受験の失敗で自分に自信が持てず、閉じこもりがちだった綾。 そんな綾が再び外の世界に目を向けたのは、通りすがりに一目ぼれした花屋カフェがきっかけだった。 臆病だけど本来は明るい性格の綾が人と触れ合い、関わって成長していく。 再び歩きはじめるために 必要なものは何でしょう アルバイト店員 三森 綾 19歳 元は大手商社のエリートだったらしい オーナー兼マスター 一瀬 陵 30歳 無表情で一見冷ややかなその人 時折見せる優しさに 綾は少しずつひかれていく パティシエ 片山信也25歳 チャラい外見と言葉遣いで不真面目に見られがちだが 実は案外気遣い屋 失恋したばかりの綾に わかりやすい程真っ直ぐな愛情表現を示してくれる
View More前面がガラス張りのその店は、緩やかな傾斜のバス通りから店内の様子が良く見えた。
ウッド調の内装、入口から左側はたくさんの花で無数の色が溢れ返り、右側のカフェスペースは通りの並木が程よく日差しを和らげて、内装と同じく無垢材のテーブルとイスが並べられている。 高校三年生の時、志望大学のオープンキャンパスに向かう途中で、私はそのカフェに目が釘付けになった。 大学までは、バスがある。 けれど歩けないほどでもなく、少し早めに家を出たための時間潰しにと徒歩で向かっていた。「あ、明日がオープンかぁ」
扉に貼られた張り紙を見て、肩を落とした。
ガラスを通して見える店内の様子は、左側がカフェの装飾というには余りに花に溢れている。 不思議に思ってもう一度張り紙に視線を戻すと、明日の日付にOPENの文字。 そして、『花屋カフェflower parc』と書かれていた。―――あ、こっちはお花屋さんなんだ。
出入り口の左側がきっと、花屋としてのスペースなんだろう。
花は種類ごとに分けて入れられ花の名前と値段が書かれたポップが貼られていた。 よく見ると、まだ何も置かれていない空いたスペースもある。 きっと開店当日の明日にはそのスペースも花で埋められる。 右側のカフェスペースとは中央のレジのあるスペースで分けられているが、遮るものは少ない。 あのテーブル席から、この花で溢れたスペースはきっとよく見えるだろう。 ―――こんなにたくさんの花を見ながら、お茶を飲めるなんて。元から花が大好きな私は想像しただけで胸が躍って、明日のオープンにもう一度来てみようか、なんて。
その時の私は、考えていた。***
「結局、そのオープンの日には来なかったんですけどね」「へえ。それはなんで?」
「大学に受かったら、来ようと思って! 願掛けのつもりだったんです」
店内には、静かにクラシックのBGMが流れている。私がこの店に一目ぼれしたのはもう一年以上前の話で、その時の感動を思い出しながらついうっとりと熱弁してしまっていた。
相槌を打ってくれている厨房スタッフの片山さんは、白い制服姿で客用スツールに腰かけている。私はカウンターの中で、プラスチックの平たい番重からケーキをガラスのショーケースに移していた。「あ、じゃあ綾ちゃんって大学生? てっきりフリーターだと」
「……フリーターですよう。そこは聞かないでくださいよ」
あんまり古傷を抉らないで欲しい。
試験に落っこちた時の衝撃を思い出して、私はつい唇を尖らせてしまった。 バイトを始めたきっかけを尋ねられると、どうしてもその時のことを話すことになる。「おお、悪い。しかし気にするな、俺も落ちた」
「えっ、そうなんですか。けど片山さんはすごいじゃないですか」
けらけら笑って言う片山さんは、近くの商店街のケーキ屋さんの息子さんだ。
このカフェではその店からケーキを卸してもらっていて、片山さんが朝出勤してくる時に一緒にケーキを運んで来てくれる。「パティシエの修行中なんでしょう?」
