第19話

田中一郎は驚いた。

彼は渡辺玲奈の澄んだ大きな瞳を見つめた。そこには秋の水面のような潤いがあり、透明な小さな涙がふた粒、まるでこぼれそうでこぼれないように瞼に溢れていた。

彼の心には一抹の見知らぬ感情が湧き上がった。

同時に彼は彼女がなぜ悲しんでいたのか疑問に思い、少し苛立ちを覚えながら言った。「どうしたんだ？」

渡辺玲奈は振り返り、彼に背を向けた。そして、できるだけ早く目元の涙をこっそりと拭いた。

彼女は落ち着いて言った。「今は夕方だから、あなたの家族はみんな家にいると思う。後で私が先に入るから、あなたは玄関で聞いていて」

そう言うと、渡辺玲奈は車から降り、田中一郎を待たずに先に家に入っていった。

彼女が別荘のドアを開けて中に入ると、すぐに執事の鈴木健介が目に入った。

鈴木健介は50歳前後で、落ち着いていて世渡りが上手な人物だった。驚きつつもすぐに反応し、恭しく言った。「田中若奥様、おかえりなさい。ちょうど良いタイミングでいらっしゃいました。夕食がもうすぐ始まります」

渡辺玲奈は鈴木健介の友好的な態度が職業上の義務のだったのを感じ取った。実はこの家の誰もが彼女に対して偏見を持っていた。

「ありがとうございます」渡辺玲奈は礼儀正しく返事をして、家の中に入っていった。

豪華なリビングの中央には、田中家の十数人が2メートルほどの大きなテーブルを囲んで座り、家族の話に花を咲かせていた。和やかな雰囲気で、とても楽しそうだった。

「お父さん、お母さん、こんにちは…...」渡辺玲奈の声が、この家の楽しげな空気を打ち破った。

突然、場は静まり返った。

背筋が凍るような十数の冷たい視線が、渡辺玲奈に向けられた。

渡辺玲奈は背中に鋭い痛みを感じ、頭皮が麻痺するような緊張感に襲われた。どうしていいか分からず、兄嫁たちに挨拶しようとしたが、口を開けた瞬間、別の声に遮られた。

「ねえ、あの人誰？お父さんお母さんって誰に言ってるの？」

「彼女だよ！あの寿園に住んでておばあちゃんの世話をしてた看護師さん。おばあちゃんに何か変なことを吹き込んで、おばあちゃんが命をかけて五男に結婚させた女性だよ。忘れたの？1ヶ月前、彼女が家に住んでたでしょう？」

「ああ、そうだったの？すっかり忘れてたわ」

「お姉さんって本当に忘れっぽいわね。こんなに手段が巧みで、尊厳のない女のことなんて忘れるのは難しいのに」

「私の五男は本当に哀れだわ。地位も名誉もあり、正義感の強い人間で、輝かしい半生を送ってきたのに、こんな汚らわしく卑劣な女にその結婚生活を汚されるなんて」

「二兄さんの言う通りだわ。彼女を妻にするなんてとんでもない。こんな女を使用人にしたとしても、私の家が汚れるわ」

「鈴木健介、もし彼女が家に住むなら、私の食事を部屋まで運んでちょうだい。彼女と同じテーブルで食事なんてしたくないわ。気持ち悪い」

皆は好き勝手に話し、渡辺玲奈の気持ちを全く考慮せず、年寄や子供の前で彼女を侮辱し、貶した。

渡辺玲奈は拳をきつく握りしめ、震えるほどの怒りで満ちていた。

彼女は非常に悲しく、目は潤んでいたが、必死に堪えていた。

最初にここに住み始めた頃に受けた侮辱は今と変わらなかった。しかし、当時、彼女はおばあちゃんの言葉を信じ、田中一郎とはお互いに好き同士だと思い込んでいた。

愛のために、彼女は彼の家族からのいじめにも耐えることができた。少なくとも田中一郎が彼女を愛していると思っていたから。

でも今となっては、すべてが滑稽でしかなかった。

おそらく田中一郎の心の中では、彼女への軽蔑と嫌悪は他の人と変わらないのだろう。

渡辺玲奈は喉を潤して話し始めたが、その声は少し詰まっていた。「お邪魔してしまい、申し訳ありません。私と田中一郎は離婚しますので、これから私のことで心を煩わせることはないでしょう」

彼女は田中一郎の前で彼の家族の悪口を言いたくなかった。だからこの方法で田中一郎に、彼女がこの家でどれだけの軽蔑と無視を受けてきたのかを伝えたかったのだ。

もし彼が彼女を愛していないなら、自由を与えてほしい。

「おお、離婚するのか！それは良かったな。今日は五弟のためにお祝いの酒を…...」

声は途切れた。

場が一瞬で静まり返った。

全員の視線が和らぎ、謙虚で緊張した表情で渡辺玲奈の背後にいた男を見つめた。