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それだけが、たったひとつの願い のすべてのチャプター: チャプター 21 - チャプター 30

79 チャプター

第二十二話

 ハァーッという盛大な溜息と共に眉間にキュッとシワを寄せ、イラついたように髪をかきあげる。「ついにやったか」「なにを?」 怒っている男性を目の当たりにしてもまったく臆することなくジンは尋ね返したけれど、その男性はじっと射貫くように私に視線を送ってきた。 表情に加え、身体に穴があくかと思うくらいの攻撃的な視線に、私は身を縮こまらせる。「いつか俺に隠れてやるんじゃないかと思っていたが」「だからなんの話?」「堂々と女を連れ込んどいて、なにをとぼけてんだよ!」 ジンは呆気にとられていたけれど、すぐにふるふると首を横に振る。「違うよ、誤解だ」 ジンの言うとおりなのだけれど、朝早くに男女が起き抜けにモーニングコーヒーを飲んでいるのだから、この光景を見たら事情を知らない人は誰しもが誤解するだろう。 私たちが一夜を共にするような男女の仲だと。『家に今帰ったら、ショウくんに説教くらうよ』 たしか昨日、ジンはそう口にしていたと思い出した。 異常なまでのチャイムの連打からして、ジンがショウさんを元々怒らせていた原因は別にある。 その上、私のことで誤解が生じたとなるとショウさんの怒りがさらにエスカレートするのは至極当然だ。「なにが誤解だ!」「由依は社長が連れてきたんだよ」「そんなわけないだろ。もっと上手い言い訳くらい考えとけよ!」 ショウさんの迫力に押されながらも、本当に誤解なのだとジンが必死に説明を繰り返す。 事情をわかってもらえるように私も加勢しなければと思うものの、口を挟む隙がない。「由依、驚かせてごめん。この人は、俺の兄貴」 突然そう紹介され、別の意味で驚いた。 この外国人であろうショウさんがジンのお兄さんだとはすぐに理解できずに頭が混乱する。 もしかしたらジンも日本人ではないのかもしれない。「実の兄貴じゃないだろ」 少し困ったような色を含ませながら、ショウさんが小声でボソリとつぶやいた。「俺はコイツのマネージャーだ」
last update最終更新日 : 2024-12-26
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第二十三話

 結局ふたりはどういう関係なのか、いまいち理解できない。 血の繋がらない、義理の兄弟なのだろうか。 いや、それならばわざわざ兄じゃないと否定はしないはず。 元々親しい間柄のふたりが、芸能人とマネージャーになったのかもしれない。「あの、初めまして。安田由依です」「とりあえず君、帰ってくれ」 ペコリと頭を下げた私に、イラついたショウさんが吐き捨てるように言ってそっぽを向いた。 ジンが連れ込んだ女性だと勘違いされているのだから、不遜な態度を取られても仕方がない。「ショウくん、違うんだって!」 説明するから聞いてくれとばかりに口を挟んだジンに対し、ショウさんは迫力満点に睨んだ後、再び私に懐疑的な視線を向けた。「もしかしてコイツが芸能人だと知ってて誘惑して、ここに入り込んだのか?」 ショウさんの言い方は、イケメン芸能人と一晩遊べたのだからそれでいいだろう、とまるで嘲笑しているかのようだった。「スキャンダルになると困る。帰る前にスマホをチェックさせてくれ。写真が残ってる場合は消させてもらう」 少しイントネーションが日本人らしくないところもあるけれど、ほとんどネイティブに近い日本語でそう告げられ、私は放心状態になった。 だが早く否定して誤解をとかなければと、次の瞬間なんとか言葉を発した。「あの、ほんとに誤解なんです」「意味がわからないが?」 この期に及んでなんの弁解なのだと言いたそうな表情で、ショウさんは訝しげに私を見た。「私、事情があって相馬さんからしばらくここをお借りすることになったんです。だから……帰るところがなくて……」 家にはしばらく帰れないのだし、今の私にはここ以外に居場所はない。「君は相馬社長の知り合い?」「……知り合いというか……はい」 それにはなんと答えたらいいのかわからなかった。 相馬さんとも昨日が初対面だし、私をここに案内してくれたことに間違いはないけれど、間柄を聞かれると困る関係だから。 姉と相馬さんだってどんな関係なのか知らないのだから、私と相馬さんとの関係はさらに今の段階で単純に説明などできない。「ジンとは昨日が初対面?」
last update最終更新日 : 2024-12-26
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第二十四話

