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それだけが、たったひとつの願い のすべてのチャプター: チャプター 31 - チャプター 40

79 チャプター

第三十二話

 二十二歳の女に向かって、“少女”だなどと言うのは武田くんくらいのものだ。 彼の中では、私はずっと出会ったころの高校生のままなのだろう。「今日こそ一緒に飯でも、って思ったのに」「ごめんね、武田くん。また今度」「お前……大丈夫か?」 バッグを肩に引っ掛け、軽く手を振って立ち去ろうとしたそのとき、武田くんに呼び止められてピタリと足を止めた。「大丈夫って、なにが?」「なにか悩み事があるんなら、遠慮せずに俺に言えよ」 その言葉を聞いた途端、私は周りの人たちに知らず知らずのうちに憂いを秘めた顔を見せてしまっていたのかもしれないと気がついた。 武田くんの心配そうな瞳を目にしてそれを確信する。「ありがとう。もし悩み事ができたら話すね」 私は無理ににっこりと笑って誤魔化し、バイト先をあとにした。 街を吹き抜ける風が昨日よりも冷たい。 武田くんに対して申し訳ない気持ちと感謝の気持ちが心の中でマーブル模様を描く。 いつか、もう少し私の心に余裕ができたら、母のことを武田くんにも話せる日がくるかもしれない。「じゃあ、これに着替えてください」 今日一日だけやることにした臨時のバイト先で、私は衣装を渡され、唖然としてそれを手に取りまじまじと見つめた。「寒いけどコートは着ないでね。せっかくの可愛い衣装が隠れてしまうから」 ごめんね、と苦笑いで店長の男性は控室をあとにした。 とりあえず渡された衣装に袖を通していく。 こういうものを着ると事前に聞かされていたけれど、私が想像したものと少し違った。「なんか、スカートが短い」 自分の姿を鏡と目視でチェックしながらポツリと独り言が漏れる。 かなり太ももがあらわになったこの格好で、私はこれから外に行かなくてはいけないのだ。 今日だけの臨時バイトとは、洋菓子店の店頭でクリスマスケーキを売る仕事で、たまたま募集を見つけた私はたった一日だけならと応募したのだ。 暗くなり始める夕方からなので、時給もかなり良かった。 臨時で設置された簡易テーブルにずらりと並べられたクリスマスケーキを、待ち行く人を呼び込んで買ってもらう。
last update最終更新日 : 2024-12-29
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第三十三話

 今日は二十五日なので明日に持ち越すわけにいかず、ひとつでも多く売らなければいけないのだ。「クリスマスケーキ販売中です!」 店長から渡された衣装というのが女子用のサンタのコスチュームで、かわいいを通り越したセクシー路線だった。 上は長袖で普通だったけれど下のスカートがかなりミニ丈で、ストッキングをはいてるとはいえ、太ももが冷たい風にさらされて感覚がすでに麻痺しかけている。 日が落ちるとさらに気温が降下して、気を抜くとブルッと身体が震えてしまいそうになるけれど、笑顔を絶やしてはいけないから気合で踏ん張っていた。「かわいいサンタの格好だね」「ケーキ、おひとついかがですか?」 声をかけてくれたのは仕事帰りのサラリーマンの中年男性で、私は懸命に笑顔を振りまいた。「寒い中そんな格好でがんばっているんだから、ひとつ協力しようかな」「ありがとうございます!」 売り始めの最初のころは女性客が多かったけれど、時間が経つにつれて客層が徐々に変わっていった。今みたいに男性客が足を止めてくれるのだ。「大変だね。今日は寒いのに」 店側は色気を武器にひとつでも多く売上をと、考えていたのかもしれないけれど、実際は娘くらいの年齢の子が寒い中がんばっている姿に同情して買ってくれる、といった感じだった。 たしかに今日は風がとても冷たい。 なのに私はこの寒空の下、コートも羽織らず何時間も外にいて、このバイトがかなり過酷なものだと思い知らされた。 ふと空を見上げると、小さくて白い雪がかすかに降ってきていた。 時計で時間を確認すると、バイト終了まであと1時間だから耐えるしかない。 二十時を過ぎ、バイトから解放された私は新しい住処となったマンションへと帰宅した。「ただいま」 誰もいない真っ暗な部屋の明かりをつけ、広いリビングをあらためて見回してみる。 こんな豪華なマンションで、私はひとり暮らしを始めたのだ。 ポジティブに考えてみたら、したいと思ってもできない夢みたいな生活ではないか。 凍えながらあれこれ考え、暖房のスイッチを最大で入れる。 冷え切った体には温かい飲み物だろうか。 いや、それよりも熱いお湯の湯船に浸かるほうがいい。 バスルームへ赴くと、昨日使用した脱衣所のタオルはすべてなくなっていて、代わりに新しいタオルが積まれていた。
last update最終更新日 : 2024-12-29
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第三十四話

