涼川匠と結婚して七年目。彼は私の子供を初恋の人に託すと言い出した。 私に治験の協力を求め、彼女の病気を治すという。 「ただの薬だよ、若菜。多少、精神面で副作用が出るかもしれないけど、大したことじゃない」 そう言われるまま、私は彼の目の前で同意書にサインをした。人体実験台になることを、自ら受け入れたのだ。 だが、彼の言う「精神面での副作用」は、記憶の消失を意味していた。 やがて私は、自分に子供がいたことすら忘れ始めた。 彼が私の人生を踏みにじったことも。 必死に愛し続けた日々の記憶も。 そして、ついには彼が私の夫だということまでも。 「すみません、どなた様でしょうか? 奥様でしたら、あちらにいらっしゃいますが」 私がそう言って隣を指差すと、彼は涙をこぼした。 不思議な方だこと。 私が微笑みかけただけなのに、どうして泣いているの?
もっと見る「同じドアの向こうに、別の人間が住んでるなんて、誰も気付かないさ」完全な狂人。私は必死に暴れ始めた。涼川は軽く私の頬を叩くと、一気に私を抱え上げた。背中に担がれて。18階の部屋のバルコニーから覗くと、真っ暗で底が見えなかった。夜風が冷たく、冷や汗で濡れた服を揺らす。思わず震えが走る。隣のバルコニーに飛び移るつもりらしい。私の体からは力が抜け切っていた。一時間が過ぎた。もう逃げられない。絶望的な気持ちに沈んでいた時、玄関に微かな物音がした。暗闇の中、涼川の目が不安げに揺れるのが見えた。「まさか......どうやって見つけた?」涼川男は私の襟を掴み、狂気の目で睨みつける。「若菜、お前か?言え!どうやって連絡した?」もう、全てが終わりに近付いている。私は微笑んで、胸元を指差した。細いネックレスに吊るされたルビー。よく見ると、かすかな赤い光が。肉眼では気付けないほどの。隠しカメラ。特殊部隊の整然とした足音が近付いてくる。無数の銃口が涼川に向けられる。涼川は私を盾にした。血走った目で、追い詰められた獣のようだった。私は溜息をつく。「もういいでしょう、匠。逃げられないわ」すると彼は耳元に唇を寄せ、低く笑いながら一言一言囁いた。「若菜、一緒に死のう、な?」そう言って、私の腰を抱えたまま窓から飛び降りた。でも残念なことに。彼は地面に叩きつけられ、血飛沫を上げた。一方私は、用意されていたエアマットの上に助けられた。かすり傷一つ負わなかった。全ては、白く混ざった脳漿が血と共に流れ出し、雨に洗い流されて消えていった。かわりに、私の新しい人生が、始まる。30年分の苦労をすっ飛ばして、お金持ちになれたわ。良かったけれど、誰にもこんな目には遭って欲しくない。陽の光が暖かい。生きているって、素晴らしいわね。
財産の大半を私に譲るなんて馬鹿ね。少しだけ付き合ってあげるわ。可哀想な人。妻に裏切られて。実の子を殺しておいて、他人の子供を可愛がるなんて。惨めね。完全な負け犬よ。私は警察に足を運んだ。「速報です。当市で重大事件が発生。涼川グループ会長の涼川匠による人体実験事件として捜査が進められています。被害者に違法薬物を投与した疑いが......関係当局が捜査を開始、涼川容疑者は行方を眩ましています」テレビを消して、大きく伸びをする。窓の外は街灯が煌めいている。お腹が空いてきたわ。出前を頼んで、ワインを口に運ぶ。眼下に広がる街並みを見下ろしながら。あいつが大金をくれなければ、こんな豪邸に住めなかったでしょうね。贖罪代だと思えばいいわ。これまでの仕打ちの分。インターホンが鳴って、ドアを開けた瞬間。顔に布が押し付けられた。意識が遠のく前、見覚えのある黒い瞳と目が合った—。目が覚めると、寝室のベッドに縛り付けられていた。手足を拘束されたまま。傍らには血走った目で私を見つめる男。目が覚めたのが分かると、喜色を浮かべた。嫌悪を露わにして顔を背けると、強引に戻された。