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第11話

Author: 楽恩
すべての期待が一瞬で打ち砕かれ、頭の先から足の先まで冷え切ってしまった。

絶望とは、きっとこういうことを言ったのだろう。

私は電話を握りしめたまま、長い間何も言えなかった。

何かを問いただしたい気持ちはあったが、それに何の意味があるのだろうとも思った。

彼がどこにいるのか、言わなくてもわかる。

もう次はないって、彼にはっきり伝えたはずなのに。

つまり、彼はすでに選んだということだ。違うのだろうか?

大人に、選択も損得の計算もできない人間などいない。

そして私は、彼の中で何度も何度も天秤にかけられた末、切り捨てられる側になったのだ。

無意識にお腹をそっと撫でながら考える。この子を、本当に産むべきなのだろうか。

もし産んだら、彼との関係は完全に断ち切れなくなる。

子どもの親権、それだけでも大きな問題だ。

そのとき、電話の向こうから彼の声がした。

「南?」

「……うん」

それ以上、何も言った気になれなかった。いや、正確には、もう彼に対して余計な言葉をかける気力すらなかった。

朝食を済ませた後、一人で車を運転し病院へ向かった。彼を誘ったのは、サプライズをしかったからだ。

それなのに、どうして佐藤さんを巻き込む必要があった?私だって、まだお腹が大きくて動けないわけじゃないのに。

思考が混乱していたせいか、突然目の前に割り込んできた車に、全く反応できなかった。

「ガンッ!」

衝撃とともに、視界がぐるぐると回る。本能的に、残った力を振り絞って宏に電話をかけた。

結婚して最初にしたことは、彼を緊急連絡先に設定することだった。

――宏は、私の夫になった。

それだけで、私はとても嬉しかった。彼との関係を何か形にしたくて、考えに考えた末の答えが、緊急連絡先の登録だった。

でも、それを彼は知らない。

独りよがりの喜びだったのだ。

そして今、その電話は、いつまでも鳴り続けたばかりで、誰も出ない。

お腹が痛み出した。子どものことを考えた瞬間、強烈な恐怖に襲われた。

宏、電話に出てよ!

ようやく、電話が繋がった。だが、聞こえてきたのは彼の声ではなかった。

「南?何か用?宏、今日はあなたの相手をする時間なんてないって言ってたでしょ?」

アナの柔らかい声が、鋭い刃のように心を貫く。息が詰まり、涙がこぼれ落ち、指先が震えて止まらなかった。

こんなにも長く愛してきたのに、それがある瞬間、憎しみに変わることもあるのだと初めて知った。

憎しみが私からすべての力を奪い、視界が真っ暗になる。私は、深い闇の中へと沈んでいった――。

再び目を覚ました時、目に入ったのは真っ白な天井だった。

点滴の薬が静かに体内へ流れ込み、手の甲が冷たかった。意識を失う前の記憶が蘇ると、私は反射的にお腹に手を当てた。

鈍い痛みが残る。

私の子は……

その瞬間、一秒ごとが耐え難い苦痛に変わった。私は勢いよく起き上がり、医者を探そうとした。

「南ちゃん!」

病室のドアが急に開き、来依が駆け込んでくる。私をベッドに押し戻し、焦った声を上げた。

「動かないで!点滴まだ終わってないのよ!手、ダメにする気!?」

普段、私は泣くような性格じゃない。でも、子どものことを思うと、もう感情が抑えきれなかった。顔を上げると、来依の心配そうな目があった。その瞬間、涙が止めどなく溢れ出した。

