深夜、私は癌が再発し、夫にすがるように懇願した。 「お願い、病院に連れて行って」 しかし彼は振り返ることなく、そのまま彼の「思い人」のもとへ向かってしまった。そして去り際にただ一言だけ残した。 「演技がますます巧くなったな」 十年間の真心が返ってきたのは、ただ傷だけだった。 その後、彼の思い人は交通事故に遭い、緊急の手術が必要になった。 彼らを成就させるために、私は心臓を彼女に移植することを決めた。 けれど、私が死んだ後――私を憎み抜いていたはずの夫は、狂ってしまった......
View More食事が運ばれてくると、店員が笑顔で勧めてきた。「お二人にお店からサービスでマンゴーアイスをお出しできます。食後にいかがですか?」桜井は礼儀正しく首を振った。「遠慮させていただきます」「美味しいよ」「マンゴーにアレルギーがあるので......」その言葉を聞いて、俺の手が一瞬止まった。――桜もマンゴーアレルギーだった。付き合い始めた頃、彼女をマンゴーアイスに連れて行ったことがある。桜は楽しそうに2杯食べたが、あとで全身に赤い発疹が出ていた。彼女はその時、一言も文句を言わなかった――ただ俺に水を差したくなかったのだろう。俺は目を閉じ、胸を締め付ける痛みに耐えた。神崎グループは、新たに買い取ったミステリー系ホラー作品の映画化を進めていた。キャスティングディレクターは主役の候補として川崎司(かわさき つかさ)を推し、ヒロインには別の事務所に所属する女優を提案してきた。しかし、俺はシナリオを読み終えると、ヒロイン役には桜井が適していると判断した。その知らせを受けた桜井は、喜びを隠せず俺の前で飛び跳ね、思わず抱きついてきた。俺をぐるぐる回すその様子に、目の前にいるのが若い頃の桜に思えてしまい、俺は一瞬言葉を失った。桜の命日に寄せて。数日後は桜の命日だった。俺は決めていた――これから毎年、桜を連れてどこかへ旅をする、と。彼女がいないこの世を生きる限り、その約束を守り続けよう。そして、いつか俺も彼女に会いに行ける日が来るまで。最近、俺は彼女との過去の記憶を何度も夢に見るようになっていた。その夢は甘く、美しく、しかし目覚めるたびに俺の心を切り刻む。時には、夢と現実の区別がつかなくなるほどだ。夢の中では桜と俺に子どもがいて、家族の時間を楽しんでいた。目が覚めた後も、しばらくその延長線上で生活しているかのように振る舞ってしまうことがある。だが、現実の静まり返った部屋や、使用人が驚いた顔をするたびに、自分がいかに滑稽かを思い知らされる。桜はもういない――その事実を誰よりも知っているのは俺だ。それでも、どうしても受け入れられない自分がいる。映画の撮影が終わる頃、SNSに衝撃的なニュースが駆け巡った。「神崎エンターテインメント所属の新進女優、桜井愛と演技派俳優の川崎司が交際
一年後。神崎グループが新たに立ち上げたエンターテインメント会社は、設立から非常に多忙を極めていた。時には食事を取る時間もないほどだった。そんな俺の生活を気にかけた母が、家に来て世話を焼いてくれるようになった。だが、本当の理由は分かっている――母は自分の友人の娘との縁談を進めたいのだ。家に帰ると、母がスープを手にしてダイニングテーブルに置くところだった。その視線を感じ、俺は食事を始める前に声をかけた。「母さん、何か話があるんだろう?」母は微笑みながら、スマートフォンを取り出してアルバムを開き、俺に見せてきた。「この子ね、岸谷さんの娘さんよ。今年留学から帰ってきたの。すごく綺麗な子で、性格もいいのよ。お母さんも直接会ったけど、いい子だったわ」俺は母の手をそっと握り、低い声で言った。「母さん、もうこういうお見合いの話はしないでくれ。俺はもう結婚しない」桜は俺が誰かと再婚することを望んではいないだろう――けれど、それでも俺は彼女を守り続けたい。