その後、依美から贈り物ランキングサイトなるものを教えてもらった紗良は、家に帰り海斗の寝かしつけをしてから、スマホでいろいろと検索をした。「うーん、難しい」カタログギフトは冠婚葬祭みたいだし、スイーツは同じものを返すみたいで嫌だ。 タオルや洗剤は引っ越しのイメージがある。 コーヒーセットは無難だけれど、コーヒー好きかはわからない。「どーしよー」ゴロンゴロンと転がりながら、関連ページへのリンクへとどんどんタップしていく。 するとあるページで手が止まった。「これ、いいかもしれない」ブラウンレザーにゴールドブラウンのステッチが入ったシックでおしゃれなブックカバー。杏介はラーメンを注文した後、たびたび文庫本を読んでいる。 読書好きなのかもしれないし、いつもカバーは書店で購入時につけてもらえるものをしていることを思い出した。「これにしようかな?」ブラウンレザーのブックカバーを付け読書をする杏介を想像すると、大人な雰囲気が倍増してすごく似合っている気がした。――『そのプールの先生とはいい感じなんじゃないの?』ふいに依美の言葉が思い出され、紗良の心臓がきゅっと悲鳴を上げた。(違う違う、違うんだってば。そんなんじゃないんだから)そういう感情は海斗を引き取るときに捨てた。 依美が面白がるから、だから変に思い出してしまっただけで。紗良は枕に顔を埋めて気持ちを落ち着かせる。 浮かぶのは杏介の優しい笑顔。あれは目の潤いであり癒しで、紗良の推しメンだったというだけ。 そう、ファンだった男性がたまたまプール教室の先生だっただけなのだ。(本当に、ただお礼がしたいだけなんだから)自分に言い聞かせるように紗良は何度も心の中で唱え、ブックカバーの購入ボタンを押した。
石原紗良の働くアルバイト先にはお気に入りの彼がいる。いつも窓際のカウンター席に座って、店の名物であるチャーシュー麺を注文し、運ばれてくるまでのあいだ静かに文庫本を読む一人の男性。 くしゃっと乱れた髪はくせ毛なのだろうか、少しハネているけれど、それが逆にあか抜けていておしゃれ。背は高くて半袖のシャツから覗く腕はほどよく筋肉質できゅっとしまっている。文庫本に落とした視線は伏せがちで、意外と睫毛が長い。男性なのに綺麗だなとついついそちらに視線をやってしまう紗良は、完全に彼のファンになっている。土日の夜だけこの店でアルバイトする紗良にとって、土曜日の夜に来てくれる彼は目の潤いであり癒しだ。(まあ、私が勝手に拝んで癒されているだけなのだけど。でも忙しい日々にそういう潤いは必要よね)世の中にはかっこいい人が存在するのだなと、紗良は彼を見るたびに思った。疲れた体に活力を与えてくれる彼はこの店の常連客だ。紗良が彼の座っていた席の片付けに入ったとき、一冊の文庫本が忘れられていることに気付いた。「店長、お客様の忘れ物届けてきます」彼はさっき店を出たばかり。追いかければまだ駐車場にいるかもしれないと店を飛び出したわけなのだけど、彼の姿はどこにも見えず。「あー、もう帰っちゃったかなぁ」半ばあきらめ状態で念のため駐車場をぐるりと一周してみると、ラーメン店の隣にあるコンビニから出てくる彼を発見した。少し遠目からでも分かるバランスの取れたシルエットは紗良の推しの彼に違いない。「すみませーん!」手を振りながらバタバタと駆け寄ると、彼は不思議そうな顔をして首を傾げた。「ん? 俺?」「そうです、お客様です。本、お忘れですよ」紗良が本を掲げると、彼は「あっ!」と短い声を上げた。クールに本を読んでいるか静かにチャーシュー麺を食べている顔しか知らない紗良は、初めて見る彼の表情に新鮮さを覚えて心臓がドキリと高鳴った。「すみません、うっかりしていました」声も初めて聞く。少し低くて、でも優しい声。彼の声が聞けるなんて今日はラッキーデーだ。「いえいえ、間に合ってよかったです。では――」「あのっ」ペコリとお辞儀をして戻ろうとしたところを呼び止められ、今度は紗良が首を傾げる。「はい?」「あー、えっと、またラーメン食べに行きます」「はいっ!ぜひまたいらしてく
