三度目だった。三回も伝えようとしたのに、彼はそのすべてを拒んだ。きっと、縁がなかったのだろう。むしろ、伝えなくてよかった。そうすれば、離婚するときも綺麗に終われる。鹿児島は広い。離婚したら、もう二度と顔を合わせることもないだろう。彼は一生、私たちの間に子どもがいたことすら知らずに生きていくのかもしれない。来依は私の考えを聞くと、すぐに賛成した。「そんなクズみたいな父親、子どもだって望まないよ。言わないのが正解」――病院を出たのは、午後二時過ぎだった。来依は私の腕を取り、駐車場へ向かいながら言った。「あんたの車、お店に修理に出したからね。結構ひどく壊れてたから、一週間はかかるってさ。直ったら、一緒に取りに行こう。それまでの間、どこへ行きたいか言ってくれたら、すぐにドライバーの河崎が来るよ」「……」私は思わず苦笑した。「そんなに私に付きっきりで、大丈夫なの?仕事は?大丈夫よ、私はほかの車もってるから」宏は、私に愛をくれたことはなかったかもしれない。けれど、家も、車も、お金も、何ひとつ不自由させられたことはなかった。――でも、彼は知らない。私が欲しかったのは、ただ「愛」だけだったことを。「心配しなくていいわよ。医者も言ってたでしょ?帰宅後も二日間は様子をみるって。なのに運転?無理無理、夢でも見てる?」来依は無意識に私の額を突こうとしたが、包帯を見て、忌々しそうに手を引っ込めた。――そのまま車に乗り込み、駐車場を出た。来依は煙草を取り出したが、私が妊娠中なのを思い出し、またポケットに戻した。「本当は一緒に墓参りに行こうと思ってたんだけど……あんた、今はショックを受けたばかりだし、何よりお腹に赤ちゃんがいるんだから、やめておこう。まずは江川とのことを片付けな。全部終わってから、叔父さんと叔母さんに報告すればいいわ」「……うん」車は家へと向かって進む。――もっとも、もうすぐここは私の家ではなくなる。いずれ、新しい人が住み、私の痕跡はすべて消されていくのだろう。宏も、きっとすぐに私の存在を忘れる。…… 家に戻ると、スマホの電源が切れていたことに気づいた。充電すると、すぐに未読の通知がいくつも表示された。――宏からの電話だ。こんなに何度もかけてきたのは初めて
「……は?」私は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。宏は気だるげに肩をすくめ、何でもないような口調で言った。「山田時雄のことだ」「その夜、君を家まで送ったのは彼だったな?ちょうど帰国したばかりのタイミングで、すぐに会いに行ったってわけか」その声色は、皮肉とも自嘲ともつかない響きを帯びていた。私は思わず眉をひそめ、彼の目を真っ直ぐに見つめた。「……私が山田先輩を好きだって、そう言いたいの?」「違うのか?」彼は口元をわずかに歪めた。冷たくて、薄情で──私の目には、それがただただ嘲るように映った。ありえない。今までに感じたことのない怒りが、一気に込み上げた。「宏……あなた、最低だわ」パシンッ!! 思い切り、彼の頬を叩いた。たとえどれだけ抑えようとしても、私の目元はすでに濡れていた。涙が止まらず、次第に笑いさえこみ上げてくる。おかしくてたまらない。 私は、彼をこんなにも長く愛してきたのに――最後に返ってきた言葉が、「別の男のせいで離婚するのか」だなんて。馬鹿みたい。くだらない。心底、呆れた。 いつの間にか、来依が来ていた。その後ろには、伊賀も立っていた。来依は私の腕を取り、迷いなく出口へと向かった。大きな目で事の成り行きを見守っていた伊賀に、ピシャリと声を飛ばす。「伊賀、何ぼーっと突っ立ってんの?あんたを呼んだのは、引っ越しの荷物を運ばせるためなんだけど?」伊賀はスーツケースを見て、私を見て、宏を見て、そして再び来依を見る。「えっ?えっ?」完全に混乱した様子で、宏に助けを求めるように視線を向けた。「ひ、宏さん……」だが宏は、一瞬の沈黙の後、冷たく言い放った。「……運べ」…… 三年の結婚生活。七年の片思い。こんなにも醜く終わるなんて、想像もしなかった。人は後ろめたい時、先に相手の非を探そうとした。宏も、例外ではなかった。…… 黒のGクラスが、ゆっくりと車の流れに溶け込んでいく。車内では、伊賀が何度も迷った末に口を開いた。「……本当に、宏さんと離婚するのか?」「あんたに関係ないでしょ?運転に集中しなさい」来依が即座に睨みつけた。「急に引っ越すって言ったから、業者も手配できなくてね。だから、こいつに荷物運びを頼ん
