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第6話

Author: 篠原 静香
それは度重なる暴力で学んだこと。人の体のどこを殴れば、表面に跡を残さず最も痛むのか。

私を「自殺未遂」に仕立て上げた医師が一人でいる時を見計らい、人気のない場所へ連れ込んだ。

「声を出したら

殺すわよ」

医師は青ざめた顔で、必死に哀願した。

「夏目さん、私たちじゃない......本当は私たちも、望んでいなかったんです......」

私は尖った物を彼女の肌に押し付けながら、冷たく問い詰めた。

彼女はすぐに白状した。

治験なんて嘘。ただの拷問だったのだ。

この療養院は、巨大な舞台に過ぎない。

医師たちは、ただの詐欺師。

医師免許すら持たない偽物たち。

芝居は着々と進んでいく。出演者は、私一人だけ。

ここから逃げ出さなければ。

その後の治験には、涼川は姿を見せなかった。

看護師たちの私語を盗み聞きし、真実が少しずつ見えてきた。

私に投与された「試作薬」は、ただの向神経性の薬剤。

身体には害はないが、精神を刺激するだけのもの。

自分が精神を病んでいるからって、他人を苦しめたいの?

ねぇ、お姉様。相変わらず残酷なのね。

涼川を呼び寄せないと。

この療養院は堅固な牢獄。彼が来なければ、逃げ出すチャンスはない。

「涼川さんを呼んで。来てくれないなら、薬は飲まないわ」

窓際に立ち、足を宙に浮かせて、悠然と揺らした。

役者たちは近寄れず、ただ涼川に電話をかけるしかなかった。

すぐに、廊下から怒号が響いた。

「おい、また何を騒いでいる?」

しばらく会っていなかったせいか、その顔が妙に見慣れない。

こんなに怒った顔を見るのは珍しい。

そうね、私はいつも従順だったから。

彼の言うことなら何でも聞いていた。

もう少しで目的を達成できるというのに、私が全てを水の泡にしてしまった。

さぞ腹立たしいでしょうね。

「若菜、千夜は妊娠五ヶ月だ。一日遅れれば遅れるほど、危険は増す。

母子の命が危ないんだぞ、見殺しにする気か?」

涼川は姿勢を低くし、優しく諭すように言った。

でも私は一切取り合わない。

「そもそも私の子供でもないし、千夜も私の姉でもない。何の関係があるの?」

私の無関心な態度に、彼は完全に激怒した。

「こんなに薄情だったとは......

千夜はお前の子供の面倒を見てやってるというのに、この仕打ちは何だ!」

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    豪邸に戻っても、私の心は不思議なほど静かだった。「奥様、お部屋はあちらです」そう?私は二階の主寝室をじっと見つめた。確か、私はあそこに住んでいたはず。最近忘れることが多すぎて、少し混乱しているのかもしれない。「若菜、退院おめでとう」女が二階からゆっくりと降りてきて、程よい喜びを浮かべている。開け放たれた扉の向こうに、ぼんやりと見える。壁に飾られた写真。私の顔が写っている。涼川との結婚写真。なのに今、私の寝室で眠るのは、別の女。視線を戻すと、姉が鋭く私を見つめていた。「吐血したから、匠が連れ戻してくれたんですって?あら、私が選んだ檻が居心地悪かった?だから逃げ出してきたの?ここはもう私の寝室よ。五ヶ月も前からね。可愛い妹には客間を使ってもらうことになるわ」冷ややかな瞳で私を見据えながら、「しっかり見ていらっしゃい」そう言うと、表情が一変した。額を棚の角にぶつけ、鮮血が可憐な頬を伝い落ちる。「若菜どうして?どうして私を突き飛ばすの?私が何か悪いことをしたの?」か細い声で続ける。「教えて、私、直すから。何でも直すわ」私は黙って彼女の芝居がかった演技を眺め、吐き気を覚えた。むかつく、気持ち悪い。「直すだって?」涼川は千夜の額の傷を心配そうに見つめた。「若菜、善意で戻らせてやったのに姉さんに手を上げるなんて、許されることじゃないぞ」涼川は傷ついた女を抱きかかえ、寝室へと消えていった。「千夜、怖くないよ。もう医者を呼んである」私の姉は甘えるように涼川の肩に頭を寄せ。可愛らしく痛みを訴える。一方私は、腕を背中に捻じ上げられ、冷たい床に頬を押しつけられた。必死に顔を上げると、その美しい瞳には悪意が満ちていた。見慣れた、勝者の嘲笑。療養院から逃げ出せたところで、何になる?一つの檻から、別の檻に移されただけ。戻ってすぐに姉の額を割らせた私は、客間から出ることを固く禁じられた。治験の頻度は増していった。記憶を失う速度も、徐々に加速していった。ある日、珍しく食堂に呼ばれた。涼川と姉は寄り添って座り、互いの取り皿に食べ物を載せ合う。お似合いのカップルね。でも見ていられない。お箸を舐め合うような真似して、まるで高校生のカップ