「んー……まあ。家庭環境から、そんな流れにね」
そう言った片山さんは少し複雑な表情をしていた。
「そうなんですか」と首を傾げて曖昧に返事をしたけど、なんとなくその複雑な感情には私も覚えがあり、ちくりと胸を刺した。 周囲の環境に、なんとなく流される。 私の大学の志望動機が、それそのものだった。 だけど。「でも、やっぱり片山さんはすごいと思います」
私は入試に失敗したあとも、何をするでもなくただ時間を消費しただけだったから。
このカフェに、再び訪れることになるまでは。会話が途切れてなんとなく黙り込んだまま、私は再び手の中のトングに集中した。
番重から、ひとつひとつケーキを移す。 それほど難しくない単純作業だけど、ケーキを壊さないようにと思うとつい手がぷるぷると震えてしまう。「貸して」
すぐ近くで声がして、少し驚いた。
顔を上げると、さっきまでスツールに座っていたはずの片山さんが真後ろに立っていて、私の手元を覗き込んでいて。「びくびくしながらやるから、余計に危なっかしいんだよ。別に一個くらい落っことしたって誰も怒らないから」
そう言いながら、私の手からトングを抜き取ると、私の倍以上の速さであっという間にケーキを移し終えてしまった。
愛ちゃんと飲んだ日の帰り道彼女が歩きながら煙草に火をつけたので行儀が悪いと窘めたらバツの悪そうな顔をして道の端に寄った。『そんな嫌そうな顔しないでよ』『男で煙草吸わない人ってさ、まるで愛煙家を親の仇みたいな目で見るのよね』『それこそ偏見でしょ』別に、他人が吸う分には俺はなんとも思わない。だけど、煙草のイメージアップを計ったのか愛ちゃんが煙草にも花言葉があるのだと胡散臭いことを言い始めた。『ほんとだってば! 煙草って別名思い草って言ってね』『へえへえ』むっと唇を尖らせていた愛ちゃんが、ふと真面目な顔をした。『あなたが居れば寂しくない』『へえ……』と相槌を打ったものの、それ以上言葉もなく。視線を絡ませたまままるで時間を止められたような錯覚。消すつもりのないらしい煙草の先から白く細い煙が上り、風に揺れて散らばった。『後はねえ、秘密の恋、孤独な愛、とか。 結構色気のある花言葉だと思わない?』にっ、と再び笑った愛ちゃんはいつもの愛ちゃんだった。『確かに。愛ちゃんには似合わないよね』『何おぅ!』結構本気の平手が飛んできて危うく顔面に食らうとこだった。今思い出しても、愛ちゃんはもうちょい明るいイメージで、やっぱりその花言葉は似合わない。もっと儚げな女か影のありそうな男とか。例えばこの、目の前の眼鏡堅物とか。確か、オープンした頃はマスターが愛煙家であることを知らなかった。多分ひと月ほどした頃だ。婚約者が店を訪れることはなくなり、裏口で煙草を燻らす姿を見るようになった。『煙草って別名思い草って言ってね』そんな風に聞けば、尚更その姿が意味深に見えてくる。「……何か?」「別に」視線を感じたマスターに問いかけられて、咄嗟に俯いてごみ淹れの蓋を締め直す。車のタイヤが道路との僅かな段差を超える音がして、そちらを向くと乗用車が一台駐車場に入ってくるのが見えた。もう外観の灯りは消してあるから、閉店しているのはわかるはずだ。方向転換でもして道路に戻るだろうと思っていたら、俺の(正確には親父の店の)白いバンの横の駐車した。店の正面ではなく側道に面した僅か数台が停められる程度のその駐車場は、裏口からでも良く見える。「あれ……あの車」紺のワーゲン。見たことある、と思ったもののすぐには思い出せなかったが。運転席から降りた女の
