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第8話

作者: 楽恩
……私は、すぐに理解したくなかった。でも、理解せざるを得なかった。

来依は、鼻で笑った。

「まあ、普通ってとこね」

「……」

私は驚いて彼女を見た。「何の話?」という目で問いかけた。

すると、伊賀のことを気にせず、来依は平然と言い放った。

「一回寝たけど、大したことなかったわ」

伊賀が、飛び上がるように反応した。

「あれは俺の初めてだったんだぞ!何も分かってねぇくせに!」

来依は彼の言葉を遮り、彼の右手と左手を指差した。

「はいはい、ちょっと待った。あんたみたいなプレイボーイが、初めてとか笑わせないで。どうせ、あんたのファーストはこれか、これだったんでしょ?」

いつもふざけてばかりの伊賀が、来依にからかわれて顔を赤くしている。

その光景を見て――私は、ようやく彼らの関係を理解した。

――ワンナイトだったのね。

伊賀は、たぶん来依を本気で口説こうとしている。

でも、来依はまったく本気にしていない。彼女は伊賀を無視し、私の手を引いて個室へ向かう。

「ある先輩が、海外から帰ってきたの。伊賀たちが企画した集まりで、私も顔を出すことになって」

「へぇ、誰?」私は、小声で尋ねた。

「あんたも知ってるわよ。それは――」

来依がドアを開けた。

個室には、すでに数人の男が座っていた。馴染みのある顔ぶれもいれば、初めて見る人もいる。そして、一人だけ、目を引く人物がいた。

男はすらりとした高身長で、長い脚が際立つ体格をしていた。

白いシャツの袖を無造作にまくり上げ、冷たく白い精巧な手首には、白い数珠を通した赤い紐がさりげなく結ばれている。

そのアクセサリーは、彼の落ち着いた雰囲気とは少し不釣り合いだった。けれど、それを大切にしていることだけは、見て取れた。

――と、その時。彼が顔を上げ、私と視線が交わった。そして、笑みを浮かべた。

彼は立ち上がり、穏やかに言った。

「久しぶりだね」

「山田先輩!」

私は、思わず笑みがこぼれた。

「本当に、久しぶりですね。留学するとき、突然いなくなっちゃったから驚きましたよ」

江川宏の友人グループは、ほとんどが幼馴染のような間柄で、私や来依とも同じ大学の出身だった。

でも、私が彼らと親しくなったのは、結婚してからのことだった。

けれど――

その中で唯一、山田時雄だけは私と同じ学部の先輩で、大学時代からそれなりに親しくしていた。

伊賀が、軽口を叩いた。

「なあ、うちの時雄は、どこの女に傷つけられて、何も言わずに海外逃亡したんだ?宏さんの結婚式にも来なかったしよ」

時雄は、鼻をかきながら軽く笑った。

「くだらないこと言うなよ。さ、座ろう」

「そうそう、早く座って」

来依は、私をソファへ押し込み、時雄の隣に座らせた。

「あんたと山田先輩、仲良かったでしょ?話も合うだろうし」

そう言い残し、彼女は伊賀たちのグループに合流した。お酒の席は、あっという間に賑やかになる。

時雄が、自然に声をかけた。

「ジュース、飲む?」

「……ありがとう、いただきます」

私は笑いながら、グラスを受け取った。

「それにしても、先輩は海外にいても、よくニュースになってましたね。賞を取りまくってるって聞きましたよ」

「俺のこと、そんなにチェックしてたの?」彼は、少し驚いたように、琥珀色の瞳を細めた。

「……そうじゃないですけど」私は、少し恥ずかしくなり、言い訳した。「うちのアシスタントが、先輩のファンなんです。今度紹介しましょうか?」

「……それはいいね」

彼は、微笑みながらも、どこか目の奥が曇った。そして、少し声を落として、問いかけた。

「宏とは、幸せ?ネットでは、愛妻家って評判だけど」

私は、一瞬固まった。

――そうだった。

宏は、いつも愛妻家としてのイメージを作りたがる。世間の誰もが、彼を「理想の夫」だと思っている。かつての私は、その幻想に飲み込まれ、抜け出せなくなっていた。

