共有

第5話

 とわこはびっくりして、つい後退ってしまった。

奏はまるで蘇生した野獣のようだった。眠てくれていた時は、彼からは一切危険な気配もしてこなかったが、その両目を開いたと、危険が湧いてきた。

部屋から出てきた三浦婆やは、門を軽く閉じた。

驚いた鹿のように取り乱していたとわこを見て、三浦婆やの口から慰めの言葉が出てきた。「若奥様、安心してください。若旦那様は起きたばかりから、まだこの事実を受け入れられないのかもしれません。今日は一旦、客の間でお休みください。話がございましたら、まだ明日にでも。大奥様は若奥様のことを買ってくれますし、もしかしたら、肩を持ってくれます」

とわこの頭の中はもうごちゃごちゃになっていて、奏がいつか死ぬ覚悟ができていたが、まさか起きてしまったことは想像すらもしなかった。

「三浦さん、私の荷物はまだ彼の部屋に…」中に入って自分の所持品を持ち出したがっていたとわこは、ちょこっと主寝室のほうを覗いた。

先自分の目で確かめた奏のあの凶悪な目つきで、彼女の心の中では、彼は多分自分を妻として受け入れないだろうといった予感が強くした。

彼女にとって、いつでもこの常盤家を出られるよう、準備するが必要だった。

とわこの話を聞いた三浦婆やは、息を浅く吐いた。「貴重なものでなければ、預けてもらいましょうか!明日、この私が取って差し上げます」

「はい。三浦さんもやっぱり奏さんのことが怖いのでしょうか?」

「若旦那様の元で、お仕えさせてもらってるのはもかなり長い年月が経ちました。一見怖そうな感じがしますが、私を困らせたことは一度もございませんでした」

とわこは相槌だけを打って、これ以上何も言わなかった。

彼女は彼の妻だけど、厳密に考えると、これが初対面だったから、彼が敵意を抱いていたのも、納得できた範囲内だった。

この夜、彼女はよく眠れなかった。

訳のわからなかった発想が脳裏をよぎった。

奏が意識を取り戻したことは、完全に彼女の生活のペースをかき乱した。

翌日。

朝八時、三浦婆やは主寝室から持ち出したとわこの所持品を、客の間へと持ってきてくれた。

「若奥様、朝食の準備は出きました。若旦那様がダイニングで待っていますので、一緒に来てください!お話をして、お互いへの理解を深めるいい機会です」と三浦婆やが言った。

とわこは難色を示した。「奏さんは私のことを知りたくないと思うのだが」

「それでも、朝食は取るべきです。早く!先、大奥様が若奥様のことを気に入ってるって、若旦那様に聞かせても怒りませんでした!もしかしたら、今日はもっとちゃんとした態度で接してくれます」

とわこはダイニングにきた。まだ離れていたけど、彼女はもう車椅子に座っていた奏の姿が見えた。

彼の両手はもう自由に動けた。これは日々筋肉を鍛えてきたあまみなのだった。

車椅子に座っていたのにも関わらず、彼は背筋を伸ばしていた。もし立っていたら、きっとすらっとした長身のはずだった。

彼女は胸がどきどきしながら、テーブルについた。

三浦婆やは彼女にお椀とお箸を持ってきてくれた。

彼女が箸を手に取ったまで、彼は黙って沈黙を続けていた。

彼女は無意識に彼のことをちらっと見てしまった。

この一瞥のお陰で、彼の関心が引かれて、彼女に集中した。

彼の目は深くて果てしないブラックホールみたいで、人を飲み込めそうだった。

「えっと…わ、私は三千院とわこと言いますが…」彼女の声には緊張が宿っていた。

コーヒーコップを手に取り、一口飲んだ奏の仕草は風物詩のように洒落だった。とわこの耳に入ってきた彼の声からは何の感情も読めなかった。「腹に僕の子があるかもしれないと聞いたが」

とわこの心の琴線は緊張でぴっちりとなり、食欲を完全に無くしてしまった。

「人工流産と薬物流産、どっちがいい?」彼は平然な口調で、残酷なことを口にした。

顔が真っ青になったとわこの頭の中は、空白な荒野となった。

三浦婆やはこの話があまりにも物騒だと思ったのかもしれず、マナーを忘れたかのように、弁解した。「若旦那様、若奥様に子供を産んでほしいのは大奥様です。若奥様は関係ありません」