まだ正式に離婚もしていないのに、もうそんなに必死なのね。アナにとって、この株はどうしても手に入れたいものなのだろう。確かに、市場価値の高い株だった。私も、手元に残しておくつもりはなかった。ただ――あまりにも簡単に彼女の思い通りにしてやるのも、面白くない。私はうっすらと眉をひそめ、静かに問いかけた。「あなた、どういう立場で私にそれを聞いてるの?」アナは優雅に笑い、相変わらず高飛車な態度で言った。「まさか、独り占めするつもり?あれは宏くんが『妻』に贈ったものよ。あなたたちが離婚するなら、もうあなたのものじゃないわ」「……まだ病院には行ってないの?」私は心底不思議そうな顔をしてみせた。「病気は早めに治療しないとね。薬が効かなくなったら、精神病院に送られることになるわよ?」アナの目が細まり、声を低くした。「南……私を頭のおかしい人扱いしてる?」私はそれ以上関わる気もなく、淡々と話を切り上げた。「退職届はもう届いてるはずよね。早めに処理して」「言われなくても、昨日のうちに人事部に出しておいたわ」まるで、今すぐにでも私を追い出したいとでも言わんばかりの口調だった。私はそれ以上何も言わず、デスクに座り、退職のための引き継ぎ資料を整理し始めた。宏も、きっと私が早くいなくなることを望んでいる。おそらく、退職の手続きは数日以内に終わるだろう。私がまるで意に介さない態度でいると、アナは次第に焦り出した。「どれだけごねたって、株は返してもらうからね。恥知らずにもほどがあるわ!」ちょうどその時、小林がコーヒーを持って部屋に入ってきた。私は顔を上げずに指示した。「江川部長をお見送りして」人の目がある場所では、アナも無理に騒ぎ立てることはできなかった。だが、数分後、彼女のオフィスから何かが割れる音が聞こえてきた――。……予想外だったのは、弁護士が離婚届を用意した時も、退職届が一向に承認されなかったことだ。離婚届をプリントアウトし、宏にサインをもらいに行こうとした矢先――小林が勢いよく部屋に飛び込んできた。「南さん、大事件だ!」彼女はドアを閉めると、興奮気味に声を潜める。「元社長が会社に来たんですよ!それも、社長室で江川社長をめちゃくちゃ怒鳴りつけてるらしいです!江川社長みた
その言葉を聞き、私は気づいた。お祖父様の視線だけではなく、もう一つの視線が、私に向けられていることに。この問いに、答えたのが難しかった。お祖父様を騙したくはない。けれど、本当のことを言えば、きっと離婚を認めてはくれない。私は何度も逡巡したが、言葉を発する前に、お祖父様はすでに察したように頷いた。「よし、もうわかった。これ以上聞かんよ。せめてお祖父様の顔を立ててくれんか。こいつはな、幼い頃に母親を亡くして、それでこんなひねくれた性格になったんだ。あまり真に受けるな」そう言ったあと、宏の耳をぐいっと引っ張った。「お前はわしが長生きしてるのが邪魔なのか?さっさと怒らせて死なせたいなら、そうしろ!わしが死んだら、勝手に離婚でも何でもするがいい!」「ついに命まで盾に取るのか?」宏は苦笑混じりに言った。「何だ、その口の利き方は!」お祖父様はさらに怒り、また拳を振り上げた。宏は今回は素早く避け、渋々折れるように言った。「わかったよ。俺はどうでもいいんで、南に聞いて」まただ。また、その何も気にしないような態度だ。そう言ったと、宏は腕時計をちらりと見て、当然のように言った。「会議があるんで、行ってくる」彼はあっさりと立ち去り、私だけがお祖父様と向き合う形になった。しばらくして、お祖父様は静かに口を開いた。「南、わしは無理に何かを押し付けるつもりはない。ただな――後悔だけはしてほしくない。お前の気持ちは、祖父にはわかる」そう言って、自分の胸を指差した。「ここで、全部見えているんだよ。あのアナはな、考えが複雑すぎる。宏には向いていない」「でも、彼が好きなのはアナです」「それはな――本人がまだ自分の心を理解していないだけだ」お祖父様はゆっくりと立ち上がった。「だが、お前は――いつか気づく日が来る。祖父の頼みだ。もう一度だけ、試してみてくれんか?」そこまで言われてしまえば、これ以上拒むことはできなかった。私はひとまず頷いた。お祖父様が去った後、私は手に持っていた離婚届を机の上に置いた。大きく書かれた「離婚届」の文字を見つめながら、思わずぼんやりしてしまう。「へぇ、駆け引きができるタイプだったとはな」不意に、気だるげな男性の声が響いた。宏が会議を終えて戻ってきたらしい。私は眉をひそめ
