All Chapters of それだけが、たったひとつの願い: Chapter 51 - Chapter 60

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第五十一話

 あらためて考えれば、遊びに行こうとする子供にわざわざ言う言葉ではない。 かなり不自然なのに、当時の俺は子供だから「うん」と返事をしたあと走って家の外へ飛び出した。 帰ってきたら母がいなくて、家の中をくまなく捜しても見当たらない。「母さん!……母さん!!」 何度も日本語で呼びかけたが反応がなかった。 すると、寝室にポツンと父が居て、肩を落としたまま座っていた。「母さんは日本に帰ってしまった」 父が非情にも幼い俺に真実を告げる。 このとき、離婚がなんたるものかを知らない俺は、何年か経ってようやく事の次第を理解したのだ。 母が台湾の生活に馴染めずに悩んでいたかどうかは、本人からなにも聞いていないからわからない。 当時はただ母がいなくなってしまい、さみしくて悲しくてたまらなかった。 母に会いたくて、毎日のようにメソメソと泣いていた。 元々活発ではなかった俺は、それを機にますます内向的になった。 台湾のテレビで、日本の国営放送やアニメはもちろんのこと、バラエティーや歌番組なども放送しているから、外で遊ばなくなった俺は家で日本のテレビばかり見ていた。 テレビから流れてくる日本語を自然な形で耳に入れ、脳内へ流す。 母と話していた言語だから、俺にとっては半分母国語なのでなんの違和感もなかった。 日本語に接していないと、今まで母と話した会話も、母自身のことですらも、いつか忘れてしまいそうで怖かったのだ。 無意識だが忘れたくない想いが俺の中で強かったのだろう。 必死に日本語を聞き、母と過ごした日々と母自身を記憶に残そうとしていた。「ジン、外でキャッチボールしよう!」 学校の通学以外で外に出なくなった俺を、どうにかして連れ出そうとしてくれたのは薫平だ。「……しない」「じゃあ、ミニカーで遊ぶのは? 俺が大事にしてる真っ赤なスポーツカー、ジンにやるからさ!」 年齢が一歳違いなのもあり、どんなもので遊べば俺が喜ぶかはショウくんよりも薫平のほうがよく知っていた。 薫平は持ち前の明るさや天真爛漫さを持ち合わせているから、今思えば「お前がジンの元気を取り戻してやれ」とショウくんが薫平に言っていたのだろう。
last updateLast Updated : 2025-01-05
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第五十二話

 季節は過ぎて夏になり、俺たちはそれぞれひとつずつ大人になった。 夏休みになっても俺はほとんどを家で過ごす、外では遊ばない子どものままだった。 実の兄弟がいない俺は父が仕事に出かけると家でひとりぼっちになったけれど、意外にも寂しくはなかった。 もうこのころにはひとりで過ごす術を得とくしていたのかもしれない。「ジン、カマキリ捕まえに行こう!」「え……」「去年も行っただろ。今年はもっとでっかいやつ捕まえてやるから」 家に訪ねてきた薫平が、パックのオレンジジュースのストローをチューっと吸い上げながら俺を誘う。「今から行くの?」「おう!」「……めんどくさいよ」 やる気満々の薫平についていけず、俺はすかさず首を横に振った。「めんどくさいとか、子どもが言うな!」「てんとう虫もいるかな?」「いるんじゃないか? 一緒に行こ!」 カマキリよりもてんとう虫がいいと言ってはみたが、やはり外に行くのは気乗りしなかった。「俺はいい。薫平が捕まえてきたやつ見せてよ。明日でいいから」 力なく言う俺の言葉に、薫平はにっこり笑って大きくうなずいた。「よし。ジンのためにビックリするほどでっかいカマキリつかまえるからな! てんとう虫もついでに捕まえてきてやるよ」 楽しみにしてろよ、と薫平が明るく笑って帰っていく。 それが、俺が薫平を見た最後の姿だ。 河川敷の原っぱまでは距離的に遠いわけではないけれど、明日でいいよと言っておいたから、いくら薫平が張り切っていたとしても翌日に行くものだと思っていた。 だけどあとからショウくんに聞いた話だと、俺の家から戻ってきた薫平は虫かごと網を持ち、「ジンのために、カマキリとてんとう虫を捕まえに行く!」と言い残して、すぐにまた家を出たらしい。 夏の夕方には夕立がつきものだ。 そんなことは大人ならある程度予想もつくし、空の様子も気にするけれど、虫取りに夢中な子どもは実際に雨が降るまで気にしたりしない。 きっと薫平も夢中でカマキリを探していたに違いない。 もしくは俺が興味を示したてんとう虫を探していたのだろうか。 その日の夕方、集中豪雨のような強烈な雨が降り、近くを流れる小さな川はあっという間に増水して鉄砲水のようなことが起こったらしい。 運悪く薫平はそれに流されたのだ。
last updateLast Updated : 2025-01-05
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第五十三話