母はしばらく無言だったが、深くため息をつくと頷いた。俺は運転手に彼女を家まで送るよう指示し、一人残された広い屋敷に戻る。ソファに仰向けになり、リビングのシャンデリアをぼんやりと見上げた。そのシャンデリアは桜が選んだものだった。――彼女が目を輝かせてこれを選んでいた姿を、今でも鮮明に思い出す。俺は安眠薬を2錠飲み込んだ。この一年間、ろくに眠れない日々が続いている。――まだ一度も夢で桜に会えていない。ただ話したい。彼女を抱きしめたい。「ごめん」と伝えたい。俺は桜の部屋に足を踏み入れ、そのベッドに身を投げ出した。夜の訪れ。町全体が夜の闇に包まれる中、俺は微睡みに落ちた。「幸也」顔に触れる柔らかい感触で目を覚ますと、そこには桜がいた。俺は一瞬呆然とした後、彼女を強く抱きしめた。彼女の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、涙を流す。「桜......会いたかった」彼女の肌は温かく、俺は抱きしめた手を離せなかった。「まるで子どもみたい」桜は優しく俺の髪を撫でた。目を閉じたまま、俺は彼女に口づけた。首筋から顎、顔、そして瞳に。「くすぐったい......」桜が身をよじるようにして俺を避けた瞬間、俺は目を開けた。
翌朝、神崎家。俺は監視カメラの映像を見つめていた。桜の部屋で何が起きているのか、全てを把握している。美羽が化粧台の引き出しを開け、中からアクセサリーをいくつか取り出してポケットに隠した。俺は車で美羽を尾行し、彼女が盗んだアクセサリーを二次販売のブランドショップで売却するのを確認した。さらに、彼女を追って街外れの狭い路地へ向かう。彼女の家がそこにあった――賃貸のボロボロの家だ。もともと家族が住んでいた家は、彼女の継父がギャンブルで失ったらしい。美羽が家に入ると、継父はいやらしい笑みを浮かべながら彼女を上から下まで舐め回すように見つめ、バッグを奪おうと手を伸ばした。美羽は眉をひそめ、一歩後ずさりしてバッグを継父に投げ渡した。俺はタバコを一服しながら静かに110番通報した。家を出た美羽は、すぐに警察に呼び止められた。「白崎美羽さんですね。窃盗の容疑でご同行いただきます」「何の話ですか!」美羽は眉間にしわを寄せて反論するが、周囲の住民たちはその様子を見ようと外に出てきた。俺は遠くから、美羽が警察車両に乗せられるのを見届けた。翌朝、警察署で。美羽は一晩中取り調べを受け、すっかり精神的に追い詰められていた。留置室の隅で膝を抱え、ぼんやりとした表情で座り込んでいる。俺は逆光の中に立ち、彼女をじっと見下ろした。気配に気づいた美羽は顔を上げ、俺の姿を確認するなり目を輝かせて鉄格子にしがみついた。「幸也!幸也、迎えに来てくれたんでしょ?」俺は冷淡な視線を彼女に向けるだけだった。「白崎さん」距離を感じさせるように静かに声をかけた。「盗みを働いた者は、それなりの罰を受けるべきだ」美羽は慌てて弁解し始める。「違うの、幸也!聞いて!私の継父が私を脅したのよ。あの人、私のお母さんを殴って、お金を要求してきたの!」彼女は必死に言葉を重ねるが、俺の無感情な目を見て、言葉を詰まらせた。すると、彼女の態度が一変し、声を荒げた。「幸也、あなた本当にそれでいいの?忘れたの?佐々木さんはあなたを裏切ったのよ!それを助けたのは私よ!私だって心臓病で死にかけたのよ!」「心臓」という言葉が出た瞬間、俺の表情が僅かに変わった。ゆっくりと鉄格子に近づき、彼女の首を掴む。力がこもる手のひらに、美羽の