時間を見ると、すでに深夜2時を回っていた。彼はアナと一緒に退勤したはず。なのに、どうして伊賀たちと飲んでいるの?しかも、伊賀の話ではアナはその場にいなかった。もう一度電話をかけるが、電源が切れていた。バッテリーが切れたのだろう。仕方なく、私は着替えてタクシーを呼び、彼らがよく集まる馴染みのプライベートクラブへ向かった。到着すると、店内はすでにほとんどの客が帰っていた。個室には、伊賀と時雄の二人だけが残っていた。──それと、もう一人。高級オーダースーツに身を包み、長い脚を優雅に組んだまま、ソファに寝転んで、気持ちよさそうに眠っている宏も。私の姿を見るなり、伊賀は肩をすくめ、困ったように言った。「南さん、宏さんが今日どうしちゃったのか分かんないけど、時雄を巻き込んで無理やり飲ませまくってたんだよ。止めても聞きゃしない」「……」理由は、だいたい察しがついた。彼は今でも、私と時雄の間に何かあると疑っている。男って、結局みんなそうなのかもしれない。自分は好き勝手しても、妻がほんの少しでも裏切る可能性があるのは許せない。たとえ、それが根拠のない思い込みだったとしても。私は隣に座る時雄へ視線を向けた。彼は端正な顔立ちのまま、少しぼんやりとした瞳でこちらを見ている。「先輩、大丈夫?酔い覚ましの薬を持ってきたけど、飲みますか?」おそらく相当飲まされたのだろう。目がうるうるした。「……もらうよ」少し意識を取り戻したのか、彼は静かに頷いた。頬が赤く染まり、まるで飴を待つ子どものような表情だった。私は薬を手のひらに乗せ、グラスの水を差し出した。「すみません、こんなに飲まされてしまって」「いや、俺が言ったのもなんだけどさ……時雄も、なんでそんなに頑固なんだよ?宏さんが飲ませるたびに、俺たちが止めても、結局全部飲み干してさ!」伊賀がぼやきながら言った。伊賀は私に車のキーを差し出した。「運転、大丈夫?」「うん」宏の横にしゃがみ込み、酒の臭いを我慢しながら、手を伸ばして彼の頬を軽く叩いた。「宏、起きて。家に帰るよ」彼は眉をひそめ、しばらくすると、うっすら目を開いた。私を認識した途端、突然、バカみたいな笑顔を浮かべた。「……ハーニー」そう言いながら、大きな手で私の手を包み込んだ。
十数分後、車はゆっくりと屋敷の敷地内へと滑り込んだ。「着いたわよ、宏」ドアを開けながら声をかけた。すると、完全に酔い潰れていたはずの男が、ドアの開いた勢いと共に、私の方へ倒れ込んできた。思わず眉をひそめた。「自分で立てる?」返事はない。仕方なく、熟睡している佐藤さんを呼び出し、彼を部屋まで運ぶのを手伝ってもらうことにした。「若奥様、何かお手伝いしましょうか?」佐藤さんが心配そうに尋ねた。「いえ、大丈夫。もう休んでね」夜遅くに起こしてしまっただけでも申し訳ないのに、これ以上迷惑をかけたわけにはいかない。佐藤さんが去った後、私は酒臭さに耐えながら宏の革靴とネクタイを外す。そのまま背筋を伸ばし、部屋を出ようとした瞬間――手が、突然掴まれた。驚いて振り返ると、彼は目を閉じたまま、低く呟いた。「……ハーニー……」「……」私は、彼が自分を呼んでいるとは思わなかった。きっと、アナと互いに「ハーニー」と呼び合う仲になったのだろう。無言のまま、私は彼の瞼をこじ開けた。「宏、よく見て。私は誰?」「……ハーニー……」彼はまるで子どものように、私の手をさらに抱え込み、低く囁いた。「南……俺のハーニーは、南」心臓が、一瞬だけ揺れた。けれど、すぐに冷静な声が頭の中で響いた。――彼はただ、酔っているだけ。本気にするな。正気の時の彼が選ぶのは、いつだって私じゃない。唇を噛み、淡々と告げた。「そう。でも、あなたは彼女を愛してない。好きでもない女と結婚して、大変だったでしょ?」彼のオフィスで聞いた言葉が、鮮明に脳裏に刻まれている。南、もう惑わされるな。「……大変じゃない……」宏は私の手の甲に顔をすり寄せ、満足そうに呟いた。「俺の嫁は、最高の女なんだ」「……目だけは節穴じゃなかったみたいね」江川家に嫁いでから、宏にも江川家の人にも、私はずっと「完璧な妻」を演じてきた。どれだけ彼に愛されなくても、礼儀も、態度も、一つも落ち度はなかった。だからこそ、彼も私の非を見つけられなかったのだろう。宏は何かを呟いたが、言葉ははっきりしない。そのまま、静かに眠りについてしまった。私はそっと手を引き抜き、部屋を出て、キッチンへ向かった。――酔い覚めスープを作るため
布越しにもかかわらず、腰に触れる熱が耐えがたいほどだった。まるで金縛りにあったように、体が動かない。それでも、頭は冷静だった。「もう、はっきり話したはずよ。私は、結婚生活に第三者が入り込むのが嫌なの」「……ごめん」宏は額を私の背中に押し当て、くぐもった声で謝った。――心が揺らぐか?当然、揺らぐに決まっている。何年もの想いを、一朝一夕で消し去ることなんてできるはずがない。もう一度だけ、彼にチャンスを与えたい。けれど――この数ヶ月の出来事が、頭の中で繰り返し再生された。彼を選ぶか、自分を選ぶか。私は息を吐き出し、静かに言った。「宏、あなたはいつも、間違いに気づくけど、結局また同じことを繰り返す。そんなの、何の意味もないわ」今度こそ、自分を選ぶ。七年も彼を選び続けた。もう、十分でしょ。宏は、長い沈黙の後、何も言わなかった。「手を離して。