 後日、薫平の葬式が執り行われても、俺はなにが起こったのかわからなかった。 なぜみんなが黒い服を着て泣いているのか、なぜ薫平がいないのか、なぜ祭壇に薫平の写真が掲げてあるのか、すべてが不思議な光景だった。「ねぇ、薫平はどこ?」 父に手を引かれて葬儀場に赴いた俺は、なにもわからないまま尋ねる。 すると父はぐっと苦しそうな表情を浮かべて、俺と視線を合わせるようにしゃがみこんだ。「薫平は、天国に行ったんだ」「天国? そこに行ったら会える?」「天国は遠いお空の上にあるんだ。生きている人間は行けないんだよ」 父はそう言って俺の頭をゆっくりと撫でた。「え……じゃあ、もう薫平には会えないの?」 虫取りをしたり、キャッチボールをしたり、ゲームをしたり、もう一緒に遊ぶことはできないのかと尋ねると、父は目を閉じて首を縦に振った。「話したり、一緒に過ごすことはもうできない。それが“死ぬ”ってことなんだ。わかるよな、ジン」「だからみんな……泣いてるんだね」 薫平の両親もショウくんも泣いていたけれど、特におばさんは壊れてしまうんじゃないかと思うくらい号泣していた。 薫平にもう会えないなんて…… そんなのは嫌だと思ったら、途端に俺の涙腺もブワっと緩んだ。「薫平は……あの子はまだ九歳だったのよ! たった九年しか生きていないのに、どうしてこんなことに!」 おばさんが棺に手をかけながら崩れるように座り込み、泣きながらそう叫んでいて、その背中をショウくんがやさしく摩っている。「母さん、俺が悪いんだ。俺が薫平を止めるか、一緒について行けばこんなことにはならなかった。だから恨むなら俺を恨んでくれ」「カマキリなんてどうでもいいじゃないの!」 ショウくんの声がまるで耳に入らないのか、おばさんは泣き崩れたままだ。 俺は家に帰ってもおばさんの言葉が頭から離れず、子ども心に自分のせいだと確信した。 俺があの時、てんとう虫もなどと言わなければよかったし、明日一緒に捕まえに行こうと薫平ときちんと約束していればよかったのだ。 俺が引きこもりのようになって、薫平を心配させたりしなければ…… ―― 全部、俺のせいだ。
last updateLast Updated : 2025-01-05
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第五十四話

