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第8話

里香は「不満があってもいいですか」と桜井に目を向けて聞くと、桜井は微笑みながら「だめです」と答えた。

里香は目を白黒させ書類を受け取り、雅之のオフィスに向かった。

桜井はそれを止めたくても止められなかった。

里香はドアを押し開け、まっすぐオフィスの中に入った。

雅之はすらりとした姿でフレンチドアの前で電話をしていた。後ろからの声に、彼はちらりと振り返り、眉を寄せた。

「じゃ、これで」

雅之はそう言って電話を切った。

「勝手に入るな」

雅之は冷たい目で里香を見つめ、口調も冷たくなった。

里香は書類をテーブルの上にバンと置いた。「わざとやったんでしょう」

雅之は書類をちらりと見て、「これも君の仕事だろう?やりたくなければ、さっさと辞めたらいい。君の代わりはいくらでもいるんだ」と冷たく言った。

怒りが湧き上がってきた。

このクズ男は間違いなくわざとやったんだ!

昨夜殴られた仕返しだ!

だから、激しく抱きしめた里香を翌日、工事現場に行かせた。

憤慨しながら何も言えない里香を見て、雅之の暗い気分はなんとなく良くなった。

「出て行って、次にノックを忘れずに」

それだけを言い残し、雅之は視線を手元の仕事に戻した。

里香は雅之をじっと見つめ、両手をテーブルにつきながら上半身を前に傾け、彼に近づいて「いいわ。でも次もね、私の許可なしには抱けないのよ」と囁いた。

その言葉を残して、里香は書類を手に立ち去った。

雅之は絶句した。

こいつは何バカなことを言ったんだ。

誘ったのはそっちだろう。そうでなければ、里香を抱くはずがない。

せっかく良くなった気持ちが一瞬暗くなった。

里香が担当している商業ビルのプロジェクトは、現在工事中だった。里香は車から降り、デコボコした路面を見て、顔をしかめた。

前に向かって歩いていると、遠くないところに、戸惑ったようなおばあさんがコンクリートに座っているのが見えた。

何人かの人がおばあさんとすれ違ったが、当たり屋ではないかと疑ったのか、誰もおばあさんに近寄らなかった。

里香はおばあさんをじっくりと観察していた。おばあさんは洗練された装いで、手首には翡翠のブレスレットを着けていたため、決して当たり屋には見えなかった。

少し考えた後、里香はおばあさんのそばに寄って尋ねてみた。「おばあちゃん、どうされましたか?」

里香の顔を見るなり、おばあさんは目をキラキラと輝かせた。「あら、孫の嫁じゃない!おばあさん、道に迷ってしまって、家まで送ってくれない?」

里香は呆然と立ち尽くした。おばあさんの様子が少し変だった。もしかすると、認知症かもしれない。

里香は身を乗り出し、「おばあちゃんの家がどこにあるか覚えていますか」と尋ねると、

おばあさんは困惑した表情で、「私の家は…どこだったかしら。ねえ、ちょっと探してくれない?家がどこにあるのか忘れてしまって」と助けを求めてきた。

里香はスマホを取り出し、警察に電話しようとしたら、

おばあさんは目を輝かせてスマホを見つめた。「そうだ!スマホだわ。スマホならあるわよ」

そう言いながらおばあさんは襟元から紐で縛られたバッグを引っ張り出した。そのバッグを開けると中にスマホが入っていた。

バッグの中にはメモが入っていた。里香はそこに書いてある連絡先を見てほっとした。

「おばあちゃん、大丈夫ですか?歩けますか?」

里香が心配そうに尋ねると、おばあちゃんが苦しそうな顔をして、「足が痛くて歩けないの。ねえ、痛いところに息を吹きかけてくれない?」と甘えてきた。

里香は一瞬どんな顔をしていいか分からなかった。「とりあえず病院に連れて行きますか」

念のため、里香はスマホでビデオを撮った。「おばあちゃん、私がぶつかったんじゃないですよね」

「そうよ。この子はそんなことしていないわ」おばあさんはとても協力的だったし、カメラに向かってハートまで作ってくれた。

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