里香は笑いを抑えながら録画した後、120番通報した。救急車はすぐに到着した。救急車の中で、里香はメモに書いてある連絡先に電話をかけた。おばあさんが道に迷って怪我をしたという知らせを聞いたら、相手は「すぐに向かいますので、到着するまで少しの間、彼女のそばにいてあげてください」と返信してくれた。里香はわかったと答えた。電話を切ると、二宮奥様はすぐ雅之に電話をかけた。「もしもし?」雅之の冷たい声が電話の向こうから聞こえてきた。「おばあさんが道に迷って、今は病院にいるんだけど、雅之は近くにいるよね?おばあさんの様子を見に行ってくれない?私もすぐにそちらに着くから」雅之は眉をひそめた。「どういうことだ?」「詳しいことはわからないの、いいから早く行って」「分かった」雅之は電話を切ると、立ち上がって病院に向かった。病院の中で、足を検査した結果、おばあさんは軽い骨折をしており、治療のため入院が必要であることが判明した。おばあさんは里香の手をしっかりと握り、年老いた顔に苦しげな表情を浮かべて言った。「孫の嫁さん、足が痛いのよ」里香は少し困った顔で「おばあちゃん、私はあなたの孫の嫁じゃありませんよ」と答えると、おばあさんは子供のように頑固に言い張っていた。「いや、あなたのことだよ。何と言われようと、あなたは私の孫嫁なんだから!」「はい、はい、とりあえず落ち着いてくださいね」おばあさんが興奮し過ぎて体調を崩さないように、里香は急いで落ち着かせようとした。おばあさんが微笑んだ。「どうして私のところに来てくれないの?あの薄情な孫と同じだね。誰も、私に会いに来てくれないの!」里香は微笑んで何も言わなかった。ちょうどその時、病室のドアが開かれ、二人は同時にドアのほうに目を向けた。相手を見ると、里香は目を丸くした。二宮雅之!何で彼はここにいたか?「なぜここに?」雅之は里香を見て眉をひそめた。里香が何か言い出す前に、おばあさんは厳しい表情で雅之を叱りつけた。「雅之、言葉遣いには気をつけなさい!嫁を大切にするのよ!脅かしてはいけないわ!彼女に謝りなさい」二宮雅之「…」このおばあさんが雅之のおばあちゃんだったなんて!里香は「ざまあみろ」と言いたげな視線を雅之に投げかけ、彼の謝罪を待っていた。二人の
そんなこと、こちらが聞きたいくらいだよ!説明しようとしたけれど、雅之の冷たい瞳に見つめられると、里香はふと気づいた。どれだけ説明しても、雅之が信じてはくれないということを。信じられない。記憶を取り戻すだけで、どうして人はこれほどまでに変わるのだろう?それとも、これまで彼女が知っていた雅之は、本当の彼ではなかったのだろうか?「痛い!」手首が痛むのを感じて、里香は眉をひそめた。ほとんど無意識に、雅之は彼女の手を離した。里香の肌は白く、少し力を加えると跡がついてしまう。実際、彼女の手首には指の跡がいくつか残っていた。このような指の跡は、これまでよく里香の腰についていたものだ。雅之の瞳の色が少し暗くなった。「僕は過去の一年間の恩義に免じて、君に手を出すことなく耐えてきたんだ。これ以上追い詰めないでほしい」「それで?何するつもりなの?」里香は澄み切った瞳で彼を睨みつけた。「私を殺す気?できるもんなら、やってみろよ!」里香の目にうるんだ涙の輝きと頑固さを見て、雅之は突然胸が痛くなった。病室のドア前には、緊迫した空気が漂っていた。里香はニヤリと笑って口角を上げた。「雅之、私たちは離婚しないわ。おばあちゃんは私のことを孫の嫁としか見ていないから、私たちを引き裂けるものなんていないのよ!」雅之は全身から寒気を発しながら里香に近づいてきた。里香はすぐさま後ずさり、「何するつもり?殴るの?そんなことしたら、おばあちゃんに言いつけるからね!」と警告した。二宮雅之は呆れた顔で絶句した。この女が何を考えているのか理解できなかった。離婚なんて悪いことでもないのに。彼女が望む条件であれば、何でも満たしてあげるつもりだったのに。雅之はイライラしていたが、このイライラが里香が離婚を拒否したからだけではないことを彼は知っていた。「雅之」その時、廊下の先に一人の美しい中年の女性が現れた。その女性は雅之の継母である由紀子だった。二人に近づいてきた由紀子は、里香の顔を見るなり驚いた表情を浮かべ、「あなたが雅之さんの奥さん、小松里香さんですよね?」と尋ねた。里香は「私のことをご存知ですか?」と驚いた。由紀子は優しく微笑みながら、「雅之を見つけた時、あなたと雅之が一緒にスーパーを歩いているのを目撃しましたよ。二人の仲の
