ふっと笑みを浮かべた。

「一億円。払える?」
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    「お姉ちゃん、私これ欲しいの」恵那は綿の腕に抱きつき、少し甘えるような声を出した。今日の綿は高貴で華やかな装いで、本物の「桜井家のお嬢様」といった雰囲気を醸し出している。一方、恵那はどこか「リトルプリンセス」のような雰囲気を持っており、二人が並ぶと違いは明らかだった。それでも共通点があるとすれば、それは二人とも目を奪われるほどの美しさを持っていることだ。特にその明るく輝く瞳は、一度見たら忘れられない。「お姉ちゃんが買ってあげる。でも、このセットじゃなくて、別のにしない?」綿は恵那に優しく言った。恵那は瞬きをしながら綿を見つめた。二人の間には、まるで突然「仲の良い姉妹」を演じるかのような空気が漂った。お互い少しぎこちなさを感じてはいたが、せっかく始めた以上、最後まで演じ切るしかなかった。「どうせ、私に勝てないからでしょ」陽菜が冷笑しながら口を挟んできた。綿は微笑み、「たかがジュエリー一つで、あなたに勝てないなんてことがある?」と言い返した。「そんなに欲しいなら、譲るわ」「冗談はやめて。最初にこのジュエリーを見つけたのは私よ。何が譲るだって?」陽菜は一歩前に出てきて強気に言った。確かに陽菜も美しいが、その美しさには棘があり、幼さが見え隠れしている。つい最近まで学生だったことが分かるような雰囲気だ。「買うか買わないか、はっきりしてちょうだい」綿は面倒くさそうに言った。「お姉ちゃん……」恵那は少し迷いの表情を浮かべた。陽菜は目を細め、計算している様子だった。会場で一番注目を集めているジュエリーは二つしかない。一つは「バタフライ」の回帰作「雪の涙」。もう一つは、ソウシジュエリーの目玉展示であるキリナの「ジェイドラブ」。「ジェイドラブ」はすでに輝明が購入済みで、「雪の涙」は手に入らないとされている。ソウシジュエリーのこのセットは、いま目立つには最適のアイテムだった。「これ、本当にいらないの?」恵那が躊躇ってる、陽菜も考えている。「このセットはダメよ」綿ははっきりとそう言った。その声には遠慮がなかった。たとえそれがキリナのデザインだとしても、彼女は全く気にしなかった。「恵那には合わない」「ふん」陽菜は鼻で笑った。「確かに、彼女には合わないわね。でも『雪の涙』なら似合うかもね。ただ、買えればの話だけど」陽菜

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    「バタフライの復帰作は簡単に手に入らないわ。仮に私がバタフライを紹介しても、彼女はあなたに売らないでしょうね」キリナの言葉には、暗に「諦めなさい」と言わんばかりの響きがあった。だが、輝明はその言葉に納得しなかった。「彼女が復帰作を発表したということは、買い手を探している証拠だろう。もし俺が適切な価格を提示すれば、どうして売らない理由がある?」その冷ややかな視線がキリナに向けられたとき、彼の言葉はまさに核心を突いていた。キリナの胸中にわずかな苛立ちが広がった。自分も同じデザイナーで、ここは自分の展示会場だ。それなのに彼が話しているのは、バタフライの話題ばかり。気分が良いはずがない。彼女はふと遠くの綿に目をやり、再び輝明の顔に目を戻した。彼の視線は、ずっと綿を追い続けている。キリナは苦笑した。好きになってはいけない人を好きになってしまうと、こんな感じなのかもしれない。彼女は追いかける途中か、一歩遅れて到着するかのどちらかだ。大学時代、彼女が輝明に惹かれたころ、彼はすでに綿と高校時代からの知り合いだった。彼が結婚したとき、「これで彼は一生綿のものだ」と思った。だが、彼が嬌を愛しているという噂を聞いて動揺した。そして、ようやく離婚だと聞いて、再び彼が綿を愛していると知り、またしても自分の出番はなかったのだと悟った。彼女が「追いかけている」と思っていたのは錯覚で、実際には彼の世界に自分は一度も登場したことがない。ただ一人で走り回り、遅れを取り戻そうとしているだけだった。「遅れを取った」というより、そもそも彼の人生の軌道に自分は存在しなかったのだ――彼女が感じているすべての感動や情熱は、結局、自分自身に向けられたものに過ぎない。彼の世界には彼女の存在など一度もなかった。いや、彼自身、自分がどれほど彼を好きだったのかさえ気づいていないかもしれない。今では結婚すべき年齢にもなったのに、心はまだどうにもならない男に縛られている。キリナはうつむき、自分の愚かさに思わず苦笑した。そのとき、近くで響いた女の子の声が、彼女の考えを中断させた。「これは私が先に気に入ったんだから、ルールを守ってよ!」キリナも綿もその声に反応して視線を向けた。声の主は恵那だった。恵那はジュエリーの展示ケースの前に立ち、険しい表情を浮かべていた。「

