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第0014話

Author: 龍之介
夜、沁香園

古風な趣のある高級レストラン、静かな雰囲気が漂い、どこか雅やかな空気が広がっていた。

綿は深い緑色のチャイナドレスを纏い、手には折りたたみ式の扇を持って、少し遅れて個室へと足を踏み入れた。

彼女がドアを押し開けると、中で茶を飲みながら談笑していた人々が、一斉に彼女の方を振り向いた。

ライトが当たると、綿の肌は透き通るように白く、チャイナドレスのスリットから覗く足は長くすらりとしていた。その姿は、華やかさと品の良さを兼ね備えていた。

髪は精巧にまとめられ、簪で軽く飾られている。額にできた傷は、前髪でさりげなく隠されていた。

部屋の空気が一瞬静まり、誰もがその美しさに息を呑んだ。

「おや、これは桜井のお嬢さんじゃないか?」

五十代の男性が、にこやかに声をかける。

木村恒――綿の父である桜井天河の親友。今日のこの集まりを主催したのも彼で、ここにいるのは業界でも名の知れた大物ばかりだった。

「おいおい、『桜井のお嬢さん』なんて他人行儀な呼び方をするなよ。天河さんの大事な一人娘の綿ちゃんだろ?」

別の男が笑いながらそう言うと、周囲の空気がさらに和やかになった。

綿は部屋をぐるりと見渡し、穏やかに微笑むと、軽やかな足取りで歩み寄り、一人一人に挨拶をしていった。

「皆さん、遅れてしまって、本当に申し訳ありません!」

「いやいや、いいものは遅れてくるものさ」

「久しぶりだね。ますます美しくなったじゃないか!」

「昔、息子と綿ちゃんの縁談をどうにか決めようと、何度も足を運んだものさ。で、結局どうなったと思う?」

皆が笑いながら興味を示した。「どうなった?」

「うちに生まれたのは娘だったんだよ!」

場内はまたしても笑いに包まれた。

綿は促されて席につき、料理が次々と運ばれてきた。彼女の隣にはまだ二つの空席があり、誰かがまだ来ていないことに、ほんの少し安堵した。

そんな中、誰かがふと話題を変えた。

「そういえば、もうすぐ高杉家の奥様の誕生日だが、皆はどんな贈り物を用意しているんだ?」

綿はお茶を飲もうとしたが、その言葉を聞いてふと顔を上げた。

すぐに、周囲から軽妙な声が上がる。

「今年もまたプレゼント合戦か?」

「毎年、奥様の誕生日では、どんな豪華な贈り物が出てくるのか楽しみだよな」

「一番いいものを持ってきた人が、最も高杉家に近づける……そんなイベントだ」

綿は茶を一口含みながら、心の中で静かに頷いた。

確かに――

おばあさんの誕生日は、高杉家に取り入る絶好の機会だ。毎年、業界の有力者たちはこぞって珍しい品を持参し、どれだけの誠意を示せるか競い合う。

高杉家の祖母は「面子」を何よりも重んじる人だ。彼女を喜ばせることができれば、一介の実業家でもたちまち名門の一員として認められる可能性があった。

「ねえ、皆さん、南城に『百年雪蓮草』があるって聞いたことは?」

その言葉に、綿の眉がわずかに動く。――百年雪蓮草?

