結婚三周年の当日。江川宏は、高額を支払って私が長い間気に入っていたネックレスを落札した。みんな口を揃えて言う。「彼は君に惚れ込んでいるよ」と。私は嬉々としてキャンドルライトディナーの準備をしていた。だが、その時、一つの動画が届いた。画面の中で、彼は自らの手でそのネックレスを別の女性の首にかけ、こう言った。「新しい人生、おめでとう」そう、この日は私たちの結婚記念日であると同時に、彼の「高嶺の花」が離婚を成立させた日でもあったのだ。まさか、こんなことが自分の身に降りかかるなんて。宏との結婚は、自由恋愛の末に結ばれたものではなかった。だが、彼は表向き「愛妻家」として振る舞い続けていた。ダイニングテーブルに座り、すっかり冷めてしまったステーキを見つめた私。その一方で、ネットでは今も彼の話題がトレンド入りしていた。「江川宏、妻を喜ばせるために二億円を投じる」この状況は、私にとってただの皮肉でしかなかった。午前2時。黒いマイバッハがようやく邸宅の庭に入ってきた。フロアの大きな窓越しに、彼の姿が映った。車を降りた彼は、オーダーメイドのダークスーツを纏い、すらりとした体躯に気品を漂わせていた。「まだ起きていたのか?」室内の明かりをつけた宏は、ダイニングに座る私を見て、少し驚いたようだった。立ち上がろうとした私は、しかし足が痺れていたせいで再び椅子に崩れ落ちた。「待っていたの」「俺に会いたかった?」彼は何事もなかったかのように微笑み、水を汲みながらテーブルの上に手つかずのディナーを見つけ、やや訝しげな表情を浮かべた。彼が演技を続けるのなら、私もひとまず感情を押し殺すことにした。彼に手を差し出し、微笑んだ。「結婚三周年、おめでとう。プレゼントは?」「悪い、今日は忙しすぎて、用意するのを忘れた」彼は、一瞬きょとんとした表情を見せたあと、ようやく今日が記念日だったことを思い出したようだ。私の頭を撫でようと手を伸ばしてきたが、私は無意識のうちに身を引いてしまった。――その手で今夜、何を触れてきたのか分からない。そう思うと、どうしても受け入れられなかった。彼の動きが一瞬止まった。だが、私は気づかないふりをして、にこやかに彼を見つめた。「隠し事はなしよ。あなた、私が気に入ってたあのネッ
ジュエリー?私はそっと眉をひそめ、ちょうど洗面所に入ったばかりの宏に声をかけた。「宏、アナ姉さんが来てるわ。私、先に下に降りてみるね」ほぼ同時に、宏が勢いよく洗面所から出てきた。その表情は、これまで一度も見たことのないほど冷たかった。「俺が行く、君は気にしなくていい。顔を洗ってこい」いつも冷静沈着な彼が、どこか不機嫌そうで、まるで落ち着かない様子だった。私は胸騒ぎがした。「もう済ませたわ。あなたの歯磨き粉も、ちゃんと絞っておいたの、忘れた?」「じゃあ、一緒に行きましょ。お客様を待たせるわけにはいかないもの」彼の手を取り、一緒に階段を降り始めた。この家の階段は螺旋状になっていて、途中まで降りるとリビングのソファが見える。そこには、白いワンピースを身にまとい、上品に座っているアナの姿があった。彼女は音に気づいて顔を上げた。穏やかな微笑みを浮かべていたが、彼女の視線が私たちの手元に向けられた瞬間、手に持っていたカップがかすかに揺れ、中の液体がこぼれた。「……あっ」熱かったのか、彼女はとっさに小さな悲鳴を上げた。その瞬間、宏は、私の手を勢いよく振り払った。そして、まるで反射的に階段を駆け下りると、アナの手からカップを取り上げた。「何やってんだよ、コップひとつまともに持てないのか?」その声は、厳しく、冷ややかだった。だが、彼はそれ以上に、アナの手を乱暴に引き寄せ、洗面台へと連れて行った。蛇口をひねり、冷水を勢いよく流しながら、彼女の手を強引に押し付けた。アナは困ったように微笑んで、手を引こうとした。「大丈夫よ、そんな大げさにしなくても……」「黙れ。やけどを放っておくと跡が残る。わかってるのか?」宏は彼女の言葉を遮るように低く叱責した。彼の手は、決して彼女を離そうとしなかった。私は階段の途中で、その光景をただ呆然と見つめていた。心の中に、何かがふっとよぎる。――結婚したばかりの頃の記憶。私は、江川宏の胃が弱いと知って、彼のために料理を学び始めた。家には佐藤さんがいたけれど、彼女の料理はどうも宏の口に合わなかったから。料理初心者の私は、包丁で指を切ることもあれば、油が跳ねてやけどすることもあった。ある日、不注意で鍋をひっくり返してしまい、熱々の油が腹部に流れ落ちた。
