共有

第8話

作者: 似水
里香は「不満があってもいいですか」と桜井に目を向けて聞くと、桜井は微笑みながら「だめです」と答えた。

里香は目を白黒させ書類を受け取り、雅之のオフィスに向かった。

桜井はそれを止めたくても止められなかった。

里香はドアを押し開け、まっすぐオフィスの中に入った。

雅之はすらりとした姿でフレンチドアの前で電話をしていた。後ろからの声に、彼はちらりと振り返り、眉を寄せた。

「じゃ、これで」

雅之はそう言って電話を切った。

「勝手に入るな」

雅之は冷たい目で里香を見つめ、口調も冷たくなった。

里香は書類をテーブルの上にバンと置いた。「わざとやったんでしょう」

雅之は書類をちらりと見て、「これも君の仕事だろう?やりたくなければ、さっさと辞めたらいい。君の代わりはいくらでもいるんだ」と冷たく言った。

怒りが湧き上がってきた。

このクズ男は間違いなくわざとやったんだ!

昨夜殴られた仕返しだ!

だから、激しく抱きしめた里香を翌日、工事現場に行かせた。

憤慨しながら何も言えない里香を見て、雅之の暗い気分はなんとなく良くなった。

「出て行って、次にノックを忘れずに」

それだけを言い残し、雅之は視線を手元の仕事に戻した。

里香は雅之をじっと見つめ、両手をテーブルにつきながら上半身を前に傾け、彼に近づいて「いいわ。でも次もね、私の許可なしには抱けないのよ」と囁いた。

その言葉を残して、里香は書類を手に立ち去った。

雅之は絶句した。

こいつは何バカなことを言ったんだ。

誘ったのはそっちだろう。そうでなければ、里香を抱くはずがない。

せっかく良くなった気持ちが一瞬暗くなった。

里香が担当している商業ビルのプロジェクトは、現在工事中だった。里香は車から降り、デコボコした路面を見て、顔をしかめた。

前に向かって歩いていると、遠くないところに、戸惑ったようなおばあさんがコンクリートに座っているのが見えた。

何人かの人がおばあさんとすれ違ったが、当たり屋ではないかと疑ったのか、誰もおばあさんに近寄らなかった。

里香はおばあさんをじっくりと観察していた。おばあさんは洗練された装いで、手首には翡翠のブレスレットを着けていたため、決して当たり屋には見えなかった。

少し考えた後、里香はおばあさんのそばに寄って尋ねてみた。「おばあちゃん、どうされましたか?」

里香の顔を見るなり、おばあさんは目をキラキラと輝かせた。「あら、孫の嫁じゃない!おばあさん、道に迷ってしまって、家まで送ってくれない?」

里香は呆然と立ち尽くした。おばあさんの様子が少し変だった。もしかすると、認知症かもしれない。

里香は身を乗り出し、「おばあちゃんの家がどこにあるか覚えていますか」と尋ねると、

おばあさんは困惑した表情で、「私の家は…どこだったかしら。ねえ、ちょっと探してくれない?家がどこにあるのか忘れてしまって」と助けを求めてきた。

里香はスマホを取り出し、警察に電話しようとしたら、

おばあさんは目を輝かせてスマホを見つめた。「そうだ!スマホだわ。スマホならあるわよ」

そう言いながらおばあさんは襟元から紐で縛られたバッグを引っ張り出した。そのバッグを開けると中にスマホが入っていた。

バッグの中にはメモが入っていた。里香はそこに書いてある連絡先を見てほっとした。

「おばあちゃん、大丈夫ですか?歩けますか?」

里香が心配そうに尋ねると、おばあちゃんが苦しそうな顔をして、「足が痛くて歩けないの。ねえ、痛いところに息を吹きかけてくれない?」と甘えてきた。

里香は一瞬どんな顔をしていいか分からなかった。「とりあえず病院に連れて行きますか」

念のため、里香はスマホでビデオを撮った。「おばあちゃん、私がぶつかったんじゃないですよね」

「そうよ。この子はそんなことしていないわ」おばあさんはとても協力的だったし、カメラに向かってハートまで作ってくれた。

関連チャプター

  • 離婚後、恋の始まり   第9話

    里香は笑いを抑えながら録画した後、120番通報した。救急車はすぐに到着した。救急車の中で、里香はメモに書いてある連絡先に電話をかけた。おばあさんが道に迷って怪我をしたという知らせを聞いたら、相手は「すぐに向かいますので、到着するまで少しの間、彼女のそばにいてあげてください」と返信してくれた。里香はわかったと答えた。電話を切ると、二宮奥様はすぐ雅之に電話をかけた。「もしもし?」雅之の冷たい声が電話の向こうから聞こえてきた。「おばあさんが道に迷って、今は病院にいるんだけど、雅之は近くにいるよね?おばあさんの様子を見に行ってくれない?私もすぐにそちらに着くから」雅之は眉をひそめた。「どういうことだ?」「詳しいことはわからないの、いいから早く行って」「分かった」雅之は電話を切ると、立ち上がって病院に向かった。病院の中で、足を検査した結果、おばあさんは軽い骨折をしており、治療のため入院が必要であることが判明した。おばあさんは里香の手をしっかりと握り、年老いた顔に苦しげな表情を浮かべて言った。「孫の嫁さん、足が痛いのよ」里香は少し困った顔で「おばあちゃん、私はあなたの孫の嫁じゃありませんよ」と答えると、おばあさんは子供のように頑固に言い張っていた。「いや、あなたのことだよ。何と言われようと、あなたは私の孫嫁なんだから!」「はい、はい、とりあえず落ち着いてくださいね」おばあさんが興奮し過ぎて体調を崩さないように、里香は急いで落ち着かせようとした。おばあさんが微笑んだ。「どうして私のところに来てくれないの?あの薄情な孫と同じだね。誰も、私に会いに来てくれないの!」里香は微笑んで何も言わなかった。ちょうどその時、病室のドアが開かれ、二人は同時にドアのほうに目を向けた。相手を見ると、里香は目を丸くした。二宮雅之!何で彼はここにいたか?「なぜここに?」雅之は里香を見て眉をひそめた。里香が何か言い出す前に、おばあさんは厳しい表情で雅之を叱りつけた。「雅之、言葉遣いには気をつけなさい!嫁を大切にするのよ!脅かしてはいけないわ!彼女に謝りなさい」二宮雅之「…」このおばあさんが雅之のおばあちゃんだったなんて!里香は「ざまあみろ」と言いたげな視線を雅之に投げかけ、彼の謝罪を待っていた。二人の

