第 2 話

7歳の時、両親が運転する車で郊外へ遊びに向かう途中、高速道路で神崎家の車に追突した。

両家の親は即死。大輔は両足が不自由になった。ただ一人、香織だけが奇跡的に生き残った。

大輔は言った。

「元凶は阿見家だ。お前が生きているのなら、その罪を償え」と。

それ以来、彼女は神崎家に身を寄せることになった。

家の外では、彼女は神崎家の兄弟に引き取られた妹であり、彼らにいいように弄ばれる『お嬢様』でもあった。

家の中では、罪を償う者であり、誰からも虐げられる使用人同然だった。

「香織、まだ避ける気か！」

彼女が身をかわしたことが、大輔の怒りに火をつけた。

香織はうつむき、おとなしく言った。

「大輔様、頭を打って血で絨毯を汚してはいけないと思いまして……」

言い終わるか終わらないかのうちに、また何かが飛んできた。

今度は避けることができず、額を強く打ちつけられるのを感じた。

目の前が真っ暗になり、耳鳴りがして、ふらつきながら膝から崩れ落ちた。

額をそっと触ると、思わず息を呑むほどの激痛が走り、手のひらには血がべっとりとついていた。

「……これで、ご満足いただけましたか、大輔様？」

香織は唇を引き結んだ。

「来い！」

大輔は答えずに命じた。

香織は立ち上がり、彼の前へ行くしかなかった。

待ち受けていたのは、大輔が手にした杖による鞭打ちだった。

細い杖は、打たれるというより鞭のようにしなるため、ひどく痛む。

香織は心の中で数を数え、十発耐えたところで口を開いた。

「大輔様、私を殺してしまったら、誰があなたの身の回りのお世話をするのですか？」

大輔は荒い息をつきながら手を止め、杖を放り投げると、彼女の襟首を掴み上げた。

「どこへ行ってた？

その艶っぽい格好をして、どの男と遊びほうけていた！」

香織は瞬きをした。おそらく血が目に入ったのだろう、視界が赤く滲む。

血の滲む視界の中で、大輔の歪んだ顔は、まるで地獄から這い出てきた悪魔のようだった。

「この売女め！何か言え！」

大輔はヒステリックに叫びながら、その手を彼女の細い首にかけ、力を込める……

香織はもう声も出せない。ただ口を開け、声にならない声で「助けて」と叫んだ。

「大輔、やめろ！彼女を殺す気か！」

誰かの叫び声と共に、大輔の手が引き剥がされた。喉に酸素が流れ込み、香織は床に突っ伏して激しく咳き込んだ。

まだ大輔が怒り狂って叫ぶ声が聞こえるが、もう安全だと彼女は悟った。

息が整った頃には、大輔はリビングから姿を消していた。

光一が彼女を支え起こし、その目は心配の色に満ちていた。

「大丈夫か？」

「死にはしません……」

「病院に連れて行く」

光一は香織を抱き上げると、大股で足早に外へ向かった。

香織は一瞬戸惑いながらも、そっと彼の胸に顔を寄せ、彼の匂いを求めるように小さく息を吸い込んだ。

あれほど殴られても泣かなかったのに、今は目頭が熱くなっていた。

幸い、流れる血に涙が混じっても、誰にも気づかれはしないだろう。

神崎光一――この地獄のような神崎家での非人道的な扱いに耐え、彼女が生き抜く力を得られた唯一の「光」。

病院に着くと、光一に言われるまでもなく、香織は医者に「自分で転んでぶつけました」と告げた。

医者は彼女を一瞥したが何も言わず、傷の手当てを終えるとレントゲン検査を受けるよう指示した。

香織と光一は、美しい顔立ちも相まって、夜の静かな病院でささやかな注目を集めた。

ある看護師がこっそり写真を撮り、職員用のグループチャットに投稿した。

「ちょっと見て！あれ、神崎家の『お嬢様』じゃない？

あの怪我、どうしたのかしら？殴られたみたいに見えるけど……」

香織の手当てをした医師が、休憩中に返信した。

「本人は転んだって言ってたけど、どう見ても殴られた跡だね」

朔也はグループチャットに目をやった。

少し前に別れたばかりだというのに、彼女が頭から血を流しているとは、一体何があったのか。

彼は険しい表情で放射線科へ向かったが、そこで話題の中心である香織と、その傍らに立つ光一の姿を目にした。

光一の上着を羽織った香織は、やつれた表情ながらも、どこか安心したようにも見える。

その隣に立つ光一は、まるで彼女を守る騎士のようだった。

