かおるは月宮をちらりと見て、不思議そうに「あなた、そんなに優しいの?」と尋ねた。月宮は何も言わず、ただ微笑んでかおるを見つめ続けていた。かおるは少し考えた後、気持ちを落ち着けた。今は、里香の名誉を取り戻すことが一番大事だ。もし月宮が本気で協力してくれるなら、状況が好転するかもしれない。「手伝うわ」かおるは月宮の乱れたベルトが気になり、近づいてしゃがみ込み、細い指でそれを結び直し始めた。かおるが近づくと、彼女の淡い香りがふわりと鼻をくすぐった。月宮は彼女の顔をじっと見つめながら、ふと口を開いた。「君、芸能界に向いてると思うけど、どう?」かおるはベルトを結び終え、一歩後ろに下がりながら答えた。「私は芸能人になるつもりはないわ」かおるが離れると、その香りも消えてしまい、月宮の胸の奥にどこか寂しさがこみ上げてきた。月宮は一瞬目を光らせ、続けて言った。「俺はいつでも君を歓迎するから、考えが変わったら言ってくれ。半年以内に君を国内一流のスターにしてみせるよ」かおるは微笑んで、「気持ちだけ受け取っておくわ」と軽く答えた。一方その頃、里香は警察署に行き、食事の検査結果を確認しようとしていた。自分もあの食事を口にしたのに、どうして自分だけ中毒にならなかったのか、不思議でならなかった。しかし、警察署に到着すると、まだ検査結果は出ていないと言われた。里香はがっかりして外に出ると、すでに空は暗くなり、雲が重く空を覆いかぶさり、まるでその重みが心にのしかかるようだった。心がどんよりと沈んでいく中、里香はぼんやりと道端を歩いていた。その時、背後からバイクのエンジン音が迫ってきた。「危ない!」突然、誰かが里香の腕を引っ張り、横に引き寄せられた。バイクは彼女のすぐ横を猛スピードで通り過ぎた。もし間一髪で引き寄せられていなかったら、確実にぶつかっていただろう。「ありがとう…」驚きながら振り返ると、そこにいたのは祐介だった。「祐介さん?」祐介は少し眉をひそめていて、また髪色が変わっていた。今回は真っ白な髪で、その妖艶で精悍な顔立ちが際立って見えた。短くカットされた白髪は、まるで漫画から抜け出してきたかのように魅力的だった。「どうしたの?歩きながらぼんやりしてるなんて」祐介は疑問げな目で里香を見つめた。里香は
その言葉を聞いた瞬間、里香はこの件を思い出し、一瞬固まったが、首を振って「今は売るつもりはないわ」と答えた。祐介は頷きながら、何か言いたそうにじっと彼女を見つめていた。「じゃあ、私は先に行くね。じゃあね」里香がそう言うと、祐介は「うん」とだけ答え、振り返って、あの男たちの方へ歩いていった。里香は深くため息をつき、別の方向へ歩き始めた。今、頼りにできるのは検査結果だけ。それが出るまで、疑いが晴れることはない。今の自分にできることは、ただ待つことだけ。しばらく歩いていると、後ろから車のエンジン音が聞こえてきた。さっきのことがあったばかりなので、里香は横に避けてぶつからないようにした。「ピッ!」ところが、その車は里香の横でスピードを落とし、クラクションを軽く鳴らした。振り返ると、祐介が車の中から微笑んでいた。片手を窓枠に置いて、淡い笑みを浮かべながら「乗って、送ってあげるよ」と言った。里香は驚いた。祐介がそのまま行ってしまうと思っていたのに、車を取りに行っていたなんて。「祐介さん、本当に大丈夫だから。家はここからそんなに遠くないし、ちょっと歩けば着くから」里香は遠慮がちに断ったが、祐介は「ちょうど俺も帰るところだし、道も同じだから気にしないで。友達じゃないか」とさらりと言った。その一言に、里香が言おうとしていた言葉は消えてしまった。祐介は命の恩人。これ以上彼の申し出を断り続けるのも、さすがに失礼だ。そう思った里香は微笑んで「じゃあ、お言葉に甘えて」と言い、助手席のドアを開けて車に乗り込んだ。祐介は車を発進させ、カエデビルの方へ向かって走り出した。運転は無造作で、それでも精巧な顔立ちにはどこかいたずらっぽい笑みが浮かんでいた。「聞いたけど、雅之が中毒になったんだって?」里香は驚いて、「どうして知ってるの?」と尋ねた。祐介は「雅之くらいの立場なら、この冬木で何かあったらすぐにニュースになるよ」と言い、続けて「君、そのことで落ち込んでる?」と彼女を一瞥しながら尋ねた。里香は軽く頷いた。祐介は興味深そうに「実はさ、君たち二人がどうして一緒にいるのか、ちょっと興味あるんだ。別に変な意図はないけど、君たちの身分や地位が全然違うし、生活が交わるなんて想像もしてなかったからさ」と言った。里香は一瞬言葉に詰
