第 1 話

阿見香織（あみ かおり）は、今夜の目当ての相手を一目で見つけた。

ネオンきらめく夜の世界。彼は黒いスーツを身にまとい、静かにソファに腰かけ、手にしたワイングラスを揺らす仕草は、洗練されていて気品に満ちていた。

香織の脳裏に、親友の吉田真由（よしだ まゆ）の言葉が蘇る。

「あの藤原朔也（ふじわら さくや）さんは藤原財閥の御曹司よ。

18歳で世界的に有名な医科部に合格して、26歳で国内外に知られる医師になったの。

最近帰国したばかりで、臨海市一番の聖善病院にで勤務しているそうよ。

あの人って、すごくハンサムなんだけど、氷みたいにクールで何を考えてるか分からないの。

患者以外には一言も話したくないみたい。

そして何より、女性には全く興味がないって。

医療界では天才医師なんて呼ばれてるけど、聖善病院の若い看護師たちは、こっそりに『ストイックな王子様』って呼ばれてるわ」

ストイックな王子様、か……

確かに、そんな雰囲気を纏っている。

これでは、今夜の目的は達成できるとは限らない。

それでも、試すしかない。

朔也に神崎大輔（かんざき だいすけ）の足を治してもらうのだ。

それだけが、彼女が神崎家を抜け出し、あの男の支配から逃れる唯一の道なのだから！

香織はすっと胸を張り、朔也がいる方へと足を向けた。

一目惚れなんて、しょせんは見た目の魅力に惹かれるだけのこと。

そして自分には、朔也を一瞬で惹きつけるだけの美貌があると、香織は自負していた。

幼い頃から容姿に恵まれ、成長するにつれて妖艶な美しさを増していった。

真由からは、「生まれながらに男を狂わせる「傾国の美貌」を持ち、その気になれば落とせない男はいない」さえ言われていた。

ワインレッドに煌めくスパンコールのキャミソールドレスが、彼女の体にぴったりとフィットし、しなやかな曲線美と、無駄のない長い脚を際立たせている。

まるで、欲望渦巻く夜の世界に咲いた一輪の深紅の薔薇のようだ。

香織はカクテルグラスを手に朔也のもとへ歩み寄り、唇の端に艶やかな笑みを浮かべ、流し目に色香を込めた。

「すごく素敵な方ですね。もしよろしければ、一杯ご一緒しませんか？」

朔也の周りにいた友人たちは息を呑んだ。

この女、正気か？ あの藤原朔也を口説こうとするなんて。

「どうぞ」

予想外の朔也の返答に、皆はさらに目を丸くした。

互いに顔を見合わせ、心中を察し合う。

彼らでさえ、これほど蠱惑的な女性は見たことがない。あの朔也がらしくない態度をとるのも無理はない、と。

珍しく朔也がそんな気になったのだからと、皆は含み笑いを浮かべ、連れの女性を伴ってそそくさと席を立った。

ただ、店を出た後、誰かがふと呟いた。

「おい、お前ら、あの女、どこかで見たことなかったか？」

「誰のことだ？」

「さっきの女だよ。神崎家の……あの『お嬢様』に似てなかったか？」

数人の顔色が変わった。その男は慌てて付け加えた。

「いや、気のせいだ、気のせい。

神崎家の連中が、あのお嬢様をこんな夜更けにバーで男漁りさせるわけがない。

ましてや、相手が藤原家の人間だぞ」

臨海市で、神崎家と藤原家の長年の確執を知らない者はいなかった。

一方、香織は朔也にぴったりと寄り添い、耳元で甘く息を吹きかけた。

「ねえ、誰かに言われたことない？あなたって、すごく魅力的だって」

朔也は無表情に彼女を一瞥した。その視線は、彼女の胸元、深く開いたドレスの谷間に落ちる。

香織はさらに大胆に体を密着させ、妖艶な笑みを浮かべた。

「気に入った？ もっと近くで見せてあげようか？」

朔也の手が、持っていたグラスを強く握りしめた。

「我慢してるふりしちゃって」

香織はくすくすと笑う。

「その目……まるで私を食べてしまいたいって言ってるみたい」

「食べてもいいのか？」

朔也が不意に低い声で言った。

香織の心臓が激しく跳ねた。

彼の黒い、彼のストイックな雰囲気に合った黒いネクタイを掴み、指に二度巻きつけ、ぐっと引き寄せる。

そして彼の唇の端に、吐息がかかるほど近づいて囁いた。

「……いいよ」

ホテルは真由が事前に予約してくれていた。カードキーは香織の手の中にある。

部屋のドアを開ける瞬間、香織の胸は微かにざわついた。

特に、背後から不意に抱きしめられた時、思わず短い悲鳴を上げそうになった。

