「じゃあまたプールで。早く寝て風邪引かないようにするんだぞ」「わかったー」杏介は海斗の目線に合わせるよう屈み、ニコッと爽やかな笑みで海斗の頭をくしゃっと撫でる。海斗と杏介が笑い合うのを見て、紗良は杏介が子供たちに慕われているのがわかる気がした。海斗の生き生きした表情を引き出しているのはまぎれもなく杏介なのだ。(勇気を出して頼んでよかったな)ずっと杏介に対して申し訳ない気持ちでいたけれど、今は感謝の気持ちでいっぱいだ。「海斗、これはお土産だよ。ちゃんと夜ご飯食べてからな」「ありがとう! さらねえちゃん~おみやげもらった~」「えっ! すみません」「いえ、コンビニで適当に買っただけなので」海斗が受け取った袋を覗くと、コンビニスイーツがたくさん入っている。「うわー、美味しそう! ありがとうございます。じゃあ帰ろっか、海斗」「えー。せんせーともっとあそびたい」「もう遅くなっちゃうから。先生にもらったスイーツ食べれなくなるよ」「えー」「海斗、またプールで待ってるな」「わかったー」名残惜しさも感じながら、バイバイと手を振る。紗良はペコリとお辞儀をして車に乗り込んだ。杏介は紗良の車がコンビニを出るまで見送っていた。
紗良と別れた後、杏介にはひとつの疑問が残っていた。(……海斗、石原さんのこと『姉ちゃん』って言ってなかったか?)記憶を辿ってみても、やはり海斗は『紗良姉ちゃん』と言っていたように思う。お母さんとは呼ばせない主義なのだろうか?たまに子供とは友達のような関係だからと名前で呼び会う親子もいると聞く。(いや、だけどそういうのとは違う気がするけど……)四歳児の海斗は大人と対等に会話ができるが、それでもまだおぼつかない言葉もたくさんある。その場のノリとか勢いとか、はたまたその時のブームとか。それとも杏介の聞き間違いだろうか。海斗からもらった絵には、大きく口を開けて笑った顔と『おとうさん、いつもありがとう』と言葉が添えられている。(深い意味はないとは思うけど……)海斗は杏介に父親像を見ているのだろうか。確かによく懐いてくれてはいるけれど、でもそんな子は他にもたくさんいる。海斗の父親はなぜ亡くなったのだろう。紗良も早くに夫を亡くして寂しいだろう。きっとまだ若いだろうに。様々な疑問と想いを抱えながらも、『先生のことが好きなので描いた』と言われればやはり悪い気はしない。――『深く考えずに体裁だけでいいので受け取ってもらえないでしょうか』ふいに紗良の言葉がよみがえる。(そうだよな。ありがたく受け取っておこう)杏介はそれ以上考えるのをやめ、画用紙を助手席にそっと置いて車を発進させた。
紗良は悩んでいた。「うーん……」仕事中だというのにときどき眉間にしわを寄せて、思いつめたように唸る。「紗良ちゃんお昼いこーって、どした?」お昼休みに突入しても自席でうんうん唸っている紗良に、同僚の依美が不思議そうに声をかける。「ねえ依美ちゃん、男の人にお礼するときって何を渡したらいいと思う?」「え、どうしたの、急に。はっ! もしかしてついに紗良ちゃんにも春が来た?」ニヨニヨと楽し気な笑みを浮かべられ、紗良は慌てて否定する。「違う違う。そんなんじゃなくて」「えー、本当にぃ?」「ちょっとお世話になっただけで。海斗にコンビニスイーツいっぱい買ってもらっちゃったから、何かお礼した方がいいよなーって思っただけで」「ほーん」「本当だってば」「コンビニスイーツごときでお礼だなんて、紗良ちゃんって律儀なのね」「だって、貰いっぱなしじゃなんだか落ち着かないんだもん」それに、父の日の似顔絵を受け取ってもらうためにわざわざ近くのコンビニまで来てくれた。 さすがにこの事は依美には言えないけれど。 でも何かお礼をすべきだと思うのだ。「そうねえ、その人の好きな食べ物は?」「……わからない」「家族はいるの?」「独り身だって言ってたけど、実家暮らしか一人暮しかはわからない」「じゃあ年齢は?」「わからないけど、同じくらいか少し年上かなぁ」依美の問いに真面目に答えていた紗良だったが、依美の顔は質問を重ねるごとに曇っていく。