 それでもショウくんは以前とまったく変わらない態度で接してくれたし、しょんぼりとする俺に「お前のせいじゃない」と励ましてもくれた。 実の弟が亡くなったのだからショウくんのほうがよほどつらかっただろうに、この時十三歳のショウくんは俺と比べたら遥かに大人だった。「俺がショウくんの弟になるよ」 突然の不幸な事故からしばらく経ったころ、俺はショウくんにそう宣言した。 決して突発的に口走ったわけではなく、八歳の俺がきちんと考えてのことだった。「俺が薫平の代わりに、弟になるから!」「……ジン」「俺がちゃんと、おばさんのことも笑顔にする」 笑い飛ばされるかと思っていたけれど、ショウくんは黙って俺の話を聞き、しばらく考え込んでから「ありがとう」と言ってくれた。 泣くのをこらえているような、笑っているような、複雑な顔をしていたショウくんが今でも忘れられない。「ただ、俺とひとつ約束してほしい。これからは母さんの前で薫平の話はしないでくれ。薫平の名前も口には出さないでほしい」 おばさんは食欲がめっきりなくなり、それまでは健康的な体型だったのに今ではかなり痩せてしまった。 薫平の名前を聞いたら事故のことを思い出して食事が取れなくなってしまうかもしれないとショウくんは心配したようで、その忠告に俺は素直にうなずいた。 それからの俺は家に引きこもるのをやめ、人が変わったように学校でも友達と積極的に交友を深め、明るくするよう努めた。 いつも頭のどこかで『薫平ならこんなときどうするだろう?』と無意識に考えていた。 今の俺の明るい性格や笑うところは、すべて薫平が手本なのだ。 ショウくんも俺が薫平を模写していることに気づいていると思う。「ほら、テストで100点取ったよ!」 なにか良いことがあると、俺は真っ先にショウくんのおばさんのところに報告に行った。 なにもなくても、ただ遊びに行っておばさんの肩を揉んだりたわいもない話をしていた。「ジン、あなたは薫平じゃないわ」 三年経ったある日、突然おばさんが冗談ではなく真面目な顔をして俺にそう言った。 性格的に様変わりした俺が薫平になりきろうとしていたことに、おばさんも前々から気づいていたのだと思う。 だけど俺は突き放されたような気持ちになった。 もう必要ないから来なくていいと告げられたような気がした。 離婚して
last updateLast Updated : 2025-01-05
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第五十六話

 兵役から戻ってきて芸能プロダクションで働いていたショウくんの耳にも、その情報はもちろんすぐに入った。「俺、大人しくしてろって言ったよな」 家にやってきたショウくんに迫力満点に説教をされた。「……ごめん。こうなると思ってなくて」「なんで自分からコンテストに出てるんだよ」「本当にごめん」 お前は全然わかっていないと、あらためて鬼の形相で怒られた。 ショウくんがよく言うのは、俺には人を惹きつけるような特別な光があるらしい。 だけど俺がそんなものを持っているだなんて、自分ではにわかに信じられなかった。 ショウくんは昔からそれに気づいていたから、自分がモデルをやるより俺を育てたいと思ったのだそうだ。 それからも様々な芸能プロダクションが専属契約をしたいと家にやって来たけれど、それにはもちろん応じなかった。 ショウくんが勤めるプロダクションと正式契約をして、そこから俺はポツポツと芸能の仕事をするようになり、現在に至っている。 顔が知られるようになった今では、台湾の街を自由に歩くのも困難で厄介な状態だ。 ショウくんが俺を芸能人にしたいと望むなら、それに従う。 どうせなら映画やドラマで主役をやれるくらいの、誰もが知る人気者になりたい。 そうなれば、天国の薫平も褒めてくれるだろうか。 日本に留学した俺は、普通に生活できることが楽しくて仕方がなかった。 仕事があるときだけ台湾に戻るスタイルならば、普段は日本で自由に羽が伸ばせる。 幸い日本語は達者だし、俺は日本で違和感なく暮らしていた。 由依と出会ったのは、そんな時だった。 なにか訳ありなのはすぐにわかったけれど、初めて会った日の由依は、相馬社長にも自分の姉にさえも気を遣いすぎているように感じた。 それを見ていると、昔の幼き日の自分と重なったのだ。 自分の父親にも、ショウくんのおじさんやおばさん、それとショウくんにも、全員に気を遣っていた俺と同じだった。 本当は余裕がなくて、胸の中は飽和状態で崩壊寸前なのにそれを吐き出すことができない。 表面上は笑うしかない彼女の痛みが、俺には手に取るようにわかった。 俺と彼女ではそうなるに至った背景は違うだろうけれど、“吐き出せない痛み”は同じだから、つらさは理解できる。 きっかけは同情心だったのかもしれないが、自分と同じ痛みを持つ由依にやさしく
last updateLast Updated : 2025-01-06
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第五十七話

