……まさかここまで根に持つタイプだったなんて、今まで気づかなかった。仕方なく、私は彼の後ろをついていく。言い訳を考える間もなく、祖父がすでに穏やかな笑顔で口を開いた。「佐藤さんの話では、南はもうここを出たらしいな?」「はい、お祖父様」私は素直に認めるしかなかった。もし怒られたら、その時にどうにか機嫌を取るしかない。しかし、お祖父様は怒るどころか、むしろ宏を睨みつけ、怒りをぶつけた。「役立たずめ!自分の嫁一人すら、繋ぎ止められんとは!」「お祖父ちゃん、俺に言われても困るよ。出て行くって決めたのは南だし、俺にどうしろって?」「逃げられたなら、追うのが筋ってもんだろうが!」お祖父様は忌々しげにため息をついた。「まったく、お前は本当に父親そっくりだな。まさに、親が親なら子も子だ」「お祖父ちゃんもその『親』にあたるんじゃ?」宏が皮肉げに笑った。「生意気なガキが!!」お祖父様は目の前の茶碗を掴みかけたが、結局は思いとどまった。しばらく言葉を探すように沈黙し、最後には短く言い捨てた。「……腹が減ったな。飯にしよう」食事は思いのほか和やかに進んだ。お祖父様はしきりに私の皿に料理を取り分け、気づけば目の前には小さな山ができていた。「いっぱい食え。最近痩せたんじゃないか?もっと肉をつけろ」「ありがとうございます、お祖父様」私は笑顔で応えたが、胸の奥はじんわりと温かくなった。両親が亡くなってからというもの、こんなふうに誰かに食事をよそってもらうことなんて、ほとんどなかった。伯母の家は裕福だったけれど、食卓では伯父や従弟の視線が、私の箸の動きを無意識に追っていた。私は食べることが好きだったが、8歳にもなれば、遠慮すべき場面は理解できる。だから、箸を伸ばすのはいつも野菜ばかり。――けれど今、目の前の器がたくさんの料理で満たされているのを見た瞬間、どうしようもなく涙が込み上げた。お祖父様は普段、威厳があって人を寄せつけない雰囲気を持っている。でも、私にはいつも優しかった。「……どうした、バカ娘。何を泣いてる?」「泣いてませんよ」私は首を振り、涙を堪えて笑った。「お祖父様が優しすぎるから、父と母を思い出しただけです」「そうか」「ずっと君のご両親に会ったことがないんだ。一
「安心てください、お祖父様」私は祖父に湯葉詰め豆腐を取り分け、穏やかな声で言った。「彼にいじめられることはありませんから」どうせ、もうすぐ離婚するのだから。食事を終えた後、宏は祖父と一緒に裏庭で囲碁を打っていた。私はその傍らで、ゆっくりとお茶を淹れる。宏の棋風は変幻自在で容赦がなく、またもや祖父の石を取ると、祖父は憮然として彼を睨んだ。「お前、自分の祖父を相手にしていることを忘れたのか?少しは手加減しろ!」「わかったよ」宏は苦笑し、それから本当に手を抜き始めた。すると祖父は満足げに笑い、意味ありげに言った。「いいか、家族と他人は違うんだってことを、決して忘れるなよ」私は湯呑を差し出した。「お祖父様、お茶をどうぞ」「おう」祖父は頷き、湯呑を受け取って一口飲むと、満足げに微笑んだ。「お前たちがずっとこうして仲良くしてくれるなら、曾孫を抱く日もそう遠くないな!」「……」胸がわずかにざわめき、無意識にお腹に手を当てた。老いていく祖父の顔を見つめたと、言いようのない哀れみが込み上げた。もし、私と宏の間にあの溝や問題がなかったなら――。今すぐにでも祖父に伝えられるのに。私はもう妊娠していること、曾孫を抱く日が本当にすぐそこまで来ていることを。けれど、そんな「もし」は存在しない。祖父には、ただ落胆させることしかできない。宏はじっと私を見つめ、ぼそりと言った。「安心してくれ。頑張るよ」「頑張ろよ!」祖父は彼の手を叩き、「それでもダメなら、佐藤さんに頼んで滋養のある料理でも作ってもらえ」「俺は健康そのものだ」男としての本能的な対抗心なのか、宏は即座に反論した。「なら、さっさと曾孫の顔を見せてくれ!」祖父はそう言い残すと、ゆっくりと腰を上げた。「よし、じゃあわしはもう行くとしたか。お前は南と一緒に墓参りに行ってきなさい」そう言い残し、私たちは一緒に前庭へと向かった。その様子を見ていた江川家の運転手が祖父のために車のドアを開け、祖父は私たちに別れを告げたと、そのまま車に乗り込み去っていった。「行くぞ」宏はマイバッハの横まで来ると、顎を軽く上げ、私に乗るよう促した。「送ってもらわなくていいわ。タクシーで帰るから」「墓参りに行くんだろ?」「……」意外だった。まさか彼