「ちょっと、わからないことだらけじゃないの。どんな関係なのよ」「海斗のプール教室の先生なの」「プール教室? じゃあプロテインとか?」「いや、それはないでしょ。もう飲んでそうだし」「じゃあ、お酒?」「飲むかわかんない」「タバコ?」「吸ってるのは見たことない」依美は深いため息を落とす。「もー、やっぱりわからないことだらけじゃないの。難しいわ」「でしょ。だから困ってるのよ。依美ちゃんはいつも彼氏に何をプレゼントしてるの?」「え? うちの彼氏は甘いもの好きだからチョコさえ与えておけば機嫌がいいわよ。あとは、私自身、とか?」「……?」キョトンとした紗良の背をバシンと叩く。「もー、冗談が通じない子っ。ウブなのか真面目なのか、どっちなのよ」一呼吸おいてようやく理解した紗良は頬を赤く染めて慌てる。「え、ええっ、ごめ
その後、依美から贈り物ランキングサイトなるものを教えてもらった紗良は、家に帰り海斗の寝かしつけをしてから、スマホでいろいろと検索をした。「うーん、難しい」カタログギフトは冠婚葬祭みたいだし、スイーツは同じものを返すみたいで嫌だ。 タオルや洗剤は引っ越しのイメージがある。 コーヒーセットは無難だけれど、コーヒー好きかはわからない。「どーしよー」ゴロンゴロンと転がりながら、関連ページへのリンクへとどんどんタップしていく。 するとあるページで手が止まった。「これ、いいかもしれない」ブラウンレザーにゴールドブラウンのステッチが入ったシックでおしゃれなブックカバー。杏介はラーメンを注文した後、たびたび文庫本を読んでいる。 読書好きなのかもしれないし、いつもカバーは書店で購入時につけてもらえるものをしていることを思い出した。「これにしようかな?」ブラウンレザーのブックカバーを付け読書をする杏介を想像すると、大人な雰囲気が倍増してすごく似合っている気がした。――『そのプールの先生とはいい感じなんじゃないの?』ふいに依美の言葉が思い出され、紗良の心臓がきゅっと悲鳴を上げた。(違う違う、違うんだってば。そんなんじゃないんだから)そういう感情は海斗を引き取るときに捨てた。 依美が面白がるから、だから変に思い出してしまっただけで。紗良は枕に顔を埋めて気持ちを落ち着かせる。 浮かぶのは杏介の優しい笑顔。あれは目の潤いであり癒しで、紗良の推しメンだったというだけ。 そう、ファンだった男性がたまたまプール教室の先生だっただけなのだ。(本当に、ただお礼がしたいだけなんだから)自分に言い聞かせるように紗良は何度も心の中で唱え、ブックカバーの購入ボタンを押した。
届いたブックカバーはあまり仰々しくならないように簡易ラッピングをして、アルバイト先に持ってきていた。ただ、いつ、どのタイミングで渡したらいいのか考えあぐねてしまう。そして今週も杏介は来てくれるのかどうか、ラーメン店の制服に着替えながら紗良は変に緊張してエプロンを結ぶ指が震えた。(さすがに仕事中に渡すことはできないよね。ほかのお客さんもいるし)とりあえずロッカーに突っ込んで、ホールへ向かう。十八時から働く紗良だが、いつも杏介が来店するのは二十一時前後。チラチラと時計を気にしていたのは最初だけで、客の入りが激しくなるにしたがってそんなことはすっかりと抜け落ちて仕事に励んでいた。ピークが過ぎ一息つくころ、ガララッと自動ドアが開く音で反射的に「いらっしゃいませ」と笑顔を向ける。「あっ」「こんばんは」紗良が声を上げたことで杏介も気づいて挨拶をする。「空いているお席へどうぞ」声をかければ杏介はいつもの窓際のカウンター席へ。普段ならばテキパキとそのまま接客するところ、杏介にどう切り出したらいいか考えているうちに他の店員が注文を取りに行ってしまう。(やばい。出遅れた。しゃべるチャンスがない)焦ると余計に普段の仕事ができなくなり、無駄に箸を落としたり水をこぼしたりと落ち着かない。「ちょっと石原さん、大丈夫?」