「話変わるけど、これは由依が書いたのか?」 ケーキを切り分け、紅茶を淹れていた私に、ジンが不意に話しかけてきた。 なんのことだろうかと視線をジンのほうへ向けた途端、焦って熱い紅茶をこぼしそうになってしまう。「なんでそれを持ってるの!」「来たときに由依がリビングにいなかったから、向こうの部屋かなと思って覗いたら机にこれが置いてあった」 ジンが薄い冊子を片手でヒラヒラとさせながら私に笑いかけているが、他人の私物を勝手に持ち出したのだから、少しは悪びれてもらいたい。「面白い話だな」「読んだの?!」「で、これは何の台本?」 ジンの手元からそれを奪おうと思ったけれど、先ほどのスマホの二の舞だ。 無理に奪えるわけがないとわかりつつドタバタと跳ねていたら、片手で腰を掴まれる形でジンに捕まって……そのまま軽く引き寄せられた。 その彼の行動に、一瞬で心臓がドクンと跳ね上がる。 身体が密着している……そう思うと、緊張と羞恥と混乱で顔の温度が急上昇した。「俺の質問に答えてよ」「それは、昔私が書いた舞台の脚本」「舞台?」「高校の演劇部の。後輩に頼まれたの」 昔から私には物語を妄想する趣向があった。 頭の中で思い描く世界は、自分の思うがままで自由だ。 空も飛べるし、魔法だって使える、タイムリープだって。 どんな場面を思い浮かべても誰にも迷惑をかけないし際限がない。それが楽しかった。 昔から本を読むのも好きだった。 だけどそのうち、私なら結末はこうするのに、などと考えるようになっていき、自分で一から話を作って少しずつ書き留めるようになった。 高校時代、演劇部にいた友人に物語の執筆が趣味だと話したら、演劇部の舞台脚本を書いてほしいと依頼されたのだ。 そんなきっかけから始まってもう数年が経つけれど、私が高校を卒業した今も演劇部の後輩から脚本を頼まれて年に数回は書いて渡している。 自分の脚本の舞台を観に行くのも楽しみだし、創作は今ではお金のかかならい一番の趣味だ。「この、まぬけなキャラがいい味を出してるよ」 昔書いたその脚本は窃盗団の話で、ひとりの仲間のドジな行動によって本来の計画がうまくいかず、予定変更を余儀なくされるという、そんなドタバタストーリーだ。 次回の脚本の参考にするために昔書いたものを引っ張り出したのはいいけれど、トートバッグに
◇◇◇ あっという間に年があけて新年になり、お正月といってももう三日目になった。 クリスマスの後、台湾に戻って仕事をすると言っていたジンはしばらくここには来なかったものの、大みそかの夕方に再びふらりと姿を見せ、そのままずっと寝泊まりしている。 新年になった瞬間、私とジンはこのリビングで一緒だった。 知らなかったのだけれど、台湾のお正月といえば旧正月なのだそうだが、近年はカウントダウンを楽しむ若者が増えているらしい。「由依、おかわり欲しい」「お餅は?」「もうひとつ食べる」 ずいっとお椀を出され、私はあきれるように笑ってそれを受け取った。 年末に食材を買ってきて、少しはお正月らしくしようと昨日簡単なお雑煮を作った。 ジンに「食べる?」と聞いてみたところ、目を輝かせてよろこんでいた。 今朝になってもまだ残りを食べると言い出し、今現在おかわりまでしようとしている。「ずいぶんお雑煮が気に入ったのね。珍しいとか?」「珍しいというより懐かしい。昔、母さんが作ってた雑煮もこんな感じだった気がする。汁が透明で、餅が入ってたな」 そうか、ジンのお母さんは日本人だった。 もう十年以上前のことだけれど、お母さんはお正月には日本式のお雑煮を家族にふるまっていて、ジンはその味をかすかに記憶しているのだろう。「ところで家に帰らなくていいの?」 不意にそう尋ねると、ジンは笑って私と視線を合わせた。「家に帰る必要性がよくわからない。ショウくんはまだ日本に帰って来てないし、家にひとりでいてもつまらないから」 年末にジンとショウさんは一緒に台湾に戻って仕事をし、それを終えるとジンは日本に戻ってきたけれど、ショウさんはその後も大みそかまで別の仕事だったらしく、お正月もそのままあちらで過ごしているのだそうだ。 仕事は休みだし、お正月だから自由にしていいとショウさんから許可が出ているらしい。 もちろん、派手に遊んだり問題を引き起こさなければ、という条件付きだそうだが、お正月でなければ普段はその許可はおりないのだろうかと想像すると、どんな生活をしているのか少々心配になってくる。 兄のように慕うマネージャーからの派手に遊ぶなという釘を刺す言葉も、信頼されていないように感じた。
