「清香、本当に神谷晄夜(かみや こうや)を置いて外国へ行っちゃうの?」 静かなカフェの中で、綾瀬清香(あやせ さやか)は手元のスプーンをそっと皿の上に置くと、驚きを隠せない友人の中村まどか(なかむら まどか)を静かに見つめ、淡々と口を開いた。 「彼とはもう、離婚したの」 「離婚ですって?!」 予想もしなかった言葉に、まどかは思わず声を上げた。すぐに、清香のために怒りがこみ上げる。 「晄夜さんも、よく同意したわね。この3年間、あなたはどれだけ尽くしてきたか……石だって温めれば熱くなるっていうのに。あの人、本当にあなたに何の感情もなかったのかしら?」 清香はそっと微笑み、瞳の奥でかすかな揺らぎを見せた。
View More目を覚ますと、窓の外は一面の銀世界だった。雪は静かに、しんしんと降り続いている。清香が階下へ降りると、道端には晄夜が立っていた。彼は黙って近づき、スーツケースに手を伸ばしながら、どこか言葉にできない複雑な響きを帯びた声で言った。「今日は雪がひどくて、タクシーもつかまらない。空港まで、送らせてくれないか?」今度は、清香は首を横に振らなかった。彼がまだ何か、語り残した言葉を抱えていると直感でわかったから。そして——この別れにはもう「次」がないことも。終わりを告げるための、最後の時間だった。車がゆっくりと走り出す。雪道のせいか、あるいは彼の意図的な遅さか。けれど時間にはまだ余裕があった。清香は言葉を発することなく、ただ窓の外の白い景色を見つめ続けた。時が流れる中、静寂に耐えきれなくなった晄夜がようやく口を開いた。心の波立ちを押し隠しながら、彼女の心を引きとめようとするように。「清香、二年目のクリスマス、覚えてる? あの時も大雪だった。母さんの体調が悪くて、君が一緒にお寺まで祈願に付き合ってくれた。そのとき俺が引いたおみくじ、こう書かれてた。『願わくば、ただひとりの心を得んことを』……」その言葉を聞いて、清香もあのときの光景を思い出した。おみくじを解いた老僧が、こんなことを言っていた。「それは縁であり、劫でもある。早く悟ることができれば、それは吉兆へと転ずるだろう」彼女はその意味が分からず、自分への言葉だと思い悩んでいた。あの頃の彼女は、彼と永遠を願っていたのだ。けれど今となってはわかる。くじを引いたのは彼だった。あの言葉も、彼に向けられたものだったのだ。そして、彼が心から手を取りたいと願った相手も、結局自分ではなかった。そのことに思い至り、清香はそっと笑った。「あまり、覚えていないわ」晄夜はしばらく黙り込んだが、すぐにまた話題を変えた。語られたのは、彼らが夫婦として過ごした日常のささやかな記憶だった。彼女の記憶にはもう霞んでいるそれらの出来事を、彼はまるで宝物のように細やかに語った。それは、この一年のあいだ、何度も彼が反芻していた想い出だった。けれど、清香の表情には懐かしさの影も差さない。やがて車は空港に到着した。彼女がスーツケースを引いて車を降りようと
仕事の都合で、清香は最上階のペントハウスを借りた。翌日、隣室に誰かが引っ越してきた。それは、晄夜だった。京北に戻ってきてからの一ヶ月、彼女は思いがけず、いや、あまりにも頻繁に彼と出くわした。スーパーの陳列棚の前、火鍋屋の入り口、公園の片隅——本来なら彼のような人間が足を踏み入れることのないような場所で、彼は現れた。清香は気づいていた。彼が自分の後をつけていることに。たまに鉢合わせになれば、二人は形式的な挨拶を交わした。その他の時間、彼はただ静かに彼女の後ろを歩いていた。まるで影のように。やがて清香も、そんな存在に慣れていった。「無料のボディーガードが付いてると思えば、悪くないか」——そんな風に自分に言い聞かせながら。隣人になってからは、顔を合わせる頻度も増え、晄夜の笑顔も日に日に柔らかさを帯びていった。夕食、散歩、外出——彼は事あるごとに誘ってきた。けれど清香は、いつも丁寧に断った。