「すみません、すぐ片づけますっ」(落ち着け、私)どうにかこうにか平常心を取り戻しているうちにラーメンが出来上がり、紗良は杏介のところまで配膳した。「失礼します。チャーシュー麺になります」「ありがとう」コトリと置いたまま動かなくなった紗良を見て、杏介は首を傾げる。「石原さん、どうかしました?」「あ、えっと……」「?」「私、今日二十二時で上がりなんです。それでその、少しだけお時間ありますか?」「じゃあいつものコンビニで待ってます」「ありがとうございます」すんなり了承を得られ、ようやく紗良は胸を撫で下ろす。少し待ってもらうことにはなってしまうが、とりあえずは杏介に渡す目途がついてよかった。 ぴったり二十二時で仕事が終われるように、紗良はいつも以上に気合を入れて働いた。
紗良のほっとしたような表情に、杏介はまた海斗のことでなにかあるのだろうかと思った。先日もらった父の日の似顔絵はせっかくなので棚の上に飾ってある。 子供が自分のために一生懸命描いたのだろうと想像すると顔がほころび、子供を相手に仕事をすることが多い杏介にとってそれは活力源にもなる。自分が必要とされているような、そんな気分になって明日も頑張ろうと思えるのだ。ラーメンを食べ終えてコンビニへ行き、ブラックコーヒーを手に取る。(石原さんは何が好みだろう?)自然とそんなことを考えて、ハタと手が止まる。(あ、いや、仕事終わりで疲れているだろうし、そういう意味だし……)などとどうでもいい言い訳を考えながら、最近美味しいと話題の抹茶ラテが目に入った。自分が買おうとしていたブラックコーヒーはやめて、抹茶ラテを二本購入する。(……最近話題だからな)と、これまた言い訳じみた考えを巡らせながら、紗良の仕事が終わるのを車の中で待った。ロッカーに突っ込んであった紙袋の中身をチラリと確認して、 紗良はよしと気合を入れる。仰々しくなっていないだろうか、 受け取ってもらえるだろうかと、ドキドキする胸を抑えながら 超特急で着替えてコンビニへ向かった。紗良が姿を見せるとすぐに杏介が車から降りてくる。距離が近づくにつれドキドキと暴れ出す心臓は紗良をますます緊張に追いやって行った。「お待たせしました」「いえ、お疲れ様です」杏介の方こそ仕事終わりだというのに、疲れを微塵も感じさせない爽やかな笑顔を見せられて紗良は体の奥がザワリと揺らめく。「あ、えっと、これ、この前のお礼です」「お礼?」差し出された小さい紙袋を受け取りながら杏介は首を傾げた。「はい、海斗の絵を貰っていただいたし、 スイーツもたくさんいただいたので。だから……」「えっ、すみません。 逆に気を遣わせてしまいましたか?」「いえ、そんなんじゃないんです。 本当に嬉しかったから。だから、ほんの気持ちというか……貰っていただけますか?」「ではありがたくいただきます」「あの、趣味に合うかどうかわかりませんけど」「見てもいいですか?」コクリと頷くのを確かめてから、杏介は包みを開ける。中から出てきたブラウンレザーのブックカバーを見て思わず顔が綻んだ。「すごくおしゃれなブックカバーですね」「えと、いつも文
「読書好きなんですけど、大人になったらなかなか読む時間がなくて、ああいう隙間時間に読んでるんです」「わかります。大人になると本当に時間がないですよね」「海斗くんのお母さんは家事や子育てをされているから、余計に時間がないでしょう?」「そうですね。……そうかもしれないです。毎日仕事して海斗のことだけで手一杯になっています。本当にわからないことだらけで試行錯誤しています」「でもそうやって愛情をもって育てていらっしゃるから、海斗くんいつも楽しそうに笑っているんですね」本当に何気ない言葉だった。 いや、杏介にしてみたら特に意識などしていないただの感想のようなものだったのに、目の前の紗良の瞳からは大粒の涙がぽろっと零れ落ちる。「えっ、僕なにか変なこと言いましたか?」焦る杏介に紗良は慌てて涙を拭う。 紗良の方こそ、無意識に零れ落ちた涙に動揺していた。