当の本人であるジンは繁華街で遊んだりする気持ちは全然ないらしいが、羽を伸ばしてお正月気分を満喫するつもりのようだ。「由依は姉さんから連絡ないのか?」 その問いかけに私は肩を落としてうなずいた。 大みそかの夜、母や姉や私の身に起こったことをジンにかいつまんで話した。 ジンはただ黙って聞くだけだったけれど、なにか気の利いたことを言ってほしいわけではなかったからそれでよかった。「足りない服とか、荷物を取りに行きたいんだけどね」 ボストンバッグひとつの荷物ではさすがに衣類が足りなくて、どうしても必要なものは買い足したのだけれど、もうしばらくここで生活するのなら家から持ってきておきたい。 だけど母が私の顔を見てまた暴れだしたら大変だから、勝手に家に出入りはできない。 姉とは二十五日に届いたメッセージを最後に連絡が途絶えていて、荷物を取りに行きたい旨をこちらから連絡しても既読はつくが返事は来ない。 姉も忙しいのだろうと、連絡が来るのを待っている状態だ。「由依、初詣に行こう。人が多い場所は嫌だから小さな神社で。俺、おみくじ引きたい。そのあと、服を買いに行こう。正月セールをやってるだろ?」「買う余裕なんてないよ。もったいない」「でも必要じゃないか。カネなら俺が持ってるから大丈夫だよ」 たしかに服は必要だけれど、そんな贅沢が許されるのだろうかと躊躇する自分がいる。「ジンに買ってもらう理由なんかないもん」「別に深い意味はないし、気に入ったものがあれば買えばいいだけなんだから」 なんだかそんなふうにうまく丸め込まれてしまった。 ジンの醸し出す空気と爽やかな笑顔は、まるで魔法のように私を溶かす。 晴れ渡った寒空の中、私たちは一番近くにある小さな神社に足を運んだが、それでもお正月だから参拝者で混雑していた。 ていねいにお参りをしたあと、ジンがうれしそうにおみくじの場所へと私の手を引いて歩いていく。「俺、絶対に“大吉”だぞ」 予言者でもないのに、引く前から自信満々なジンがおかしくて笑いがこみあげた。 それにしても、ダークブラウンのダウンコートに身を包み、白のマフラーを首に巻くジンはカッコよすぎて目立ってしまっている。 周りにいる男性とは格段の差で光り輝いているから、こんなに人がたくさんいる中でも先ほどから若い女性の視線を浴びている。
「由依はなにが出た?」 引いたおみくじを眺めていたら、斜め上からジンが覗き込んできた。「……末吉」「うわ、微妙」 ジンは苦笑いするけれど、私はいつだって運がないからおみくじを引いても大吉なんて滅多に出ない。「ジンは?」 おもむろにジンの手元に目をやると、彼は私に向かって自分のおみくじを差し出した。「だから言ったろ?」 どうだ、とばかりに見せられたそれには、紛れもなく“大吉”と書かれてある。 彼は予言どおり本当に引き当てたのだ。「すごいね!」「俺はいつも、大吉来いって念じたら絶対に引くんだよ」 私なんて、今日の末吉はまだいいほうで、たまに“凶”を引くことだってあるのに。 ジンはなんという強運の持ち主なのだろう。「その末吉は、あの木に結ぼう」「うん。そうする」 末吉のおみくじの内容は、今は争いごとなど難が続くが焦らず待てば運は開けるので、人のために尽くしなさい、と書かれてあった。 しかとそれを受け止め、早く今の状況が変わりますように、と祈りを込めて私はそのおみくじを神社の木に結び付けた。 ジンの元へ戻ると、なぜか彼が自分のおみくじを私に手渡す。「由依にあげる。俺はいつでも大吉を引けるから」「これはジンのおみくじだから、私がもらっても仕方ないよ」 人が引いたおみくじを貰っても、ご利益などないだろう。 その大吉はジンが持っていてこそ意味があると思う。「いいから受け取れよ。由依に少しは幸運をもたらすかもしれないだろ」 そう言って笑みを向け、大きな手で頭をポンポンとされると、ジンの優しさにぐらりときてしまいそうになる。「ほら。はぐれたら大変だ」 神社の参道の帰り道で、ジンがおもむろに手をつないできた。 人波の中ではぐれないためだったのに、ジンの手は表通りに出たあとも離れることはなかった。 ショッピングモールに向かう道中もずっと手が繋がれたままだったので、自然と胸がドキドキと高鳴った。 私にこんなにも素敵な彼氏ができたとうっかり勘違いしそうになってしまう。 モールの中は家族連れで人がたくさんいたけれど、私はジンといつの間にか楽しく笑顔で買い物をしていた。 あれこれ私に服を試着させようとするジンと自然な形で会話がはずんで、その空気感が心地よかった。 こんなにもウキウキとした気持ちで洋服を選んだのはいつぶりだろうか。