  • 恋の毒が私を溶かす   第6話

    それは度重なる暴力で学んだこと。人の体のどこを殴れば、表面に跡を残さず最も痛むのか。私を「自殺未遂」に仕立て上げた医師が一人でいる時を見計らい、人気のない場所へ連れ込んだ。「声を出したら殺すわよ」医師は青ざめた顔で、必死に哀願した。「夏目さん、私たちじゃない......本当は私たちも、望んでいなかったんです......」私は尖った物を彼女の肌に押し付けながら、冷たく問い詰めた。彼女はすぐに白状した。治験なんて嘘。ただの拷問だったのだ。この療養院は、巨大な舞台に過ぎない。医師たちは、ただの詐欺師。医師免許すら持たない偽物たち。芝居は着々と進んでいく。出演者は、私一人だけ。ここから逃げ出さなければ。その後の治験には、涼川は姿を見せなかった。看護師たちの私語を盗み聞きし、真実が少しずつ見えてきた。私に投与された「試作薬」は、ただの向神経性の薬剤。身体には害はないが、精神を刺激するだけのもの。自分が精神を病んでいるからって、他人を苦しめたいの?ねぇ、お姉様。相変わらず残酷なのね。涼川を呼び寄せないと。この療養院は堅固な牢獄。彼が来なければ、逃げ出すチャンスはない。「涼川さんを呼んで。来てくれないなら、薬は飲まないわ」窓際に立ち、足を宙に浮かせて、悠然と揺らした。役者たちは近寄れず、ただ涼川に電話をかけるしかなかった。すぐに、廊下から怒号が響いた。「おい、また何を騒いでいる?」しばらく会っていなかったせいか、その顔が妙に見慣れない。こんなに怒った顔を見るのは珍しい。そうね、私はいつも従順だったから。彼の言うことなら何でも聞いていた。もう少しで目的を達成できるというのに、私が全てを水の泡にしてしまった。さぞ腹立たしいでしょうね。「若菜、千夜は妊娠五ヶ月だ。一日遅れれば遅れるほど、危険は増す。母子の命が危ないんだぞ、見殺しにする気か?」涼川は姿勢を低くし、優しく諭すように言った。でも私は一切取り合わない。「そもそも私の子供でもないし、千夜も私の姉でもない。何の関係があるの?」私の無関心な態度に、彼は完全に激怒した。「こんなに薄情だったとは......千夜はお前の子供の面倒を見てやってるというのに、この仕打ちは何だ!」「

  • 恋の毒が私を溶かす   第5話

    返事を返してくれたのは、冷たい镇静剤の注射だった。「あの人、一体何をしたんでしょう?」「治験台にされるどころか、旦那さんにも見向きもされない。奥様の姉ばかり気にかけて」我慢が限界を超え、口から血が噴き出した。何かが、心の中で音を立てて崩れ落ちていく。これまで私を苦しめていたものが、まるで古い写真のように色褪せていく。鎮静剤が効いてくるにつれ、記憶は砂のように零れ落ちそして、何か大切なものを失くしたような空虚だけが残されたでも、何を忘れたんだろう?分からない。目が覚めると、相変わらず精神病院の中。前回の薬は効果がなく、私には依然として「自傷行為」の傾向があるという。それなのに涼川は言った。「薬が効いても、千夜には使わせない。彼女は痛がりだから」今回の治験に、両親は来なかった。姉は相変わらず白いドレス姿で、可憐な佇まい。「若菜、ごめんなさい。こんなに辛い治験を、全部あなたが受けることになって」薬が効き始め、冷や汗が吹き出す。涼川が心配そうに、私を支えようとした瞬間。背後から悲鳴が上がった。「匠、頭が......クラクラする。また、あの子が......死んた姿が見えるの」「千夜!」涼川は振り返り、彼女を抱き上げた。「彼女を見張っていろ。暴れださせるな」そう言い残して、背を向けて去っていく。不思議だ。見捨てられる光景を見て、私は悲しむはずなのに。今の私の心には、波紋一つ立たない。大人しく、薬の副作用について話す。だが縛帯を解かれた時、医師のノートが目に入った。真っ白な紙面。治験のはずなのに、患者の臨床反応さえ記録していない......これは本当に、ただの治験なのだろうか。もしそうでないのなら、前の二回、私は一体何を飲まされていたの?