「それは何だ?」

「貴重な薬草、世に一株しかないと言われている。特に年配の方には効果抜群だとか。高杉家の奥様の体調も万全とは言えないし、もしこの草を贈ることができれば……」

話の流れに、皆が興味を示す。

「へえ、そんなものがあるのか? でも、世に一株しかないと言われるほどのものを、一体誰が手に入れられるんだ?」

木村恒が笑いながら言うと、隣の矢野誠がふと綿に視線を向けた。

「桜井家にはないのか?」

話を振られた綿は、口に含んだ茶をゆっくりと飲み込み、軽く微笑んだ。

「うち?さすがに、そんなものは持っていないわ」

「医学の名家である桜井家にもないなら、本当に手に入らないんだな……」

矢野誠は残念そうに肩をすくめた。

すると、その場にいた三十代半ばの男性が、ゆっくりと口を開いた。

「その雪蓮草を見つけられる人を知っているよ」

一瞬、空気が変わる。

「誰だ?」

皆が男に注目する中、綿もまた期待のこもった視線を向けた。その表情には、少し驚いたような可愛らしさも混じっていた。

男は微かに笑い、答えた――

「M様だよ!」

「コホンコホン――」

綿は突然むせ込み、咳をした。

「綿ちゃん、大丈夫か?」

周囲の視線が一斉に綿に集まる。

綿は手を振り、咳を抑えながら合間に言った。

「大丈夫です。それより、続けてください」

「みんな、ブラックマーケットを聞いたことがあるか?今日、ついにM様が帰ってきたんだよ!」

そう言った男は興奮気味に続ける。

「あの人はどんな取引も簡単にこなす。たった一株の雪蓮草なんて、M様にとっては赤子の手をひねるようなものさ!」

綿:「……」

言うのは簡単ね。口先だけなら何とでもなる。

彼女が水を飲もうとしたその時、部屋のドアがノックされた。

「遅刻者は、罰を受けてもらうぞ!」

矢野誠が冗談めかした口調で言う。

綿は扉の方を向き、聞き慣れた声が耳に届いた。

「遅れて申し訳ない」

……この声は――

「おお、輝明か。てっきりお父さんが来るのかと思ってたよ」

「秋年、お前のお父さんも来てないのか?」

木村恒の問いかけに、綿の指が無意識に扇を強く握る。

屏風の向こうから、二つの影がゆっくりと近づいてくる。

高杉輝明と岩段秋年。

黒いスーツを身にまとった輝明は、会場に入るや否や、真っ先に綿を見つけた。

チャイナドレスに包まれた彼女の姿は、人々たちの中では一際目立っていた。スリットから覗く長い脚、しなやかな指先、無造作にかき上げられた髪――どこをとっても完璧だった。

