第 0002 話

聞き覚えのある声に、海咲は驚き、危うく足をくじきそうになった。

重心を崩し、思わず彼の体に寄りかかった。

州平は彼女の体が傾いたのを感じ、手を彼女の腰に当てて支えた。

その瞬間、彼の熱い手の感触が、昨晩の彼の強引な行動を思い出させた。

海咲は心を落ち着けようとしながら、顔を上げて彼の深い瞳と目を合わせた。

彼の真剣な眼差しには問い詰めるような疑念があり、まるで彼女の全てを見透かそうとしているかのようだった。

海咲の心臓は激しく高鳴った。

彼女は一瞬でも彼と視線を合わせる勇気がなく、思わず目を伏せた。

彼は、昨夜の相手が先ほどの女性だと思って激怒したが、もし自分だと知ったら、彼女の運命と同じくらい酷いものになるだろう。

だが、彼女は簡単に諦めることができなかった。

もし、州平が自分だと知ったなら、彼との結婚生活を少しでも長く続けられるだろうか？

彼の目を見ることができずに彼女は言った。「どうしてそんなことを聞くんですか？」

彼女だけが知っていた。自分が期待していることを。

しかし、州平は軽く笑った。「君にそんな度胸はないだろう」

その言葉に、海咲の手が一瞬止まり、目を伏せたまま黙り込んだ。

州平もまた、彼女でないことを心のどこかで望んでいた。何故なら、彼と彼女はただの契約結婚だったからだ。

そして、あと数日で契約は終わるのだ。

突然、州平は彼女の手を強く掴んだ。

彼女の心臓はドキリと跳ね上がり、目を上げると、彼の冷たい視線が彼女に向けられており、その目は厳しい詮索を帯びていた。

海咲は心臓が一瞬止まるかと思った。

手を引き戻そうとしたが、次の瞬間、州平は彼女を全身鏡に押し付けた。

「何をしているんですか？」

海咲は平静を装おうとしたが、震える声は彼女の恐怖と緊張を隠しきれていなかった。

「本当にオフィスで寝ていたのか？」

彼の黒い瞳を見つめ、彼女は自分が疑われているのかと感じた。

ふと、3年前の新婚初夜のことを思い出した。彼女は彼が自分を心から娶ったのだと思っていた。手を伸ばし彼の手を取ろうとしたが、まだ触れぬうちに彼は冷たい顔で立ち上がった。

彼はそう言った。

「海咲、オレは結婚したのは祖父の遺志を果たすためだけだ。3年後、オレと君は別々の道を歩む。その時までは、オレに触れるな。さもなくば、君もオレの手段を知っているだろう」