私は思わず息を詰めた。まるで何かを確認するかのように、何度もメールの内容を見返した。間違いなかった。江川アナ。彼女がデザイン部の新しい部長に就任した。つまり、私の直属の上司になるということだ。「南ちゃん、もしかして彼女を知ってるの?」来依は、私の様子を見て、手をひらひらと振ってみせた。そして、私が何も言わないうちに、勝手に推測を始める。私はスマホを置き、小さく頷いた。「うん。彼女は宏の父も母も異なる義姉よ。前に話したことがあったでしょ?」大学卒業後、私たちはそれぞれの道を歩んだ。それでも、私は来依と「ずっと鹿児島に残る」と約束していた。「……まじかよ、コネ入社じゃん!」来依は舌打ちし、呆れたように言った。「……」私は何も言わなかった。――ただのコネ入社じゃない。特別待遇のコネ入社だ。「江川宏、頭でも打ったの?」来依は不満を隠そうともせず、私のために憤慨してくれる。「なんで?彼女の名前なんて、デザイン業界で聞いたこともないのに?それなのに、江川宏はポンッと部長の椅子を渡しちゃったわけ?じゃあ、あんたの立場は?4年間、ここで頑張ってきたのに?」「……もういいわ」私は、彼女の言葉を遮った。「そんなの、大したことじゃない。あのポジション、私にくれるなら、もらうだけ」くれないなら、他の誰かがくれるわ。この話を、社内の食堂で広げる必要はない。余計な詮索をする人間に聞かれると、面倒なことになるだけだから。食堂を出ると、来依が私の肩に手を回し、こそこそと囁いた。「ねぇ、もしかして、何か考えてる?」私は片眉を上げた。「どう思う?」「ねぇ、いいじゃん、教えてよ」「まあね、考えてはいるけど、まだ完全には決めてないわ」私は、江川グループで4年間働いてきた。一度も転職を考えたことはない。江川は、私にとって「慣れ親しんだ場所」になっていた。でも、本当にここを離れるなら、何か決定的な出来事が必要かもしれない。午後。オフィスに戻ると、年始限定デザインの制作に取り掛かった。昼休みを取る暇もない。本来なら、これは部長の仕事だ。だが、前任部長が退職したため、その業務は自然と副部長の私の肩にのしかかることになった。午後2時になる少し前。「南さん、コーヒーどうぞ」ア
宏は、ほとんど迷いもなく、即答した。一切のためらいも、躊躇もなく。私は彼の首に腕を回し、唇をわずかに上げながら、まっすぐ彼を見つめた。「10%よ?それでも惜しくないの?」彼の瞳は澄んでいて、微笑みながら答えた。「君にあげるんだ。他人に渡すわけじゃない」この瞬間、私は認めざるを得なかった。お金というのは、忠誠心を示すには、これ以上ないくらい強力な手段だと。今日ずっと溜め込んでいた感情が、ようやく解き放たれた気がした。何かを確かめるように、私は笑ってもう一度問いかけた。「もし、それがアナ姉さんだったら?彼女にも渡せる?」宏は、一瞬だけ沈黙した。そして、はっきりとした口調で答えた。「渡さない」「本当に?」「……ああ。彼女にあげられるのは、今回のポジションだけだ」宏は私を抱き寄せ、静かで落ち着いた声で言う。「株式の譲渡契約書は、午後に加藤伸二に届けさせる。これからは、君も江川のオーナーの一人だ。他の人間は、みんな君のために働くことになる」私はいい気分になって、ふっと笑った。「あなたは?」「ん?」「あなたも、私のために働くの?」彼は失笑し、私の頭を軽く撫でると、ふいに耳元に囁いた。「ベッドの上でも下でも、たっぷりご奉仕してやるよ」……一気に顔が熱くなった私は、彼を睨んだ。彼は普段、冷たくて理知的で、近寄りがたい雰囲気を持っている。なのに、ときどきこんな破壊力のある言葉を放ってくる。そんな彼に、いつも振り回されるのは、私のほうだった。私が機嫌を直したのを見て、宏は腕時計に目を落とし、言った。「そろそろ会議の時間だ。今日は祝日だし、夜は一緒に本宅へ行って、祖父と食事をしよう。駐車場で待ってる」「わかった」私は迷うことなく頷いた。心が少しだけ揺れて――決断した。「ねえ、夜にサプライズがあるよ」数日前までは、彼に妊娠のことを話すべきか迷っていた。でも、彼が私と江川アナの優先順位をちゃんと分けて考えられるなら――もう隠す必要はない。「サプライズ?」彼は好奇心旺盛な性格だ。さっそく詮索しようとする。「何?」「仕事終わったら教えてあげる。だから、楽しみにしてて!」私は、つま先立ちで彼の唇に軽くキスを落とし、それ以上は教えずに背を向けた。彼が部屋を出