 湯船や排水溝、鏡まできちんと綺麗に磨かれている。 私のいない間に、家事代行サービスの方が掃除をしてくれたのだ。 あとはお湯を張るだけでお風呂に入れるのだから、なんとありがたいのだろう。 ゆったりと湯船に浸かりながら、そう言えば晩御飯がまだだったとぼんやりと頭に浮かんだが、寒さのせいか心労のせいか食欲はあまりない。 今日はさすがに働きすぎただろうか。 先ほどのケーキ店で残ったクリスマスケーキをいただいたから、それを食べればお腹は十分満たされるだろう。 二日続けてのケーキだし、しかも今日は晩御飯代わりだから、いささか不健康なのはわかっている。 糖分の摂りすぎで太るかもしれない。 だけどお風呂上りにコンビニに行くのは、身体を冷やしたくないから嫌だ。 湯船でぼうっとしていると眠くなってきて、このままだと意識を失いかねないと身の危険を感じてお風呂から上がった。 ルームウェアを身に纏い、頭からタオルをかぶって素早く髪を拭く。 バスルームの中もそうだったけれど、脱衣所に据え付けられている鏡もひと際大きくて、それだけですごく高級感があふれている。 ゆっくりとした足取りでリビングに戻った瞬間、驚きすぎて心臓が止まるかと思った。「え! なんで?」 リビングのソファーにくつろいでいるジンの姿を目にし、思わず大きな声を出してしまった。「いつ来たの?」 そう尋ねてしまったけれど、私がお風呂に入っている間に違いない。 玄関のチャイムは鳴らなかったはずだが、よく考えたらジンはこの部屋の鍵を持っているのだから、事実上出入り自由ということになる。 私が間借りしているとはいえ、油断すれば今みたいに驚くはめになるのだ。「さっき来た。呼んだけどいないし、シャワーの音がしたから」 私は唖然としたけれど、ジンはといえば昨日と同じで自宅にいるようにのんびりと構えている。「安心しろよ。覗いてないから」「当たり前でしょ!」「あはは」 そんな突然の冗談にあわてる私を見て、ジンは綺麗な顔を崩して思いきり笑っていたが、私はあきれて溜め息が出た。「ここに来て……大丈夫なの?」
last update最終更新日 : 2024-12-29
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第三十五話