  • 離婚後、恋の始まり   第10話

    そんなこと、こちらが聞きたいくらいだよ!説明しようとしたけれど、雅之の冷たい瞳に見つめられると、里香はふと気づいた。どれだけ説明しても、雅之が信じてはくれないということを。信じられない。記憶を取り戻すだけで、どうして人はこれほどまでに変わるのだろう?それとも、これまで彼女が知っていた雅之は、本当の彼ではなかったのだろうか?「痛い!」手首が痛むのを感じて、里香は眉をひそめた。ほとんど無意識に、雅之は彼女の手を離した。里香の肌は白く、少し力を加えると跡がついてしまう。実際、彼女の手首には指の跡がいくつか残っていた。このような指の跡は、これまでよく里香の腰についていたものだ。雅之の瞳の色が少し暗くなった。「僕は過去の一年間の恩義に免じて、君に手を出すことなく耐えてきたんだ。これ以上追い詰めないでほしい」「それで?何するつもりなの?」里香は澄み切った瞳で彼を睨みつけた。「私を殺す気?できるもんなら、やってみろよ!」里香の目にうるんだ涙の輝きと頑固さを見て、雅之は突然胸が痛くなった。病室のドア前には、緊迫した空気が漂っていた。里香はニヤリと笑って口角を上げた。「雅之、私たちは離婚しないわ。おばあちゃんは私のことを孫の嫁としか見ていないから、私たちを引き裂けるものなんていないのよ!」雅之は全身から寒気を発しながら里香に近づいてきた。里香はすぐさま後ずさり、「何するつもり?殴るの?そんなことしたら、おばあちゃんに言いつけるからね!」と警告した。二宮雅之は呆れた顔で絶句した。この女が何を考えているのか理解できなかった。離婚なんて悪いことでもないのに。彼女が望む条件であれば、何でも満たしてあげるつもりだったのに。雅之はイライラしていたが、このイライラが里香が離婚を拒否したからだけではないことを彼は知っていた。「雅之」その時、廊下の先に一人の美しい中年の女性が現れた。その女性は雅之の継母である由紀子だった。二人に近づいてきた由紀子は、里香の顔を見るなり驚いた表情を浮かべ、「あなたが雅之さんの奥さん、小松里香さんですよね?」と尋ねた。里香は「私のことをご存知ですか?」と驚いた。由紀子は優しく微笑みながら、「雅之を見つけた時、あなたと雅之が一緒にスーパーを歩いているのを目撃しましたよ。二人の仲の

  • 離婚後、恋の始まり   第11話

    雅之が話すより先に、二宮おばあさんが怒り出した。「離婚?いやいや、それは絶対にダメ!こんなに可愛い孫嫁を離婚なんてさせるわけにはいかないわ。おばあちゃんが許さないからな!」二宮おばあさんは雅之の手を握り、老いた顔には不満が満ちていました。「もしこの子と離婚するなら、おばあちゃんは泣くわよ、本気で泣くわよ…」そう言いながら、二宮おばあさんは本当に泣き出した。突然すぎる出来事に、誰一人として反応できなかった。雅之の目に驚きがちらつき、おばあさんが一層激しく泣き出すのを見て、このままでは体調を崩してしまうのではないかと心配になり、慌てて慰めの言葉をかけた。「おばあさん、その話はなかったことにしよう」泣き声は一瞬で止まった。「本当?」「本当だよ」「それでは、夜にこの子を家に連れてきて、家族に孫の嫁さんを紹介しないとね!」二宮雅之は絶句した。二宮おばあさんは甘えん坊みたいに、「約束してくれなきゃ、泣いちゃうわよ!」と脅してきた。紀子は思わず微笑んだ。「おばあさんはこの子のことをとても気に入っていらっしゃるわね。雅之、結婚ってとても大切なことだから、よく考えておくといいわよ」雅之は薄い唇を真っ直ぐに引き締めた。さっきからずっとそばで見守っていた里香は、思わず胸がきゅんと締まった。面識もないおばあさんにこんなに可愛がられているのに、雅之は自分との離婚を考えているのだ。あの女の子は一体何者なんだろう。記憶を取り戻したばかりの雅之が、そこまで魅了されるなんて。雅之とあの女の子との間には、一体どんな過去があったのだろうと気になってしまう。二宮おばあさんを落ち着かせると、雅之は里香に向かって言葉を発した。「行こう」里香はまつ毛をぱちくりとさせ、二宮おばあさんに別れを告げた。「おばあさん、ゆっくりお休みください。時間ができたら、またお見舞いに伺いますね」二宮おばあさんは里香を見つめて頷いた。「必ず来てね」「はい」里香の心はいつの間にか柔らかくなっていた。こんなおばあさん、本当に可愛い!病院を出た後、雅之は先に切り出した。「まだ用事があるだろ、ついてくんな」里香はぽかんとした表情を浮かべていた。雅之は自分を家に連れて行きたがらない。そんなに家族に会わせたくないのだろうか。「どうしても行かなくて