明日への活力など寝て起きればもうリセットされているわけで――。紗良は五時半の目覚ましでむくりと起き上がった。身支度を整えながら、夜のうちにタイマーをかけておいた洗濯物をベランダに干す。それが終われば朝食の準備にとりかかるが、朝からあれこれ作る余裕はないため今日はピザトーストだ。オーブントースターで焼いていると紗良の母が起きてきて、あとを母に任せて紗良は寝室へ。「海斗、起きなさーい。朝だよー」寝相悪く布団から半分飛び出しながらもまだぐーすか寝ている海斗を揺り起こす。「……うーん」どこでそんな技を覚えてきたのだろうか、ごろんと寝返りを打ちながら器用に布団に丸まる海斗。「保育園遅刻するよー」容赦なくぺりっと布団を剥がし、寝ぼけ眼の海斗を着替えさせる。抱っこでダイニングまで運び、焼き上がったピザトーストを食べさせつつ紗良も急いで胃に流し込んだ。「今日は午後から雨みたいよ。傘持っていきなさいね」朝の情報番組のお天気コーナーを見ていた母がのんびりとお茶を飲みながらそんな事を言い、紗良はそれを頭の片隅に置いておきながら海斗の身支度を整える。「ほら、海斗行くよ」「おばーちゃん、いってきまーす」「はいはい、いってらっしゃい。ほら、紗良、傘忘れてる」「あっごめん、ありがとう」自分のカバンに傘に、海斗の保育園の着替え一式。軽自動車の助手席に雑に起き、海斗を後部座席へ乗せた。保育園までは車で五分ほどだ。近いけれど、海斗を車へ乗せたり降ろしたりする動作は意外と時間がかかる。四歳児だがまだまだ一筋縄ではいかないことが多い。保育園の門が開くと同時に海斗を預け、紗良は急いで職場へ向かう。朝の時間帯は交通量が多く、渋滞になりそうな道を時間と戦いながら安全運転で進み、職場の駐車場から執務ビルまではダッシュだ。そうして始業時間ギリギリに席に座り、汗だくのまま仕事が始まる。これが紗良の毎朝の風景だ。
「おはよう、紗良ちゃん」「依美ちゃん、おはよう~」ぐったりと席に座った紗良に声をかけてきた同僚、岡本依美は紗良と同じ派遣社員で一年先輩になる。「毎朝お疲れ様だねぇ」「今日は道が混んでたの。遅刻するかと思ったよ」「それで走ってきたの? 汗だくじゃん。あとで化粧直ししてきなね」「うっ……そうする」直すほどの化粧はしていないけれど、と思いつつもよほどひどい顔をしているのだろうか、思わずため息が漏れてしまう。「ところでさ、来週飲み会あるんだけど、どう?」「飲み会かぁ」「たまには参加しなよ。子供、お母さん見てくれるんでしょ?」「まあねぇ。うーん、でもやめとくよ。お迎えもあるし、その後で行くのはキツイ」「お迎えもお母さんにお願いできないの?」「それがお母さん運転免許持ってないのよ」「そうなの? そりゃ大変だ」「でしょう?」始業開始からそんな不真面目な会話を繰り広げられるほど社内環境はいい。紗良はここで派遣社員として八時半から十七時半まで事務仕事をしている。働き始めて早二年。時短勤務はできないものの、子育てしながら働くことを理解してもらえているありがたい職場だ。とはいえ、やはり子供を育てる上でいろいろと制約はあるわけで――。
