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店員と常連客-03

last update 最終更新日: 2024-12-10 11:58:54

十七時半のチャイムと同時にパソコンをシャットダウンし、「お疲れ様です」と告げて足早に会社を出る。

夕方の渋滞をくぐり抜け保育園へ海斗を迎えに行き、ようやく家に帰ると十八時半近く。夕飯は母が用意してくれることが多くて、それはとてもありがたく助かっているのだが……。

「海斗お風呂入るよー。って、寝てる?」

洗い物をしている間に、大人しくテレビを見ていた海斗はいつの間にか床にゴロンと寝転がり、すやすやと寝息を立てていた。

「もー、仕方ないなぁ」

こんなことは日常茶飯事だ。

初めは戸惑ったり、抱っこしただけで筋肉痛になったりしたけれど、最近はもう慣れっこになった。イライラすることも少なくなり、仕方がないで済まされる。

寝室の布団を雑に敷いて、海斗を担いで運ぶ。その間もまったく起きない海斗は、きっと朝まで爆睡だろう。

「最近暑いから、海ちゃんも疲れてるのねぇ」

「汗かいてるからお風呂には入れたかったけど。朝シャワーでもさせるか」

「一日お風呂入らなくったって死にやしないわよ。紗良だって子供の時はお風呂に入らずよく寝ちゃってたわ」

「子供あるあるなのね?」

そういうことも、ようやく慣れてきたというかわかってきたというか。

紗良なりに理解できてきた事柄だ。

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    最終更新日 : 2024-12-10
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    杏介がいつものチャーシュー麺を注文すると、紗良は遠慮気味に、だけど少し前のめりになって言う。「今日からデザートメニューにソフトクリームが追加されたんです。よかったらどうぞ」「ソフトクリーム?」「そうなんです。カップかコーンが選べて。私、くるくる回すの練習しました!」ジェスチャー付きで目をキラキラさせて訴えてくるので、それはもう頼むしかないんじゃないかと半ば誘導される形で杏介は頷く。「ありがとうございます。綺麗なのお作りしますね」「楽しみにしてます」紗良はニッコリ笑うと、紺色のエプロンを翻して厨房へ戻っていった。そんな彼女の背を目で追いかけながら、何とも単純な自分に笑いが込み上げてくる。杏介は普段甘いものなんてそんなに食べない。それなのにどういう風の吹き回しなのだろう。すっかりと紗良のペースに巻き込まれて、頭の中は彼女のことばかり。だからいつものルーティンである文庫本を読むのを忘れてしまっていた。あっという間にラーメンが運ばれてきてしまう。「ソフトクリームは食後にお持ちしますね」「どうも」ラーメンと共にまた可愛らしい笑顔を置いていく紗良。その後、綺麗に巻かれたソフトクリームのカップを持って杏介の前にそっと置いた紗良は、思い切りドヤ顔をしていて、杏介は思わず吹き出してしまった。「完璧なソフトクリームができました!」「確かに。食べるのがもったいないくらい」「いえ、食べてください。美味しいので」「はい、いただきます」「はーい、ごゆっくりどうぞ」言われるがまま、今日はずいぶんとゆっくりしてしまった気がする。(ラーメンからのソフトクリームも悪くないな)紗良の商売上手さに舌を巻きながらも、妙に心が弾んだのは気のせいだということにしておこう。杏介はいい気分でラーメン店を後にした。

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  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   父の日-02

    「えっと……?」保育園にお迎えに行き、先生から手渡された海斗が制作した『父の日の似顔絵』を見て、紗良は固まった。「海斗くんには父の日とは言わずに、大好きな人の絵を描こうねって言ったんですけど、皆と同じがいいって言うので……」「あー、そうなんですね……」色画用紙で枠組まれた『父の日の似顔絵』には、クレヨンで描かれた顔っぽい何か。男か女かわからないけれど、髪の毛らしきものは短いから男なのか、と思わなくもない。それはいいとして。枠には先生の字で『おとうさん、いつもありがとう』と書いてあった。「誰を描いたのか聞いたら、タキモト先生って言うので、タキモト先生ありがとうって書こうかって提案したんですけど、どうしても皆と同じ、おとうさんいつもありがとうがいいって言うので……すみません」「いえいえ、こちらこそ、気を遣っていただいて、すみません」しばらく先生と謝り合戦をしてしまった紗良だったが、何か聞き捨てならない言葉を聞いたような気がする。「海斗、これ誰を描いたの?」「たきもとせんせー」「……プールの?」「うん、プールのせんせー」「そう……」プール教室で滝本先生にやたら懐いているとは思っていた。 けれど、絵に描くほど好きだったとは。(あの先生、面倒見よさそうだもんなあ)なんてぼんやり考えていると……。「かいと、せんせーにプレゼントしたい」「は?」「たきもとせんせーに、これ、わたす」「……いや、それはちょっとどうかと思うよ」紗良は当たり障りのない言葉でサラっと流そうとするが、海斗は引き下がらない。(滝本先生が好きなのはわかった。わかったけど、あげられないでしょ。だって、おもいきり『おとうさん、いつもありがとう』って書いてあるし。さすがにもらう方もドン引きでしょ)心の葛藤が顔に出るほどに紗良の眉間にはシワが寄った。

