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第 0005 話

海咲は足を止め、夫と妻というよりも上司と部下のようなよそよそしい口調で言った。「社長、他に何かありますか?」

州平は振り返り、海咲の冷たい顔を見つめ、命令口調で言った。「座って」

海咲は突然、彼が何をしようとしているのか分からなくなった。

州平は彼女に近寄っていった。

海咲は彼がどんどん近寄ってくるのを見ていた。この瞬間、彼女は何かが違うと感じ、空気が薄くなったような気がした。

ドキドキするような、少し奇妙な感じだった。

彼女は動かなかったが、州平は自ら彼女の手を握った。

彼の温かい大きな手が彼女に触れると、彼女は何かに刺されたように手を引き抜こうとした。だが、州平は彼女の手をしっかりと握って離さなかった。彼は彼女を自分の側に引き寄せ、眉をひそめて尋ねた。「手が傷ついたのに、気づかなかった?」

その心配そうな様子に海咲は驚いた。「私……大丈夫です」

「手に水ぶくれができた。どうしてオレに言わなかった?」州平は尋ねた。

彼女は目を伏せ、傷口を観察している州平の大きな手を見ていた。

何年もの間、彼女は何度も彼の手を握りたいと思い、彼に温かく見守られたいと思い、彼に正しい方向に導かれたいと思った。

でも、そんな機会はなかった。

彼女が諦めようとしたとき、彼は再び彼女に小さなぬくもりを与えた。

「大したことないです。数日で治ると思います」と海咲は答えた。

「誰かにやけどの薬を持ってこさせる」

海咲は目頭が熱くなるのを感じた。長年の苦労が少し報われたような気がした。

だが彼女は、彼が自分を愛していないことをはっきりと分かっていた。

州平はやけどの薬を手に取り、丁寧に傷口に塗った。目の前にしゃがんでいる彼を見て、彼女は自分も彼の愛した女性になれるかもしれないと思った。

少し傷ついたことで、彼は彼女にもっと注意を払うようになったようだ。

彼女にはおかしな考えさえあった。七年間も彼のそばにいて、毎日彼の世話を念入りにすることよりも、傷ついたほうが彼の気を引くだろうと考えた。

この傷にも価値があった。

涙が一滴こぼれ落ちた。

ちょうど州平の手の甲に。

州平が顔を上げると、海咲の瞳が濡れているのが見えた。彼女が彼の前で感情を露わにしたのは初めてのことだった。

「どうして泣いているの?痛い?」

海咲は自分の気持ちがあまりにも不安定で、少し自分らしくないと感じた。「痛くはありません。ただ目が不快なだけです。社長、もうこんなことしないように気をつけます」

州平は彼女の丁寧な言葉を聞き飽きた。彼は眉をひそめて言った。「ここは仕事場じゃなくて、家なんだ。毎日オレの前で恭しく振舞う必要はない。家ではオレの名前を呼んでいいんだ」