奏は三浦婆やに威圧感の満ちた目線を投げた。「お母さんで脅かすな!」

三浦婆やは頭を下げて、口を封じた。

「奏さん…」とわこがやっと自分の声を取り戻した。

「下の名前で呼ぶな!」

とわこは一瞬愕然した。「下の名前がいけませんのなら、あなたとお呼びしましょうか」

今度は奏が言葉も出なかったほどあきれた。

彼は唇を固く閉じり、目から怒りの炎が飛び出しそうな様子だった。

そんな奏を見て、とわこは彼が怒り出す前に、タイミングよくその怒りを鎮めた。「私は妊娠なんかしてません。生理もちゃんと来てますし。信じてくれないのなら、掃除婦の下屋さんに聞いてみるといいです。今朝、下屋さんに生理用品を借りてましたし」

口では何も言わなかったが、奏は満足したかのように、再びコーヒーコップを手に取り、ほんの少し飲んだ。

とわこは、腹が空いて胃が痛くなったので、周りを配慮する余裕がなくなり、勝手に食べ始めた。

急いで朝食を終えた彼女は、カバンを取るために部屋に戻り、これからは出かけようとしていた。

彼と一つの屋根の下にいることは、どうにも窮屈だった。

「三千院とわこ、戸籍謄本用意しろ。もうすぐ離婚するから」彼の凍りついたような声が聞こえてきた。

とわこは足を止めて、予想できたかのように問いで返事をした。「今から行きますか」

「近いうちに行く」というのが彼の答えだった。

昨晩、気持ちが過剰に高揚していた常盤大奥様は、高血圧で入院した。

奏は、母親の血圧が安定するのを待ってから、離婚のことを検討しようと思っていた。

「なるほど、では連絡を待っていますから」彼女は早足で、部屋に戻った。

五分経った頃、彼女はガバンを持って、部屋から出てきた。

まさかリビングで、あの馴染み深い姿を目にしたのが、とわこにとって想定外だった。

弥が屋敷に来た。

あの弥は、根性のない腰抜けのように、尻尾を巻いて、恭しく奏の車椅子の傍らに立っていた。

「叔父様、父さんと母さんは、お祖母様の看病で病院に行きましたので、叔父様の見舞いを父さんに託されて参りました」弥は差し入れのサプリメントを、リビングテーブルの上に乗せた。

奏は、横にいた用心棒に目配せをした。

その用心棒はすぐ意味を解けて、弥が持ってきた差し入れを手に取り、屋敷の外へ放り投げた。

弥は慌て出した。「叔父様!私が持ってきたサプリメントは全部高級品なんです。お気に入れてもらえないようでしたら、まだ別のものをご用意いたします…どうかそのお怒りを」

彼の話が終わったすぐ、もう一人の用心棒がきて、膝の裏に蹴りを入れて、強引に跪けさせた。

驚かされたとわこは、自分の呼吸を軽くした。

一体どんな経緯で、奏が自分の甥を荒く扱いをするようになったのか、とわこには見当もつけなかった。

「我が愛しい甥よ、僕が起きてしまったことで、がっかりしているだろう?」話の途中で、奏は一本のタバコを指の間に挟ませた。

用心棒がライターでタバコに火をつけた。

その火種はとわこにとって、どうにも目障りなんだ。

彼は昨日の夜に起きたばっかりが、今朝からはコーヒーだの、タバコだの、どうやら自分の体調にはかなりの自信を持っていたようだった。

床に跪いた弥は、膝の痛みが激しいため、泣き出してしまった。「叔父様が起きてくれたの、私当然は嬉しく存じます…夢を見ても叔父様が起きてくれるのを祈ってます…」

「僕のことを疑ってるつもりか」奏は剣のような眉をあげた。彼が無頓着そうに発した言葉の一言一句には、殺意が込めていた。「金で僕の弁護士を買収しておいて、認めるほど肝がふとないようだね」

彼はわざとタバコの灰を弥の顔に払って、いきなり口を開いた。「出てけ!二度と喧嘩を売るような真似をしたら、犬の餌にしてやる!」

精神的に崩壊した弥は、はい転がりながら逃げた。

このような出来事を自分の目で収めたとわこの内心では、なかなか静まれなかった。

彼女は重度に怖がっていた。

常盤奏のことが怖かった。

弥のような卑劣な男は、奏の前では、野生の馬鹿みたいだった。

彼女には、彼に喧嘩を売るつもりも、彼の気を引くつもりもなかった。

カバンを持った彼女は、素早くリビングを抜けた。

今日の彼女は身体検査を受けるために、病院に行く予定だった。

今月の生理が遅くなったうえ、量も少なかった。

彼女がこういう状況に遭遇したのは、今回で初めてだった。

病院について、事情を説明したら、お医者さんがカラー超音波検査の申請フォームを出してくれた。

およそ一時間後、検査を受けた彼女は、検査の結果をもらった。

検査結果によると、子宮の出血はなかった。

彼女の体内には胎嚢が確認された…つまり、彼女は妊娠した!

関連チャプター

最新チャプター

DMCA.com Protection Status