「……ネットの話は、誇張されがちですから」さらりと流そうとした。

すると、時雄は、真剣な眼差しで見つめてきた。

「でも、南は幸せなの?」

来依を除けば、こんな風に聞いてくれたのは、彼が初めてだった。

私は、少し目を伏せて、かすかに微笑んだ。

「……よく分からない」

彼は、それ以上は聞かなかった。

ただ、静かに微笑んだ。

「じゃあ、無理に言わなくていいよ」

かつて私は、時雄と宏にはどこか共通点があると思っていた。

どちらも穏やかで、内向的で、冷静沈着――まるで同じ種類の人間のように見えた。

でも今になってようやく気づく。彼らは、似て非なる存在だった。

時雄の落ち着きは、生まれ持った本質そのもの。それに対して、宏の穏やかさは、あくまで表向きに繕われた仮面に過ぎない。

たとえば今、時雄がこれ以上問い詰めないのは、他人のプライバシーに踏み込みすぎないという品性の表れだ。

だが、もし宏だったなら――そもそも他人の感情に興味がないから、最初から問いすらしないだろう。

宏には、「心」というものが決定的に欠けている。

飲み会は、深夜まで続いた。伊賀は、二次会を開こうと騒ぎ立てる。

来依は、私が妊娠していることを考え、早く帰らせようとする。すると、伊賀が提案した。

「時雄に送ってもらえば?こいつ、夜更かし嫌いだし」

来依も、賛成した。

私は、彼女のことが心配で、少し躊躇った。

「ほら、早く乗って!」

来依は、私の躊躇を見抜いて、強引に車に押し込んだ。

「大丈夫。私が損することはない」

彼女は、にやりと笑った。

「男の心は海の底の針って言うけど――私は、針なんか探さない。海そのものを手に入れるのよ」

「……」

私は、彼女の頬を軽くつねった。「分かった。でも、何かあったら連絡して」

時雄も車に乗った。

私は少し気まずさを感じながら、隣の時雄に視線を向けた。

「先輩、私、若松町に住んでるんですが……遠回りになりませんか?道が違うなら、タクシーを呼びます」

すると、時雄は笑いながら首を横に振る。

「そんなに他人行儀にならなくてもいいよ」

そう言って、スマホを私に差し出した。「それより、ナビを設定してくれる?鹿児島は久しぶりで、道があまり分からなくてさ」

「……分かりました」

私は、スマホを受け取り、目的地を入力した。

今夜は賑やかだった。この時間でも、街のネオンは煌めき、人の流れも絶えなかった。

当初、久しぶりに会った時雄との間に、少し気まずい空気が流れるかと思っていた。でも、彼は、まるでそれを察したかのように、適度に話題を振ってくれる。

不思議と居心地がいい。

話していると、気持ちが落ち着いていく。そのうち、私はふと口を開いていた。

「先輩なら、もし人生で大きな壁にぶつかったら、どうしますか?」

彼はわずかに眉を寄せ、赤信号で車を止めると、静かに私を見つめながら言った。

「なら、山があれば道を作り、水があれば橋をかけるだけだ」

その言葉に、私の胸の奥で張り詰めていたものが、ふっと緩んだ。

およそ20分後。

車は、私の住む別荘の前でゆっくりと停まった。

彼は車を降りる私を見送りながら、そっと小さな紙袋を手渡した。

「ちょっとしたお土産。気に入ってくれるといいけど」

「ありがとうございます、先輩!」

気持ちが少し軽くなり、私は笑顔でそれを受け取った。

「お礼に、今度ご飯でも奢らせてください」

時雄も微笑んだ。「約束だね」

彼は、優しく目を細めた。

「ちゃんと食事を取るんだよ、すごく痩せた気がするから。もう栄養不足になるなよ」

私は、深く考えることなく、軽く笑いながら頷いた。

「はい、気をつけます」

彼が去ってから屋敷に入ろうと思っていたが、先に彼の方から声をかけた。

「家の中に入るまで、ちゃんと見届けるよ。伊賀に安全に送り届けるって言われてるからね」

私は、仕方なく玄関の方へ向かった。