 季節は過ぎて三月になったけれど、卒業式を間近に控えたこの時期になっても結局私の就職は決まらないままだった。 四月からはバイトを増やしつつ、引き続き就職活動をする予定だけれど、どうやらしばらくはフリーター決定だ。 ジンは出演した台湾のドラマが話題になり、急激に仕事のオファーが増えて忙しくなった。 もちろん全部の仕事を受けるわけではなく、ショウさんがそれを選別しているらしい。 イメージ確立のためか、テレビはバラエティー番組のオファーは断り、インタビューでのVTR出演にとどまっているのだと甲さんが教えてくれた。 そんな事情もあってジンがふらりとこのマンションに現れることはめっきり減り、ここ三週間ほどはまったく姿を見ていない。 私とジンの微妙な関係は、あれから進展はなかった。 “微妙”だと思っているのは私だけで、ジンはあの夜のキスなんてもう忘れているのかもしれない。 私も忘れて、なかったことにしてしまえば胸の中もすっきりする。 きっとあれは単なる気まぐれだったのだから気にしないでおこうと自分に言い聞かせるけれど、この厄介な感情はなかなかコントロールできない。 だから今は考えることを放棄してしまっていた。 相馬さんからこのマンションを借りることになってからというもの、私はキッチンやバスルームなどの共有スペース以外は、自分に与えられた寝室とリビングにしか足を踏み入れていない。 ほかの部屋に入ってはいけないと忠告されたわけではなく、むしろ自由に使っていいと許可をもらっていたけれど、私の中に遠慮があり、用事もないのにあちこちむやみに出入りするのはさすがにためらわれた。 だからここの間取りすら未だに詳しく知らなくて、いったい何部屋あるのだろうと、ふと疑問が浮かんだ。 ジンがいつも着替えていた奥の部屋がどうなっているのか興味はある。 服や物が散乱したままで、とんでもなくひどい状態なのではと懸念したが、業者が清掃してくれているからそれはないだろう。 だけど、本当にここはモデルルームなんだろうかと少なからず私は疑っている。 たしか相馬さんはこの部屋を売る気はないのだと言っていた。 姉や私に気を遣わせないためにモデルルームを装っただけで、本当は相馬さん個人が所有しているマンションなのかもしれない。 そんなことを考えながら思い切ってジンが使っている部屋
last updateLast Updated : 2025-01-07
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第五十八話

 夕方、カフェのバイトから戻ると意外な人物から電話があった。『今からちょっと出てこれないか?』 ショウさんからの電話だったが、直接かかってきたのは初めてで思わず全身が緊張でこわばった。 用件は以前私が依頼されていた脚本のことだった。 書き終わった段階で私はショウさん宛にメールで送っていたのだけれど、会って話がしたいと言われ、私は都心にあるポラリス・プロダクションまで足を運ぶことになった。 駅の改札をくぐり、伝えられたビルの名前を頼りにキョロキョロと探した。 普段雑踏の中をあまり歩くことがない私は、人の多さに少々酔いそうになったけれど、なんとかそのビルを見つけて中へと足を踏み入れた。 会社は少し古い十階建てのビルの六階にあり、小さなエレベーターに乗って上へと向かう。 エレベーターの扉が開いて一歩外へと踏み出すと、すぐ目の前がポラリス・プロのオフィスだった。 とりあえず私の名前を告げればいいのだろうかと戸惑ったけれど、ショウさんを訪ねてきたのだと伝えたら追い返されたりはしないはずだ。「いらっしゃい。場所すぐにわかった?」「はい。大丈夫でした」 受付の女性に伝えたあとに出迎えてくれたのは甲さんで、知っている人が出てきてくれてホッとした。 オフィスの中に入ってみると、私の頭の中で描いていたイメージとは少し違った。 すっきりとしていて洒落た空間を想像していたのだけど、デスクの数が少ないわりにごちゃごちゃと物は多くて、決して広いとは言えないスペースだった。 昔からあるような事務用のグレーのキャビネットが壁際に設置されていたり、ホワイトボードには乱雑にいろいろ書き込まれていたり、マグネットでメモが貼り付けられていたりで、至って普通の事務所だ。 その空間とは別に奥にも部屋があり、そこが相馬さんの使う社長室だそうだ。 挨拶したいと思っていたけれど、あいにく相馬さんは不在らしい。 すぐ隣にはVTRや音源などのチェックができる防音の視聴覚ルームがある。 その近くにパーテーションで仕切られたスペースがいくつかあり、テーブルと椅子のセットが設置されているその場所へ私は通された。 ショウさんとふたりで話すのは緊張するかもと心配だったけれど、どうやら甲さんも同席してくれるみたい。 癒し系な甲さんは私の緊張をほぐしてくれるので、この場に一緒にいてもらえる
last updateLast Updated : 2025-01-08
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第五十九話