  • 恋の毒が私を溶かす   第4話

    「あんたも本当にバカね」耳元で囁かれた言葉に毒が滲む。「命懸けで手に入れた安物のお守りなんて、匠が大切にするとでも思ってたの?」三年前、涼川が海外で倒れた時のことが蘇る。何者かに複数箇所を刺され、意識不明の重体。国内に移送されても、半月以上目覚めることはなかった。毎日、涙で目が腫れるほど泣きながら、全て自分で世話をして、誰にも任せられなかった。市外の山奥に、真心ある者しか参拝できない古刹があると聞いた私は、一歩進んでは三度土下座を繰り返し、額から血を流しながら参道を登った。三千段もの石段を、すすり泣きながら上り詰め、ようやくご本堂の扉が開かれた。お守りを手に病室へ戻ると、涼川の意識は既に戻っていた。真心が本当に神様に届いたのだと、その時は信じていた。それ以来、涼川の態度は徐々に柔らかくなり、幸せな日々が始まると思っていたのに。なのにどうして。赤ちゃんを産んでから一度も、我が子に会わせてもらえない。体の痛みが増してくる。全身を貫く痛みに、震えが止まらない。 必死に歯を食いしばり、喉まで込み上げる悲鳴を押し殺す。 声を漏らせば、また暴力が待っているのだから。悲鳴を上げれば上げるほど、彼らは高揚するのだから。冷たい父と、責めるような目を向ける母。子供の頃からそうだった。「また汚れて帰ってきて」「また、ろくでもない連中と遊んでたんでしょう」そんな両親の前で、猫かぶりの姉。「お父さん、お母さん、若菜を責めないで。若菜の大切な友達なんですから。友達をそんな風に言われると、可哀想よ」暗い子供時代、涼川だけが私の光だった。でも姉が海外に去ってから、その光は影に変わった。七年もの間、心は闇に沈んだまま。精神病院に連れて行かれる時、涼川家の年老いた執事が嘲るように言った。「坊ちゃまに男の子をお産みになっても、無駄なことです。坊ちゃまの心にいらっしゃるのは、最初から千夜様だけ。あなたが必死で産んだお子様も、別の方を母と呼ぶのですよ」下半身が引き裂かれるような痛みの中、赤子の産声が遠くで響いていた。「大出血です!子宮の摘出が必要です!」「なんということだ。転倒さえなければ、順調な出産だったものを......」その言葉に、私の意識が凍りついた。転倒.....

  • 恋の毒が私を溶かす   第3話

    「やめて......お願い......殴らないで、やめて」「痛いの......痛いの......」涼川は男の襟首を掴んだ。「彼女に何をした?」男は眼鏡を直しただけ。レンズが白い光を反射し、背筋が凍るような冷たさを放つ。「涼川様、落ち着いてください」医師は皺になった襟を整えながら言った。「夏目さんは協調性に欠けるもので。乱闘を起こした患者たちには、既に処分を下しました」「患者?」その言葉を噛み締めるように言って、涼川の表情が和らいだ。「若菜、子供の頃と変わらないな」彼は疑うことさえしなかった。だって私は昔から虐められ、どのクラスにも馴染めなかったから。でも、姉が来る前は、私だって愛されていた子だったのに。「これにサインしろ。千夜が治ったら、また一からやり直そう」彼は朱肉の押された書類を丁寧に差し出した。白黒はっきりとした文面には、私が自発的に人体実験を引き受けると書かれていた。強制も脅迫もない。ただの自発的な意思。私は目の奥の熱さを必死に押し殺した。やり直す?かつて心を躍らせた彼の顔を見つめながら、私は名前を書いた。正式な治験が始まる日。病室が賑やかになった。両親も、夫も、姉も来ていた。八つの目が私を焼くように見つめる。「若菜、何を躊躇っているの?お姉さんが薬を待っているのよ」手首に鋭い痛みが走り、私は眉をひそめた。父はそれを不満の表れだと思ったのか。「若菜、いい加減にしなさい。お姉さんは妊娠してるんだ。待てないんだぞ」妊娠?だから涼川は焦っていたのね。私が鬱病にもなっていないうちに、看護師たちに浴室で押さえつけられた。冷たい水に浸かった体。手首から粘つく血が滴り。浴槽の水を赤く染めていく。フラッシュが目を刺す。失血で体が冷たくなり、血の流れが遅くなっていく。乱暴に引き上げられ、手首を包帯で巻かれた時、傷が深すぎて、もう二度と筆は持てないと告げられた。最初、涼川は信じなかった。私が痛がりだということを、知っていたから。子供の頃、少し擦り傷をつくっただけでも泣きながら彼を探していた。そんな私が、決然と自殺するなんて信じられなかったのだ。でも今は信じるしかない。だって私はあんなに絵を描くのが好きだったから。きっと本

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