宏が私を迎えに来ていたことを知っていながら、彼女はただの「同乗」のはずなのに、堂々と助手席に座っていた。私は、その場を離れたかった。しかし――理性が私を引き留め、無言で宏に手を差し出した。「車のキー」宏は何も言わず、素直にキーを渡してきた。私は車の前方を回り込み、運転席に乗り込んだ。アナのぎこちない驚きの表情を横目に、にっこり微笑んだ。「何が問題なの?あなたは宏の姉でしょ?ちょっと車に乗せてもらうくらい、何もおかしくないわ」そして――車の外にいる宏を見上げた。「ほら、早く乗って。お祖父様が、きっともう待ってるわよ」車内は、異様なほど静かだった。まるで、棺の中のように。アナは、宏と会話を試みようとしていた。しかし、後部座席からでは、何度も振り返らなければならず、不自然になるのを嫌ったのか、諦めたようだった。私の気分が優れないことに気づいたのか、宏は突然飲み物のボトルを開け、私に差し出した。「マンゴージュースだ。君が好きだったよな」私は一口飲んでみた。しかし、すぐに眉を寄せ、彼に差し出した。「ちょっと甘すぎる。あなたが飲んで」最近、酸っぱいものばかりを好んでいた。以前なら、多少口に合わなくても、無駄にするのが嫌で無理して飲んでいた。でも今は、妊娠のせいか、自分の食の好みを少しも妥協できなくなっていた。「……わかった」宏は、特に何も言わず、スムーズにそれを受け取った。すると――「ちょっと待って。あなたが口をつけたものを、また宏くんに飲ませるの?口腔内の細菌って、すごく多いのよ?ピロリ菌も、そうやって感染するんだから」アナが、複雑な表情で口を開いた。私は、思わず笑ってしまった。「それを言うなら、私たち、夜は一緒に寝てるのよ? それのほうが、もっと危険なんじゃない?」「……」アナは、一瞬言葉に詰まった。大人である彼女が、私の意図を理解しないはずがない。少し間を置いてから、彼女は、わざとらしく感心したように言う。「意外ね。結婚してもう何年も経つのに、そんなに仲がいいなんて」「もしかして、嫉妬?」宏が、冷ややかな口調で鋭く突いた。時々――たとえば今のような瞬間、宏のアナへの態度を見ると、彼は実は彼女のことを結構嫌っているのではないかと思えてくる。でも、それが
まるで氷の底に沈んでいくようだった。血の気が引き、体の芯まで凍りつくようだった。一瞬、自分の耳を疑った。今まで、何度か「彼らの関係は何かがおかしい」と感じたことはあった。けれど、そのたびに、宏はきっぱりと否定してきた。たとえ血の繋がりがなかったとしても、宏は江川グループの跡取り、アナは江川家のご令嬢、一応名目上の姉弟だった。それに、お互い結婚もしている。宏のような、生まれながらにして選ばれた男が、そんな愚かなことをするはずがない。そう思っていたのに――数メートル先、宏は、アナを壁際に追い詰め、目を赤くしながら鋭く冷たい声を投げつけた。「俺のために離婚?君が最初に他の男を選んだんだろ。今さら、どの口がそんなことを言える?!」「……っ」アナは、何も言えなくなった。唇を噛み、涙が溢れるままに落ち、震える指先で、宏の服の裾をそっと握った。「……私が悪かった。宏くん、もう一度だけ許して?お願い……たった一度だけ。私だって……当時はどうしようもなかったの……」「俺は結婚してる」「結婚してるから何? 離婚すればいいじゃない!」アナは、悲しい顔で、ひどく執着した声で問い返した。彼の答えがNOだったら、彼女はその場で砕け散ってしまうような――そんな表情で。私は、彼女がここまで露骨に言うとは思っていなかった。まるで他人の家庭を壊そうとしている自覚など微塵もない。宏は、怒りに満ちた笑みを浮かべた。「君にとって結婚はそんなに軽いものなのか?俺にとっては違う!」そう言い放ち、彼は振り返り、歩き出した。だが、アナは、彼の服を掴んだまま、離そうとしない。本当なら――宏の力なら、振り払うことは簡単なはず。なのに。私は、ただ黙ってこの光景を見つめた。彼が何をするのかを期待して。彼が振りほどくことを期待した。彼がはっきりと線を引くことを願った。そうすれば、私たちの結婚には、まだ希望がある。そして彼は確かにそうした。「いい歳して、バカなことを言うな」それだけ言い残し、彼女の手を振り払い、背を向けた。これで終わり。私は、ようやく息をついた。これ以上、彼らの会話を盗み聞きする必要はない。だが、その瞬間。「あなたは南を愛してるの?私の目を見て答えて、宏くん!」アナはまるで
宏は、一瞬驚いたような表情を見せた。けれど、それ以上は何も言わなかった。私は唇を噛み、静かに問いかけた。「……じゃあ、結婚式の夜は?あの時、どうして私を置いて出て行ったの?」――今でも覚えている。私は、ベランダで一晩中、彼の帰りを待っていた。新婚初夜なのに、彼は私を家に残したまま、何の説明もなく出て行った。よほど重大なことが起きたのだと思い、彼の身に何かあったのではと心配した。 同時に――もしかして私の何かが気に入らなかったのか?と、不安と焦りで頭がいっぱいになりながらも、ただ彼が早く帰ってきてくれることを願っていた。 あの時、私はまだ23歳、長年片想いしていた人と、思いがけず夫婦になった。 そんな私が、この結婚に何の期待も抱かないはずがなかった。 ――だけど今日になって、ようやく知った。 あの夜、私が胸を躍らせながら彼の帰りを待っていた頃――彼は、別の女のそばにいたのだ。