どういう意味?まさか、私がまだ離婚もしていないのに浮気をしているとでも?――彼なら、そう思ってもおかしくないか。わざわざ否定するのも面倒で、私は淡々と言った。「親友よ」「どんな親友だ?」「江川宏」私はふっと微笑み、柔らかな声で続けた。「死んだ人はしつこく聞いたりはしないわよ」彼が「死んだ元夫」を演じるつもりなら、徹底的に演じてもらわないと。宏は呆れたように笑い、舌で頬の内側を押しながら、皮肉げに「そうか」と吐き捨てた。――墓地に到着すると、私は車を降り、そのまま山へ続く石段を登っていった。振り返ると、彼はまだ動かずにいた。仕方なく待っていると、彼が手に提げたものが目に入った。――白と黄色の菊の花束だった。いつの間に用意したのだろう。不意を突かれた私は、思わず唇を噛み、「ありがとう」と呟いた。「礼を言ったことじゃない。本来、俺がやるべきことだ」宏はそう淡々と答え、大股で階段を登ってくると、私と並んで墓石へと向かった。それでいい。たとえ表面だけの穏やかな光景でも、両親が見ているなら、少しは安心してくれるかもしれない。墓地は常に管理が行き届いており、墓石にはうっすらとした埃が積もっている程度だった。思えば、両親が亡くなってから随分と時が経った。今では、日常の中でふと彼らを思い出したことも少なくなった。幼い頃のように、布団の中で声を殺して泣き続けたことも、もうない。……それなのに。墓石に刻まれた両親の名前を見た途端、堰を切ったように涙がこぼれ落ちた。宏は、いつも冷静で気高い人だった。けれど、そんな彼が黙って私と並び、膝をついた。「お義父さん、お義母さん」彼は静かに語りかけ、深々と頭を下げた。「すみません。今日まで南と一緒に来られなくて」額を石畳につけ、宏は三度、しっかりと頭を下げた。最後の一回、彼はこう言った。「……昔は、俺が至らなかったんです。これからは、ちゃんと……」その後の言葉は、意図的にかすれさせたのか、私には聞こえなかった。――まあ、どうでもいい。だって、「これから」なんて、もう私たちにはないのだから。「……お父さん、お母さん」私は墓石に刻まれた名前に手を伸ばした。涙が止まらない。胸の内に溢れ出した言葉は、最後にはただの一言にまとまった。
だからこそ、江川グループは迷うことなく宏へと引き継がれたのだろう。「それで……あなたは、幸せだった?」私は顔を上げ、鋭く整った彼のフェイスラインを見つめながら、おずおずと問いかけた。「君と結婚した、この三年間――」宏はふっと笑みを浮かべ、ふう、と静かに息を吐いた。「悪くなかった」その答えに、私はますます泣きたくなった。――きっと、悔しいんだ。もし、あんなことがなければ。私たちはきっと、最後まで添い遂げられたのに。……帰りの車内、私たちは互いに無言だった。話したところで、何も変わらない。彼はどう足掻いても現状を変えられないし、私も何事もなかったように振る舞うことはできない。ならば、いっそこのまま、まだ互いに憎み合わずにいられるうちに、手を離した方がいい。秋の日は短く、空が早くから暮れ始める。車窓越しの夕日の光に照れされた宏の横顔は、金色の光をまとっていた。……「家まで送るよ」海絵マンションに着くなり、私が何か言ったより先に、彼がそう口にした。拒む理由もなく、そのまま一緒にエレベーターに乗り、部屋の前に立った。「着いたわね。もう帰っていいわよ」そう言って、私は唇を引き結んだ。「……ああ」宏は静かにうなずいた。けれど、足はその場から一歩も動かなかった。私は彼を気に留めることなく、ドアのパネルに手を伸ばし、暗証番号を入力しようとした――その時。中からドアが開いた。「帰ってきたんだ!玄関の音が聞こえたから、てっきり出前かと思ったよ」顔を出したのは、明るく華やかな雰囲気の来依だった。彼女がここにいるとわかり、私は少しだけ肩の力を抜いた。「それで、お腹を空かせて帰ってこいって言ったのは、まさか出前を食べさせるため?」冗談めかして尋ねたと、来依は「まさか!」と即座に否定し、ちらりと宏に目をやると、わざとらしく声を張った。「私が料理できないのは知ってるでしょ?でも、山田先輩の料理は絶品なんだから!」そう言いながら、彼女はキッチンの方へと声を飛ばした。「ね、山田先輩?」――山田先輩?私はようやく反応した。「え、先輩も来てるの?」「そうだよ。だって、新居祝いじゃん?だから、みんなで祝おうと思って。呼んだのは伊賀と山田先輩だけ。他の人は、あまり親しくないか