「来依……子供は……」

私は、後悔した。

家を出る前、私はまだ迷っていた。この子を産むべきか、産まざるべきか――。

でも、今はただただ申し訳ない。

私の子なのに。

きっと、たくさん迷って、ようやく私を母に選んでくれたのに。

私は、産むかどうかなんて考えていた。

来依はそっと涙を拭い、私を抱きしめた。彼女らしからぬ、優しい声で言った。

「泣くな。赤ちゃん、元気にお腹にいるよ。すごく頑張ったね」

「本当に?」

「本当よ。信じられないなら、看護師さんに聞いてみなさい」

看護師は来依と一緒にいたようで、苦笑しながら言った。

「赤ちゃんのことばかり気にしてますけど、清水さんも頭を打ったんですよ?額の傷は縫ったけど、妊娠中だからCTは撮ってないんです。気分はどうですか?」

「なんとか……」少しだけ、ふらふらしてた。

「なら大丈夫です。点滴が終わったら、いったん帰宅して様子を見て、何かあったらすぐ病院に来てださい」

看護師は肩をぽんっと叩き、優しく微笑んだ。

「安心してくださいね。赤ちゃんは順調に育ってますよ。お母さんが元気でいることこそ、一番の愛情ですよ」

その言葉に、張り詰めていた気持ちがようやく緩んだ。私は来依にしがみつき、声を押し殺して泣いた。

すべての悔しさと、悲しみを流すように――。

しばらくして落ち着くと、来依が椅子を引いて私のそばに座った。少し怒ったように、ため息をついた。

「本当に心臓に悪いんだけど!今日って、江川と墓参りに行く予定じゃなかった?なのに、なんであんた一人でいたの?

病院が緊急連絡先に連絡したとき、たまたま私が電話したから気づいたけど……あんた、一人で倒れてたら誰も助けられなかったのよ!?

それに……あんた、避けようと思えば避けられたはずでしょ?何考えてたの?自殺する気だったの!?」

来依は話せば話すほど怒りが込み上げてきたのか、目を真っ赤にしていた。最後には顔をそむけ、そっと目元を拭った。

――きっと、それだけ怖かったのだ。

私は彼女を安心させたかった。そんなに怒らなくてもいい、そんなに怯えなくてもいい――

「ほら、私はちゃんとここにいるよ」

そう伝えたかった。

でも、口を開くと出たのは、淡々とした一言だった。

「来依ちゃん、決めたの」

「……何を?」

「離婚する」

私は息を吐き出した。胸の奥につかえていた何かがようやく抜けた気がして、この半月の間で初めて肩の力が抜けるのを感じた。

「もう、宏はいらない」

来依は驚いたようにじっと私を見つめ、しばらくしてからようやく口を開いた。

「本当に、吹っ切れたの?」

「うん」

七年――。

たった数回の食事で恋に落ち、私は本気で彼を愛し続けた七年間だった。

なのに彼は、一度たりとも私のために感情を揺らしたことがない。

滑稽な話だ。

彼がアナのことで苛立つたび、私はどこかで羨ましく思っていた。

そんな自分が、惨めで仕方なかった。

はっきりとわかっている。

彼の心が揺れたのは、いつだってアナのため。

私が今日この事実を受け入れなければ、いずれ気づくのは彼の方だろう。

それなら、なぜ自分から惨めになる必要がある?