こんな時間、佐藤さんはすでに寝ていて、玄関のライトだけがぼんやりと灯っていた。家の中は静だった。

シャワーを浴びたあと、ベッドに横になりながらスマホを手に取った。

未読のメッセージは山ほどある。

だが、その中に宏からのものは一通もなかった。

――最悪でも、夫が一晩帰ってこない程度のことだと思っていた。

まさか、それ以上の「サプライズ」が待っているとは。

頭の中がモヤモヤとしたまま眠りについたものの、どうにも寝つきが悪く、目を覚ますとすでに昼近くだった。

ひどく空腹を感じながら階下へ降りると、まず目に飛び込んできたのは、見覚えのないスーツケース。そして、廊下の奥から微かに聞こえてくる、佐藤さん以外の誰かの声――どこか聞き覚えのある声だった。

眉をひそめながら室内を見渡し、視線が最後に行き着いたのは、キッチンだった。

そこではエプロンを身に着けた宏が、料理をしていた。

そして、その隣には――アナが、まるで当たり前のように彼の手伝いをしている。

彼が手を伸ばせば、アナは迷いなく塩を手渡し、彼がもう一度手を伸ばせば、すかさずキッチンペーパーを差し出す。

まるで息の合ったコンビのようだった。

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コメント (2)
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yas
なんでいるの? 昨日あんなことがあってなんで連れてくるの?
goodnovel comment avatar
かほる
宏はデリカシーが無いとみた。 アナも同じく
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    でも、まだ電源が切られていた。腹は立ったが、来依も理解していた。海人はそこまで狂って誰彼かまわず手をかけるような男ではない。おそらく、今夜彼女が勇斗と連絡を取れないようにしただけだった。ならば、明日また連絡すればいい。だが、思ってもみなかった。目が覚めた時、勇斗から電話がかかってきたのは、彼の方だった。「大丈夫か?」ふたりはほぼ同時に声を発した。言い終わると、ふたりとも笑い声を漏らした。勇斗はまだ状況がつかめていない様子だった。「お前、俺に何があったか知ってる?昨日、会計済ませた直後に、黒服の大男が二人現れて、いきなり車に押し込まれた。で、ものすごく眠くなってさ。「今朝目が覚めたら、床で一晩寝てて、首は寝違えるし、ちょっと風邪引いたっぽい。ハックショーン!」来依は心の中で海人を罵った。器の小さい男め。ベッドに寝かせるくらい、何だっていうのよ。「友達が、ちょっと頭おかしいの。驚かせてごめん」勇斗は鼻をすする音を立てた。「いや、まぁそんなに驚いてもないけど。あれってお前の彼氏か?」「元カレ」来依は正直に答えた。「ちょっと待ってて。今から一緒に病院行って、それから夜は宴会に一緒に出席してほしいの」「宴会?」「うん、あんたにとってもプラスになる」「俺、もう風邪なんてどうでもいいや。しっかり準備するから、来なくて大丈夫。体調より、稼ぎが大事だし」「じゃあ薬はちゃんと飲んでよ。夜に体調崩されると困るから」「うん、分かってるよ。俺、そういうところでは抜かりないから。で、お前は本当に大丈夫?」来依は頭を押さえた。海人とのあれこれを一言では説明できなかった。「平気よ」「それなら良かった」電話を切った直後、カードキーの音が聞こえ、すらりとした長身の男が入ってきた。その目には、どこか冷たい気配が漂っていた。来依は鼻で笑った。「昨日は『ここは自分の縄張りじゃないから』って私に頼んでたくせに、今日はホテル内を自由に動き回って、他人の部屋にまで入ってくるんだ?」「他人の部屋には入らない」つまり、「お前の部屋にしか入らない」という意味だった。来依は無視して、寝直そうと布団に潜り込んだ。海人はベッドの脇に置かれた塗り薬を見つけたが、まだ封も開けられていなかった。「薬、塗ってな