時雄はその言葉の含みを理解しなかったのか、それとも気にするつもりがないのか、ただ穏やかに微笑んだ。「大したことじゃないよ。手を洗っておいで、そろそろ食事にしよう」彼の料理の腕前は確かだった。食卓には色とりどりの料理が並び、食欲をそそる香りが部屋いっぱいに広がっている。伊賀も来依も、その味に感嘆しきりだった。「先輩、盛り付けまで完璧じゃないですか!」思わず私も感嘆の声を上げた。「さあ、召し上がれ。口に合うといいんだけど」時雄は最後の二皿をキッチンから運んでくると、そのうちの一つを私の前に置いた。「これ、君が好きそうだと思ってね」それは香ばしくピリ辛なエビ料理だった。――少し、驚いた。これまで、来依以外の人はみんな、私の味の好みは宏と同じ「薄味」だと思われていた。けれど、私が何か言った前に、宏の冷ややかな声が飛んだ。「南は辛いものは食べられない。いくら大学時代に親しかったとはいえ、彼女の好みを完全には把握していないようだな……」「江川社長」来依が軽く笑いながらも、鋭い口調で割って入った。「結婚して何年にもなるのに、一体誰のことを考えていたんですか?南ちゃんが一番好きなのは辛い料理ですよ。辛くなければ食事じゃないって言ったくらい!」心が、ちくりと痛んだ。――本当に。彼は、いったい誰のことを考えていたのだろう。私は、ずっと彼に合わせてきたのに。彼が一度でも、私の好きなものを気にしたことがあっただろうか?宏は、少し眉を寄せ、どこか困惑したように私を見つめた。「……君、辛いものが好きだったのか?」「ええ」私は答えながら、目の前のエビをひとつ剥き、口に運んだ。彼のまっすぐな視線を受け止め、はっきりと言い放った。「宏、私は薄味の食事が好きじゃないの。物足りなすぎて、食べた気がしないわ」――その瞬間、宏の顔の色が一変した。彼の周りだけ、温度が数度下がったような感覚に陥る。私は、今ここでこんなことを言ったべきではなかったのかもしれない。宏は気性が穏やかな人間ではない。せっかくの食事を、気まずい雰囲気にさせるだけだと分かっていた。……けれど。私はもう三年も、ずっと我慢してきた。今は言ったべき時じゃないと、そうやって、ずっと。じゃあ、一体いつになったら言えるの
二人はそれぞれ、私への引っ越し祝いを用意してくれていた。時雄も、小さな精巧なギフトボックスを手渡してくれた。「気に入ってくれるといいんだけど」「ありがとうございます、先輩」微笑みながら礼を言い、ボックスを開けると、中には洗練されたデザインのドレスが入っていた。少し驚き、彼を見上げた。「これ……先輩がデザインしたんですか?」「うん。世界に一着だけのものだよ」時雄は穏やかに微笑んだ。「さすが山田先輩、気が利く!」来依が感心したように言い、わざと宏の方を向くと、挑発的に尋ねた。「江川社長、せっかく新居祝いに来たんですし、当然プレゼントも持ってきてますよね?」止めようとしたが、来依にさりげなく制された。私ですら、家に入るまで新居祝いの会だと知らなかったのに、宏が事前に準備しているはずがない。しかし、彼は静かに私を見つめたと、スーツのポケットから小さなベルベットの箱を取り出し、そっとテーブルに置いた。その黒曜石のような瞳には、何かを押し隠すような揺らぎがある。そして、唇の端に微かな笑みを浮かべた。「渡す機会をずっと探していたんだ。ちょうどよかった」「何?何?」来依が興味津々に身を乗り出してきた。恐る恐る箱を開けて、私は思わず宏を見つめた。「……あなたが落札したの?」それは、赤い宝石が美しく輝く、ルビーのイヤリングだった。先日のオークションに出品されたコレクターズアイテムで、非加熱ピジョンブラッド。競争率が高く、最終的には四億円以上で落札された、話題の一品だった。私も宝石が好きで、ついSNSでシェアしてしまったものだったが、まさか宏が――そして、それを私に渡すなんて、思いもしなかった。「気に入った?」宏は、静かに微笑んだ。「……これはさすがに高価すぎるわ」来依や時雄の贈り物も確かに高価だったが、それでも私の手が届いた範囲内だった。しかし、このイヤリングだけは明らかに桁が違う。もうすぐ離婚するのに、こんなものを受け取るわけにはいかない――「気に入りました!」私が箱を閉じようとしたと、来依がさっと手を伸ばして押し留め、珍しく宏に向かって満面の笑みを向けた。「ありがとうございます、江川社長!社長って、本当に世界一気前のいい『元夫』ですね!」「ぶっ!」思わ
思い返してみれば、本当に笑えてきた。新婚の夜に置き去りにされたこともあったし、夫のいない誕生日を過ごしたことも何度もあった。楽しみにしていたプレゼントを他人に横取りされたことだってあるし、産婦人科の検診の日には夫が他の人と一緒にいるのを目撃した。これは全て私の身にふりかかったことだ……今、私たちは離婚協議中なのに、友人が私のためにパーティを開いてくれることすら彼は気に食わないのだろうか。私は口角を上げ、視線を下にずらして彼に言った。「あなたが出て行かないなら、江川アナに電話をかけるわよ」江川アナが来て彼と喧嘩をすれば、彼はどうしようもなくなるだろう。江川宏は突然私の腰をぎゅっと抱きしめた。そして額を私の胸に押しあて、かすれ声でこう言った。「南、こんな風になるなんて思っていなかったんだ。本当に」こう言われると、私は彼を許してしまいそうになった。