十七時半のチャイムと同時にパソコンをシャットダウンし、「お疲れ様です」と告げて足早に会社を出る。夕方の渋滞をくぐり抜け保育園へ海斗を迎えに行き、ようやく家に帰ると十八時半近く。夕飯は母が用意してくれることが多くて、それはとてもありがたく助かっているのだが……。「海斗お風呂入るよー。って、寝てる?」洗い物をしている間に、大人しくテレビを見ていた海斗はいつの間にか床にゴロンと寝転がり、すやすやと寝息を立てていた。「もー、仕方ないなぁ」こんなことは日常茶飯事だ。初めは戸惑ったり、抱っこしただけで筋肉痛になったりしたけれど、最近はもう慣れっこになった。イライラすることも少なくなり、仕方がないで済まされる。寝室の布団を雑に敷いて、海斗を担いで運ぶ。その間もまったく起きない海斗は、きっと朝まで爆睡だろう。「最近暑いから、海ちゃんも疲れてるのねぇ」「汗かいてるからお風呂には入れたかったけど。朝シャワーでもさせるか」「一日お風呂入らなくったって死にやしないわよ。紗良だって子供の時はお風呂に入らずよく寝ちゃってたわ」「子供あるあるなのね?」そういうことも、ようやく慣れてきたというかわかってきたというか。紗良なりに理解できてきた事柄だ。
紗良は海斗の叔母にあたる。今から二年前、海斗が二歳のとき、海斗の家族は交通事故に巻き込まれて亡くなった。海斗も事故に巻き込まれたけれど奇跡的に助かって、けれど海斗はひとりぼっち。海斗の母親の実家――、つまり紗良の母は、早くに離婚して一人で暮らしており持病持ち。父親の実家は遠く離れているし両親は高齢。そのため海斗を育てる環境がなく必然的に施設へ預けるように話は進んでいったのだが。まるで邪魔者扱いのように話される会話が紗良にはどうしても納得できなかった。紗良の姉はよく海斗を連れて実家に遊びに来ていたため紗良とも日ごろからよく交流があったし、海斗も紗良に懐いていた。だから紗良はその場の勢いと怒りで「私が育てます」と引き取って、今に至る。紗良の考えが浅はかだったことは否めない。一人で初めての子育てはあまりにも無謀すぎたけれど、紗良の気持ちを汲み取った母が一緒に育てると協力を申し出てくれたおかげで、今はどうにかこうにか暮らしていけている。紗良が子供の頃に両親は離婚していて、さらに母は数年前に脳梗塞を患っている。そのため持っていた運転免許も返納済みで定期的に通院もしているからあまり母には負担をかけさせられない。とはいえ、子育て未経験、ましてや出産未経験の紗良にとって、海斗の子育ては未知との連続だった。母がいなかったらとっくに音を上げていたに違いなかった。「明日はプール教室だから、お昼は外で食べてくるね」「わかったわ。海ちゃんプール楽しそうね」「お友達と行ってるから楽しいみたいよ」保育園で知り合ったママ友から誘われて、海斗は四月からプール教室に通い始めた。年中から通えるプール教室はまだほとんど水遊び程度。けれど楽しそうにしている姿を見ると、やらせてあげてよかったなと紗良は嬉しくなる。一通りの家事を終え明日の準備を整えて、ようやく紗良も寝室へ入った。隣でぐーすか寝ている海斗の寝顔はやっぱり可愛い。自分の子供ではないけれど、もう二年も一緒に生活しているのだ、可愛くてたまらない存在には違いない。海斗の寝息を聞きながら、紗良もすぐに眠りに落ちた。
翌日のプール教室は午前十時半から。保育園で知り合ったママ友の弓香と観覧席でおしゃべりをしながら、紗良は子供たちの様子を見学していた。弓香は紗良よりも十歳も年上で、子どもは二人。上のお姉ちゃんはもう小学校六年生という子育ての大先輩だ。紗良と弓香は保育園の送り迎えの時間が同じで、挨拶を交わすうちに仲良くなった。歳の差なんて気にしちゃだめよとフレンドリーに接してくれる弓香のおかげで、頼りになるありがたい存在だ。「海ちゃん順調だね。もー、うちなんてまだまだ顔付けがダメでさー」「ありがたいことに、先生とも相性いいみたいで」「滝本先生ね! あの人、格好いいわよね。体引き締まっててさ、ありゃ絶対プロテイン飲んでるわ」「弓香さん、プロテインって」「うちの旦那もああいう締まった体にならないかしら。もうお腹がボヨンボヨンなのよ~」「あはは! 