「そうです。もちろん私は向こうの部屋で寝ましたからなにもありません。あ、相馬さんに電話しましょうか。今スマホ持ってきます」 蛇に睨まれた蛙、とはこの状態を言うのだろう。 真実を述べているだけなのに、なぜか焦って挙動不審になってしまう。 そんな小心者な自分が情けなくて悲しくなってくる。「いや、けっこうだ。君はウソはついていないだろう。詳しいことは後で社長から説明を聞くが、社長が君にこの部屋を貸すと決めたのなら出ていくのはジンのほうだな」 私はあきらかにおどおどしてしまっていたけれど、なぜかショウさんは私の言葉を信じてくれて、怒りの表情が一気に和らいでいった。「朝から騒がしくて……いや、君に嫌な言い方をして悪かった」 ショウさんは私に素直に謝ってくれたあと、ジンに早く着替えて準備をするようにと急かせた。 最初にこの部屋に入ってきたときには鬼の形相だったから、どれだけ怖い人なのかと心配になったけれど、ショウさんはきちんとした大人だった。 元からあまり笑顔を見せない人なのか、取っ付きにくい感じは否めないけれど。 そんなことを頭で考えているところへ再び玄関のチャイムが鳴り、今度こそ相馬さんだろうかと期待してしまう。 相馬さんが来てくれたなら、この場でショウさんに事情を話してくれるだろう。 そう思い、インターホンの液晶画面を覗き込んだけれど、相馬さんとは違う見知らぬ男性が映っていた。「誰?……」 無意識に私がそうつぶやくと、そばにいたショウさんが隣に立って画面を覗き込んできた。「ああ、開けて大丈夫。うちの事務所の人間。人畜無害な男だ」 どうやら芸能事務所の方のようで、ショウさんが大丈夫だと言うのだから怪しい人ではないのだろうとオートロックを解除した。 玄関先までおもむいてガチャリとドアを開けると、立っていたのは黒のダウンジャケットを着て青いマフラーを巻いた、ダークブラウンの髪の男性だった。「おはようございます。美山(みやま)甲(こう)と言います。相馬社長から言われて朝食を届けに来ました」 営業スマイルなのか元からなのか、どちらかはわからないけれど、男性がにこにこと人懐っこい笑みを浮かべる。 ジンやショウさんとは違い、身長がそんなに高くないこともあって威圧感はゼロだ。 怒り心頭だったとはいえ、鬼の形相で現れたショウさんとは第一印象が正反
last update最終更新日 : 2024-12-27
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第二十五話