「なにが?」「ショウさん。今朝すごく怒ってたでしょ」 ショウさんはもうここには来ないようにジンに忠告しているはずなのに、またすぐに戻ってくるとは。 いったいなにを考えているのだろう。 ショウさんをわざと怒らせたいとしか思えない行動だ。「怒ってたけど、喧嘩にはなってないから大丈夫。俺たち一度も喧嘩したことはないんだ」 一瞬どういう意味なのかわからなかったけれど、今朝のも、喧嘩ではないと言われればたしかにそうかもしれない。 喧嘩というのは互いに自分の言い分を主張して争うことだが、今朝ショウさんは怒っていたけれど一方的で、ジンはそれをおとなしく黙って聞いているだけだった。だから、正確には喧嘩ではないのだ。「ここに来てるってわかったら、またショウさんに怒られるよ」「それは仕方ない。昨日とは違うケーキが食べられそうだし。俺、あの店のケーキもわりと気に入ってるんだ」「……は?」 なにが仕方ないのか。しかもそのあとの言葉も意味不明で、私は時間差で首をかしげた。「由依、早くそれを食おう」 ジンが意味ありげな笑みを浮かべ、私の後ろ方向を指さした。 キッチン脇のダイニングテーブルには、バイト先でもらったケーキの箱が置いてあった。 私が帰って来て真っ先に冷蔵庫にきっちりしまっておいたのだが、ジンがそれを発見して取り出したのだろう。「美味そうなチョコレートケーキだよな」「中身まで見たの?」「それ目当てで来たんだから」 言葉の意味が理解できないでいると、ジンが立ち上がってこちらに近づいて来た。「売れ残ったケーキ、絶対持って帰ってくると思った」 ジンはスマホを素早く操作すると、ニコリと笑って私の目の前に画面を見せつける。「お宝画像もゲット」 スマホの画面にはジンが撮ったと思われる写真が映し出されていたのだけど、私は驚きすぎて固まってしまった。「かわいい。これ、私服?」「そんなわけないでしょ! いつの間に撮ったの?」「たまたま通りかかったときに」
last update最終更新日 : 2024-12-30
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第三十六話

 それは数時間前の私の姿だった。 ミニスカサンタの格好で、寒そうにしながらケーキを売っているところを撮られていたのだ。 誰にも見られたくなかった。 たまたま通りかかったとしても見て見ぬ振りをしてくれたらよかったのに、私だと気づいた上で、写真だけ撮っていくなんて信じられない。「バイトって、カフェじゃなかったっけ?」「それは今日だけのバイト」 実は帰り際、バレンタインの時期にもバイトをしないかと店長に誘われた。 今日みたいに外の店頭でチョコ菓子やフィナンシェなどを売るらしい。 もちろんそのときはサンタではないけれど、バレンタインもかわいいコスチュームなのだそうだ。 だけど今日より二月のほうが寒いに決まっている。 寒いとつらいので、と店長にやんわりと断ったのだけれど、今度は時給をもっとアップするからと交渉され、結局そのバイトも受けてしまったのだ。 時給がいいのだから仕方がない。 できるだけ生活費が欲しい私にとっては、背に腹は代えられないから。「へぇ、今日だけなんだ」「その写真、今すぐ消して!」「それは無理」 ジンの手からスマホを奪おうとしたけれど、頭の上にスマホを掲げられたら私がピョンピョン跳ねたところで背の高いジンの手元には届かない。「からかわないでよ」「からかってないけど、このバイトの件、由依の姉さんや社長は知ってる?」 ジンがつぶやくように言ったそのひと言でうろたえてしまって、跳ねていた私の足が止まった。「やっぱり知らないのか」 私は無言でうつむいて、キュッと唇をかみしめた。 姉が良い顔をするわけがないとわかってるから、報告はしていなかった。 私のバイトのことについて姉は以前から口を挟んできていたのだけれど、自分が夜の世界に身を置いているせいか、同じようなバイトは私にはしてほしくないようだ。 イベントコンパニオンなど、露出の高い格好のバイトは姉からNGが出ている。 姉の気持ちは理解できるので、私はずっと言いつけを守っていた。 今日のケーキ店でのバイトは、私の中ではセーフだったけれど、あのミニスカサンタ姿は私も想定外だった。姉の基準からするときっとアウトだ。
last update最終更新日 : 2024-12-30
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第三十七話