「祐介兄ちゃん、どうして二宮家のことに興味を持ったの?」電話の向こうで、驚いた様子で相手が尋ねた。祐介はゆっくりと答えた。「おじいさんに、ちゃんとした成果を出せって言われてたからさ。ちょうどそのつもりだったんだよ」相手はさらに驚いて言った。「まさか、喜多野家に戻るつもり?前は喜多野家には興味ないって言ってたじゃない」祐介は淡々と答えた。「今は興味があるんだけど、ダメか?」「いいえ、もちろん歓迎するさ!待ってて、すぐに調べるから!」電話が切れると、祐介の目に一瞬、冷たい光が宿った。一体、何が起こっているのか?里香の青白い顔が頭に浮かび、祐介はハンドルを握る手に力が入った。里香は2日間待ったが、検査結果はまだ出ていなかった。その日の朝、いつも通りに出勤しようとドアを開けると、桜井が立っていた。里香は不思議そうに「何か用?」と尋ねると、桜井は職業的な笑顔を浮かべ、書類を差し出した。「これ、離婚協議書です。社長がすでにサインしましたので、あとは小松さんがサインすれば、婚姻関係は正式に解除されます」里香は一瞬固まり、ドアノブを握る手に力が入り、指の関節が白くなったのを感じた。ずっと待ち望んでいた離婚が、今このタイミングでやってきた。喜ぶべきなのか、それとも悲しむべきなのか?「本当に冷血な男ね」里香は冷笑して言った。冤罪を押し付け、責任をなすりつけて、今度は彼女を捨てようとしていた。こんな話が通るわけがない。「確認するから貸して」里香は手を伸ばすと、桜井は離婚協議書を彼女に渡した。里香がサインすれば、今日の任務は完了する。しかし、里香は書類をじっと見つめた後、突然それを引き裂いた。驚いた桜井は、「小松さん、これは一体…」と呟いた。ずっと離婚を望んでいたはずなのに、なぜ彼女は協議書を引き裂いたのか?里香の目には冷たい光が宿り、「離婚はしてもいいけど、今はダメ。毒を盛ったのは私じゃない。それを証明して、雅之に謝罪させるまで、絶対に離婚しない!」と強く言った。すべての責任を押し付けて、里香を捨てようなんて、そんなことは許さない!里香は引き裂いた紙くずをゴミ箱に投げ入れ、ドアを閉めてそのまま出勤した。桜井は呆然としていた。どうしてこんなことになったのか?病院で桜井の話を聞き、雅之の鋭
里香は会社で孤立していた。 彼女はマツモトとのプロジェクトチームから外されてしまった。プロジェクトはすでに終盤に差し掛かっていて、特に里香の手が必要とされていなかったからだ。 里香はその通知を受けたとき、やっぱりなと思い、冷静な気持ちで日常の仕事をこなしていた。 ただ、周りの同僚たちも、里香が孤立していることを感じ取っていた。以前は里香に近づいていた人たちも、次々と距離を置き始めた。 それが逆に彼女にとっては、静かな時間をもたらしていた。昼食の時、一人の配達員が大声で「小松里香さんの荷物です!」と叫んでやってきた。 何も買っていないのに、どこからこの荷物が来たのかと不思議に思いながらも、里香は手を伸ばして受け取った。それは小さな箱で、軽くて中で何かがガタガタと音を立てていた。 里香が差出人を確認すると、それは匿名だった。 少し躊躇したが、開けることはしなかった。 以前、誰かに尾行されて小道に引きずり込まれ、危うく命を落としかけたことがあった。それに加えて、その後血まみれの写真を送られてきた経験もあるため、彼女はこの不明な荷物を軽々しく開ける気にはなれなかった。 荷物を机の上に置き、里香は食堂に向かった。しかし、まだ食べ終わらないうちに、一人の同僚が慌てて駆け寄ってきて、顔色を青ざめさせながら「小松さん、大変!早く戻って確認して!」と叫んだ。 里香は眉をひそめて、「何があったの?」と尋ねた。 同僚はまるで恐ろしいものを見たかのように、何も言えずに「うまく説明できない。君が戻った方がいいよ、本当に怖いから!」とだけ言った。 里香は急いで箸を置き、オフィスに戻った。 すると、彼女のデスクの周りに人が集まっていて、何人かは顔色が青ざめ、他の人は嫌悪感を露わにしていた。「これは一体何だ?」 「こんなものが送られてくるなんて!」 「小松さんは一体何をしたんだ?どうしてこんな気持ち悪いものが送られてくるんだ?」 里香は周囲のざわめきを聞き、顔が真剣になった。 「どいて」 里香がそう言うと、みんなすぐに道を開け、彼女のデスクの上に置かれた開封された荷物の箱を見せた。 「小松さん、よく戻ってきてくれたね。誰が君に送ったものか確認して」 「本当に気持ち悪い