「ごめんなさい」その一言が彼の目に一瞬の陰りを落とす。それでも彼は、翌日になればまた何事もなかったように現れ、元気よく声をかけてくる。その姿に、ふと大学時代の彼を思い出した。瑤子の機嫌をとるために、懸命に笑っていた彼。怒らせないように、拒まれないように、必死だったあの頃と同じだった。だが、清香は瑤子ではない。与えられる愛情を当然のように受け取ったり、弄ぶ趣味もない。清香はただ、静かに自分の人生を生きていきたいだけ。それだけでいいのだ。季節は巡り、春が過ぎ、夏が過ぎ、そして秋が深まる頃——一年にわたるこのプロジェクトも、いよいよ終わりを迎える。契約終了日は、清香の25歳の誕生日と重なっていた。彼女はその日に合わせて、サンフランシスコ行きのフライトを予約していた。出発の前夜。深夜まで荷造りをしていると、外では静かに小雪が降り始めていた。時計の針がちょうど12時を指したとき、ドアがノックされた。開けると、ケーキを手にした晄夜が立っていた。「誕生日、おめでとう。」微笑んでいたはずの彼の横顔に、なぜかかすかな哀しみがにじんで見えた。清香は一瞬、時が止まったように感じた。けれどすぐにいつもの落ち着きを取り戻し、礼儀正しくお礼を言った。ろうそくに火が灯され、彼女は目を閉じて静かに願いを込めた
二日間の短い休息を経て、清香はすぐさま仕事モードに切り替えた。彼女は詩織に同行して提携交渉に臨み、その中で実務的な知識や交渉の勘どころを数多く学んでいった。プロジェクトの進行は驚くほどスムーズで、まるで最初から障害など存在しなかったかのようにすべてが自然と運んでいった。神谷グループとの正式な打ち合わせの際、晄夜本人は姿を見せず、副社長が代理として出席した。彼がそこにいないことに、清香は心の底でそっと安堵し、あらかじめ用意していた契約書を手渡した。先方はその内容を確認すると、協力的な姿勢を見せた。ただ、一つだけ条件を加えてきた。契約期間中、両社の調整役として連絡窓口を担う人物を清香にしてほしいと。詩織はすぐに気づいた。これはきっと、晄夜の意向だ。彼はこのプロジェクトを口実にして、清香をそばに引き止めたいのだと。少し迷った末、詩織は彼女本人の気持ちを確かめるべきだと判断し、打ち合わせを終えた後、近くのカフェでふたりきりの時間を設けた。「清香、ちょっと唐突なんだけど、もし差し支えなければ、晄夜との結婚のこと、話してもらえないかな?」清香は一瞬だけ沈黙し、やがて静かに頷いた。そして、四年間の学生生活と三年間の結婚生活——彼女の人生の三分の一に及ぶ年月を、まるで他人の物語でも語るかのように、淡々と話して聞かせた。あの数えきれない夜を支えてくれた深くて大きな愛も、結局は時間の中で少しずつ削り取られ、今では痕跡も残っていない。話し終えたとき、詩織は言葉を失っていた。どんな励ましも慰めも、この場ではただ空虚に響くだけだった。静寂だけが、個室の空気を何度も往復した。その沈黙の中で、清香は彼女の目に宿る哀しみと優しさに気づき、ふわりと微笑んだ。その微笑みは、すべてを越えた人だけが持つ、静かな確信と穏やかさに満ちていた。「詩織さん、あなたが迷ってるのは分かってる。プロジェクトを成功させたい、でも私にまた傷ついてほしくはない。私が昔話をしたのはね、もうとっくに過去を手放せているって、伝えたかったの。彼らがどんな理由で私を指名してきたとしても、私にとってはただの仕事。経験は少ないかもしれないけど、あなたが必要としてくれるなら、チームのために、私は全力で応えるよ。期待は絶対に裏切らないって、そう決めてるから」まっすぐなその