私たちは、ここまでよ」かつての私は、こんな冷たい言葉を彼に投げかけたなんて、想像すらできなかった。一方的な恋とは、ただの自己犠牲の祭り。彼の何気ない視線一つ、ちょっと手招きされただけで、すぐに駆け寄ってしまう。その度に、幸せを感じて、数日間も浮かれ続けていた。――まさか、その私が、別れを決意する日が来るなんて。どうやって帰ってきたのか、自分でもよく覚えていない。海絵マンションに戻った時も、まだぼんやりとしていた。けれど、つわりのおかげで――ベッドに横になった瞬間、意識が落ちていった。余計なことを考える暇すら、与えてもらえなかった。翌朝、インターホンの音で目が覚めた。私の新しい住所を知っているのは、来依くらい。でも、彼女ならパスワードを知っているから、そのまま入ってくるはず。――きっと、誰かが部屋番号を間違えたんだろう。私は布団を頭までかぶり、週末くらい自由に寝かせてほしいと願いながら、再び目を閉じた。しかし、外の訪問者は異様に粘り強く、インターホンを鳴らし続けた。諦める気配がない。仕方なく、寝起きの不機嫌さを引きずりながら、ドアを開けに行く。すると――ドアの前には、宏が立っていた。長身の影が入口を塞ぎ、黒い瞳がじっと私を見つめた。「ここに住むつもりか?」「……他にどこがあるっていうの?」――昨夜
……この家は、彼から譲り受けた直後からすぐにリフォームに取り掛かった。私は毎日、朝早くから夜遅くまで出入りしながら、細かく施工をチェックした。それでも――彼は一度も、それを気にかけたことはなかった。私がどれだけ遅く帰ろうと、せいぜい「遅かったな」とか、「デザイン部は忙しそうだな」と、社交辞令のように言っただけだった。私がどこで何をしていたのか――それは、彼が関心を持つ範囲にはなかった。もうすぐ離婚するというのに、今さら何を取り繕うというのか。「たぶん、あなたがアナと一緒にいた時よ」案の定、彼の表情が一瞬、固まった。――ああ、スッキリした。「俺たちは、最近連絡を取っていない」「説明しなくていいわ」もはやどうでもいいことだ。「好きにすればいいわよ。離婚が成立したら、いつでも彼女を迎え入れれば?」「南、君ってこんなに嫌味っぽい言い方をするやつだったか?」彼は苛立ったように眉間に皺を寄せた。「じゃあ、どう言えばよかった?」「離婚しようがしまいが、アナが俺たちの関係に影響を与えることはない」「自己欺瞞ね」私はそう言い捨て、玄関へ向かい、靴を履いて先に外へ出た。運転手は車の中で待機していた。私が外に出たと、すぐに降りてドアを開けた。車に乗り込んだ瞬間、宏もそのまま続いて乗り込んできた。車が動き出したと、普段ほとんど私に話しかけたことのない彼が、またどうでもいい話題を持ちかけた。視線を伏せ、私の足元をちらりと見て、不思議そうに尋ねた。「最近、ヒールを履いてないな?」「フラットシューズの方が楽だから」妊娠してから、高いヒールは一切履いていない。万が一、子どもに影響があったら困るから。「……そうか」彼は淡々と相槌を打ち、少し黙った後、また口を開いた。「新年の限定シリーズは、いつ頃生産に入るんだ?」「?」私は彼を訝しげに見た。――どういう風の吹き回し?「F&A」は江川グループの中でも確かに高級ブランドだが、ここ数年はグループの主力事業ではなかった。宏も、経営の細かい部分はすでに現場に任せており、通常は会議の報告だけ受けていれば十分なはず。今さら、こんな細かいことを聞いてくるなんて――。今日は一体どうなってるんだ?さっきはハイヒール、今は
芹奈は、海人の動きの合間に彼の首筋にある赤い痕を見つけた。喉仏のあたりには噛み痕までついていた。すべてが、ついさっき彼と来依が激しく交わった証だった。彼女が最も恐れていたことが、ついに現実になってしまった。「しかも、二度目までは一日も空いていない」海人が再び口を開いた。その声は氷雪をまとったように冷たく、聞く者の背筋を凍らせた。芹奈はその鋭い眼差しに目を合わせ、無意識に一歩後退した。だが、それではいけないと思い直し、すぐに彼の目の前まで歩み寄った。「何のこと?全然意味がわからないわ」そう言いながら、彼の腕を掴もうと手を伸ばした。海人は身をかわした。すると五郎が即座に芹奈を制し、膝裏に蹴りを入れて彼女を地面に跪かせた。「海人っ!」芹奈は、これほどの屈辱を味わったことがなかった。幼い頃から、周囲の人間は皆彼女を中心に回っていた。望むものはすべて手に入れ、何も言わなくても誰かが彼女の心を読んで与えてくれた。海人だってそうだった。両親が彼女のもとに送り届けた存在。家柄が釣り合っていたからこそ、得られた立場だ。来依には決して手に入らないはずのものだった。それなのに、その来依が海人の愛を手に入れた。しかも、何よりも強い愛を。