里香は冷たい目で大久保を見つめ、「無断で私のものに手を出して、それで済むと思ってるの?」と鋭く言い放った。 大久保は顔をさらに険しくし、「よくもそんなことが言えるわね?」と反撃しようとした。 「これ以上言い返すと、ただの罵り合いじゃ済まないわよ」と、里香は冷たく言い切った。 大久保は一瞬黙り込んだが、すぐにマネージャーを呼びに行った。マネージャーの山本がすぐにやってきて、荷物の中身を見て顔色を変え、里香に向かって「小松さん、これは君のものですか?」と尋ねた。 里香は冷たい表情を崩さず、「どういう意味ですか?」と逆に問い返した。 「こんな気持ち悪いものを会社に持ち込むなんて、何考えてるんだ?同僚たちが仕事に集中できなくなるじゃないか!」と山本は声を荒げた。 以前、山本はこんな態度を取る人ではなかった。 里香がマツモトグループのプロジェクトを担当していたからだけでなく、上司の雅之が彼女に対して曖昧な態度を取っていたからだ。 しかし今日、里香をプロジェクトチームから外すように桜井から指示を受けた時、山本は驚いた。 遠回しに理由を尋ねたが、桜井は何も言わずに電話を切った。 その時、山本は里香が失脚したのではないかと感じた。 雅之が彼女に興味を失ったのかもしれない。それで、山本の態度も変わったのだ。里香は眉をひそめ、「この荷物は他の人が私に送ったもので、こんなものが入っているとは知らなかった。それはさておき、大久保さんが私の許可なく勝手に手を出したことについては、どうお考えですか?」 山本は一瞬言葉に詰まり、大久保を見た。「なんで小松さんのものに勝手に手を出したんだ?気分が悪くならなかったのか?」 大久保は得意げに笑いながら、「そうね、これからは彼女のものには触れないことにするよ」と言った。 山本は里香を見て、顔を曇らせながら「早くこの気持ち悪いものを処理しなさい。次があれば、もう来なくていいから」と言い放った。里香は、明らかにターゲットにされていると感じ、拳を握りしめた。 机の上の荷物を見て再び顔色が青ざめると、近くにあった袋を手に取り、それを覆ってゴミ箱に捨てた。 再び自分の席に戻ると、手足がまだ冷たかった。 この荷物の差出人は、前回メッセージを送ってきた人物
里香は一瞬立ち止まったが、そのまま目をそらさずに歩き続けた。 桜井は深呼吸をして彼女に近づき、「小松さん」と声をかけた。 里香は足を止め、「何か用?」と冷たく尋ねた。 桜井は書類を取り出し、職業的な笑顔を浮かべながら「サインをお願いします。社長にも、小松さんにもいいことになるので」と言った。 里香の顔色が一変し、桜井が持っている書類に視線を向けた。「どういうこと?私がサインをしない限り、毎日これを持ってくるつもり?あんな嫌がらせをしながら?」 桜井は少し焦りながら「それなら毎日持ってきますけど、嫌がらせなんてしていませんよ」と答えた。 ただ、誤解されたくないという気持ちが強かった。里香は冷淡に「あなたじゃないなら、雅之の仕業でしょ。大して違わないわ」と言い放った。 桜井は言葉を失った。里香が何かを誤解していることに気づいたが、あえて説明はしないことにした。 勝手なことをすれば、社長が不機嫌になるだろうから、まずは雅之に報告しておこうと考えた。 「小松さん、サインをお願いします」と桜井は書類を里香に差し出したが、また破られるのではないかと心配だった。 結果的に、里香は書類を受け取り、振り返ってその場を去った。 「え、小松さん?」 桜井は驚いて、すぐに追いかけ「どこに行くんですか?」と尋ねた。 里香は冷たく「離婚の話をしに、直接彼に会わなきゃ」と答えた。 桜井は戸惑いながらも「でも、社長は…」と口を開きかけたが、里香はすでに道端のタクシーに乗り込んでいた。 しばらく呆然としていた桜井は、スマホを取り出して雅之に電話をかけた。 「社長、小松さんが離婚の話をしにそちらに向かっています」 返事がないまま、電話はすぐに切られた。病院に着いた里香は、雅之の病室の前でボディーガードに止められた。 「離婚の話をしに来ました。雅之に伝えてください」と、里香は冷たい目で二人のボディーガードを見つめた。 二人は視線を交わし、一人が病室に入っていった。しばらくして戻ってくると、「どうぞ」と里香に手で合図した。 里香は離婚協議書をしっかり握りしめ、病室に入った。 看護師が横を通り過ぎ、里香が部屋に入ると、病床の傍に座る夏実の姿が目に入った。 彼女は優しく雅
里香の目が冷たくなり、「証拠はあるの?」と問いかけた。 夏実は「雅之があなたの作った料理を食べて中毒になったんだから、証拠なんていらないでしょ」と言った。 里香は「その料理、彼が自分で買ったものよ。あなたの理屈で言えば、彼が自分で毒を盛って私に罪を着せたってことになるんじゃない?」と返した。 「あなた!」夏実の顔が険しくなり、「それは無理があるわ!」と怒った。 里香は「あなたの言い分よりは筋が通ってるわよ」と冷ややかに言った。 二人の間に緊迫した空気が流れた。 「もうやめて!」 そのとき、雅之が口を開いた。彼の美しい顔は険しく、冷たい目で里香を見つめながら、「僕がどうして君と離婚しなきゃいけないか、分かってるだろう?