「俺のじゃないよ、それ」「えっ? そうなんですか?」「うん、俺吸わないし」ボールに入ったバターとマスタードをホイッパーでかき混ぜながら答えると、綾ちゃんは手を引っ込めて手のひらで転がしながらそれを見つめる。「じゃあ、通りすがりの人の落とし物かな? お店の裏口だからてっきり……」「いやいや。俺じゃないってだけで他に聞く人いるでしょ」「えっ?」こちらを見上げるきょとんとした表情が、ちょっとリスみたいで可愛い。くそ、何やっても可愛いけど。煙草イコール俺に繋がったくせに、なんであの人には繋がらないんだ。「綾ちゃんじゃないんなら」「私じゃないですよ!」「じゃあ、マスターしかいないでしょ」表情が、くるくる変わるのは本当に面白い。その視線の先に、なんで俺じゃなくてあの不愛想なマスターしかいないんだ。綾ちゃんが、「嘘っ」と驚いた声を上げ目を見開いた。「マスター、煙草吸うんですか? 全然イメージじゃなかった……すごく真面目そうだし」「へー……綾ちゃんの中では煙草=不真面目=俺なんだ」「えっ? あ、いえ。そういう意味じゃ……」しまった、と思いっきり顔に出して慌てて取り繕うけど、もう遅い。思いっきり拗ねたぞ、俺は。「マスター、吸うよ。綾ちゃんも帰った後、ラストに良く外で吸ってる」「そうなんですか。でも、想像すると似合いそうです。『大人の男の人』って感じで……」「大人だよ、様になってて男の俺から見てもカッコイイ」「へえ……」「隣に立つのは、やっぱカッコイイ大人の女が似合うよな」そうだよ、向こうはずーっとオトナなの。綾ちゃんからは、ちょっと遠いんじゃない?「そー、ですね」へらりといつもと同じ笑顔に見えても明らかに元気のない、風船から空気が抜けて萎んでいくような様子を視界の端に捕らえながら。「落ち着いた、大人の女の人が似合いそうですよね」「落ち着いた、っていうか。気の強そうなキャリアウーマンって感じだったな」俺の口は、止まらない。別に傷付けたい訳じゃないのに……ほんと、カッコ悪い。「キャリアウーマン?」「そう、元婚約者。オープン当初はよく店に来てたよ」「え」「この店、ほんとは彼女と二人でやるつもりだったらしいから」気付いたら、綾ちゃんは泣きそうなのを通り越して、呆然と口を半開きにしていた。「婚約、されてたんですか」
まあ、否定しない。今までそうだったし。「何ソレ。別にまだ付き合ってもいないんだし、スタイル変えることないじゃん。ばかばかし」「いや、そうかもしんないけどさ。禊っていうの?」なんとかどうにか綾ちゃんに近づきたいと思う。だけど、あの子見てると今までの自分が情けなくなる。綾ちゃんは、なんにでも一生懸命だ。大学受験に失敗して、引きこもってしまった、と恥ずかしそうに話していたけれど。同じように俺も失敗したけど、別にショックを受けるでもなく家庭環境も手伝って流されるように製菓の専門学校に入学した。自分の意思だったかというと、よくわからない。俺みたいにになんとなく生きていくよりも彼女みたいに逐一額面通りに受け取って、逐一ショックを受けて悩む方がずっとしんどいに決まってる。そんな綾ちゃんを見てると俺もちょっとは、心を入れ替えるべきかな、と思っちゃったんだよ。「だから、まずは色々と整理整頓しようかと思って」「……あんたそれ。人を小馬鹿にしてるって気付いてる?」さっきまではちょっと不機嫌な程度だった愛ちゃんが急に怖い顔で睨んでくる。別に馬鹿にしてるつもりはないんだけど。「なんで? なんも変わらないまま綾ちゃんに言い寄る方が馬鹿にしてる気がしねえ?」本気でわからなくてそう首を傾げると、愛ちゃんはますます怖い顔で溜息をついた。「……それが馬鹿にしてるっての。わかんないなら一生そのままでいれば」そう言って、ホテルに向かうことは諦めたのかバッグから煙草を取り出して火をつけた。