旦那さんが聞いたら泣いちゃうかもよ」弓香のジェスチャーに、紗良はボヨンボヨンの弓香の夫を想像してクスクスと笑う。プール教室の先生はみな水泳キャップを被っているため、かっこいいと言われても紗良には正直顔の違いがよくわからない。いつも海斗ばかり見ているためあまり先生の顔を見ていないというのもあるけれど。「先生ってどれも同じ顔に見えない?」「紗良ちゃん、よく見てよ。全然違うって」「うーん」弓香に言われ改めて先生の顔を観察してみる。と、海斗のクラスの担当である滝本先生は他の先生に比べて確かに綺麗な顔をしているような気がする。それに男性らしく大きな背中に引き締まった手足。あれはプロテインのおかげなのか、はたまた普通の男性はみんなあんな感じなのか、紗良にはさっぱりわからない。ただ、ほんの少し、かっこいいかもと思ってしまったことも事実で。今までそんな目で先生を見ていなかった紗良は、急に心臓が変な音を立てて騒ぎ出す。(違う違う、そういうことじゃなくて)慌てて目線を海斗に戻し心を落ち着けていると、弓香がカラカラと笑いながら耳打ちする。「でも私は滝本先生より小野先生の方が好みかな」「もー、そんなことばっかり言って、旦那さんが怒るよ~」「あっはっはっ! 内緒ね~」悪びれることもなく明るく笑う弓香につられて、紗良も一緒になって笑い転げた。だけどこっそりと、(私は小野先生よりも滝本先生の方が好みかな)なんて思ったりもし
「今日はパパが迎えに来てるから」「また保育園でねー」プール教室の出入口で弓香と別れ、紗良は海斗と手を繋いだ。「さて、海斗、今日はご飯食べて帰ろっか」「おそとでごはん? やったー!」「さーて、何食べに行こうかなー?」「かいとねぇ、ポテト! ポテトたべたい!」ファストフードかショッピングセンターのフードコートでも行こうかと思考を巡らせていると、『海斗くん』と背後から呼ぶ声が聞こえ振り向いた。「水着忘れてるよー!」「あっ、せんせー!」海斗の水着を掲げながら走ってきた『先生』は、プール教室のユニフォームであるTシャツと短パンを履いていて、髪はしっとりと濡れている。海斗は紗良の手を振りほどき先生へと駆け寄った。慌ててプールバックの中身を確認すると、確かに水着が入っていない。「わ~、すみませんでした。ありがとうございます」紗良も急いで駆け寄るが、先生に妙な既視感を覚えしばし頭がバグる。先生も紗良を見て固まり――。しばしの沈黙の後、紗良と先生は声を揃えて叫んでいた。「あっ! 常連さん?」「店員さん?」お互い驚きのあまりまた声を失う。先に口を開いたのは滝本先生の方だった。「海斗くんのお母さんだったんですね」「私も、常連さんが海斗の先生だとは知りませんでした」まさかの顔見知りで変に緊張するというか恥ずかしいというか。お互いぎこちなく愛想笑いしかできない。「かいとねぇ、いまからごはん、たべにいくんだー!」「おー! いいなぁ。いっぱい食べてこいよー」滝本先生は海斗の頭を優しく撫で、バイバイと手を振った。それに合わせて紗良もペコリとお辞儀をし、海斗と共にその場を後にする。「さらねえちゃん、ポテトポテト~」「あー、はいはい、ちょっと待ってよ」ファストフード店で海斗のリクエストであるポテトを注文し、ハンバーガーや飲み物をシェアしながら、紗良は先ほどのことを思い出していた。(本当にびっくりした。まさかラーメン店の常連さんが、海斗のプール教室の先生だったなんて、まったく気づかなかったなぁ)水泳キャップを被るだけで雰囲気がガラリと変わる。常連として見ていたときは綺麗な顔の人だなと思っていたけれど、プール教室の先生として見たときはまた違ったかっこよさだった。半袖シャツから見えていた引き締まった腕は、そういうことだったのかと妙に納得