里香、悪いことは言わないから、早くサインして…」と続けた。 「嫌だって言ったら?」 里香は雅之をじっと見つめ、かつて愛していた男を目の前にして、心の中で嘲笑していた。 「私を殺すつもり?」 里香の軽やかな声は、まるで羽のように雅之の心に届いたが、彼はなぜか苛立ちを覚えた。 離婚したいと言ったのは里香なのに、今さら何を言っているのか? 雅之は少し低い声で、「離婚の条件に不満があるなら言ってくれればいい」と言った。 指がわずかに震えたが、里香は冷静を装いながら、「この事件が解決するまでは、私はあなたと離婚しない」と言い放った。 雅之の眉が険しくなった。 横から夏実が「小松さんがどうしても離婚しないというのなら、法的手段を取るしかないわね」と言った。 「すでに警察に通報しているわ。検査結果が出たら、後悔するがいい」と里香は冷たく返した。 その言葉に夏実は一瞬驚き、目が揺らいだ。 雅之は夏実に「先に帰ってくれ」と静かに言った。 夏実は心配そうに「でも…」と迷った。 「大丈夫だ」 雅之は夏実を安心させるように見つめた。 夏実は立ち上がり、病室を出て行った。 雅之は彼女が去るまで目をそらさなかった。 里香は彼をビンタしたい衝動を抑えきれなかった。 そんなに名残惜しいのか? そんなに彼女が好きなのか? じゃあ、私は一体何なの? 里香は椅子を引いて座り、澄んだ目で雅之を見つめた。 雅之は眉をひ
雅之は里香の澄んだ目を見つめていたが、彼女の顔色が少し青白くなり、その目の色が次第に暗くなっていくのに気づいた。 突然、里香は座り直し、「もういいわ、あなたは変わっちゃったから、もう好きじゃないの」と言った。 「何を言っているんだ?」 雅之の声は冷たく響いた。 里香は無表情で「どうせいつかはこうなることだし、今言って何が悪いの?」と言い返した。 彼女の無関心な顔とどこか謝罪を含んだ表情を見て、雅之の胸の中で怒りが渦巻いた。 「君は離婚の話をするために来たんじゃないのか?」 里香は「そうね、あなたが言わなかったら忘れてたわ」と思い出したように言い、離婚協議書を手に取ってぱらぱらとめくった後、嘲笑を浮かべながら、その書類を目の前で引き裂いた。 「離婚なんかしないから!」 そう言って、破れた紙をゴミ箱に投げ入れ、雅之の冷たい表情を気にせず、振り返って去っていった。 その通り、里香はただ彼をイライラさせたかっただけ。 何で雅之が離婚したいと言ったら、私が離婚しなきゃいけないの? 何で雅之が離婚しないと言ったら、その通りにしなきゃいけないの? どうして雅之がすべてをリードして、私はこんな辛い思いをしなきゃいけないの? そんなの納得できない。 病院を出ると、外はすでに薄暗くなり、街は車で溢れていたが、里香は心の中に一抹の寂しさを感じていた。 「里香!」 その時、聞き覚えのある声が響いた。 振り返ると、遠くに由紀子が立っていて、笑顔でこちらを見つめていた。 里香は警戒心を覚えたが、礼儀をわきまえて「奥様、何かご用ですか?」と尋ねた。 「一緒にコーヒーでも飲まない?」 「申し訳ありませんが、今は都合が悪いです」 以前の出来事が頭をよぎった。由紀子が里香を皆の標的にして、皋月に困らせたことを、彼女は忘れられなかった。 あの時、雅之が現れなければ、里香は子供をいじめた悪者のレッテルを貼られていたかもしれない。 由紀子は近づいてきて、優しい目で彼女を見つめた。「里香、まだ前のことを恨んでいるの?私が悪かったわ。本当に、あの子が嘘をつくなんて思わなかったの。これからはそんなことは絶対に起こらないと約束するわ」 堂々たる二宮家の奥様が頭を下げて
里香の言葉に、景司は言いようのない不快感を覚えた。だが、それでも彼がここに来たのは、明確な目的があったからだ。一瞬の沈黙の後、口を開いた。「君と雅之は、今どういう関係なんだ?」やっぱりね。里香は皮肉っぽく笑い、静かに言った。「瀬名さん、本当に不思議なんですけど……どうしてそんなに私と雅之の離婚を勧めるんですか?私の親友のかおるですら、そこまでしつこく言いませんよ」景司は小さく息をついた。自分の意図があまりにも露骨すぎる。彼女がこう言ってくるのも当然だった。「少し、会えないか?」「どこで?」どこまで恥知らずなことを言い出すのか、確かめてみたかった。そうすれば、瀬名家への期待も完全に捨てられる。昼、レストラン。里香が到着すると、景司はすでに席に着き、料理を注文していた。テーブルには彼が淹れたお茶が置かれている。里香が数口飲むのを見届けてから、彼は静かに切り出した。「まずは謝らせてくれ。ごめん」里香は彼をじっと見つめた。「何の謝罪?」景司は目を逸らすことなく、まっすぐに答えた。「本気で君に雅之と離婚してほしいと思ってた。彼は君にはふさわしくない」その瞳を見つめながら、里香は何も言わなかった。