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第7話

「気にしないで、食べて。こちらの看板料理だから」氷川が優しく微笑み、美咲のために箸で料理を取ってあげた。

彼はそれぞれから少し取り分け、にっこり笑いながら「これ、試してみてよ」と勧めた。

彼女は氷川が自分のために料理を取ってくれたとは思っていなかった。それは、長い歳月、誰一人として彼女のために料理を取ってはくれなかった。今回が初めてだった。

箸を手に取りながら彼女は顔を下げ、そっと一口食べた。その一瞬、心の重さがほどけて、ほんの少し世界が明るくなったように感じた。

その料理は格別の味がして、普段は食欲がなかった美咲思わず箸を伸ばした。

美咲が食事を始めると、氷川はやっと安心して、自らも箸を取り上品に食べ始めた。

氷川は美咲の食事のリズムに合わせ、彼女が食事を終えようとする瞬間に彼も静かに箸を下ろした。

「僕、食べ終わったよ。あなたは?」氷川が笑いながら、ティッシュを手渡してくれた。

美咲が頬を染めてティッシュを手に取り、無理にでも笑顔を作って、「うん、もうお腹いっぱいだよ」

氷川は何気なく言った。「帰ろう」

美咲は一瞬躊躇し、遠慮がちに断った。「ちょっと恥ずかしい」

氷川が突如立ち上がり、彼女の手を引きながら受付へ急いだ。そこで立ち止まり、美咲に顔を向けて優しく言った。「外で待っててくれ、すぐに戻るよ」

美咲は少しぼんやりしながらうなずいた。昔、黒崎拓也と食事をした時、いつも彼女が支払いを済ませて、彼は外で待っていたものだった。

そう思うと、切ない気持ちになったなあ。

支払いを終えた氷川は、振り返った瞬間に彼女は気分がおちこんだことに気づき、「どうしたの?体調が悪いのか?」と心配そうに声をかけた。

美咲はふと我に返り、軽く首を振った。「さあ、行こうか」

二人が車の前に到着すると、氷川は黙さっと車のドアを開け、「お乗りください」というように手を差し出した。

彼のちょっとした仕草が面白くて思わず笑ってしまった美咲は、車に乗ることにした。

彼女は氷川の家に行くのをためらっていたが、それでも誰も彼女を気にかけない自分の家に戻るよりは、そちらの方がましだった。

車は代田住宅地に到着し、美咲は車から降り立った。その瞬間、彼女の目に広がる景色の美しさに息を呑んだ。

ここは東京の高級住宅街として知られていたが、この男の正体は一体何者だったか?美咲が彼を不思議そうに見ていると、氷川はにっこり笑って、「さあ、今日はお風呂に入ってぐっすり休んで。明日はあなたの妹の結婚式に参加するからね」と言った。

「どうしてわかったの?」美咲は目の前で微笑んでいた男を驚いた表情で見つめた。

しかし、氷川は言葉を交わさず、美咲の手をそっと握り、別荘へ向かった。

氷川さんが一人の女性を連れて帰宅するのを見た召使いの松本安子は、嬉しさで顔がほころんでいた。

氷川が二人を紹介し終えると、松本さんは笑顔で、「奥様、まずはお風呂に入ってみてはいかがですか?きっと楽になりますよ」と提案した。

美咲は素直にに頷いた。本当にお風呂に入りたい、そうすればきっとぐっすり眠れるだろう。

美咲が松本と一緒に階段を上がっていた。氷川は携帯電話を取り出し、冷たい声で山田を命じた。「Mサイズのパジャマと、一流のドレスを用意してくれ。どちらも最高の品質のものを、二十分以内にここに持ってきてくれ」

「氷川さん…」と言っただけで山田は電話が切れた。

山田は何も言わずに、そのまま黙っていた。

「二十分なんて短すぎるよ」と山田は心の中で叫んだ。

けれども、どんなに時間がなくても、必ずやり遂げる必要があった。そうしなければ、彼にはアフリカに左遷されるという厳しい現実が待ち受けているかもしれなかった。

美咲が二階の部屋に案内されると、松本さんは出てきた。彼女は嬉しそうに笑顔を浮かべ、その目も幸せそうに細められていた。

彼女は「良かった、氷川さんはやっと好きな女ができた」と思ったていた。

「なんと!もう結婚した!」彼女はその良い知らせを夫人に伝えたいと思っていた。

彼女が階段を降りたとき、ちょうどう氷川に出会った。松本は「氷川さん、夫人にご結婚のことをお伝えしてもよろしいでしょうか。夫人はきっと大変喜ばれることでしょう」と丁寧に尋ねた。

「今のところ、祖母に僕が結婚のことを言わないで」と氷川は言った。

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