口を開こうとした瞬間、彼がテーブルに置いていた携帯電話が鳴った。着信画面には『江川アナ』と表示されていた。冷水をかぶせられたかのように私は一瞬にして冷静になり、彼を押しのけた。「電話よ」その時ちょうど山田時雄が台所から出てきた。「南、だいたい片付け終わったから、先に伊賀丹生を送ってくるな」「私が下まで送ります」ベランダで電話に出ている彼の後ろ姿を見て、ふつふつと湧いてくる苛立ちを抑えた。河崎来依を寝室に連れて行った後、私は山田時雄と意識を失った伊賀丹生を支えて階下に降りた。しかし、山田時雄は私に力を使わせないようにして、負担を減らしてくれた。彼は穏やかな優しいまなざしをして「南、大丈夫か?」と私に言った。「え?」私は一瞬戸惑ったが、すぐに彼が私の機嫌の悪さを感じ取ったことに気づいて「大丈夫です」と答えた。エレベーターの中で、彼も少し酒を飲んだことを思い出した。「先輩、代行を呼びましたか?呼んでいないなら、私が呼びますよ」「心配しないで、もう呼んだよ」彼は微笑んでしばらく黙ってから、エレベーターのドアが開く前に唇を動かした。「離婚するのか?」私は下を向き、うなずいて言った。「はい、離婚するつもりです」「よく考えて、後悔しないように」彼は優しく忠告してくれた。「後悔しません」と真剣にそれに答えた
「本当に感謝してる?」車に近づき、山田時雄は伊賀丹生を後部座席に座らせた後、車体に寄りかかり、私を見つめて微笑んだ。私は頷いた。「もちろんです」「それなら、今後はいちいちお礼を言わなくていいから」この言葉には何か含みがあると感じたが、深く考える前に、彼はまた笑って「あまりにも遠慮しすぎだよ」と付け加えた。私はクスリと笑ってそれに答えた。「わかりました」ちょうど代行業者がやってきたので、彼は車の鍵を代行する運転手に渡し、私に優しく言った。「もう行くから、早く上がって」私が階段を上がって家に戻ると、リビングルームはすでに空っぽになっていた。江川宏の姿もなかった。心の中が何だか空っぽになったような気がした。でも、それもほんの一瞬のことだった。黙って去っていくのが彼のスタイルだからだ。恐らく江川アナあたりで何か「急用」でもあったのだろう。私は寝室に戻り、そっと河崎来依をたたいた。「来依、起きて、パジャマを変えてあげるから。気持ちよく寝られるでしょ」「うん」河崎来依は私に微笑むと、甘えるように両手を広げて私を抱きしめ、上着を脱がせてというふうに両手を上げてボソボソと言った。「いい子、私の南ちゃん、誰かがいじめたら許さないから……」「何言ってるのよ?」私は思わず笑ってしまった。……翌日、目が覚めると河崎来依はもうベッドにいなかった。リビングからかすかに物音が聞こえてきた。私はまだ眠たい目をこすりながらドアの前まで行き、河崎来依がヨガをしているのを見た。私が起きたのに気づき、彼女は今の姿勢を保ったまま、少し顎を上げてふざけて言った。「あたしきれい?」「きれいよ、あなたが一番きれい」私は思わず吹き出してしまった。彼女は私が今までに出会った女性の中で一番美しかった。一目見ればその美しさに誰もが感嘆してしまうほどだ。今はヨガウェアを着ているから、彼女のスタイルの良さがより際立っていた。河崎来依は満足そうに、うんうんと頷いた。「やっぱりうちの南ちゃんは見る目があるよね」私はそれを聞いて思わず笑い、洗面所に顔を洗いに行った。化粧中、河崎来依がヨガを終えてやってきて、私の何もついていない耳を見て言った。「昨夜のイヤリングはどこ?」「引
芹奈は、海人の動きの合間に彼の首筋にある赤い痕を見つけた。喉仏のあたりには噛み痕までついていた。すべてが、ついさっき彼と来依が激しく交わった証だった。彼女が最も恐れていたことが、ついに現実になってしまった。「しかも、二度目までは一日も空いていない」海人が再び口を開いた。その声は氷雪をまとったように冷たく、聞く者の背筋を凍らせた。芹奈はその鋭い眼差しに目を合わせ、無意識に一歩後退した。だが、それではいけないと思い直し、すぐに彼の目の前まで歩み寄った。「何のこと?全然意味がわからないわ」そう言いながら、彼の腕を掴もうと手を伸ばした。海人は身をかわした。すると五郎が即座に芹奈を制し、膝裏に蹴りを入れて彼女を地面に跪かせた。「海人っ!」芹奈は、これほどの屈辱を味わったことがなかった。幼い頃から、周囲の人間は皆彼女を中心に回っていた。望むものはすべて手に入れ、何も言わなくても誰かが彼女の心を読んで与えてくれた。海人だってそうだった。両親が彼女のもとに送り届けた存在。家柄が釣り合っていたからこそ、得られた立場だ。来依には決して手に入らないはずのものだった。それなのに、その来依が海人の愛を手に入れた。しかも、何よりも強い愛を。それがどうしても許せなかった。