  • 離婚後、恋の始まり   第12話

    「おいで」冷たい短い二言が放たれ、電話は切れた。まだ何も言っていないのに!里香は画面が真っ暗なスマホを見て、歯をむき出している。くそったれ!記憶喪失のときよりずっとかわいくない。住宅ビルに降りて、夕暮れの太陽が里香の体を包み込み、暖かいオレンジ色の光が彼女を照らし、髪の毛まで光っているようだ。ただし、車の横にいる人が雅之ではないとわかったとたん、里香の笑顔は消えてしまった。「雅之は?」里香は車に近づいて尋ねると、桜井は「社長には別の用事がありまして、代わりに私が二宮家の別荘へお迎えに上がりました」と答えた。里香の心はなぜか急に沈んでいった。両親に妻を紹介すること以上に重要なことがあるだろうか?里香は唇を噛んで、車に乗ることにした。車の中で、里香はスマホを取り出し、雅之に電話をかけてみたが、まったく出てこなかった。この野郎!里香はスマホを握りしめ、窓の外に目を向けた。窓の外に広がる景色は美しく変わっていった。冬木市の南に位置し、山と川に囲まれた二宮家の邸宅は、素晴らしい立地に恵まれている。車は黒と金色の門をくぐり抜け、一軒の洋館の前に停まった。里香のために車のドアを開けてくれた使用人も礼儀正しかった。車から降りてきた瞬間、里香の目に驚きを浮かべた。なんと立派な邸宅でしょう!二宮家については以前から耳にしていたが、実際にその姿を見たことはなかった。今になって初めて、二宮家がまるで別世界の存在であることに気づいた。「小松さん、中にどうぞ」横で注意を促す使用人の目に、一瞬、軽蔑の色が浮かんだ。里香は眉をひそめ、「私は雅之の妻なの。奥様と呼んでもらえる?」と訂正した。しかし、使用人は里香の相手もせず、振り返って去ってしまった。里香は、使用人の軽蔑的な態度に気づかないほど鈍感ではない。唇を少し噛みしめたが、とりあえず別荘に入ることにした。見知らぬ環境に少し緊張していたが、玄関に入るとすぐに小さな客間があった。「ここで少し待っていてください。坊ちゃんはすぐに戻ります」そう言い終わると、使用人が去ってしまった。里香はソファに腰を掛け、自分を落ち着かせようとして手を膝に置いた。大丈夫だよ、ただの使用人に過ぎないから。二宮家の態度を代表しているわけではない。その時

  • 離婚後、恋の始まり   第13話

    由紀子は笑ってあの子に挨拶した。「夏実ちゃん、よく来てくれたね。道路で渋滞はなかった?」夏実は白いドレスを身にまとい、長い黒髪を肩にかけ、礼儀正しい様子から上品な雰囲気を放っている。「おばちゃん、渋滞には遭わなかったわ。雅之の運転技術がとても優れているから、あっという間にここに着いたのよ」二宮正光も声を掛けた。「ほら、手を洗ってご飯を食べましょう」なんと優しい態度だ。里香への冷たさとはまったく異なる。使用人の顔にも笑みが浮かんだ。「今日は夏実さんのために、特別に好物の料理をたくさん用意しましたよ」それまで気まずかった雰囲気が、夏実が登場したことで一気に和らいできた。里香は傍らに立ち尽くし、呆然と目の前の光景を見つめていた。自分は歓迎されていなかった。みんな、夏実をひいきしているんだ。そのとき初めて、里香が二宮家に訪れることを許してくれた雅之の考えを理解したような気がした。雅之は、里香が二宮家に気に入られていないし、歓迎されているわけでもないことを伝えようとしているのだ!この上ない残酷なやり方で。きちんと身なりを整え、二宮家に受け入れられ、好かれることを夢見ていた自分が馬鹿らしい。里香は爪が肌に深く食い込むほどに拳を握りしめ、手のひらから伝わる鋭い痛みが冷静を保つよう警告してくれた。雅之の暗い視線が里香の青ざめた顔にとどまり、心の底にイライラが走った。「手を洗って、食事をしよう」と言った。今は食事をする気分じゃないのに。「私は…」「あなたが小松里香さんですよね?」その時、夏実がこちらに目を向け、顔に笑みを浮かべて里香に近づいた。「あなたのことは知っている。ずっとお礼を言いたかったの。この1年間、雅之をお世話してくれて、本当にありがとう」本当に感謝の気持ちが込められているかのように、夏実の目はとても澄んで清らかだ。その瞬間、里香は自己嫌悪に襲われた。自分は他人の恋愛関係に割り込んで、しかも身を引かない卑怯な第三者だった。「いいえ、私は別に」里香は乾いた声で答えた。二人で洗面台で手を洗うために洗面所に入ると、里香は目を落とし、夏実のスカートの裾から伸びる足に視線を移した瞬間、瞳孔が激しく収縮した。彼女の一本の足は、義足だった!里香の視線に気づいたようで、夏実は柔らか