「違うんです。すみません。えっと……」この気持ちは何だろうか。 急に目の前が開けたような、救われる気持ち。 報われる気持ち。意識はしていなくとも、紗良の心の奥底ではずっと不安な気持ちが渦巻いていて、人知れず悩み苦しんできた。 それが、ふっと軽くなるような、そんな杏介の言葉だったのだ。「あの、 嬉しくて。海斗の母親だって認めてもらえたみたいで」「認めるもなにも、海斗くんのお母さんじゃないですか」「はい、先生にはちゃんとそう見えているんですよね?」「……はい」「ありがとうございます」「い、いえ……」どう受け答えしていいかわからず杏介は口ごもる。 紗良は目じりを拭い鼻をすすると、ニコリと笑顔を見せた。「すみません。 お引き留めして」「あ、いえいえ。ああ、そうだ。これ、飲んでください。今日もお仕事お疲れ様です」「いいんですか? ありがとうございます」先ほど買った抹茶ラテを渡すと、紗良はパッと花が咲くように微笑む。 その笑顔はやはり可愛くて癒しで、別れるのが名残惜しくなってしまうほど。だが、杏介はぐっと感情を抑えて 「ではまたプールで」 とクールに対応する。紗良はぺこりとお辞儀をして小さく手を振りながら、抹茶ラテを大事に抱えて杏介の元を去った。
「あの、 嬉しくて。海斗の母親だって認めてもらえたみたいで」「認めるもなにも、海斗くんのお母さんじゃないですか」「はい、先生にはちゃんとそう見えているんですよね?」「……はい」「ありがとうございます」「い、いえ……」どう受け答えしていいかわからず杏介は口ごもる。紗良は目じりを拭い鼻をすすると、ニコリと笑顔を見せた。「すみません。 お引き留めして」「あ、いえいえ。ああ、そうだ。これ、飲んでください。今日もお仕事お疲れ様です」「いいんですか? ありがとうございます」先ほど買った抹茶ラテを渡すと、紗良はパッと花が咲くように微笑む。その笑顔はやはり可愛くて癒しで、別れるのが名残惜しくなってしまうほど。だが、杏介はぐっと感情を抑えて 「ではまたプールで」 とクールに対応する。紗良はぺこりとお辞儀をして小さく手を振りながら、抹茶ラテを大事に抱えて杏介の元を去った。紗良の後ろ姿を見送りながら、杏介の頭の中は先ほどの紗良の涙のことでいっぱいになっていた。(嬉し泣き……なのか?)すんなりと納得できず、真意が気になって仕方がない。確かに一人で子供を育てるのは大変なことだろうと思う。母親なのに自信がない、とか?母親に見られないことを悩んでいる、とか?杏介なりにいろいろ考えてみるも、まったくもって答えに辿り着かない。だけど理由を聞くのも何かおかしい。杏介が首を突っ込むべきではないだろう。(旦那さんが亡くなって必死で育てているのかな。だから経済的にも困窮してダブルワークをしているとか? いや、だとしたらスイミングスクールなんて通わない気もするし……いや、そういうものでもないか?)ぐるぐると巡る思考で頭の中がパンクしかける。考えたって何ひとつ答えは導き出せない。ラーメン屋でアルバイト中、海斗はどうしているのだろう。家で一人なのだろうか?「……いや、まさかそんなわけないよな」結局何もわからないまま、杏介は悶々とした気持ちで小さく息を吐き出し抹茶ラテを口にする。「……甘っ」甘いものは好きではない。けれどこれを紗良も飲んでいるのかと思うと、妙に嬉しい気持ちになって自然と顔が綻んだ。
カシャカシャカシャッその音に、紗良と杏介は振り向く。そこにはニヤニヤとした海斗と、これまたニヤニヤとしたカメラマンがしっかりカメラを構えていた。「やっぱりチューした。いつもラブラブなんだよ」「いいですねぇ。あっ、撮影は終了してますけど、これはオマケです。ふふっ」とたんに紗良は顔を赤くし、杏介はポーカーフェイスながら心の中でガッツポーズをする。ここはまだスタジオでまわりに人もいるってわかっていたのに、なぜ安易にキスをしてしまったのだろう。シンデレラみたいに魔法をかけられて、浮かれているのかもしれない。