薬を盛ったのだって、海人の母の暗黙の了解があったからだ。「お母様が、あなたを私に差し出したのよ。文句があるなら、私じゃなくてそちらに言いなさいよ」海人は視線を落とし、見下すように芹奈を見つめた。まるでゴミでも見るかのような目だった。「母さんには、もちろんきっちり責任を取らせる。だが今は、お前がどうするかだ。自分で家に戻って、俺とは結婚しないと言うか。それとも、俺が高杉家を潰して、菊池家との縁談が二度と成立しないようにするか、選べ」芹奈の脳裏に浮かんだのは、雪菜の末路だった。かつて彼女は、雪菜を笑いものにしたことがあった。あれほど恵まれた立場にいながら、海人の子を産むことこそが一番重要だったのに、と。かつての晴美もそうだった。海人と結婚する資格はなかったが、子を身籠れば菊池家に庇われた。自分は正式に海人と結婚できる身分。子どもさえできれば、さらに盤石になるはずだった。なのに、あと一歩のところで。なぜ来依が、こんな場所に現れたのか
「前にお礼がしたいって言った時、断ったよね。まさか、こんなところで待ってたなんて。「海人、私のこと、からかってるの?」海人は顔を上げた。黒く深い瞳には、すでに抑えきれない欲望が宿っていた。理性で抑えていたせいか、腕の血管が浮き上がっていた。でも今回だけは、彼女に自分から求めたかった。「俺って、そんなに最低に見える?」確かに全く魅力がないわけではなかった。ただ、以前彼が彼女の意志を無視して無理やりだったことを思えば――。「部下と連絡が取れないなんて、ありえないでしょ」「石川は俺の縄張りじゃない。ここには、俺が来るのを快く思わない奴がいる」彼の仕事の事情なんて、来依にはどうでもよかったし、知りたくもなかった。ただ一言、「とにかく、私はあんたの問題を解決できるような人間じゃない。冷たい水でも浴びて、私が風邪薬買ってきておくから」海人は目元を伏せ、どこか哀れにさえ見えた。「ちょっと助けてくれるだけなのに、そんなに難しいことか?」来依は頷いた。「私たち、もう身体の関係を持つべきじゃないと思う。たとえ緊急事態でも」海人の脳裏に浮かんだのは、来依を抱き寄せていたあの男の姿だった。全身に溜まっていた苛立ちが一気に燃え上がり、怒りが頂点に達し、理性を失いかけていた。「新しい男のために、貞操を守ってるってわけか?」来依は、彼の言う相手が勇斗だとすぐに分かった。さっき、勇斗が彼女の首に腕を回したところを海人に見られていた。もう説明する気もなかった。「そうよ」海人はとうとう理性を失った。この数日間、押さえつけていた感情が、長く眠っていた火山のように噴き出した。触れるところ全てが熱かった。来依はその熱さに身を縮めた。必死に彼を押し返したが、それでも止めることはできなかった。彼は彼女の服を無理やり引き裂いた。「海人、憎むわよ」「憎めばいい」海人は彼女を強く抱きしめた。「ただ、俺のことを忘れないでくれればそれでいい」来依の体が震え、怒りに任せて彼の肩に噛みついた。海人の動きは、さらに激しさを増した。来依はこらえきれず、恥ずかしい声を漏らしてしまった。……その頃、意識を失っていた勇斗は、自宅へと運ばれていた。一方、レストランでは、芹奈が個室をめちゃくちゃにしていた
その言葉がまだ空気の中に残っているうちに、来依は海人が自分で立ち上がるのを目の前で目撃した。……だが、次の瞬間、彼はそのまま彼女の方へ倒れかかってきた。来依は慌てて支えた。海人は彼女の肩に寄りかかり、呼吸が首筋にかかる。その吐息が、驚くほど熱かった。「ちょっと、あんたの部下って、いつもベッタリついてるんじゃなかったの?なんでこんなに熱出してるのに、一人なのよ?」そのとき、男のかすれた声が聞こえた。「ホテルに……戻る……」「……」来依は本気で呆れた。ホテルの名前も言わずに、どこのホテルに連れて行けっていうのよ。仕方なく、彼のポケットに手を入れてスマホを探した。スラックスの両方のポケットを探っても見つからない。彼は白シャツ一枚で、上着も持っていない。ということは、スマホは身につけていないということ。だから部下とも連絡が取れなかったのか。……でもおかしい。彼の部下は、いつも一歩も離れないはずなのに。考えを巡らせていると、不意に手首を掴まれた。「……変なとこ、触るな……」来依は怒鳴りたくなった。が、熱で頭がおかしくなってるとわかっていたので我慢した。「ホテルの名前は?」「君亭……」「……」まさかの、自分と同じホテルだった。来依は彼の腕を肩に回し、ゆっくりと外へ連れ出した。フロントで勇斗を探したが、いなかった。外にいるかと思って出てみたが、そこにもいない。スマホを取り出して電話をかけたが、勇斗は電源が切れていた。「???」今夜の出来事、偶然にしては出来すぎている。海人のやり口なら、こういう段取りもできそうで……「寒い……来依ちゃん……」「……」来依は歯を食いしばり、道でタクシーを止めて海人をホテルまで連れ帰った。彼はパスポートも部屋のカードキーも持っていなかった。フロントに聞くと、パスポートがないと部屋を開けられないと言われた。「彼の名前は菊池海人で、このホテルの宿泊客ですよ。カードキー忘れただけですから、開けてくれませんか?」フロントは丁寧に答えた。「申し訳ありません。当ホテルはハイクラスの施設でして、お客様のプライバシーと安全を最優先にしております。パスポート明がない場合、お部屋の開錠はできません」大阪では好き放題やってる海人も、石川では名前が通じな