まるで、冗談のような話だ。宏は、今回も隠し立てせずに答えた。「……彼女が深夜に事故を起こした。警察から連絡があって、迎えに行った」そんな偶然、あるの?ちょうど私たちの結婚式の日に、彼女が事故を起こすなんて。しかも、深夜に。でも、その後の家族の集まりで、彼女の姿は普通にあった。傷ひとつなく、元気そうにしていたのを覚えている。私は、窓を少し開け、夜の風を浴びながら静かに言った。「……宏、もし、あなたの心の中にまだ彼女がいるなら、綺麗に終わりにしよう」――ギュッ!突然、車が急停止した。宏は、私を見た。その視線には、珍しく感情が宿っていた。彼はいつも穏やかで、冷静で、決して取り乱さない。けれど、今の彼は、私を直視しながら、わずかに動揺している。「俺は……そんなつもりは――」――ブブッ!スマホの通知音が、彼の言葉を遮った。宏は、苛立たしげに画面を見て、その瞬間、彼の表情が一変する。眉間に皺を寄せ、目つきが鋭くなった。ほぼ迷うことなく、彼は言った。「……アナが何かあったらしい。ちょっと様子を見に行ってくる」「……」胸の奥に広がる苦しさを必死にこらえ、乱れそうになる感情を懸命に抑えながら、路肩の灯りに照らされた彼の横顔をそっと盗み見た。かつて、心から愛した人。今、その人に、言葉にできない虚
……私は、すぐに理解したくなかった。でも、理解せざるを得なかった。来依は、鼻で笑った。「まあ、普通ってとこね」「……」私は驚いて彼女を見た。「何の話?」という目で問いかけた。すると、伊賀のことを気にせず、来依は平然と言い放った。「一回寝たけど、大したことなかったわ」伊賀が、飛び上がるように反応した。「あれは俺の初めてだったんだぞ!何も分かってねぇくせに!」来依は彼の言葉を遮り、彼の右手と左手を指差した。「はいはい、ちょっと待った。あんたみたいなプレイボーイが、初めてとか笑わせないで。どうせ、あんたのファーストはこれか、これだったんでしょ?」いつもふざけてばかりの伊賀が、来依にからかわれて顔を赤くしている。その光景を見て――私は、ようやく彼らの関係を理解した。――ワンナイトだったのね。伊賀は、たぶん来依を本気で口説こうとしている。でも、来依はまったく本気にしていない。彼女は伊賀を無視し、私の手を引いて個室へ向かう。「ある先輩が、海外から帰ってきたの。伊賀たちが企画した集まりで、私も顔を出すことになって」「へぇ、誰?」私は、小声で尋ねた。「あんたも知ってるわよ。それは――」来依がドアを開けた。個室には、すでに数人の男が座っていた。馴染みのある顔ぶれもいれば、初めて見る人もいる。そして、一人だけ、目を引く人物がいた。男はすらりとした高身長で、長い脚が際立つ体格をしていた。 白いシャツの袖を無造作にまくり上げ、冷たく白い精巧な手首には、白い数珠を通した赤い紐がさりげなく結ばれている。そのアクセサリーは、彼の落ち着いた雰囲気とは少し不釣り合いだった。けれど、それを大切にしていることだけは、見て取れた。――と、その時。彼が顔を上げ、私と視線が交わった。そして、笑みを浮かべた。彼は立ち上がり、穏やかに言った。「久しぶりだね」「山田先輩!」私は、思わず笑みがこぼれた。「本当に、久しぶりですね。留学するとき、突然いなくなっちゃったから驚きましたよ」江川宏の友人グループは、ほとんどが幼馴染のような間柄で、私や来依とも同じ大学の出身だった。でも、私が彼らと親しくなったのは、結婚してからのことだった。けれど――その中で唯一、山田時雄だけは私と同じ学部の先輩で
芹奈は、海人の動きの合間に彼の首筋にある赤い痕を見つけた。喉仏のあたりには噛み痕までついていた。すべてが、ついさっき彼と来依が激しく交わった証だった。彼女が最も恐れていたことが、ついに現実になってしまった。「しかも、二度目までは一日も空いていない」海人が再び口を開いた。その声は氷雪をまとったように冷たく、聞く者の背筋を凍らせた。芹奈はその鋭い眼差しに目を合わせ、無意識に一歩後退した。だが、それではいけないと思い直し、すぐに彼の目の前まで歩み寄った。「何のこと?全然意味がわからないわ」そう言いながら、彼の腕を掴もうと手を伸ばした。海人は身をかわした。すると五郎が即座に芹奈を制し、膝裏に蹴りを入れて彼女を地面に跪かせた。「海人っ!」芹奈は、これほどの屈辱を味わったことがなかった。幼い頃から、周囲の人間は皆彼女を中心に回っていた。望むものはすべて手に入れ、何も言わなくても誰かが彼女の心を読んで与えてくれた。海人だってそうだった。両親が彼女のもとに送り届けた存在。家柄が釣り合っていたからこそ、得られた立場だ。来依には決して手に入らないはずのものだった。それなのに、その来依が海人の愛を手に入れた。しかも、何よりも強い愛を。