雅之が話すより先に、二宮おばあさんが怒り出した。「離婚?いやいや、それは絶対にダメ!こんなに可愛い孫嫁を離婚なんてさせるわけにはいかないわ。おばあちゃんが許さないからな!」二宮おばあさんは雅之の手を握り、老いた顔には不満が満ちていました。「もしこの子と離婚するなら、おばあちゃんは泣くわよ、本気で泣くわよ…」そう言いながら、二宮おばあさんは本当に泣き出した。突然すぎる出来事に、誰一人として反応できなかった。雅之の目に驚きがちらつき、おばあさんが一層激しく泣き出すのを見て、このままでは体調を崩してしまうのではないかと心配になり、慌てて慰めの言葉をかけた。「おばあさん、その話はなかったことにしよう」泣き声は一瞬で止まった。「本当?」「本当だよ」「それでは、夜にこの子を家に連れてきて、家族に孫の嫁さんを紹介しないとね!」二宮雅之は絶句した。二宮おばあさんは甘えん坊みたいに、「約束してくれなきゃ、泣いちゃうわよ!」と脅してきた。紀子は思わず微笑んだ。「おばあさんはこの子のことをとても気に入っていらっしゃるわね。雅之、結婚ってとても大切なことだから、よく考えておくといいわよ」雅之は薄い唇を真っ直ぐに引き締めた。さっきからずっとそばで見守っていた里香は、思わず胸がきゅんと締まった。面識もないおばあさんにこんなに可愛がられているのに、雅之は自分との離婚を考えているのだ。あの女の子は一体何者なんだろう。記憶を取り戻したばかりの雅之が、そこまで魅了されるなんて。雅之とあの女の子との間には、一体どんな過去があったのだろうと気になってしまう。二宮おばあさんを落ち着かせると、雅之は里香に向かって言葉を発した。「行こう」里香はまつ毛をぱちくりとさせ、二宮おばあさんに別れを告げた。「おばあさん、ゆっくりお休みください。時間ができたら、またお見舞いに伺いますね」二宮おばあさんは里香を見つめて頷いた。「必ず来てね」「はい」里香の心はいつの間にか柔らかくなっていた。こんなおばあさん、本当に可愛い!病院を出た後、雅之は先に切り出した。「まだ用事があるだろ、ついてくんな」里香はぽかんとした表情を浮かべていた。雅之は自分を家に連れて行きたがらない。そんなに家族に会わせたくないのだろうか。「どうしても行かなくて
「おいで」冷たい短い二言が放たれ、電話は切れた。まだ何も言っていないのに!里香は画面が真っ暗なスマホを見て、歯をむき出している。くそったれ!記憶喪失のときよりずっとかわいくない。住宅ビルに降りて、夕暮れの太陽が里香の体を包み込み、暖かいオレンジ色の光が彼女を照らし、髪の毛まで光っているようだ。ただし、車の横にいる人が雅之ではないとわかったとたん、里香の笑顔は消えてしまった。「雅之は?」里香は車に近づいて尋ねると、桜井は「社長には別の用事がありまして、代わりに私が二宮家の別荘へお迎えに上がりました」と答えた。里香の心はなぜか急に沈んでいった。両親に妻を紹介すること以上に重要なことがあるだろうか?里香は唇を噛んで、車に乗ることにした。車の中で、里香はスマホを取り出し、雅之に電話をかけてみたが、まったく出てこなかった。この野郎!里香はスマホを握りしめ、窓の外に目を向けた。窓の外に広がる景色は美しく変わっていった。冬木市の南に位置し、山と川に囲まれた二宮家の邸宅は、素晴らしい立地に恵まれている。車は黒と金色の門をくぐり抜け、一軒の洋館の前に停まった。里香のために車のドアを開けてくれた使用人も礼儀正しかった。車から降りてきた瞬間、里香の目に驚きを浮かべた。なんと立派な邸宅でしょう!二宮家については以前から耳にしていたが、実際にその姿を見たことはなかった。今になって初めて、二宮家がまるで別世界の存在であることに気づいた。「小松さん、中にどうぞ」横で注意を促す使用人の目に、一瞬、軽蔑の色が浮かんだ。里香は眉をひそめ、「私は雅之の妻なの。奥様と呼んでもらえる?」と訂正した。しかし、使用人は里香の相手もせず、振り返って去ってしまった。里香は、使用人の軽蔑的な態度に気づかないほど鈍感ではない。唇を少し噛みしめたが、とりあえず別荘に入ることにした。見知らぬ環境に少し緊張していたが、玄関に入るとすぐに小さな客間があった。「ここで少し待っていてください。坊ちゃんはすぐに戻ります」そう言い終わると、使用人が去ってしまった。里香はソファに腰を掛け、自分を落ち着かせようとして手を膝に置いた。大丈夫だよ、ただの使用人に過ぎないから。二宮家の態度を代表しているわけではない。その時