その後、依美から贈り物ランキングサイトなるものを教えてもらった紗良は、家に帰り海斗の寝かしつけをしてから、スマホでいろいろと検索をした。「うーん、難しい」カタログギフトは冠婚葬祭みたいだし、スイーツは同じものを返すみたいで嫌だ。 タオルや洗剤は引っ越しのイメージがある。 コーヒーセットは無難だけれど、コーヒー好きかはわからない。「どーしよー」ゴロンゴロンと転がりながら、関連ページへのリンクへとどんどんタップしていく。 するとあるページで手が止まった。「これ、いいかもしれない」ブラウンレザーにゴールドブラウンのステッチが入ったシックでおしゃれなブックカバー。杏介はラーメンを注文した後、たびたび文庫本を読んでいる。 読書好きなのかもしれないし、いつもカバーは書店で購入時につけてもらえるものをしていることを思い出した。「これにしようかな?」ブラウンレザーのブックカバーを付け読書をする杏介を想像すると、大人な雰囲気が倍増してすごく似合っている気がした。――『そのプールの先生とはいい感じなんじゃないの?』ふいに依美の言葉が思い出され、紗良の心臓がきゅっと悲鳴を上げた。(違う違う、違うんだってば。そんなんじゃないんだから)そういう感情は海斗を引き取るときに捨てた。 依美が面白がるから、だから変に思い出してしまっただけで。紗良は枕に顔を埋めて気持ちを落ち着かせる。 浮かぶのは杏介の優しい笑顔。あれは目の潤いであり癒しで、紗良の推しメンだったというだけ。 そう、ファンだった男性がたまたまプール教室の先生だっただけなのだ。(本当に、ただお礼がしたいだけなんだから)自分に言い聞かせるように紗良は何度も心の中で唱え、ブックカバーの購入ボタンを押した。
紗良は悩んでいた。「うーん……」仕事中だというのにときどき眉間にしわを寄せて、思いつめたように唸る。「紗良ちゃんお昼いこーって、どした?」お昼休みに突入しても自席でうんうん唸っている紗良に、同僚の依美が不思議そうに声をかける。「ねえ依美ちゃん、男の人にお礼するときって何を渡したらいいと思う?」「え、どうしたの、急に。はっ! もしかしてついに紗良ちゃんにも春が来た?」ニヨニヨと楽し気な笑みを浮かべられ、紗良は慌てて否定する。「違う違う。そんなんじゃなくて」「えー、本当にぃ?」「ちょっとお世話になっただけで。海斗にコンビニスイーツいっぱい買ってもらっちゃったから、何かお礼した方がいいよなーって思っただけで」「ほーん」「本当だってば」「コンビニスイーツごときでお礼だなんて、紗良ちゃんって律儀なのね」「だって、貰いっぱなしじゃなんだか落ち着かないんだもん」それに、父の日の似顔絵を受け取ってもらうためにわざわざ近くのコンビニまで来てくれた。 さすがにこの事は依美には言えないけれど。 でも何かお礼をすべきだと思うのだ。「そうねえ、その人の好きな食べ物は?」「……わからない」「家族はいるの?」「独り身だって言ってたけど、実家暮らしか一人暮しかはわからない」「じゃあ年齢は?」「わからないけど、同じくらいか少し年上かなぁ」依美の問いに真面目に答えていた紗良だったが、依美の顔は質問を重ねるごとに曇っていく。「ちょっと、わからないことだらけじゃないの。どんな関係なのよ」「海斗のプール教室の先生なの」「プール教室? じゃあプロテインとか?」「いや、それはないでしょ。もう飲んでそうだし」「じゃあ、お酒?」「飲むかわかんない」「タバコ?」「吸ってるのは見たことない」依美は深いため息を落とす。「もー、やっぱりわからないことだらけじゃないの。難しいわ」「でしょ。だから困ってるのよ。依美ちゃんはいつも彼氏に何をプレゼントしてるの?」「え? うちの彼氏は甘いもの好きだからチョコさえ与えておけば機嫌がいいわよ。あとは、私自身、とか?」「……?」キョトンとした紗良の背をバシンと叩く。「もー、冗談が通じない子っ。ウブなのか真面目なのか、どっちなのよ」一呼吸おいてようやく理解した紗良は頬を赤く染めて慌てる。「え、ええっ、ごめ