それがどうしても許せなかった。薬を盛ったのだって、海人の母の暗黙の了解があったからだ。「お母様が、あなたを私に差し出したのよ。文句があるなら、私じゃなくてそちらに言いなさいよ」海人は視線を落とし、見下すように芹奈を見つめた。まるでゴミでも見るかのような目だった。「母さんには、もちろんきっちり責任を取らせる。だが今は、お前がどうするかだ。自分で家に戻って、俺とは結婚しないと言うか。それとも、俺が高杉家を潰して、菊池家との縁談が二度と成立しないようにするか、選べ」芹奈の脳裏に浮かんだのは、雪菜の末路だった。かつて彼女は、雪菜を笑いものにしたことがあった。あれほど恵まれた立場にいながら、海人の子を産むことこそが一番重要だったのに、と。かつての晴美もそうだった。海人と結婚する資格はなかったが、子を身籠れば菊池家に庇われた。自分は正式に海人と結婚できる身分。子どもさえできれば、さらに盤石になるはずだった。なのに、あと一歩のところで。なぜ来依が、こんな場所に現れたのか
「前にお礼がしたいって言った時、断ったよね。まさか、こんなところで待ってたなんて。「海人、私のこと、からかってるの?」海人は顔を上げた。黒く深い瞳には、すでに抑えきれない欲望が宿っていた。理性で抑えていたせいか、腕の血管が浮き上がっていた。でも今回だけは、彼女に自分から求めたかった。「俺って、そんなに最低に見える?」確かに全く魅力がないわけではなかった。ただ、以前彼が彼女の意志を無視して無理やりだったことを思えば――。「部下と連絡が取れないなんて、ありえないでしょ」「石川は俺の縄張りじゃない。ここには、俺が来るのを快く思わない奴がいる」彼の仕事の事情なんて、来依にはどうでもよかったし、知りたくもなかった。ただ一言、「とにかく、私はあんたの問題を解決できるような人間じゃない。冷たい水でも浴びて、私が風邪薬買ってきておくから」海人は目元を伏せ、どこか哀れにさえ見えた。「ちょっと助けてくれるだけなのに、そんなに難しいことか?」来依は頷いた。「私たち、もう身体の関係を持つべきじゃないと思う。たとえ緊急事態でも」海人の脳裏に浮かんだのは、来依を抱き寄せていたあの男の姿だった。全身に溜まっていた苛立ちが一気に燃え上がり、怒りが頂点に達し、理性を失いかけていた。「新しい男のために、貞操を守ってるってわけか?」来依は、彼の言う相手が勇斗だとすぐに分かった。さっき、勇斗が彼女の首に腕を回したところを海人に見られていた。もう説明する気もなかった。「そうよ」海人はとうとう理性を失った。この数日間、押さえつけていた感情が、長く眠っていた火山のように噴き出した。触れるところ全てが熱かった。来依はその熱さに身を縮めた。必死に彼を押し返したが、それでも止めることはできなかった。彼は彼女の服を無理やり引き裂いた。「海人、憎むわよ」「憎めばいい」海人は彼女を強く抱きしめた。「ただ、俺のことを忘れないでくれればそれでいい」来依の体が震え、怒りに任せて彼の肩に噛みついた。海人の動きは、さらに激しさを増した。来依はこらえきれず、恥ずかしい声を漏らしてしまった。……その頃、意識を失っていた勇斗は、自宅へと運ばれていた。一方、レストランでは、芹奈が個室をめちゃくちゃにしていた
その言葉がまだ空気の中に残っているうちに、来依は海人が自分で立ち上がるのを目の前で目撃した。……だが、次の瞬間、彼はそのまま彼女の方へ倒れかかってきた。来依は慌てて支えた。海人は彼女の肩に寄りかかり、呼吸が首筋にかかる。その吐息が、驚くほど熱かった。「ちょっと、あんたの部下って、いつもベッタリついてるんじゃなかったの?なんでこんなに熱出してるのに、一人なのよ?」そのとき、男のかすれた声が聞こえた。「ホテルに……戻る……」「……」来依は本気で呆れた。ホテルの名前も言わずに、どこのホテルに連れて行けっていうのよ。仕方なく、彼のポケットに手を入れてスマホを探した。スラックスの両方のポケットを探っても見つからない。彼は白シャツ一枚で、上着も持っていない。ということは、スマホは身につけていないということ。だから部下とも連絡が取れなかったのか。……でもおかしい。彼の部下は、いつも一歩も離れないはずなのに。考えを巡らせていると、不意に手首を掴まれた。「……変なとこ、触るな……」来依は怒鳴りたくなった。が、熱で頭がおかしくなってるとわかっていたので我慢した。「ホテルの名前は?」「君亭……」「……」まさかの、自分と同じホテルだった。来依は彼の腕を肩に回し、ゆっくりと外へ連れ出した。フロントで勇斗を探したが、いなかった。外にいるかと思って出てみたが、そこにもいない。スマホを取り出して電話をかけたが、勇斗は電源が切れていた。「???」今夜の出来事、偶然にしては出来すぎている。