輝明は眉をひそめ、胸がざわつくのを感じた。落ち着かない。

秋年もまた、綿の姿に驚きを隠せなかった。

彼女がこんな場にいるとは――

秋年は輝明を一瞥し、彼が入り口で立ち尽くしているのを見て、軽く咳払いをして場を和ませるように言った。

「皆さん、父はまだ釣りから戻っていません。急遽、俺が代理で参りました。これは父が持たせてくれた良い酒です。皆さんでどうぞ」

「遠慮しないでくれ。これは私的な集まりだからな」

木村恒は手を振り、二人に座るよう促す。

輝明と秋年が並んで席へと向かう。

問題は、誰が綿の隣に座るのか――

秋年はわずかに唇を引き締めた後、何も言わずに輝明に、綿の隣の席を譲った。

輝明が腰を下ろすと、場の空気が一気に静まり返った。

この場にいる誰もが、二人の関係を知らないわけではない。

二人は離婚間近。今日ここに来る前に、すでにそんな噂が流れていた。

これが……

秋年は手のひらを擦りながら、この重苦しい沈黙をどう打破するか考えた。

「……酒を開けて試してみようか?」

秋年が立ち上がる。

「そうだな、飲もう飲もう!」

木村恒も頷き、場を盛り上げる。

「秋年、最近会社の経営はどうだ?何か困ったことがあれば、いつでも相談しろ」

木村恒が親しげに話しかけると、秋年は苦笑しながら答えた。

「もし山梨の土地を譲ってくれるなら、もっと順調にいくでしょうね」

この冗談に、場の空気が和らぎ、皆が笑い出した。

綿は足を組み、茶をゆっくりと口に含みながら微笑んだ。

だが、その視線に気づく。

――隣にいる輝明の。

一挙手一投足に意識を向け、視線はスリットから覗く脚にまで落ちていた。

綿はわずかに顔をそむけ、内心で息をついた。

……気まずい。

彼女はカップを置き、木村恒に向かって言った。

「少し外の空気を吸ってきます」

「わかった」

木村恒は頷いた。

綿は静かに部屋を出た。

輝明もまた、しばらくしてから彼女を追った。

秋年は、その様子を見て微かに眉をひそめる。

最近の輝明は、綿に対して妙に執着している。以前は見向きもしなかったのに、今さら何を考えているのか――

綿は扇を軽く揺らしながら、ゆっくりと廊下を歩いていた。

このまま食事会が終わる頃に戻ればいい。

彼女は、輝明と同じ空間にいること自体が息苦しかった。彼を見るたびに、彼が吐いた冷たい言葉が脳裏に蘇る。

特に、あの時――

自分と嬌が同時に階段から落ちそうになった瞬間、ためらいもなく嬌を選んだ彼の姿。

あの記憶が、今も胸を締めつける。

綿は深く息を吐き、目の奥に暗い色を宿しながら廊下の角を曲がった。

――その瞬間、突然、男の体にぶつかった。

酒の匂いが鼻を刺す。

見上げると、男は四十代くらい、身長は180センチほど。がっしりとした体格をしており、すでに泥酔しているようだった。

ニヤついた顔で、綿の腰を掴み、ふっと鼻を鳴らす。

「いい香りだ……」

綿の表情が一瞬で冷え込んだ。

次の瞬間、彼の急所を思い切り蹴り上げる。

「変態!」

男は苦しげに顔を歪め、蹲ったが、すぐに顔を上げた。そして、綿の顔をじっくりと見た瞬間、驚きに目を見開く。

「おお……!美人だ!」

男の興奮した声が廊下に響く。

「南城にこんな綺麗な女がいたとはな……!」

ろれつの回らない口調、酒の匂い、男の視線――すべてが不快だった。

綿は眉をひそめ、冷ややかに睨みつけたあと、何も言わずにその場を去ろうとした。

しかし、男はすぐに腕を伸ばし、彼女の手首を掴む。

「おい、演技はいいからさ。いくらだ?」

綿は静かに男を見つめ、ふっと笑みを浮かべた。

「一億円。払える?」
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    彼がまるで綿を一度も理解したことがないかのように見えた。綿は俯いて涙を流し、何も言おうとしなかった。「どうすれば乗り越えられるか、教えてくれないか?うん?」輝明は彼女の手首を掴み、綿を壁際に押し付けた。まるで今日こそは答えを聞き出すと決めているかのようだった。彼はできることは全てやった。謝罪もしたが、無駄だった。仕事の送り迎えを申し出ても拒否された。花を贈っても、彼女は一瞥もくれずに捨てた。彼がわざと近づこうとすれば、彼女はますます遠ざかった。彼女の態度ははっきりと伝えていた――もし誰かが本当に離れようとしているなら、どんな努力も無駄なのだと。「綿。これ以上自分を苦しめるのはやめよう。君は俺を愛してる」彼は一歩前に出て、彼女の頬に手を添えた。彼女はまだ自分を愛している。本当だ。彼女が見せている「愛していない」態度は、すべて作り物だ。7年間の想いが、簡単に消えるはずがない。輝明の眉間には深い皺が刻まれ、喉が上下に動き、瞳には涙が浮かんでいた。彼は綿の前で涙を見せたことなど一度もなかった。しかし今日はどうしてもこらえきれなかった。「頼む……綿、もうお互いを苦しめるのはやめよう」綿は彼の瞳を見つめ、心が揺れた。輝明は頭を垂れ、そっと綿の肩に寄りかかった。彼の呼吸はますます荒くなり、胸に渦巻く痛みが彼を飲み込もうとしていた。外では冷たい風が吹きすさびる。だが、冷え切っていた二人の心が少しずつ熱を帯びていく。綿は唇を噛み締め、遠くの壁に掛けられたぎこちない夕陽の絵画を見つめた。それを見た瞬間、彼女は堪えきれなくなった。その絵が、まるで彼女の心を突き刺すかのようだった。それはまるで告げているかのようだった。「あなたがこんなふうに泣き崩れる男をかつてどれほど愛していたのか」と。彼女は彼を愛していた。本当に愛していた。彼が望むなら、何だってしてあげられるほどに。もしあの3年間に嬌がいなかったら――たとえ彼が彼女を完全に無視していたとしても、綿はその結婚生活を守るために戦い続けていただろう。綿は認めざるを得なかった。彼女は輝明には抗えない。しかし彼女はまた認めざるを得なかった。彼から受けた傷は決して忘れられないのだと。その痛みはあまりにも深かった。彼が彼女を