「食事をして帰ろう」 買い物が終わり、日も暮れてちょうどお腹がすいてきた時間にジンがそんな提案をした。 どこか行きたいお店があるのかと尋ねると、意外にもファミレスがいいと言われ、ショッピングモールを出て一番近いファミレスへと移動することにした。 ジンにとっては普段行かない場所だから珍しいらしく、行ってみたいと思っていたのだそう。「激混みだな」 お店に到着すると、ジンが困った顔で苦笑いの笑みを浮かべる。 お正月だから私たちよりも若い世代の子たちが集まっているせいでファミレスは満席で、順番待ちの人が入り口にあふれかえっていた。「ジン、どうする?」「いや、これは無理だから帰ろう。ファミレスはまた今度」 私もそれが正解だと首を縦に振った。 順番を待つのなら、相当な待ち時間が予想されるから。 踵を返して帰ろうとする中で、私はとある人物とバチっと目が合ってしまった。「由依?」 向こうも私に気づいたらしく、声をかけながら近づいてくる。「すごい偶然だね」 その人物はカフェのバイト仲間の武田くんだった。 彼は友達数人と食事をしたのか、ちょうど出てきたところで私と偶然鉢合わせをしたみたいだ。 明けましておめでとう、と挨拶した私よりも、武田くんは私の後ろに立つ人物が気になったようで、なぜかジンの姿に視線を送り続けている。 自分の友達には先に行くように促し、武田くんは私の手首を掴んですぐそばの出入り口から外に連れ出した。「あれは誰だ」 いつもより幾分武田くんの声が低いように感じた。「誰って……」「俺がいくら飯を誘っても行かないと思ったら、いつの間に彼氏ができたんだよ」 武田くんは私とジンの仲を勘違いしたのだ。 だからといってなぜ彼が怒るような口調になっているのかは全然わからない。「知らなかったな。由依がこんなに面食いだとは」「違うから」 なんとなく誤解されたままなのが嫌で否定の言葉を口にするけれど、それを邪魔したのはジンの腕だった。「由依、スーパーに寄ってから帰ろう。夕飯は家でふたりで作ればいいよ」 私と武田くんが話している最中だというのに、ジンはわざとらしく背後から腕を回して私の腰に巻き付け、自分のほうへ引き寄せたのだ。
バランスを崩した私は後ろへ引っ張られる形になり、ポスンとジンの胸に背中を預けてしまう。私の視界には、寒空の下で眉間にシワを寄せる武田くんが映っていた。「由依、なにが違うんだよ。同棲してるのか?」 あきれたように武田くんがポツリと呟く。 先ほどのジンの言葉といい、この態勢といい、弁解するどころかさらに誤解されたと思う。 私は手をブンブン横に振り、ジンの腕から逃れようとするけれど、ジンはギュッと私の腰を掴んで離さない。 その行動がまるで恋人みたいで、カーッと私の顔に熱が集まってきた。 そっと友達のフリでもしてくれればいいのに、ジンがなぜわざわざ誤解を招く行動を取るのかまったく理解できない。「由依が作った鍋が食いたい」 ジンは腕の力を緩めるどころか、後ろから私の肩に顔をうずめる。 これでは後ろから抱きしめられているのと同じで、まるでイチャついているカップルみたいだ。「というわけだから。またね、由依の“お友達くん”」 私たちに怪訝な視線を注ぎ続ける武田くんに対し、ジンはキラリと光る綺麗な笑みを浮かべた。 あの眩しい笑顔に誰が太刀打ちできるだろうと思うほどのキラースマイルで、事実武田くんはなにかを言いかけてそのまま口を閉じてしまった。 ジンが腕をほどき、その代わりに私の左手をしっかりと握ってそのまま私たちはファミレスの店先をあとにした。「寄せ鍋、最高だったな。 シメのうどんがうまかった」 スーパーで食材を買い込んで、マンションでふたりで鍋を囲んだ。 前から思っていたけれど、ジンはなんでもおいしそうに、しかもよく食べる。 そんなに食べて、なぜその体型が維持できているのか本当に不思議だ。「ねぇ、さっきなんであんなことしたの」 鍋を完食したあと、使い終わった食器類をシンクに運びながら私はジンに尋ねた。「さっきって?」「武田くんの前で、わざと私に抱きつくようなこと。 あれじゃ誤解されるよ」 ファミレスでのことをあきれ混じりに糾弾してみたけれど、ジンは緩やかに笑みを浮かべて私を見ていた。 この際百歩譲って、彼女でもない私に抱きついたことは一旦置いておくとしても、なぜわざわざあんなことをしたのかその理由は知りたい。「へぇ、そんな名前なのか。で、その武田くんとは誤解されると困る関係?」「武田くんは高校の同級生で、今はただのバイト仲間」
「好きとかじゃないから」「由依ってにぶいんだな。あれはどう見てもそうだった」 否定をする私に、まるで恋愛マスターかのようにジンが頬杖をつきながらニヤリと笑う。「武田くんとは高三のときに同じクラスで、それからずっと友達だもん」「じゃ、彼はそのときからずっと好きだったんだろ。今も」 武田くんと高校で出会ってからもう五年は経つのに、そんなことがありえるのだろうか。 高校卒業後、それぞれ進路が違ったから連絡は取り合っていなかったし、たまたま今は同じバイト先で働いていて交流があるだけの関係だ。 昔からずっと私のことを好きだったなんて、容易に信じることはできない。 そのまま絶句していると、玄関のチャイムが鳴り、インターフォンの画面を覗くと客人は甲さんだった。「ふたりとも、明けましておめでとう」 リビングに上がってきた甲さんは、相馬さんからの差し入れだと伝えて高そうなシャンパンを私に手渡した。