由紀子は笑ってあの子に挨拶した。「夏実ちゃん、よく来てくれたね。道路で渋滞はなかった?」夏実は白いドレスを身にまとい、長い黒髪を肩にかけ、礼儀正しい様子から上品な雰囲気を放っている。「おばちゃん、渋滞には遭わなかったわ。雅之の運転技術がとても優れているから、あっという間にここに着いたのよ」二宮正光も声を掛けた。「ほら、手を洗ってご飯を食べましょう」なんと優しい態度だ。里香への冷たさとはまったく異なる。使用人の顔にも笑みが浮かんだ。「今日は夏実さんのために、特別に好物の料理をたくさん用意しましたよ」それまで気まずかった雰囲気が、夏実が登場したことで一気に和らいできた。里香は傍らに立ち尽くし、呆然と目の前の光景を見つめていた。自分は歓迎されていなかった。みんな、夏実をひいきしているんだ。そのとき初めて、里香が二宮家に訪れることを許してくれた雅之の考えを理解したような気がした。雅之は、里香が二宮家に気に入られていないし、歓迎されているわけでもないことを伝えようとしているのだ!この上ない残酷なやり方で。きちんと身なりを整え、二宮家に受け入れられ、好かれることを夢見ていた自分が馬鹿らしい。里香は爪が肌に深く食い込むほどに拳を握りしめ、手のひらから伝わる鋭い痛みが冷静を保つよう警告してくれた。雅之の暗い視線が里香の青ざめた顔にとどまり、心の底にイライラが走った。「手を洗って、食事をしよう」と言った。今は食事をする気分じゃないのに。「私は…」「あなたが小松里香さんですよね?」その時、夏実がこちらに目を向け、顔に笑みを浮かべて里香に近づいた。「あなたのことは知っている。ずっとお礼を言いたかったの。この1年間、雅之をお世話してくれて、本当にありがとう」本当に感謝の気持ちが込められているかのように、夏実の目はとても澄んで清らかだ。その瞬間、里香は自己嫌悪に襲われた。自分は他人の恋愛関係に割り込んで、しかも身を引かない卑怯な第三者だった。「いいえ、私は別に」里香は乾いた声で答えた。二人で洗面台で手を洗うために洗面所に入ると、里香は目を落とし、夏実のスカートの裾から伸びる足に視線を移した瞬間、瞳孔が激しく収縮した。彼女の一本の足は、義足だった!里香の視線に気づいたようで、夏実は柔らか
「どうした?食事をするのに、何度も促されないといけないの?」後ろから雅之の低く重厚な声が聞こえた。里香は目を開けて雅之を見つめた。「私はあなたに何も悪いことをしたわけではないよね?」雅之は眉をひそめた。「何を言っているんだ?」里香は苦笑いを浮かべた。「笑顔、ひとつもくれないの?」雅之の薄い唇が一直線に引き締まった。里香は雅之の方に歩み寄った。「離婚したくないなんて、それほど大した恨みでもないよね?」里香は瞳がきらめき、雅之の漆黒の瞳から自分の姿を見つけようとした。しかし、雅之の瞳底にはもはや優しさではなく、冷たさしか広がっていた。雅之は、夏実に対して責任を取らなければならないと言った。この一年間の努力と、愛し合った瞬間が、まるで冗談みたいになってしまう。雅之は、里香の目から光が消え去るのを黙って見守っていた。そして、里香がようやく口にした言葉は「いいわ、離婚しましょう」とだった。こんな雅之を無理やり引き戻しても意味がない。里香が愛したのは、あの優しくて思いやりがあり、彼女のことだけを考えてくれるまさくんのことだ。記憶を取り戻したこの男は、二宮雅之に変わってしまい、もう里香のまさくんじゃなかった。男の横を通り過ぎろうとしたところ、雅之に手首を掴まれた。里香は息を呑み、長いまつげが震えた。「まだ何が?」雅之は薄い唇を少し動かせ、しばらくしてから声を発した。「本気で言ってるの?」里香は暗い目を閉じた。「笑えるわね、これっぽっちの信頼もなくなってしまって」その言葉を残して、里香は手を引き抜いて、トイレから出て行った。二宮家を出る前に、念のため由紀子に声をかけておいた。由紀子は驚いた様子だった。「あの子はどうしたの?顔色が悪かったけど」「貧乏くさい女だ、うちには合わない」夏実の瞳がちらりと光ったが、何も言わなかった。隣の男に目を向けると、眉をひそめた雅之は全身に漂う寒気が一層濃くなっているのがわかった。「雅之、ご飯の時間だよ」夏実は雅之に優しく声を掛けた。「うん」雅之は頷いて夏実の隣に座った。「あなたの一番好きな料理なのよ」「ありがとう」料理を取ってくれた夏美に、二宮雅之は淡々と返事して、箸を取って食事を始める。次の瞬間、頭をよぎる一つの光景があった。
空中に浮かんだ里香は無意識のまま彼を抱きしめ、その澄んだ瞳に驚きの光が宿った。これは…どういう意味なのか?雅之は里香の視線を無視し、車に乗せた後、簡易な救急箱を取り出し、足の怪我を手当てし始めた。里香は彼の一連の行動を見つめ、まるで幻覚を見ているかのような感覚に陥り、まさくんを見ているような気がした。まさくんだ。「まさくん…」「勘違いするな」と雅之は低い声で彼女の言葉を遮った。「ただ、些細なことで離婚を後悔するのが怖いだけだ」バケツの冷水を浴びせられたかのような気分に襲われ、里香の心は一気に冷え切ってしまった。なるほど。里香が後悔しないか心配しているんだね。ふっ!里香は足を引き戻し、「心配しないで。私は言ったことを撤回しないから」と答えた。しかし、細い足首は男の冷たい指に挟まれ、動けなくなってしまった。抵抗しようとしたところ、逆にスカートの裾がめくれ上がり、すらりとした華奢な脚が少し露わになった。