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0712話

    自分に贈る?もうわけがわからない。「高杉さん、私はあまり好きじゃないので、無駄なお金を使わないでくださいね」綿は穏やかに微笑みながら、きっぱりと断った。輝明は少し首を傾げ、不思議そうに聞いた。「女はみんな好きだと思ってたけど、君は違うのか?」「普通の女の子じゃありませんから」綿は笑みを浮かべたが、内心では「あなたに届かない雲の上の人だから」と言いたい気持ちをぐっと堪えた。「じゃあ、別のプレゼントを贈るっていうのはどう?」輝明が提案する。綿は困惑した。「暇?なんでそんなにプレゼントばかり私に贈ろうとするの?」以前は、昔はプレゼントひとつねだるのも、まるで天に願うくらい難しかったんだから。それが今では、この安売り感はどういうことだろう。輝明は自信たっぷりに答えた。「今度のプレゼントは、君がきっと気に入るものだよ。今日は持っていないから、夜に会おう」「忙しいの」綿はそっけなく言い放った。輝明のプレゼントなんか、好きじゃないし、会いたくもないし。「ブラックアイの最上階で待ってる。君が来なければ、俺はそこを動かない」輝明はきっぱりと言った。綿は眉をひそめた。彼は本気だった。彼が「動かない」と言えば、本当に動かないのだ。「勝手にどうぞ」綿は手を振りながら彼のそばを通り抜けた。「だから、さっきはやっぱり嫉妬してたんだろう?」輝明は彼女の後を追いながら言った。綿が来るかどうか、彼は気にしていない。どうせ、彼女が来なければ、彼は動かない。綿が彼を気にかけているなら、きっと来るだろう。もし来なければ、彼もそれを理解できる。「自意識過剰ね。ついてこないで。さもなければ警察を呼ぶわよ!」綿は振り返り、彼を指差して言った。その表情には嫌悪感がにじんでいた。だが、輝明は気にする様子もなく、笑みを浮かべたまま彼女についていく。「最近、高杉グループの状況が好転したようね?」綿は少し皮肉っぽく尋ねた。「心配しないで。高杉グループは大丈夫だよ」彼は微笑みながら言った。「約束した株式も、ちゃんと君に渡すつもりだ」綿は一瞬呆れたような顔をして、何も言わずに彼を振り切ろうとした。幸運にも、洗面所を出たところでキリナが輝明を呼び止めた。綿はこれほどキリナに感謝したことはなかった。この瞬間、彼女は本気で感謝していた。

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0711話

    綿は洗面台の鏡に映る自分の顔を見つめながら、深いため息をついた。先ほど輝明がキリナに投資すると言ったことを思い出し、どこか滑稽に思えてきた。彼がバタフライに投資しない理由は、「バタフライにはたくさんの投資家がついているから、自分は必要ない」というものだった。典型的な「自己満足で投資しない理由」だ。彼女には何も欠けていないから、彼が出る幕ではない――そんな発想なのだろうか。でも彼は分かっていない。彼女が一番欲しいのが、もしかして彼の投資だったら?綿は目を伏せ、ぼんやりと思考にふけっていた。そのとき、入口に人影が現れた。鏡越しにその人物を確認すると、綿は小さく舌打ちした。「高杉さん、ここは女性用のトイレですよ」「だから?」彼は壁にもたれ、腕を組みながら答えた。その態度はまるで「問題があるなら言ってみろ」とでも言いたげだった。周囲に他の人がいないことを確信しているからこその行動だった。不用意にここへ来たわけではない。綿は彼に返事をせず、口紅を手に取り唇に軽く塗った。その何気ない仕草に、輝明は目を奪われた。彼女の微かに開いた唇を見つめ、思わず自分の唇を舐めた。「綿」彼は低い声で彼女の名前を呼んだ。綿は鏡越しに彼を見つめる。「嫉妬してるのか?」彼の声には、どこか真剣さが感じられた。綿は一瞬呆然とし、それから笑い出した。「高杉さん、飲んでますか?」どれだけ飲んだのだろう。おつまみはきゅうりとピーナッツ? それとも何か他のもの? まだ酔いつぶれていないのに、こんな夢物語のような話を始めるなんて。彼が今言っていること、尋ねていること、それ自体がまるで冗談のようだ。嫉妬してるかどうかなんて、どこをどう見てそう思ったんだ?どっちの頭がおかしくなったのか?「もし酔っているなら、森下さんに連絡して迎えに来てもらったらどうですか?」綿は少し優しい声で言った。「どこが酔ってるって?俺は至って冷静だし、むしろ君の気持ちを正確に判断できるくらいだ」彼の声は静かで、疲れが見え隠れしているが、それでも堂々としていた。その整った顔立ちは、どんなに疲れていても鋭い輝きを失わない。「じゃあ言ってみてください。私の気持ちはどんな感じです?」綿は笑いをこらえながら尋ねた。輝明は眉を上げ、淡々と言い放った。「嫉妬してる」「