「どうしたの、甲くん」「ちょっとふたりの様子をうかがいに。それと、ジンが出演したMVを由依ちゃんに見せてあげる約束をしてたから」 甲さんはジンににこやかに言い、DVDを鞄から出して顔の横まで持ち上げ、私にアピールをした。 するとジンは恥ずかしいのか即座に嫌そうな顔を見せる。 どうやらあまり見られたくないらしい。 ジンの弱点をつくように、私はわざとらしく「見たい」と甲さんに食いついた。「事務所に雑誌もあったから持ってきたんだ」 リビングのソファーに座るやいなや、甲さんが鞄から雑誌を取り出し、とりあえずDVDよりも先にそちらを拝見することにした。目の前に差し出されたのは、漢字ばかりが羅列された雑誌なのだけど、どうやら台湾の男性ファッション誌のようだ。「え?! ……これ……」「そう。ジンだよ」 その雑誌の表紙に写っている男性を見た途端、私は目を丸くした。 カメラ目線ではなく斜に構えつつも黒いコートの襟を立てて佇んでいて、誰もが目を奪われかねないそのモデルこそジンだった。「すごいですね。表紙を飾っちゃうなんて」 言いながら雑誌を右手でめくると、その私の言葉がずいぶん軽はずみだとすぐにわかる。 ジンが飾ったのは表紙だけではなく、巻頭数ページにわたってずっとジンばかりが取り上げられていたからだ。
書いてある言葉は中国語で、詳しい内容は私にはわからないけれど、日本でもよくあるインタビュー形式のようだった。 見れば見るほど驚きを隠せないし、それと同時に「すごいですね」などと陳腐で簡素な評価をしてしまった自分が恥ずかしい。「カッコいいでしょ、ジン」 プロのヘアメイクさんに髪を整えてもらい、撮影用の衣装を身にまとった彼は、普段とは雰囲気が全然違う。 さっき私と一緒に鍋を食べた人と同一人物だとは思えないくらいだ。「だけどこの人の名前、Harry(ハリー)って……」 写真の下に大きく表示された文字を指して、私は甲さんに尋ねた。「それがジンの英名。その名前で活動してるんだ。日本でもね」 どうやらそれは芸名でもあるらしい。「本名は公表してないから」 急に会話に入って来たジンの言葉尻から、今後も本名は公表するつもりはないのだろうと想像できた。「由依ちゃん、MVを見たらもっと圧倒されるよ?」 ジンは甲さんに先入観を植え付けすぎだと困った顔をして忠告していたけれど、静止画でこれだけカッコいいのだから、動画ならばどうなのかと少なからず興味が湧いた。「ジンがどんな感じでセリフを言ってるのか見てみたい」「セリフはないよ。MVだから、ずっとそのアーティストの音楽が流れてる」 ミュージックビデオなのだから、ジンの言うとおりで、我ながらバカな発言をしたと恥ずかしくなった。「このアーティスト、シンガーソングライターなんだ。ジンとも仲が良いんだよ」 甲さんがプレイヤーにDVDをセットし、いよいよ再生が始まる。 曲は男性アーティストが歌い上げるバラードだった。 歌詞の意味はわからないけど、ラブソングかもしれない。 歌っているアーティストは一切登場せず、とても綺麗な女の子とジンのふたりだけがずっと映っている。 ドラマ仕立てになっていて、ふたりが出会い、楽しそうに手をつないで街を歩いたり戯れたりしている。 シーンが変わり、今度はふたりが喧嘩をし、女の子がジンを平手打ちしていた。 そしてまたふたりが海辺で見つめあい、抱き合い、微笑み合って額をくっ付ける熱いシーンで終わっている。 内容はベタなものかもしれないけれど、甲さんの言うとおり私はその映像に圧倒された。 彼の表情や仕草、目力、すべてが魅力的で惹きこまれ、ジンのすごさが少しだけわかった気がしたのだ
「すみませんでした」 「いや、終わり良ければすべて良し。あ、そうそう、ショウさんが心配して様子を見に来てくれたみたいだ」 彼のほうへ目をやると、監督に対してていねいに頭を下げてあいさつをしていた。 会社の人間として今後も仕事がもらえるようにコミュニケーションを取ってくれているのだ。「ショウさん……お疲れ様です」 「控室で話そう」 ショウさんはおじぎをする私の背中に手を添え、マネージャーと三人で控室へ戻った。「俺、コーヒーを買ってきますね」 なんとなくわざとらしい笑みをたたえて、マネージャーが外に出ていく。 おそらくショウさんがふたりで話したいから席をはずせと言ったのだろう。「あの……エイミーに付いていなくて大丈夫なんですか?」 マネージャーとして彼女のそばにいたほうがいいのではないかと気にかかったけれど、ショウさんはふるりと首を横に振った。「今日はもう終わったんだ。急いでここへ向かったらエマの撮影に立ち会えるんじゃないかと思って飛んできた」 「そうだったんですか。ありがとうございます」 おもむろに彼が腕を引き寄せ、たくましい胸に私を閉じ込める。 突然の行為にドキドキしながら、私も彼の大きな背中に手を回して抱きついた。