私はずっと、母さんと弟のそばを漂っていた。すると、突然母さんの携帯に学校の先生から電話がかかってきた。「もしもし、桜井笑美さんの保護者の方ですか?笑美さんの携帯が繋がらず、寮にも戻っていないようです。もう3日間も学校に来ていません」母さんはさして気にせず、適当に応対して電話を切った。「心配いらないわ。どうせまた、どこかで遊び歩いてるんでしょ!」そう、心配なんていらない。だって、もう私は二度と心配させることなんてできないから。母さんは、昔から私のことが嫌いだった。私なんて、母さんが結婚を繋ぎ止めるための道具でしかなかった。だから、母さんが少しでも機嫌が悪い時には、私は殴られたり、罵られたりする対象になっていたんだ。弟が生まれるまでは。弟が生まれると、すべてが変わった。10歳の弟は母さんに溺愛されて、まるで宝物のように扱われていた。弟がほんの少しでも怪我をすると、母さんは昼夜問わず、弟のそばに付き添って丁寧に看病していた。それに比べて、14歳の私はと言えば、学校とバイトを両立し、さらに弟のために稼いだお金で、彼の習い事まで支払わされていた。私のお金は、いつの間にか弟のために使われるのが当たり前になっていたんだ。それでも、母さんは私のことを「遊び歩いている」と決めつけて、いつもこう言っていた。「死んでしまえばいいのに」今となっては、母さんの願い通り、私は本当に死んでしまったけどね。この家では、無視されるのが日常で、いじめられるのが普通のことだった。私が14歳の時、41度の高熱を出した。ベッドに横たわり、辛くて震えながら、母さんに頼んだ。「母さん、苦しい......病院に連れて行ってくれない?」でも、母さんは私をちらりと一瞥して、冷たく言い放った。「仮病使って学校に行かないつもり?絶対ダメよ!」私が熱で幻覚や幻聴に襲われていた時でさえ、母さんは一言も私を気遣ってくれなかった。最終的には、私は壊れた人形のように無理やり母さんに学校へ引きずられていった。その夜、私は熱で頭がぐらぐらして、死にそうなほどの痛みを感じていた。結局、私を見かねた先生が救急車を呼んでくれて、ようやく助かった。それ以来、私は気づいたんだ。母さんは、私のことなんて愛していないって。
歳を重ねるごとに、弟の横暴はエスカレートしていった。母さんからの溺愛が、彼を同年代の子よりも早く、そして残酷に大人にしてしまったのだ。まさか、私を学校でいじめる加害者が、血の繋がった弟だなんて、想像もしていなかった。弟は私の入浴シーンを盗撮し、その全裸の写真を、学校中にばらまいた。私の、最もプライベートな部分が、無防備に晒された。その写真が、まるで戦利品のように、生徒や教師たちの手に渡っていくのを、私はただ見ていることしかできなかった。学校中が、私を嘲笑うささやきで満ちていた。「ねえ、見た?あの写真」「あんな小さいのに、もう......結構、すごいね」「真面目でおとなしい子だと思ってたのに、実は......そうだったんだ」誰もが私を、汚れたゴミを見るような嫌悪の目で見てくる。その視線は、まるで刃物のように、私の心を切り刻んでいった。ある日、弟とその手下どもに校舎の隅に追い詰められた。髪を掴まれ、殴られ、蹴飛ばされる。傍観する生徒たちは、まるで幽霊のように消え失せ、誰も助けの手を差し伸べようとはしなかった。彼らの、冷たく、無関心な視線は、泥のように踏みにじられる私を、ただ眺めているだけだった。いじめは、ゼロ回か、無限回かのどちらかだ。母さんに、その事が伝わった。怒りに満ちた母が学校に駆けつけてきた。私は、母が真実を明らかにし、事態を解決してくれる、せめて慰めてくれると信じていた。だが、母さんは何もしてくれなかった。すべての責任を、私へと押しつけたのだ。母さんは、私の耳を掴み、髪を引っ張り、校舎から校門まで、人々の視線の中、私を引きずり回した。「あんたったら、一体何を考えているの!