そのわずかに見える足がさらなる色気を醸し出していた。雅之の視線は里香の長い脚に留まった。その角度からは、里香の脚がはっきりと見えていた。里香はすぐにスカートを下ろし、その色白な顔を赤く染めて、「何を見ているんだ、このスケベ」と叱った。「ふっ」雅之は軽く嗤い、目を上げ、暗い視線を彼女の顔に落とし、指に力を入れ、そのまま里香を自分の前に引き寄せた。里香は驚きの声を上げ、無意識に両手を彼の肩に置いた。「私たちは今、まだ夫婦なんだ。スケベと呼ばれるのは少し不適切ではないか?」雅之は彼女の美しい顔を見つめた。「それに、僕はスケベ呼ばわりされるようなことをしたのか?」目の前の男は、里香にとって見知らぬ人のようだった。顔は相変わらずその顔だが、その深い目は誘惑の笑みを帯び、口元には邪魅なカーブが描かれ、全体的に邪気が増していた。これこそが雅之の本当の顔だった。里香は彼を見つめ、瞳を一瞬きらりと光らせた。「何をしたのかって?自分自身に聞いたら?」里香の視線は、自分の足首を握っている雅之の手に落ちた。その長い指は、今、彼女の柔らかい肌を意図的に、あるいは無意識に撫でている。雅之はニヤリと笑い、彼女を見つめてしばらく考え、何かを思い出したようで、息を吹きかけた。車のドアは大き
雅之の呼吸は一瞬重くなった。里香を見つめる漆黒の瞳に込められた感情は理解しがたいものだった。里香は振り返り、靴を手に持ち、一歩一歩前に進んでいった。「車に乗れ」背後から再び男の低くて磁性的な声が聞こえた。里香の目には苦々しい表情が浮かんだ。「まさか、離婚を撤回するつもりじゃないだろうね?」そうだとしたら、雅之を助けるために義足をつけた夏実に申し訳ないだろう。「ここは二宮家の土地だ。誰かに足を引きずってここから出ていく姿を見られたら、家族の名誉に傷がつく」雅之は冷たい言葉を投げた。里香は長い睫毛を震わせ、笑いたくなった。雅之が本気で離婚したいわけじゃないと思った自分がバカだった。「里香、君も言っただろう、僕たちには大した恨みはない」雅之は里香の言葉をそのまま返した。里香の指は一瞬強く握られたが、すぐに車に乗り込んだ。里香が戻ってくるのを見て、なぜか雅之の心は一瞬緩んだ。感情を抑えて、運転席に座った。バックミラーを見ると、里香は無言で後部座席に座って、まるで活力を失ったかのようだった。「前に座れ」雅之は低い声で命令した。里香は彼を見た。「雅之、そんなひどいことを本気で言ってるの?足が痛いんだよ!」里香の足が擦りむけていることを知りながら、そんな面倒なことをさせるなんて。雅之は片手をハンドルにかけ、美しい指を無造作に落とし、黙ったまま車を発進させなかった。雰囲気は少し気まずかった。クソ野郎!里香は心の中で罵りながら、仕方なくドアを開けて助手席に乗った。それを見て雅之はやっと車を発進させ、前へと進んだ。道中、二人は言葉を交わさなかった。住宅街の入口に着くと、里香は「明日の朝9時、区役所の前で会おう」と言った。言い終えると、雅之の顔を見ることなくドアを開けて去った。里香はまるで洪水が追いかけているかのように早く去っていった。雅之の薄い唇は一直線に引き締まり、彼女の姿が見えなくなるまで目を離さなかった。車内からタバコを取り出し、一本を取り出し、点火した。淡い青の煙が車内に漂い、雅之の表情はますます陰鬱で冷たくなっていった。…里香は家に帰り、まず足の傷を処理し、それから結婚証明書を探し出した。結婚証明書の字が目に突き刺さり、涙が浮かんだ。証明書を取った時、里香は「この人と一生を共にするんだ」と考えていた。里香
「わかった」哲也が了承すると、里香はためらうことなく、すぐに出発した。夜が深まり、里香は車を走らせ、カエデビルを離れた。常に里香を影で守っているボディーガードは、すぐにこのことを雅之に伝えた。雅之は書斎に座り、部下の報告を聞くと、表情を一瞬固めて、「増員して里香を追いなさい」と言った。「かしこまりました。では、明日の法廷の方はどうなさいますか?」ボディーガードに尋ねられると、雅之は淡い微笑みを浮かべながら、「もちろん、法廷には出席するよ」と答えた。ボディーガードは一瞬言葉を失い、「本当に策略家だな」と心の中で呟いた。冬木から安江町まで車で約7時間。里香はほとんど一晩中眠れず、ホームに着く頃には、すっかり明るくなっていた。ホームのドアをノックすると、しばらくして哲也が出てきて、顔色の悪い里香を見て「疲れてるようだね、早く中に入って」と言った。頭がずきずきと痛んでいたが、時間がないため、すぐに幸子に会いに行こうと急いでいた。「院長はどこ?」里香が尋ねると、哲也は「奥の倉庫に隠しておいたよ、誰にも見つからないように」と答え、里香を連れて倉庫に向かった。倉庫の扉が開くと、咳き込む音が響いた。