しかし、彼女がドレスを脱ぎ捨てると、彼はぴたりと動きを止め、ベッドのヘッドボードに寄りかかり、腕を組んで彼女をじっと見ていた。

その目は、まるで品物を値踏みするかのように冷たかった。

香織は無意識に身を隠そうとし、羞恥心で全身が淡いピンク色に染まる。

「スタイルは悪くないな」

彼が冷ややかに言った。

「ただ、惜しいことに……」

香織にはその言葉の意味がわからなかった。

彼はすっと立ち上がり、口を開いた。

「神崎家の『お嬢様』、これほど身を投げ出してまでご執心とは感心する。

だが、あいにく俺は医者でね。少々潔癖すぎるきらいがあって、汚れたものは好かないんだ」

全身の血の気が、さっと引いていく。香織の顔は蒼白になった。

「私のこと、知っていたの！？」

「神崎家の『お嬢様』だろう？ 臨海市で知らない者などいないさ」

香織の顔はさらに青ざめた。

彼女はこの『お嬢様』という呼び名が大嫌いだった。

彼の言葉の裏にある侮蔑の意味は、痛いほどわかっていた。

神崎家の『お嬢様』とは、すなわち神崎兄弟に飼い慣らされ、弄ばれてきた女ーーだから『汚れたもの』だと言うのだ。

彼もまた、他の人々と同じように、彼女を辱め、そして神崎家をも貶める。

香織は隠していた腕を下ろし、彼の目の前で、床に落ちたドレスを拾い上げ、堂々と身にまとった。

「藤原先生が私のことをご存知なら、改めてお話できませんか？」

彼女は平静を装って尋ねた。

「神崎大輔の治療についてなら、時間の無駄だ」

香織の心は冷え切った。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。

「……では、どうすれば引き受けてくださるのですか？」

朔也は彼女をじっと見つめる。その瞳は深く、暗い光を宿していた。

香織には、その視線の意味が読み取れなかった。

彼女の乏しい経験と、男に対する直感が告げていた。この男はまだ自分を欲しがっている、と。しかし、自分から求めようとはしない。

偽善者め！

心の中で、香織は再び吐き捨てた。

ならば、と彼女はもう何も問わず、彼の首に腕を回し、直接唇を重ねた。

彼は、石像のように微動だにしなかった。

「さすが神崎家の『お嬢様』だ。あの半身不随の神崎大輔のために、そこまで自分を安売りするとはな」

「私が売るなら、あなたは買ってくださる？」

香織は潤んだ瞳で彼を見上げ、シャツの裾をたくし上げると、その下に滑らかな手を忍び込ませた。

真由が見せてくれたいくつかの動画を、三時間かけて研究したのだ。理論と映像が頭の中を駆け巡る。

この堅物そうな男が拒絶さえしなければ、ありとあらゆる手管で彼を陥落させる自信があった。

必死に誘いかけ、息を切らし、香織自身も火照って蕩けそうになっていた。

それでも、見上げた先の男は、依然としてあの無表情な仮面を貼り付けたままだ。

ついに耐えきれず、彼女は掠れた声で呼びかけた。

「藤原、先生……」

彼の瞳の奥が深く沈み、目尻が微かに赤みを帯びた。だが突然、彼は香織を乱暴に引き剥がすと、立ち上がって素早く服を整えた。

ほんの数秒で、彼はまたあの冷淡で、取り澄ました姿に戻っていた。

「君には、まだその資格がない」

そう言い捨て、彼は背を向けて部屋を出て行った。

香織は怒りに任せてベッドを拳で叩いた。

そんな時、間の悪いことに真由から電話がかかってきた。急いで戻ってこいという。

「香織、ごめん！神崎光一（かんざき こういち）さんが直接探しに来て、私……」

香織の心は凍りついた。もうおしまいだ、と悟った。

真由は慌てて付け加える。

「うちに泊まってないって言っただけだから！

どこで何してたかなんて、言ってないからね！」

香織は深く息を吸い込んだ。

「……わかった」

彼女はバスルームへ行き、鏡に向かって乱れた身なりを整え、崩れた化粧を直し、急いで神崎家へと戻った。

玄関をくぐった瞬間、何かが鋭く風を切って飛んできた。

咄嗟に身をかわすと、背後で陶器が砕け散る甲高い音が響く。

振り返ると、それは花瓶の破片だった。

もし頭に当たっていたら、間違いなく血が出ていただろう。

彼女の顔から血の気が引き、前方にいる車椅子の男を見上げた。

彼は痩せて青白く、24歳という年齢にふさわしい若々しさは微塵もない。

纏う空気は陰鬱で、その瞳に宿る険悪な光は、見る者をぞっとさせる。

――神崎大輔。香織の悪夢