  • 離婚後、恋の始まり   第14話

    「どうした?食事をするのに、何度も促されないといけないの?」後ろから雅之の低く重厚な声が聞こえた。里香は目を開けて雅之を見つめた。「私はあなたに何も悪いことをしたわけではないよね?」雅之は眉をひそめた。「何を言っているんだ?」里香は苦笑いを浮かべた。「笑顔、ひとつもくれないの?」雅之の薄い唇が一直線に引き締まった。里香は雅之の方に歩み寄った。「離婚したくないなんて、それほど大した恨みでもないよね?」里香は瞳がきらめき、雅之の漆黒の瞳から自分の姿を見つけようとした。しかし、雅之の瞳底にはもはや優しさではなく、冷たさしか広がっていた。雅之は、夏実に対して責任を取らなければならないと言った。この一年間の努力と、愛し合った瞬間が、まるで冗談みたいになってしまう。雅之は、里香の目から光が消え去るのを黙って見守っていた。そして、里香がようやく口にした言葉は「いいわ、離婚しましょう」とだった。こんな雅之を無理やり引き戻しても意味がない。里香が愛したのは、あの優しくて思いやりがあり、彼女のことだけを考えてくれるまさくんのことだ。記憶を取り戻したこの男は、二宮雅之に変わってしまい、もう里香のまさくんじゃなかった。男の横を通り過ぎろうとしたところ、雅之に手首を掴まれた。里香は息を呑み、長いまつげが震えた。「まだ何が?」雅之は薄い唇を少し動かせ、しばらくしてから声を発した。「本気で言ってるの?」里香は暗い目を閉じた。「笑えるわね、これっぽっちの信頼もなくなってしまって」その言葉を残して、里香は手を引き抜いて、トイレから出て行った。二宮家を出る前に、念のため由紀子に声をかけておいた。由紀子は驚いた様子だった。「あの子はどうしたの?顔色が悪かったけど」「貧乏くさい女だ、うちには合わない」夏実の瞳がちらりと光ったが、何も言わなかった。隣の男に目を向けると、眉をひそめた雅之は全身に漂う寒気が一層濃くなっているのがわかった。「雅之、ご飯の時間だよ」夏実は雅之に優しく声を掛けた。「うん」雅之は頷いて夏実の隣に座った。「あなたの一番好きな料理なのよ」「ありがとう」料理を取ってくれた夏美に、二宮雅之は淡々と返事して、箸を取って食事を始める。次の瞬間、頭をよぎる一つの光景があった。

  • 離婚後、恋の始まり   第15話

    空中に浮かんだ里香は無意識のまま彼を抱きしめ、その澄んだ瞳に驚きの光が宿った。これは…どういう意味なのか?雅之は里香の視線を無視し、車に乗せた後、簡易な救急箱を取り出し、足の怪我を手当てし始めた。里香は彼の一連の行動を見つめ、まるで幻覚を見ているかのような感覚に陥り、まさくんを見ているような気がした。まさくんだ。「まさくん…」「勘違いするな」と雅之は低い声で彼女の言葉を遮った。「ただ、些細なことで離婚を後悔するのが怖いだけだ」バケツの冷水を浴びせられたかのような気分に襲われ、里香の心は一気に冷え切ってしまった。なるほど。里香が後悔しないか心配しているんだね。ふっ!里香は足を引き戻し、「心配しないで。私は言ったことを撤回しないから」と答えた。しかし、細い足首は男の冷たい指に挟まれ、動けなくなってしまった。抵抗しようとしたところ、逆にスカートの裾がめくれ上がり、すらりとした華奢な脚が少し露わになった。そのわずかに見える足がさらなる色気を醸し出していた。雅之の視線は里香の長い脚に留まった。その角度からは、里香の脚がはっきりと見えていた。里香はすぐにスカートを下ろし、その色白な顔を赤く染めて、「何を見ているんだ、このスケベ」と叱った。「ふっ」雅之は軽く嗤い、目を上げ、暗い視線を彼女の顔に落とし、指に力を入れ、そのまま里香を自分の前に引き寄せた。里香は驚きの声を上げ、無意識に両手を彼の肩に置いた。「私たちは今、まだ夫婦なんだ。スケベと呼ばれるのは少し不適切ではないか?」雅之は彼女の美しい顔を見つめた。「それに、僕はスケベ呼ばわりされるようなことをしたのか?」目の前の男は、里香にとって見知らぬ人のようだった。顔は相変わらずその顔だが、その深い目は誘惑の笑みを帯び、口元には邪魅なカーブが描かれ、全体的に邪気が増していた。これこそが雅之の本当の顔だった。里香は彼を見つめ、瞳を一瞬きらりと光らせた。「何をしたのかって?自分自身に聞いたら?」里香の視線は、自分の足首を握っている雅之の手に落ちた。その長い指は、今、彼女の柔らかい肌を意図的に、あるいは無意識に撫でている。雅之はニヤリと笑い、彼女を見つめてしばらく考え、何かを思い出したようで、息を吹きかけた。車のドアは大き

  • 離婚後、恋の始まり   第16話

    雅之の呼吸は一瞬重くなった。里香を見つめる漆黒の瞳に込められた感情は理解しがたいものだった。里香は振り返り、靴を手に持ち、一歩一歩前に進んでいった。「車に乗れ」背後から再び男の低くて磁性的な声が聞こえた。里香の目には苦々しい表情が浮かんだ。「まさか、離婚を撤回するつもりじゃないだろうね?」そうだとしたら、雅之を助けるために義足をつけた夏実に申し訳ないだろう。「ここは二宮家の土地だ。誰かに足を引きずってここから出ていく姿を見られたら、家族の名誉に傷がつく」雅之は冷たい言葉を投げた。里香は長い睫毛を震わせ、笑いたくなった。雅之が本気で離婚したいわけじゃないと思った自分がバカだった。「里香、君も言っただろう、僕たちには大した恨みはない」雅之は里香の言葉をそのまま返した。里香の指は一瞬強く握られたが、すぐに車に乗り込んだ。里香が戻ってくるのを見て、なぜか雅之の心は一瞬緩んだ。感情を抑えて、運転席に座った。バックミラーを見ると、里香は無言で後部座席に座って、まるで活力を失ったかのようだった。「前に座れ」雅之は低い声で命令した。里香は彼を見た。「雅之、そんなひどいことを本気で言ってるの?足が痛いんだよ!」里香の足が擦りむけていることを知りながら、そんな面倒なことをさせるなんて。雅之は片手をハンドルにかけ、美しい指を無造作に落とし、黙ったまま車を発進させなかった。雰囲気は少し気まずかった。クソ野郎!里香は心の中で罵りながら、仕方なくドアを開けて助手席に乗った。それを見て雅之はやっと車を発進させ、前へと進んだ。道中、二人は言葉を交わさなかった。住宅街の入口に着くと、里香は「明日の朝9時、区役所の前で会おう」と言った。言い終えると、雅之の顔を見ることなくドアを開けて去った。里香はまるで洪水が追いかけているかのように早く去っていった。雅之の薄い唇は一直線に引き締まり、彼女の姿が見えなくなるまで目を離さなかった。車内からタバコを取り出し、一本を取り出し、点火した。淡い青の煙が車内に漂い、雅之の表情はますます陰鬱で冷たくなっていった。…里香は家に帰り、まず足の傷を処理し、それから結婚証明書を探し出した。結婚証明書の字が目に突き刺さり、涙が浮かんだ。証明書を取った時、里香は「この人と一生を共にするんだ」と考えていた。里香