秋風に揺れる木の葉が足元に落ちてきた。それは桜が好きだったカエデの葉だった。俺はしゃがみ込み、それを拾い上げた。「神崎さん」後ろから声をかけられ、振り返る。「佐藤先生が治療室でお待ちです」俺は目を閉じ、短く息を吐く。治療に対する苛立ちは薄れ、もはや抗う気力もない。治療室で佐藤先生がいつものように穏やかに話しかけてくる。鼓動のような規則的な機械音が耳に響く中、次第に意識が薄れていくのを感じた。まどろみの中、桜の姿が浮かんだ。初々しい頃の桜だ。まだ幼さが残る丸みを帯びた頬、輝く黒髪、純粋で愛らしい笑顔。記憶の中で、桜との過去が次々と流れていく。「幸也、私、20歳であなたのお嫁さんになりたい」「神崎幸也、愛してる」「神崎幸也、別れましょう」「離婚しましょう」「病気なの。お腹が痛いの」......その声が心を刺すたび、痛みが胸を締め付けた。やがて鼓動のような機械音が途切れると、鋭い響きが意識を引き戻す。目を見開き、息を乱しながら起き上がる。体は震え、拳は強く握り締められ、指の関節が白くなるほどだった。頬に冷たい感触があり、手で触れると涙で濡れていた。俺は目を閉じ、かすれた声で呟く。「桜......俺が悪かった。戻ってきてくれ。桜......俺が全部悪かったんだ......」抑えきれない嗚咽が声に混じる。しばらくして、俺は目元を拭い、無表情のままゆっくりと起き上がった。佐藤先生が水を差し出してきた。「おめでとうございます。退院の許可が出ましたよ」震える手で水を受け取るが、こぼしそうになりながらなんとか礼を言う。「ありがとうございます」ベッドから降り、ふらつく足取りで病院を出た。病院の入口では岩田が待っていた。「神崎社長、まずはホテルに滞在されますか?お手伝いさんが戻ったばかりで、自宅の掃除がまだです」俺は睫毛を震わせながら首を振った。「そのまま家に行く」家に着くと、リビングは隅々まで綺麗に掃除されていた。空気にはかすかなアロマの香りが漂っている。――桜がよく好んでいた香りだった。その香りに、胸が締め付けられるような感覚がした。「旦那様」使用人が慌ててやってきて言う。「台所のものは全て片付けました」俺
夕方、美羽の容態は安定し、意識を取り戻した。だが、まだ入院が必要とのことだった。俺は疲れた体を引きずりながら、自宅に戻る。玄関を開けると、思いがけず両親がリビングに座っているのが目に入った。少し驚きながら声をかけた。「父さん、母さん......どうしてここに?」母は目元を赤くしながら言う。「幸也の顔を見に来たのよ」父は険しい表情のまま口を開く。「心理療法士を手配した。今すぐ診てもらえ」その言葉に俺の目は冷たく光る。「どういう意味ですか?」父は立ち上がり、ダイニングテーブルを指差す。「このテーブルにある二つのワイングラス、二人分の食器、それに料理。これを何のために用意した?」次に彼は部屋中に飾られた花や風船を指す。「それにこれもだ」俺は唇をきつく結び、短く答えた。「昨日は桜の誕生日でした」「死んだ人間の誕生日を祝うのか!」父は怒りを込めて冷笑した。母が俺の様子を見て、父を軽く押し戻す。俺の視線は鋭くなり、低く呟く。「桜は健康そのものでした」父は怒りに震え、声を荒げる。「正気か?お前」彼は携帯を取り出し、どこかに電話をかけた。「今すぐ来い!息子を車に乗せろ!」だが、誰も俺を連れ去ることはできなかった。殴り合いの末、父が連れてきた者たちは次々と地面に倒れ込んだ。最後に父が持っていた杖で俺の後頭部を叩きつけた。俺は呻き声を上げ、意識を失った。療養院への道中。目を覚ますと、俺は体を拘束されていた。左右には神崎家のボディーガードが立ち、窓の外には山の景色が流れていた。ぼんやりとした意識の中に浮かぶのは、笑顔で俺を見つめる桜の姿だけだった。外はすっかり暗くなり、車は市街を抜けて郊外の蒼龍山の麓で止まった。遠目に見える看板には「安心療養院」と書かれている。――ここがどんな場所か、俺にはすぐに分かった。この街で有名な精神病院だ。院長が父の案内をしながら先を歩き、俺の両脇にはボディーガードがぴったりと付いている。俺は手をポケットに入れたまま、無言で後に続く。診療棟の中央には大きな時計がかかっていた。ふと時間を見ると、夜の11時半だった。あと30分で今日が終わる――俺はまだ桜に「誕生日おめでとう」と言えていない。鍋の中