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    「夜も更けているし、酔っている状態で女が出歩くのは危ない」輝明は立ち上がり、片手をソファの背にもたれさせた。見るからに酒が回っているようで、足元もふらついていた。綿はその様子を一瞥し、袖を整えながら冷静に言った。「しっかり休んで。私のことは気にしなくていいわ」「どうしても帰らなきゃいけないのか?ここは、君が住んでいた場所だ。君の居場所でもあるんだ」輝明の声は徐々に低くなり、真剣さが滲み出ていた。綿は言葉を発しないままコートを手に取り、身に着けた。そして静かに答えた。「ここは、私の居場所だったことなんて一度もない」以前の彼女は、まるで誰かを待ち続ける留守番のようだった。そして今の彼女は、まるで最初から関係のない部外者。ここが彼女の居場所だって?……いつ、そんなふうに思われたことがあった?輝明は納得できず、彼女の前に立ちはだかり、行く手を阻んだ。「綿、どうしてそんなに頑固なんだ?」綿は彼をじっと見つめるだけだった。頑固?彼女はただ、現実を受け入れて、自分の立ち位置を正しく見つめ直しただけだった。「ここは君のものだったし、今もそうだ。それなのに、どうしてそう言い切れるんだ?」輝明は納得できず、苛立ちを滲ませた。綿は彼の言葉に答えず、行こうとする。輝明の心には、静かな波紋が広がっていた。その瞳の奥に滲む諦めと後悔は、まるで彼自身を飲み込もうとしているかのようだった。綿は、その場を去ろうとした。輝明は反射的に、彼女の手首を掴んだ。視線が交わる。彼の目には、明らかな引き止めの色があった。そして綿には、それが痛いほど伝わっていた。輝明の瞳に宿る感情を、彼女はちゃんと読み取っていたのだ。「放して」綿は静かに言った。輝明は軽く首を振った。「あなたが言ったことは、もう効力がないの?」彼女が彼に問いかける。「綿。もし俺が過去の言葉に縛られるなら、どれほど後悔していただろう?」輝明の眉が寄せられ、その目には溢れそうなほどの苦しみが漂っている。彼は自分の言葉が効力を持たなくて良かったと、密かに思っている。「こんなふうにすれ違って、私たちに結果なんてあるの?」綿は静かに首を振った。「輝明。私たちはもう元には戻らない。私が承諾しても、桜井家は許してくれない。誰だって自分の娘を同じ罠に二