言えないんでしょ?自分の妹のためだって。「あなたの望み通り、私は雅之と離婚しました。今朝、離婚証明書を受け取りました。これで、杏の居場所を教えてくれる?」景司の表情が強張った。「……本当か?」里香は頷くと、証明書を取り出した。景司は受け取らなかったが、彼女が嘘をついていないことは分かった。心の奥に、複雑な感情が渦巻く。何も言えなくなった。里香は急かすこともなく、静かに食事を進めた。空腹だったのもある。しばらくして、景司はようやく口を開いた。「杏は郊外の山間にある療養院に連れて行かれた。人里離れた場所で、他の都市の人間が運営してる。あまり目立たない施設だ」里香はすぐに雅之にメッセージを送り、杏の居場所を伝えた。「ありがとう」それだけ言って、再び食事に戻る。景司はじっと里香を見つめた。本当は、もっと話したいことがあった。でも、何も言えなくなってしまった。やがて、ぽつりと告げた。「これから何かあったら、いつでも連絡してくれ」「必要ないわ」食事を終え、
雅之は車のドアを開け、ふと問いかけた。 「一緒に行くか?」 里香は頷き、そのまま車に乗り込んだ。 胸の奥に、漠然とした不安がよぎる。杏が行方不明になったからといって、ネット上の世論を覆すことはできない。このまま放置すれば、二宮グループへの影響は計り知れないものになるだろう。 相手の狙いは何なのか?雅之を二宮グループから追い出すこと? いや、それだけではないはずだ。どうにも事態が単純すぎる気がする。 ほどなくして病院に到着した。普段と違うのは、周囲に多くの通行人が集まり、病院の中を覗き込んではひそひそと話していることだった。 二人はそれを気にすることなく、そのまま病院の中へ入った。 桜井はすでに聡と連絡を取り、病院内外の監視カメラを調査していた。そして、映像の中に見覚えのある顔を発見した。 由紀子の助手、橋本だった。 雅之の声が冷え冷えと響いた。「連れてこい」 だが、桜井の返答は予想外のものだった。 「橋本を特定した瞬間、すぐに人を向かわせましたが、すでに国外へ逃げたようです。30分前に飛行機に乗ったとのことです」 なるほど。これでほぼ確定だ。杏を連れ去ったのは、由紀子の仕業。 雅之の目が冷たく光った。「由紀子は?」 「喜多野家に戻りました。我々の人間ですら、喜多野家の者に会うことができません」 喜多野夫人と由紀子は姉妹。問題が起これば、由紀子が姉を頼るのは当然だ。 「ふっ……」雅之は冷笑した。「ずいぶんと周到な計画だな」 桜井は少し不安そうに尋ねた。「社長、どうしますか?」 杏を連れ去ったのが由紀子だと分かっても、喜多野家に強引に踏み込むわけにはいかない。このままでは、手がかりが完全に途絶えてしまう。 雅之は淡々と言い放った。「喜多野夫人に連絡しろ。次男の行方を知りたくないかと聞いてみろ」 喜多野家には二人の息子がいる。長男は以前、不慮の交通事故で亡くなった。そのため、祐介を引き取って育てることになった。 一方、次男は幼い頃に行方不明になり、長年探し続けているが、いまだに見つかっていない。 桜井は驚いたように雅之を見つめた。「社長、まさか……喜多野の次男を見つけたのですか?」 雅之は静かに言った。「言った通りにしろ」
かおるの言葉に、思わず苦笑がこぼれた。それでも素直に部屋へ戻る。確かに少し冷えてきた。夢も見ないまま、一夜が明けた。翌朝、九時ちょうど。里香は約束通り、市役所の入口に姿を見せた。五分と経たないうちに、一台のパナメーラが駐車場に滑り込んだ。雅之が車から降り立った。すらりとした体格、整った骨格。深く刻まれた眉と鋭い眼差しは、冬の寒さよりも冷たく、全身からまるで冷気を放っているようだった。「早かったな。寒くないか?」目の前に立つと、伸ばした手で頬を包み込む。掌の温もりが、冷えた肌にじんわりと染み渡った。温かさに触れた途端、思わずその感触に甘えそうになる。里香は視線を落としながら、小さく答えた。「今来たばかりよ」「じゃあ、入ろう」そう言って、二人並んで市役所の中へ足を踏み入れた。彼らはその日の離婚手続きをする最初の夫婦だった。事前に準備していた書類と証明書を提出し、手続きはあっけないほどあっさりと終わった。手にした離婚証明書を開き、じっくりと目を通す。書かれた文字も、押された印鑑も間違いない。本物だ。雅之がじっと見つめながら、低く言う。「もう嘘はつかないって言っただろ」里香は口元をわずかに引き上げ、皮肉っぽく笑った。「仕方ないわね、前科があるんだから」そう言って立ち上がると、外へ出て大きく息を吐いた。ついに、離婚した。その瞬間、雅之が手に持っていた離婚証明書を、無造作に里香の胸元へ押しつけてきた。「ん?」不思議そうに見上げると、彼は淡々とした口調で言った。「気に入ってるみたいだから、くれてやる」花や宝石を贈る話は聞いたことがある。でも、離婚証明書を渡すなんて初めてだ。いちいち突っ込むのも面倒で、ただ手を差し出した。「おめでとう。晴れて独身ね」雅之は口元をわずかに上げたが、その笑みはどこか寂しげだった。「そんな祝いはいらない」その微妙な表情に気づいたが、里香は特に触れず、手を引っ込めた。「これからどうするつもり?」「杏にライブ配信で説明させる。本人が話すのが一番だ」里香は思わず眉をひそめた。「でも、それじゃ彼女がネットで叩かれるかもしれない……」「じゃあ、俺が叩かれるのは心配じゃないのか?」淡々とした口調に、里香は思わず正直に