でもこの七年間、海咲はいつもこうして過ごしてきた。

職場では優秀な秘書だった。

家では叶野家の奥さんという身分を担うにもかかわらず、あくまでも秘書のやるべきことをやっていた。

海咲は何年も憧れていた彼の顔を見つめた。報われない愛はいずれ冷めてしまうのだった。彼女はちょっと間をおいて続けた。「州平さん、私たちはいつ離婚手続きを……」

州平は彼女を抱きしめた。

すると、海咲の体が硬直し、頭が彼の肩に寄り、何も言えなくなった。

州平は顔をしかめて言った。「今日は疲れているから、また明日話そう」

海咲はやむなく言葉を飲み込んだ。

ベッドに横たわり、海咲は彼が少し変わったように感じた。彼の体は彼女に密着し、彼の体温を感じさせた。

彼は彼女の腰に手を回した。彼女はひんやりとした松のような香りに包まれて少し安らかになった。

彼の手のひらが彼女のお腹に触れると、彼女の体が縮こまった。すると、彼の熱い息が彼女の耳元に吹きかけられた。「くすぐったい?」

海咲は目を伏せて言った。「慣れてないんです」

それを聞いた州平はもっと積極的になり、彼女を抱きしめて言った。「少しずつ慣れていけば、いつかは慣れるよ」

彼の胸に寄りかかると、その熱い息が彼女の顔に吹きかかり、顔をほてらせた。

彼女は顔を上げ、二人の結婚生活に転機が訪れるのかと考えた。

彼女は自分の身分を変えたいと切望していた。

「州平さん……できれば、私……」

そう言おうとしたとき、州平のスマホが鳴った。

彼はスマホに注意を向けた。

その後に続く言葉は口に出されなかった。

(妻として……)

彼の目に映る自分の姿が、もはや彼の秘書でないことを彼女は願った。

しかし、そんなばかげた話は一瞬にして終わった。彼がスマホを取り上げると、画面に「淡路美音」と表示された。

彼女は一瞬、現実に引き戻された。

州平は平静を取り戻し、彼女を放してから起き上がった。彼女の言葉には気づかなかった。

「もしもし」

彼女は、州平が冷たい表情でベッドから立ち上がり、彼女の前から立ち去り、寝室を出て美音の電話に出たのを見ていた。

海咲の心が沈み、口元に苦笑いが浮かび上がった。

(海咲よ、どうしてこんな妄想を抱くのか)

(彼の心は美音のものだ。あなたを好きになるはずがない。彼は三年前の結婚式ですでにそう言ったのだ)

海咲は頭を上げ、なぜか心が痛み、まぶたの裏に熱いものがこみ上げてきた。

彼女は目を閉じた。もう彼のために涙を流したくないと思った。

実は、彼が知らなかったことだったが、彼女は彼の心に誰かがいることを知ってから、彼のためにこっそり泣いただけで、それを彼に見せなかった。

彼女は、自分が彼のそばいる秘書にすぎなかったことをよく覚えていた。

電話を終えて戻ってきた州平は、海咲がまだ寝ていないのを見て、一言かけた。「用事があって、会社に戻らなきゃ。君は早く休んで」

海咲は彼を見なかった。彼に自分の弱みを見せたくなかったのだ。「わかりました。いってらっしゃい。明日は定時に出勤します」

「うん」

州平は返事し、コートを持って出て行った。

車のエンジン音がだんだん遠く聞こえるにつれ、彼女は心臓が破裂しそうになった。

一晩中、海咲はほとんど眠れなかった。

翌日、彼女は仕事に行かなければならなかった。

海咲は早く会社に着いた。会社には数人しかいなかった。彼女はいつものように社長秘書の仕事をこなした。

しかし今日、州平は会社に来なかった。

海咲は彼に何度も電話をかけたが、電話が繋がらなかった。

森有紀は少し心配した。「温井さん、社長は出社してこないし、今どこに行ったかわからないから、工事現場の検査をお願いするしかないんです」

海咲は州平の秘書として会社のほとんどの仕事に関わっていた。このプロジェクトについてもかなり詳しかった。

海咲は最後にもう一度電話をかけたが、彼の所在がつかめず断念した。

彼女はふと、昨夜彼が美音からの電話を受けたことを思い出した。

彼は出社せず、一晩中家に帰らず、おそらく彼女に会いに行ったのだろう。

海咲は切ない気持ちを抑え、「社長を待たずに先に行きましょう」と言った。

外はかんかん照りの暑さだった。彼女は工事現場にやってきた。

建設中の建物はまだ骨組みだけで、かなり雑然としていた。

彼女が現場に入ると、地面はほこりと鉄筋で覆われ、機械が大きな騒音を発していた。

海咲は何度かここに来たことがあり、慣れていたので、すぐに手順を進めた。

突然、誰かが「危ない」と叫んだ。

海咲は顔を上げると、彼女の頭上からガラスが落下してきた。

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