「あ。マネージャーが戻ってきちゃいますね」 ずっとこうしてはいられない。ほかの誰かにこんなところを見られたら大変なことになる。「ゆっくりのんびりコーヒーを買いに行くように言ってある」 「大丈夫ですか? 私たちの関係に気づいたんじゃ……」 「いや。元マネージャーとしてエマと話したいってことにしてあるから」 心の中でマネージャーに「ウソをついてごめんなさい」と謝っておく。 だけどこれで大好きなショウさんとあと少しの時間、ふたりきりでいられる。「おととい、なにがあったんだ? 急に泣き出したって聞いたぞ?」 「ちょっと……情緒不安定で」 「俺となかなか会えなかったからか?」 身体を離し、背の高いショウさんが私の顔を覗き込んできた。 鋭い瞳に射貫かれ、甘い声で問われたらごまかすなんてできなくて、素直にうなずいてしまった。「ごめんな。俺のせいだな」 「違うんです。私が悪いんです。……ヤキモチを焼いたから」 「ヤキモチ? 誰に?」 そんなの聞かなくてもわかると思うけれど。 口ごもる私を見て、
翌日。ショウさんから電話がかかってきた。『昨日の撮影だけど、体調不良で延期になったって聞いた。大丈夫か?』 どうやら私のマネージャーがそう伝えたらしい。だけどショウさんは私との電話で、原因が体調不良ではないと気づいているだろう。「心配してくれたんですか?」 『当たり前だ』 間髪入れずに返事をしてくれたことがうれしい。彼が心配する相手がこの世で私だけならいいのにと、欲深い考えまで浮かんでしまう。「ありがとうございます。大丈夫です。明日はショウさんのことを思い出しながらがんばりますね」 『エマ……』 「しっかりしなきゃ、CMを下ろされちゃいますもんね」 最後は彼を心配させすぎないよう、明るい声で電話を切った。〝空元気〟という言葉がしっくりくる。 次の日、再び撮影がおこなわれるスタジオへ向かった。 二日前と同じように衣装に着替え、メイクを施してもらう。「エマさん、おとといはすみませんでした。体調が悪かったんですね。私、全然気づかなくて……」 「こちらこそリスケさせてもらって申し訳ないです」 ヘアメイク担当の女性がいきなり謝るものだから、ブンブンと顔を横に振って恐縮した。 体調不良は表向きの理由だから、彼女が気に病む必要はなにもない。 すべて準備が整ったところでマネージャーが呼びにきた。「エマ、撮影本番だ。いけるか?」 「はい」 スタジオに入り、監督やスタッフに先日のことを詫びてからスタンバイする。 幸いにも監督に怒っている様子はなくてホッとした。温和な性格の男性でよかった。 二日前と同じように、スタジオのセットのソファーに寝そべる。 菓子を手に取り、うっとりと眺めたところで監督からカットがかかった。「表情がまだ硬い。もっとリラックスしていこう」 「すみません」 いったん立ち上がって、フゥーッと深呼吸をしながら頭を切り替える。大丈夫、自分を信じろと言い聞かせて気持ちを高めた。 そのとき、スタジオの入口がそっと開き、男性がひとり入ってくるのがわかった。――ショウさんだ。 どんな会話をしているのかは聞こえないが、ショウさんが私のマネージャーに声をかけてヒソヒソと話をしている。 彼がここに現れたことが信じられなくて見入っていると、自然と視線が交錯した。『が・ん・ば・れ』 やさしい瞳がそう言っている気がし
「エマ、とにかく次の撮影までゆっくり休んで」 自宅マンションまで送ってもらった私は、深々と頭を下げてマネージャーを見送った。「私って、本当にダメだな……」 ポツリとひとりごとが漏れたあと、頭に浮かんでくるのはショウさんの顔だった。 ……会いたいな。それが無理なら声だけでも聞きたい。……電話をしたら迷惑だろうか。 彼が忙しくしているのは百も承知なのだけれど、それでもスマホを手にして通話ボタンを押してしまった。 打ち合わせ中だとか、タイミングが悪ければ出てはもらえないだろう。 しかし数コールのあと、『もしもし』といつもの低い声が耳に届いた。愛してやまないショウさんの声だ。「ショウさん……今、電話して平気でしたか?」 『ああ。少しなら。そっちの撮影は順調か?』 「いえ、今は家にいます」 『CMの撮影なのにもう終わったのか? えらく早いな』 「……」 私のスケジュールを把握してくれていたことが単純にうれしい。 だけど、そのあとの言葉にはすぐに反応できなくて、口ごもってしまった。『……エマ?』 「実は、今日は中止になったんです」 『中止?! なぜだ』 「私が悪いんです。……うまくできなくて」 コントロール不可能な感情に支配されて、泣きだしてしまっただなんて言えなかった。 ショウさんに慰めてほしいわけでも、がんばれと激励してほしいわけでもない。今日のことは自分の責任だとわかっている。甘えちゃいけない。『大丈夫か?』 