女向けのメンソールの煙草を、細い指に挟んで唇の隙間から煙を吐き出す。しっくりくるその姿を見ながら、テーブルの端にある灰皿を差し出した。「驚かないんだ。私アンタの前で吸ったことなかったでしょ」「知ってたよ」「えっ、なんで?」「匂い」正直にそう言うと、「げ」と嫌そうに顔を顰め、肩に鼻を寄せて匂いを嗅ぐ仕草を見せる。身体からっていうより、キスしたりするとやっぱりわかるんだよな。俺が吸わないから。でも。「俺が煙草苦手だから、気を使ってくれてたんでしょ。知ってるよ」愛ちゃんは少し目を見開くと、すぐにまた顔を顰めて目を逸らす。だけどその頬はちょっと赤い。「やっぱアンタ嫌い」「ひでー」「酷いのはどっちよ。まー……好きな女が出来たらそんなもんなのかもね」「だか
別に俺が泣かせた訳でもないのに、罪悪感のようなものがまとわりつく。大体、あんな卑怯な男だとわかっていたら応援したりしなかった。幼馴染みだから、告白だとは思わなかったとか?んなわけない。どうであろうと、バレンタインに女に誘われたならちゃんと二人で会ってやるべきだ。あんな遣り方で牽制した男に腸が煮えくり返って仕方なかった。わざと見せ付けるような二人の空気に黙って引き下がった綾ちゃんが、いじらしいやらもどかしいやら。あんな奴と上手くいかなくて良かったけどさ。一発くらい殴ってやれば良かったんだ。それからというもの彼女が泣いていないか気になって楽しそうにホールを動き回る姿を見るとほっとして客と仲良くなって感情的になる彼女が心配にもなり客の彼氏に誘われてる姿を見てはハラハラしてこんなに俺が心配して振り回されてるっていうのに「悠くんは、あの人みたいに浮気性じゃないですもん」かっちーん。って。初めて綾ちゃんに苛ついちゃった。浮気性かどうかは知らないけどさ本性見抜けてないよな。あんな想いさせられたのに未だに慕ってたりするわけ?「幼馴染ってずるいよな。小さい頃から一緒にいるってだけで妙な信頼関係がある」「だって、悠くんはほんとに」「違うって言える? 幼馴染としてしか接してないのに」「そっ……」言ってしまってから、はっと我に返る。目の前には、明らかに傷ついて表情を固めた綾ちゃんの顔。今にも泣きだしそうに見えて、激しい罪悪感が押し寄せた。何やってんだ、傷つけたあの「悠くん」とやらに腹を立ててたはずなのに、俺が傷つけてどうするんだ。「……悪い、意地悪言うつもりじゃなかったんだよ。ただ、あんまり感情移入したら綾ちゃんがしんどいだろうって」「いいえ、本当のことだし」「余計なこと言った、ごめん」慌てて謝って頭を下げて、彼女は少し頬を引き攣らせたままだったけれど。「大丈夫ですよ、ほんとのことだし」「ごめんって」じきにほんとに笑顔になって、柔らかく首を振る。今傷つけたのは俺なのになんだか。そんな表情を見ていたら、何故だかもうたまらなくなって「……まだ、『悠くん』のことが好きだったりすんの?」気付いたら、そんなことを口にしていた。「好きですけど……恋とはもう、違うような気がします」思案顔で、俯いたままの彼女にそっと
びくんっ!と背筋が伸びて慌てて振り向いた。見られたくない、咄嗟にそう思ってしまったからきっと私はかなり慌てた顔をしていたと思う。それなのに、厨房とホールとの境目のカウンターで顔を覗かせる一瀬さんは至っていつも通りの無表情で、淡々と動じることなく片山さんを窘めた。「デートのお誘いは仕事の後にしてください」「へぇへぇ」慌ててるのは、私だけ。しかも、助けてもくれない……んですか。そのことが、自分でも驚くくらい、ショックだった。「……綾さん?」私と目が合ってはじめて一瀬さんの無表情が崩れる。