取り巻きたちがその言葉に続いて、嘲るように笑い声を上げた。怒りに震えたまどかが前に出ようとしたその瞬間、清香はそっと彼女の腕を取って止めた。彼女は静かに、しかし真っ直ぐに瑤子を見つめ、落ち着いた口調で言った。「そのお金は、晄夜が自ら申し出たものよ。あなたが流布した噂と同じように——正々堂々、何ひとつ後ろめたいことはないわ」そのまま、彼女は一歩も引かず、瑤子の表情を意にも介さずに、まどかの手を引いてその場を後にした。だが、痛いところを突かれた瑤子は、羞恥心と怒りで我を忘れ、ちょうど通りかかった店員を思わず押し出した。熱々のスープ鍋が激しく傾き、湯が清香たちにかかる寸前——そのとき、晄夜が現れた。彼は何のためらいもなく、二人の前に飛び出し、全身でその災難を受け止めた。ジュウッという音が響く中、彼の左腕には瞬く間に水泡が広がり、顔面は蒼白に染まっていた。まさか彼がここにいるとは夢にも思っていなかった瑤子は、慌てて駆け寄ろうとしたが、晄夜は激痛に耐えながらも、その目には凍てつくような冷たさをたたえて彼女を睨みつけた。「ご両親の顔を立てて、これまで君のことは黙認してきた。けど、いつまでも分別のないことを繰り返すなら容赦しない」彼の言葉に瑤子が何か言い返そうとする暇も与えず、晄夜は驚きと混乱の中にいた清香たちを連れて、その場を離れた。夜風に吹かれながら、清香の心も少しずつ落ち着きを取り戻していった。彼の火傷を目にし、彼女はためらうことなくポケットから鍵を取り出し、自ら運転して病院へ向かった。到着した病院で、広がる火傷を見た看護師は仰天し、すぐに医師を呼びに走った。時刻は深夜。翌日仕事を控えるまどかを清香は何度も説得して帰らせた。急患処置室には四人だけが残った。晄夜の額から汗が滴り落ちそうになるたび、清香は静かにティッシュで拭い続けた。彼は苦しげな声で、息を詰まらせながら言った。「僕が怪我をしたのは君のせいじゃない。彼女が君を恨んだのも、元はといえば僕のせいだ。本当に、すまない」どちらが悪いか、善悪の境はこの場においてはもう意味がなかった。清香は何も答えず、処方箋を持って薬を取りに行った。戻ってきた時、彼の治療はすでに終わっていた。医師の丁寧な説明を聞いたあと、二人はようやく病院を後に
ホテルで荷物を整理し終えた頃には、雨もすっかり止んでいた。清香はバッグを手にレストランへ向かい、まどかと再会した。二人はしっかりと抱き合い、久しぶりの再会を喜びながら、お互いの近況を語り合った。晄夜から財産の半分を得たと聞いた瞬間、まどかは目を見開き、まるで皿でも飲み込みそうな表情になったかと思うと、そのまま清香に飛びついた。周囲の視線などお構いなしに、大声で叫び出した。「きゃああああああ! うちの親友が富豪になってるーっ!? やばい、今あたしこの大金持ちの太ももにしがみついてるんだけど!? これで残りの人生、安泰じゃん!」清香は慌ててまどかの口を押さえ、まわりの客に会釈して謝りながら、急いで彼女を個室へと連れて行った。ようやく静かになったところで、まどかは目を輝かせながら小声で尋ねた。「で、ほんとに振り込まれたの?」「うん、でも、使うのがちょっと怖い。なんか、落とし穴があるような気がして」その弱気な返答に、まどかは思わず手を握り、説得を始めた。「はあ? 何それ。堂々としなよ! あんたの正当な権利だってば。晄夜がくれたもんでしょ? 無理に結婚したわけでもないし、気にせず使っちゃいなよ!」その言葉に、清香の表情も少しずつ柔らかくなっていく。まどかは満足げにメニューを掴み、ろくに目を通すこともなく、店員にパシンと手渡した。「このお店で一番高いオーストラリア産ロブスター、ちょうだい!」大仰に注文を済ませた彼女は、得意げに顎を上げた。「どう? さっきの私、なかなかそれっぽくなかった?」清香は笑いながら両手で親指を立てた。「完璧だったわ。ただ……レシートが来た時、うちの中村社長はその余裕顔を保てるのかしら?」「ちょ、清香!? 今日のご飯、あんたのおごりでしょ?えっ、もしかして割り勘!?」そんなやり取りに笑い声がこだまし、楽しい時間が流れていった。食後、清香が会計のために店員を呼んだその時——背後から、不意に聞き覚えのある嫌味な声が飛んできた。「へえ、こんなところで清香に会うなんてねぇ」二人が振り向くと、階段を下りてきたグループが目に入った。見覚えのある顔ぶれは大学時代の同級生たち。そしてその中心には、以前と変わらず華やかに着飾った瑤子がいた。まどかはすぐに耳元でささやいた。