「そうそう、海斗くんからお二人にプレゼントがあるんですよ」「えっへっへー」なぜか得意気な顔をした海斗は、カメラマンから白い画用紙を受け取る。紗良と杏介の目の前まで来ると、バッと高く掲げた。「おとーさん、おかーさん、結婚おめでとー!」そこには紗良の顔と杏介の顔、そして『おとうさん』『おかあさん』と大きく描かれている。紗良は目を丸くし、驚きのあまり口元を押さえる。海斗とフォトウエディングを計画した杏介すら、このことはまったく知らず言葉を失った。しかも、『おとうさん』『おかあさん』と呼ばれた。それはじわりじわりと実感として体に浸透していく。「ふええ……海斗ぉ」「ありがとな、海斗」うち寄せる感動のあまり言葉が出てこなかったが、三人はぎゅううっと抱き合った。紗良の目からはポロリポロリと涙がこぼれる。杏介も瞳を潤ませ、海斗の頭を優しく撫でた。ようやく本当の家族になれた気がした。いや、今までだって本当の家族だと思っていた。けれどもっともっと奥の方、根幹とでも言うべきだろうか、心の奥底でほんのりと燻っていたものが紐解かれ、絆が深まったようでもあった。海斗に認められた。そんな気がしたのだ。カシャカシャカシャッシャッター音が軽快に響く。「いつまでも撮っていたい家族ですねぇ」「ええ、ええ、本当にね。この仕事しててよかったって思いました」カメラマンは和やかに、その様子をカメラに収める。他のスタッフも、感慨深げに三人の様子を見守った。空はまだ高い。残暑厳しいというのに、まるで春のような暖かさを感じるとてもとても穏やかな午後だった。【END】
その後はスタジオ内、屋外スタジオにも出てカメラマンの指示のもと何枚も写真を撮った。残暑の日差しがジリジリとしているけれど、空は青く時折吹く風が心地いい。汗を掻かないようにと木陰に入りながら、紗良はこの時間を夢のようだと思った。「杏介さん、連れてきてくれてありがとう」「思った通りよく似合うよ」「なんだか夢みたいで。ドレスを選んでくださいって言われて本当にびっくりしたんだよ」「フォトウエディングしようって言ったら反対すると思ってさ。海斗巻き込んだ壮大な計画」「ふふっ、まんまと騙されちゃった」紗良は肩をすくめる。騙されるのは好きじゃないけれど、こんな気持ちにさせてくれるならたまには騙されるのもいいかもしれない。「杏介さん、私、私ね……」体の底からわき上がる溢れそうな気持ち。そうだ、これは――。「杏介さんと結婚できてすっごく幸せ」「紗良……」杏介は目を細める。紗良の腰に手をやって、ぐっと持ち上げた。「わあっ」ふわっと体が浮き上がり杏介より目線が高くなる。すると満面の笑みの杏介の顔が目に飛び込んできた。「紗良、俺もだよ。俺も紗良と結婚できて最高に幸せだ」幸せで愛おしくて大切な君。お互いの心がとけて混ざり合うかのように、自然と唇を寄せた。
カシャッ「じー」小気味良いカメラのシャッター音と、海斗のおちゃらけた声が同時に聞こえて、紗良と杏介はハッと我に返る。「あー、いいですねぇ、その寄り添い方! あっ、旦那様、今度は奥様の腰に手を添えてくださーい」「あっ、はいっ」カシャッ「次は手を絡ませて~、あっ、海斗くんはちょっと待ってね。次一緒に撮ろうね~」カシャッカメラマンの指示されるがまま、いろいろな角度や態勢でどんどんと写真が撮られていく。もはや自分がどんな顔をしているのかわからなくなってくる。「ねえねえ、チューしないの?」突然海斗がとんでもないことを口走るので、紗良は焦る。いくら撮影だからといっても、そういうことは恥ずかしい。「海斗、バカなこと言ってないで――」と反論するも、カメラマンは大げさにポンと手を叩いた。「海斗くんそれいいアイデアです!」「でしょー」カメラマンと海斗が盛り上がる中、紗良はますます焦る。海斗の失言を恨めしく思った瞬間。「海斗くん真ん中でパパママにチューしてもらいましょう」その言葉にほっと胸をなで下ろした。なんだ、それなら……と思いつつ、不埒な考えをしてしまった自分が恥ずかしくてたまらない。「うーん、残念」杏介が呟いた声は聞かなかったことにした。
