第 6 話

香織ははっと目を開け、朔也のあの深い瞳と正面から視線がぶつかった。

朔也はすっと立ち上がり、口元にどこか含みのある微笑みを浮かべていた。

香織は心の中で毒づいた。

白衣を着て一見まともそうだけど、口を開けば本当にろくなことを言わないわね！

「あなたと？あなたが私を養ってくださるとおっしゃるのですか？」

「あいつらよりは、うまく養ってやるさ。それに、俺は女に手を上げたりはしない」

香織の瞳が揺れ動いた。さらに尋ねる。

「神崎家は怖くありませんか？」

朔也は笑っているのかいないのか、曖昧な表情を浮かべた。

「藤原家と神崎家は、昔から犬猿の仲だ」

その通りだ。

藤原家と神崎家はビジネスの世界で常に激しく争ってきた。

藤原家が神崎家を恐れたことなど、一度もなかったはずだ。

これは、自分が神崎家を離れる唯一のチャンスかもしれない、と香織は思った。

「では、いつまで私をそばに置いてくださいますか？」

香織はさらに尋ねた。

朔也は少し黙ってから言った。

「俺が飽きるまでだ」

香織は彼を見て、冷ややかに笑った。

火事場泥棒って、こういう人間のことを言うのね！

だが、誰かを自分に惚れさせるのは難しいが、誰かに自分を飽きさせる方法なら、いくらでもある。

今はまず、神崎家という地獄から抜け出すこと。その後のことは、それから考えればいい。

香織はそう決意した。

香織の瞳の奥に再び意志の炎が宿るのを見て、朔也は思った。

ようやく、少しは生気が戻ってきたか。

彼はますます平然とした態度で言った。

「数日考えてから、返事をくれてもいい」

香織は本当に2日間、真剣に考えた。そして、自分には他に選択肢がないことに気づいた。

どうせ朔也とは一度寝てしまったのだ。一度も一年も大差ない。

彼のベッドでのテクニックは悪くないし、独身だ。

お互い割り切って楽しむだけなら気楽なもので、神崎家にいるよりはずっとマシだ。

唯一の心配は、彼を信じられるかどうか。

もし、神崎家に対抗するための駒として自分を利用するつもりなら？

次に朔也に会った時、彼女は直接それを尋ねた。朔也は無表情に答えた。

「藤原家は、そんな卑怯な手を使うほど落ちぶれてはいない。

それに、君は神崎家にとって、そこまで重要な存在ではないだろう」

香織はばつが悪そうにした。

そうだ、自分は神崎家にとって何なのだろう？

ただ罪を償うだけの罪人に過ぎない。重要なはずがないわ。

もし重要なら、大輔が再び立ち上がるための取引材料として、朔也に差し出されることなどあっただろうか？

一度だけ、信じてみよう。どうせ、もう失うものなんてないのだから

香織はそう思った。

4週間後、香織は動けるようになった。

真由に付き添われて、階下の庭園をゆっくりと散歩していると、偶然にも朔也と克也に出くわした。

「香織！お前、もう動けるのかよ！？」

克也が駆け寄ってきて、彼女を上から下までじろじろと見た。

「お前、化け物かよ？回復が早すぎるだろ！」

香織は顔をしかめた。

「あら、『化け物』ですって？

あなたこそ、その金切り声、まるで人を襲う化け物の雄叫びのようですね」

克也はまた彼女に腹を立てた。

「頭おかしいんじゃないのか！？

俺は心配してやってるんだぞ、くそっ！なのに俺を化け物呼ばわりしやがって！」

「先に人を化け物みたいだって言ったのは、克也さんの方でしょう」

真由が香織の肩を持った。

香織は彼を相手にするのも面倒で、視線を朔也に向けた。

「藤原先生、私、もうすぐ良くなりますでしょうか？」

朔也はわずかに頷いた。

香織の心に、まるで花火が打ち上がったかのようにぱっと明るさが灯り、瞳も輝きを増した。

「藤原先生、では、退院を待つばかりでございますね？」

「退院」という言葉に力を込めて、彼女は朔也が再び頷くのを見て、さらに嬉しくなった。

「真由、行きましょう」

彼女は真由の手を軽く叩き、克也と口をきくだけ無駄だと合図した。

真由は克也に白目を向けてから、香織を支えて立ち去った。

二人が遠ざかっても、克也はまだその後ろ姿を振り返っていた。

「何を見てるのか？」

朔也が尋ねた。

克也は頭を掻いた。

「兄貴、あいつ、あんなにひどい怪我だったのに、もう治ったのか？動けるのか？」

「ああ。激しい動きさえしなければ、問題ないだろう」

朔也は何気なく答えた。

克也は目をくるりと動かした。

「兄貴、急に用事を思い出した。俺、先に行くわ」