こんな小さい頃から、だらしない!誰に媚びを売ろうとしてるの!勉強もせず、いつもそんな恰好して!あんたみたいな子供を産んでしまった私が悪いのか!」耳鳴りがして、頭がクラクラした。弟の、得意げな嘲笑が、耳元でこだまする。母さんの言葉は、矢のように、私の心を突き刺した。母さんは、弟の悪意を知っていながら、見て見ぬふりをした。家族からの裏切り、その痛みは、いじめよりもはるかに深く、私の心を凍らせた。その時、私は初めて、絶望という名の奈落の底を味わったのだ。愛されていないわけではない。ただ、母さんの愛は、常に
母さんは有名な法医学の専門家で、その世界では「桜井一刀流」として知られていた。多くの人が、彼女に解剖の指導を依頼し、さらにはいくつかの地方の機関から顧問としても招かれていた。その名声に弟も加わるべく、母さんは彼の未来をしっかりと計画していた。母さんの威圧感に抗えず、弟は嫌々ながらもその道を選ぶことになった。母さんの手引きで、弟は無事に大学の法医学部に進学した。母さんは、弟が優秀な法医学者となり、自分の後を継ぐことを当然のように期待していた。ちょうど良いタイミングで、母さんが所属する研究所が見習い法医を募集していたので、母さんは迷わず弟を推薦した。弟は実習生の中でも評判が良く、研究所の上層部も彼が母さんの宝物であることを知っていた。研究所には母さんを崇拝する人も多く、そのため弟も自然とちやほやされていた。「お母さん、最近お金が必要なことが多いんだよ。これからお姉ちゃんにもっとお金を送らせてよ。この前、友達と遊ぶ時にお金がなくてさ、あいつわざと送ってくれなかったんだ。マジでイライラする!」弟は不満げな顔で文句を言う。私はその様子を見ながら、もう心が完全に麻痺していた。目の前の母子が、ただただ刺々しく感じる。幼い頃から、私は終わりのないATMのように扱われていた。大学に入ってからも、奨学金や助成金はすべて母さんと弟に吸い取られた。夏休みにアルバイトをしてようやく貯めた学費も、すぐに弟に要求される始末。「いいからさっさとお金を渡せ。無駄に話を長くするな。金を渡さないと、お前の学校に行って、みんなにバラしてやるからな!」弟はパラサイトのように、私のすべてを奪い取ることに慣れ切っていた。「姉なんだから、弟に譲ってやればいいじゃない!文彦は将来、一家の主になるんだから。今のうちからお金の管理を覚えさせないと」母さんは幼い頃から、弟に「奪うこと」だけを教え、「与えること」を教えることは一度もなかった。私なんて、ただの道具。弟の要求を満たすための存在にすぎなかった。弟は自分の未来に無限の期待を抱いているけれど、残念なことに、彼は法医に向いている人間ではなかった。
弟は研究所での実習は学校よりも楽だと思っていた。けれど、現実は彼に容赦なく牙を剥いた。次の日、研究所に高度に腐敗した遺体が送られてきて、実習生たちはその遺体で検視を行うことになった。「うっ......」遺体安置所に入った途端、弟はすでに吐き気をこらえきれず、ずっとえずいていた。彼が目を向けた先には、腐敗した女性の遺体がベッドの上に横たわっていた。その遺体は膨れ上がり、無数のウジ虫が体を這い回っていた。「もう無理だ、臭すぎる!お前らでやれよ!」弟は床に這いつくばり、大きく口を開けて吐き続けた。「こんな奴が法医なんて無理だろ。さっさと転科でもすれば?」他の実習生が嘲笑を浮かべながら言った。「今じゃ、どこの猫も杓子も法医になれるんだな!」母さんに守られ、ちやほやされて育った弟にとって、こんな屈辱は初めてだった。それでも意地を張り、何とか遺体安置所に残ろうとしたけれど、その後も次々と腐敗した遺体に直面し、弟は何度も何度も嘔吐を繰り返した。「うわぁ......なんでこんなに気持ち悪いんだよ!」それ以来、弟は実習生の間で嘲笑され、見下されるようになった。その日の午後には、弟が行った抜き打ち試験で0点を取ったことが、研究所中で話題になっていた。弟はそれに耐えきれず、母さんに泣きついた。「お母さん、こんな仕事、もう一日も耐えられないよ!これ以上やらされたら、マジで頭おかしくなっちゃうよ!」私はその様子を見て、軽く笑った。法医なんて、誰にでもできるものじゃないんだから。