月明かりに照らされた男の顔は疲労の色が濃く。かつての整った顔立ちは影を潜め、無精髭は伸び放題、目は充血していた。何日も洗っていない髪は脂ぎって、鼻を突く匂いを放っている。服も汚れたまま。惨めね。私が気を失っている間、風呂にも入れなかったってわけ。そんなに私が逃げるのが怖いの?一瞬たりとも目を離さないなんて。壁掛け時計をさりげなく確認する。それほど長くは気を失っていなかったみたいだった。「一緒に行こう、若菜。海外に逃げるんだ。誰も知らない場所へ。俺たち二人で生きていくんだ」あえて刺すように言ってみる。「お姉さまは?一緒に連れていかないの?」男の表情が一瞬で曇る。「あの女の話はもうやめろ。腹の子は俺の子じゃない。籍を入れた途端、間男と示し合わせて俺を殺そうとした……財産が目当てだったんだ」地獄から這い上がってきた悪鬼のように、男は狂ったように笑う。「でも早く気付いて良かった。二人とも始末してやった。奴らの目の前で、あいつの腹を裂いて、中の子供を引きずり出してやったんだ。
まるで人が変わったように、涼川は昼夜を問わず私の後を追い回すようになった。「若菜、ほら見て。陽太だよ。僕たちの子供」赤ちゃんを両手で大切そうに抱え、私の前に差し出す。生後六ヶ月の赤ちゃんは、白くふっくらとした頬をして、大きな瞳で何も分からない様子で私を見つめていた。私は軽く目をやっただけで、早々に返すように促した。すると涼川は目を真っ赤にして、声を震わせた。「子供まで見捨てるつもりなのか......なら俺も、いつか捨てられるのか?」左手で筆を動かしながら、平然と答える。「子供はずっと姉さんが育ててるでしょう?長く離れていたから、私を怖がってるはず」涼川は血の気が引いたように青ざめ、言葉を失った。ふうん。このクチナシの花は、前より少しマシね。そう、私はまた絵を描き始めていた。右手は使えなくなったけれど、左手で描けるようになった。まるで取り憑かれたように、クチナシの花ばかり描いている。心の奥で、このクチナシの花は私にとって大切なものだと、誰かが囁いている気がする。でも、なぜなのかは分からない。「よくもそんな策を考えついたわね」大きな腹を抱えた姿が現れた。「駆け引きのつもり?」冷笑を浮かべて続ける。「残念だけど、私と匠の子供がもうすぐ生まれるの。そんな手には乗らないわ」私は一瞥もくれず、手元のクチナシの花を描き続けた。彼女は苛立ちを覚えたのか、不意に笑みを浮かべた。「ねえ若菜、匠にはもう、この子しかいないのよ。陽太は死んだの」筆が止まり、一本の線が歪んだ。クチナシの花も、真ん中から引き裂かれたように見えた。目を伏せたまま、新しい画用紙を取る。「どうして死んだのか、聞きたくない?」私の反応が演技なのか本心なのか測りかねている様子で、不満げな声で、でも目には笑みを浮かべながら。「夜泣きがうるさくて。お腹が空いてるのかと思って、ミルクを作ってあげたの。赤ちゃんって本当に繊細ね。少し熱いお湯も飲めないなんて…」大きな腹を優しく撫でながら、柔らかな声で続けた。「でも今は分かったわ。私と匠の子は、大切に育てるから」だから最近、涼川が姿を見せないのね。きっと後ろめたさで、眠れない夜を過ごしているんでしょう。あの子が生き延びていたとしても、こ
眉から目、鼻筋、そして唇へと。前より何倍も丁寧に見つめた。そして、はっきりと気付いた。彼に関する記憶が、ほとんど消えてしまっているということに。でも彼は、完全に取り乱したようだ。「もう離してくれる?食事の邪魔」彼の手を払いのけ、手首をくるくると回す。痛っ。結構痛むじゃない。「匠、どうしたの?」涼川は手を振り、魂を抜かれたように呟く。「いや、なんでもない」千夜に答えているのか、独り言なのか分からない。あれ以来、彼は気が狂ったように。しょっちゅう私の前をうろつき回るようになった。うんざりする。