中には雑物が積み込まれていて、幸子は簡易ベッドに仮住まいしていた。誰かが入ってくるのを見て、幸子は目を細め、「あなた!」と言った。入ってきたのが里香だとわかると、幸子は目を大きく見開き、興奮した様子で「私を助けに来たのよね?」と叫んだ。里香は静かに幸子の前に立ち、思わず眉をひそめた。前に会ったときと比べて、幸子はかなり変わっていた。顔色が悪く、痩せ細った体に目立つシワ。最近、かなり厳しい生活をしていたことがはっきりとわかった。「院長、あなたを警察署から連れ出したのは誰ですか?」と里香は直接尋ねた。もともと警察署で少し苦しめるつもりだったのに、誰かに秘密裏に連れ出されてしまった。あの人は誰なのか?なぜ幸子を連れ出したのか?彼らの間には、どんな秘密が隠されているのだろう?その言葉を聞いた幸子は、目を回してから咳払いをし、「知りたいなら、私の条件を1つ聞いてくれないと教えられないわ」と言った。里香が眉をひそめると、哲也はすかさず口を挟んだ。「院長、知ってることはそのまま言ってしまえばいいじゃないですか。一体、誰に恨みを買っ
里香は一瞬固まった。そう言われてみれば、確かにそんな感じだった。でも、それが彼がこんな行動をする理由にはならない。里香は雅之の気迫を避けながら、深呼吸をして自分を落ち着かせようとして言った。「あれは病気のせいよ。病気は治るものだから」雅之はじっと里香を見つめた。「それで?僕を受け入れる気はないか?」「ない」里香は少しもためらうことなく答えた。雅之の呼吸が一瞬止まった。その瞳の色はますます暗くなり、まるで明けない夜のようだった。「里香、知ってるか?お前が何を考えてるのかなんて気にせず、お前の気持ちも無視して、そのままお前を手に入れて、ずっと僕のそばに閉じ込めたくなるんだ」しばらくして、雅之の低く魅力的な声が響いた。「お前……」里香の瞳には怒りが浮かんでいたが、それは虚しい怒りに過ぎなかった。もし雅之が本当にそんなことをしたら、自分には何もできない。反抗すら無駄だろう。「でも、お前に嫌われるのが怖いんだ」雅之は里香の頬に触れ、身をかがめて素早くその唇にキスをした。あまりにも突然だったので、里香は反応する暇もなかった。里香のまつげがひどく震えている。雅之はとっさに里香を放し、暗闇の中、彼の背中はすらっとして大きく、まっすぐエレベーターへ向かって歩いていった。エレベーターの扉が閉まるまで、里香はまるでしぼんだ風船のように力が抜けていった。急いで部屋のドアを開け、足早に中に入ると、疲れきった様子でソファに腰掛けた。明日の法廷に立つことにまったく自信が持てなかった。雅之が出廷しないなら、二人の関係はどうなるんだろう……イライラしながら頭を掻きむしると、突然スマホの着信音が鳴り響いた。画面を見ると、それは哲也からの電話だった。こんな時に哲也がどうして突然連絡してくるのだろう?「もしもし?」電話を取ると、哲也の深刻な声が聞こえた。「里香、幸子院長が戻ってきたよ!」里香はその言葉を聞いて、飛び上がるように立ち上がった。「いつの話?今、彼女は孤児院にいるの?」「うん、さっき外に出ると院長が倒れているのを見つけたんだ。状態が良くなくて、今は意識を失ってる。里香が院長を探しているって知ってたから、落ち着かせた後、すぐに電話をかけたんだ」里香の心臓は激しく鼓動し始めた。幸子が突然いなくなり、ま
キスは熱くて激しく、まるで里香を溶かそうとしているみたいだった。そんな攻め方に、里香の抵抗もだんだん弱くなっていった。その体がだんだん力を抜いていくのを感じた雅之は、彼女の手を放して、里香を正面に向かせた。「パシッ!」平手打ちの音が闇の中に響き渡った。暗闇の中でお互いの顔ははっきり見えない。里香の息は荒く、声も掠れて少ししゃがれていた。「セクハラで訴えることだってできるんだから」雅之は低く笑いながら答えた。「それなら、いっそのこともっと直接的に行こうか。夫婦間強姦で訴えさせた方がスッキリするんじゃない?」「……あなたって人は」里香は言葉に詰まり、雅之の表情は見えなかったが、周りの空気が冷たくて危険な雰囲気を漂わせているのを感じた。これ以上彼を怒らせるべきじゃないと思った。唇を引き結んで、まだ彼の唇から残っている熱を感じながら、里香は静かに言った。「お願い、もうやめてくれない?」雅之は里香の言葉をあっさり流し、「やめたら、お前にキスできなくなるじゃないか」と言い返した。里香はまた黙ってしまった。雅之は彼女の頬に触れ、ゆっくりとした口調で言った。「僕はお前にキスしたい、抱きしめたい、もっと先に進みたい。どうしたらいいと思う?」里香は彼の手を払いのけ、「それはあなたの問題でしょ?私には関係ない」と答えた。里香は体を引こうとしたが、雅之は手を出さなくても、体をピタリと寄せて、逃げ場をなくして里香を追い詰めた。「いや、関係あるさ」雅之は低い声で続けた。