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第52話

田中一郎はその場で硬直し、女性の手に服を強く引っ張られていたのを感じた。彼は振り返り、暗闇の中の渡辺玲奈を見つめた。

外で稲妻が閃き、一瞬で大地全体を照らした。渡辺玲奈の涙で濡れた瞳が切実に彼を見つめ、その目の中には柔らかで哀れな光があった。

その一瞬の視線の交わりで、田中一郎の心がなぜか柔らかくなり、心の弦が乱されてしまった。

彼は渡辺玲奈のイヤホンを手に取り、体を傾けて近づき、薄い唇を彼女の耳元に寄せて静かにささやいた。「僕はどこにも行かないよ。電気回路を確認しに行くだけだから」

渡辺玲奈は男性の清らかな香りが鼻を擽り、熱い息が彼女の頬にかかり、皮膚に温かさが広がったのを感じた。

彼の声は魅力的で、彼女の心の先端が微かに震え、彼女はゆっくりと男性の服を放した。

田中一郎は彼女がこんなに怖がっていたのを見て、無意識に彼女の頭を撫でた。「怖がらないで、すぐに戻ってくるよ」

そう言って、彼はアパートを出た。

しかし、彼は知らなかった。彼の何気ない行動が渡辺玲奈の心にどれだけ強い衝撃を与えたかを。

彼女はまるで馬鹿みたいに、彼が撫でた頭をそっと触った。

心臓がまるで狂ったように走り回る野鹿のようで、片時も止まらなかった。

胸の高鳴りが過ぎ去ると、悲しみが湧き上がった。

彼女は自分がますますこの男性を好きになり、愛してしまっていることに気がついた。

どうしよう?

彼女は離婚したくない。

彼の心には忘れられない初恋があると知っていても、彼への愛情は減るどころか増していた。

その時、部屋のドアが再び開かれた。

田中一郎が携帯を持って戻ってきた。

「花を寮に持ち帰って売り歩くんだ。誰かの奥さんあるいは彼女に花を売ることができれば、明日は休暇をとれるぞ」

「迎えに来なくていいよ。今夜は帰らないから」

そう言い終えると、田中一郎は電話を切り、部屋のドアを閉めて中に入ってきた。

「全棟のアパートの電気が切れている。どうやらメインブレーカーが雷で壊れたようだ。天気が良くなったら、電力会社の人が修理に来るだろう」

渡辺玲奈は彼が入ってきた時にイヤホンを外し、彼の言葉をちゃんと聞いた。

この時、彼女の気持ちは落ち着き、心の中に隠されていた疑問が解かれる必要があった。

彼女は柔らかく甘い声で尋ねた。「田中一郎、あの時、私を人質にしていた人に向か
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