極端に傲慢で、誰にも屈しないほど横柄だ。株主たちは皆、険しい表情を浮かべていたが、たとえここまで強気に出られても、簡単に手を出せる相手ではないことを理解していた。本来なら言葉で説得し、辞職に追い込むつもりだったが、その手はどうやら通用しそうにない。今の雅之を抑えられる人間はいるのか?正光はすでに脳卒中を患い、由紀子は一切関与せず、二宮のおばあさんも認知症が進んでいる。……誰も止められない。佐藤も最初こそ圧倒されていたが、すぐに冷静さを取り戻し、細めた目でじっと見据えた。「雅之くん、お前、随分と傲慢になったな。本当に私が何もできないと思っているのか?」雅之はわずかに眉を上げ、口角を引いた。「ほう? それで、どうするつもりですか?」「二宮グループには、責任感のある人間が必要だ」佐藤の声は冷え切っていた。「だが、お前にはその資格がない」「なるほど」雅之は皮肉げに笑った。「つまり、すでに『適任者』を見つけたと?」「ふん、その時が来ればわかるさ」そう言い捨て、佐藤は踵を返し、他の株主たちもそれに続いた。桜井が傍らで控え、頃合いを見て口を開いた。「社長、今回のネット上の騒動について、広報部が緊急対応策をまとめました。ご確認されますか?」「見ない」予想していたのか、桜井は書類を差し出すこともなく、話題を切り替えた。「月宮さんから連絡がありました。現在、海外の関係者が例の宝飾会社の責任者を押さえており、これ以上騒ぎが大きくなることはないとのことです」しかし、雅之は静かに言った。「黒幕が見つかっていない以上、まだ確定とは言えない」スマホを取り出し、画面を確認すると、里香からの着信履歴が残っていた。ほんの一瞬、目の色が沈む。そしてすぐに折り返した。「……もしもし?」コール音が三回鳴った後、すぐに繋がった。受話口の向こうから、柔らかい声が聞こえてきた。「ネットの件は気にしなくていい。僕には何の影響もない」その言葉に、里香はようやく安堵した。無事なら、それでいい。通話越しでも、彼女の感情の揺れが伝わってくる気がした。雅之は薄く唇を持ち上げ、低い声で尋ねた。「心配してた?」「ええ、してたわ。明日、本当に約束どおり来られるのかって」「安心しろ。約束は、必ず守る」窓の外はすでに闇に包ま
「わかった」 里香はかおるの手を軽く叩き、その考えをひとまず振り払った。 しかし、かおるはそれでも心配で、里香が本当に配信を始めるのではないかと気が気でならず、一晩中そばを離れずに付き添っていた。 里香が無鉄砲なわけではない。ただ、雅之は男性であり、権力も影響力もある。少々の批判を浴びたところで、大きなダメージにはならないし、話題を鎮めるのも造作もない。 けれど、里香は違う。彼女には何の後ろ盾もない。世間の目に晒されるわけにはいかないのだ。 今のネット民は気に入らないことがあれば、すぐに袋叩きにする。里香の温厚な性格では、そんな攻撃に耐えられるはずがない。彼女が傷つくところなんて、絶対に見たくない……! 夜になっても、二宮グループのビルは煌々と明かりが灯っていた。 広報部の山本マネージャーが緊急対応策を手にオフィスへ向かうと、中から激しい口論が聞こえてきた。 桜井はドアの前で立ち止まり、山本から書類を受け取ると、「もう戻っていい」と静かに言った。山本は小さく頷き、その場を後にした。 桜井は書類にざっと目を通しながら、ドアを押し開けて中へ入る。 オフィスの中では、佐藤が怒りに任せて机を叩き、険しい目つきで雅之を睨みつけていた。 「説明しろ!やっと沈静化したと思ったら、また騒ぎになってるじゃないか!お前にはこの問題を収める力がないようだな。株主総会を開いて、新しい社長を選出することを提案する!」 周囲の幹部たちも険しい表情で、誰一人として擁護する者はいなかった。 一難去ってまた一難。ネットの世論は完全に一方的になり、「雅之を糾弾し、娘を解放しろ」と叫ぶ声ばかりが飛び交っている。 雅之は革張りの椅子にゆったりと座り、怒りを露わにする幹部たちを静かに見渡した。そして、淡々とした口調で言った。 「新しい社長を選出したとして、それで?その後、この問題をどう処理するつもりですか?」 佐藤は険しい表情を崩さぬまま、「それはお前が気にすることじゃない」と突き放した。 しかし、雅之は続ける。 「当ててみましょうか?結局、すべての責任を僕に押し付けて、僕が辞職したと発表する。病院での暴行も、娘を隠したことも、すべて僕個人の行動で、二宮グループとは無関係だとするつもりでしょう?」