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    最終更新日 : 2024-12-15

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    翌日、杏介は一人で病院を訪れていた。「杏介くんにまで迷惑かけちゃってごめんねぇ」一般病棟に移った紗良の母は相変わらず元気でニコニコと笑う。 一時失語症があったとは思えないくらいに回復していた。「お母さんには早く元気になってもらわないと」「これからリハビリも始まるのよ。見てよ、まだ全然左側が動かないの。わたし、呂律も回ってるかしら?」「ええ、ちゃんと聞き取れますよ」杏介は持ってきたタオルやパジャマを棚に片づける。 洗濯物としてまとめられていたビニール袋を持ってきたバックに代わりに入れた。 こうやって親のために何かをすることは初めてな気がして杏介は少し緊張した。 もちろん本当の親ではないけれど、それでも自分の母親と同世代の紗良の母の世話をすることはなんだか感慨深いものがある。「ねえ、 杏介くんから見て紗良って無理してない?」「無理してますね」「やっぱり? あの子意外と頑張り屋さんなのよ。一人で何でもやろうとしちゃって」「そう思います。僕も紗良さんの力になりたいんですけど、全然頼ってもらえなくて」杏介は頷く。 今日ここに杏介が来ることになったのも、遠慮した紗良を遮って杏介が強引に決めたことなのだ。 「ねえ杏介くん、紗良のこと好いてくれてありがとうね。親はいくつになっても子供のことが気になっちゃってねぇ」ふふふ、と紗良の母は笑う。 その表情はとてもやさしくて、眩しく見えた。「いえ、羨ましい……気がします」「そういえば杏介くんはあまり親と上手くいってないんだっけ?」「そうですね。僕が避けているというか……」言葉を濁すと母はぶはっと吹き出した。「あはは! 親はいなくとも子は育つってね。いいんじゃない、そういう人生もありよね」「そうですか? 僕はちょっと後悔もしていたりして――」「あら、そうなの?」「……出来れば仲良くやりたかったですね。今更ですけど」「そっかぁ。でも今からでも遅くないかもね? まあ頑張りなさいって」母は動く右手で杏介の腕をバシンと叩いた。 とても病人とは思えない力強さに驚くと共に勇気づけられるようだ。「お母さん、お元気でなによりです。すぐ退院できるといいですね」「そうでしょう? 元気だけが取り柄なのよ、私。動かないのが利き手じゃなくてよかったわ」紗良の母は明るく笑う。 杏介はその笑顔を見ている

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  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   いちばん大事なことは-08

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    紗良は散らかった折り紙を片付けながら、杏介は一生懸命海斗と遊んでくれたんだなと思いを馳せた。隣には海斗がいるというのに、急に大きな存在が目の前から消えてしまったような感覚に陥りもの悲しさを覚える。 それにいつも元気な母がいないことも、妙に家が広く感じて仕方がない。初めて母が脳梗塞になったときは意識がなく、生きるか死ぬかという山を乗り越えた。 幸いグングン回復して支障となる大きな後遺症も残らず、元の生活に戻った。 変わったことといえば、車の免許を返納したことと定期的な通院をするようになったこと。その時に、紗良は「母が死ぬかもしれない」ということを嫌というほど経験したし、医者から「脳梗塞は再発することがある」と聞かされていた。そしてその後の姉夫婦の事故死でも、紗良は心を抉られるくらいに「死」というものに対して考えさせられた。だからいつか何かがあったときの「覚悟」はあった。 していたつもりだった。けれど月日が流れ当たり前に生活できているとそんな「覚悟」も頭の隅に追いやられ薄れていく。母はICUに入っているが意識はある。 順調にいけば一週間ほどで一般病棟に移りリハビリが始まると医師から説明を受けた。 ただいつ急変してもおかしくないのが脳梗塞だ。 元の生活に戻れるかもわからない。そんな漠然とした不安がふとした瞬間に大きくなって波のように紗良に襲いかかってくる。 どうしようもない恐怖に押しつぶされそうになるが、視界の端に海斗を捉えるたび、しっかりしなくてはと自分を鼓舞するのだった。