それがどうしても許せなかった。薬を盛ったのだって、海人の母の暗黙の了解があったからだ。「お母様が、あなたを私に差し出したのよ。文句があるなら、私じゃなくてそちらに言いなさいよ」海人は視線を落とし、見下すように芹奈を見つめた。まるでゴミでも見るかのような目だった。「母さんには、もちろんきっちり責任を取らせる。だが今は、お前がどうするかだ。自分で家に戻って、俺とは結婚しないと言うか。それとも、俺が高杉家を潰して、菊池家との縁談が二度と成立しないようにするか、選べ」芹奈の脳裏に浮かんだのは、雪菜の末路だった。かつて彼女は、雪菜を笑いものにしたことがあった。あれほど恵まれた立場にいながら、海人の子を産むことこそが一番重要だったのに、と。かつての晴美もそうだった。海人と結婚する資格はなかったが、子を身籠れば菊池家に庇われた。自分は正式に海人と結婚できる身分。子どもさえできれば、さらに盤石になるはずだった。なのに、あと一歩のところで。なぜ来依が、こんな場所に現れたのか
「前にお礼がしたいって言った時、断ったよね。まさか、こんなところで待ってたなんて。「海人、私のこと、からかってるの?」海人は顔を上げた。黒く深い瞳には、すでに抑えきれない欲望が宿っていた。理性で抑えていたせいか、腕の血管が浮き上がっていた。でも今回だけは、彼女に自分から求めたかった。「俺って、そんなに最低に見える?」確かに全く魅力がないわけではなかった。ただ、以前彼が彼女の意志を無視して無理やりだったことを思えば――。「部下と連絡が取れないなんて、ありえないでしょ」「石川は俺の縄張りじゃない。ここには、俺が来るのを快く思わない奴がいる」彼の仕事の事情なんて、来依にはどうでもよかったし、知りたくもなかった。ただ一言、「とにかく、私はあんたの問題を解決できるような人間じゃない。冷たい水でも浴びて、私が風邪薬買ってきておくから」海人は目元を伏せ、どこか哀れにさえ見えた。「ちょっと助けてくれるだけなのに、そんなに難しいことか?」来依は頷いた。「私たち、もう身体の関係を持つべきじゃないと思う。たとえ緊急事態でも」海人の脳裏に浮かんだのは、来依を抱き寄せていたあの男の姿だった。全身に溜まっていた苛立ちが一気に燃え上がり、怒りが頂点に達し、理性を失いかけていた。「新しい男のために、貞操を守ってるってわけか?」来依は、彼の言う相手が勇斗だとすぐに分かった。さっき、勇斗が彼女の首に腕を回したところを海人に見られていた。もう説明する気もなかった。「そうよ」海人はとうとう理性を失った。この数日間、押さえつけていた感情が、長く眠っていた火山のように噴き出した。触れるところ全てが熱かった。来依はその熱さに身を縮めた。必死に彼を押し返したが、それでも止めることはできなかった。彼は彼女の服を無理やり引き裂いた。「海人、憎むわよ」「憎めばいい」海人は彼女を強く抱きしめた。「ただ、俺のことを忘れないでくれればそれでいい」来依の体が震え、怒りに任せて彼の肩に噛みついた。海人の動きは、さらに激しさを増した。来依はこらえきれず、恥ずかしい声を漏らしてしまった。……その頃、意識を失っていた勇斗は、自宅へと運ばれていた。一方、レストランでは、芹奈が個室をめちゃくちゃにしていた
その言葉がまだ空気の中に残っているうちに、来依は海人が自分で立ち上がるのを目の前で目撃した。……だが、次の瞬間、彼はそのまま彼女の方へ倒れかかってきた。来依は慌てて支えた。海人は彼女の肩に寄りかかり、呼吸が首筋にかかる。その吐息が、驚くほど熱かった。「ちょっと、あんたの部下って、いつもベッタリついてるんじゃなかったの?なんでこんなに熱出してるのに、一人なのよ?」そのとき、男のかすれた声が聞こえた。「ホテルに……戻る……」「……」来依は本気で呆れた。ホテルの名前も言わずに、どこのホテルに連れて行けっていうのよ。仕方なく、彼のポケットに手を入れてスマホを探した。スラックスの両方のポケットを探っても見つからない。彼は白シャツ一枚で、上着も持っていない。ということは、スマホは身につけていないということ。だから部下とも連絡が取れなかったのか。……でもおかしい。彼の部下は、いつも一歩も離れないはずなのに。考えを巡らせていると、不意に手首を掴まれた。「……変なとこ、触るな……」来依は怒鳴りたくなった。が、熱で頭がおかしくなってるとわかっていたので我慢した。「ホテルの名前は?」「君亭……」「……」まさかの、自分と同じホテルだった。来依は彼の腕を肩に回し、ゆっくりと外へ連れ出した。フロントで勇斗を探したが、いなかった。外にいるかと思って出てみたが、そこにもいない。スマホを取り出して電話をかけたが、勇斗は電源が切れていた。「???」今夜の出来事、偶然にしては出来すぎている。