「お前だからこそ、お前の同意を得てこういうことをしなきゃいけない。どうなんだ?承諾してくれる?」「じゃあ、さっきのあれ、私の同意を得てやったことなの?」里香は呆れたように質問した。「いや」雅之は躊躇なく即答した。その無遠慮な態度に、里香はさらに彼を押しのけようと胸を押して、「どいてよ」と言った。雅之は里香の手首を掴みながら「どきたくない」と静かに一言。意味が分からない。こいつ、一体何がしたいのか、本当に理解できない。ただの無頼漢にしか見えない。雅之の手のひらの温もりはじわじわと里香の冷たい肌に伝わり、寒気を溶かしていった。里香の指先が少しだけ縮こまり、瞬きをした。そして、思わず言った。「明日、法廷に出るんでしょ?」雅之は小さく笑いながら、
どうしてだろう?なんで景司にあんな嫌味を言ったんだろう?全く、訳が分からない。「何考えてるの?」隣から景司の声が聞こえてきた。里香は考えを切り替え、首を振った。「別に、行こう」「うん」景司は軽く返事をした。レストランを出たところで、急に景司のスマホが鳴り出した。見ると、ゆかりからの電話だった。「もしもし、ゆかり?」電話を取ると、景司の声が自然と柔らかくなった。ゆかりは甘えるような声で、「兄さん、どこにいるの?退屈でさ、遊びに行ってもいい?」と言った。「ご飯はもう食べたのか?」「うん、食べたよ」「ホテルに戻るつもりだ」それを聞いて、ゆかりは急にしょんぼりして、「こんな早くホテルに戻るなんて、夜遊びしないの?もういい歳なんだから、お父さんとお母さんはずっと結婚急かしてるよ」って言った。景司は困ったように、でも甘やかすように笑いながら、「あれは仕方ないけど、どうしてゆかりまでお父さんとお母さんの味方になるんだ?」と返した。ゆかりはクスクスと笑いながら、「私を連れて行ってくれたら、文句言わないよ。でも、そうしないと兄さんの近況を全部お父さんとお母さんに話して、電話攻撃させるよ!」と言った。景司はすぐに、「わかったわかった、連れて行けばいいだろう。頼むからそれだけはやめてくれ」と言った。「やったー!」ゆかりは嬉しそうに声を上げ、景司は待ち合わせ場所を伝えて、後で迎えに行くと告げた。電話を切った後、景司は振り返り、里香と目が合った。里香が羨ましげにこっちを見ていることに気づき、景司の声がまた自然に柔らかくなった。「一緒に行く?ゆかりは君と同い年くらいだから、一緒に遊べるんじゃない?」里香は首を振った。「いいえ、私はしっかり休んで、明日の法廷に備えなきゃ」それに、ゆかりと知り合ってはいるけど、そんなに親しいわけでもないから、会うと気まずくなるかもしれない。景司は無理に誘わず、「そうか、じゃあ車の運転には気をつけてね」と言った。里香は頷き、景司に別れを告げた。車に乗り込み、景司の後ろ姿を見送る里香の心には、不思議な感覚が残っていた。さっき、景司がゆかりと電話しているのを見て、里香の心の中にちょっとした憧れが生まれた。もし自分にも景司のように妹を大切にしてくれる兄がいたら、どんなに
里香は微笑みながら言った。「元気よ、毎日忙しくてね」景司は彼女をじっと見つめながら言った。「ちょっと痩せたんじゃない?」里香は自分の顔に触れながら、「そうかな? そうだとしたら、わざわざダイエットしなくても済んだってことだね」景司はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、ふと、この会話があまりにも親密すぎることに気づいた。妹がやりたいことを思い出すと、心の中で少しため息をついた。そして二人の弁護士たちを見て、「じゃあ、みなさんで話してください。俺は邪魔しないように」と言い、立ち上がろうとした。「大丈夫よ」と里香が言った。なぜか分からないけど、景司にはここにいてほしかった。これから聞く話を一緒に聞いてほしいと思った。まるで頼もしい味方がそばにいるような気がして。その感覚は不思議で、あまりにも突然だった。気づけば、言葉はもう口をついて出ていた。景司は立ち上がるのをやめて、「そうだね。明日の法廷も俺が行くつもりだし、心配しないで」と言った。「うん」里香はうなずいた。弁護士たちが話し始めると、里香は真剣に耳を傾けていた。景司も時々何かを補足し、食事の時間はあっという間に過ぎていった。話が終わり、個室を出ると、隣の個室のドアが同時に開き、数人の男たちがへつらったような笑みを浮かべながら、真ん中の男を囲んで何かを話していた。視線が交差し、里香の表情が一瞬固まった。雅之が隣にいたのだ。雅之が彼女を一瞥すると、冷たく視線を外し、そのまま数人と一緒に階段を降りていった。「君たち、今どんな状態なんだ?」景司が尋ねると、里香は「見たまんまだよ。ただの形式だけ。私たちの結婚は、もう形骸化してる」と答えた。景司は彼女を見て、少し心配そうに肩に軽く手を置き、「心配しないで、終わりは必ず来るから」と言った。里香は彼にかすかに微笑んだ。その時、階段で靴音が響いてきた。思わず振り向くと、冷たく深い切れ長の目と目が合った。雅之がゆっくりとした足取りで近づいてきた。その高い背丈と整った姿は、少しも威圧感を失わず、周囲には冷たい雰囲気が漂っていた。その視線はまっすぐ景司の手に向けられていた。里香の肩を支えるその姿は、どう見ても親密な雰囲気だ。雅之は軽く眉を上げ、目線を景司の顔に移した。「今日の会議を欠席した理由ってこれだったの