 ショウさんと共にジンもここにいるのではないかと、そんな考えがよぎったが、それを口にするのはおかしい気がしてたしかめられなかった。「ショウさんにしては珍しく疲れてるみたいですね。顔色が冴えませんけど大丈夫ですか?」 甲さんがやんわりと声をかけ、それにつられる形で私もショウさんの様子を伺うと、たしかに具合が悪いまではいかないが生気がない感じがした。「数時間前まで向こうでバタバタしてたからな。頭が割れそうだ」「なにかあったんですか?」「まだ知らなかったか。ネットにももう載ってるはずだが」 ショウさんに言われ、甲さんは持っていたタブレットをあわてて起動させた。「検索しなくてもいい。ここにネタの現物がある」 甲さんの動きを止めるようにショウさんは鞄から雑誌を取り出し、フセンのついたページを広げてバサリとテーブルの上に置いた。「これって?」「台湾で一番有名な週刊誌」 私の素朴な疑問に甲さんが答えてくれたのだけれど、苦笑いを浮かべつつ身を乗り出して雑誌の内容を確認し始めた。「ジンが載っちゃってますね」「昨日それが発売になって対応に追われてる。俺の睡眠時間が削られてる原因だ」 疲れた表情を見せながらショウさんが右手で軽く頭を抱える。 たしかにその週刊誌にはジンが写っている白黒写真が大きく載っていて、詳細はわからなくとも記事として取り上げられているのだと私にも理解できた。「それにしても派手に書かれましたね。『Harry、熱愛発覚! ドラマ共演で急接近。深夜の密会激写!』だって」 甲さんが薄く笑いながら週刊誌の見出しのところを指し示してつぶやいた。「中国語がわかるんですか?」「日常会話くらいならね。台湾から輸入された雑誌に日本語訳をつけたり、そういう仕事もしてるから」 甲さんは実はすごい人だったのだ、などと今は感心している場合ではない。 記事をよく見ると、男女が並んで夜の街を歩いているような、ぼんやりとした別の白黒写真も掲載されていた。 夜だからかサングラスはふたりともしておらず、不鮮明だが顔はかろうじてわかる。 ニット帽を被っていて、いつもと少し雰囲気は違うけれど写っている男性はジンだ。 これはいわゆる“スキャンダル写真”で、私は目にした瞬間に自分でもわかるくらい顔が引きつった。「この女の子、前にドラマで共演した女優ですね」「あ
last updateLast Updated : 2025-01-09
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第六十話