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0710話

    綿の表情が一瞬で冷たくなった。彼がこちらを見ているのは分かったが、なぜ見るのか理解できなかった。バタフライのジュエリーが発表されることと、自分に何の関係があるというのだろう。キリナはすぐに輝明に目を向け、「高杉さんもバタフライにご興味がおありですよね?」と尋ねた。「ええ」輝明は短く答えた。「でしたら、私のあのジェイドを買わずに、バタフライの新作ジュエリーをそのまま購入すればよかったのでは?」キリナは少し意外そうに言った。綿はその言葉に反応した。なるほど、キリナのジェイドジュエリーを買ったのは輝明だったのか。それでキリナがあっさりと売却を決めたのも納得がいく。展示会が終わるのを待つ必要すらなかったわけだ。輝明は淡々とした声で答えた。「それぞれのジュエリーには異なる意味があり、贈る相手も違う。だから、どちらも必要だったんです」確かにその通りだ。ジェイドは端正で優雅なデザインで、年配の人への贈り物に最適。一方で、バタフライのジュエリーは若者向けで、トレンドを意識した高級品だ。そのとき、キリナが綿に目を向け、「桜井さんはバタフライをご存じですか?」と尋ねた。「バタフライが男性か女性かも知らないんですが」綿は曖昧に返事をした。「女性ですよ。若くてとても才能のある方です」キリナは笑顔で答えた。「友人が一度彼女に会ったことがあるんですが、彼女のことを絶賛していました」「黒崎さんも、バタフライがとても優秀だと思っているんですね?」綿はすぐに問いかけた。キリナは頷きながら、「もちろんです。バタフライが優秀でないはずがありません」綿は微笑みながら心の中で思った。いいわね、キリナも自分を褒めてくれるなんて。それだけで十分満足だ。だが、一瞬考え込み、再び口を開いた。「ところで、黒崎さんはバタフライの作品がとてもお好きなんですね?」「ええ、大好きです。バタフライの作品を嫌いになる人なんていませんよ」キリナは即座に答えた。「じゃあ、もしバタフライが本格的にジュエリーデザインに復帰したら、ソウシジュエリーはどうなるんでしょう?」綿は首を傾げながら言った。その質問に、隣にいた輝明が綿を見つめた。その目には、以前には見られなかった強さと挑戦的な光があった。綿の変化に気づいていた。離婚してからの彼女は、以前とはまるで別人の