来依はふいに眉を上げ、皮肉めいた口調で言った。

「人生って本当にわからないもんね。車にぶつかって、恋愛ボケまで吹っ飛んだわけだ。だったらもっと早く事故に遭わせてあげればよかったかも?」

「……」

「それで、子どもは?江川は知ってるの?」

離婚の段取りを考え始めたのか、来依は真剣な表情になった。

「……知らない」

私は口元にかすかな笑みを浮かべたものの、声はどこか詰まっていた。

「本当は、今日伝えるつもりだったんだけどね……」

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yas
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かほる
私も離婚すべきだと思う 此れは アナも悪いが男が1番悪い
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    その言葉がまだ空気の中に残っているうちに、来依は海人が自分で立ち上がるのを目の前で目撃した。……だが、次の瞬間、彼はそのまま彼女の方へ倒れかかってきた。来依は慌てて支えた。海人は彼女の肩に寄りかかり、呼吸が首筋にかかる。その吐息が、驚くほど熱かった。「ちょっと、あんたの部下って、いつもベッタリついてるんじゃなかったの?なんでこんなに熱出してるのに、一人なのよ?」そのとき、男のかすれた声が聞こえた。「ホテルに……戻る……」「……」来依は本気で呆れた。ホテルの名前も言わずに、どこのホテルに連れて行けっていうのよ。仕方なく、彼のポケットに手を入れてスマホを探した。スラックスの両方のポケットを探っても見つからない。彼は白シャツ一枚で、上着も持っていない。ということは、スマホは身につけていないということ。だから部下とも連絡が取れなかったのか。……でもおかしい。彼の部下は、いつも一歩も離れないはずなのに。考えを巡らせていると、不意に手首を掴まれた。「……変なとこ、触るな……」来依は怒鳴りたくなった。が、熱で頭がおかしくなってるとわかっていたので我慢した。「ホテルの名前は?」「君亭……」「……」まさかの、自分と同じホテルだった。来依は彼の腕を肩に回し、ゆっくりと外へ連れ出した。フロントで勇斗を探したが、いなかった。外にいるかと思って出てみたが、そこにもいない。スマホを取り出して電話をかけたが、勇斗は電源が切れていた。「???」今夜の出来事、偶然にしては出来すぎている。海人のやり口なら、こういう段取りもできそうで……「寒い……来依ちゃん……」「……」来依は歯を食いしばり、道でタクシーを止めて海人をホテルまで連れ帰った。彼はパスポートも部屋のカードキーも持っていなかった。フロントに聞くと、パスポートがないと部屋を開けられないと言われた。「彼の名前は菊池海人で、このホテルの宿泊客ですよ。カードキー忘れただけですから、開けてくれませんか?」フロントは丁寧に答えた。「申し訳ありません。当ホテルはハイクラスの施設でして、お客様のプライバシーと安全を最優先にしております。パスポート明がない場合、お部屋の開錠はできません」大阪では好き放題やってる海人も、石川では名前が通じな

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第875話

    「今どきは、こういうのを好む人も多いしさ。配信でもよく見かけるよ」勇斗は彼女に麦茶を注ぎながら言った。「でもね、彼女たちが求めてる『家』って、ただの物件じゃないんだよ」来依も家を買うのが簡単じゃないことは分かっていた。自分の小さな家を手に入れるのにも時間がかかったし、南ちゃんが手助けしてくれなければ、もっと長引いていただろう。「大丈夫。今回うまくいったら、うちのブランドと連携させるつもり。ちゃんと宣伝して売れれば、家の資金くらいすぐ貯まるって!」「それなら最高だよ。お前たちのブランドの影響力はよく知ってる」二人は個室で笑い合いながら、にぎやかに話していた。だが、隣の個室では冷え切った空気が漂っていた。芹那は何も気にしていないふうを装い、海人に料理を取り分け、エビの殻まで剥いていた。「私、子供のころは石川で育てられてたの。肺が弱くて、大阪の気候が合わなくて。「このお店、百年近い歴史があって、石川の名物よ。ここのエビ、大阪のとは違うの。ただ茹でただけで、水も調味料も使わないのに、すごく旨味があるの。あとからほんのり甘くなるのよ」海人が返事をしようがしまいが、芹那は一人で話し続けていた。海人は指先で茶杯をなぞっていた。顔には何の表情もなく、いつものように無表情を保っていたが、心の中は決して穏やかではなかった。途中で一度トイレに立ち、戻る際に隣の部屋から楽しそうな笑い声が聞こえた。部屋に戻ると、注ぎ直されたお茶を見て、何も言わずに一気に飲み干した。芹那の目に一瞬、狙った獲物を逃さぬような決意の光が走った。昨夜は失敗した。だから今日は、絶対に落とすつもりだった。できれば、妊娠してしまえば一気に話が進む――そう思っていた。……来依は勇斗と少し酒も飲んで、 食事だけじゃ物足りず、もう一軒行こうという話になっていた。勇斗が会計をしに行き、来依はトイレへ向かった。しかし、まだトイレに入る前に、誰かに口を塞がれ、個室へ引き込まれた。ここで犯罪に遭うとは思っていなかったし、 なにより、彼女の鼻に届いたのは――見覚えのある匂いだった。「海人!」彼女は、彼の手を振り払って振り向き、怒鳴ろうとした。だが次の瞬間、唇を塞がれた。また、強引なキスだ。来依はすぐさま足を上げて蹴りを入れた。あの