遺体のDNA鑑定結果が出て、刑事の佐藤隊長は蒼白な顔で母さんの前に立っていた。「桜井さん、凌遅事件の遺体のDNA結果が出ました。これをまずご覧ください」その重苦しい表情に、母さんは不安を感じながらも、書類を受け取った。「生物学的な関係から言うと、彼女はあなたの娘です」母さんの手が震えた。「つまり、彼女は桜井文彦の姉、桜井笑美ということになります」「ありえない!絶対にありえない!どうして私の娘が......この報告、どこか間違っているはずよ!」母さんは佐藤の襟元を掴んで、問い詰め続けた。佐藤は哀れみの表情で母さんを見つめた。「桜井さん、人は死んだら戻りません。どうか、心を落ち着けてください」母さんは狂ったように遺体安置所に飛び込み、その途中で駆け寄ってきた弟とぶつかった。「うわっ!お母さん、何するんだよ!ぶつかったじゃないか!」弟が叫んだが、母さんは聞く耳を持たず、何も言わずに進んでいった。母さんは乱暴に遺体の覆いを剥がした。そこには、私の残された無残な体が横たわっていた。そして、母さんはその腕にある見覚えのあるあざを見つめ、呆然と座り込んでいた。「どうして......こんなことに......」震える声で、母さんは何度も呟いた。その時、弟が無神経にも部屋に入ってきた。母さんの異変にも気づかず、遺体を見て顔をしかめた。「うわ、こんな気持ち悪い死体、なんでまだ置いてるんだよ?さっさと処理しちゃえよ!いったい、何やらかしたらこんな目に遭うんだか......」弟は不快そうに母さんの腕を引っ張りながら言った。「ねぇ、お母さん、さっさとここから出ようよ。こんなところにいたら運が悪くなっちゃうよ」その瞬間、母さんは耐えきれなくなり、弟の腕を払いのけた。「もうやめて!黙りなさい!」
母さんは突然、ヒステリックに叫んだ。涙が顔を流れ、何が悔しさで何が痛みなのか、もうわからなかった。弟はびっくりして、キョトンとした表情を浮かべた。「お母さん、どうしちゃったんだよ?おかしいだろ!俺はお母さんの息子だよ!」その時、佐藤が真剣な顔で弟に向かって話しかけた。「文彦、これは君にとって受け入れ難いことかもしれないが、真実を知る必要があるんだこの遺体は、君のお姉さん、桜井笑美なんだ」弟は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに目を反らし、馬鹿にしたように鼻で笑った。「はぁ?なんで俺にそんな話するんだよ!関係ないだろ!お母さん、佐藤さんにちゃんと言ってやってよ、冗談はやめてくれってさ!」すると、母さんは限界を迎え、弟に向かって何度も平手打ちを食らわせた。「全部お前のせいだ!お前のせいだ!お前のせいだ!」弟は突然のことに何が起きているのかわからず、慌てて叫んだ。「お母さん!なんで殴るんだよ!俺が何をしたっていうんだよ!」二人のやり取りを見かねた佐藤が、大声で制止した。「いい加減にしろ!もうやめろ!」しかし、二人は聞く耳を持たず、佐藤は仕方なく他の警官を呼び、二人を引き離した。長い間、私は彼らが罰を受けることを望んでいた。でも、まさかこんな形で喧嘩するなんて、思ってもみなかった。「たかが死んだ姉だろ?なんでそんなに騒ぐんだよ!どうせ、あいつが生きてても不幸しかもたらさなかったんだから!」私は遺体安置所のベッドの上から冷ややかに二人を見下ろしていた。滑稽だ、本当に滑稽だ。やっぱり家族って、互いに理解し合うものなんだよね。時には、こんな風に犬同士で噛み合って、ストレスを発散することも必要なんだろう。