「ジンはまだ寝てるよね? ついでに起こして連れて帰るよ」 甲さんは私より少し年上くらいの若い男性で、ショウさんの言葉どおり穏やかで人当たりが良い。 しかも相馬社長から事前に伝わっているのか、昨夜ジンがここに泊まったと知っているみたいだった。「もう起きてはいるんですが……」 どうぞ、と玄関へ招き入れると、甲さんはすぐに男性の靴が二足脱いであることに気がついた。「もしかして先にひと波乱あった?」 先客があったことを察しながら、甲さんはにこにことしたままリビングへと進んだ。「おはようございます。やっぱり。先客はショウさんか」「甲、社長は?」 甲さんに視線をやりつつ、眉ひとつ動かさずにショウさんが問う。 同じポラリス・プロで働くもの同士だから、ふたりは顔見知りどころではなくかなり親しそうだ。「社長は不動産会社の早朝会議です。だから俺が社長に頼まれて朝食を届けに。……あれ? ジンは?」「今着替えてる。社長も俺にだけこの説明がないのは酷いんじゃないか?」 辺りを見回してジンの姿を捜す甲さんに、ショウさんが低いトーンで愚痴を言う。 相馬さんは甲さんには私のことをきちんと説明していたようなので、ショウさんは自分だけ除け者にされたようで気に入らないのだろう。「いや、ショウさんに隠そうとしたわけではないですよ。社長は早朝から会議だから伝えるタイミングがなかっただけでしょう」 今の時代は電話もメールもあるのだから、甲さんの言い訳は苦しい感じがしたけれど、ショウさんは黙って聞き流していた。「ショウさんもいるってわかってたら、三人分の朝食を買ってきたのにな。今から追加で買ってきましょうか」 甲さんが明るい笑みを浮かべ、話題を朝食へと上手にすり替えた。 こういうタイプの人ならショウさんとはぶつかったりしないとすぐにわかるほど、甲さんからは柔らかい雰囲気が漂う。「いい。今からジンを連れて帰って説教する。午後から雑誌の取材も入ってるし」「ジンの好きなあったかいスープ買ってきたのに」「朝飯は甲が代わりに食っとけよ」
last update最終更新日 : 2024-12-27
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第二十六話

 買ってきたものをテーブルの上に並べながら甲さんが苦笑いをすると、そこへ着替え終わったジンが別室から姿を現した。 オフホワイトの長袖シャツとデニムを合わせただけの格好なのに、先ほどとは大違いで、私は一瞬で目を奪われてしまった。 服装が違うとこうも違って見えるのかと驚くくらい、脚も長いし均整がとれていてカッコいい。「甲くん、おはよう。俺の好きなスープ買ってきてくれたの?」 うれしそうにスープにありつこうとするジンの腕を、ショウさんが的確に捕らえて引っ張った。「お前は俺と帰るんだよ!」「スープくらい飲ませてくれよ」 問答無用とばかりにショウさんは私に小さく「邪魔したな」とだけ言い、まだコートも着ていないジンを伴って部屋から去って行った。「ごめんね。朝から騒がしかったよね」 まるで現場を見ていたかのように、私とふたりになってから甲さんが謝った。 今日みたいなことがしょっちゅうあるのかはわからないけれど、甲さんはあのふたりの性格をよく知っているようだ。 冷めないうちに、と買ってきてくれたホットサンドとスープの朝食を勧められたので、ジンが口にするはずだったスープだけでもどうぞ、と私も甲さんの目の前にそれを置いた。 甲さんはスープの器で手を温めていたけれど、急に思い出したように自分の名刺を私に指し出す。 相馬さんに連絡がつかないときのために、と携帯番号の書かれた名刺だ。 そんなにしょっちゅう連絡するようなことは起こらないけれど、万が一ということもあるからお守り代わりにいただいておいた。「あの……質問してもいいですか?」 ジンにもショウさんにもなんとなくストレートには聞けないし、相馬さんにだと大げさな気がする。 私の頭に浮かんだいくつもの些細な疑問は、人の良さそうな甲さんに尋ねるのが一番かもしれない。 甲さんが「なに?」と、私にやさしい笑みを向けた。「ショウさんって、外国の方ですか?」 ショウさんが話していた言葉が中国語っぽかったので、とりあえず最初に気になった事柄を甲さんに尋ねてみた。「彼は台湾の人。向こうの言語は北京語だからね」「ジンが、ショウさんのことをお兄さんだって言ってましたけど……?」
last update最終更新日 : 2024-12-27
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第二十七話