海人のやり口なら、こういう段取りもできそうで……「寒い……来依ちゃん……」「……」来依は歯を食いしばり、道でタクシーを止めて海人をホテルまで連れ帰った。彼はパスポートも部屋のカードキーも持っていなかった。フロントに聞くと、パスポートがないと部屋を開けられないと言われた。「彼の名前は菊池海人で、このホテルの宿泊客ですよ。カードキー忘れただけですから、開けてくれませんか?」フロントは丁寧に答えた。「申し訳ありません。当ホテルはハイクラスの施設でして、お客様のプライバシーと安全を最優先にしております。パスポート明がない場合、お部屋の開錠はできません」大阪では好き放題やってる海人も、石川では名前が通じな
「今どきは、こういうのを好む人も多いしさ。配信でもよく見かけるよ」勇斗は彼女に麦茶を注ぎながら言った。「でもね、彼女たちが求めてる『家』って、ただの物件じゃないんだよ」来依も家を買うのが簡単じゃないことは分かっていた。自分の小さな家を手に入れるのにも時間がかかったし、南ちゃんが手助けしてくれなければ、もっと長引いていただろう。「大丈夫。今回うまくいったら、うちのブランドと連携させるつもり。ちゃんと宣伝して売れれば、家の資金くらいすぐ貯まるって!」「それなら最高だよ。お前たちのブランドの影響力はよく知ってる」二人は個室で笑い合いながら、にぎやかに話していた。だが、隣の個室では冷え切った空気が漂っていた。芹那は何も気にしていないふうを装い、海人に料理を取り分け、エビの殻まで剥いていた。「私、子供のころは石川で育てられてたの。肺が弱くて、大阪の気候が合わなくて。「このお店、百年近い歴史があって、石川の名物よ。ここのエビ、大阪のとは違うの。ただ茹でただけで、水も調味料も使わないのに、すごく旨味があるの。あとからほんのり甘くなるのよ」海人が返事をしようがしまいが、芹那は一人で話し続けていた。海人は指先で茶杯をなぞっていた。顔には何の表情もなく、いつものように無表情を保っていたが、心の中は決して穏やかではなかった。途中で一度トイレに立ち、戻る際に隣の部屋から楽しそうな笑い声が聞こえた。部屋に戻ると、注ぎ直されたお茶を見て、何も言わずに一気に飲み干した。芹那の目に一瞬、狙った獲物を逃さぬような決意の光が走った。昨夜は失敗した。だから今日は、絶対に落とすつもりだった。できれば、妊娠してしまえば一気に話が進む――そう思っていた。……来依は勇斗と少し酒も飲んで、 食事だけじゃ物足りず、もう一軒行こうという話になっていた。勇斗が会計をしに行き、来依はトイレへ向かった。しかし、まだトイレに入る前に、誰かに口を塞がれ、個室へ引き込まれた。ここで犯罪に遭うとは思っていなかったし、 なにより、彼女の鼻に届いたのは――見覚えのある匂いだった。「海人!」彼女は、彼の手を振り払って振り向き、怒鳴ろうとした。だが次の瞬間、唇を塞がれた。また、強引なキスだ。来依はすぐさま足を上げて蹴りを入れた。あの
病院で海人の容体が問題ないと確認された後、彼はすぐに空港へ向かった。鷹は時計を見て言った。「今夜のうちに行くのか?」海人はうなずいた。眉間には疲労の色がにじんでいた。鷹は南の手を引いて病院を出たが、外には車が二台停まっていた。彼は尋ねた。「高杉芹那も一緒に行くのか?」海人は再びうなずいた。鷹は理解できない様子だった。「これは、どういう仕掛けだ?」「行くぞ」海人はそれ以上答えず、車のドアを開けて乗り込んだ。二台の車が走り去るのを見送ってから、南が聞いた。「昨日の夜、あなたちょっと出しゃばりすぎたんじゃない?」鷹は顎をさすりながら答えた。「そんなはずないけどな……」「“そんなはず”って何よ?」「海人が誰を好きかなんて、俺に分からないはずがないだろ?」二人は家に戻って少し荷造りし、それぞれ会社へ向かった。南は来依の目の下のクマが、ファンデーションでも隠しきれていないのを見て聞いた。「昨日クラブでも行ってたの?」来依は首を振った。「眠れなかっただけ。たぶん、まだ時差ボケが抜けてないんだと思う」南はすぐに、それが嘘だと見抜いた。サンクトペテルブルクから帰ってきて、もう何日も経っている。なのに、ちょうど昨晩だけ眠れなかったなんて。「ニュース、見たんでしょ?」来依はうなずいた。南はその話題を深追いせず、こう聞いた。「それで、石川への出張、行けそう?」来依はうなずいた。「飛行機で寝れば大丈夫」「なら良かった」南は自ら来依を空港まで見送った。「着いたら連絡してね」来依はOKサインを出し、保安検査へ向かった。石川では和風フェスが開催されていて、 将来的に日本要素を取り入れた服を作るために、彼女たちはその視察も兼ねていた。無形文化遺産の刺繍もある。来依の友人が今回の主催側にいたため、彼女が先に現地入りして下見をし、 良さそうなら南が後から合流する予定だった。無駄足にならないように。南にはまだデザイン草案の制作もあったから。この件はサンクトペテルブルクにいる間にすでに決まっていたことだった。そして偶然にも、海人も今日、石川へ出張に行く予定だった。鷹は前日、彼の誕生日パーティーで初めてそれを知った。飛行機が飛び立つのを見送りながら、南は思った。――もし今回の石川で二人が再会