里香はドアを開けながら言った。「まだ分からない。彼に電話したけど、出なかったわ。でも、はっきりしてるのは、誰かが私たちを狙ってるってこと」 かおるも後に続いて部屋に入り、その言葉を聞くと眉をひそめた。「狙われてるのは雅之じゃないの?あなたには関係ないんじゃない?」 里香は少し唇を引き結び、「ただの直感だけど……そんな単純な話じゃない気がするのよ」とつぶやいた。 かおるは不安そうに言った。「もう、怖がらせないでよ。なんかどんどんややこしくなってない?」 里香は仕方なくため息をついた。「相手が何を企んでるのか、まだはっきりしない以上、しばらく様子を見るしかないわ。でも、私は大丈夫」 少なくとも、今のところ標的は雅之ただ一人だった。 かおるはスマホを取り出し、「月宮にも調べてもらうよう頼んでみる」と言った。 里香は肩をすくめ、「月宮と雅之って親友でしょ?放っておいても動かないわけないじゃない」と返した。 「それもそうね」 かおるはスマホを置き、肩を落としながらぽつりと言った。「なんか……急に無力感がすごい。私、何の役にも立ててない……」 里香は微笑み、「私たちは自分にできることをやるだけ。それが彼らにとって一番の助けになるのよ」と優しく言った。 前線が混乱しているなら、後方はしっかり支えなければならない。 さもなければ、前後から挟み撃ちにされるだけだ。 「うんうん、確かにそうね」 里香はふと、「ご飯食べた?」と尋ねた。 かおるは首を振り、「ニュース見てすぐ飛んできたのよ。それでうちの上司と喧嘩しちゃった……あのクソ上司、毎日毎日くだらない会議ばっかりで、本当うんざり」と愚痴をこぼした。 里香はそんな彼女の文句を聞きながら、なぜか少し気持ちが落ち着いた。「上司なんてそんなものよ。我慢するしかないわね」 かおるはソファにぐったりと倒れ込み、「だよねぇ……結局そうするしかないか」とため息をついた。 里香はキッチンへ行き、さっと麺を作ると、すぐにかおるを食卓に呼んだ。 食事を終えた後、二人はスマホを手に取り、事態の進展を見守る。 今回の二宮グループの対応も、前回と同じだった。 すぐに声明を出すことなく、しばらく様子を見るという方針。 不思議なのは、午
星野がスマホを手に、画面を見せながら里香に近づいてきた。ちょうど荷物をまとめていた里香は、その声に顔を上げ、首をかしげた。「どうしたの?」星野が見せた画面には、またしてもトレンドを独占している一本の動画が映し出されていた。動画の中では、中年の男女がカメラの前で涙ながらに訴えている。その背後に映るのは、まさに二宮グループ傘下の病院だった。中年の女性は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、震える声で叫んだ。「うちの娘が、あの大企業の社長の奥さんに車で轢かれて、腕を骨折したのよ!なのに、私たちは何も知らされなかった!娘はこの病院に閉じ込められて、私たちは会うことすら許されなかったの!前に、あの社長が私を殴ったのも、娘に会わせろって頼んだからよ!それなのに、連れて行かれるばかりで、もう一ヶ月以上も家に帰ってないのよ!親が娘に会いたいと思うの、そんなに悪いこと!?」隣にいた中年の男性も、怒りと無力感をにじませながら言葉を絞り出した。「たまたま体調を崩して病院に行ったら、そこで娘を見つけた……でも、一ヶ月ぶりに会った娘はガリガリに痩せ細ってて、骨折だって全然治ってなかった!それなのに、轢いた本人は未だに娘に会わせようとしないどころか、病院まで転院させたんだぞ!しかも、この病院には警備員がいて、俺たちは中に入ることすらできない!ただ娘に会いたいだけなのに、なぜ邪魔をする!?まさか、娘を実験にでも使ってるんじゃないのか!?娘を返せ!!」悲痛な訴え、怒りに満ちた表情、そして涙——カメラの前で「悲劇の親」を演じるには、これ以上ないほど完璧な姿だった。コメント欄には、早速「関係者」と名乗る人物たちが書き込んでいる。【あの日、病院で一部始終を見てたけど、二宮社長は横暴にも、この動画の女性を蹴り飛ばしてたよ。女性が警察を呼ぶって言ったのに、社長は「誰が見た?」って言い放って、誰も口を開けなかった。これが資本の力ってやつか】【私も見てたけど、あの夫婦はただ娘に会いたいだけだったのに、どうしてそんなに拒むのか、全然理解できない】【その女の子、私も見たけど、本当に痩せ細ってて痛々しかった……轢いたなら、ちゃんと賠償して治療すればいいのに、なんで親にすら会わせないの?】【上の奴ら、どこから湧いてきた「関係者」なんだ?あの夫婦が病院でどれだけひど