彼のやさしい声が聞こえてきて、心にジーンと沁み入った。 あんなに不安定だった気持ちが途端にないでいくのだから不思議だ。 顔が見たいな。可能ならビデオ通話に切り替えてもらおうかな。そう考えた矢先だった――――『あ、いた! ショウさん、ちょっといいですか?』 スマホの向こう側から、彼を呼ぶ女性の声がした。おそらくエイミーだ。ショウさんも『今行く』と返事をしている。 正直、エイミーがうらやましい。仕事の相談に乗ってもらえて、付き添う彼に見守ってもらえる。 ショウさんは本当に素敵でカッコいいから、近くにいたら自然と好きになるに決まっている。エイミーだってそうだ。『話の途中ですまない。俺、行かなきゃ』 「はい。突然電話してすみませんでした。お仕事がんばってくださいね」 『また連絡する』 声が
小さなものでいい。楽しいこと、幸せなこと……私にとってそれは何なのかと考えたら、真っ先にショウさんの顔が浮かんだ。 彼と一緒にいられるだけで楽しくて、こんな素敵な人が恋人なのだと思うと幸せな気持ちになる。『エイミーちゃんはあのイケメンのマネージャーさんに恋してるのかも』 『待ち時間とか、一緒にいるときはすごく仲よさそうに話しているみたいだし』 先ほどの言葉がタイミング悪く脳裏に浮かんでしまった。 愛されているのは私のはずなのに。 うれしそうに微笑み合うのは私だけの特権なのに。 そう考えたらつらくなって、自然な笑顔を作らなきゃいけないはずが、反対に涙がポロポロとこぼれ落ちた。「あれ? エマさん?!」 私の様子に気づいた監督とスタッフがあわててやってくる。もちろん撮影は一旦ストップだ。「エマ、どうしたの」 マネージャーが駆け寄ってきて、私にそっとティッシュを差し出した。「すみません」 小さく声に出して謝ると、周りにいたスタッフ全員が困った顔をして私の様子を見守った。 心配されているのはわかるけれど、その視線が突き刺さるように痛い。すべて私のせいだ。早く撮影を再開しなければと思うのに、涙が止まってくれない。「ちょっと休憩しよう」 監督がそう告げ、私は頭を下げて謝罪したあと、マネージャーに付き添われて控室に戻った。 肩が出ているドレス姿だったため、マネージャーが背中から上着をそっと掛けてくれた。「なにかあった?」 「……」 「こんなこと珍しいじゃないか。体調が悪いの?」 「えっと……そうじゃないんですけど……」 うつむきながらボソボソと言葉を紡ぎながらも、マネージャーの目は見られなかった。 プロとして失格だ。心が不安定になっているという理由なんて通らない。「監督と話してくるから。とりあえずここで待機してて?」 「はい」 マネージャーがそばにあった水のペットボトルを手渡し、そのまま控室を出ていった。 ほうっと息を吐いてそのまま待っていると、マネージャーが戻ってきて、今日の撮影は中止になったと告げた。監督と話し合った末に、そう決めたらしい。 申し訳なさでいっぱいになりながらも、私はマネージャーと共に監督のもとへ行き、誠心誠意謝罪した。数日後にまた日程を決めて撮影をおこなうとのことだ。 どうやらマネ
ショウさんのことだとすぐにわかった。彼は裏方にしておくにはもったいないくらいのイケメンだから。「けっこう前に変わったんですよ」 「そうなんですね。実は、あのマネージャーさんは今、エイミーちゃんのマネージメントをしてるって聞いたものだから。エマさんの担当からは外れたのかと思って」 エイミーはうちの事務所に電撃移籍してきたモデルだ。今後は俳優業も積極的にやりたいと言っているらしい。 二重の瞳がパッチリとしていて、二十歳とは思えないくらいの色気を醸し出している、女子力の高い子。事務所も全力で売り込みをかけるつもりのようだ。 ジンくんのサポートは甲さんとふたり体制でおこなうことになったため、ショウさんが当面、エイミーのマネージメントを担当すると聞いている。「エイミーちゃん、幸せですね。事務所を移籍して飛ぶ鳥を落とす勢いだし、大好きな人にマネージャーになってもらえて」 「……大好き?」 思わず聞き返してしまった。ショウさんとは年の差があるけれど、エイミーにとってみたら恋愛対象に入るのかもしれない。「あ、これは私の勘なんですけど、エイミーちゃんはあのイケメンのマネージャーさんに恋してるのかも」 「そう……ですか」 「待ち時間とか、一緒にいるときはすごく仲よさそうに話しているみたいですし」 ……ダメだ。聞けば聞くほどグサグサと胸に傷が出来ていく。 ショウさんの恋人は私だ。いくらエイミーが大人っぽくて魅力的でも、彼はそんなに簡単に落ちたりしない。 私を裏切って傷つけるようなことはしない人だと信じている。 信じているはずなのに……――会えていないという現実が、私の心を真っ黒に塗りつぶしていく。 コンコンコンと控室の扉がノックされ、返事をすると男性マネージャーが姿を現した。「エマ、準備できた?」 「はい」 「オッケー。スタジオへ行こう」 マネージャーの後ろをついていき、撮影スタジオに入る。 監督やスタッフに頭を下げてあいさつしたけれど、笑顔が引きつっていたかもしれない。 設置してある撮影用のソファーへうつ伏せで寝そべるようにと指示があった。 うっとりとした顔で商品の菓子をつまみ、ゆっくりと口へ入れる。言われたとおりにしたはずなのに、監督から「カット!」と声がかかった。「エマさん、表情をもう少し明るくして。食べたあと、幸