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第882話

    ピンポーン——ノックの音が響いた。海人が立ち上がり、ドアを開けた。四郎が鶏肉入りラーメンを手渡してきた。部屋の空気が重いのを感じた四郎は、少し勇気を出して尋ねた。「今夜あまり食べてらっしゃらないようですが、ホテルに何か追加で頼みましょうか?」海人は頷き、いくつか料理の名前を口にした。四郎は了承し、ホテルへ指示を伝えに行った。ちょうどその時、五郎が戻ってきたので、ついでに世間話を始めた。「河崎さんが何食べたいのか分からないってのに、若様は自分の好物すら忘れてるくせに、彼女の好物だけは覚えてるんだぜ」五郎は冷麺を食べながら言った。「若様、酢豚が好きだったんじゃなかった?」前に若様の部屋で来依が弁当を届けに来た時、そう言っていたのを思い出したらしい。四郎は呆れたように白い目を向けた。「お前は本当に単細胞だな。それは河崎さんの好物だ。今の若様の『好きなもの』は、全部河崎さんの“好きなもの”に変わってるんだよ」五郎「あ、そう」四郎「……」 余計なことを言ったと後悔した。――室内――海人は鶏肉ラーメンをテーブルに置き、来依に「先に食べな」と声をかけた。来依は夕飯をしっかり食べていたが、いろいろ消耗して、この時間にはもうお腹が空いていた。彼女はテーブルの前まで来て、床に座り込んだ。海人はすでに包装を外し、箸を渡した。来依はそれを受け取りながら、複雑な表情を見せた。少しラーメンをかき混ぜ、食べようとした時、ふと動きを止めた。「これはこの辺りの名物だ。もし口に合わなかったら、他のを買ってくる。それに、もうすぐホテルからお前の好きな料理も届く。とりあえず、これを先に食べて」来依は自分でも今の気持ちがよく分からなかった。ただ、首を横に振った。「違うの……」少し間を置いて、尋ねた。「あんたも食べる?」海人の目元の陰りが薄れ、わずかに笑みを見せた。「お前が足りないかもって思って」「……」来依は黙って麺を食べ始めた。しばらくして、彼女の好きな料理が届いた。「食べきれないから、あんたも食べて。無駄になるの嫌だし」海人は彼女の隣に座った。同じく床に座り、形式ばらずに食べ始めた。少し遅れて出て行った四郎は、その様子を見て、呆れたように頭を振った。一方、五郎はホテルで餃子を頼

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第881話

    「……」来依は言った。「これは、あんたがやることじゃない」「俺が傷つけたんだから、俺が責任を取るべきだ」「自分でできる!」海人は彼女の両手をしっかりと押さえた。「お前には見えないし、爪も伸びてる。もしまた傷つけたらどうする。だから俺がやる」「……」来依の身体は完全に固まっていた。「海人、ひとつだけ聞かせて。あんた、人の言葉理解できるの?」「ラーメン買ったよ。もうすぐ届く」……つまり、理解できていない。来依は言い負かすこともできず、力でも敵わず、ついに泣き出してしまった。海人の動きが止まった。来依はその隙をついて、彼の手から逃れてベッドの反対側へ座り込んだ。「私が苦しんでるのを見て、楽しい?」海人の唇は真っ直ぐに引き締まり、「違う」「じゃあどうして、私が嫌がることを無理やりさせようとするの?「私は物じゃない。ただの何かでもない。どう扱われてもいい存在じゃない」「そんな風に思ってるのか?」海人はじっと彼女を見つめ、目の色が少し陰った。「俺はお前が好きだ。その気持ちは、お前に伝わってるはずだ」来依は首を振った。「それは好きなんかじゃない。私にフラれたのが気に入らないだけでしょ。プライドが傷ついただけ。「だったら、私から別れを切り出したって公言すればいい。周囲にはそう伝えたら?」「俺は別れない」「……」「お前を手放すつもりもない」海人は彼女の前に歩み寄り、膝をついてしゃがみ、自らの姿勢を低くした。「手放そうとしたこともあったけど、無理だった。「来依、教えてくれ。お前は一体、何をそんなに怖がってるんだ?」来依は黙り込んだ。海人は自分で答えを探そうとした。「前に菊池家へ行ったとき、怖い思いをしたからか?」「……」来依は唇を引き結び、黙ったままだった。海人は彼女の手を取り、そこに顔を埋めるようにして、長く息を吐いた。「お前が自分の命を大切にしてるのは分かってる。俺だって、お前の命は何よりも大事だ。絶対に誰にも傷つけさせない。「お願いだ。一度だけ、もう一度だけチャンスをくれないか?うまくいかなければ、俺はお前を自由にする。でも、もし外部の問題のせいなら……その時は、申し訳ないが諦められない」来依は突然、笑った。「でも海人、西園寺雪菜に殺されかけ