ウエディングドレス用の、少しヒールのある真っ白なパンプスに足を入れた。かかとが上がることで自然と背筋もシャキッとなるようだ。目線が少しだけいつもより高くなる。「さあ、旦那様とお子様がスタジオでお待ちですよ」裾を持ち上げ、踏んでしまわないようにとゆっくりと進む。ふわりふわりと波打つように、ドレスが繊細に揺れた。スタジオにはすでに杏介と海斗が待っていた。杏介は真っ白なタキシード。海斗は紺色のフォーマルスーツに蝶ネクタイ。紗良を見つけると「うわぁ」と声を上げる。「俺ね、もう写真撮ったんだー」紗良が着替えて準備をしている間、着替えの早い男性陣は海斗の入学記念写真を撮っていた。室内のスタジオだけでは飽き足らず、やはり屋外の噴水の前でも写真を撮ってもらいご満悦だ。海斗のテンションもいい感じに高くなって、おしゃべりが止まらない。「紗良」呼ばれて顔を上げる。真っ白なタキシードを着た杏介。そのバランスのいいシルエットに、思わず見とれてしまう。目が離せない。「とても綺麗だよ。このまま持って帰って食べてしまいたいくらい」「杏介さん……私……胸がいっぱいで……」紗良は言葉にならず胸が詰まる。瞳がキラリと弧を描くように潤んだ。
そんなわけであれよあれよという間に着替えさせられ、今はメイクとヘアスタイルが二人のスタッフ同時に行われているところだ。あまりの手際の良さに、紗良はなすすべがない。大人しく人形のように座っているだけだ。(私がウエディングドレスを着るの……?)まるで夢でも見ているのではないかと思った。海斗を引き取って、一生結婚とは無縁だと思っていたのに、杏介と結婚した。そのことすらも奇跡だと思っていたのに。結婚式なんてお金がかかるし、それよりも海斗のことにお金を使ってあげたいと思っていたのに。そのことは杏介とも話し合って、お互い納得していたことなのに。今、紗良はウエディングドレスに身を包み、こうして花嫁姿の自分が出来上がっていくことに喜びを感じている。こんな日が来るなんて思いもよらなかった。この気持ちは――。嬉しい。声を大にして叫びたくなるほど嬉しい。ウエディングドレスを身にまとっているのが本当に自分なのか、わからなくなる。でも嬉しい。けれどそれだけじゃなくて、もっとこう、心の奥底からわき上がる気持ちは一体何だろうか。紗良の心を揺さぶるこの気持ち。(早く杏介さんと海斗に会いたい)心臓がドキドキと高鳴るのがわかった。
鏡に映る自分の姿がどんどんと綺麗になっていく様を、紗良はどこか他人事のようにぼんやりと見つめていた。一体どうしてこうなったのか。海斗の入学記念写真を撮ろうという話だったはずだ。それなのにウエディングドレスを選べという。掛けられていた純白のウエディングドレスは、そのどれもが繊細な刺繍とレースでデザインされている。素敵なものばかりで選べそうにない。「どうしたら……」ウエディングドレスを着ることなんて、これっぽっちも考えたことがなかった。だから果たしてこんなに素敵なドレスが自分に似合うのか、見当もつかない。ドレスを前にして固まってしまった紗良に「ちなみに――」とスタッフが声をかける。「旦那様の一押しはこちらでしたよ」胸元がV字になって、透け感レース素材と合わせて上品な雰囲気であるドレスが差し出される。肩から腕にかけては|五分《ごぶ》くらいのレースの袖が付いており、デコルテラインがとても映えそうだ。レース部分にはバラの花がちりばめられているデザインで、それがまるで星空のようにキラキラと輝く。純白で波打つようなフリルは上品さと可憐さが相まってとても魅力的だ。「でも自分の好みを押しつけてはいけないとおっしゃって、最終的には奥様に選んでほしいとこのようにご用意させていただいております」そんな風に言われると、もうそれしかないんじゃないかと思う。杏介の気持ちがあたたかく伝わってくるようで、紗良は自然と「これにします」と答えていた。