「別にお姉ちゃんに知られても構わないわよ。今日だけのバイトだったし、終わったあとだから」 私が精一杯強がってみせると、ジンは私と視線を合わせるように顔を覗き込んできた。「由依は姉さんにかなり気を遣ってるよな。心配かけたくない、とか」 ジンの透き通った瞳は、なにもかも見抜いていそうだった。 今ジンが口にした言葉も核心をついている。「もし俺が社長に言ったら、社長から姉さんに絶対伝わるだろ? そしたら終わったバイトだとしてもふたりとも心配して連絡してくるだろうな。うちの社長なんか、カネに困ってるんだったらって、自分の財布からそれなりの現金を出して……」「やめて」 ジンが口にした勝手な妄想は私の心を震わせるには十分だった。 いや、ジンがもし相馬さんに話してしまったら今のは想定内の話で、妄想などとは決して言えないだろう。「黙っててやろうか?」 ジンの端正な顔がニヤリとゆがみ、私はその言葉に悔しさを覚えながらもコクリとうなずいた。「その代わり俺の頼みも聞いてもらわなきゃな。交換条件」 こちらが完全に不利なのに、交換条件とはおかしな話だ。 どんな条件を突き付けられるのだろうと思わず体に力が入るが、到底受け入れられない内容ならば拒否すればいい。私にもまだその選択の余地は残されている。「大したことじゃないよ。俺がここに来ても、社長やほかの誰かに告げ口しないでほしいだけ」 どうやら、お互いに告げ口はなし、ということが交換条件のようだ。「あと、俺が今までどおりここに自由に出入りするのを承諾すること」「……わかった」「交渉成立」 ジンのプライベート空間に侵入しているのは私のほうなのだから、ここからジンを追い出すのは少なからず罪悪感があった。 だから今の提案には、素直に了承したのだ。 そうは言っても、毎日来たり泊まったりするわけではないだろう。「安心しろよ。年末は仕事が入ってて、明日からしばらくは来ないから」「仕事って、台湾で?」 私が台湾というワードを出したので、ジンはいささか驚きの表情を浮かべた。「なんで知ってんの?」「甲さんから聞いた」「甲くんって意外とおしゃべりなんだな」 話されたくなかったのだろうか。 甲さんの態度や口調からして、ジンから口止めされていたとは思えないけれど、ジンにとっては知られたくなかったのかもしれない。
last update最終更新日 : 2024-12-30
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第三十八話

「話変わるけど、これは由依が書いたのか?」 ケーキを切り分け、紅茶を淹れていた私に、ジンが不意に話しかけてきた。 なんのことだろうかと視線をジンのほうへ向けた途端、焦って熱い紅茶をこぼしそうになってしまう。「なんでそれを持ってるの!」「来たときに由依がリビングにいなかったから、向こうの部屋かなと思って覗いたら机にこれが置いてあった」 ジンが薄い冊子を片手でヒラヒラとさせながら私に笑いかけているが、他人の私物を勝手に持ち出したのだから、少しは悪びれてもらいたい。「面白い話だな」「読んだの?!」「で、これは何の台本?」 ジンの手元からそれを奪おうと思ったけれど、先ほどのスマホの二の舞だ。 無理に奪えるわけがないとわかりつつドタバタと跳ねていたら、片手で腰を掴まれる形でジンに捕まって……そのまま軽く引き寄せられた。 その彼の行動に、一瞬で心臓がドクンと跳ね上がる。 身体が密着している……そう思うと、緊張と羞恥と混乱で顔の温度が急上昇した。「俺の質問に答えてよ」「それは、昔私が書いた舞台の脚本」「舞台?」「高校の演劇部の。後輩に頼まれたの」 昔から私には物語を妄想する趣向があった。 頭の中で思い描く世界は、自分の思うがままで自由だ。 空も飛べるし、魔法だって使える、タイムリープだって。 どんな場面を思い浮かべても誰にも迷惑をかけないし際限がない。それが楽しかった。 昔から本を読むのも好きだった。 だけどそのうち、私なら結末はこうするのに、などと考えるようになっていき、自分で一から話を作って少しずつ書き留めるようになった。 高校時代、演劇部にいた友人に物語の執筆が趣味だと話したら、演劇部の舞台脚本を書いてほしいと依頼されたのだ。 そんなきっかけから始まってもう数年が経つけれど、私が高校を卒業した今も演劇部の後輩から脚本を頼まれて年に数回は書いて渡している。 自分の脚本の舞台を観に行くのも楽しみだし、創作は今ではお金のかかならい一番の趣味だ。「この、まぬけなキャラがいい味を出してるよ」 昔書いたその脚本は窃盗団の話で、ひとりの仲間のドジな行動によって本来の計画がうまくいかず、予定変更を余儀なくされるという、そんなドタバタストーリーだ。 次回の脚本の参考にするために昔書いたものを引っ張り出したのはいいけれど、トートバッグに
last update最終更新日 : 2024-12-31
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第三十九話