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0816話

    綿は彼を引きずるようにして別荘のドアの前に立ち、尋ねた。「暗証番号は?」「君の誕生日だ」彼の声はかすかに聞こえるほどの小ささだった。綿は目を上げて彼を見た。「え?私の誕生日?」綿が問い返すと、彼は目を少し上げて答えた。「じゃあ誰の誕生日だと思う?嬌の?」彼の目は赤く血走っており、風に吹かれて漂う酒の匂いが鼻を刺した。綿は目を伏せた。彼らが一緒に暮らすとき、暗証番号はずっと輝明の誕生日——0982だった。ある時、彼女は輝明に「私の誕生日、覚えてる?」と聞いた。彼は即座に答え、彼女はその時すごく嬉しかったことを思い出す。ドアロックが開き、家の中から温かい空気が吹き出してきた。しかし、広々としたリビングに一歩入ると、迎えてくるのは寂寥とした冷たさだけだった。今、この大きな家に住んでいるのは輝明一人だった。以前は綿が一人で住んでいた。おかしな話だ。どうやら彼らは一緒に住むことが決してできない運命らしい。綿は輝明をソファに押し倒すようにして座らせた。輝明は頭を掻きながら、片手で額を押さえた。少しでも頭をすっきりさせたいと思ったが、意識はますます朦朧としていく。綿はタオルを濡らし、それを彼に放り投げた。「顔を拭いて、少し頭を冷やしなさい」輝明が顔を上げると、綿は台所へ向かっているところだった。「今からラーメンを茹でるから、胃に何か入れておきなさい。さもないと、後で胃痛を起こして病院に行く羽目になるわよ」彼女は台所から小言を言いながら続けた。「私はただの元妻よ。ここまでしてあげてるんだから感謝しなさい。私の親切をよく覚えておくのね」彼女のぶつぶつとした独り言を聞きながら、輝明は顔を拭いていた。その声が妙に心地よく、懐かしく感じられた。まるであの三年間に戻ったようだった。彼女はいつも何かに忙しく、あるいは気をもんでいるようだった。輝明は立ち上がり、ふらふらしながらも台所の入り口に立ち、彼女がエプロンをつけて冷蔵庫から食材を取り出している姿をじっと見つめた。「綿。俺、君の料理を食べたことがないみたいだ」綿は彼をちらりと見て答えた。「食べたわよ」彼女の言うのは、輝明の祖母の家でのことだ。「俺が言ってるのは、この家でのことだ」彼の声は穏やかだった。「そうね、ここでは一度も食べたことがないわ

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0815話

    バーの人々は一瞬呆然とし、心の中でこう思った——綿はさっき出て行ったのに、どうしてまた戻ってきたのだろう? 綿は輝明を支えながらバーを出た。一陣の冷たい風が吹き抜け、二人は同時に身震いした。綿は輝明をちらりと見て眉をひそめ、彼のコートを引き上げてあげた。風が骨に染みる寒さだった。彼女は車を呼び、彼を車内に押し込んだ。自分もその後に乗り込み、淡々と言った。「クリスマンションまで、お願いします」運転手は綿をちらりと見た。二人とも酒を飲んでおり運転できないようだった。仕方なくタクシーを利用しているのだろう。クリスマンションという言葉が出ると、運転手は思わずもう一度彼女を見た。この場所を行き先に告げる客は珍しいからだ。輝明はシートに寄りかかり、目を細めて窓の外を眺めていたが、ふと視線を綿に向けた。車は速度を落として走っていた。綿は彼が自分を見ているのに気づくと、窓を少し下げて風を入れた。少しは楽になると思って、窓を少し開けた。輝明はかなり酒を飲んでいた。特に先ほど彼女が旧友と話していた後、彼は一人で何杯も酒をあおっていた。彼の瞳は暗く沈み、やがて手を持ち上げて綿に触れようとした。だが、その指先が触れる寸前で動きを止め、ためらうように手を引っ込めた。彼は目をそらし、窓の外を見つめる。まるで夢の中にいるようだった。綿が彼の隣にいるなんて、夢だとしか思えなかった。「綿……」彼は低い声で彼女の名前を呟いた。眼瞼は重たく垂れ下がり、全身から力が抜けていく。綿はその呼びかけを聞き、彼の方を見た。彼の視線にはわずかな無力感が漂っていた。夢だろう。「チッ」綿は彼の手を払いのけた。輝明の体が一瞬ピクリと動き、わずかに意識を取り戻したようだった。眉をひそめながら彼女を見つめると、再び手を上げ、今度は綿の髪の上にそっと手を置いた。指先に感じたのは間違いなく現実の触感。彼は信じられないようにその髪を何度か撫で、その感触が本物であることを確かめた。「……」綿は呆れたように彼を睨んだ。彼女は輝明の手を払いのけ、不機嫌そうに言った。「夢じゃないわよ。私、綿」輝明は息を呑み、風が襟元に入り込んで全身を冷やした。彼の目が覚めると、綿は車内灯をつけて彼の顔を照らした。二人の視線が交わり、空