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0709話

    綿が振り向くと、そこには輝明とキリナが並んで立っていた。キリナは今日、とても美しく着飾っていた。女性らしさにあふれたその姿に、綿は初めて「キリナと輝明はお似合いだ」と思った。以前はキリナがあまりにも「女らしすぎて」、輝明には釣り合わないと感じていたのだ。一方、輝明は黒のスーツを纏い、堂々とした姿を見せていた。一目でオーダーメイドと分かる仕立ての良いスーツは、彼の洗練された体型を引き立て、気品と優雅さを際立たせていた。綿は二人に微笑みかけ、軽く会釈して挨拶をした。「黒崎さん、高杉さん」キリナも微笑み返し、「お二人はご存知の仲ですから、高杉さんをお連れしてご挨拶をと思いまして」と言った。その瞬間、綿の笑顔は少し引きつった。自分と輝明がただの知り合いどころではないことは、キリナがよく分かっているだろう。わざわざ輝明を連れてきた意図は何だろうか。表面上は何も言わずとも、心の中では「分かる人には分かる話よね」とため息をついていた。一方、輝明の綿を見る目は、どこか熱っぽさを帯びていた。その視線はキリナを嫉妬させるには十分すぎた。どんなときでも、どこにいても、綿がいる場所では彼の目は彼女を追う。他の誰も彼の視界に入らないのだ。大学時代もそうだった……大学時代、みんなは「輝明は綿を愛していない」と噂していた。だが、キリナはそうは思わなかった。人を好きになると、口では隠せても、目には隠せないからだ。彼が綿と結婚したとき、キリナはますます確信した。「やっぱり彼は綿を愛しているのだ」と。しかし、あるとき誰かが「輝明が本当に愛しているのは嬌だ」と言ったとき、彼女は衝撃を受けた。自分の判断が間違っていたのか?でも、彼が綿を見るその目には、確かに愛があったのに……輝明の視線があまりにも熱かったせいか、綿は気まずさを感じ、少し居心地が悪くなった。彼が何も言わないので、仕方なく綿が先に口を開いた。「高杉さん、最近お疲れのようですね。お身体には気を付けてくださいね」綿は柔らかく微笑みながら言った。「桜井さん、ご心配いただきありがとうございます。気を付けます」彼は礼儀正しく答えた。綿は再び笑顔を浮かべ、キリナに目を向けた。「黒崎さん、高杉さんとどうぞごゆっくり。私はこのまま展示を見て回りますね」キリナはすぐに頷き、「それがいいですね」と答えた

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0708話

    綿は近づくまでもなく、このジェイドジュエリーの工芸の良さを一目で見抜いていた。熟練の職人が時間をかけて丁寧に磨き上げたことが、明らかだった。このジュエリーは今回の展示会の目玉であり、主要なプロモーションにも使われるだろう。「こんにちは」綿は近くにいた案内スタッフに声をかけた。スタッフはすぐに彼女の方へ来て、一礼して挨拶をした。「こんにちは、桜井さん。このジェイドジュエリーはすでに予約済みです」「誰が購入したんですか?」綿が尋ねる。「それはお答えできませんが、大手財閥の奥様だとだけ」スタッフは丁寧に答えた。その答えで、綿は察した。このジュエリーはとても気に入ったが、自分の年齢には少し不相応だと感じていた。これは母親の年齢層にこそ似合う品だろう。彼女がどうしても見てみたかった理由は、それが本当に素晴らしいものなら買って母への贈り物にしようと思っていたからだ。もうすぐ新年だが、この一年、母にプレゼントを贈れていなかった。しかし、すでに購入済みだと聞き、綿は少し残念に思った。「桜井さん、このジュエリーが気に入られたのですか?」スタッフが尋ねる。綿は笑顔で答えた。「ええ、気に入りました。でも購入済みなら仕方ないですね。他のものを見てみます」「桜井さん、それならこちらのジュエリーもお勧めです」スタッフは別の展示ケースを指さした。綿は頷き、スタッフについていった。そのとき、会場の入口がざわつき始めた。「高杉社長、お忙しい中お越しいただけるなんて、本当に驚きです」人々の視線が入り口に集まる。そこにはキリナと共に入場してくる輝明の姿があった。輝明は黒いスーツに身を包み、端正な顔立ちと抜群の存在感で、入場するだけで場の雰囲気を変えていた。背筋がピンと伸び、どこか近寄りがたい雰囲気を漂わせているが、その眼差しには疲労の色が隠せなかった。彼が疲れていることは一目瞭然で、それが最初の印象として人々に伝わっていた。「以前お約束しましたからね。どんなに忙しくても顔を出しますよ。逆に、最近の俺のごたごたに気を遣わないでいただければ」輝明はキリナに微笑みながら言った。その声には少ししゃがれた響きがあった。キリナは慌てて首を振った。「高杉社長、私は何もお手伝いできなくて、本当に申し訳ないです」「何を言っているんですか。この問題