 ショウさんが台湾の人ならば、ジンもそうなのだろうか。 なかなか聞き取るのは難しいと思われるほど早口でまくし立てるショウさんの中国語を、ジンは全て聞き取れていた。「正確に言うと、ショウさんはジンのお兄さんみたいな存在なんだ。ふたりは血のつながった兄弟じゃなくて幼馴染でね、小さいころ家が近所だったらしい」 だからショウさんは、自分は兄ではないと否定したのだと、だんだん謎が解けてきた。 ふたりは兄弟のように親しい幼馴染だけれど、家族や親せきではないみたいだ。「ショウさんが五歳年上で、当時からジンを本当の弟みたいにかわいがっていたんだよ。幼いころからジンは愛くるしい容姿で誰からも愛されていたんだって」「じゃあ、ジンも台湾の人ですか?」「ああ。……あれ? ジンの名前、知ってるんじゃないの?」 急に甲さんが不思議そうな顔を私に向けた。 私は“ジン”としか聞いていないのだけれど、彼にはほかにも名前があるのだろうか。「彼の本名は楚(チュ) 悠菫(ヨウジン)。だから“ジン”って呼ばれてる」 私はてっきり“仁”のような漢字一文字の名前だと思っていたから、略されていた呼称だったのは予想外だった。「ショウさんもじゃあ……本名は違うんですか?」「ショウさんは、楊(ヤン) 薫杰(シュンジェ)」「………え、どうしてそれで“ショウ”なんですか」 名前のどこにも“ショウ”とは入っておらず、略してすらいないじゃないかと、私は意味がわからなくて首をかしげた。「“ショウ”っていうのは、英名みたい」「英名って?」「向こうの人は、本名とは別に英名を持っている人が多いんだ。日本では考えられないけどね。エディとかジョセフって名乗ったり、エドワードなんて人もいたなぁ。女性だと、シンディとかね」 そういえば香港の有名なハリウッドスターも英名ではないだろうか。「ジンが台湾出身だなんてビックリしました。あんなに上手に日本語を話しているし、初めて会ったときからずっと彼は日本人だと思ってましたから」「だよね。向こうで生まれ育ってるのに、すごい日本語力だよ」 普通はどんなに外国語が達者でも、ショウさんのように少しくらいイントネーションに違和感が生まれるものだ。
last update最終更新日 : 2024-12-28
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第二十八話

 だけどジンの日本語にはおかしな部分はなにもなく、とても流暢だった。「ジンは半分日本人だからかな」「え?」「お母さんが日本人なんだ。彼はハーフ」 私は新たな事実にまた驚かされ、目を見開いてしまう。『七歳のときに別れたまま会っていないから、記憶が薄らいでる』 昨夜のジンの言葉を思い出した。 七歳まではお母さんとごく自然に日本語で会話していたから、あんなに流暢なのかもしれない。「ジンは日本が大好きなんだろうね。こっちの大学に留学するって、かなり前から決めてたみたいだよ」「そういえば、私と同じ大学だって……」 ジンは日本と台湾のハーフで、日本の大学に留学しながら芸能活動中……まとめるとそんなところだろうか。「ジンが気になる?」 まだ湯気の立つスープをすすりながら、甲さんが緩慢に笑う。 私が質問を次々としてしまったから、なにか誤解が生じたのかもしれないけれど、私がジンを気にしているのかと問われると決してそんなことはない。「まぁ、誰でもそうなるよ。ジンはイケメンだけど、あれは普通じゃない」 その言葉の意味がわからなくて、私は眉根を寄せて小首をかしげた。「妖精なのか魔法使いなのか……それとも宇宙人なのか……」「どういう意味ですか?」「ジンにはね、不思議な魅力があるんだ。強烈に人を惹きつける魔力っていうのかな。女の子は特にだと思うけど、あれは男でもやられるんだよ。きっと由依ちゃんも惹きつけられてるはず」 甲さんに断言されたものの、私は苦笑いで首を振って否定をした。「その自覚は、今のところありません」 確かにジンは整った顔をしているし、魅力を感じる人は多いのかもしれない。 だけど私は昨夜会ったばかりだから、まだジンをよく知らないのだ。「俺ね、こう見えて勘がするどい方だから先に言っちゃうけど、ジンを好きになるのはやめといたほうがいい」 惹きつけられている自覚がない、と言っているのに甲さんはまったく毒のない笑みで忠告をくれた。 私が生きてきた二十二年間で、一目惚れに近いような経験は今まで一度もないのだから、それは甲さんの取り越し苦労だと思う。
last update最終更新日 : 2024-12-28
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第二十九話