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0814話

    バーでバッタリ出会うなんて偶然だ。綿が再び席に戻ると、輝明の手元にはもう酒が一滴も残っていなかった。彼はかなり飲んだようだ。綿は上着を手に取って立ち去ろうとしたが、輝明は彼女の腕を掴んだ。バーの中、薄暗い照明の下で、綿は彼の隣に立っていた。立つ彼女、座る彼。一人は眉をひそめ、もう一人は苦笑いを浮かべていた。「ただのナンパしてきた人?友達ですらないって?綿……君のおかげでまた女の冷酷さを思い知らされたよ」輝明は目を上げ、綿の視線と交わった。綿は思わず笑みを漏らした。女の冷酷さ?彼女がそんなに冷酷だとでも言うのか? では、彼に問いたい。もっと冷酷なのは、輝明の方ではないのか? 「あなたが嬌と一緒にいた時、私に少しでも面子を残そうなんて思った?昔、大勢の人の前で嬌の手を握って、私なんて何でもないと言い切ったことを覚えてる?何か問題があれば嬌に聞けって言ったの、覚えてる?その時、あなたは何を考えていたの?少しでも私のことを考えた?」結婚生活の三年間で受けた屈辱は、三日三晩かけても語り尽くせない。それなのに、こんなところで彼女を冷酷だと言うなんて、何を考えているのか。彼が見たいなら、彼女のもっと冷酷な一面を見せてやろうか? 彼女は輝明の手を振り払うと、辛辣な声で言い放った。「輝明、いい元恋人ってのは死んだも同然な奴のことを言うのよ!だから、私が死んだと思えばいいし、私もあなたが死んだと思うことにするわ」それだけ言うと、綿は振り返りもせずその場を立ち去った。だが、彼女が出口に差し掛かったその時、後ろから店員の声が聞こえた。「桜井さん!」「桜井さん、高杉さんが倒れました!」綿の心が一瞬止まったように感じた。振り返ると、確かに輝明はテーブルに突っ伏していた。綿は黙り込み、拳をぎゅっと握り締めた。彼を放っておくか、それとも助けるか、その間で逡巡していた。しばらくして、彼女は扉を押し開けてそのまま外に出た。店員は綿の後ろ姿をじっと見つめていた。その歩みは決して潔いものではなかったが、それでも明らかに助けるつもりはないように見えた。「高杉さん?高杉さん!」店員が輝明の肩を軽く叩き、呼びかけた。輝明は片手で胃を押さえ、首を横に振った。意識はまだはっきりしていたが

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0813話

    「綿。俺たちはただのすれ違いだったんだ」輝明の声はかすれ、酒が喉を通るたびに火がついたような痛みを覚えた。「俺の過ちのせいで、こんなにも長い間すれ違ってしまった。もう二度とすれ違いたくない……」人生には分岐点が多すぎる。それでも、今のところ二人は同じ道を歩んでいる。だが、次の分岐点では、彼はその場に留まることになるかもしれない。綿がそこに立ち止まって彼を待つことは、もうないだろう。そして、その瞬間から、二人はどんどん離れていき、もう二度と巡り合うことはないのだ。綿は首を横に振った。彼女の表情はさえず、心の中では何を思っているのか分からない。輝明は綿の手首を掴み、席を立とうとする彼女を引き止めた。「もう二度とすれ違いたくない。俺を許してくれ。二人でいい人生を歩もう、綿。俺は必ず幸せにする」輝明の言葉には一つ一つ真剣さが込められていた。しかし、それでも綿の心には響かなかった。もしこれが結婚生活を送っていたあの三年間のどこかで、彼がこうして言ってくれていたのなら、綿は数日間も、いや何日も幸せに浸っていただろう。だが、今はもう違う。彼女の心はすでに傷だらけで、彼の真摯な言葉を受け止めることができなくなっていた。ただ耳を傾け、その言葉を受け流すしかなかった。「じゃあ、飲んで見せてよ。その誠意を見てみる」綿は微笑んだが、その笑みは明らかに表面的なものだった。輝明は彼女が流しているのを分かっていながら、それでも素直に受け入れた。飲む。彼は彼女と飲むのだ。綿がまだ彼と向き合ってくれるなら、彼のそばに座ってくれるなら、それだけで満足だった。輝明はグラスを手に取り、次々と酒を飲み干していく。その姿を見ていると、綿は何も言えなくなった。彼のような高い地位にいる男が、自分の前でこれほどまでに卑屈になる姿を見ていると、彼女の心はかき乱されるばかりだった。果たしてこれが、自分が求めていた結果なのか? 輝明をその「神の座」から引きずり下ろすことが、彼女の望みだったのか? 傷つけられるべきではない男への思いやりが、またしても湧き上がってしまう。それでも、かつてこれほどまでに彼を愛した過去は消えない。命を賭けて彼を救おうとしたほどなのだから。綿は心の中で問い続ける。どうすれば完全に決別できるのだろうか? 雲城は大き