代わりに浮かんだ困惑顔に、また一層、胸が痛んだ。私は一体、どんな顔で一瀬さんを見ているんだろう。ただただ、目頭が熱くて。困惑する一瀬さんの顔を見て、唇を噛んだ。一瞬の目線のやりとりを、片山さんに気づかれたのかはわからない。「……了解。デザートプレート二つね」溜息混じりの片山さんの声が酷く不機嫌だった。一瞬だけ握られた手の圧力が強くなる。それでも目を離せない私に、一瀬さんが少し目を伏せて言った。「向日葵。梅雨が長引いたせいで開花が遅れているそうですよ」「は? そうなの?」「ええ。期間中でも少し後の方に行った方が良いでしょうね。咲いてない向日葵見ても仕方ないでしょう」見るからに動揺している私のせいで気まずく澱んでいた空気が、ようやく少し流れ始める。「そりゃそうか……じゃあ、八月入ってからのがいいかな」残念そうな声と一緒に片山さんが立ち上がる。漸く握られた手が解放されて、やっと肩の力が抜けた。「片山さん、ごちそうさまでした」作業台に向かう片山さんにそう言うと、背中を向けたままひらひらと片手を振った。カウンターに戻ってすぐ、一瀬さんがぽつりと私に言った。「見頃になるまでに、お返事したらいいでしょう。嫌なら嫌と言えばいい」私の方をちらりとも見ずにそう言って、カップとソーサーをセッティングする。「はい……すみません」助けてもらったのか、突き放されたのかわからない。だけど、一つだけわかってしまったことがある。向日葵畑がいつ咲くのかよりも一瀬さんにどう思われるかそのことばかり気になって、仕方ない私がいることに気が付いてしまった。【一途なひまわり・前編】END――――――――――――――――――――――――――――――――――
「マ、マスターとそんなんなるわけないでしょ。マスターからしたら私なんてお子様にしか……」「うん、それもあるし」自分で『お子様』って言ったのに、全く否定してくれないお姉ちゃんに結構ダメージは大きかった。どうせ私は子供っぽいですよ。……多分、世間一般の同年齢の子達よりも、私はこういったことに疎いのだと思う。もっとちゃんと、真剣にみんなの恋バナを聞いて置けばよかったと、今更ながら後悔した。「っていうか、論点ずれてる。片山さんかマスターか、じゃなくって。そんな簡単にデートしていいものなのかなって……」「いいじゃない、それでもしかしたらドキドキしたりして、恋が芽生えることだってあるよ? きっと」「……ドキドキしたら恋なの? そんな単純?」「わからないからって立ち止まってたらわからないままじゃない? あんまり怖がらないで、案ずるより産むがやすしっていうわよ?」つまりそれは。まずは、デートしてみろってこと、でしょうか。お姉ちゃんに相談しても、結局悩みはすっきりとはしないまま。お風呂を済ませて、お布団に入ってまた頭を悩ませる。一瀬さんから見ると私なんか子供だってそれはよくわかってるけど、片山さんだって私よりも五つ上だ。それに、かっこいい。あんな風に見つめられたり、指にキスされたりしたら……どきどきして当たり前だと思う。肌掛け布団を口許まで引き上げたら、指先が目に入ってまたどきどきがぶり返して、暫く眠れなかった。◇◆◇翌日、朝から片山さんと顔を合わせるのに、すごく緊張したけれど。「おはよ、綾ちゃん」「おはようございます」彼はいつも通り愛想のよい笑顔で、ケーキの番重をカウンターの上に置く。そして、いつものように、目の前に停めた車を駐車場の一番端に停め直しに行く。「……あれ?」間抜けな私は、その時に漸く気が付いた。彼は毎朝、車でケーキの番重を積んで出勤してくる。おうちのケーキ屋さんは歩けない距離じゃないけど、手で持って歩くには遠いし車の方が安定するから。当然、昨日も車だったはずだ。片山さんはあれから、一度店に戻ったのだろうか。「ああ、はい。一度戻って来られてから車で帰られましたよ」一瀬さんにそれとなく聞いてみたら、そう教えてくれた。だったらなんで車で送ってくれなかったんだろう。車なら駅まで三分くらいだし、昨日は降られはし