紗良と別れた後、杏介にはひとつの疑問が残っていた。(……海斗、石原さんのこと『姉ちゃん』って言ってなかったか?)記憶を辿ってみても、やはり海斗は『紗良姉ちゃん』と言っていたように思う。お母さんとは呼ばせない主義なのだろうか?たまに子供とは友達のような関係だからと名前で呼び会う親子もいると聞く。(いや、だけどそういうのとは違う気がするけど……)四歳児の海斗は大人と対等に会話ができるが、それでもまだおぼつかない言葉もたくさんある。その場のノリとか勢いとか、はたまたその時のブームとか。それとも杏介の聞き間違いだろうか。海斗からもらった絵には、大きく口を開けて笑った顔と『おとうさん、いつもありがとう』と言葉が添えられている。(深い意味はないとは思うけど……)海斗は杏介に父親像を見ているのだろうか。確かによく懐いてくれてはいるけれど、でもそんな子は他にもたくさんいる。海斗の父親はなぜ亡くなったのだろう。紗良も早くに夫を亡くして寂しいだろう。きっとまだ若いだろうに。様々な疑問と想いを抱えながらも、『先生のことが好きなので描いた』と言われればやはり悪い気はしない。――『深く考えずに体裁だけでいいので受け取ってもらえないでしょうか』ふいに紗良の言葉がよみがえる。(そうだよな。ありがたく受け取っておこう)杏介はそれ以上考えるのをやめ、画用紙を助手席にそっと置いて車を発進させた。
「じゃあまたプールで。早く寝て風邪引かないようにするんだぞ」「わかったー」杏介は海斗の目線に合わせるよう屈み、ニコッと爽やかな笑みで海斗の頭をくしゃっと撫でる。海斗と杏介が笑い合うのを見て、紗良は杏介が子供たちに慕われているのがわかる気がした。海斗の生き生きした表情を引き出しているのはまぎれもなく杏介なのだ。(勇気を出して頼んでよかったな)ずっと杏介に対して申し訳ない気持ちでいたけれど、今は感謝の気持ちでいっぱいだ。「海斗、これはお土産だよ。ちゃんと夜ご飯食べてからな」「ありがとう! さらねえちゃん~おみやげもらった~」「えっ! すみません」「いえ、コンビニで適当に買っただけなので」海斗が受け取った袋を覗くと、コンビニスイーツがたくさん入っている。「うわー、美味しそう! ありがとうございます。じゃあ帰ろっか、海斗」「えー。せんせーともっとあそびたい」「もう遅くなっちゃうから。先生にもらったスイーツ食べれなくなるよ」「えー」「海斗、またプールで待ってるな」「わかったー」名残惜しさも感じながら、バイバイと手を振る。紗良はペコリとお辞儀をして車に乗り込んだ。杏介は紗良の車がコンビニを出るまで見送っていた。
次の火曜日、ラーメン店の隣のコンビニで待ち合わせることになった。紗良にとっては自宅の近くであり、保育園のお迎えに行ってから寄るのにちょうどいい。杏介は自宅から離れているが、職場近くということもあり行きなれている場所だ。車から降りた海斗はすぐに杏介を見つけ、満面の笑みで叫ぶ。「たきもとせんせー!」「おー、海斗! 頑張って保育園行ってきたか?」「いってきたー!」水色のスモックに黄色い帽子をかぶった海斗は自分の背中に隠しきれていない画用紙を杏介に突き出す。「はい、これ。せんせーにあげる。かいとがかいたんだよ」「うわあ、すっごく嬉しい! ありがとう!」得意気な海斗から受け取ると、画用紙の縁に『おとうさん、いつもありがとう』とサインペンでしっかりと書いてあった。 紗良が言っていたのはこのことかと、杏介は苦笑いをする。けれどやはり、杏介に渡したいという海斗の気持ちが嬉しく感じる。