最新チャプター

  • 離婚後、恋の始まり   第667話

    雅之が電話を取った瞬間、表情が一変し、顔が冷たく引き締まった。そして桜井に目を向け、低く鋭い声で命じた。「すぐに聡に連絡して里香の居場所を特定させろ。仲間も集めてくれ」桜井は一瞬戸惑った表情を見せる。「でも、社長、株主総会がもうすぐ始まります。このタイミングで抜けるのは……」「いいから早く行け!」雅之の声には明らかな焦りがにじんでいた。彼はその時すでに二宮グループのビルの正面に立っており、迷うことなく車に乗り込むと、エンジンをかけて猛スピードで走り出した。向かう先は――あの場所だった。あの場所……一度封じ込めたはずの記憶が、脳裏をえぐるように蘇った。誘拐され、廃工場に閉じ込められた、あの日々――みなみと二人で耐えた地獄の時間。食べ物も水もなく、力尽きかけていた5日目。二宮家からの助けは訪れず、犯人の怒りが爆発した。彼はガソリンを持ち出し、廃工場の地面に撒き散らした。鼻を突く刺激臭が広がる中、二人は死を覚悟せざるを得なかった。もう終わりだ――そう思ったその時、遠くから警笛の音が聞こえた。音はだんだん近づいてくる。微かな希望の光が差し込んだ、はずだった。だが、追い詰められた犯人は逆上し、廃工場に火を放った。炎が激しく燃え上がる中、みなみはなんとか縄を解き、雅之のもとへ走り寄った。「じっとしてて!すぐ縄を解くから!」しかしその手は震えており、雅之の目にはみなみの手首に深い傷が刻まれているのが見えた。「お兄ちゃん、怪我してるじゃないか!」みなみは痛みを無視して必死に縄を解こうとしていた。「平気だよ、まさくん。絶対に助ける。俺たちはここから無事に出るんだ!」火がすぐ足元まで迫っているというのに、彼の言葉は穏やかで温かく、どこか安心させるような笑みさえ浮かべていた。雅之はただ、みなみを見つめることしかできなかった。その時、犯人が突然狂ったように刃物を持ってみなみに襲いかかり、その背中に刃を突き立てた!同時に、みなみは雅之の縄を解き終えていた。「走れ!早く逃げろ!」みなみは咄嗟に犯人を押さえつけ、雅之に鋭い目で叫んだ。雅之は力を振り絞って立ち上がろうとしたが、数日間飲まず食わずだった体は思うように動かない。こんなに自分が弱っているなら、みなみにはどれだけの力が残されているん

  • 離婚後、恋の始まり   第666話

    廃工場を通りかかったとき、偶然中を覗いてみると、二人の少年が一緒に縛られているのを見つけた。そこには男がいて、周りにガソリンを撒きながら「焼き殺してやる」と口にしていた。ショックと恐怖で震え上がり、しかし心のどこかで、少年たちはこのままでは死んでしまうと理解していた。焼き殺されてしまう、と。里香は慌てふためいてその場から逃げ出し、ずいぶんと遠くにあるスーパーに駆け込み、警察に通報した。警察が駆けつけた頃には緊張と疲労で里香は失神してしまった。再び目を覚ましたときには、里香はすでに孤児院へ連れ戻されていた。昏睡中に熱を出したせいで、その出来事の記憶を失ってしまっていた。しかし今、その記憶の断片がまるで走馬灯のように蘇った。そして里香は思い出した。その男、斉藤は、当時あの二人の少年を焼き殺そうとしていた張本人だったのだ、と。「間違ったことをしたのはあんただ!刑務所に入ったのは自業自得でしょ!?どうしてその報復を私にするのよ!」里香は激しい怒りに突き動かされ、斉藤に向かって飛びかかった。思いもしない里香の行動に斉藤は隙を突かれ、倒れ込んだ。里香は息を切らしながらすぐさま立ち上がり、全力でその場から走り去った。「逃げなきゃ、絶対に逃げなきゃ!」必死に走る里香だったが、心の中には斉藤の強い殺意の理由への理解が徐々によぎっていた。そうだ、彼が里香に強い恨みを持っているのは、あの日、里香が警察に通報し、それによって彼が逮捕され、10年間牢獄生活を強いられたからだった。「くそが、てめぇ、絶対にぶっ殺してやる!」斉藤はすぐに起き上がり、里香の後を追い始めた。だが里香の体は痛みで満足に動かず、数歩走っただけで肋骨の下が鋭く痛み、つまずきそうになってしまった。その間に斉藤は距離を詰め、里香の髪を乱暴に掴み、廃工場の中へ引きずり込もうとした。「離してよ!放せ!」里香は必死に抵抗し、手で彼の腕を引っ掻き、できる限りの方法で反撃しようとした。しかし、その努力もむなしく、里香は再び廃工場の中に引きずり込まれ、今度はしっかりと縄で縛り上げられてしまった。恐怖と怒りで瞳を赤く染めた里香は、もがきながら声を上げた。「また刑務所に戻りたいの?何もかもやり直すことだってできるのに、どうしてこんなことを!」「俺だってやり直したかったさ!」斉藤は