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第874話

    病院で海人の容体が問題ないと確認された後、彼はすぐに空港へ向かった。鷹は時計を見て言った。「今夜のうちに行くのか?」海人はうなずいた。眉間には疲労の色がにじんでいた。鷹は南の手を引いて病院を出たが、外には車が二台停まっていた。彼は尋ねた。「高杉芹那も一緒に行くのか?」海人は再びうなずいた。鷹は理解できない様子だった。「これは、どういう仕掛けだ?」「行くぞ」海人はそれ以上答えず、車のドアを開けて乗り込んだ。二台の車が走り去るのを見送ってから、南が聞いた。「昨日の夜、あなたちょっと出しゃばりすぎたんじゃない?」鷹は顎をさすりながら答えた。「そんなはずないけどな……」「“そんなはず”って何よ?」「海人が誰を好きかなんて、俺に分からないはずがないだろ?」二人は家に戻って少し荷造りし、それぞれ会社へ向かった。南は来依の目の下のクマが、ファンデーションでも隠しきれていないのを見て聞いた。「昨日クラブでも行ってたの?」来依は首を振った。「眠れなかっただけ。たぶん、まだ時差ボケが抜けてないんだと思う」南はすぐに、それが嘘だと見抜いた。サンクトペテルブルクから帰ってきて、もう何日も経っている。なのに、ちょうど昨晩だけ眠れなかったなんて。「ニュース、見たんでしょ?」来依はうなずいた。南はその話題を深追いせず、こう聞いた。「それで、石川への出張、行けそう?」来依はうなずいた。「飛行機で寝れば大丈夫」「なら良かった」南は自ら来依を空港まで見送った。「着いたら連絡してね」来依はOKサインを出し、保安検査へ向かった。石川では和風フェスが開催されていて、 将来的に日本要素を取り入れた服を作るために、彼女たちはその視察も兼ねていた。無形文化遺産の刺繍もある。来依の友人が今回の主催側にいたため、彼女が先に現地入りして下見をし、 良さそうなら南が後から合流する予定だった。無駄足にならないように。南にはまだデザイン草案の制作もあったから。この件はサンクトペテルブルクにいる間にすでに決まっていたことだった。そして偶然にも、海人も今日、石川へ出張に行く予定だった。鷹は前日、彼の誕生日パーティーで初めてそれを知った。飛行機が飛び立つのを見送りながら、南は思った。――もし今回の石川で二人が再会

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第873話

    しかし、海人と鷹の歩む道は違った。鷹のように勝手気ままにはできない。それに、鷹も今の地位に至るまで、何度も陥れられ、苦労を重ねてきた。海人には、もっと安全で堅実な道があった。無理をしてまでリスクを冒す必要はない。彼は、彼女にとってたった一人の息子だった。「私はお客様のところへ行ってくるわ。あんたたちは海人と話してて」鷹はうなずき、海人の母を見送ったあと、海人のもとへ歩み寄り、グラスを軽く合わせた。「おめでとう、バースデーボーイ。今日でまた一つ年を重ねたな」海人は彼を横目で一瞥した。「俺たち、同い年だろ」「でも違うよ。俺の方が数ヶ月遅く生まれてる分、年取るのも数ヶ月遅いからさ」海人はまだ来客の対応があるので、彼を相手にせず、すぐその場を離れた。鷹は南を休憩スペースへ連れて行き、彼女の好きな食べ物を用意した。南は数杯お酒を飲んだあと、トイレに行こうと立ち上がった。鷹も付き添って一緒に向かった。その時、曲がり角を白い影がすっと横切った。鷹は覚えていた。今日の芹奈は白いドレスを着ていた。「何見てるの?」彼は南の手を握り、急いで階段を下りた。だが、海人の姿は見当たらなかった。鷹はすぐに午男に指示を出した。午男は迅速に監視カメラの映像を確認した。数々の修羅場をくぐってきた彼らの警戒心は常に高かった。画面には、海人がある部屋へ入っていく姿、そしてその数秒後に芹奈が同じ部屋に入る様子が映っていた。「まずい」南も映像を見て、すぐに察した。急いで鷹とともに5階のその部屋へ向かった。五郎たちも後に続いたが、海人の母の方が一足早かった。部屋に入ると、すでに海人の母が海人を叱っていた。「もともと高杉家との縁談を進める予定だったんだから、芹那が今日来たのも、あんたと顔を合わせて、少しでも親しくなるためだったのに、何をそんなに焦ってるの?」鷹は腕時計を見た。白いドレスの裾を見かけてから、部屋に来るまで、10分も経っていない。服を脱ぐ時間すらない。海人の母も、海人と芹奈に本当に何かが起きるとは思っていなかった。ただ、この話が世間に広まれば、それで「海人と芹奈は結婚する」という既成事実を作ることができる。ここまで強引に進めたのは、海人を追い詰めすぎると逆効果になることを理解していたから