嬉しそうな海斗の顔を見て、紗良は心底ほっとしていた。 と同時に、やはりパパの存在が恋しいのだろうかとも思ったりする。 海斗には祖父は一人いるが、遠く離れていて会う機会もない。紗良と紗良の母に育てられる海斗。 今はいいかもしれないけれど、将来的にどうだろう。ふと、そんな考えになるときがある。でもだからといって、どうすることもできないのが現状だ。 世の中には父親がいない子どもはたくさんいよう。 いても幸せだとは限らない。 人それぞれ、事情があるのだから。海斗の身近で遊んでくれる大人の男性が杏介だけだから、それで懐いているのかもしれない。
「あの、僕は平日休みが多いんですが……」「すみません、私は平日仕事で海斗を保育園に迎えに行くのも十八時くらいなんです」「えっ、平日仕事をしてて、土日もラーメン店で働いているんですか?」「はい、実はそうなんです」「それは……大変ですね」紗良は曖昧に微笑む。海斗と生活する上で大変だと思うことはあっても、自分の仕事を大変だと思うことはなかった。むしろそうしなくては海斗を十分に養えないという使命感の方が大きく、とにかく日々がむしゃらだったのかもしれない。「先生さえご迷惑でなければ、平日に会ってもらってもいいですか?」「ええ、それは、全然構いませんよ」「えっと、じゃあ……」紗良はスマホのスケジュールアプリを開く。 杏介も同じくアプリを開き、日程を擦り合わせた。 チラリと見える紗良のスケジュール表には予定がびっしりと書き込まれている。 何かはわからないが、なかなかに忙しそうだ。「この日は海斗の歯医者さんがあるし……」などと呟いているから、きっと海斗絡みの予定ばかりなのだろう。短い付き合いだが、なんとなく紗良の性格は分かってきている。彼女はいつも真面目なのだ。だけど可愛らしい部分も多々あって――。「先生、火曜日の夜はいかがですか?」「大丈夫ですよ」「ありがとうございます」肯定すればすぐに嬉しそうな表情を浮かべる。 柔らかくて可愛らしい微笑みと声色。杏介はぐっと息を飲む。本当はプール教室に通う親に個人的な連絡先を教えるべきではないのだが、だけどこれも海斗のためと杏介は言い訳をして自然な感じを装い言った。「念のため連絡先を交換してもいいですか?」「あ、はい、そうですね」紗良も特に気にもせず、二人連絡先を交換する。スマホの画面に表示された名前。(滝本杏介さんって言うんだ……) (石原紗良さん、か…)お互い妙に照れくさく、でも嬉しいような気持ちになり、顔を見合わせふふっと控えめに笑った。
「……保育園で描いた父の日のプレゼントなんですけど。……あの、深く考えずに、体裁だけでいいので受け取ってもらえないでしょうか。それで本人納得すると思うんです。……ダメでしょうか」強張っている杏介の表情から、やはりお願いすべきではなかったかもと泣きそうな気持ちになる。なんとなく、最近は杏介と打ち解けていた気がして、だからきっと引き受けてくれるんじゃないかと思っていた紗良だったが、現実はそんなに甘くはなかったのかもしれない。「……やっぱりご迷惑ですよね。ごめんなさい、今の話は忘れてください」「あ、いや、いいんです。ちょっと驚いただけで。えっと、僕が受け取るのは全然構わないのですが、その……海斗くんのお父さんに申し訳ないな、と……」「海斗の父親は亡くなっているので、お気になさらず……」「あ、そうだったんですか。申し訳ありません、デリカシーがなくて」「いえ、海斗は先生のことがとても好きなので、だから描いたんだと思います」「そういうことなら、喜んでいただきますよ。むしろ海斗くんに好きになってもらえて光栄です」杏介はニコッと微笑む。 紗良と海斗にそんな事情が隠されていたなんて思いもよらなかったが、可愛い教え子と紗良の頼みとあらば、断る理由がない。杏介が快く承諾してくれたことで、紗良もようやくほうっと胸を撫で下ろしていた。「えっと、じゃあ、プール教室のときは持っていっても受け取れませんよね?」「あー、そうですね。レッスンが続けて入っているし濡れてしまうかも……」海斗が水着を忘れたときに杏介が追いかけて届けてくれたことがあったが、あのときはレッスンの合間をぬって急いで来てくれたことで、髪もシャツも濡れていた。だから誰かのために時間を作ることはなかなか難しい。妥協案としてはレッスン外で会うことなのだが……。