雅之が急に里香の方に歩み寄り、低い声でそう言った。「じゃあ、面白いことでもしようか」そう言いながら、雅之は手を伸ばし、里香の手をとった。そのまま指紋認証ロックに押し付ける。「何してるの?」里香はその場で目を見開いて固まった。この男、またおかしな行動を始めた!雅之の僅かに冷たい指先が里香の手首に伝わり、その清冷さがじわじわと感じられる。その手は力強く、まるで義務的に持ち合わせようとしているようだ。「言っただろ?『面白いこと』って」そのとき、二人の距離は怖いほど近かった。雅之の清潔感のある香りが里香の鼻腔をくすぐる。雅之はすぐにドアを開け、そのまま部屋に入っていった。里香の警戒心が一気に高まった。雅之を刺激したくなかった里香だったが、ドアが閉まった瞬間、体を回され、ドアに押し付けられた。雅之の高い体が里香にのしかかるように並び、一歩間違えばすぐにキスされそうな勢いだった。里香はとっさに顔を一方にそらし、そのキスをかわした。雅之の熱い息が頊にかかり、一瞬、時が凝縮する感覚が里香を誘う。その唇は里香の顔にそっと接したまま、動きもせずに濃い視線を送ってくる。その視線の熱量に、里香は怖さえ覚えた。里香の長い睫毛がわずかに揺れた。そして、きっぱりと言った。「こういうの、好きじゃない」雅之はすこしだけ里香を解放し、移した距離からゆっくりと視線を合わせた。「何でだよ?」里香が答える前に、雅之は続けた。「だって、僕は何をしてても頭からお前が離れなくて、もう体中痛いくらいなんだ」里香の睫毛が再びわずかに揺れ、身体がピンと尺を固くした。そして、冷静を装って言い放った。「いやだってば」雅之は再び里香に顔を寄せた。しかし今回は無理やりキスしようとはせず、そっと額を寄せ、里香の額に触れた。そして、かすれた声で問いかけた。「なあ、里香。本当に僕のこと嫌いになったのか? 少しも気持ちは残ってないのか?」「……そう」里香は静かに答えた。しかし、心の奥底に苦い感情がかすかに走った。でも、それを表情には出さず、うまく隠した。再び、しんとした静寂が二人を包み込んだ。時間が経つほどに、じわじわと脚が疲れてきた。同じ姿勢で立ちっぱなしというのは、思いのほかきついものだ。ようやく、雅之が里香を解放した。
星野はこめかみの血管をピクピクと震わせると、無言でくるりと背を向け、そのまま歩き出した。聡は軽く笑いながら、その背中をじっと見つめる。気長にいくとしようじゃないか。里香は忙しくなり、翌日には山本名義の土地へ足を運んだ。そこは一面に広がる葡萄畑。ここにワイナリーを建てるのは、確かに悪くない選択だと思った。山本の狙いは、バカンス用のワイナリーを作ること。特に権力者の家族たちが楽しめる施設として設計されており、そのためあらゆる細部にまでこだわりが行き届いていた。里香は大まかに地形を確認し、山本が求めるイメージを掴んだ後、スタジオに戻ると、昼夜を問わず図面を描き始めた。初稿が仕上がった頃、弁護士の伊藤から電話が入り、開廷日が一週間後に決まったことを伝えられた。同じ頃、雅之も同じ開廷通知を受け取っていた。その時、彼は協力会社のメンバーと共にNo.9公館で食事をしていた。電話を切った後も、彼の端正で鋭い顔立ちには変わらず冷たい表情が浮かんでいた。指先にはタバコが挟まれ、周囲の人々は彼の機嫌をうかがいながら慎重に言葉を選んでいた。「皆さんで続けてください。自分は一足先に失礼します」タバコが燃え尽きたところで、雅之は突然立ち上がると、コートを手に取り、個室を後にした。外は冷たい風が吹き、ちらほらと雪が舞い始めていた。雅之は車に乗り込み、運転手に指示を出した。「カエデビルへ」「かしこまりました」車は静かに道路を進み、空には薄暗さが増していく。降り積もる雪は、まるで彼の心情を映すかのように冷たく、骨の髄まで凍りつくようだった。里香が地下駐車場から上がったところで、エレベーターのドアが開いた。雅之が、冷たいオーラをまといながら乗り込んできた。彼を見た瞬間、里香は一瞬動きを止め、それから無言で閉じるボタンを押した。「通知、受け取ったでしょ?」静まり返るエレベーターの中で、里香が口を開いた。「何の通知?」雅之はわざととぼけた。里香は彼を一瞥し、冷たく言った。「開廷通知よ」「ふーん、そんなの受け取ってないな」雅之は変わらず冷淡な表情を崩さない。里香は少し黙り込み、それでも開廷日時を彼に伝えた。雅之は両手をコートのポケットに突っ込み、どこか気だるそうな口調で言った。「行かない」里香:「……」開廷日が決