◇◇◇ あっという間に年があけて新年になり、お正月といってももう三日目になった。 クリスマスの後、台湾に戻って仕事をすると言っていたジンはしばらくここには来なかったものの、大みそかの夕方に再びふらりと姿を見せ、そのままずっと寝泊まりしている。 新年になった瞬間、私とジンはこのリビングで一緒だった。 知らなかったのだけれど、台湾のお正月といえば旧正月なのだそうだが、近年はカウントダウンを楽しむ若者が増えているらしい。「由依、おかわり欲しい」「お餅は?」「もうひとつ食べる」 ずいっとお椀を出され、私はあきれるように笑ってそれを受け取った。 年末に食材を買ってきて、少しはお正月らしくしようと昨日簡単なお雑煮を作った。 ジンに「食べる?」と聞いてみたところ、目を輝かせてよろこんでいた。 今朝になってもまだ残りを食べると言い出し、今現在おかわりまでしようとしている。「ずいぶんお雑煮が気に入ったのね。珍しいとか?」「珍しいというより懐かしい。昔、母さんが作ってた雑煮もこんな感じだった気がする。汁が透明で、餅が入ってたな」 そうか、ジンのお母さんは日本人だった。 もう十年以上前のことだけれど、お母さんはお正月には日本式のお雑煮を家族にふるまっていて、ジンはその味をかすかに記憶しているのだろう。「ところで家に帰らなくていいの?」 不意にそう尋ねると、ジンは笑って私と視線を合わせた。「家に帰る必要性がよくわからない。ショウくんはまだ日本に帰って来てないし、家にひとりでいてもつまらないから」 年末にジンとショウさんは一緒に台湾に戻って仕事をし、それを終えるとジンは日本に戻ってきたけれど、ショウさんはその後も大みそかまで別の仕事だったらしく、お正月もそのままあちらで過ごしているのだそうだ。 仕事は休みだし、お正月だから自由にしていいとショウさんから許可が出ているらしい。 もちろん、派手に遊んだり問題を引き起こさなければ、という条件付きだそうだが、お正月でなければ普段はその許可はおりないのだろうかと想像すると、どんな生活をしているのか少々心配になってくる。 兄のように慕うマネージャーからの派手に遊ぶなという釘を刺す言葉も、信頼されていないように感じた。
last update最終更新日 : 2024-12-31
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第四十話