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0812話

    「俺が言うことは、一言一句、全部本当だ。絶対に嘘なんかつかない。もし嘘をついたら、外に出て車に轢かれても構わない!」綿は目をそらし、手に持ったグラスを弄びながら無言で横を向いた。もう、彼の言葉を信じることなんてできなかった。あの頃のように、彼が適当な言葉を並べただけで「この人以外とは結婚しない」と心に決めてしまう年齢は、もう過ぎてしまったのだ。「俺もちゃんと応えてた。君が気付かなかっただけだ」輝明の「好き」は、綿のように明確で目立つものではなかった。そのため、彼女に気づかれなかったのだ。「言い訳しないで。あの時、私と結婚するって決めたのも、『どうせ誰かと結婚するなら、誰でもいい』って気持ちだったんじゃないの?輝明、結局のところ、自分でついた嘘の辻褄すら合わせられなくなってるじゃない」綿はまたグラスを取り上げ、一気に飲み干した。この店の酒はどれも度数が高い。6、7杯も飲めば喉が焼けるような感覚になる。だが、綿はその感覚が好きだった。一度酔ってしまえば、煩わしいことはすべて忘れられる気がした。「ただ、俺が後になって気づいただけだ」輝明はうつむきながら言った。自分が綿を好きだったことに気づくのが遅すぎた――それだけのことだと。男の恋愛感情が芽生えるのは、女よりも遅いと言われるが、それは本当だった。たとえ彼が綿より2歳年上でも、それは変わらなかった。カウンター席は静まり返り、DJが曲を変えたことで、周囲の雑談が一層はっきり聞こえるようになった。輝明は綿の横顔を見つめ、目の中にはいつもの鋭さや冷たさはなかった。その代わり、今の彼には無力さと罪悪感が滲んでいた。彼は今、自分の立場を忘れ、ただ綿にとって「普通の男」になろうとしていた。彼女が好きになる「輝明」として接したかった。「高杉グループの社長」でも、「雲城の財閥」でもなく、ただの男として。輝明は伏し目がちに息をつき、ゆっくり口を開いた。「綿、実は俺、昔、一度留学する話が出てたんだ」高杉グループはいつか必ず彼が引き継ぐものだった。だがその時、父である俊安は「国外でさらに経験を積んでから戻って来い」と言ってきた。しかし、彼は即座にその提案を断った。その瞬間、彼の頭に浮かんだのは綿だった。もし自分が海外に行けば、綿も一緒に来るだろう。それを分かっていたから

