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父の日-01

last update 最終更新日: 2024-12-14 06:21:24

ある日のことだ。

海斗が保育園で描いてきた絵を、得意気に披露していた。

「これが、かいとで、これがさらねえちゃん、これがばあば」

「すごい、上手に描けてる」

「海ちゃんは絵の才能があるねぇ」

お世辞にも上手とは言えないような顔っぽい何かと塗りたくった何かだが、海斗が一生懸命描いたものは何だって愛おしく感じる。

「海斗、これは?」

もうひとつ、顔っぽい何かが描かれていて、紗良は何の気なしに尋ねた。

「これはねぇ、パパ!」

元気よく言うものだから、紗良は思わず言葉に詰まった。

海斗の両親が亡くなったのは海斗が二歳の時。

だから両親の記憶なんてほとんどないのではないかと勝手に思っていたけれど、もしかして何か覚えているのだろうか。

「あらー、海ちゃん、いいわねぇ」

「いいでしょー」

紗良の母は気にも止めず、キャッキャと海斗と盛り上がる。

「ちょっとお母さん……」

こそこそと母に耳打ちするも、逆にバシンと背中を叩かれてしまった。

「紗良は気にしすぎ。海ちゃんが楽しければそれでいいのよ」

「それはそうかもだけど……」

「あら、それともなあに? 結婚する気になったの?」

「は? そんなわけないじゃない。私には海斗がいるもの。結婚とか、ないない!」

「あら、そう? でも、紗良にばかり負担をかけて申し訳ないわ」

「別に、私が望んで海斗を引き取ったのよ。お母さんが気にすることないわ。それにいつもお母さんに助けられてるし」

そう、結婚なんてできるわけがない。

彼氏すら作れない。

でもそれは納得してのこと。

紗良が姉の代わりに海斗を立派に育てるんだって決めたのだ。

そういう決意と責任のもと、海斗を引き取った。

だから紗良には結婚とか恋愛とか、まったく必要ないものなのだ。

(もしも、だけど、私が誰かと結婚したならば海斗に新しい父親ができることになるけど……)

ふと考えて、慌てて頭を横に振る。

(いや、ないない。海斗だってそんなの望んでないもの)

紗良は考えるのを放棄するように、さらに頭をブンブンと横に振った。

それなのに数日後、まさか頭を抱える事態に陥るとは誰が想像しようか。
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    「紗良さん、頭を上げてちょうだいね。私たち、結婚を反対しようなんて思ってないのよ。杏介くんから聞いてると思うけど、私は杏介くんの本当の母ではないから、複雑な家庭環境に身を置くことに対してその覚悟はあるのかしら、と気になっただけなのよ。気を悪くさせたらごめんなさいね」父が言葉足らずな分、それをフォローするかのように母は申し訳なさそうに告げた。「あ、いえ……」気を悪くなどと、と恐縮していると、杏介は紗良の手を握る。 突然のことに杏介を見やるが、握った手はそのままに杏介は真剣な顔をして母を見た。その手には力がこもっている。「……本当の、母だよ」「え?」「俺はちゃんと……あなたのことを……お母さんだと……思ってる」「……杏介くん?」杏介は一度紗良を見る。 握った手から力をもらうかのように紗良のあたたかさを感じてから、杏介は深く息を吸い込んだ。「……関係をこじらせたのは俺のせいだ。母さんはいつも俺に優しかった。冷たくしたって無視したって、ご飯は作ってくれたし、学校行事にも来てくれた。俺はずっと素直になれなくて逃げるように家を飛び出してしまったけど、本当は後悔してた。水泳の大会にも毎回来てくれてたのを知ってる」重かった口は一度言葉を吐き出したらすらすらと出てきた。 準備はしていなかった。 ずっと杏介の頭の中で燻り続けていた想いが溢れてくるようだった。杏介の母はしばらく黙っていた。 それは怒りでも喜びでもなく、まさか杏介がこんなことをいうなんてという驚きで言葉を失ったのだ。

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   愛した君とここから-02

    杏介の実家の前には車が一台止まっていたが、端に寄せられてもう一台止められるスペースが開けてあった。杏介はそこに丁寧に車を付ける。インターホンを鳴らすとすぐに玄関がガチャリと開く。 出てきたのは杏介の母で、杏介と目が合うと、お互いぎこちなく無言のまま。 ここは紗良がまず挨拶をすべきと口を開いたときだった。「こんにちは!」海斗がずずいと前に出て元気よく挨拶をした。 慌てて紗良も「こんにちは」と続く。 杏介の母は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに小さく微笑む。「こんにちは。遠いところよくいらっしゃいました。どうぞ上がってくださいな」ペコリと頭を下げて、紗良と海斗は中へ入った。 杏介もそれに続きながら、「ただいま」と小さく呟いた。杏介の緊張感がひしひしと伝わってくる。 紗良はそっと杏介を見る。 いつになく緊張した面持ちの杏介は紗良の視線に気づくとようやくふと力を抜いた。「大丈夫。ちゃんとするから」紗良に聞こえるだけの声量で囁く。 それは嬉しいことだけれど、気負いすぎもよくないと思う。でもそれを今、杏介に上手く伝えることができず紗良はもどかしい気持ちになった。和室の居間に通され、杏介の父と母の対面に座った。紗良の横には海斗がちょこんと座る。「紹介します。お付き合いしている石原紗良さんと息子の海斗くん。俺たち結婚しようと思って今日は挨拶に来ました」「はじめまして。石原紗良と申します。ほら海斗、ご挨拶」「いしはらかいとです。六さいです」ピンと張りつめていた空気が海斗によって少しだけ緩む。 海斗は自分が上手く挨拶できたことにドヤ顔で紗良を見る。目が合えば「ちゃんとごあいさつできたー」と、これまた気の緩むようなことを口走るので紗良は慌てて海斗の口を手で押さえた。「……杏介、いいのか? 最初から子どもがいることに、お前は上手くやれるのか?」杏介の父が表情変えず、淡々と厳しい言葉を投げかける。緩んだ緊張がまた元に戻った。 それは杏介と杏介の新しい母が上手く関係をつくれなかったことを意味していて、杏介だけでなく母も、そして紗良も唇を噛みしめる思いになった。「いや申し訳ない。紗良さん、あなたを責めているわけではないから勘違いしないでほしい。これは我が家の問題でね……」「俺は上手くやれる。ちゃんと海斗を育てるよ。それも含めて結婚したいと思

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