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第872話

    撮影場所で少しゆっくりした後、一行はホテルへ戻った。そのとき、来依がふと何かを思い出した。「旦那さん、あんなにお金持ちで、彼女自身もお金持ちなのに、私にたった1%しか割引しないなんて!」佐夜子は笑って言った。「私は割引ゼロだったわよ。あなたに1%でもしてくれたなら、相性が良かったのよ」「彼女は子どもの頃、おじいさんと一緒に藤屋家で育てられてた。でも藤屋家は大所帯で、いくつもの分家が表では仲良くても裏では争ってるような家だから、嫁いだあとも藤屋清孝は家にいなくて、守ってくれる人が少なかったの。「彼女が若くして名を上げてなかったら、金銭面で苦労したかもしれないわ。藤屋家の財産には手を出さないし、少しケチなのも仕方ないのよ」来依は手をポケットに突っ込んで、「初対面なのに意気投合したの、私たち似たような経験があるのかもね」南は来依を抱きしめた。「もう全部、過去のことよ」「そうだね、全部終わったこと」サンクトペテルブルクで5日間過ごした一行は、大阪に戻った。一週間後は海人の誕生日パーティーだった。鷹も出席することになっていた。この誕生日は海人にとって特別な日だった。南も妻として同伴する。「来依も呼んで騒がしくすれば?」南は彼を横目で睨んだ。「あなたってば、本当に面白がってるだけでしょ」鷹は彼女の手をいじりながら言った。「高杉家も来るんだ」「高杉家?」「菊池家が考えている次の婚姻相手の家だよ」南は軽く眉をひそめた。「私は菊池家に生まれたわけじゃないし、口出す権利もないけど、こんなふうに無理やり進めるのって、本当にいいのかな?」鷹は言った。「もう十分待ったんだよ。海人が18歳で特訓から帰ってきたときには、すでに候補探しを始めてたんだ。「これまで自由にやらせてきたけど、もう時間切れってことさ」他人の運命に口を出せる立場じゃない。南は、ただ願うばかりだった。海人が来依のことで、これ以上問題を起こさないようにと。……海人の誕生日は、決して控えめではなかった。来依は知らないふりをしたくても無理だった。ネットはその話題で持ちきりだった。諦めて、スマホを見るのをやめ、静かに映画を見ることにした。そのころ、南は、海人と婚約予定の高杉家の令嬢と顔を合わせていた。「高杉芹奈だよ」鷹が彼女の耳元でささ