城之内の顔にわずかな満足そうな表情が浮かぶ。「黙れ!」俺の目は充血し、彼の首を掴む。指が喉元に食い込み、城之内の顔は血管が浮き出て紫色に変わる。それでも彼は笑おうとし、かすれた声で挑発するように言った。「あんた......病院に行って......入院記録を......調べればいい......病院は......嘘をつかないだろ......」俺がその程度のことを知らないはずがない。ただ、向き合う勇気がなかっただけだ。「神崎さん、どうしてこちらへ?」病院で担当医の佐藤先生に声をかける。「佐藤先生、美羽に心臓を提供した人間は誰ですか?」佐藤先生は一瞬躊躇い、困った表情を浮かべた。「ドナーの方から、身元を明かさないよう事前に強く希望されていまして......」俺の声が震える。「彼女......名前は神崎桜じゃないですか?」その名前に、佐藤先生は驚きの表情を見せた。それだけで全てが明らかになった。俺は目を伏せ、震える声で尋ねる。「彼女が書いた寄付の同意書を、見せてもらえますか。彼女は......俺の妻なんです」佐藤先生は信じられないという顔をしながらも、背を向けて書類を探し始めた。そして、見つけた寄付の同意書を手渡してくる。署名欄には、優美な字で「神崎桜」と書かれていた。世界が一瞬で白に塗り替えられたような感覚に陥る。周囲の音が全て遠のき、俺はその場で立ち尽くした。しばらくすると、佐藤先生が静かに話しかけてきた。「神崎さん、これが桜さんの私物です。昨日、彼女のお母様が縁起が悪いから処分してほしいと言ってきたのですが、朝倉先生が『そのうち誰かが取りに来る』と言われて、そのまま保管していました。お渡ししますね」佐藤先生が差し出した密封袋には、桜のスマホやいくつかの小物が入っていた。その夜。夢を見た。桜と一緒に過ごした日々の情景が鮮やかに蘇る。彼女の心臓の鼓動を感じながら、俺は言った。「どうして病気になったのがお前じゃないんだ?どうして死ぬのが、お前じゃないんだ?」桜は悲しそうな顔をして俺を見つめていた――目が覚め、大きく息を吸い込む。暗闇の中でぼんやりと天井を見つめると、俺は手のひらで顔を覆った。胸が痛む。彼女のことを思うたびに、心が引き裂かれるようだ。ベッド
飛行機が着陸し、岩田が俺のスーツケースを受け取り、車に積んだ。「病院へ行け」窓の外を見ると、低いところから太陽が昇り始めている。スマホを取り出し、桜にもう一度電話をかけた。馴染みのある着信音が耳に届くが、時間だけが過ぎていく。桜は電話に出ない。俺は少し苛立ちながら電話を切り、彼女のことは後回しにした。どうせまたどこかに出かけているのだろう。「美羽の手術はどうなっている?」岩田が真面目な表情で答える。「白崎さんの手術は今日行われています。すでに数時間が経過していて、私たちが病院に到着する頃には終わる予定です。医師からは、手術は順調だと聞いています」その言葉に、俺はほっとした。第三病院に到着すると、診療棟を抜けて入院棟に向かう。エレベーターに乗ろうとした瞬間、隣のエレベーターが開き、医療スタッフが移動用の病床を押して出てきた。何気なく目をやると、病床の上に白い布がかけられている。その隙間から覗くのは女性の手。痩せて骨ばったその手には、小さな痣が一つ――胸がぎゅっと縮み上がり、足が止まる。誰の手だ?確認したい衝動に駆られる。「あのう、乗りますか?」エレベーター内の人に声をかけられ、我に返る。一瞬、正気を疑った。――まさか、あの手が桜のものだとでも思ったのか?桜の左手にも確かに痣があるが、彼女は結婚指輪を常に身につけている。指輪のないあの手が、桜であるはずがない。