ずっと密かに恋焦がれていたショウさんに告白をして、付き合えるようになって早くも二ヶ月が過ぎた。 交際は順調……のはず。といっても、私も仕事があるし、ショウさんもジンくんのマネージメントで忙しくしていて海外を飛び回っている。だから実はそんなに会えていない。 連絡が来た日は浮かれ、来なかった日は落ち込んで不安になる。そんな毎日を送る私は、至極単純にできているなと自分でも思う。 普通の人たちのようにふたりでテーマパークへ行って、手を繋ぎながらデートを楽しみたい……というのは、密かに思い描いている願望だ。 しかし、ショウさんとの恋愛は誰にも言えない秘密。 堂々とデートなんてできない。……私がこの仕事を辞めない限りは。それは付き合い始めた当初からわかっていた。◇◇◇ 今日は以前からお世話になっているチョコレート菓子の新しいCM撮影の日。 衣装のドレスに着替えた私は控室でスマホをいじりながら待機していた。「エマさん、本日もよろしくお願いします」 「こちらこそよろしくお願いします」 やってきたのはヘアメイク担当の女性だった。彼女とは何度か一緒に仕事をしていて顔なじみになっている。「今回は大人っぽい商品イメージなんで、ヘアメイクもそういうオーダーが来ています」 笑みを浮かべてコクリとうなずくと、彼女は私の前髪をあげてピンで固定し、慣れた手つきでテキパキと顔に化粧下地を塗り始めた。「うわぁ、すごく肌の調子がいいですね」 「そうですか?」 「エマさんは元々きめ細かくて綺麗な肌なんですけど、今日は潤っていて絶好調です。なにか良いことありました?」 そう聞かれ、すぐに頭に思い浮かんだのはショウさんの顔だ。 秘密だとしても、恋は恋。彼と付き合い始めてからの私は毎日がバラ色で、わかりやすく浮かれていると思う。「わかった! 恋人ができたとか?」 「で、できてないですよ!」 図星を指されてドキドキしながらも、ウソをつかなければいけないのが心苦しい。 本当なら正直に話して、女子らしく恋バナに花を咲かせたいところなのだけれど。 にこやかに話をしながらもメイクが終わる。髪を綺麗にセットし、髪飾りを付けて完成となった。 鏡のほうを向いてみると、そこには普段より大人に見える自分がいた。さすがプロのヘアメイクの腕前は違う。「めちゃくちゃ素
「私、島田菫(しまだ すみれ)です」 「俺は美山甲」 「甲さん……お名前覚えました!」 俺はショウさんから〝人畜無害な男〟と呼ばれるくらい、こういうときは警戒心を抱かれない。ある意味そこはほかの人よりも得をしている。 それにしても、彼女が浮かべた屈託のない笑みが俺の胸を高鳴らせた。笑った顔が愛くるしくて、目が離せなくなっている。自分でも驚きだ。「すみれちゃんの名前って、ひらがな?」 「いいえ。花の漢字で一文字で、えっと……」 「どんな字かわかったよ。良い名前だね」 懸命に説明しようとする彼女に苦笑いを返した。 〝菫〟はジンの名と同じ漢字だ。それをこの場で言うことはできないのだけれど。「甲さんは台湾に住んでるんですか?」 「いや、仕事で来ただけ。東京在住だよ」 「お仕事でこちらに……だから北京語がペラペラだったんですね」 「菫ちゃんは?」 「私は有休を消化しろって言われたから、ふらっと旅行に」 どうやら彼女はひとり旅をしていたらしい。 今日の飛行機で日本へ帰ると言うのでくわしく聞いてみると、俺と同じ便のようだ。 駅へたどり着き、券売機でトークンを買うところまで彼女に付き合った。 おそるおそる機械の操作をする姿がまたかわいくて、自然と顔がほころんでくる。「本当にお世話になりました」 「じゃあ、気をつけて。あとで空港でまた会うかもだけど」 「甲さん、あの……」 空港でまた会える保証はない。ここでお別れか……と寂しさを感じていると、彼女が恥ずかしそうにしながら自分の名刺を差し出した。「名刺を交換してもらえないですか?」 「ああ、うん」 あわててスーツの内ポケットに入れていた名刺入れから名刺を一枚取り出す。「帰国後に……連絡をもらえるとうれしいです」 「え?」 「お礼をさせてください。次は東京で会いましょう」 お礼なんて別にしてもらわなくてもいいのだけれど。 俺は素直にうなずいていた。純粋に彼女にまた会いたいと思ったから。「食事に誘っていいかな? ご馳走するよ」 「それじゃ今日の〝お礼〟にならないじゃないですか」 「あはは。そっか。菫ちゃん、SNSのアドレスも交換していい?」 なんとなくだが、恋の始まりを感じた。 きっと俺は、ジンと同じ名前のこの子に恋をするだろう、と――――。 ――END
