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第006話

アパートの中で、

紗月はソファに寄りかかり、スマートフォンの画面に映る、キッチンで忙しく動き回る涼介を見つめ、口元に冷ややかな笑みを浮かべた。

かつて一緒に暮らしていた頃、どんな時間でも、涼介が「お腹が空いた」と言えば、たとえ深夜2時でも、彼女は起きて料理を作っていた。

涼介は当時、一切料理をしなかったし、キッチンに近づくことさえなかった。

しかし今、出会ってまだ1日も経たないあかりのために、真剣に料理をしていた。

紗月は目を閉じた。

涼介は料理ができなかったわけではなく、彼女のためにはする価値がないと思っていただけだったのだ。

だが、あかりに対しては、冷酷ではないことに少しだけ救われた気がした。

少なくとも、かつての自分に対してしたような冷たい仕打ちはしないだろう。

......

青湾別荘では、

小さな椅子に座っていたあかりは、目の前のテーブルに並んだ。見るも無惨な料理をじっと見つめた後、紗月が焼いてくれたクッキーをそっと引き寄せた。「パパ、なんだか急にお腹が空かなくなっちゃった。このクッキーでいいや」

涼介は眉をひそめ、小皿の中にあるピーナッツサイズのクッキーを見て、「これで本当に腹が満たされるか?」

あかりは唇を引き締め、彼が自分にこの「闇料理」を無理に食べさせないように、急いで手でお皿を覆った。「子供だから、胃が小さいの。これで十分だよ!」

そう言って、あかりは無意識にテーブル上の黒い塊をちらっと見て、目に恐怖の色を浮かべた。

その小さな仕草や表情のすべてが涼介の目に入った。

彼は少し苛立った表情を浮かべた。

数分後、あかりはその小さなクッキーを全部食べ終わった。

お皿を下ろして、彼女はにっこり笑って涼介を見上げた。「お昼寝しに行くね!」

涼介は立ち上がり、彼女を抱き上げて二階に連れて行った。

「人魚姫の話が聞きたい」

ピンク色のベッドに横たわったあかりは、大きな瞳をぱちぱちさせながらベッドのそばにいる涼介を見上げた。「パパ、物語を話せる?」

涼介は童話の本をパラパラとめくり、「たぶん話せるだろう」

しばらくして、彼は眉をひそめながら話し始めた。「昔々、あるところに、海がありました。その海には美しい人魚たちが住んでいました......」

「パパ」

あかりは顔を上げて彼を見つめた。「パパ、声が怖いよ!」

涼介は驚いた表情を浮かべた。

彼はすでに普段の冷たい低い声をできるだけ柔らかくしようとしていたのだが。

そこでさらに声を和らげて話を続けた。「ある日、小さな人魚が......」

「パパ、本当は物語を話せないんでしょ?」あかりは唇を尖らせ、悲しそうな声で言った。

「あかりのパパはこんなに素晴らしいのに、物語は話せないんだね......」

涼介は言い返さなかった。

そして、彼は深く息を吸い込み、「物語はやめて、ちゃんと寝ようか?」

「やだ」

あかりは再び涙を浮かべ、「物語を聞かないと悪い夢を見ちゃうよ......」

彼女の涙ぐんだ顔を見て、涼介は心が一気に柔らかくなった。

彼はあかりの頭を優しく撫で、「ママは泣くのが好きじゃなかったはずだよ。

あかりのすぐ泣く癖は誰に似たのかな?」

あかりは唇を尖らせて言った。「ママは泣くのが嫌いじゃないよ」

「あかりが物心ついたころ、夜中に目を覚ますと、ママがこっそり涙を拭っているのを見たことがあるよ」

その素朴な声が、涼介の心に深い衝撃を与えた。

涼介はあかりを見つめながら、声を少し荒げたように言った。「ママは......よく泣いていたのか?」

「うん」

あかりは唇を噛みしめた。「でもパパがママは泣くのが嫌いだって言うなら、きっとパパの言う通りだよ。