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   いちばん大事なことは-06

    アルバイト先にもしばらく休むことを伝え、お昼時もだいぶ過ぎた頃、紗良はようやく自宅へ戻った。「ただいまー」玄関を開けると奥から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。リビングに足を踏み入れれば、散乱した折り紙や絵本、そして杏介の膝に座ってスマホゲームをしている海斗がいた。「ああ、紗良、おかえり」「ただいま。おかげで手続きとかいろいろと終わったよ。杏介さん、大変だったよね?」「あ、ごめん。部屋が散らかりすぎてるな。あと、海斗にスマホゲームさせるのはよくなかったかも」「ううん。全然いいの。すごく助かってるから。海斗、よかったね」うん!と元気のいい返事が返ってくるも海斗はゲームに夢中になったまま杏介の膝の上でご機嫌だ。「紗良、バイトは休んだ?」「うん、さすがに行けないから。しばらくお休みさせてもらうことにしたの」「そうか。それがいいな」「あ、二人ともお昼はどうしたの?」「残ってたおにぎりとかパンを食べたよ。紗良は? ちゃんと食べた?」「うん、病院のカフェで少し……」本当はアイスコーヒーを一杯飲んだだけなのだが。 それを言えば杏介は心配するに決まっているので、食べたことにしておく。 朝は杏介と海斗が気持ちを盛り上げてくれたため食べることができたが、やはり一人での食事は喉を通らなかった。「よかったら夕飯食べてって。それくらいしかお礼できないんだけど……」「ありがとう。でも今から仕事だからさ。また今度いただくよ」「えっ、お仕事だったの? ごめんなさい、こんなに長くいてもらって」「いいんだ。気にするなよ。今から仕事だけど、何かあればすぐに電話してくれて構わないから。夜中でもいつでも。まあ、何もなくてもかけてくれていいんだけど。いつでも紗良の声聞きたいし」「ありがとう、杏介さん」思わず潤んでしまった目を隠すために紗良は少し俯く。 そんな紗良の頭を杏介は優しく撫でた。「海斗も、また来るからな」「わかったー。こんどまたゲームやらせてね」「紗良姉ちゃんの言うこと聞いていい子にしてたらな」「わかった。いいこにする」海斗は親指を突き立てキリリと頷く。後ろ髪を引かれながらも、杏介は仕事に向かった。 こんなときこそ仕事を休んでずっと紗良の元にいたいと思ったが、シフト勤務でなおかつ生徒を抱える身としては早番と遅番を変更してもらうので精一杯だ

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   いちばん大事なことは-05

    病院では母の病状や今後の説明を受け、たくさんの書類に目を通しながら手続きを済ませる。ICUにいる母にはたくさんの管が付いていて、数年前の光景を思い出させた。初めて脳梗塞で倒れたときも同じくここに入院した。あのとき紗良はまだ学生で、ICUで作業する医療者の声と無機質な機械音を聞きながら母の様子を伺っていた。これからどうなるのだろうと思いつつも、その時は姉がいたために姉に頼りっきりだったと今さらながらに思い出す。一人で抱えるのはつらい。すぐに不安や重圧で押しつぶされそうになる。けれどすぐに脳裏に浮かぶ顔――。杏介の存在は絶対的で紗良は幾重にも助けられていた。今朝だって誰かに縋りたくて無意識に杏介に電話をかけていたくらいだ。それほどまでに紗良の中で杏介に対する信頼感は大きいことに気づかされる。今こうして一人でテキパキと手続きをこなすことができるのも、杏介が海斗を見ていてくれるから。杏介が紗良を気遣ってくれるからに他ならない。いつだって紗良に優しく、いつだって紗良の味方でいてくれる杏介。(もしもまだ、杏介さんの気持ちが変わってないのなら――)変わっていないのなら自分はどうしたらいいのだろうか。どうしたいのだろうか。このままズルズルと都合の良い関係でいて貰うことの方がよっぽど失礼ではないか。いつまでもそんな関係でいてはいけないのだと、こんなときに限って実感してしまう。いや、こんなときだからこそ、だろうか。

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