エレベーターに乗り込み、頭を振って微笑む。美羽の手術は成功したという報告を受けた。まだ目を覚ましていないが、各種指標は安定しているという。病室の外で行ったり来たりしながら、再び桜に電話をかける。しかし、またもや出ない。苛立ちが募り、岩田に命じた。「佐々木家に行け」北町にある佐々木家に到着するが、家の門は固く閉ざされていた。車の中でタバコを吸い続ける。1本、また1本――空が暗くなり始めた頃、ようやく佐々木家の車が帰ってきた。車から降りてきたのは、桜の母親である佐々木菫(ささきすみれ)だった。彼女は不機嫌そうな顔をしている。その後ろには使用人が続き、何かを抱えている。使用人は涙を拭いながらすすり泣いていたが、菫さんは振り返り、苛立ち混じりに言い放った。「何を泣いてるのよ!せっかくあの子が幸
心臓を、白崎に捧げる。私は顔を上げ、鼻の奥の痛みをこらえながら、部屋を出ようとする幸也に声をかけた。「ちょっと待って」幸也が振り返る。私は淡い笑みを浮かべながら続けた。「ちょっとだけ待ってて!」そう言い残し、階段を駆け上がる。そして、小さなギフトボックスを手に急いで戻ってきた。「これ、幸也に。ネクタイだよ」胃が捩れるような痛みが押し寄せたが、表情には一切出さなかった。幸也は箱をちらりと見て冷たく言う。「今日のスーツには合わないな」私は首を横に振る。「いいの。後でつけてくれれば。これからは、もうこういうのを贈る機会もないと思うから......」彼は一瞬動きを止めた。以前なら迷わずその場で捨てていたはずなのに、今日はゆっくりと箱を受け取り、深い瞳で私を見つめる。その視線に耐えきれず、私は目を伏せた。その瞬間、彼は一瞬だけ躊躇いを見せたが、すぐに身を翻し、去っていった。第三病院のベッドに横たわる私は、わずか半月で骨と皮ばかりになってしまった。スマホが鳴り、看護師が手渡してくれる。画面に表示された名前に、私は思わず微笑む。――幸也。3年以上ぶりに彼からの電話だった。私は震える手で酸素マスクを外し、必死に彼の声を聞こうと電話に出た。通話が終わり、スマホが手から滑り落ちる。看護師が慌てて酸素マスクを再びつけてくれたが、視界がぼやけ、天井が揺れるように感じる。病室のそばで手を強く握り、涙を堪えている律先輩が目に入る。私は力なく苦笑しながら呟く。「先輩......明日の朝日が見たいな......もう一度、彼から電話をもらいたかった......」でも、そんな願いはもう叶わないとわかっている。突然、体が軽くなり、自分の魂が体を抜け出して天井に漂っているのを感じる。下を見下ろすと、律先輩が骨のように痩せ細った私の体を抱きしめ、声を上げて泣いている。「桜......行かないでくれ。お願いだから、行かないで......俺、まだ言えてないんだ......」次の瞬間、声を聞きつけた医師たちが駆け込み、律先輩を引き離した。私の体はストレッチャーに乗せられ、手術室に急いで運ばれる。同時に、美羽も別の手術室に運び込まれた。手術中を示す白熱灯が眩しく輝いている。ああ、もう行く時間な
その男が私の目の前に立つ。彼は彫りの深い顔立ちに、背が高く、いつも笑みを浮かべている。しかしその笑顔にはどこか不気味さが漂っていた。目に留まったのは、彼の首に刻まれた大きな傷跡だった。「城之内......」私は目を閉じ、疲れた声で彼の名前を呼んだ。城之内は笑みを浮かべながら、その傷跡を指差した。「神崎にやられたんだよ。なあ、これどうやって仕返ししたらいいと思う?」その瞬間、3年前の彼の言葉が脳裏に蘇った。「もし俺についてこないなら、神崎をどうやって潰すか考えないとな」当時、幸也の家が問題を抱える前なら、私は怖くなかった。だが、あの時は城之内の家が繁栄していて、幸也の家は一夜にして崩れ落ちた。城之内家の一言で、幸也はどん底に落とされ、二度と立ち直れないかもしれない状況だった。