海人のやり口なら、こういう段取りもできそうで……「寒い……来依ちゃん……」「……」来依は歯を食いしばり、道でタクシーを止めて海人をホテルまで連れ帰った。彼はパスポートも部屋のカードキーも持っていなかった。フロントに聞くと、パスポートがないと部屋を開けられないと言われた。「彼の名前は菊池海人で、このホテルの宿泊客ですよ。カードキー忘れただけですから、開けてくれませんか?」フロントは丁寧に答えた。「申し訳ありません。当ホテルはハイクラスの施設でして、お客様のプライバシーと安全を最優先にしております。パスポート明がない場合、お部屋の開錠はできません」大阪では好き放題やってる海人も、石川では名前が通じな
「今どきは、こういうのを好む人も多いしさ。配信でもよく見かけるよ」勇斗は彼女に麦茶を注ぎながら言った。「でもね、彼女たちが求めてる『家』って、ただの物件じゃないんだよ」来依も家を買うのが簡単じゃないことは分かっていた。自分の小さな家を手に入れるのにも時間がかかったし、南ちゃんが手助けしてくれなければ、もっと長引いていただろう。「大丈夫。今回うまくいったら、うちのブランドと連携させるつもり。ちゃんと宣伝して売れれば、家の資金くらいすぐ貯まるって!」「それなら最高だよ。お前たちのブランドの影響力はよく知ってる」二人は個室で笑い合いながら、にぎやかに話していた。だが、隣の個室では冷え切った空気が漂っていた。芹那は何も気にしていないふうを装い、海人に料理を取り分け、エビの殻まで剥いていた。「私、子供のころは石川で育てられてたの。肺が弱くて、大阪の気候が合わなくて。「このお店、百年近い歴史があって、石川の名物よ。ここのエビ、大阪のとは違うの。ただ茹でただけで、水も調味料も使わないのに、すごく旨味があるの。あとからほんのり甘くなるのよ」海人が返事をしようがしまいが、芹那は一人で話し続けていた。海人は指先で茶杯をなぞっていた。顔には何の表情もなく、いつものように無表情を保っていたが、心の中は決して穏やかではなかった。途中で一度トイレに立ち、戻る際に隣の部屋から楽しそうな笑い声が聞こえた。部屋に戻ると、注ぎ直されたお茶を見て、何も言わずに一気に飲み干した。芹那の目に一瞬、狙った獲物を逃さぬような決意の光が走った。昨夜は失敗した。だから今日は、絶対に落とすつもりだった。できれば、妊娠してしまえば一気に話が進む――そう思っていた。……来依は勇斗と少し酒も飲んで、 食事だけじゃ物足りず、もう一軒行こうという話になっていた。勇斗が会計をしに行き、来依はトイレへ向かった。しかし、まだトイレに入る前に、誰かに口を塞がれ、個室へ引き込まれた。ここで犯罪に遭うとは思っていなかったし、 なにより、彼女の鼻に届いたのは――見覚えのある匂いだった。「海人!」彼女は、彼の手を振り払って振り向き、怒鳴ろうとした。だが次の瞬間、唇を塞がれた。また、強引なキスだ。来依はすぐさま足を上げて蹴りを入れた。あの
病院で海人の容体が問題ないと確認された後、彼はすぐに空港へ向かった。鷹は時計を見て言った。「今夜のうちに行くのか?」海人はうなずいた。眉間には疲労の色がにじんでいた。鷹は南の手を引いて病院を出たが、外には車が二台停まっていた。彼は尋ねた。「高杉芹那も一緒に行くのか?」海人は再びうなずいた。鷹は理解できない様子だった。「これは、どういう仕掛けだ?」「行くぞ」海人はそれ以上答えず、車のドアを開けて乗り込んだ。二台の車が走り去るのを見送ってから、南が聞いた。「昨日の夜、あなたちょっと出しゃばりすぎたんじゃない?」鷹は顎をさすりながら答えた。「そんなはずないけどな……」「“そんなはず”って何よ?」「海人が誰を好きかなんて、俺に分からないはずがないだろ?」二人は家に戻って少し荷造りし、それぞれ会社へ向かった。南は来依の目の下のクマが、ファンデーションでも隠しきれていないのを見て聞いた。「昨日クラブでも行ってたの?」来依は首を振った。「眠れなかっただけ。たぶん、まだ時差ボケが抜けてないんだと思う」南はすぐに、それが嘘だと見抜いた。サンクトペテルブルクから帰ってきて、もう何日も経っている。なのに、ちょうど昨晩だけ眠れなかったなんて。「ニュース、見たんでしょ?」来依はうなずいた。南はその話題を深追いせず、こう聞いた。「それで、石川への出張、行けそう?」来依はうなずいた。「飛行機で寝れば大丈夫」「なら良かった」南は自ら来依を空港まで見送った。「着いたら連絡してね」来依はOKサインを出し、保安検査へ向かった。石川では和風フェスが開催されていて、 将来的に日本要素を取り入れた服を作るために、彼女たちはその視察も兼ねていた。無形文化遺産の刺繍もある。来依の友人が今回の主催側にいたため、彼女が先に現地入りして下見をし、 良さそうなら南が後から合流する予定だった。無駄足にならないように。南にはまだデザイン草案の制作もあったから。この件はサンクトペテルブルクにいる間にすでに決まっていたことだった。そして偶然にも、海人も今日、石川へ出張に行く予定だった。鷹は前日、彼の誕生日パーティーで初めてそれを知った。飛行機が飛び立つのを見送りながら、南は思った。――もし今回の石川で二人が再会