「今どきは、こういうのを好む人も多いしさ。配信でもよく見かけるよ」勇斗は彼女に麦茶を注ぎながら言った。「でもね、彼女たちが求めてる『家』って、ただの物件じゃないんだよ」来依も家を買うのが簡単じゃないことは分かっていた。自分の小さな家を手に入れるのにも時間がかかったし、南ちゃんが手助けしてくれなければ、もっと長引いていただろう。「大丈夫。今回うまくいったら、うちのブランドと連携させるつもり。ちゃんと宣伝して売れれば、家の資金くらいすぐ貯まるって!」「それなら最高だよ。お前たちのブランドの影響力はよく知ってる」二人は個室で笑い合いながら、にぎやかに話していた。だが、隣の個室では冷え切った空気が漂っていた。芹那は何も気にしていないふうを装い、海人に料理を取り分け、エビの殻まで剥いていた。「私、子供のころは石川で育てられてたの。肺が弱くて、大阪の気候が合わなくて。「このお店、百年近い歴史があって、石川の名物よ。ここのエビ、大阪のとは違うの。ただ茹でただけで、水も調味料も使わないのに、すごく旨味があるの。あとからほんのり甘くなるのよ」海人が返事をしようがしまいが、芹那は一人で話し続けていた。海人は指先で茶杯をなぞっていた。顔には何の表情もなく、いつものように無表情を保っていたが、心の中は決して穏やかではなかった。途中で一度トイレに立ち、戻る際に隣の部屋から楽しそうな笑い声が聞こえた。部屋に戻ると、注ぎ直されたお茶を見て、何も言わずに一気に飲み干した。芹那の目に一瞬、狙った獲物を逃さぬような決意の光が走った。昨夜は失敗した。だから今日は、絶対に落とすつもりだった。できれば、妊娠してしまえば一気に話が進む――そう思っていた。……来依は勇斗と少し酒も飲んで、 食事だけじゃ物足りず、もう一軒行こうという話になっていた。勇斗が会計をしに行き、来依はトイレへ向かった。しかし、まだトイレに入る前に、誰かに口を塞がれ、個室へ引き込まれた。ここで犯罪に遭うとは思っていなかったし、 なにより、彼女の鼻に届いたのは――見覚えのある匂いだった。「海人!」彼女は、彼の手を振り払って振り向き、怒鳴ろうとした。だが次の瞬間、唇を塞がれた。また、強引なキスだ。来依はすぐさま足を上げて蹴りを入れた。あの
病院で海人の容体が問題ないと確認された後、彼はすぐに空港へ向かった。鷹は時計を見て言った。「今夜のうちに行くのか?」海人はうなずいた。眉間には疲労の色がにじんでいた。鷹は南の手を引いて病院を出たが、外には車が二台停まっていた。彼は尋ねた。「高杉芹那も一緒に行くのか?」海人は再びうなずいた。鷹は理解できない様子だった。「これは、どういう仕掛けだ?」「行くぞ」海人はそれ以上答えず、車のドアを開けて乗り込んだ。二台の車が走り去るのを見送ってから、南が聞いた。「昨日の夜、あなたちょっと出しゃばりすぎたんじゃない?」鷹は顎をさすりながら答えた。「そんなはずないけどな……」「“そんなはず”って何よ?」「海人が誰を好きかなんて、俺に分からないはずがないだろ?」二人は家に戻って少し荷造りし、それぞれ会社へ向かった。南は来依の目の下のクマが、ファンデーションでも隠しきれていないのを見て聞いた。「昨日クラブでも行ってたの?」来依は首を振った。「眠れなかっただけ。たぶん、まだ時差ボケが抜けてないんだと思う」南はすぐに、それが嘘だと見抜いた。サンクトペテルブルクから帰ってきて、もう何日も経っている。なのに、ちょうど昨晩だけ眠れなかったなんて。「ニュース、見たんでしょ?」来依はうなずいた。南はその話題を深追いせず、こう聞いた。「それで、石川への出張、行けそう?」来依はうなずいた。「飛行機で寝れば大丈夫」「なら良かった」南は自ら来依を空港まで見送った。「着いたら連絡してね」来依はOKサインを出し、保安検査へ向かった。石川では和風フェスが開催されていて、 将来的に日本要素を取り入れた服を作るために、彼女たちはその視察も兼ねていた。無形文化遺産の刺繍もある。来依の友人が今回の主催側にいたため、彼女が先に現地入りして下見をし、 良さそうなら南が後から合流する予定だった。無駄足にならないように。南にはまだデザイン草案の制作もあったから。この件はサンクトペテルブルクにいる間にすでに決まっていたことだった。そして偶然にも、海人も今日、石川へ出張に行く予定だった。鷹は前日、彼の誕生日パーティーで初めてそれを知った。飛行機が飛び立つのを見送りながら、南は思った。――もし今回の石川で二人が再会