私は薄く笑って答える。「城之内、因果応報だよ。自業自得だ」彼は私をじっと見つめ、何か考え込むような表情を浮かべた。「あんた、あいつを頼りにしてるのか?聞いた話じゃ、彼はあんたの親友だった白崎とかなり親しいらしいな」彼とこれ以上会話を続ける気はなかった。私はその場を立ち去ろうと振り返ったが、突然目の前が真っ暗になり、意識を失った。神崎家、玄関前。意識を取り戻したとき、腹部の鈍い痛みが残っていた。体は重く、目を開けたくない気持ちだったが、幸也と城之内の声が耳に入った。幸也の冷たい声が聞こえる。「城之内さん、大した度胸だな。よくここまで来られたもんだ。それで、何の用だ?」「桜を送り届けに来たんだよ。眠ってるみたいだからさ」城之内は軽薄な口調で答える。「そうか。なら、そのまま連れて帰ればいいだろう。わざわざここに持ってくる必要があるのか?」幸也の声は感情のかけらもなく続く。「俺には用事があるんでね。悪いが付き合ってられない」その言葉の直後、車のエンジンがかかり、遠ざかっていく音が聞こえた。私はゆっくりと目を開け、車が去っていくのをぼんやりと見送った。胸の奥がじわりと痛む。車のシートベルトを外して降りようとしたが、城之内が私の手を押さえつけた。彼は顔をこちらに向け、真剣な表情で言う。「あんた、病気だろ?俺と来いよ」その声には、哀願の色が滲んでいた。私は彼に何も答えず、手を振り払って車を
深夜、私は腹部にじんわりとした痛みを抱えながら、必死でベッドから起き上がった。痛みで額に冷や汗が滲み、病院に行こうと思ったものの、激しい痛みが波のように押し寄せ、立つことさえ困難だった。その時、廊下から聞き慣れた足音が響く。幸也だ。何故か分からないが、私はドアノブを強く握りしめ、思い切ってドアを開けた。「幸也(ゆきや)......」名前を呼ぶだけで胸が締めつけられる。彼は立ち止まり、振り返った。冷たい視線が私に向けられる。「帰ってきたのね。ご飯は食べた?」私は震える声で問いかけた。彼を刺激しないよう、精一杯穏やかに振る舞うつもりだった。だが、彼は私の言葉など聞こえなかったかのように無視し、そのまま歩き去ろうとした。その態度に、胸が鋭く刺されたような痛みが走る。私はよろめきながら彼を追い、袖を掴んだ。唇を噛みすぎて血が滲み、腹部の痛みに息も絶え絶えだ。「離せ!」幸也の目は冷たい怒りで満ちていた。私は力を緩め、指先だけで彼の服の端を掴む。震える声で言った。「幸也......お腹がすごく痛いの......夜も遅いし、病院に連れて行ってくれない?」もし昼間だったなら、彼に頼むことはなかっただろう。彼は振り返り、私をじっと見下ろした。すると、唐突に冷笑を浮かべた。「桜(さくら)お嬢さん、演技が本当に上手くなったな。このために、どれだけ練習したんだ?」そう言いながら、彼は私の手からゆっくりと袖を引き抜いた。そして私の顎を掴み、冷たく告げる。「お前が俺を裏切った日、俺は誓ったんだ。この先、絶対にお前を許さないと......ただし」彼の唇が残酷な笑みに歪む。「お前が死んだ時だけだ」その言葉に、全身の血が凍りついたようだった。震えが止まらない。幸也はそれ以上何も言わず、振り返り寝室へ戻ると、ドアを激しく閉めた。腹の中に刃物が突き刺さったような痛みが走る。私は床に膝をつき、必死にスマホを探り、救急車を呼んだ。都心の病院。人々が行き交う中、私は検査結果を手にベンチに座り込んでいた。結果は、末期の腸癌。信じられず、大学時代の先輩であり、消化器科の専門医である朝倉律(あさくら りつ)のもとを訪ねた。「律先輩......」私は検査結果を握りしめ、涙目で訴える。「医者が末期の腸...
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