聡が手を洗って出てきたとき、少し離れたところに星野が立っていて、その黒く輝く瞳がじっと聡を見つめていた。聡は口元に軽く笑みを浮かべながら、「どうしたの?」と尋ねた。星野の声は少し冷たくなり、「なんでここに?」と返してきた。聡はゆっくりと歩み寄り、首を少し傾げて答えた。「あなたの上司として、社員を思いやり、社員の家族を気遣うことって、そんなにいけないこと?」星野は短く、「必要ありません」と突き放すように言った。「冷たいわねえ」と聡は言いながら、さらに数歩近づき、「でも、前にホテルで会ったときは、こんなんじゃなかったのに」と微笑んだ。すると、星野の顔色が一気に冷たくなり、「結局、あなたは何がしたいんですか?」と問い詰めるように言った。星野の警戒心満載の様子を見て、聡の目はますます楽しそうな色に変わった。「私が何を言っても、その通りにするの?」星野は唇を引き結び、何も言わなかった。聡は自分の髪をまとめながら、「じゃあ、私にキスしてみせてよ」と言った。星野の目がさらに冷たくなり、振り向いてそのまま歩き出した。聡は思わず笑いながら、「ふふ、どこまで我慢できるのかしら」と呟いた。病室に戻ると、星野の母親はすでに寝ていた。ちょうど里香が出てきたところで、二人が一緒に戻ってくるのを見た里香は、「おばさんはもうお休みになったから、私はそろそろ帰るわ」と言った。星野は「送ります」と答えた。里香は首を振り、「いいえ、大丈夫。星野くんはおばさんに付き添ってあげて」と断った。それでも星野は譲らず、「ここには看護師もいるから、大丈夫です」と言い、聡には目もくれず、勝手に里香と一緒に部屋を出て行った。「はあ……」聡は彼の背中を見つめながら腕を組み、「私と寝たくせに、まだ里香が気になるわけ?」と呟いた。ちょっと無責任なんじゃない?まあ、いいけど。たった一度だけなんて、次を重ねていけば、きっと彼も変わるでしょう。病院の外に出ると、星野は少し複雑そうな目をして里香を見つめ、「僕……」と切り出した。「うん?」里香は首を傾げて彼を見つめ、「どうしたの?」と問いかけた。星野の目には、一瞬迷いの色が見え、しばらく躊躇した後に、「小松さん、僕……」と再び言葉を継いだ。里香は彼の様子を見て、何か悩み事でも抱えて
「里香、あなたが辞めることは知ってるよ。でも、まだ辞めていないし、今もここで働いている以上、自分の仕事はきちんとやらなきゃダメだよ。このスタジオは私一人のものじゃないんだから」里香はまつ毛が少し震えた後、すぐに答えた。「うん、わかった」聡とはプライベートでは割と仲が良いけど、スタジオ内ではあくまで社長と社員の関係だ。突然退職を申し出た里香に、聡が怒らなかったのは、二人がこれまで築いてきた信頼があったからこそだ。もしこのタイミングで何もせずに辞めてしまったら、それは二人の友情を台無しにするだけだと、里香は感じていた。聡は手を伸ばして、里香の肩を軽くつかんだ。「理解してくれてありがとう」会議室に戻ると、里香はすぐに山本との契約の話を始めた。山本はある程度の資産があり、家の建設にかかる費用について特に異議はなかった。話がまとまった後、山本は手付金を支払い、里香は現地調査をして設計図を準備することになった。契約が終わった頃には、すでに退勤時間になっていた。里香は今日、星野を見かけていなかったことに少し疑問を感じた。「星野くん、どこに行ったの?」ちょうど事務所から出てきた聡に、里香は尋ねた。聡は目をしばたたきながら答えた。「休みを取ったよ。お母さんの容態が少し悪くなったみたい」それを聞いた里香は、眉間にしわを寄せた。聡は彼女の表情を見て、急にこう言った。「私、病院に行って彼のお母さんを見てくるつもりだけど、里香も一緒に来る?」「うん」里香は星野のお母さんのことが好きだったので、断る理由はなかった。二人はまず差し入れを買ってから病院に向かった。廊下には消毒液の匂いが漂っていて、里香は手を伸ばして病室のドアを軽くノックした。すぐに介護士が出てきてドアを開けると、里香を見るなり顔に笑みを浮かべた。「小松さん、いらっしゃいましたね」里香は軽く頷いて聞いた。「おばさん、もう寝ましたか?」介護士は首を横に振った。「いいえ、星野さんと話してますよ」里香と聡は一緒に部屋に入った。星野は物音が聞こえると出てきて、二人の姿を見た途端、一瞬動揺したような表情を見せた。「来てくれたんだ」里香はうなずいた。「おばさんの様子を見に来たの」「小松さん?」星野の母親は彼女の声を聞いて名前を呼んだ。「はい、私で