しかし、海人と鷹の歩む道は違った。鷹のように勝手気ままにはできない。それに、鷹も今の地位に至るまで、何度も陥れられ、苦労を重ねてきた。海人には、もっと安全で堅実な道があった。無理をしてまでリスクを冒す必要はない。彼は、彼女にとってたった一人の息子だった。「私はお客様のところへ行ってくるわ。あんたたちは海人と話してて」鷹はうなずき、海人の母を見送ったあと、海人のもとへ歩み寄り、グラスを軽く合わせた。「おめでとう、バースデーボーイ。今日でまた一つ年を重ねたな」海人は彼を横目で一瞥した。「俺たち、同い年だろ」「でも違うよ。俺の方が数ヶ月遅く生まれてる分、年取るのも数ヶ月遅いからさ」海人はまだ来客の対応があるので、彼を相手にせず、すぐその場を離れた。鷹は南を休憩スペースへ連れて行き、彼女の好きな食べ物を用意した。南は数杯お酒を飲んだあと、トイレに行こうと立ち上がった。鷹も付き添って一緒に向かった。その時、曲がり角を白い影がすっと横切った。鷹は覚えていた。今日の芹奈は白いドレスを着ていた。「何見てるの?」彼は南の手を握り、急いで階段を下りた。だが、海人の姿は見当たらなかった。鷹はすぐに午男に指示を出した。午男は迅速に監視カメラの映像を確認した。数々の修羅場をくぐってきた彼らの警戒心は常に高かった。画面には、海人がある部屋へ入っていく姿、そしてその数秒後に芹奈が同じ部屋に入る様子が映っていた。「まずい」南も映像を見て、すぐに察した。急いで鷹とともに5階のその部屋へ向かった。五郎たちも後に続いたが、海人の母の方が一足早かった。部屋に入ると、すでに海人の母が海人を叱っていた。「もともと高杉家との縁談を進める予定だったんだから、芹那が今日来たのも、あんたと顔を合わせて、少しでも親しくなるためだったのに、何をそんなに焦ってるの?」鷹は腕時計を見た。白いドレスの裾を見かけてから、部屋に来るまで、10分も経っていない。服を脱ぐ時間すらない。海人の母も、海人と芹奈に本当に何かが起きるとは思っていなかった。ただ、この話が世間に広まれば、それで「海人と芹奈は結婚する」という既成事実を作ることができる。ここまで強引に進めたのは、海人を追い詰めすぎると逆効果になることを理解していたから
撮影場所で少しゆっくりした後、一行はホテルへ戻った。そのとき、来依がふと何かを思い出した。「旦那さん、あんなにお金持ちで、彼女自身もお金持ちなのに、私にたった1%しか割引しないなんて!」佐夜子は笑って言った。「私は割引ゼロだったわよ。あなたに1%でもしてくれたなら、相性が良かったのよ」「彼女は子どもの頃、おじいさんと一緒に藤屋家で育てられてた。でも藤屋家は大所帯で、いくつもの分家が表では仲良くても裏では争ってるような家だから、嫁いだあとも藤屋清孝は家にいなくて、守ってくれる人が少なかったの。「彼女が若くして名を上げてなかったら、金銭面で苦労したかもしれないわ。藤屋家の財産には手を出さないし、少しケチなのも仕方ないのよ」来依は手をポケットに突っ込んで、「初対面なのに意気投合したの、私たち似たような経験があるのかもね」南は来依を抱きしめた。「もう全部、過去のことよ」「そうだね、全部終わったこと」サンクトペテルブルクで5日間過ごした一行は、大阪に戻った。一週間後は海人の誕生日パーティーだった。鷹も出席することになっていた。この誕生日は海人にとって特別な日だった。南も妻として同伴する。「来依も呼んで騒がしくすれば?」南は彼を横目で睨んだ。「あなたってば、本当に面白がってるだけでしょ」鷹は彼女の手をいじりながら言った。「高杉家も来るんだ」「高杉家?」「菊池家が考えている次の婚姻相手の家だよ」南は軽く眉をひそめた。「私は菊池家に生まれたわけじゃないし、口出す権利もないけど、こんなふうに無理やり進めるのって、本当にいいのかな?」鷹は言った。「もう十分待ったんだよ。海人が18歳で特訓から帰ってきたときには、すでに候補探しを始めてたんだ。「これまで自由にやらせてきたけど、もう時間切れってことさ」他人の運命に口を出せる立場じゃない。南は、ただ願うばかりだった。海人が来依のことで、これ以上問題を起こさないようにと。……海人の誕生日は、決して控えめではなかった。来依は知らないふりをしたくても無理だった。ネットはその話題で持ちきりだった。諦めて、スマホを見るのをやめ、静かに映画を見ることにした。そのころ、南は、海人と婚約予定の高杉家の令嬢と顔を合わせていた。「高杉芹奈だよ」鷹が彼女の耳元でささ