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第871話

    「詳しくは分からないけど、錦川さんは『価値観が合わない』って言ってたわ」「自由恋愛だったの?」「彼女の祖父が、元夫の祖父の副官でね、昔、戦場で弾から身を守ったことがあるの。それに、錦川さんにはその祖父しか身内がいなかったの。祖父が亡くなったあと、元夫の祖父が、自分の孫に錦川さんを娶らせたの」来依は、持っていたネタが一気に霞んでしまったような顔で言った。こんな話、どんなドラマよりおもしろいじゃない。「で?そいつって、嫌がったんじゃないの?」言ってから、あ、まずいと気づいて、慌てて弁解した。「私、普通に話してるだけだからね?安ちゃんがここにいるし、下品なことは言わないよ?」安ちゃん「ふーっ」佐夜子は安ちゃんのほっぺをつまみ、蘭堂から渡されたホットミルクティーを一口飲んだ。「元夫は彼女のこと、確かに好きじゃなかったの。結婚してすぐ外地に転勤しちゃってね。錦川さんはその間、写真の仕事を受けたり、海外に行って野生動物の撮影をしてたりして、3年間、顔を合わせることすらなかった。で、3年後におじいさんが重病になって、やっと顔を合わせたと思ったら、最初にしたことが離婚の話だったのよ」来依はすっかり話に引き込まれていた。「私が読んだどの小説よりもドラマチック……」佐夜子は、来依が聞きたがっているのを見て、続けた。「おじいさんは離婚してほしくなかった。でも錦川さんは、もともと自由な魂を持ってる子で、おじいさんの遺志を守るために、愛のない結婚生活を3年も耐えてたのよ。本人の話では、結婚という制度に縛られて、恋愛の自由すら奪われたって。「でもね、よく分からないのが、元夫の方。好きじゃないはずなのに、3年も放っておいたくせに、いざ離婚したいって言われたら、急に反対したのよ」来依はすぐに聞き返した。「じゃあ、まだ離婚してないの?」佐夜子は首を振った。「ううん、してない。むしろ今、元夫が口説いてる状態」「それは、刺激的だわ」来依は慌ててミルクティーを一口飲んで、気持ちを落ち着けた。「その元夫って誰?他に好きな人ができたりしたのかな?」佐夜子が名前を出したが、来依は聞いたことがなかった。すると佐夜子は、企業名と元夫の現在の役職も口にした。「ちょ……」来依は思わず口にしかけた言葉を飲み込んだ。「石川の藤屋家?」「

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第870話

    海人の父はしばらく考え込んだ。「こうしよう。来月初め、海人の誕生日のときに、高杉家を招待して、そこで直接婚約のことを発表する」海人の母は不安そうに言った。「前に西園寺家の件もあったし、今回はもう少し彼に時間を与えた方がいいと思うわ」海人の父は言った。「もうどれだけ時間を与えたと思ってる?何の意味もなかった。はっきり動く時だ」「でも、あいつを追い詰めすぎたら……誕生日が過ぎたら、菊池家の後継者の座を正式に譲る予定でしょ?」「その前に一押ししておかないと、あの女を嫁に迎えるのを黙って見てるのか?」それは海人の母が一番望まない結末だった。だが、もう一つの結末もまた、心から望んでいるわけではなかった。「誕生日ではまず顔合わせだけにして、婚約の発表は控えましょ。誰かに聞かれたら、はぐらかしておけばいい。 「それに、誕生日のあと海人は石川へ出張するでしょ?そのときに高杉家のお嬢さんも同行させて、少しずつ距離を縮めさせたらどう?」海人の父は海人の母の提案をじっくり考えてから、うなずいた。「じゃあ、その通りに進めよう」……正月の七日間、来依は佐夜子にたっぷり食べさせられ、5キロ太ってしまった。慌てて自分の部屋に戻り、菜食ダイエットを始めた。二週間後、なんとか痩せることができて、サンクトペテルブルクへ便乗撮影の旅へ出かけた。佐夜子と蘭堂のウェディングフォトを撮るのは、若くして才能あるカメラマンだった。その女性の撮る写真は、来依のお気に入りだった。来依がはしゃぎ回るのを見て、南が彼女の腕を掴んで言った。「あなたの結婚式じゃないんだから、そんなに騒いで」来依は何度も舌打ちをして言った。「南ちゃんさぁ、私たちが友達になった頃はもっと面白いネタ教えてって言ったのに、全然教えてくれなかったじゃん。でも今や、鷹と結婚してから、ネタがどんどん出てくるようになってるよね〜ほんと似てきたよ」南は笑って彼女の肩を叩いた。「からかわないでよ」来依は言った。「テンション上がってるのは確かだけど、ちゃんとわきまえてるよ。今回は佐夜子さんと蘭堂さんの撮影が一番大事ってわかってるから、二人の撮影が終わってから撮るつもり」サンクトペテルブルクでは雪も少し降っていた。細かい雪がウェディングフォトにロマンチックな雰囲気を添えていた。佐夜

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