「ごめん。念のためにね。ジンは芸能人だから、ショウさんが恋愛には反対するだろうし」 だから好きにならないうちに釘を刺したのだ、と甲さんは引き続き柔和な笑みを浮かべた。 ショウさんはジンのマネージャーだから、私とジンが恋愛をしようものならショウさんがジンを守ろうとして邪魔をする。 それはありえることだろうなと納得してしまった。 だけど、きっとジンだって私を恋愛対象として見ていないから、私たちが恋人関係に発展するはずがないのだ。「ジンね、今年の初めに台湾のアーティストのMVに出演したんだ。よくあるでしょ、ドラマ仕立てみたいなやつ。それで、あのイケメンは誰だ?って人気に火がついたんだよ」 MVに出演したことがあると先ほどジンも話していた。 ほんのちょい役だろうと私の中で決めつけていたけれど、今の話を聞く限り、私が考えていたよりもかなり露出していそうだ。「今度その映像を見せてあげるよ」 照れを含んだような甲さんのうれしそうな表情に、私も笑みを浮かべつつうなずいた。 ジンは甲さんにとっても自慢の存在のようだ。「いろいろ仕事のオファーは来てるみたいだけど、ジンは日本に住んでるし、ショウさんもジンの売り出し方には考えがあるようなんだ。だから断る仕事も多くてね」 日本にいながら台湾の仕事をするとなると難しい部分もあるのだろう。 それに、ショウさんは敏腕マネージャーであり、ジンのプロデュースもしているそうで、ジンがどういう仕事を受けるのかはショウさんがすべて決めているのだそうだ。「ショウさんは、ゆくゆくはジンに歌もやらせたいらしいよ。でも、ジンは嫌だって反抗してる。普段はショウさんの言うことは聞くんだけどなぁ」「歌って……歌手、ってことですか?」「うん。向こうの人は多才で、俳優兼歌手って人が多いから。歌手デビューも視野に入れてるショウさんは、ボイストレーニングの予定を組むんだけど、ジンがたびたびサボるんだよ」 やれやれ、とため息を吐きつつ甲さんが苦笑する。「あ! ボイストレーニングって……」 昨夜ジンの口からその言葉が出ていたから、私の頭の中で急に点と点が線で繋がった。『ボイストレーニングはサボった』 ジンが相馬さんに言った文言が脳内に鮮明によみがえってくる。「今朝ショウさんがあんなに怒ってたのは、それが原因ですか?」「うん。ちゃんと行
last update最終更新日 : 2024-12-28
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第三十話