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第880話

    「さっきは少し用事があって……ただ、内容はお話できません。ご了承ください」来依はそれを信じたように頷いた。「そう……なのね」四郎も頷き返した。「ええ、そういうことです」来依は微笑みを浮かべた。「あんたが用事で席を外してたとして……他の人たちは?」「それぞれ別の任務がありまして」「つまり」来依の目つきが一気に鋭くなった。「みんな忙しくしてて、ホテルの玄関に誰もいなかったってことね?海人とベッドにいるときに、敵が襲ってきたらどうするつもりだったの?殺されてもおかしくないよね?」「……」「男にとって、ベッドの上が一番無防備な時でしょ。あんたも男なら、それくらい分かるでしょ?」四郎の頭の中が一瞬真っ白になった。まるで若様から「お前が何をやった?」と聞かれた時のような錯覚。その直後には冷たい口調でアフリカ行きを命じられる――一郎と同じように。余計なことを言えば命取り。四郎はそれ以上の言い訳をやめた。「河崎さん、外は危険です。ホテルで若様をお待ちください」来依はそんな「危険」なんて信じていなかった。今はとにかく勇斗の様子を見て、早く大阪に戻る必要があった。ここは土地勘もないし、海人の敵は多い。何かあったら命を落とすかもしれない。「どかないなら、助けを呼ぶわよ?ここ、監視カメラあるし……」彼女は一歩詰め寄った。「それにね、もしあんたの若様が、私に乱暴しようとしてるって思ったら、どうなると思う?」「……」四郎は思った。菊池家は来依の素性が弱いからと、海人の足手まといになるのではと懸念していた。だが、雪菜はどうだ?立派な家柄だったのに、道木家に連れ去られ、結局海人に泣きついて戻ってきた。晴美は来依を罠にはめたが、あの頭の切れる海人でさえ術中にはまった。それをすべて来依のせいにして、頭が悪い、支えにならないと言い切るのはおかしい。むしろ彼女は、なかなかの人物ではないか。「河崎さん、一郎はアフリカに送られ、今残ってるのは僕たち四人だけです。もし僕がいなくなれば、高杉芹奈の薬の件を処理するのに、若様は相当苦労することになります。「あなたもかつて若様のことが好きだったでしょう?彼が命を落としても構わないなんて、思っていませんよね?」来依はまるで意に介さず言い放った。「私には関係ないわ。私は母親でも、恋人でもない。

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第879話

    海人は枕を取って来依の腰の後ろに当て、優しい声で尋ねた。「何か食べたいものある?人を呼んで用意させるよ」来依は彼を睨みつけた。「出ていけ!」海人は彼女の手を握った。「明日、宴会がある。一緒に来てくれ」「……」来依は手を引っ込め、冷たく言い放った。「本当に頭おかしいわね」「うん。お前のせいで」「……」来依は手を振り上げて彼を叩こうとした。「出てけ!」海人はその手首を自然な動きで掴み、そのまま笑みを浮かべた。来依は彼のことを本気でヤバいと感じ、自分で逃げようとした。だが布団をめくった瞬間、冷たい風が吹き込み、すぐにまたかぶせ直した。「後ろ向いて!」歯ぎしりするような声で、今にも噛みつきそうな勢いだった。海人の視線が上下に滑った。「隠す必要ある?」「わ、私……」来依はとっさに彼の口をふさぐ。「そういう下品なこと言わないで!」海人は彼女の手を握り返した。「明日の宴会は、お前の出張の目的に関係がある。行かないのか?」「どうして私が何しに来たか知ってるの?」海人は何も答えず、意味ありげな目で彼女を見つめた。来依は自分の質問が馬鹿だったと気づいた。石川が彼の縄張りじゃなくても、彼女の動きを探るくらい簡単なはずだ。「勇斗に何したの?」その瞬間、海人の表情から笑みが消え、声も冷えた。「もう彼に会う必要はない。和風と伝統工芸の事業は、俺が手配する」「そんなのいらない。自分のことは自分で処理するから」海人はただ一言、「まず飯だ。腹が満たされてから喧嘩しよう」「……」まるで以前のような雰囲気だった。彼が何を言われても意に介さなかった時代のまま。だが来依の腹がタイミング悪く鳴った。気まずくなる彼女をよそに、海人はふっと笑った。「何が食べたい?」来依は相変わらず口では強気だった。「あんたの顔見るだけで吐き気がする。何食べたいかなんてホテルのルームサービスに言えば済む。さっさと出ていって!」海人は静かに言った。「食べたくないなら寝ろ。あとでお腹空いても我慢しろ」「は?」来依は怒りが収まらず、枕を掴んで海人の顔に叩きつけた。最後にはそのまま彼の上に乗り、息を止めさせようとした。けれど、何かが「立っている」のを感じた時には、もう遅かった。彼女の腰を掴む手のひらが、火のように