彼らの様子を見て、佐藤も辛そうな表情を浮かべていた。誰も、被害者が同僚の娘だとは思ってもみなかった。佐藤が何度も母さんと弟をなだめて、ようやく二人の争いは落ち着いた。そして、佐藤は母さんに尋ねた。「笑美さんが事件に遭った日、何か特別な異常はありましたか?」その言葉を聞いた瞬間、母さんの頭にあの日のことがよぎり、ゾッとした。そう、あの時の私の電話は本物だったのだ。「母さん、痛い......助けて!」私は死にかけながら、母さんに必死で電話をかけた。もし、あの時少しでも私を気にかけてくれたなら、私はまだ生きていたかもしれない。だけど、皮肉なことに、母さんは私を罵り続けた。「くだらない子!またスマホで変なことしてるのね!まったく、また何か企んでるに決まってるわ。お姉ちゃんは嘘ばっかりつくんだから、ほっとけばいいのよ」母さんは壁にもたれ、顔を両手で覆いながら泣き崩れた。「笑美......母さん、いったい何をしてしまったの......どうしてこんなことに......」私はその光景を上から見下ろしながら、呆れて笑いたくなった。生きている時には、私を見向きもしなかったくせに。死んでからは、こうして涙を流す。なんて滑稽なことだろう。佐藤は、母さんの情緒不安定な様子を見て、それ以上の質問を控えた。弟は悪態をつきながら、そのまま一人で帰っていった。彼はこの出来事をまったく気にしていなかった。母さんがただ狂っているだけだと思っていたのだ。残された母さんは、遺体安置所で一人謝り続けた。「笑美、ごめんなさい......母さん、本当に知らなかったのよ......」彼女は嗚咽を漏らし、涙で顔をくしゃくしゃにしていた。声は震え、まともに話すこともできないほどだ。私は、その姿を見ながら皮肉な笑みを浮かべた。ああ、もし私が声を出せるなら、こんな虚偽に満ちた母さんの顔を叩きたい。そして、私が受けてきた数々の屈辱を語りたかった。彼女は私を生んだだけで、育てた覚えなんて一切ない。与えられたのは、苦しみと傷だけだった。でも、まさか彼らがこんな形で報いを受けるとは思ってもみなかった。
暗い廊下を、弟は独り歩いていた。彼はイライラしながら悪態をつき続けていた。「なんだよ、死んだら死んだで終わりにしろよ。お母さんまで頭おかしくなっちまって、最悪だ!自分が無能なだけだろ。死んで当然だよな」歩いていると、背中に視線を感じた。しかし、振り返っても誰もいない。彼は思わず寒気を感じ、足を速めた。その時、突然天井から大きな網が降ってきて、弟はしっかりと捕らえられてしまった。「うわっ!」彼の叫び声が夜空に響く。暗闇の中から、いくつもの手が伸びて彼を押さえつけ、その口を布で塞いだ。「動くな、下手に動けば、すぐに殺すぞ」月明かりの下、弟はようやく周囲の状況を確認した。いかつい男たちが彼の口に布を押し込み、しっかりと縛り上げていた。「なんだ、この白い肌。男のくせに、こんなに尻がキュッと上がってるなんて、そりゃ歩いてるだけで狙われるわな」彼らは唇を舐め、弟の顔を興味津々に眺めた。その時、曲がり角から声が聞こえてきた。杖をついた近視の老人が近づいてきた。「何を騒いでるんだ、こんな夜中に......命が惜しくないのか?おいおい、これは虎か?こんな大きな網を使って、まだ生きてるのか!兄ちゃん、お前らも勇気があるな。夜中に虎を捕まえて、食われたりしないのか?」「いやいや、この虎はおとなしいもんさ」男たちは大笑いした。「お爺さん、さっさと帰れよ。この虎がお前を傷つけたら、大変だぞ」弟は必死に「んんんっ」と叫び、恐怖で目を見開いた。「うわああ――!」先ほどよりもさらに大きな叫び声が夜を裂いた。男たちは、持っていた器具を使って弟を蹂躙した。彼がいくらもがいても、無駄だった。どれだけ叫ぼうが、助けなんて来ない。なぜなら、その時、母さんはまだ遺体安置所で泣きながら懺悔をしていて、家に帰る気などなかったからだ。