  • 離婚後、恋の始まり   第665話

    里香が車を停めようとした瞬間、後部座席の男がその意図を見抜いたようで、しゃがれた声を発した。「止めてみろよ、刺し殺すからな。どうせ俺には生きる価値なんてないんだよ!」その言葉に、里香は恐怖で体が硬直し、ブレーキを踏むどころか、そのままアクセルを踏み続けてしまった。こいつ、本当に死ぬ気なんだ。でも、自分は違う!自分はまだ、生きたい!「何がしたいの……?」震える声で問いかけても、男は答えなかった。ただ冷たいナイフを首元に押しつけ続けた。それどころか、ナイフの刃先で肌を浅く傷つけ、血がじわりとにじみ出た。冷たい感触のあと、ヒリヒリとした痛みがじわじわと広がっていく。里香は恐怖で眉間に力が入り、声を出すことさえできなくなった。この男、本当に人を殺すつもりかもしれない。一体誰なんだ。何を企んでる?車は幹線道路を抜け、やがて街を離れ、男が指示した先にたどり着いた。そこは見るからに廃れた工場だった。秋風に揺れる壊れかけの建物、その壁には火事の跡がいまだにくっきりと残っている。里香はその場所を見つめて、わずかに眉をひそめた。ここ、どこかで見たことがあるような……「止めろ!」男の叫び声で我に返り、急いでブレーキを踏んだ。車が止まると、男は勢いよくドアを開けて車を降り、運転席のドアも乱暴に開けた。「降りろ!」恐怖で逆らう気力もなく、里香はおとなしくシートベルトを外し、車から降りた。そして恐る恐る男の顔を見た瞬間、思わず息を飲んだ。斉藤!何度も命を狙ってきた、あの男だ。その異様な憎悪が、なぜ自分に向けられているのか、里香には未だにわからなかった。まさか、あれからこんなに時間が経ったのに……しかも、こんな形で再会するなんて!「俺だと分かったか?」斉藤は彼女の驚きに満ちた表情を見て、狂気じみた笑みを浮かべた。そしてマスクを剥ぎ取り、陰湿で冷たい顔をさらけ出した。里香のまつ毛が震えている。「……どうして、そこまでして私を殺したいの?」彼女がそう尋ねる間もなく、斉藤は荒々しく彼女を押し倒した。「中に入れ!」よろけながらも、里香は逃げることができなかった。彼を怒らせたら、何をされるかわからない――それが一番怖かった。壊れた工場の中は火事の跡がさらに鮮明で、焦げた鉄骨や崩れた壁がそのまま放

  • 離婚後、恋の始まり   第664話

    雅之は里香をそのまま抱きしめ続け、しばらくの間じっと動かなかった。そして、ようやく彼女を放した。足が床についた瞬間、里香はようやく現実に引き戻された気がした。それでも、呼吸は乱れたまま、体に力が入らず、立っているのがやっとだった。もう雅之を突き放す余力すら残っていなかった。雅之は彼女を支え、しっかりと立つのを待ってから手を放した。その瞳は夜の闇のように漆黒で、墨のように深く、底が見えない。雅之の視線はじっと里香を捉え続けていたが、長い沈黙の後、結局何も言わずその場を立ち去った。彼にまとっていたあの清冽な香りも、彼が出ていった瞬間、跡形もなく消えてしまった。里香は力が抜けた体を引きずるように浴室を出て、ベッドの端に座り込んだ。しばらくしてようやく、乱れた気持ちを少しずつ落ち着かせることができた。絶対、何かされると思ってたのに……「里香ちゃん!」突然、かおるの声が聞こえた。慌ただしく部屋に飛び込んできたかおるは、ベッドの端に座る里香を見るなり声を上げた。「さっき雅之が出て行くのを見たの。しかも、どう見てもお酒飲んでたし、服も乱れてたけど……あいつに何かされなかった?」そう言いながら、彼女の視線は里香の顔へ向けられた。そして、一目で里香の唇の腫れに気づいた。そこには赤く腫れた跡がくっきりと残っていた。「えっ……これって……」かおるは彼女の唇を指さして、「めっちゃ腫れてるじゃん!本気でキスされたんだね」と驚いた声をあげた。里香:「……」さっきまで胸を締めつけていた複雑で重い気持ちが、かおるの言葉を聞いた瞬間にすっかり消えてしまった。「別に何もされてないよ。それより、かおるの方こそ、遅く帰るって言ってたのに?」かおるは肩をすくめながら言った。「片付けが早く終わったから、思ったより早く帰れたの。それに、里香ちゃんが一人で家にいるのが心配で戻ってきたのよ。……あっ、もしもうちょっと早く帰ってたら、何か見ちゃいけない場面を見ちゃってたかも?」里香はじっとかおるを見つめ、無言のままだった。すると、かおるは慌てて手を合わせて「ごめんってば!里香ちゃん、怒らないで!もうからかわないから!」と謝った。里香は何も言わずに立ち上がり、スキンケアのために鏡の前へ向かった。ふと唇に目をやると、確かに赤く腫れていて、雅之にキ