「涼川さん、姉さんが好きなら、離婚届にサインして。お互い清々しく別れましょう」涼川は無理な笑みを浮かべ「若菜、何を言い出すんだ」「お前こそが俺の妻だ」そう言いながら私の手を取って、胸に当てた。「約束しただろう。姉さんが治ったら、また一からやり直すって」嘘を言っているとしか思えない。だって、そんな約束の記憶なんて、どこにもないから。「ほら、結婚一周年の記念に君からもらった腕時計だ。大切に持っていたんだ」涼川は宝物のように、ほとんど新品同様の時計を差し出した。ブランド品でもなさそう。私、そんなに貧乏だったの?「覚えていません」「じゃあこれは?七年の結婚生活で、君は毎年記念日に心のこもったプレゼントをくれた二周年のペアリング、三周年のタイピン…」涼川の目は輝きを増していく。私の頭の中は、真っ白なまま。執事の話では、私たち夫婦の仲は最悪で、ほとんど没交渉だったはずなのに。記念日のプレゼントなんて、用意するはずがない。首を横に振る。「覚えていません」涼川の表情から光が消えた。「これは?四年前、俺が事故で意識不明になった時、君が必死に祈って手に入れた御守りだ。ずっと手首につけていたんだ」涼川男は焦ったように「この前、千夜が欲しがって、こっそり持って行ってしまって......でも、取り返してきたんだ」涼川は緊張した面持ちで手首を見せ、私の反応を窺う。「姉さんが欲しいなら、あげればいいじゃない。ただの御守りでしょう」涼川の平静な表情が、ひび割れていく。「若菜、どうして......何も覚えていないのか?」掌から血が滴り落ちているのに気付い
豪邸に戻っても、私の心は不思議なほど静かだった。「奥様、お部屋はあちらです」そう?私は二階の主寝室をじっと見つめた。確か、私はあそこに住んでいたはず。最近忘れることが多すぎて、少し混乱しているのかもしれない。「若菜、退院おめでとう」女が二階からゆっくりと降りてきて、程よい喜びを浮かべている。開け放たれた扉の向こうに、ぼんやりと見える。壁に飾られた写真。私の顔が写っている。涼川との結婚写真。なのに今、私の寝室で眠るのは、別の女。視線を戻すと、姉が鋭く私を見つめていた。「吐血したから、匠が連れ戻してくれたんですって?あら、私が選んだ檻が居心地悪かった?だから逃げ出してきたの?ここはもう私の寝室よ。五ヶ月も前からね。可愛い妹には客間を使ってもらうことになるわ」冷ややかな瞳で私を見据えながら、「しっかり見ていらっしゃい」そう言うと、表情が一変した。額を棚の角にぶつけ、鮮血が可憐な頬を伝い落ちる。「若菜どうして?どうして私を突き飛ばすの?私が何か悪いことをしたの?」か細い声で続ける。「教えて、私、直すから。何でも直すわ」私は黙って彼女の芝居がかった演技を眺め、吐き気を覚えた。むかつく、気持ち悪い。「直すだって?」涼川は千夜の額の傷を心配そうに見つめた。「若菜、善意で戻らせてやったのに姉さんに手を上げるなんて、許されることじゃないぞ」涼川は傷ついた女を抱きかかえ、寝室へと消えていった。「千夜、怖くないよ。もう医者を呼んである」私の姉は甘えるように涼川の肩に頭を寄せ。可愛らしく痛みを訴える。一方私は、腕を背中に捻じ上げられ、冷たい床に頬を押しつけられた。必死に顔を上げると、その美しい瞳には悪意が満ちていた。見慣れた、勝者の嘲笑。療養院から逃げ出せたところで、何になる?一つの檻から、別の檻に移されただけ。戻ってすぐに姉の額を割らせた私は、客間から出ることを固く禁じられた。治験の頻度は増していった。記憶を失う速度も、徐々に加速していった。ある日、珍しく食堂に呼ばれた。涼川と姉は寄り添って座り、互いの取り皿に食べ物を載せ合う。お似合いのカップルね。でも見ていられない。お箸を舐め合うような真似して、まるで高校生のカップ