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第878話

    芹奈は、海人の動きの合間に彼の首筋にある赤い痕を見つけた。喉仏のあたりには噛み痕までついていた。すべてが、ついさっき彼と来依が激しく交わった証だった。彼女が最も恐れていたことが、ついに現実になってしまった。「しかも、二度目までは一日も空いていない」海人が再び口を開いた。その声は氷雪をまとったように冷たく、聞く者の背筋を凍らせた。芹奈はその鋭い眼差しに目を合わせ、無意識に一歩後退した。だが、それではいけないと思い直し、すぐに彼の目の前まで歩み寄った。「何のこと?全然意味がわからないわ」そう言いながら、彼の腕を掴もうと手を伸ばした。海人は身をかわした。すると五郎が即座に芹奈を制し、膝裏に蹴りを入れて彼女を地面に跪かせた。「海人っ!」芹奈は、これほどの屈辱を味わったことがなかった。幼い頃から、周囲の人間は皆彼女を中心に回っていた。望むものはすべて手に入れ、何も言わなくても誰かが彼女の心を読んで与えてくれた。海人だってそうだった。両親が彼女のもとに送り届けた存在。家柄が釣り合っていたからこそ、得られた立場だ。来依には決して手に入らないはずのものだった。それなのに、その来依が海人の愛を手に入れた。しかも、何よりも強い愛を。それがどうしても許せなかった。薬を盛ったのだって、海人の母の暗黙の了解があったからだ。「お母様が、あなたを私に差し出したのよ。文句があるなら、私じゃなくてそちらに言いなさいよ」海人は視線を落とし、見下すように芹奈を見つめた。まるでゴミでも見るかのような目だった。「母さんには、もちろんきっちり責任を取らせる。だが今は、お前がどうするかだ。自分で家に戻って、俺とは結婚しないと言うか。それとも、俺が高杉家を潰して、菊池家との縁談が二度と成立しないようにするか、選べ」芹奈の脳裏に浮かんだのは、雪菜の末路だった。かつて彼女は、雪菜を笑いものにしたことがあった。あれほど恵まれた立場にいながら、海人の子を産むことこそが一番重要だったのに、と。かつての晴美もそうだった。海人と結婚する資格はなかったが、子を身籠れば菊池家に庇われた。自分は正式に海人と結婚できる身分。子どもさえできれば、さらに盤石になるはずだった。なのに、あと一歩のところで。なぜ来依が、こんな場所に現れたのか