  • 離婚後、恋の始まり   第663話

    「本当に僕と離婚するつもりか?」雅之は里香の目の前に立ち、彼女の退路を完全に塞いでいた。その切れ長の瞳に複雑な感情が宿り、まるで言いたいことがたくさんあるのに、口にできないかのようだ。里香は必死に冷静さを保とうとしながら言った。「三日後に裁判があるでしょ、雅之。今さらこんなこと言われても、何が言いたいの?」雅之は手を伸ばし、そっと彼女の頬に触れた。「里香、お前本当に僕を愛してないのか?」里香はわずかに顔をそむけ、その手を避けた。雅之の手は空中に止まったまま、彼女の拒絶の表情を見つめていた。そして薄く笑みを浮かべた。その笑みには自嘲と苦味が混ざっていた。あんなに堂々とした人なのに、その姿にはどこか寂しさと悲しみが漂っていた。しばらく彼女をじっと見つめた後、雅之は突然手を伸ばして彼女の首の後ろを掴み、そのまま身を屈めて唇を重ねた。「んっ!」里香はいつも警戒していたが、彼に敵うはずもなかった。柔らかな唇が噛み締められ、必死に身をよじるものの、まるでびくともしない。雅之は片手で簡単に彼女の両手首を掴み、背中側に押さえ込むと、そのまま力を込めて引き寄せた。彼女の柔らかな身体は彼の胸に密着し、首を仰がざるを得なくなり、そのキスを受け入れさせられた。こんなに近づいたのは、どれくらいぶりだろう。里香は心底拒絶していたが、雅之の方はますます強引になり、まるで病みつきになったように、その唇を深く貪った。唇が自分のものではなくなったような感覚だった。このまま全部彼に飲み込まれるんじゃないかと思うほどだった。雅之の清潔感のある匂いが彼女の五感を支配し、神経を惑わせていく。彼に触れられる感覚に対して、身体は正直だ。こんな激しいキスの中、彼女の体は無意識に力を抜き、ふわっと彼に寄りかかってしまった。そんな自分自身がとても惨めに思え、涙が自然と頬を伝った。雅之はキスしながらも、ほんのり塩辛い味を感じ、少し目を開けると、彼女の頬を流れる涙が見えた。その瞬間、呼吸が詰まりそうになり、喉仏が上下に動いた。しばらくして彼はそっとその涙を唇で拭い取った。「里香、お前には分かってるはずだ。僕がどれだけお前を喜ばせたいと思ってるか」低くかすれた声で言い聞かせるように続けた。「昔の僕がいいって言ったよな。そのために昔の自分に戻ろうと

  • 離婚後、恋の始まり   第662話

    「それとさ、さっきのセリフ。『お前、この顔が好きなんじゃないの?』だっけ?はぁ、ほんと呆れるよね。目的のためなら何でもやるんだなって感じ」隣に座るかおるがそう言った。頭の中に雅之が言ったあの言葉がよみがえり、思わず鳥肌が立った。里香も黙り込んでしまう。本当に、雅之はどうかしてる。もしかして、自分が彼の顔に抗えないってわかってて、あんなこと言ったわけ?かおるの言葉を思い返すうちに、そう思えて仕方なくなってきた。最近の雅之の行動は、以前とほとんど変わらない。最初に彼と出会ったとき、雅之は何もかも不慣れで、迷子みたいだった。だけど、なぜか里香には妙に懐いてて、「本を読んでみて」って言うと素直に従った。学習能力は高くて、手話もあっという間に覚えたし、文字を書くのもすぐに習得した。リビングのソファで静かに本を読む姿が印象的だった。里香はぎゅっと目を閉じて、もう思い出さないよう自分に言い聞かせた。あれは全部過去のことだ。今の雅之が記憶を失うことなんて、ありえない。その後、二宮グループとDKグループの合併が成功したというニュースが連日ヘッドラインを飾っていた。二宮グループは勢力をさらに拡大し、冬木のトップ企業としての地位を確立した。でも、雅之の機嫌はあまり良くなかった。誰の目にも明らかで、彼が現れるたびに冷たい表情をしていたからだ。里香はその理由を会社の事情に結びつけて考えていた。口では「気にしない」と言っても、心血を注いできたものだ。目の前でその成果を奪われるのを見て、平静でいられる人なんていないだろう。けど、里香は特に気にしなかった。雅之がどれだけ傷つこうが、悲しもうが、自分には関係ない話だからだ。ほぼ二ヶ月にわたるリハビリのおかげで、体調はだいぶ回復した。そして、明日はいよいよ開廷の日だった。祐介が紹介してくれた弁護士と瀬名が手配してくれた弁護士が一緒に里香を訪ね、裁判後の段取りを話し合った。原告として、里香は婚姻不和を示すいくつかの証拠を提出済みで、婚約解消の意思を明確にしていた。協議が終わると、みんなで食事に出かけた。カエデビルに戻る頃にはすっかり夜になっていた。かおるの姿は見当たらない。スマホを確認すると、「今日は帰るのが遅くなる」とメッセージが入っていた。「楽しんでね」と返信して、ス

  • 離婚後、恋の始まり   第661話

    「それは祐介のことよ。私、別に彼と一緒になるつもりなんてないから」と思いつつ、雅之の視線が次第に冷たくなっていくのを感じた。「よろしい」冷たく笑ってその一言だけを残すと、雅之は立ち上がり、何のためらいもなく部屋を出て行った。里香は眉をひそめて、小さく呟いた。「何なのよ、わけわかんない……」ぼんやり外を見つめると、分厚い雲に覆われた空からぽつぽつと雨が降り始めていた。「小松さん、雨が降ってきましたよ。中にお入りください」家政婦の声が耳に届いた。「うん、わかった」そう返事をして立ち上がり、中に入ろうとしたその時、ふと目に入ったのは雅之のスマホ。あれ、スマホ置いてったの?何気なく拾い上げて、雅之の部屋に持っていこうと歩き出した。ふと画面に目を落とすと、そこにはまだ祐介と蘭の写真が映っていた。「……別に、何とも思わないけど」そう心の中でつぶやきながらも、しばらくその写真を見つめてしまっていた。その時、忘れ物に気づいたのか、雅之が無言で戻ってきた。冷たい表情のまま立ち止まり、里香がスマホを手に持ち、その画面を見ているのを目撃した。そんなに気になるのか?雅之の胸中に苛立ちがじわじわと広がっていく。気にしないって口では言いながら、心の中は正直なんだな。祐介のこと、好きになったのか?じゃなければ、どうしてそんな風に写真を見つめている?そんな考えが頭をよぎるたび、どうしようもない鬱屈と怒りが込み上げてきた。何かして発散したい衝動に駆られたが、ぐっと耐えた。以前、それができなくてこんな関係になってしまったのだから。「もう満足したか?」低く冷たい声が静かな部屋に響いた。その声に驚いて顔を上げた里香は、ばつが悪そうな表情を浮かべた。「別に、わざと見たわけじゃないから」そう言いながらスマホを差し出した。雅之はそれを受け取ると、暗い瞳のまま彼女をじっと見つめた。そして突然、彼女の腰を引き寄せた。「ちょ、何してるの!?」驚いて大きく目を見開く里香。雅之はさらに近づき、低い声で囁いた。「お前、僕のこの顔が好きなんじゃなかった?」「は?何言ってんの?」里香は戸惑いながらも反論した。「この顔をずっと見つめてるってことは、そういうことだろ?」雅之は続ける。「だったら、僕が毎日こうしてお前の前にいて、何も言わな