彼が彼女に触れさせないのは、彼の心にいるあの女性への純潔を守るためだった。

もし彼が美音への愛に反するような行動をとったと知れば、その怒りは計り知れないのだ。

海咲は目を伏せ、「……ええ」と小さく答えた。

突然、彼の手が彼女の細い首筋に触れ、強く押し、彼女の皮膚には桜色の痕が残った。その手はやがて、彼女のシャツの第三ボタンに辿り着いた。

「ボタンが逆についている」

海咲は彼の手首を見つめ、ボタンが不自然に留まっていることに気づいた。

彼女は息を詰め、彼の手を払いのけ、慌ててボタンを外した。「すみません、着こなしのミスです。次は気をつけます、もう二度とありません」

州平は突然、苛立ちを感じたのか、彼女を突き放し、距離を取った。

彼は背を向け、襟を直しながら言った。「次はこんな初歩的なミスをするな」

海咲は床を見つめ、胸が締め付けられるような痛みを感じた。

彼は自分にミスを許さないが、彼自身はどうなのだろう？

州平は振り返り、「まだここに何をしている？会議の準備をしないのか？」と言った。

彼女は顔を伏せ、ただ立っていた。

「葉野州平、淡路さんが帰ってきました」

州平の目が一瞬、暗くなった。これは彼女が3年の間で初めて彼をフルネームで呼んだ瞬間だった。

海咲は涙を飲み込み、冷静な口調で言った。「私たち、離婚すべきですね」

その言葉を聞いた瞬間、彼の手の甲の青筋が浮き上がり、顔がさらに暗くなった。「海咲、今は仕事の時間だ。自分の仕事をしろ」

そう言うと、彼は振り返り、大股で部屋を出て行った。

海咲は彼の背中を見つめ、息が詰まるような感覚に襲われた。

彼の態度は、彼女の言葉を認めたのだろうか。

ふと手の甲に温かい感触を覚え、彼女は自分の涙が一滴こぼれ落ちたことに気づいた。

結局、泣いてしまった。

しかし、彼の言う通り、彼女はまだ彼の秘書であり、仕事を続けなければならない。

会議で使う資料は家に置いてあるので、一度戻らなくてはならない。

ついでに、3年前から用意していた……離婚協議書も持って行こう。

……

社長室。

州平は革張りの椅子にもたれ、冷たい表情で眉をひそめていた。

外でノックの音がし、アシスタントの木村清が入ってきた。

「社長、調べたところ、温井さんは確かに昨夜、オフィスで寝ていたようです」

その言葉を聞いて、州平の眉間の皺がさらに深く刻まれた。

「さらに、淡路さんも昨晩、社長が宿泊したホテルに行き、フロントで社長の部屋番号を確認したことがわかりました」

一方。

海咲は葉野の旧宅に戻り、玄関を踏み入れた途端、姑の葉野淑子の尖った声が出迎えた。

「あんた、ちゃんと働かないで何しに戻ってきた？うちは働きもしない怠け者を養うつもりはないよ、ましてやあんたみたいな役立たずの女なんてな！」

海咲は姑の冷たい言葉にもう慣れていた。

ただ、子供を産むかどうかは自分だけの問題ではない。

これから、州平との間に子供ができないことで、姑に責められる心配もなくなるだろう。

もう、怪しい薬を飲んで子供を作ろうとする必要もない。

彼女は丁寧に答えた。「社長が会議で使う資料を取りに戻りました」

「そんな大事な資料、最初から準備しておくべきだろうが。わざわざ取りに戻るなんて、仕事をサボろうとしてるんじゃないだろうな？それに、あんたはうちに二億の借金があるのよ！一生働いて返せるかどうかもわからないくせに、サボるなどもってのほかよ！」

海咲は目を伏せ、心が痛むのを感じた。

そうだ、彼女は二億円の借金があるのだ。彼の祖父がそれを肩代わりしてくれたことで、彼との結婚が成立したのだった。

だからこそ、先ほど離婚の話をしたとき、彼は特に感情を表に出さず、ただ仕事を続けろと言ったのだ。

彼にとって、結婚が終わるなら、その借金も返済されなければならない。

「心配しないでください、お義母さん。ちゃんと返済します。資料を取ってすぐ戻りますので、今は必要なんです」

そう言いながら、彼女は州平の書斎に向かおうとした。

「私がまだ話しているのに、もう行こうとしているのか。あんたは本当に礼儀を知らないのか？ちょうどいい、聞きたいことがある」

「何のことですか？」

「今月、病院に行って検査を受けたのか？子どもができたか？」

「州平も私も仕事で忙しく、今はそのことに気を回す余裕がありません。時間ができたら、ちゃんと努力します」

淑子の顔色が変わり、怒鳴り始めた。「その言い訳はもう何度も聞いた！もしその能力がないなら、すぐに州平と離婚しなさい！」

海咲の顔色は少し青ざめた。新婚の夜から、この離婚の日が来ることは覚悟していたが、それでも何かを確かめたかった。

「それは彼の意思ですか？」

「他に誰の意思だと思っているの？」淑子は問い返した。

海咲の顔から血の気が引いていった。

そのとき、厨房の方から声がした。「おばさまの大好きな鶏のスープが煮えましたよ。ぜひお召し上がりください」キッチンの方から一人の女性が出てきて、沈黙を破った。

その声を聞いて、海咲は玄関先で体が硬直し、体内の血が冷たくなるのを感じた。