しかし、海人と鷹の歩む道は違った。鷹のように勝手気ままにはできない。それに、鷹も今の地位に至るまで、何度も陥れられ、苦労を重ねてきた。海人には、もっと安全で堅実な道があった。無理をしてまでリスクを冒す必要はない。彼は、彼女にとってたった一人の息子だった。「私はお客様のところへ行ってくるわ。あんたたちは海人と話してて」鷹はうなずき、海人の母を見送ったあと、海人のもとへ歩み寄り、グラスを軽く合わせた。「おめでとう、バースデーボーイ。今日でまた一つ年を重ねたな」海人は彼を横目で一瞥した。「俺たち、同い年だろ」「でも違うよ。俺の方が数ヶ月遅く生まれてる分、年取るのも数ヶ月遅いからさ」海人はまだ来客の対応があるので、彼を相手にせず、すぐその場を離れた。鷹は南を休憩スペースへ連れて行き、彼女の好きな食べ物を用意した。南は数杯お酒を飲んだあと、トイレに行こうと立ち上がった。鷹も付き添って一緒に向かった。その時、曲がり角を白い影がすっと横切った。鷹は覚えていた。今日の芹奈は白いドレスを着ていた。「何見てるの?」彼は南の手を握り、急いで階段を下りた。だが、海人の姿は見当たらなかった。鷹はすぐに午男に指示を出した。午男は迅速に監視カメラの映像を確認した。数々の修羅場をくぐってきた彼らの警戒心は常に高かった。画面には、海人がある部屋へ入っていく姿、そしてその数秒後に芹奈が同じ部屋に入る様子が映っていた。「まずい」南も映像を見て、すぐに察した。急いで鷹とともに5階のその部屋へ向かった。五郎たちも後に続いたが、海人の母の方が一足早かった。部屋に入ると、すでに海人の母が海人を叱っていた。「もともと高杉家との縁談を進める予定だったんだから、芹那が今日来たのも、あんたと顔を合わせて、少しでも親しくなるためだったのに、何をそんなに焦ってるの?」鷹は腕時計を見た。白いドレスの裾を見かけてから、部屋に来るまで、10分も経っていない。服を脱ぐ時間すらない。海人の母も、海人と芹奈に本当に何かが起きるとは思っていなかった。ただ、この話が世間に広まれば、それで「海人と芹奈は結婚する」という既成事実を作ることができる。ここまで強引に進めたのは、海人を追い詰めすぎると逆効果になることを理解していたから
撮影場所で少しゆっくりした後、一行はホテルへ戻った。そのとき、来依がふと何かを思い出した。「旦那さん、あんなにお金持ちで、彼女自身もお金持ちなのに、私にたった1%しか割引しないなんて!」佐夜子は笑って言った。「私は割引ゼロだったわよ。あなたに1%でもしてくれたなら、相性が良かったのよ」「彼女は子どもの頃、おじいさんと一緒に藤屋家で育てられてた。でも藤屋家は大所帯で、いくつもの分家が表では仲良くても裏では争ってるような家だから、嫁いだあとも藤屋清孝は家にいなくて、守ってくれる人が少なかったの。「彼女が若くして名を上げてなかったら、金銭面で苦労したかもしれないわ。藤屋家の財産には手を出さないし、少しケチなのも仕方ないのよ」来依は手をポケットに突っ込んで、「初対面なのに意気投合したの、私たち似たような経験があるのかもね」南は来依を抱きしめた。「もう全部、過去のことよ」「そうだね、全部終わったこと」サンクトペテルブルクで5日間過ごした一行は、大阪に戻った。一週間後は海人の誕生日パーティーだった。鷹も出席することになっていた。この誕生日は海人にとって特別な日だった。南も妻として同伴する。「来依も呼んで騒がしくすれば?」南は彼を横目で睨んだ。「あなたってば、本当に面白がってるだけでしょ」鷹は彼女の手をいじりながら言った。「高杉家も来るんだ」「高杉家?」「菊池家が考えている次の婚姻相手の家だよ」南は軽く眉をひそめた。「私は菊池家に生まれたわけじゃないし、口出す権利もないけど、こんなふうに無理やり進めるのって、本当にいいのかな?」鷹は言った。「もう十分待ったんだよ。海人が18歳で特訓から帰ってきたときには、すでに候補探しを始めてたんだ。「これまで自由にやらせてきたけど、もう時間切れってことさ」他人の運命に口を出せる立場じゃない。南は、ただ願うばかりだった。海人が来依のことで、これ以上問題を起こさないようにと。……海人の誕生日は、決して控えめではなかった。来依は知らないふりをしたくても無理だった。ネットはその話題で持ちきりだった。諦めて、スマホを見るのをやめ、静かに映画を見ることにした。そのころ、南は、海人と婚約予定の高杉家の令嬢と顔を合わせていた。「高杉芹奈だよ」鷹が彼女の耳元でささ