しかし、海人と鷹の歩む道は違った。鷹のように勝手気ままにはできない。それに、鷹も今の地位に至るまで、何度も陥れられ、苦労を重ねてきた。海人には、もっと安全で堅実な道があった。無理をしてまでリスクを冒す必要はない。彼は、彼女にとってたった一人の息子だった。「私はお客様のところへ行ってくるわ。あんたたちは海人と話してて」鷹はうなずき、海人の母を見送ったあと、海人のもとへ歩み寄り、グラスを軽く合わせた。「おめでとう、バースデーボーイ。今日でまた一つ年を重ねたな」海人は彼を横目で一瞥した。「俺たち、同い年だろ」「でも違うよ。俺の方が数ヶ月遅く生まれてる分、年取るのも数ヶ月遅いからさ」海人はまだ来客の対応があるので、彼を相手にせず、すぐその場を離れた。鷹は南を休憩スペースへ連れて行き、彼女の好きな食べ物を用意した。南は数杯お酒を飲んだあと、トイレに行こうと立ち上がった。鷹も付き添って一緒に向かった。その時、曲がり角を白い影がすっと横切った。鷹は覚えていた。今日の芹奈は白いドレスを着ていた。「何見てるの?」彼は南の手を握り、急いで階段を下りた。だが、海人の姿は見当たらなかった。鷹はすぐに午男に指示を出した。午男は迅速に監視カメラの映像を確認した。数々の修羅場をくぐってきた彼らの警戒心は常に高かった。画面には、海人がある部屋へ入っていく姿、そしてその数秒後に芹奈が同じ部屋に入る様子が映っていた。「まずい」南も映像を見て、すぐに察した。急いで鷹とともに5階のその部屋へ向かった。五郎たちも後に続いたが、海人の母の方が一足早かった。部屋に入ると、すでに海人の母が海人を叱っていた。「もともと高杉家との縁談を進める予定だったんだから、芹那が今日来たのも、あんたと顔を合わせて、少しでも親しくなるためだったのに、何をそんなに焦ってるの?」鷹は腕時計を見た。白いドレスの裾を見かけてから、部屋に来るまで、10分も経っていない。服を脱ぐ時間すらない。海人の母も、海人と芹奈に本当に何かが起きるとは思っていなかった。ただ、この話が世間に広まれば、それで「海人と芹奈は結婚する」という既成事実を作ることができる。ここまで強引に進めたのは、海人を追い詰めすぎると逆効果になることを理解していたから
撮影場所で少しゆっくりした後、一行はホテルへ戻った。そのとき、来依がふと何かを思い出した。「旦那さん、あんなにお金持ちで、彼女自身もお金持ちなのに、私にたった1%しか割引しないなんて!」佐夜子は笑って言った。「私は割引ゼロだったわよ。あなたに1%でもしてくれたなら、相性が良かったのよ」「彼女は子どもの頃、おじいさんと一緒に藤屋家で育てられてた。でも藤屋家は大所帯で、いくつもの分家が表では仲良くても裏では争ってるような家だから、嫁いだあとも藤屋清孝は家にいなくて、守ってくれる人が少なかったの。「彼女が若くして名を上げてなかったら、金銭面で苦労したかもしれないわ。藤屋家の財産には手を出さないし、少しケチなのも仕方ないのよ」来依は手をポケットに突っ込んで、「初対面なのに意気投合したの、私たち似たような経験があるのかもね」南は来依を抱きしめた。「もう全部、過去のことよ」「そうだね、全部終わったこと」サンクトペテルブルクで5日間過ごした一行は、大阪に戻った。一週間後は海人の誕生日パーティーだった。鷹も出席することになっていた。この誕生日は海人にとって特別な日だった。南も妻として同伴する。「来依も呼んで騒がしくすれば?」南は彼を横目で睨んだ。「あなたってば、本当に面白がってるだけでしょ」鷹は彼女の手をいじりながら言った。「高杉家も来るんだ」「高杉家?」「菊池家が考えている次の婚姻相手の家だよ」南は軽く眉をひそめた。「私は菊池家に生まれたわけじゃないし、口出す権利もないけど、こんなふうに無理やり進めるのって、本当にいいのかな?」鷹は言った。「もう十分待ったんだよ。海人が18歳で特訓から帰ってきたときには、すでに候補探しを始めてたんだ。「これまで自由にやらせてきたけど、もう時間切れってことさ」他人の運命に口を出せる立場じゃない。南は、ただ願うばかりだった。海人が来依のことで、これ以上問題を起こさないようにと。……海人の誕生日は、決して控えめではなかった。来依は知らないふりをしたくても無理だった。ネットはその話題で持ちきりだった。諦めて、スマホを見るのをやめ、静かに映画を見ることにした。そのころ、南は、海人と婚約予定の高杉家の令嬢と顔を合わせていた。「高杉芹奈だよ」鷹が彼女の耳元でささ