空港に降り立ったとき、清香の胸の内はかつてこの地を去ったときとはまるで別人のように澄み渡っていた。彼女はスーツケースを引きながら、詩織と笑顔で会話を交わしつつ、ゲートをあとにする。何気ない話に花を咲かせていたその時、詩織が遠くに両親の姿を見つけ、手を振って合図を送った。詩織はにこやかに清香を両親へ紹介し、両親は「ぜひうちに」と快く招待してくれたが、久しぶりの家族団らんに水を差すまいと、彼女は丁寧に辞退した。別れを告げ、一人で空港の外へと出た彼女を待っていたのは、激しく降りしきる雨だった。車の姿は見えず、配車アプリを開こうとしたその瞬間、黒い車が目の前に滑り込むように停まった。驚いて顔を上げると、傘をさして近づいてくる人影があった。晄夜。数ヶ月ぶりに見る彼の姿は、以前よりもほっそりとしており、緑のトレンチコートを纏ったその佇まいは、まるで静かに風に揺れる竹のように清冽だった。まさかの再会に、清香は思わず足を止めた。彼は一言も発さず、まっすぐ彼女のもとに歩み寄ると、どこか読み取りづらい感情を湛えた瞳で静かに言った。「久しぶりだね、清香。元気にしてた?」その声に彼女は反射的に数歩後ずさり、距離を取った。「まあ、それなりに」感情のこもらないその言葉に、晄夜は僅かに表情を曇らせた。けれど、それも当然のことだと彼はすぐに悟った。二人はもう法的にも他人だ。彼は気を取り直して、彼女のスーツケースに視線を落とした。「雨がひどいから、ホテルまで送るよ」スマホに表示された「配車済み」の通知を見せながら、清香は首を横に振った。「もう車を呼んだので、大丈夫です」「じゃあ、この傘を持って。荷物が濡れてしまうだろ?」なぜ彼がこんなにも親切にするのか、彼女の胸には不思議な違和感がこみ上げてくる。「別にあなたの助けはいりませんし、もう私たちに関係なんて必要ないと思いますけど。神谷社長は、どうですか?」鋭く切り込むその一言は、まるで心の奥に突き刺さる針のようだった。袖口の中でわずかに震えた指を隠すように、彼は苦笑を浮かべながらも無理に声を保つ。「離婚しても……友達にはなれないかな?」彼女はスマホをしまい、鞄から傘を取り出すと、遠ざかってくる車に目をやった。「結婚する前から、私たちはただの同級生で
清香は、詩織の意図を正直に言ってまだ掴みきれていなかった。入社してわずか数ヶ月の自分が、この重要なプロジェクトに同行する理由はなんなのか——考えれば考えるほど、答えは一つしか浮かばなかった。自分が「晄夜の元妻」であること。それ以外に、彼女が連れて行かれる理由など思いつかなかった。だが、晄夜は自分を愛していなかった。離婚のときも、ためらいなどひとつもなく、潔く別れを受け入れ、その後も一度たりとも連絡はなかった。そんな彼が、どうして「彼女のために」何かを譲歩するだろうか。誤解を避けるためにも、正直に話しておこう。清香は静かに口を開いた。「詩織さん、私……もう離婚しています。それを隠していたわけではなく、関係ないと思って話していなかっただけです。でも今回のプロジェクトは大切な案件ですから、ちゃんと伝えておこうと思って。私と晄夜は、ただ籍を入れていただけの関係でした。彼は私を愛していなかったし、私たちの間に夫婦の絆なんてなかった。離婚も円満に終わっています。彼は情には厚いけれど、肝心な場面ではきちんと線引きのできる人です。もし私を同行させれば交渉がうまくいくと考えているなら……それは期待しすぎかもしれません」自らの口でその結婚の真実を語る彼女の姿に、詩織は言いようのない違和感を覚えた。彼女を椅子に促し、ふと問いかけた。