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0811話

    「綿。俺たち、本当にちゃんと話をしないといけない。今がそのいい機会かもしれない、どう思う?」 輝明は、満たされたグラスを綿の前に滑らせながら、真剣な目で彼女を見つめた。 綿は唇を噛み、思わず笑みを浮かべた。何を企んでいるの?彼女を酔わせるつもりなのだろうか? 「高杉さん、病弱な人と一緒にお酒を飲む気はないわよ。もしここであなたが死んだら、説明のしようがないもの」綿は微笑みを浮かべながら言った。彼女は、彼が胃を患っていることを匂わせているのだ。少し辛辣な言い方だったが、輝明には、彼女が気遣いの一環でそう言っていることが伝わっていた。 「安心して。もし死んでも、君のせいにはしない」 輝明はグラスを手に取り、一気に飲み干した。 綿は沈黙した。何も言わずに、ただ横目で彼を見た。 輝明は再びグラスに酒を注ぎ、ウェイターにさらに酒を注文するよう指示した。 綿は、彼が一人で飲み続ける様子をじっと見ていたが、最終的には我慢できず、自分も一杯飲んだ。 彼女は視線を、灯りが乱舞するダンスフロアに向けた。バーの音楽はそれほど大きくなく、会話は十分聞き取れる程度だったが、踊っている人々は皆テンションが高く、まさに羽目を外している。 男と女が互いに密着し、酔いとともに店内の雰囲気はますます曖昧で熱気を帯びていた。 熱気の中にいた綿の耳に、突然、輝明の低く繊細な声が届いた。 「綿。正直に言うけど、高校の頃から君のことが好きだった。信じられる?」 綿は手にしていたグラスを握りしめる力が無意識に強まった。 彼女は視線を輝明に向け、驚いた様子で彼を見つめた。 「でもな、綿、君は俺より年下だろ。俺が高三の時、君はまだ高一の後輩だった。だから俺には、ちょっとからかう以外何もできなかった」 高校一年生の後輩に手を出すなんて、俺はそんなクズじゃないと彼は自嘲気味に笑った。 「何してるの?今さら優しい男を演じるつもり?」綿は堪えきれずに尋ねた。 彼がなぜ突然こんな話を持ち出すのか、彼女には理解できなかった。 彼は分かっていないのだろうか。過去の話を持ち出されれば持ち出されるほど、彼女が自分のことを馬鹿に感じるということを。 彼は高校時代から自分を好きだったと言う。しかし、最終的には嬌

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0810話

    綿の記憶が確かなら、輝明と身体の関係は一度もなかった。「高杉さん、実はこの数年ずっと疑問に思っていることがあるんだけど、聞いていいのか分からないんだよね。失礼にならないかと」綿は少し眉を上げ、興味をそそられたような様子で話し始めた。 輝明は眉をひそめ、なんともいえない嫌な予感がした。まるで彼女が何を言いたいのか分かっているかのようだった。 「綿、俺は……問題ない」彼は先手を取って言い放った。 綿は彼をじっと見つめ、思わず吹き出した。 輝明の顔が少し強張った。笑うとはどういうことだ? 綿は唇を噛み、「私、そんなこと聞きたいって言いましたっけ?」 「君が?」輝明は鼻で冷笑した。彼は綿が何を聞きたいのか、とうに察していた。綿という人間は、心にあることを隠すのが苦手で、考えていることがすべて目に出てしまうのだ。 「その見下したような目つき、ほんと嫌い」綿は彼を指さした。 「俺も、人に指を差されるのは嫌いだ」輝明は冷静に返す。 綿は微笑むと、意地悪そうに彼を指差し続けた。「じゃあどうするの?私に何かできる?」 輝明は沈黙した。ただ彼女を見つめるその目はますます深みを帯びていく。綿は眉をひそめ、完全に挑発している表情だった。 しばらくして、彼は笑った。 「好きに指差せばいいさ。俺が何かするって?たとえばキスでもしたら、すぐに通報するだろ?」彼は冷笑を浮かべながら言った。 綿は薄く笑いながら答えた。「分かってるならそれでいい。だから今後はしっかり分別を持って接してね。そうじゃないと……」 綿は唇を歪ませ、指を首元に当てて切るような仕草を見せた。 輝明は軽く頷きながら、「なるほど、なかなか怖いじゃないか」 「殺したいってか?」輝明は彼女に向かって一歩近づく。 綿は平静を保ったまま彼を見つめ返す。 どうするつもり? 輝明は笑い、直接言った。「やってみろよ。俺が君のために命を捧げるかどうか、試してみたらいい」 彼の目は真剣で、彼女の手を握ると、自分の首元にその手を押し当てた。 綿は彼の眉間を見つめたまま無言を貫いた。 輝明はそれ以上何も言わなかったが、その眼差しと行動は彼女に伝えていた。彼は本気だ。この命は彼女のものであり、彼女のものとして終わるべき

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