 当の本人であるジンは繁華街で遊んだりする気持ちは全然ないらしいが、羽を伸ばしてお正月気分を満喫するつもりのようだ。「由依は姉さんから連絡ないのか?」 その問いかけに私は肩を落としてうなずいた。 大みそかの夜、母や姉や私の身に起こったことをジンにかいつまんで話した。 ジンはただ黙って聞くだけだったけれど、なにか気の利いたことを言ってほしいわけではなかったからそれでよかった。「足りない服とか、荷物を取りに行きたいんだけどね」 ボストンバッグひとつの荷物ではさすがに衣類が足りなくて、どうしても必要なものは買い足したのだけれど、もうしばらくここで生活するのなら家から持ってきておきたい。 だけど母が私の顔を見てまた暴れだしたら大変だから、勝手に家に出入りはできない。 姉とは二十五日に届いたメッセージを最後に連絡が途絶えていて、荷物を取りに行きたい旨をこちらから連絡しても既読はつくが返事は来ない。 姉も忙しいのだろうと、連絡が来るのを待っている状態だ。「由依、初詣に行こう。人が多い場所は嫌だから小さな神社で。俺、おみくじ引きたい。そのあと、服を買いに行こう。正月セールをやってるだろ?」「買う余裕なんてないよ。もったいない」「でも必要じゃないか。カネなら俺が持ってるから大丈夫だよ」 たしかに服は必要だけれど、そんな贅沢が許されるのだろうかと躊躇する自分がいる。「ジンに買ってもらう理由なんかないもん」「別に深い意味はないし、気に入ったものがあれば買えばいいだけなんだから」 なんだかそんなふうにうまく丸め込まれてしまった。 ジンの醸し出す空気と爽やかな笑顔は、まるで魔法のように私を溶かす。 晴れ渡った寒空の中、私たちは一番近くにある小さな神社に足を運んだが、それでもお正月だから参拝者で混雑していた。 ていねいにお参りをしたあと、ジンがうれしそうにおみくじの場所へと私の手を引いて歩いていく。「俺、絶対に“大吉”だぞ」 予言者でもないのに、引く前から自信満々なジンがおかしくて笑いがこみあげた。 それにしても、ダークブラウンのダウンコートに身を包み、白のマフラーを首に巻くジンはカッコよすぎて目立ってしまっている。 周りにいる男性とは格段の差で光り輝いているから、こんなに人がたくさんいる中でも先ほどから若い女性の視線を浴びている。
last update最終更新日 : 2024-12-31
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第四十一話

「由依はなにが出た?」 引いたおみくじを眺めていたら、斜め上からジンが覗き込んできた。「……末吉」「うわ、微妙」 ジンは苦笑いするけれど、私はいつだって運がないからおみくじを引いても大吉なんて滅多に出ない。「ジンは?」 おもむろにジンの手元に目をやると、彼は私に向かって自分のおみくじを差し出した。「だから言ったろ?」 どうだ、とばかりに見せられたそれには、紛れもなく“大吉”と書かれてある。 彼は予言どおり本当に引き当てたのだ。「すごいね!」「俺はいつも、大吉来いって念じたら絶対に引くんだよ」 私なんて、今日の末吉はまだいいほうで、たまに“凶”を引くことだってあるのに。 ジンはなんという強運の持ち主なのだろう。「その末吉は、あの木に結ぼう」「うん。そうする」 末吉のおみくじの内容は、今は争いごとなど難が続くが焦らず待てば運は開けるので、人のために尽くしなさい、と書かれてあった。 しかとそれを受け止め、早く今の状況が変わりますように、と祈りを込めて私はそのおみくじを神社の木に結び付けた。 ジンの元へ戻ると、なぜか彼が自分のおみくじを私に手渡す。「由依にあげる。俺はいつでも大吉を引けるから」「これはジンのおみくじだから、私がもらっても仕方ないよ」 人が引いたおみくじを貰っても、ご利益などないだろう。 その大吉はジンが持っていてこそ意味があると思う。「いいから受け取れよ。由依に少しは幸運をもたらすかもしれないだろ」 そう言って笑みを向け、大きな手で頭をポンポンとされると、ジンの優しさにぐらりときてしまいそうになる。「ほら。はぐれたら大変だ」 神社の参道の帰り道で、ジンがおもむろに手をつないできた。 人波の中ではぐれないためだったのに、ジンの手は表通りに出たあとも離れることはなかった。 ショッピングモールに向かう道中もずっと手が繋がれたままだったので、自然と胸がドキドキと高鳴った。 私にこんなにも素敵な彼氏ができたとうっかり勘違いしそうになってしまう。 モールの中は家族連れで人がたくさんいたけれど、私はジンといつの間にか楽しく笑顔で買い物をしていた。 あれこれ私に服を試着させようとするジンと自然な形で会話がはずんで、その空気感が心地よかった。 こんなにもウキウキとした気持ちで洋服を選んだのはいつぶりだろうか。
last update最終更新日 : 2025-01-01
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