 手は繋いでいないけれど、ジンに向かって女性が話しかけているような写真の角度がふたりの親密さをうかがわせている。 私は笑顔など到底作れなくて、胸にズキンと大きく痛みが走り、それと同時に激しく動悸がした。「スキャンダルには気を付けろってあれほど言ってきたのに」「相手も急成長株の若手女優ですから、そりゃ騒がれますよね」 何日か前にジンが出演したというドラマを甲さんに見せてもらった。 全部ではなくジンが出演したシーンのみだったけれど、役どころとしては主人公のヒロインが昔から憧れていた高校時代の先輩で、ヒロインをめぐってヒーローと対峙する場面が多かった。 ヒロインの女優は小さな口元がかわいらしく、弾けるような笑顔がとても魅力的な人だった。 その女優とジンが“熱愛”なのかと考えたら、膝の上に置いていた手の指先が震えた。 自分の中では好きかどうかもわからない、まだ気持ちが確定してないのだと思っていた。 だけどまったく恋愛感情がないのだとしたら、この多大なるダメージの説明がつかない。 私の気持ちはとっくに決まっていたのだ。 失って初めて気づく、なんてよく言うけれど、好きな人がほかの女性と親密になってからでは傷が深くてつらい。それでも私はジンが好きだ。「そこでだが、由依の力を借りたい」 自分の名前が突然耳に入ってきて、驚いて伏せていた顔を上げると真剣な顔をしたショウさんと視線がぶつかった。「向こうに親しくしているテレビプロデューサーがいる。その人にお前の脚本でジンが主役のドラマ制作を売り込むつもりだ。もちろん、あの脚本はまだまだ直してもらわなきゃいけないが」「え、 私の脚本をですか?」「短いストーリーだがよく出来ていた。お前の作るものは構成がうまい。スペシャルドラマの枠で、と提案すれば検討してもらえるはずだ。当然まだ本決まりじゃないが、話を進めても構わないか?」 私が驚いて呆然としているのをよそに、ショウさんの説明は淡々と続いた。 なにが起きているのかこの世界に疎い私には先など読めないけれど、真面目なショウさんのことだから先に私に話を通しておきたかったのだろう。「こんなスキャンダルなんか吹っ飛ぶくらいのドラマにしたい」 それは決してショウさん自身のためでも私のためでもなくて、すべてはジンのためなのだ、というふうに聞こえた。「スマッシュヒッ
last updateLast Updated : 2025-01-09
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第六十一話

 視線が合ったのはジンで、私を見てあわてるようにこちらに近づいて来る。 いつから事務所にいたのだろうか。 というより私が来たときにはいなかったと思ったけれど、どこにいたのだろう。「由依が来てるなら俺に言ってくれよ」 ジンは私たちが座っているスペースへ駆け寄り、いきなりショウさんに向かって文句を並べた。「なんでいちいち知らせなきゃいけないんだよ。お前の恋人じゃないだろう?」「……」 ショウさんの反論に対してなにか言い返したそうだったけれど、ジンはそのまま口をつぐんだ。「あちこちで女を追いかけるなよ。いつからそんなに軽くなったんだ。尻ぬぐいをするのは俺だぞ」「あちこちでって人聞きわる……」 ジンが途中で言葉を詰まらせ、勢いが完全に止まってしまった。 理由はテーブルの上にバサリと置かれたままの台湾の週刊誌に目を止めたからだった。「だから、これはロケの合間にコンビニに行こうとしたらついて来られたんだ」「夜中にふたりでこっそり出かけてるだけで十分親密だろ!」 だんだんとヒートアップしてきたところで「ふたりともストップ」と甲さんがいつもの柔らかい笑みで止めに入る。 ジンがショウさんに対してここまで荒っぽい物言いをするなんて、珍しい光景ではないだろうか。 以前はなにを言われてもサラリとかわして、暖簾に腕押しだったのに。 久しぶりに会ったジンの顔は、少し痩せたせいかやつれたようにも見える。 精神的疲労が溜まって、決して逆らわないはずの相手であるショウさんにもイライラとした態度を取ってしまっているのかもしれない。「台湾に戻ったら、由依が書いた脚本のドラマの話をプロデューサーと進めるから」「うん。でも、キスシーンは嫌だからNGで」 ショウさんはギュッと眉間にシワを寄せ、脇につっ立ったまま言い放ったジンにわかりやすくイラつきや怒りの色を含ませて再び視線を向けた。「そんなことできるわけないだろ!」「なんで?」「恋愛ドラマだぞ。キスシーンはつきものだ!」 椅子に座ったままショウさんがギロリとジンを睨みあげる。 その迫力に押されたのか、ジンはグッと歯を食いしばるような表情で黙り込んだ。 今すぐにでも言い争いから殴り合いにまで発展しそうな感じで、あきらかに空気が悪い。「ジンはなんでキスシーンが嫌なの?」 再び割って入るように甲さんがやさ
last updateLast Updated : 2025-01-10
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