「それでも、本当に……晄夜はあなたに気持ちがなかったと思う?」清香は少しも迷わずはっきりと頷いた。その揺るぎない瞳を前に、詩織の脳裏にサンフランシスコを離れる直前の晄夜の姿が蘇った。「先生……実は僕と清香は、夫婦でした。正確には、今は離婚しています。僕の不甲斐なさが原因で、彼女に見限られてしまいました。清香の意志は固くて……これ以上彼女を苦しめたくなかったので、僕は彼女の決断を尊重しました。でも、僕はまだ彼女とやり直したいと本気で思っているんです。ただ今は、少し距離を取るべきだと。だから、彼女が滞在している間、どうかそばで見守ってあげてほしいんです。お礼として、ROプロジェクトのご相談に乗ります」いくら時間が経っても、あの時の晄夜の落ち込んだ顔と、真剣そのものの声は詩織の記憶から消えることはなかった。晄夜のような男が、たいして感情も残っていない元妻のために、IT業界の大手企業がこぞって
レストランを出た後、清香はまっすぐ自宅へは戻らず、詩織のもとを訪れた。彼女が一人でやって来たのを見て、詩織は少し意外そうに眉を上げた。「晄夜は?」「詩織さんが帰ったあと、彼も急な用事があるって。私、数日後に正式入社だから、先に会社の雰囲気を見ておきたくて」詩織はそれ以上詮索せず、ちょうど業務も一段落していたことから、彼女を連れて社内を丁寧に案内してくれた。仕事が終わる頃にはすっかり日が落ちており、二人はそのまま夕食を共にした後、清香はアパートへと戻った。スマートフォンを開くと、晄夜からの友達申請が届いていた。その瞬間、彼が別れ際に言った言葉が脳裏をよぎった。「君が本気で離婚を望んでいるなら、僕はそれを尊重するよ。僕には君の想いに応える資格がなかった。本当にごめん。ただ、三年間も夫婦だったんだ。たとえ別れても、友達として繋がっていられないかな?」友達?果たして彼と、そんな関係が必要なのだろうか。清香の中では、「きれいに別れて、二度と関わらない」——それが唯一の選択肢だった。だから、申請はその場では承認しなかった。夜10時、そろそろ休もうとしたとき、またしても申請が届いた。今度はメッセージ付きだった。【離婚協議書の件で、いくつか相談したいことがある】その文言を見て、彼女はすぐに申請を承認した。晄夜は余計な前置きもなく、赤字で修正された協議書のファイルを送ってきた。開いてみると、財産分与の項目が折半に変更されていた。つまり、離婚後、彼の資産の半分を清香が受け取ることになる。思わぬ資産には不安を覚え、彼女は即座に音声メッセージを送った。【財産については、もとの内容のままでいいです。こんなに多くいただいたら、さすがに気が引けます】予想通りだったのか、彼からはすぐに返信が届いた。【君が金目当てで僕と結婚したんじゃないことくらい、ちゃんとわかってる。これは償いでも恩返しでもない。ただの法的な分配だ。君が受け取るべき正当な権利なんだ】いくら説得しても彼の考えは変わらず、彼女はついに折れた。好きにして。そう心の中で呟き、チャットを閉じた。時は流れ、彼女は本格的に仕事に打ち込み、少しずつ職場の空気にも慣れていった。1ヶ月後、手元に届いたのは、正式な離婚届と、それに付随する莫大な資
この食事会は、約一時間ほど続いた。その間ずっと、詩織が両者の間に入って会話を繋ぎ、場の空気を保っていた。清香は終始黙々と食事に集中し、晄夜は胸の内に積もった言葉を飲み込むばかりだった。食事も半ばを過ぎた頃、会社から急な呼び出しが入り、詩織は慌ただしく席を立った。師弟の再会は、思いがけず、離婚した元夫婦の静かな対話の時間へと変わっていた。レストランに漂っていた和やかな雰囲気は、たちまち静寂に包まれる。清香は最後のひとかけらのステーキを口に運び終えたあと、差し出されたナプキンには目もくれず、自ら新しいものを引き抜きながら、淡々と、それでいて率直に言った。「言いたいことがあるなら、今、全部言って」その言葉に、晄夜の手は空中で止まり、彼女の視線と真っ直ぐに交差した。