あかりがすぐ泣く癖は、もしかしたらパパに似たのかもね」

涼介は困惑した笑顔を見せた。

「パパは泣いたことがないんだよ」

あかりはベッドの上で、小さな手をもじもじと動かし、何かを躊躇しているようだった。

しばらくして、彼女は顔を上げ、冷たい表情を見せる彼を見つめた。「パパ、ママがパパの元を去ったとき、泣かなかったの?」

あかりの言葉に、涼介は固まった。

彼は深く考えながらあかりを見つめ、何も言わなかった。

しばらくして、涼介は立ち上がり、「一人で寝なさい、パパはまだ仕事がある」

あかりは唇を噛み、布団の端を握りしめた。「でもパパ......」

「いい子だから」

涼介は振り向くことなくドアを開け、「あかりの面倒を見るための適任者を見つけてあげるよ」と言った。

そう言って、彼は長い足を動かし、大股で部屋を出て行った。

あかりは小さなベッドの上で、もぞもぞと身をよじった。

どうしよう?

またパパを怒らせちゃったみたい......

......

紗月は昼食に透也のために簡単な料理を作ったが、自分は食欲がなかった。

あかりが時折メッセージを送って安心させてくれるが、娘が初めて自分の元を離れたことで、どうしても心配が消えなかった。

食後、透也は小さなリュックを背負って出かけ、「ママ、中川さんが下で待ってるよ。授業に行ってくるね!」と言った。

紗月はうなずき、階下まで送った。

透也は賢い子で、桐島市に戻る前から子供向けのプログラミングクラスに自分で申し込んでいた。

そのクラスは杏奈が仕事している病院の近くにあるから、透也を迎えに寄ってくれた。

息子を杏奈に預けるのは安心だった。

紗月と杏奈の間には、命を預け合ったような深い絆があった。

透也を見送った後、紗月は家に戻り、昼食の後片付けをしていた。

ちょうど食器を洗い終えたところで、玄関のチャイムが鳴った。

昨日引っ越したばかりなのに、誰が訪ねてくるというのだろう?

透也が何かを忘れてしまったのだろうか?

彼女はため息をつき、ドアを開けながら「また忘れ物?いつになったらこの癖が直るのかしら......」とぼやいた。

しかし、ドアが開いた瞬間、言葉が喉に詰まった。

ドアの外には、背が高く、端正な顔立ちの男性が立っていた。

涼介はグレーのトレンチコートを着ており、その佇まいからは孤高で冷ややかな雰囲気が漂っていた。

「こんにちは」

青湾別荘で見せた強引な態度とは異なり、今の涼介は珍しく冷静な様子だった。「紗月さん、少しお話がしたいのですが」

紗月は腕を組み、ドアの枠にもたれかかりながら、涼介の顔を冷ややかに見つめた。「何の話ですか?」

狭くて暗いアパートの廊下と、湿った空気のせいで涼介は少し不快感を覚えた。

彼は少し眉をひそめ、「中に入って話せませんか?」

「無理です」

紗月は姿勢を変え、涼介の入る道を完全に塞いだ。「佐藤さん、何か言いたいことがあるならここで言ってください。

一人暮らしの女性ですから、佐藤さんが中に入ると、後で私に悪意を抱いているとか言われたら困りますから」

紗月の言葉に、涼介の眉が深く寄った。

これほどの態度で涼介に話しかける女性は初めてだ!

しかも、その女性が娘の世話をするために応募してきたメイドだとは。

普段なら、涼介はその場を去り、彼女に自分に逆らうことの代償を思い知らせるところだろう。

だが、今日の涼介は違っていた。

目の前のこの女性が、あかりのお気に入りであることを忘れてはいなかったのだ。

冷静さを保ちつつ、涼介は再び冷たく言った。「紗月さん、あなたを採用します。

これからも、あかりの日常の世話を引き続きお願いしたい」

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