「詳しくは分からないけど、錦川さんは『価値観が合わない』って言ってたわ」「自由恋愛だったの?」「彼女の祖父が、元夫の祖父の副官でね、昔、戦場で弾から身を守ったことがあるの。それに、錦川さんにはその祖父しか身内がいなかったの。祖父が亡くなったあと、元夫の祖父が、自分の孫に錦川さんを娶らせたの」来依は、持っていたネタが一気に霞んでしまったような顔で言った。こんな話、どんなドラマよりおもしろいじゃない。「で?そいつって、嫌がったんじゃないの?」言ってから、あ、まずいと気づいて、慌てて弁解した。「私、普通に話してるだけだからね?安ちゃんがここにいるし、下品なことは言わないよ?」安ちゃん「ふーっ」佐夜子は安ちゃんのほっぺをつまみ、蘭堂から渡されたホットミルクティーを一口飲んだ。「元夫は彼女のこと、確かに好きじゃなかったの。結婚してすぐ外地に転勤しちゃってね。錦川さんはその間、写真の仕事を受けたり、海外に行って野生動物の撮影をしてたりして、3年間、顔を合わせることすらなかった。で、3年後におじいさんが重病になって、やっと顔を合わせたと思ったら、最初にしたことが離婚の話だったのよ」来依はすっかり話に引き込まれていた。「私が読んだどの小説よりもドラマチック……」佐夜子は、来依が聞きたがっているのを見て、続けた。「おじいさんは離婚してほしくなかった。でも錦川さんは、もともと自由な魂を持ってる子で、おじいさんの遺志を守るために、愛のない結婚生活を3年も耐えてたのよ。本人の話では、結婚という制度に縛られて、恋愛の自由すら奪われたって。「でもね、よく分からないのが、元夫の方。好きじゃないはずなのに、3年も放っておいたくせに、いざ離婚したいって言われたら、急に反対したのよ」来依はすぐに聞き返した。「じゃあ、まだ離婚してないの?」佐夜子は首を振った。「ううん、してない。むしろ今、元夫が口説いてる状態」「それは、刺激的だわ」来依は慌ててミルクティーを一口飲んで、気持ちを落ち着けた。「その元夫って誰?他に好きな人ができたりしたのかな?」佐夜子が名前を出したが、来依は聞いたことがなかった。すると佐夜子は、企業名と元夫の現在の役職も口にした。「ちょ……」来依は思わず口にしかけた言葉を飲み込んだ。「石川の藤屋家?」「
海人の父はしばらく考え込んだ。「こうしよう。来月初め、海人の誕生日のときに、高杉家を招待して、そこで直接婚約のことを発表する」海人の母は不安そうに言った。「前に西園寺家の件もあったし、今回はもう少し彼に時間を与えた方がいいと思うわ」海人の父は言った。「もうどれだけ時間を与えたと思ってる?何の意味もなかった。はっきり動く時だ」「でも、あいつを追い詰めすぎたら……誕生日が過ぎたら、菊池家の後継者の座を正式に譲る予定でしょ?」「その前に一押ししておかないと、あの女を嫁に迎えるのを黙って見てるのか?」それは海人の母が一番望まない結末だった。だが、もう一つの結末もまた、心から望んでいるわけではなかった。「誕生日ではまず顔合わせだけにして、婚約の発表は控えましょ。誰かに聞かれたら、はぐらかしておけばいい。 「それに、誕生日のあと海人は石川へ出張するでしょ?そのときに高杉家のお嬢さんも同行させて、少しずつ距離を縮めさせたらどう?」海人の父は海人の母の提案をじっくり考えてから、うなずいた。「じゃあ、その通りに進めよう」……正月の七日間、来依は佐夜子にたっぷり食べさせられ、5キロ太ってしまった。慌てて自分の部屋に戻り、菜食ダイエットを始めた。二週間後、なんとか痩せることができて、サンクトペテルブルクへ便乗撮影の旅へ出かけた。佐夜子と蘭堂のウェディングフォトを撮るのは、若くして才能あるカメラマンだった。その女性の撮る写真は、来依のお気に入りだった。来依がはしゃぎ回るのを見て、南が彼女の腕を掴んで言った。「あなたの結婚式じゃないんだから、そんなに騒いで」来依は何度も舌打ちをして言った。「南ちゃんさぁ、私たちが友達になった頃はもっと面白いネタ教えてって言ったのに、全然教えてくれなかったじゃん。でも今や、鷹と結婚してから、ネタがどんどん出てくるようになってるよね〜ほんと似てきたよ」南は笑って彼女の肩を叩いた。「からかわないでよ」来依は言った。「テンション上がってるのは確かだけど、ちゃんとわきまえてるよ。今回は佐夜子さんと蘭堂さんの撮影が一番大事ってわかってるから、二人の撮影が終わってから撮るつもり」サンクトペテルブルクでは雪も少し降っていた。細かい雪がウェディングフォトにロマンチックな雰囲気を添えていた。佐夜