それは度重なる暴力で学んだこと。人の体のどこを殴れば、表面に跡を残さず最も痛むのか。私を「自殺未遂」に仕立て上げた医師が一人でいる時を見計らい、人気のない場所へ連れ込んだ。「声を出したら殺すわよ」医師は青ざめた顔で、必死に哀願した。「夏目さん、私たちじゃない......本当は私たちも、望んでいなかったんです......」私は尖った物を彼女の肌に押し付けながら、冷たく問い詰めた。彼女はすぐに白状した。治験なんて嘘。ただの拷問だったのだ。この療養院は、巨大な舞台に過ぎない。医師たちは、ただの詐欺師。医師免許すら持たない偽物たち。芝居は着々と進んでいく。出演者は、私一人だけ。ここから逃げ出さなければ。その後の治験には、涼川は姿を見せなかった。看護師たちの私語を盗み聞きし、真実が少しずつ見えてきた。私に投与された「試作薬」は、ただの向神経性の薬剤。身体には害はないが、精神を刺激するだけのもの。自分が精神を病んでいるからって、他人を苦しめたいの?ねぇ、お姉様。相変わらず残酷なのね。涼川を呼び寄せないと。この療養院は堅固な牢獄。彼が来なければ、逃げ出すチャンスはない。「涼川さんを呼んで。来てくれないなら、薬は飲まないわ」窓際に立ち、足を宙に浮かせて、悠然と揺らした。役者たちは近寄れず、ただ涼川に電話をかけるしかなかった。すぐに、廊下から怒号が響いた。「おい、また何を騒いでいる?」しばらく会っていなかったせいか、その顔が妙に見慣れない。こんなに怒った顔を見るのは珍しい。そうね、私はいつも従順だったから。彼の言うことなら何でも聞いていた。もう少しで目的を達成できるというのに、私が全てを水の泡にしてしまった。さぞ腹立たしいでしょうね。「若菜、千夜は妊娠五ヶ月だ。一日遅れれば遅れるほど、危険は増す。母子の命が危ないんだぞ、見殺しにする気か?」涼川は姿勢を低くし、優しく諭すように言った。でも私は一切取り合わない。「そもそも私の子供でもないし、千夜も私の姉でもない。何の関係があるの?」私の無関心な態度に、彼は完全に激怒した。「こんなに薄情だったとは......千夜はお前の子供の面倒を見てやってるというのに、この仕打ちは何だ!」「
返事を返してくれたのは、冷たい镇静剤の注射だった。「あの人、一体何をしたんでしょう?」「治験台にされるどころか、旦那さんにも見向きもされない。奥様の姉ばかり気にかけて」我慢が限界を超え、口から血が噴き出した。何かが、心の中で音を立てて崩れ落ちていく。これまで私を苦しめていたものが、まるで古い写真のように色褪せていく。鎮静剤が効いてくるにつれ、記憶は砂のように零れ落ちそして、何か大切なものを失くしたような空虚だけが残されたでも、何を忘れたんだろう?分からない。目が覚めると、相変わらず精神病院の中。前回の薬は効果がなく、私には依然として「自傷行為」の傾向があるという。それなのに涼川は言った。「薬が効いても、千夜には使わせない。彼女は痛がりだから」今回の治験に、両親は来なかった。姉は相変わらず白いドレス姿で、可憐な佇まい。「若菜、ごめんなさい。こんなに辛い治験を、全部あなたが受けることになって」薬が効き始め、冷や汗が吹き出す。涼川が心配そうに、私を支えようとした瞬間。背後から悲鳴が上がった。「匠、頭が......クラクラする。また、あの子が......死んた姿が見えるの」「千夜!」涼川は振り返り、彼女を抱き上げた。「彼女を見張っていろ。暴れださせるな」そう言い残して、背を向けて去っていく。不思議だ。見捨てられる光景を見て、私は悲しむはずなのに。今の私の心には、波紋一つ立たない。大人しく、薬の副作用について話す。だが縛帯を解かれた時、医師のノートが目に入った。真っ白な紙面。治験のはずなのに、患者の臨床反応さえ記録していない......これは本当に、ただの治験なのだろうか。もしそうでないのなら、前の二回、私は一体何を飲まされていたの?