里香が尋ねると、聡は「ちょっと個人的な用事を片付けてたんだよ」と言いながらオフィスに入ってきた。そして、にこにこと星野を一瞥し、里香に向かってウインクした。「どうした?私のこと、恋しかった?」軽口を叩く聡に、里香はうんざりしたようにため息をつき、サッと手を押しのけた。「ちょうど確認してもらいたい書類が山ほどあるの。さっさと仕事に取りかかって。スタジオの発展を妨げないで」「……」仕事バカめ……!だったら、もう少し遅く戻ってくればよかった。とはいえ、自分が何をしていたかは話さない方がいいだろう。もし知られたら、間違いなく怒られるし。せっかく雅之と里香の関係が少し和らいできたのに、ここで余計なことをしてぶち壊したら、歴史に名を刻む大罪人になってしまう。「はいはい、やりますよ。みんなはサボっててもいいからね?」聡は肩をすくめながら微笑み、くるりと踵を返してオフィスへ向かう。ただ、星野の横を通る際に、意味深な視線を送るのを忘れなかった。星野は軽く眉をひそめたが、特に相手にはしなかった。里香は視線をパソコンに戻し、ライブ配信を終了させる。これでひとまず、今回の騒動は収束するはずだ。その時、スマホの着信音が鳴り響く。画面を見ると、雅之からの電話だった。「もしもし?」電話に出ると、低く魅力的な声が耳に届いた。「ライブ、見た?」「うん、見たよ」すると、雅之はくすっと笑い、「僕の姿に惚れ直した?」と聞いた。「……」思わずスマホを見つめた。え、今なんて?動画の件について話すためにかけてきたのかと思っていたが、まさか最初に出てくる言葉が「僕、かっこよかった?」だなんて!呆れたようにため息をつき、「今回のこと、これで解決ってことでいいの?」と話を逸らした。だが、雅之は軽く笑いながら、「どうして質問に答えないの?ライブのコメント見た?みんな『イケメンすぎて許せない』って騒いでたぞ?」「……」「里香、本当にもう一度考え直さない?こんなイケメンの夫と離婚するなんて、本当に後悔しない?」「……」こいつ、何を言ってるんだ?「もう決めたことよ」ピシャリと言い放ち、ためらうことなく電話を切った。この男、本当にくだらないことばっかり……!二宮グループ・社長室。通話終了の画面
「桜井」「はい」桜井は即座にパソコンを開き、背後のスクリーンに映像を映し出した。「皆さん、まだ全貌を見ていませんよね?」そう言うと、記者たちの視線が一斉にスクリーンに向けられた。映像には病院の廊下が映し出されている。その中央付近、ある病室の前で、中年の男女が大声で怒鳴り散らしていた。そこへ、一人の若い女性が歩み寄り、二人と口論を始める。カメラの角度のせいで、彼女の顔は映っていない。だが、その直後、中年女性が彼女に手を振り上げるのがはっきりと映っていた。その瞬間、雅之が動いた。「これが、完全な映像です」桜井はタイミングよく映像を一時停止し、続けた。「うちの社長は、正義感から動いただけです。ネット上で騒がれているような暴力的な行為をしたわけではありません。本当に犯罪なら、警察が裁くはずです。皆さんの勝手な憶測ではなくね」映像を見終えた記者たちは、呆気に取られた表情を浮かべていた。こんな展開だったのか?これ、どう見ても正当防衛じゃないか?【ほら見ろ!あんなにイケメンなのに、横暴なことするはずないって思ってた】【最初から怪しかったよ!映像が短すぎたし、ここ数日やたら拡散されてたし、もしかしてこれは商戦?】【つまり、ライバルグループが社長を貶めるための戦略ってこと?】【でも、だからって手を出していい理由にはならなくない?相手は年上だし、もし怪我でもさせてたらどうするの?】コメント欄には、賛否さまざまな意見が飛び交っていた。雅之は立ち上がると、冷静に言い放った。「事実は目の前にある。それ以上話すことはない。疑問があるなら、直接警察に通報しろ」そう言うなり、彼は会議室をあとにした。記者たちは困惑していた。新たな情報を引き出せると思っていたのに、まさかの釈明会見。しかし、この映像が公になった以上、ネットの流れは確実に変わるはずだ。よほどの新たな展開がない限り。その頃、里香も配信を見ていた。雅之が冷静に対応する様子を見ながら、気づけば自然と微笑んでいた。あれほど面倒くさそうにしていたのに、結局は会見に出た。しかも、映像が流れている間、スマホをいじっていて無関心そうだった。つまり、この件は彼にとって大した問題ではないのだろう。そして里香の顔は映らなかった。名前さえも出