「彼女は怖がっています」 「これを渡そうと思っただけなんだけどな」 そう言って手渡してきたのは台湾の紙幣だった。意味がわからなくて思わず首をひねる。「これは?」 「この子、さっきうちの店でお茶を買ったんだよ。代金で受け取った紙幣が一枚多かったから、返そうとしたんだ」 「そうだったんですか」 「追いかけたらこんなところまで来ちまった」 後ろに隠れている彼女に今のことを日本語で説明すると、顔を真っ赤にして恥ずかしそうに前へ出てきた。「パニックになって逃げちゃいました。本当にごめんなさい」 深々と頭を下げる彼女のそばで俺が通訳をすると、男性は「いいよいいよ」と言って怒ることなく来た道を戻っていく。 「親切なおじさんだったのに、私……勘違いして怖がって。悪いことをしましたね」 肩を落としてシュンとする彼女のことを、こんなときなのにかわいいと思ってしまった。 目がくりっとしていて、セミロングの髪はサラサラのストレート。おどおどする様子が小動物みたいで愛らしい。「とにかく、何事もなくてよかったね」 「本当にありがとうございました。あなたがいなかったらどうなっていたか……」 少しばかり通訳をしただけで、こんなにも感謝されるとは思ってもみなかった。 一日一善。良いおこないをすると気分がいい。「ところで、ここはどこですか?」 「……え?」 「必死で逃げていたから、どっちに来たのかわからなくなっちゃいました。ホテルに戻りたいのに……」 上下左右にスマホの角度を変えながらアプリで地図を確認する彼女は、どうやら〝方向音痴〟のようだ。「どこのホテル?」 「ここです」 彼女がスマホの画面をこちらに向けた。そこは俺がよく利用しているホテルの近くだ。「タクシーを拾おうか?」 「運転手さんになにか言われたときに言葉が通じないと困るので、できれば電車で行きたいんですが……」 「じゃあMRTだね」 「MRT? ああ、地下鉄!」 台北市內でもっとも速くて便利な公共交通手段と言えば、MRTと呼ばれる地下鉄になる。 平均五分毎に一本の割合で列車が走っているので、時間のロスも少なくて快適だ。「乗れるよね?」 この周辺に来るときも乗ってきたはずだが、一応聞いてみた。すると彼女は「たぶん」と不安げに答えて眉尻を下げる。「なんか、コインみた
【スピンオフ・甲のロマンス】◇◇◇「では甲さん、それでよろしくお願いします」 「わかりました」 台北にある芸能事務所で打ち合わせを終えた俺は、静かに席を立ってミーティングルームを出る。 これまでジンのマネージメントはすべてショウさんがおこなっていたが、三ヶ月前からその体制が変わった。 ひとつひとつの仕事や全体の方向性を決めるのは今までどおりショウさんが担当する。 けれどジンが日本で仕事をするとき、ショウさんは立ち会わず、代わりに俺がマネージャーとして付くことになったのだ。「これから日本に戻られるんですか?」 スタッフにそう尋ねられた俺は愛想笑いをしつつ首を縦に振った。「夜の便だから少し時間はあるんですよ。久しぶりに台北の街をブラブラして帰ろうかと」 普通の観光や出張なら、こういう時間にお土産を買ったりするのだろうけど。 俺の場合、しょっちゅう行き来しているからお土産のネタも尽きてしまい、わざわざ購入する意味がなくなってしまった。 だいたい、日本に帰って真っ先に会うのはジンだ。よほど珍しいものを見つけない限りは必要ない。 なんだか小腹がすいた。なにか食べよう。台湾に来たら必ず立ち寄る店があり、俺は迷わずそこへ足を踏み入れた。 牛肉麺(ニューロウミェン)は台湾を代表するグルメのひとつ。 牛肉を入れて煮込んだスープに、細いうどんのようなコシのある麺を入れて食べる麺料理だ。 注文して出てきた牛肉麺に舌鼓を打ち、腹を満たした俺は店を出て駅へ続く道を歩き始めた。 「きゃっ!」 「あ、すみません」 路地の角を曲がった瞬間、走ってきた二十代の女性と正面からぶつかった。 思わず日本語で謝ってしまったので、「すみません、大丈夫ですか?」と北京語で言い直したのだが……「え! なんであの人は追いかけてくるの?」 返ってきた言語はナチュラルな日本語だった。どうやら彼女は日本人らしい。 そして、自分が走ってきた後方からやってくる初老の男性のほうを見つめて怯えていた。「どうしました?」 日本語で問いかけると、彼女は神様にでもすがるような目で俺を見た。「あの、日本の方ですか?」 「はい」 「さっきからずっと追いかけられてるんです。なにか言ってきてるんですけど、言葉がわからないから怖くて……」 男性は一見すると普