 ジンはわかっていてもそうしたのだから、相当嫌だったのだろうか。 そして、ショウさんから逃れるようにこの部屋へとやって来ていた。 ショウさんにしてみれば、またかという苦々しい気持ちだろう。裏切られたとすら思うかもしれない。 だけど、ジンが逃げ込む場所がどうしてこの部屋なのだろう。 ジンがこの部屋を気に入り、普段から頻繁に来ていることはショウさんも承知しているはずだから、決して秘密の隠れ家というわけではないと思う。 ジンの居場所を考えたとき、真っ先に疑われるのがこの部屋だろうし、本気で逃げ隠れしたいならすぐに見つかってしまうここは避けるべきなのに。「今ごろ、叱られてますかね?」「だろうね。でも、これがジンのささやかな抵抗なんだ。真っ向からショウさんに逆らうことはないジンのやり方って感じかな」 甲さんが発した言葉の意味を、私はどれくらい理解できただろう。 ジンとショウさんの深い関係性は、そんなにすぐに他人がわかるものではないのかもしれない。 考えてみたところで、私には関係のないことだ。 少し気になったから甲さんにいろいろ質問をしてしまったけれど、あのふたりにはもう会うことすらないかもしれない。 本来私とは出会っていなかった人たちなのだから、元々違う道を行く者同士だ。 それが昨夜から今朝にかけて、イレギュラーな縁が交錯しただけだと思う。「そろそろ俺、行かなきゃ。上がりこんで悪かったね」 時計に目をやり、甲さんが立ち上がる。「朝食、ありがとうございました。相馬さんに食事のことはお気遣いないようにお伝えください。私、料理はそこそこ出来るんです」 母が少しずつ調子が悪くなり始めたころから、家では私が食事の準備をしてきたから、おいしいかどうかは別として食事の準備には慣れている。 ここのキッチンに調理器具はそろっているし、自分だけの食事なら簡単なもので済ませればいいのだから楽勝だ。 甲さんが帰ってしばらくすると、私はお昼前にバイト先のカフェへ向かった。 今日は十二月二十五日でクリスマスだし、近隣に映画館があるせいか、昨日と同様に今日も店内は混んでいて若いカップル客が楽しそうに微笑みあっている。 仕事中はスマホの使用は不可のため、貴重品と共にロッカーにしまいこんだままだったから、姉からのメッセージに気がついたのは勤務を終えてスタッフルームに
last update最終更新日 : 2024-12-28
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第三十一話

 私の姿が視界から消えて、落ち着いていればいいのだけれど、また別な理由で精神が不安定になっているケースも考えられる。 おそるおそるスマホをタップして、姉からのメッセージを開けた。【由依、お母さんは元気で落ち着いているから大丈夫よ。今朝私がお味噌汁を作ったら、いつもと味が違うって軽く文句言われちゃった】 読み終えると、母が元気で良かったと思うと同時になんだか苦しくなってきて、スマホを胸の前でキュッと握った。「今朝って……朝じゃないでしょう」 周りに誰もいないのをいいことに、苦笑いしながら独り言がこぼれる。 姉の起床時間はいつもお昼ごろだし、母も調子を崩してからは朝早くに起きたりしないのを知っている。 家では私が毎日お味噌汁を作っていた。 母はその味を覚えていたから、いつもと味が違うと不満を言ったのだろう。 私がまだ中学生のころ、お味噌汁の作り方を教えてくれたのは母だった。 あのころの母はまだしっかりとしていて、料理を手伝う私に出汁の取り方や野菜の切り方など、いろいろと細かく教えてくれた。 そんな些細なことなど今の母はもう覚えていないだろう。 娘である私のことすらわからないのだから。 だけど、お味噌汁の味は舌が覚えていたのだと思ったら、とても切ない気持ちになった。 母が落ち着きを取り戻し、再び家に戻れたら、そのときはまた私がお味噌汁を作ろう。 そんなことしか、私は母にしてあげられない。「もう上がり?」 急に背後から声がかかり、私は驚いて肩が跳ね上がった。「あぁ、うん」 振り向くと、そこには怪訝そうな顔をした武田くんが立っていたのだけれど、私はシフトを無視して早上がりしたわけでもないのだから、どうしてそんな顔をされるのかわからない。「まさかと思うけど、今からデートか?」 彼氏がいないとはいえ、“まさか”という失礼極まりない発言に不貞腐れそうになる。「デートならいいけどね。今から違うバイトなんです」 口を尖らせながらも慌ててコートとマフラーを身に着ける私に、武田くんが再び眉根を寄せた。「違うバイトって、そんなのしてたっけ?」「今日一日だけのバイトを入れたの」「お前はほんと、勤労少女だな」
last update最終更新日 : 2024-12-29
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