朔也が何か言う間もなく、克也はあっという間に走り去っていた。

その夜、激しい雷鳴に、香織は眠りから飛び起きた。

彼女は声を上げたが、いつもなら物音ですぐ起きる付き添いの介護士が、今夜に限ってぐっすり寝込んでいる。

何度か呼んでも、彼女は目を覚まさなかった。

香織の胸に、かすかな不安がよぎった。その時、病室のドアが開いた。

香織は、克也がこそこそと入ってくるのを見て、眉をひそめた。

「藤原克也、何をなさっているのですか？」

克也は彼女の声にびくりとした。

「ちっ、なんで起きてるんだよ？」

「何をなさるつもりですか？出ていってください！さもないと、大声を出しますわよ！」

言い終わるか終わらないかのうちに、克也に布で口を塞がれた。

香織は頭が重くなり、意識を失った。

目が覚めた時、周囲の環境から、自分がもう病院にいないことがわかった。

心臓が、激しく高鳴る。

再び克也の姿を見た時、彼女は笑った。

この人より、藤原先生は、なかなか律儀な人じゃない。

弱々しくもどこか華やかなその笑みは、かえって哀れみを誘った。

克也はその笑顔に心をかき乱され、思わず荒々しい口調になった。

「何笑ってやがる！？」

香織の声は、思いがけず羽のように軽く、柔らかかった。

「克也さん、ありがとうございます」

克也はよろめきながら部屋から逃げ出した。

マジでありえねえ。あの女が、あんな風にまともに礼を言うなんて。

香織はこの部屋に2日間閉じ込められた。一日三食、誰かが食事を運んでくる。時には克也が、時には別の人間が。

それは彼女の知っている人物だった。

郷田直輝（ごうだ なおき）という名で、金持ちの三代目だった。

克也と一緒にぶらぶらしているドラ息子仲間だ。

ただ、朔也の姿は、一度も見えなかった。

克也に尋ねてみると、彼は香織を一瞥した後、言葉を濁した。

「兄貴は忙しいんだよ」

それもそうか。朔也は今頃、大輔の治療をしているのだろう。

それに、私を病院からこっそり連れ出したのだから、しばらくは疑いを避けないといけない。

騒ぎが収まったら、きっと私をどこかへ送ってくれるはずだ。

香織は静かにその時を待っていた。

だが、その間にも、臨海市全体がひっくり返るような大騒ぎになっていることを、彼女は知らなかった。

香織が失踪した。

病院のその夜の監視カメラは全て故障しており、何も手がかりがない。

付き添いの介護士に尋ねても、何を聞かれても知らないと答えるばかりだ。

大輔は、この2日間でさらに痩せこけ、まるで枯れ木のようになり、狂気に満ちた有り様だった。

「あの売女はどこだ？なぜまだ見つからないんだ！？」

光一もまた、いくらかやつれていた。彼はこめかみを揉みながら、頭痛をこらえている。

「大輔、言っただろう。必ず彼女を見つけ出すと。

今一番大事なのは、藤原先生にお前の治療をしてもらうことだ！」

大輔の顔は陰鬱だった。

「死んでも、あの藤原の奴に足なんか治させるか」

光一の顔色が変わった。

「お前は治療を受けなければならない！この件に関して、お前のわがままは許されない。

まさか、本当に一生車椅子で過ごすつもりか？」

「どっちだって同じことだ！」

大輔は歯を食いしばった。

「俺の足が治ったって、父さんと母さんは生き返らない！

藤原の奴に治させるだと？ 治してもらったら、感謝でもしろって言うのか？

兄貴だって、父さんたちが怒りで墓から出てきそうだと思わないのか！？」

亡くなった両親のことに触れ、室内に静寂が訪れた。

しばらくして、光一はようやく決意を固めた。

「この件に議論の余地はない。

天国のお父さんたちも、お前が再び立ち上がることを望んでいるはずだと、私は信じている」

「兄貴！俺に無理強いするなら、死ねって言ってるのと同じだぞ！」

大輔の瞳には、深い憤りが満ちていた。

光一はわかっていた。両親は口実に過ぎない。

彼はただ、この機会が香織と引き換えに得られたものであることを受け入れられないのだ。

光一は彼を追い詰めることを避け、次善の策を取ることにした。まずは香織を探し出すことだ。

香織を連れ戻し、大輔に怒りをぶちまけさせ、それから香織自身に説得させれば、大輔も自然と朔也の治療を受け入れるだろう。

香織のことを思い、光一の眼差しが暗く沈んだ。

香織はまた、言うことを聞かなくなった。

以前にも香織が家出をしたことはあった。

だが、彼女が彼の手のひらから逃れられたことはない。

しかし、今回は少し様子が違った。彼女は、本当に姿を消してしまったのだ。