  • 離婚後、恋の始まり   第660話

    里香は驚いて振り返ると、少し離れたところに雅之が立っているのが目に入った。手にはカップを持っていて、湯気がほのかに立ち上っている。どう見ても作りたてのようだ。「あなた、私の話を盗み聞きしてたんじゃないの?」少し眉をひそめてそう言うと、雅之は無言で近づいてきて、隣の椅子に腰を下ろした。彼も同じように窓の外を見つめている。その横顔は整っていて、輪郭がくっきりしている。落ちた前髪のせいで、どこか少年っぽさが漂っていた。里香はふと目を奪われ、初めて彼と会った時のことを思い出していた。「由紀子に毒を盛るよう頼まれたんじゃないか?」雅之が窓の外を見たまま、淡々と口にした。「えっ……どうしてそれを知ってるの?」里香は驚きで声を漏らした。雅之の唇がわずかに曲がり、嘲るような笑みを浮かべた。「君だけじゃないよ。他の側近にも同じことを頼んでたみたいだし。こういうの、なんて言うんだっけ?『広く網を張る』ってやつ?」里香の表情が少し硬くなり、心の中は複雑な感情で渦巻いていた。「まだ僕が盗み聞きしたことを気にしてるのか?」雅之はちらりと里香を見て言った。そして、薄く笑いながら続けた。「盗み聞きなんてしてないよ。ただ、通りがかりでたまたま耳に入っただけだ」里香は少し目をそらしながら答えた。「言ったでしょ。そんなこと私にはできないって。万が一あなたが死んだら、私が刑務所行きになるでしょ?そんなの絶対嫌だもん」雅之は低く笑い声を漏らした。「随分と小心者だね」里香は何も言わず、黙っていた。「そんなに怖がりなのに、どうして僕と離婚しようなんて思えたんだ?」雅之の言葉に、里香は一瞬息を飲んだ。彼はじっと彼女の顔を見つめた。その顔は化粧ひとつしていないのに、清潔感があって、どこか柔らかい雰囲気を醸し出している。「祐介が後ろ盾になってくれるから?」そう言って、雅之はスマホを取り出し、一枚の写真を見せつけた。「じゃあ、この写真を見た後でも、彼に好感を持ち続けられるかな?」里香の眉がぴくりと動き、険しい表情を見せた。「何言ってるの?私と祐介兄ちゃんはただの友達よ!」そう口では言いながらも、目は自然とスマホの画面に吸い寄せられた。そこには一枚の写真が映っていた。寝室で撮られたと思われる写真だ。祐介と蘭が並んで写っている。写真を見る限り

  • 離婚後、恋の始まり   第659話

    雅之がここに滞在して、もう一週間が経った。初日の夜にちょっとした騒動を起こして以来、目立った出来事といえば、わざと里香の浴室に入ったくらいで、それ以降は何事もなく過ぎている。みんなそれぞれ、何事もなく穏やかに過ごしていた。かおるも徹底して雅之を無視している。ただの「借り部屋の住人」として淡々と扱っているだけだ。一方の雅之はというと、毎日運動をしたり本を読んだりしながら、まるで悠々自適な引退生活を送っているかのよう。二宮グループがDKグループとの合併を進めて世間を賑わせている今でも、彼は全く焦った様子を見せない。まるでDKグループが自分の築き上げたものではないかのように、泰然としているのだ。そんな彼をニュース越しに見ていた里香の心中は複雑だった。大学卒業後ずっとDKグループで働いてきた里香にとって、その会社は特別な存在だったからだ。もしあんなことがなければ、きっと簡単に辞めたりしなかっただろう。それなのに、どうして雅之はこんな状況でも平然としていられるのか?その疑問をどうしても抑えきれず、里香は意を決して彼の部屋のドアをノックした。「入れよ」低く響く声が中から返ってきた。一瞬ためらったものの、里香はドアを押し開けて中に入った。最近は杖なしでも歩けるようになり、足取りもだいぶ軽やかになっている。雅之は椅子に座ったまま読書をしていたが、里香の姿を見ると、わずかに眉を上げた。「珍しい客だな」雅之は本を閉じ、低い声でそう言いながら彼女を見た。その瞳はどこか冷静で、底が見えない。里香は立ったまま尋ねた。「いったい何を考えているの?」「何の話だ?」雅之は眉を少し動かして、淡々と答えた。「DKグループが二宮グループに吸収されようとしているのよ。合併が成功したら、もうDKグループはなくなっちゃうの。それを黙って見ているつもり?」雅之の唇には薄い笑みが浮かんだ。「黙って見ているのが悪いのか?目を閉じてみるのも、案外悪くないぞ」その言葉に、里香は唇を噛んだ。こんな話をしに来た自分が馬鹿らしくなってくる。里香はくるりと背を向け、部屋を出ようとした。「里香」背後から雅之の低い声が響き、彼女の足が止まった。「何よ?」「お前はDKグループを気にしているんだろう?」その問いは彼女の心を抉るようだった

コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status