「え……っと」壁と片山さんに挟まれて、片手は繋がれたままで、逃げ場所がどこにもない。顔に集まる熱を感じながら、俯いて視線を逃がしたのは今度は私の方だった。空いた手が手持無沙汰に忙しなく、横髪を耳にかけて肩にかかった鞄の柄を握る。「嫌?」「嫌、っていうか。あの」ふざけてるのか真剣なのか、いつも片山さんはころころと雰囲気を変えるから真に受けていいのかわからない。ぎゅっと握ったままの鞄の柄を、何度も肩にかけ直した。手を握られたままの片手が、汗ばんできているのを感じて恥ずかしい。「……綾ちゃんから見て、やっぱり俺は軽そうに見えるんだ? だから嫌なの?」そう言った声が少し寂しそうに聞こえて、慌てて視線を戻した。「違います、そうじゃなくってっ!」「じゃあいいよね、行こう?」約束ね、と。私の手を持ち上げて口許に寄せる。「ひゃっ……」指先に、あたたかくて柔らかいものが触れて私は慌てて手を引いた。思いのほか簡単に手は抜けた。「あ、あのっ」「うん?」手は離れたけど、すぐ目の前に片山さんの顔があるこの状況には変わりない。ぐるぐると頭が混乱して、涙が出そうで。「も、帰らなきゃ。電車が」目の前もぐるぐるして、キスされた指先も顔も熱くて。片山さんの顔が、もうまともに見れなくて、横を駆け足ですりぬけて。逃げ出して、しまった。「あ、綾ちゃん!」片山さんの声を聞きながら路地を抜け出し、まっすぐ駅の改札まで走る。定期を出すのに手間取って、つい後ろを振り向いたら。「……っ」片山さんが少し後ろの方で、私に向かって手を振っていた。すごく、優しい笑顔で。多分私が走り去った後も、ちゃんと改札抜けるまで見守っててくれたのだと思うと、また胸がどきどきし始める。慌てて前を向いて駅のホームまで駆け上がったけれど。電車に乗ってる間もその鼓動は収まらなくてずっとそわそわしてしいた。さすがに私でもわかる。片山さんは、本気かからかってるのか兎も角として、私に好意を向けてくれている。家のある駅に着いてからも落ち着かなくて、いつもの倍以上のスピードで帰り道を歩いて玄関に飛び込んで。「あ、おかえり。今日は遅かったね」早歩きで帰ったのに遅いと言われて、それだけ片山さんとゆっくり歩いて話をしていたのだと気づいた。「お姉ちゃあん!」「えっ? 何?」ちょう
外灯や店の灯りを反射して、色とりどりの光を放つ石畳道を進んで行くとそれほど長くかからずに駅につく。まだ人通りも多い時間で、ほんとに送ってもらうほどのことでもないのだけど。話上手な片山さんに乗せられたというべきだろうか。最初の緊張やら戸惑いやらはいつのまにかなくなって、話に夢中で歩調も緩くなる。「綾ちゃんは映画はあまり見ないの?」「最近はあまり。レンタルしてくることはよくありますけど」「じゃあ遊びに行くならどこ行きたい?」「あ、植物園がこないだリニューアルされてそこに今度行く予定なんですけど」「え、誰と?」「お姉ちゃんとです!」「ふうん……」ずっと笑顔だった片山さんが、少し面白く無さそうな顔をした。「『悠くん』は一緒じゃないんだ?」「えっ、どうかな、聞いてないですけど……」話をしたときは私とお姉ちゃんだけだったけど、いざ行くと悠くんも一緒だったりもよくあることだから、本当にその日になってみないとわからない。片山さんの不機嫌の理由は、わからないことはないけれど。