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第877話

    「前にお礼がしたいって言った時、断ったよね。まさか、こんなところで待ってたなんて。「海人、私のこと、からかってるの?」海人は顔を上げた。黒く深い瞳には、すでに抑えきれない欲望が宿っていた。理性で抑えていたせいか、腕の血管が浮き上がっていた。でも今回だけは、彼女に自分から求めたかった。「俺って、そんなに最低に見える?」確かに全く魅力がないわけではなかった。ただ、以前彼が彼女の意志を無視して無理やりだったことを思えば――。「部下と連絡が取れないなんて、ありえないでしょ」「石川は俺の縄張りじゃない。ここには、俺が来るのを快く思わない奴がいる」彼の仕事の事情なんて、来依にはどうでもよかったし、知りたくもなかった。ただ一言、「とにかく、私はあんたの問題を解決できるような人間じゃない。冷たい水でも浴びて、私が風邪薬買ってきておくから」海人は目元を伏せ、どこか哀れにさえ見えた。「ちょっと助けてくれるだけなのに、そんなに難しいことか?」来依は頷いた。「私たち、もう身体の関係を持つべきじゃないと思う。たとえ緊急事態でも」海人の脳裏に浮かんだのは、来依を抱き寄せていたあの男の姿だった。全身に溜まっていた苛立ちが一気に燃え上がり、怒りが頂点に達し、理性を失いかけていた。「新しい男のために、貞操を守ってるってわけか?」来依は、彼の言う相手が勇斗だとすぐに分かった。さっき、勇斗が彼女の首に腕を回したところを海人に見られていた。もう説明する気もなかった。「そうよ」海人はとうとう理性を失った。この数日間、押さえつけていた感情が、長く眠っていた火山のように噴き出した。触れるところ全てが熱かった。来依はその熱さに身を縮めた。必死に彼を押し返したが、それでも止めることはできなかった。彼は彼女の服を無理やり引き裂いた。「海人、憎むわよ」「憎めばいい」海人は彼女を強く抱きしめた。「ただ、俺のことを忘れないでくれればそれでいい」来依の体が震え、怒りに任せて彼の肩に噛みついた。海人の動きは、さらに激しさを増した。来依はこらえきれず、恥ずかしい声を漏らしてしまった。……その頃、意識を失っていた勇斗は、自宅へと運ばれていた。一方、レストランでは、芹奈が個室をめちゃくちゃにしていた

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第876話

    その言葉がまだ空気の中に残っているうちに、来依は海人が自分で立ち上がるのを目の前で目撃した。……だが、次の瞬間、彼はそのまま彼女の方へ倒れかかってきた。来依は慌てて支えた。海人は彼女の肩に寄りかかり、呼吸が首筋にかかる。その吐息が、驚くほど熱かった。「ちょっと、あんたの部下って、いつもベッタリついてるんじゃなかったの?なんでこんなに熱出してるのに、一人なのよ?」そのとき、男のかすれた声が聞こえた。「ホテルに……戻る……」「……」来依は本気で呆れた。ホテルの名前も言わずに、どこのホテルに連れて行けっていうのよ。仕方なく、彼のポケットに手を入れてスマホを探した。スラックスの両方のポケットを探っても見つからない。彼は白シャツ一枚で、上着も持っていない。ということは、スマホは身につけていないということ。だから部下とも連絡が取れなかったのか。……でもおかしい。彼の部下は、いつも一歩も離れないはずなのに。考えを巡らせていると、不意に手首を掴まれた。「……変なとこ、触るな……」来依は怒鳴りたくなった。が、熱で頭がおかしくなってるとわかっていたので我慢した。「ホテルの名前は?」「君亭……」「……」まさかの、自分と同じホテルだった。来依は彼の腕を肩に回し、ゆっくりと外へ連れ出した。フロントで勇斗を探したが、いなかった。外にいるかと思って出てみたが、そこにもいない。スマホを取り出して電話をかけたが、勇斗は電源が切れていた。「???」今夜の出来事、偶然にしては出来すぎている。海人のやり口なら、こういう段取りもできそうで……「寒い……来依ちゃん……」「……」来依は歯を食いしばり、道でタクシーを止めて海人をホテルまで連れ帰った。彼はパスポートも部屋のカードキーも持っていなかった。フロントに聞くと、パスポートがないと部屋を開けられないと言われた。「彼の名前は菊池海人で、このホテルの宿泊客ですよ。カードキー忘れただけですから、開けてくれませんか?」フロントは丁寧に答えた。「申し訳ありません。当ホテルはハイクラスの施設でして、お客様のプライバシーと安全を最優先にしております。パスポート明がない場合、お部屋の開錠はできません」大阪では好き放題やってる海人も、石川では名前が通じな

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