わずか一日しか経っていないのに、目の前の彼女は、三年間隣にいた妻とはまるで別人のように思えた。変わったのは彼女なのか、それとも、最初から彼が彼女の本当の姿を見ていなかったのか。思い返しても、三年間の結婚生活で、彼は彼女の表情をどれだけ見ただろう。心の揺れにどれだけ寄り添っただろう。彼女はいつも、静かな湖のようにそこに在った。風も波も立たぬその水面を、彼はただ当たり前のように眺めていたにすぎなかった。だが、気づけばその湖の水は動き出していた。迷いなく、静かに、そして決然と、自分の手が届かない場所へと流れていった。慌てて追いかけたとき、ようやく彼は知った。その水は思っていたより深く、優しく、そして強い流れを持っていたことを。自分の都合で留めておけるようなものではなかったのだ。かつての「安らぎ」は、思い上がりに過ぎなかった。目の前に立つ新しい清香。その存在に戸惑いながらも、晄夜は彼女が離婚を決意した理由が、自分にあることをよくわかっていた。だから、まずは真摯に謝罪した。「清香……ごめん。この三年間、夫として何もできなかった。君にちゃんとした家庭を与えられなかったし、君の思いにも応えられなかった。本当に、申し訳ない」彼の言葉には嘘はなかった。けれど清香の心は、もはやその謝罪で揺れるような柔らかさを持っていなかった。彼女は分かっていた。自分たちの関係は、始まりから間違っていたのだと。愛されていない相手と一生を共にする——その選択
「清香、本当に神谷晄夜(かみや こうや)を置いて外国へ行っちゃうの?」静かなカフェの中で、綾瀬清香(あやせ さやか)は手元のスプーンをそっと皿の上に置くと、驚きを隠せない友人の中村まどか(なかむら まどか)を静かに見つめ、淡々と口を開いた。「彼とはもう、離婚したの」「離婚ですって?!」予想もしなかった言葉に、まどかは思わず声を上げた。すぐに、清香のために怒りがこみ上げる。「晄夜さんも、よく同意したわね。この3年間、あなたはどれだけ尽くしてきたか……あの人、本当にあなたに何の感情もなかったのかしら?」清香はそっと微笑み、瞳の奥でかすかな揺らぎを見せた。実のところ、綾瀬清香自身も、神谷晄夜が本当に離婚に同意したのかは分からなかった。半月前、離婚協議書を渡したとき、彼は電話に気を取られたままろくに話も聞かず署名し、慌ただしく去って行ったのだから。その後、彼は何も尋ねてこなかった。あと半月もすれば離婚が成立する。彼女はやっと自由になれるのだ。何か言おうとしたその時、二人の背後から静かな低音が響いた。「話は終わった?」二人が振り返ると、黒いコートを纏った晄夜が、長い脚をゆったりと動かしながら近づいてきた。中村まどかは怒りが収まらず、勢いよく立ち上がり問い詰めようとした。「晄夜さん、清香があなたと離……」「どうしてここに?」清香はまどかの手を優しく押さえてなだめ、ゆるく首を振って言葉を遮った。「天気予報で雨だと言っていたから、ついでに迎えに来たんだ」清香は初めて安心したように微笑み、まどかに軽く手を振って別れを告げると、バッグを手に取り、彼とともにカフェを後にした。帰り道、車の窓には細い雨粒が静かに流れていた。車内は沈黙に包まれている。成り行きで妻となったこの女性を前に、晄夜は何か話をしようと口元を動かしかけたが、半月も家を空けた自分には、気の利いた言葉も浮かばなかった。重苦しい沈黙を破り、彼はようやく思い出したように尋ねた。「清香……半月前に君が僕にサインさせた書類、あれは何だったんだ?」今さら気づいたの?だが、無理もない。彼は最近ずっと藤原瑤子(ふじわら ようこ)の周囲を回ってばかりで、そんな些細なことに意識を向ける暇などなかったのだから。清香が皮肉めいた笑みを浮かべ、何か答えようと...
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