その光景は、不思議なほど調和がとれていた。

朔也の表情が一層冷たく険しくなり、彼は黙って踵を返した。

検査の結果、香織に大きな異常はなく、光一は彼女を家へ送った。

車内は重い沈黙に包まれていた。

家に着いても、光一はすぐにはドアを開けず、尋ねた。

「昨夜はどこへ行っていたんだ？」

「バーに、遊びに……行きました」

光一は眉をひそめた。

「君が遊びに行くのを止めるつもりはない。だが、あまり羽目を外しすぎるな。

バーのような場所は素性の知れない連中も多い。危ないからな」

香織は鼻の奥がツンとなった。

「……はい」

再び沈黙が落ちる。香織は少し身を固くして言った。

「光一様、何か言いたいことがあるなら、どうぞ仰ってください」

光一はため息をついた。

「……大輔を、恨まないでやってくれ。

あいつは、本当は君のことが好きなんだ。ただ、表現の仕方が不器用なだけで……」

香織は黙っていた。

もしこれが好きっていうなら、こんなの、殺されるのと同じじゃない……

光一は彼女の痛々しい様子から目を離せず、こみ上げる思いを抑えきれないように、そっと手を伸ばして彼女の頭を撫でた。

「香織。この16年で医学はずいぶん進歩した。大輔の足だって、きっと治療法があるはずだ。

あいつの足が治ったら、僕が臨海市で一番盛大な結婚式を挙げさせてやる」

香織は顔を背けて彼の手に触れられるのを避け、無理に笑顔を作った。

「光一様、そろそろ中に入りませんか」

光一の手から温もりが消え、心にもぽっかりと穴が空いたような気がした。

彼は指先をそっと擦り合わせ、穏やかな笑顔で言った。

「ああ、降りようか」

香織は素早く車を降りて家に入る。だが、玄関で足を止めた。

目の前には神崎大輔がいたのだ。

「……大輔様」

後から入ってきた光一もその光景に眉をひそめた。

「大輔、まだ休んでいなかったのか？あまり無理するな、体に障るぞ」

大輔は二人を睨みつけるように言った。

「戻ってきてから車を降りずに、中で何をしていたんだ？」

光一は微笑んだ。

「何をするわけでもないさ。少し話していただけだ」

「その少しの話が、なぜそんなに長くなる？」

大輔が問い詰める。

光一は笑顔で彼をなだめるように言った。

「香織に、もう気にするな、と話していたんだ。

さっき君が彼女の頭を打ったのも、わざとじゃなかったんだろう？」

大輔は唇を固く結んだ。

「ほら、もう休め。私はいつだってお前の味方だ。忘れたわけじゃないだろう？」

光一の穏やかな声に大輔は少し落ち着きを取り戻し、頷いた。だが、視線は香織に注がれたままだった。

「お前が部屋まで送れ！」

香織は全身の血の気が引くのを感じた。

光一は眉間の皺を深くし、静かに諭した。

「大輔、香織は頭に怪我をしてるんだ。医者にも安静にしてるように言われている」

「嫌だ、こいつがいい！」

大輔は声を張り上げ、頑なに叫んだ。首筋に青筋が浮き上がっている。

光一は慌てて彼をなだめ、少し落ち着くのを待ってから言った。

「……分かった。だが、もう二度と彼女に手を上げないと約束しろ」

大輔は不機嫌な顔で黙っていたが、やがて小さく頷いた。

光一は仕方なさそうに香織に視線を向けた。

「香織、すまないが……大輔を頼む」

香織は黙って大輔の車椅子を押し、彼の部屋へと向かった。

背中に光一の申し訳なさそうな視線を感じた。だが、それが何になるというのだろう？

部屋に着き、恐る恐る彼を支えてベッドに横たえる。また少し痩せたような気がした。

「大輔様、どうぞごゆっくりお休みください」

香織が身を起こそうとした、その時。大輔がすっと手を上げるのが見えた。

びくりと震え、思わず目を閉じる。

予想していた平手打ちは来なかった。

代わりに、額に彼の指が触れる。とても、軽い感触。

だが、そんな優しい触れ方でさえ、彼女には耐え難かった。

目を開け、顔を背けてその手を避けると、努めて平静に言った。

「大輔様、おやすみなさい」

部屋の明かりは消さなかった。

あの事故以来、大輔は暗闇を怖がるようになったからだ。

ドアを閉める直前、彼がぽつりと呟くのが聞こえた。

「……ざまぁみろ、避けもしないくせに」