「詳しくは分からないけど、錦川さんは『価値観が合わない』って言ってたわ」「自由恋愛だったの?」「彼女の祖父が、元夫の祖父の副官でね、昔、戦場で弾から身を守ったことがあるの。それに、錦川さんにはその祖父しか身内がいなかったの。祖父が亡くなったあと、元夫の祖父が、自分の孫に錦川さんを娶らせたの」来依は、持っていたネタが一気に霞んでしまったような顔で言った。こんな話、どんなドラマよりおもしろいじゃない。「で?そいつって、嫌がったんじゃないの?」言ってから、あ、まずいと気づいて、慌てて弁解した。「私、普通に話してるだけだからね?安ちゃんがここにいるし、下品なことは言わないよ?」安ちゃん「ふーっ」佐夜子は安ちゃんのほっぺをつまみ、蘭堂から渡されたホットミルクティーを一口飲んだ。「元夫は彼女のこと、確かに好きじゃなかったの。結婚してすぐ外地に転勤しちゃってね。錦川さんはその間、写真の仕事を受けたり、海外に行って野生動物の撮影をしてたりして、3年間、顔を合わせることすらなかった。で、3年後におじいさんが重病になって、やっと顔を合わせたと思ったら、最初にしたことが離婚の話だったのよ」来依はすっかり話に引き込まれていた。「私が読んだどの小説よりもドラマチック……」佐夜子は、来依が聞きたがっているのを見て、続けた。「おじいさんは離婚してほしくなかった。でも錦川さんは、もともと自由な魂を持ってる子で、おじいさんの遺志を守るために、愛のない結婚生活を3年も耐えてたのよ。本人の話では、結婚という制度に縛られて、恋愛の自由すら奪われたって。「でもね、よく分からないのが、元夫の方。好きじゃないはずなのに、3年も放っておいたくせに、いざ離婚したいって言われたら、急に反対したのよ」来依はすぐに聞き返した。「じゃあ、まだ離婚してないの?」佐夜子は首を振った。「ううん、してない。むしろ今、元夫が口説いてる状態」「それは、刺激的だわ」来依は慌ててミルクティーを一口飲んで、気持ちを落ち着けた。「その元夫って誰?他に好きな人ができたりしたのかな?」佐夜子が名前を出したが、来依は聞いたことがなかった。すると佐夜子は、企業名と元夫の現在の役職も口にした。「ちょ……」来依は思わず口にしかけた言葉を飲み込んだ。「石川の藤屋家?」「
海人の父はしばらく考え込んだ。「こうしよう。来月初め、海人の誕生日のときに、高杉家を招待して、そこで直接婚約のことを発表する」海人の母は不安そうに言った。「前に西園寺家の件もあったし、今回はもう少し彼に時間を与えた方がいいと思うわ」海人の父は言った。「もうどれだけ時間を与えたと思ってる?何の意味もなかった。はっきり動く時だ」「でも、あいつを追い詰めすぎたら……誕生日が過ぎたら、菊池家の後継者の座を正式に譲る予定でしょ?」「その前に一押ししておかないと、あの女を嫁に迎えるのを黙って見てるのか?」それは海人の母が一番望まない結末だった。だが、もう一つの結末もまた、心から望んでいるわけではなかった。「誕生日ではまず顔合わせだけにして、婚約の発表は控えましょ。誰かに聞かれたら、はぐらかしておけばいい。 「それに、誕生日のあと海人は石川へ出張するでしょ?そのときに高杉家のお嬢さんも同行させて、少しずつ距離を縮めさせたらどう?」海人の父は海人の母の提案をじっくり考えてから、うなずいた。「じゃあ、その通りに進めよう」……正月の七日間、来依は佐夜子にたっぷり食べさせられ、5キロ太ってしまった。慌てて自分の部屋に戻り、菜食ダイエットを始めた。二週間後、なんとか痩せることができて、サンクトペテルブルクへ便乗撮影の旅へ出かけた。佐夜子と蘭堂のウェディングフォトを撮るのは、若くして才能あるカメラマンだった。その女性の撮る写真は、来依のお気に入りだった。来依がはしゃぎ回るのを見て、南が彼女の腕を掴んで言った。「あなたの結婚式じゃないんだから、そんなに騒いで」来依は何度も舌打ちをして言った。「南ちゃんさぁ、私たちが友達になった頃はもっと面白いネタ教えてって言ったのに、全然教えてくれなかったじゃん。でも今や、鷹と結婚してから、ネタがどんどん出てくるようになってるよね〜ほんと似てきたよ」南は笑って彼女の肩を叩いた。「からかわないでよ」来依は言った。「テンション上がってるのは確かだけど、ちゃんとわきまえてるよ。今回は佐夜子さんと蘭堂さんの撮影が一番大事ってわかってるから、二人の撮影が終わってから撮るつもり」サンクトペテルブルクでは雪も少し降っていた。細かい雪がウェディングフォトにロマンチックな雰囲気を添えていた。佐夜