「あんたも本当にバカね」耳元で囁かれた言葉に毒が滲む。「命懸けで手に入れた安物のお守りなんて、匠が大切にするとでも思ってたの?」三年前、涼川が海外で倒れた時のことが蘇る。何者かに複数箇所を刺され、意識不明の重体。国内に移送されても、半月以上目覚めることはなかった。毎日、涙で目が腫れるほど泣きながら、全て自分で世話をして、誰にも任せられなかった。市外の山奥に、真心ある者しか参拝できない古刹があると聞いた私は、一歩進んでは三度土下座を繰り返し、額から血を流しながら参道を登った。三千段もの石段を、すすり泣きながら上り詰め、ようやくご本堂の扉が開かれた。お守りを手に病室へ戻ると、涼川の意識は既に戻っていた。真心が本当に神様に届いたのだと、その時は信じていた。それ以来、涼川の態度は徐々に柔らかくなり、幸せな日々が始まると思っていたのに。なのにどうして。赤ちゃんを産んでから一度も、我が子に会わせてもらえない。体の痛みが増してくる。全身を貫く痛みに、震えが止まらない。 必死に歯を食いしばり、喉まで込み上げる悲鳴を押し殺す。 声を漏らせば、また暴力が待っているのだから。悲鳴を上げれば上げるほど、彼らは高揚するのだから。冷たい父と、責めるような目を向ける母。子供の頃からそうだった。「また汚れて帰ってきて」「また、ろくでもない連中と遊んでたんでしょう」そんな両親の前で、猫かぶりの姉。「お父さん、お母さん、若菜を責めないで。若菜の大切な友達なんですから。友達をそんな風に言われると、可哀想よ」暗い子供時代、涼川だけが私の光だった。でも姉が海外に去ってから、その光は影に変わった。七年もの間、心は闇に沈んだまま。精神病院に連れて行かれる時、涼川家の年老いた執事が嘲るように言った。「坊ちゃまに男の子をお産みになっても、無駄なことです。坊ちゃまの心にいらっしゃるのは、最初から千夜様だけ。あなたが必死で産んだお子様も、別の方を母と呼ぶのですよ」下半身が引き裂かれるような痛みの中、赤子の産声が遠くで響いていた。「大出血です!子宮の摘出が必要です!」「なんということだ。転倒さえなければ、順調な出産だったものを......」その言葉に、私の意識が凍りついた。転倒.....