それが、ほんとなのかただからかってるのかがわからない。以前は頼りにできる先輩で、男の人だなんて特に改めて思ったことはなかったけど……こういう会話になると、つい考えてしまう。早く、駅に着かないかな、なんて。「じゃあ、さ」「はい?」突然互いの手が触れあって、片山さんの手は少し、ひんやりとしていた。「デートに行くなら、どこに行きたい?」ああ、まただ。また、逃げ出したくなるような空気が漂って、私は手をひっこめようとしたけれどその指先を捕まえられた。「あ、あの、手……」「どこがいい?」「行ったことないから、わかんないです。それより手……」駅はもうすぐそこなのに、こんな際々でまた片山さんは恋愛モードに入ってしまって、私はまた狼狽させられる。「じゃあ、行先俺が決めていい? 今度の定休日空いてる?」「空いてます……じゃなくてなんで行く流れになってるんですかっ」「あ、流されなかったね……残念」あはは、と片山さんが笑って恋愛モードがまた解ける。ちょっとずつちょっとずつ、小出しにされてる気がするのは気のせいだろうか。少し空気は緩んだけれど、その隙にしっかりと指を絡めて手を繋がれてしまった。たかが、手だ。片山さんの手に一切触れたことがないかと言ったらそんなことはない
食器を片付けて厨房を出るまでの間ずっと見られているみたいな気がして、ほんの僅かな時間なのに苦しくなるくらいに居心地が悪い。「綾ちゃん」「えっ」それじゃあ、と声をかけてカウンターに戻ろうとしたら呼び止められてびくびくしながら後ろを振り向いた。「今日、終わったら一緒に帰ろうよ」「えっ、でも。駅と片山さんのおうちと、反対方向じゃ」「いいでしょ、送るよ」「いえ、あの……」狼狽えながらも断り文句を探しているうちに、彼は重ねて言葉をつなぐ。「いいでしょ、俺も綾ちゃんとちゃんと話す時間がほしいだけ」そう言われると、自分が余りにも幼い理由で逃げているだけのように感じてまた、言葉を失った。カウンターに戻った私が、余程憔悴した顔をしていたのだろうか。一瀬さんが少し首を傾げて言った。「どうかしましたか?」「いえっ、大丈夫です! マスター、お食事行ってください!」慌てて笑顔でそう言ったけれど、わざとらしく取り繕ったように見えてしまったのかもしれない。無言で、珈琲を淹れてくれるのを見て、『あ、私の分だ』と、すぐにわかった。案の定、暫くカウンターで立ってグラスを磨いたりしていると作業台にカップを置き「どうぞ」と一言。「……ありがとうございます」一瀬さんの感情の読み取りにくい表情を、最初はすごく怖いと思ったけれど。今は逆に、安心してしまう。厨房へと入っていく背中を目で追いながら、私は珈琲の香りを深く吸い込み唇をつけた。ここで働くまで、珈琲がこんなに美味しいとは思わなかった。どちらかというと少し苦手で、砂糖やミルクを多めにいれて甘くしないと飲めなかったのに、今ならブラックでだって美味しく飲める。それだけじゃない。少しイライラした時や焦った時、落ち込んだ時、一瀬さんが度々淹れてくれる珈琲がなんだか安定剤代わりになっているような気がするくらい。香りを深く吸い込むと、どんなに波立って心も次第に凪いでゆく。そんな風に、感じるようになっていた。「顔はあんなに無表情なのにな」仏頂面で口を真一文字に結んだ怖い顔で淹れているのに。そう思ったら、なんだか少し可笑しくて「ぷぷ」と笑いながら、また一口珈琲を味わった。「それじゃ、お疲れ様です」閉店時刻を迎えて、少しの後片付けを手伝った後はいつもどおり一瀬さんに促されて、鞄を手に取った。一応……無視するわけ
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