「詳しくは分からないけど、錦川さんは『価値観が合わない』って言ってたわ」「自由恋愛だったの?」「彼女の祖父が、元夫の祖父の副官でね、昔、戦場で弾から身を守ったことがあるの。それに、錦川さんにはその祖父しか身内がいなかったの。祖父が亡くなったあと、元夫の祖父が、自分の孫に錦川さんを娶らせたの」来依は、持っていたネタが一気に霞んでしまったような顔で言った。こんな話、どんなドラマよりおもしろいじゃない。「で?そいつって、嫌がったんじゃないの?」言ってから、あ、まずいと気づいて、慌てて弁解した。「私、普通に話してるだけだからね?安ちゃんがここにいるし、下品なことは言わないよ?」安ちゃん「ふーっ」佐夜子は安ちゃんのほっぺをつまみ、蘭堂から渡されたホットミルクティーを一口飲んだ。「元夫は彼女のこと、確かに好きじゃなかったの。結婚してすぐ外地に転勤しちゃってね。錦川さんはその間、写真の仕事を受けたり、海外に行って野生動物の撮影をしてたりして、3年間、顔を合わせることすらなかった。で、3年後におじいさんが重病になって、やっと顔を合わせたと思ったら、最初にしたことが離婚の話だったのよ」来依はすっかり話に引き込まれていた。「私が読んだどの小説よりもドラマチック……」佐夜子は、来依が聞きたがっているのを見て、続けた。「おじいさんは離婚してほしくなかった。でも錦川さんは、もともと自由な魂を持ってる子で、おじいさんの遺志を守るために、愛のない結婚生活を3年も耐えてたのよ。本人の話では、結婚という制度に縛られて、恋愛の自由すら奪われたって。「でもね、よく分からないのが、元夫の方。好きじゃないはずなのに、3年も放っておいたくせに、いざ離婚したいって言われたら、急に反対したのよ」来依はすぐに聞き返した。「じゃあ、まだ離婚してないの?」佐夜子は首を振った。「ううん、してない。むしろ今、元夫が口説いてる状態」「それは、刺激的だわ」来依は慌ててミルクティーを一口飲んで、気持ちを落ち着けた。「その元夫って誰?他に好きな人ができたりしたのかな?」佐夜子が名前を出したが、来依は聞いたことがなかった。すると佐夜子は、企業名と元夫の現在の役職も口にした。「ちょ……」来依は思わず口にしかけた言葉を飲み込んだ。「石川の藤屋家?」「
海人の父はしばらく考え込んだ。「こうしよう。来月初め、海人の誕生日のときに、高杉家を招待して、そこで直接婚約のことを発表する」海人の母は不安そうに言った。「前に西園寺家の件もあったし、今回はもう少し彼に時間を与えた方がいいと思うわ」海人の父は言った。「もうどれだけ時間を与えたと思ってる?何の意味もなかった。はっきり動く時だ」「でも、あいつを追い詰めすぎたら……誕生日が過ぎたら、菊池家の後継者の座を正式に譲る予定でしょ?」「その前に一押ししておかないと、あの女を嫁に迎えるのを黙って見てるのか?」それは海人の母が一番望まない結末だった。だが、もう一つの結末もまた、心から望んでいるわけではなかった。「誕生日ではまず顔合わせだけにして、婚約の発表は控えましょ。誰かに聞かれたら、はぐらかしておけばいい。 「それに、誕生日のあと海人は石川へ出張するでしょ?そのときに高杉家のお嬢さんも同行させて、少しずつ距離を縮めさせたらどう?」海人の父は海人の母の提案をじっくり考えてから、うなずいた。「じゃあ、その通りに進めよう」……正月の七日間、来依は佐夜子にたっぷり食べさせられ、5キロ太ってしまった。慌てて自分の部屋に戻り、菜食ダイエットを始めた。二週間後、なんとか痩せることができて、サンクトペテルブルクへ便乗撮影の旅へ出かけた。佐夜子と蘭堂のウェディングフォトを撮るのは、若くして才能あるカメラマンだった。その女性の撮る写真は、来依のお気に入りだった。来依がはしゃぎ回るのを見て、南が彼女の腕を掴んで言った。「あなたの結婚式じゃないんだから、そんなに騒いで」来依は何度も舌打ちをして言った。「南ちゃんさぁ、私たちが友達になった頃はもっと面白いネタ教えてって言ったのに、全然教えてくれなかったじゃん。でも今や、鷹と結婚してから、ネタがどんどん出てくるようになってるよね〜ほんと似てきたよ」南は笑って彼女の肩を叩いた。「からかわないでよ」来依は言った。「テンション上がってるのは確かだけど、ちゃんとわきまえてるよ。今回は佐夜子さんと蘭堂さんの撮影が一番大事ってわかってるから、二人の撮影が終わってから撮るつもり」サンクトペテルブルクでは雪も少し降っていた。細かい雪がウェディングフォトにロマンチックな雰囲気を添えていた。佐夜