「ではお着替えしましょうか。海斗くんとお父様はこちらに。お母様はあちらにどうぞ」スタッフに従ってそれぞれ更衣室に入る。どうぞと案内された更衣室のカーテンを開けると、そこには大きな鏡とその横に真っ白なウエディングドレスが何着もズラリと掛けられていた。「えっ?」紗良は入るのを躊躇う。 今日は海斗の入学記念写真を撮りに来たはずだ。 せっかくなので着物を借りて写真を撮ろうと、そういう話だった気がする。いや、間違いなく杏介とそう話した。昨日だって、何色の着物がいいかと杏介とあれやこれや喋った記憶がある。それなのに、紗良の目の前にはウエディングドレスしか見当たらない。着物の一枚すら置いてないのだ。「あ、あの、お部屋間違ってませんか?」「間違っていませんよ。さあさ、奥様こちらへどうぞ。お好きなドレスを一着お選びください」「いえ、今日は子供の入学記念写真の予定なんですけど……」「何をおっしゃいますか。旦那様とお子様が楽しみに待たれていますよ」「えっ、えええ~?」スタッフはふふふとにこやかに笑い、困惑する紗良を強引に更衣室へ引きずり込むと、逃がさないとばかりにシャッとカーテンを閉めた。わけがわからない紗良は、スタッフに勧められるがまま、あれよあれよと流されていった。
杏介が予約したフォトスタジオを訪れた紗良は、思わず「うわぁ」と声を上げた。四季折々の風景をコンセプトにしている屋内スタジオに加え、外でも撮影できるよう立派な庭園が設えられている。海斗はランドセルを大事そうに抱えながらも、フォトスタジオに興味津々で今にも走りださんと目がキラキラしている。「いらっしゃいませ。ご予約の滝本様ですね」「はい、今日はよろしくお願いします」「ねえねえ、あの噴水さわってもいい?」「こら、海斗、ご挨拶!」「あっ。こんにちは。おねがいします」ピシャッと紗良が戒めると、海斗は慌てて挨拶をする。その様子を見てスタッフは海斗に優しい笑みを浮かべた。「噴水が気に入ったかな? あのお庭でも写真が撮れるから、カメラマンさんに伝えておきますね」「やったー!」海斗の入学記念に写真を撮りに来ただけなのに、そんなシチュエーションもあるのかと紗良は感心する。なにせフォトスタジオに来ること自体初めてなのだ。杏介に任せきりで予約の仕方すらわからない。まあ、杏介が「俺に任せて」と言うから、遠慮なくすべて手配してもらっただけなのだが。「海斗すごく喜んでるね」「浮かれすぎてて羽目外しそうでヒヤヒヤするよ」「確かに」紗良と杏介はくすりと笑った。
「どうしたの、海斗」「これを見て!」海斗はおもむろにランドセルを背負う。 まだまだピカピカのランドセルを、紗良に見せつけるように体を捻った。「ランドセル?」「そう! ランドセル! 写真撮りたい。リクもさなちゃんも写真撮りにいったんだって」「写真? 写真なら撮ってあげるよ」紗良は自分のスマホのカメラを海斗に向ける。「ちがーう。そうじゃなくてぇ」ジタバタする海斗に紗良は首を傾げる。 咄嗟に杏介が「あれだろ?」と口を挟む。「入学記念に家族の記念写真を撮ったってことだよな?」「そう、それ! 先生わかってるぅー」「ああ~、そういうこと。確かに良いかもね。お風呂で何か盛り上がってるなぁって思ってたけど、そのことだったのね」「そうそう、そうなんだよ。でさ、会社が提携しているフォトスタジオがあるから、予約してみるよ」「うん、ありがとう杏介さん」ニッコリと笑う紗良の頭を、杏介はよしよしと撫でる。 海斗に関することなら反対しないだろうと踏んでいたが、やはりあっさりと了承されて思わず笑みがこぼれた。「?」撫でられて嬉しそうな顔をしながらも、「どうしたの?」と控えめに上目遣いで杏介を見る紗良に、愛おしさが増す。「紗良は今日も可愛い」「き、杏介さんったら」一瞬で頬をピンクに染める紗良。 そんなところもまた可愛くて仕方がない。夫婦がイチャイチャしている横で、海斗はランドセルを背負ったまま「写真! 写真!」と一人でテンション高く踊っていた。