第 9 話

香織？

朔也は、夕暮れのもやが深く垂れ込める空を見上げ、胸が塞がるような重苦しさを感じていた。

今や、彼女に証言してもらうどころか、会うことさえ難しいだろう。

香織は、朔也が思った通り、確かに自由を奪われていた。

神崎家に戻った後、彼女は部屋に閉じ込められた。

神崎の兄弟は彼女を病院に送ることさえせず、ただホームドクターを呼んで診察させるだけだった。

昔から言われているように、骨や筋を痛めるほどの大怪我は治るのに時間がかかるものだが、医師は彼女に三ヶ月の床上安静を勧めた。

おそらく、あまりにも多くの絶望を経験しすぎたせいだろうか。

香織は、自分自身にも倒錯的な傾向があるように感じ始めていた。

なぜなら、彼女は今、大輔を見て笑うことさえできたからだ。

「今の私、大輔様よりもっと惨めに見えませんか？」

大輔は眉をひそめた。

「医者は、三ヶ月休めば治ると言っていた」

「そうですか？」

香織はまた笑った。

「治ったところで、どうせまた殴られるんでしょう？」

大輔の顔に再び険悪な表情が浮かんだが、彼は歯を食いしばってそれを抑え込んだ。

「香織、俺を怒らせようとするな。どうなるかわかっているだろう」

香織は開き直った。

「死ぬだけでしょう？ どうぞ、お好きに」

「香織！」

大輔の声は凶暴さを帯び、思わず手に持っていたゴルフクラブを強く握りしめると、ベッドサイドのテーブルランプに向かって力任せに振り下ろした。

ランプは粉々に砕け散り、飛び散った陶器の破片が香織の腕をかすめ、浅い血の筋を残した。

大輔はその血の跡を睨みつけ、歯をきつく食いしばった。

「俺を怒らせるなと言っただろう！なぜ言うことを聞かない！？」

香織は目を閉じ、次の一撃が自分に振り下ろされるのを覚悟した。

だが、意外にも大輔は彼女に手を出さなかった。

「今回、お前を連れ去ったのは藤原家の人間だ。お前に罪はない。罰は与えない」

香織は目を閉じたまま動かなかった。

しばらくして、大輔が部屋を出ていく音を聞いた。

すぐに光一が入ってきた。後始末をしに来たためだった。

大輔が壊したランプの破片を丁寧にに片付け、ゴミ箱に捨てた後、彼はベッドの縁に腰掛け、静かにため息をついた。

「香織、大輔の癇癪を知らないわけでもあるまいし、どうしてまた彼を怒らせるんだ？

結局、傷つくのは君自身じゃないか」

そう言うと、彼は救急箱を取り出し、彼女の腕の傷に薬を塗り始めた。

少ししみて、香織は腕を引っこめた。

光一は微笑み、頭を下げて傷口に息を吹きかけた。

「こうすると、痛みが和らぐんだよ」

香織は、自分が7歳のときに神崎家に罪を償いに来て、初めて怪我をした時のことを思い出した。

あの時も、光一はこうして傷口に息を吹きかけ、「こうすると、痛みが和らぐんだよ」と言ってくれたのだ。

当時、彼はまだ14歳で、秀麗で優しい少年だった。

彼が傷口に息を吹きかける優しい姿は、彼女の心に深く刻み込まれ、それ以来、彼女は彼を自分の救世主だと見なしてきた。

そして彼は、確かにずっと彼女の救世主だった。

彼女が直輝に襲われそうになった時も、彼が間一髪で現れて救ってくれた。

「光一様、あの郷田直輝は……」

あの日、大輔に連れ去られてから、その後どうなったのか彼女は知らなかった。

直輝の名前を聞いて、光一の瞳に一瞬、残忍な光がよぎった。だがすぐに、彼は優しい手つきで香織の髪を撫で、穏やかな声で言った。

「彼は死んだよ」

香織は信じられないといった顔で彼を見た。

光一の笑みは、ますます優しさを深めた。

「うちの香織が彼に死ねと願った以上、彼が生きていられるわけがないだろう？」

また、あの感覚が襲ってきた！

最もよく知っているはずの優しい笑顔なのに、ぞっとするほどの寒気を感じる。

香織は声を出せずにいると、光一が続けるのが聞こえた。

「香織、彼がどうやって死んだか、当ててみないか？」

「どうやって……死んだのですか？」

香織は無意識に尋ねた。

光一は微笑んだ。

「藤原克也に、生きたまま殴り殺されたんだ！」

「そんなはず……」

香織は低い声で驚きの声を上げた。

「香織、よく覚えておくんだ。直輝は、克也に殴り殺されたんだよ！」

光一は優しく笑った。