「やめて......お願い......殴らないで、やめて」「痛いの......痛いの......」涼川は男の襟首を掴んだ。「彼女に何をした?」男は眼鏡を直しただけ。レンズが白い光を反射し、背筋が凍るような冷たさを放つ。「涼川様、落ち着いてください」医師は皺になった襟を整えながら言った。「夏目さんは協調性に欠けるもので。乱闘を起こした患者たちには、既に処分を下しました」「患者?」その言葉を噛み締めるように言って、涼川の表情が和らいだ。「若菜、子供の頃と変わらないな」彼は疑うことさえしなかった。だって私は昔から虐められ、どのクラスにも馴染めなかったから。でも、姉が来る前は、私だって愛されていた子だったのに。「これにサインしろ。千夜が治ったら、また一からやり直そう」彼は朱肉の押された書類を丁寧に差し出した。白黒はっきりとした文面には、私が自発的に人体実験を引き受けると書かれていた。強制も脅迫もない。ただの自発的な意思。私は目の奥の熱さを必死に押し殺した。やり直す?かつて心を躍らせた彼の顔を見つめながら、私は名前を書いた。正式な治験が始まる日。病室が賑やかになった。両親も、夫も、姉も来ていた。八つの目が私を焼くように見つめる。「若菜、何を躊躇っているの?お姉さんが薬を待っているのよ」手首に鋭い痛みが走り、私は眉をひそめた。父はそれを不満の表れだと思ったのか。「若菜、いい加減にしなさい。お姉さんは妊娠してるんだ。待てないんだぞ」妊娠?だから涼川は焦っていたのね。私が鬱病にもなっていないうちに、看護師たちに浴室で押さえつけられた。冷たい水に浸かった体。手首から粘つく血が滴り。浴槽の水を赤く染めていく。フラッシュが目を刺す。失血で体が冷たくなり、血の流れが遅くなっていく。乱暴に引き上げられ、手首を包帯で巻かれた時、傷が深すぎて、もう二度と筆は持てないと告げられた。最初、涼川は信じなかった。私が痛がりだということを、知っていたから。子供の頃、少し擦り傷をつくっただけでも泣きながら彼を探していた。そんな私が、決然と自殺するなんて信じられなかったのだ。でも今は信じるしかない。だって私はあんなに絵を描くのが好きだったから。きっと本
七年前、涼川と結婚した時、私たちは本当に愛し合えると信じていた。私は彼と共に、どん底から這い上がり、富と権力を手に入れた。幾度となく夜更けに、彼は私の肩に顔を埋めて囁いた。「若菜がいてくれて、本当に良かった」それなのに、私が子供を産むと、涼川は赤ちゃんを連れ去ってしまった。「産後で体が弱っているんだから。子供は姉さんに預けよう。彼女は君のせいで子供を失ったんだ」彼はまるで当然のように言い放った。今、私に治験を強いているのと、同じような口調で。「君は彼女に借りがあるんだ。姉さんが毎日悪夢に苦しむのを、君だって見過ごせないだろう?」夏目千夜――私の従姉であり、夫の初恋の人。彼女が子供を欲しがれば、涼川は我が子さえ躊躇なく差し出す。彼女がうつ病になれば、私を実験台にすることも厭わない。治験なんて、簡単に聞こえるかもしれない。でも、それは耐えがたい痛みと、終わりのない恐怖との闘いだ。本来なら、厳密な臨床試験を重ねてからでないと使えない薬を、この私の体で試すのだから。私はただの実験動物。彼女のための、生きた実験台。それも、私が千夜の妹だからという理由だけで。血のつながりがあれば、薬の効果も高まるというのだ。たとえ、私たちが疎遠な従姉妹でしかなくても。「治験?ええ、いいわ」喉元に甘い血の味を感じながら、私は微笑んだ。涼川は私を精神病院に入れることにした。より良い実験台として使えるように、と。その前日、七年前に涼川を捨てて海外へ去った彼女と、初めて顔を合わせた。真っ白なワンピース姿の彼女は、まるで人形のように美しく整えられていて、うつ病なんて嘘みたいだった。「まあ、療養院に行くですって?」私が答える間もなく、彼女は艶やかな微笑みを浮かべて続けた。「あなたがいなくなったら、陽太はどうなるのかしら」陽太は、私のたった一人の宝物。難産で子宮を失い、もう二度と母になれない私の、唯一の子供。「お願い......陽太のことを......」震える声で懇願する私に、彼女は愉しげに微笑んだ。「治験台になってくれるお礼よ。もちろん大切にするわ......あなたと同じように育ててあげる。そうでなきゃ、可愛そうでしょう?同じように......ね」その言葉に、私の...
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