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0707話

    南方信は恵那が綿のそばからやってくるのを見て、尋ねた。「あの人、君のお姉さんだよね?」「そうよ」恵那は頷き、さっきまでの苛立ちはどこへやら、声が柔らかくなった。「普段マスコミが撮る写真よりずっと綺麗じゃない?あの人たち、美女の本当の美しさを引き出すのが下手なのよ」「確かに」南方信は笑いながら同意した。恵那はため息をつき、「家族の中では、姉がいつも一番美しいの」と言いながら、再び綿に目を向けた。その視線には羨望が滲んでいた。実際、恵那がこれまで綿に対して辛辣な態度を取り続けてきた理由は、ほとんどが嫉妬心からだった。だが、他人が目の前で綿をいじめるのは、決して許せなかった。綿は何といっても自分の姉だからだ。実を言うと、桜井家に来たばかりの頃、恵那はずっと不安だった。桜井家の人たちが自分を受け入れないのではないか、冷たい目で見られるのではないか、と。だが、そんなことは一度もなかった。特に綿は、最初に親切に接してくれた人だった。「私は恩知らずじゃないからね。その恩はちゃんと覚えてる」恵那は心の中で呟いた。彼女の生意気で強気な態度は、全て自己防衛のための手段だったに過ぎない。「でも、君も結構可愛いよ」南方信が笑いながら言った。恵那はすぐに彼を見つめた。その言葉が本心なのか、それともただのお世辞なのかは分からない。それでも、その一言が心にじんわりと響いた。南方信は、恵那が密かに憧れている男性であり、目標にしている人物でもあった。そんな素晴らしい人が、自分を褒めてくれるなんて――彼女の心の中で小さな花火が上がった。「ありがとう、南方さん」恵那は口元を上げ、甘い笑顔を浮かべた。南方信はその笑顔に少し驚き、もう一度恵那をじっと見つめた。業界内では、恵那に近づかない方がいいと言われている。彼女は毒舌でトラブルを招きやすい厄介者だというのだ。南方信のマネージャーもよく注意していた。しかし、同じ事務所に所属している以上、完全に避けるわけにもいかない。ただ、しばらく接してみて、南方信は彼女について少し違った印象を抱いていた。確かに性格はきついが、仕事に対しては真摯で、独自の美学を持っている。彼女が怒りっぽいのは、問題がある状況に対する正当な苛立ちが原因であり、理不尽なわがままとは違うのだ。例えば、普段雑誌のカバー

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0706話

    「もう十分!」綿は慌てて恵那の腕を引いてその場を離れた。恵那が自分のために声を上げてくれただけで十分だった。ここはキリナの展示会場だ。これ以上騒ぎを起こすのはまずい。陽菜も本気で喧嘩になると相当手強い相手だ。だが、引き離されてもなお、陽菜は食い下がった。「あんたたちどういうつもり?分かったわ、彼女、あんたの妹ね?姉妹で私をからかってるんでしょ!」「覚えておきなさい!」陽菜は恵那に言い返せず、綿を指差して怒りを向ける。その目には明らかな敵意が宿っていた。恵那はこれにカチンときた。自分に言うならまだしも、どうして綿を攻撃するのか?「はあ?何なのこのムカつく女!」と言いながら袖をまくる仕草をしてみせた。実際には袖なんてないドレス姿だが、その動きだけで陽菜をビクッと後退させた。「ちょっと、本気で叩き込まないと、あんた、世の中の怖さが分からないんじゃないの?どんだけ生意気なのよ!」周囲には人だかりができていた。ジュエリーの展示より、今目の前の騒動の方がずっと面白いらしい。「恵那、落ち着いて!あなたは女優なのよ!忘れないで、あなたは女優なの!」綿は急いで恵那をなだめた。女優が人前で喧嘩するなんて絶対にダメだ。ましてや恵那は公の場にいるのだ。「そうよ、私は女優。だからその辺の人間も相手にするわけにはいかないわね」恵那はふんと鼻を鳴らして衣装を整えた。その一言に陽菜は目を丸くし、驚きから怒りへと変わっていった。その辺の人間?ちょっと、彼女のこと言ってるの?恵那はそれを鼻で笑っただけだった。「ふん、また会うことになるわよ。そのときが楽しみね」「上等よ!いつでも待ってる!」陽菜はそう言い返したが、その後すぐに徹がやってきて陽菜を連れ去った。陽菜が去ると、周囲のざわめきも徐々に収まった。「綿、普段からこんな感じなの?いつも人にいじめられてるの?」恵那は溜息をつきながら尋ねた。綿は目を丸くし、「私がいじめられてる?」と聞き返した。自分がいじめられるような状況にあったかどうか、いまいちピンとこない。最近はむしろ、周囲に対して堂々と振る舞っていることが多かった気がする。「こんな見た目も地位もない、誰かのヒモみたいな女にすらいじめられるなんて、どんだけ弱いのよ」恵那は綿をじろじろ見てから、呆れたように眉をひそめた。「さすが嬌に男を奪

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