「今回、君は手柄を立てた。直輝は死に、克也は人殺しだ。

今、藤原家は克也を助け出そうと躍起になっているが、郷田家はただ克也に償いを求めている。面白いと思わないか？」

香織は理解した。

理解した後、手足が氷のように冷たくなり、心臓はずっと底へ底へと沈んでいき、どこまでも落ちていくようだった。

神崎家に来てからの16年間、彼女はずっと、大輔だけが狂っているのだと思っていた。

今、彼女は突然感じた。光一の方が、もっとひどく狂っているのではないかと。

香織は激しく身震いした。

「寒いのか？」

光一は眉をひそめ、すぐにリモコンで室温を2度上げ、それから丁寧に彼女に毛布をかけ直した。

「これで少しは良くなったかい？」

だが、香織の震えは止まるどころか、ますます激しくなった。

光一はすぐに医者を呼ぼうと電話に手を伸ばした。

香織は恐怖を必死にこらえ、口を開いた。

「光一様、私は大丈夫です。でも、一つお願いしてもいいですか？」

「何だい？」

「私、動くのが不自由だから、介護士を頼んでもらえませんか？女性の方がいいです」

香織は震える声でそう言った。

光一は「水に落ちた犬は打て」のが好きだった。

今、藤原家はまさにその「落ちた犬」であり、彼はその対応に忙殺されていた。

大輔は体が不自由で、他人の世話をすることなど到底できない。

そのため、光一は本当に香織のために介護士を手配した。

それが鈴木静子（すずき しずこ）という女性だった。

一目見て、香織は静子のことがあまり好きになれなかった。

40代くらいの年齢で、めったに笑わず、口角は下がり、眉間には縦じわがある。

一見して付き合いにくそうなタイプだ。

しかし、静子は力があり、一人で香織を抱き上げることができた。

介護経験も豊富で、香織の世話をそつなくこなした。

光一も2日ほど様子を見て、安心したようだった。

大輔は見慣れない人間がいるのを好まず、静子がいる間はあまり姿を見せなかった。

香織の体は順調に回復していたが、心には悩みがあり、胸が詰まるように苦しかった。

ある日、天気が良かったので、香織は静子に頼んで自分を庭に連れて行ってもらった。

二人が部屋を出ると、隣のドアが開き、大輔が険しい顔でこちらを見た。

「どこへ行く？」

香織は答えた。

「庭で少し気分転換しようと思いまして。大輔様も一緒に行きますか？」

大輔は彼女を一瞥した。

本当は部屋に戻れと言いたかったのだろうが、彼女の青白い顔を見て、歯を食いしばると、ドアをバタンと閉めた。

香織は唇をきゅっと結び、静子に言った。

「大輔様は興味がないみたいですね。行きましょう」

静子はそこで初めて、彼女を庭へと連れて行った。

道中、ずっと沈黙が続いていたが、香織は突然ふっと笑った。

「鈴木さんがたまに二言三言でも話してくれるからいいけど、そうでなかったら、てっきり口がきけないのかと思ってしまうわ。いつもそんなに無口なの？」

「いいえ」

普段は寡黙な静子が、意外にも口を開いた。

香織は驚いた。

続いて、彼女がさらに小声で言うのが聞こえた。

「話さないのは、壁に耳あり障子に目ありからです」

香織は青い空と白い雲を見上げ、力なく笑った。

やっぱり自分の部屋に監視カメラがあることは、介護士にまで気づかれていたのね。

「香織様」

静子の声は依然として低く、香織にしか聞こえない。

「藤原先生からお伝えするように言付かっております。『約束は今も有効だ』と」

香織の心臓が、どきりと跳ねて一瞬止まった。

数秒後、彼女はようやくゆっくりと息を吸い込んだ。

「あなたは、藤原先生側の人間なのね？」

「いいえ。ただ、伝言を預かっただけです」

香織は振り返り、彼女をじっと見つめた。

静子の眉間に深いしわが寄った。

「香織様、そのようなことをなさると、神崎家の次男坊に疑われてしまう恐れがございます」

香織は冷たく鼻を鳴らし、前を向いた。

しばらく、何も言わなかった。

静子は彼女の意図を測りかねた。

朔也からの指示を思い出し、再度説得を試みるしかなかった。

「香織様はここにいても自由でも幸せでもありません。藤原先生がお助けできます」

香織は冷笑した。

「あの人も嘘八百だ。私がまだ信じるとでも思ってるの！？」