「わかりました。じゃあ隣のコンビニでどうですか?」「はい、それで。ありがとうございます」ほっとしたような、それでもまだ落ち着かないようなそんな表情を浮かべる紗良。お願いとはなんだろうか。海斗の水泳のことで何かあるのだろうか。(もっと優しくしてくださいとか厳しくしてくださいとか?)プール教室の先生をしているとそういう意見をもらうことも少なくない。だからきっとプール教室の指導に関わることなのだろうと杏介は予想して、コンビニへ向かった。ペットボトルのお茶を一本だけ買って、あとは駐車場に停めた車の中で紗良を待つ。スマホのアプリゲームで時間を潰していると、ラーメン店の方からコンビニへ向かってくる人影が見えた。こちらに近づくに連れシルエットがはっきりしてきて、それが紗良だとわかる。制服から着替えた紗良は、ロングワンピースにレギンスといったラフな格好。小さなショルダーバッグを斜めに掛けて、小走りで向かってくる。私服の紗良はやはり若くて、とても母親には見えない。(でも母なんだよなぁ……)世の中の不思議に触れた気分になりながら、杏介は車から降り紗良にわかるよう小さく手を上げた。「お待たせしてすみません」「いえ、大丈夫ですよ。それでお願いと言うのは……?」「はい、あの……」紗良はしばし目を泳がせた後、杏介をぐっと見つめる。身長差のせいで上目遣いに見つめられた杏介は、図らずも心臓がドキリと跳ねた。紗良の艶やかな唇が小さく開かれる。「……海斗が、どうしても先生に渡したいものがあって」「渡したいもの?」「はい、保育園で描いた絵なんですけど……」紗良は再び口ごもってしまう。とんでもなく言いづらいし、本来ならこんなことを
「えーっと、ここにお父さんって書いてあるじゃん。滝本先生はお父さんじゃないでしょ」「えー、あげたいあげたい。かいと、がんばってかいたもん。あげるもん。こんどのプールきょうしつにもってくの」「いやいやいや、濡れちゃうし」「わーたーすー」「ダメだって」「ヤダヤダ」言い合いをしていると、だんだん海斗の顔が曇ってくる。そしてついに不機嫌な顔でその場を動かなくなった。「ちょっと海斗、帰るよ」「やだっ」「置いてくよ」「やだっ」「保育園に泊まる?」「やだっ」「もうっ、どうしたいのよっ」「だってたきもとせんせーにわたしてくれないんでしょ」「だって渡せないじゃない」「やだっ」テコでも動かない海斗と譲らない紗良。だけど先に根負けしたのは紗良だった。「あーもう、じゃあ今度聞いてみるから。それでいいでしょ?」「……いい」「……帰ろ?」「かえる」ようやく靴を履いてくれた海斗と手を繋ぎ、駐車場へと向かう。(ああ、変なことを引き受けてしまった。寝たら忘れてくれないかしら)一気に疲れてしまった紗良は、どんよりとした気分のまま家路についた。杏介はいつものラーメン店でいつものように接客してくれた紗良を見て、首を傾げた。 上手く言い表せないのだが、何だか今日は紗良の様子がおかしい気がする。妙にソワソワしているというか、落ち着かないというか。そんな彼女は意を決したかのように口を開いた。「あの、先生にお願いがあって……」「はい、何でしょう」「あ……、えっと……」エプロンの裾をぎゅっと握りしめて、モゴモゴと口ごもる。言いづらそうな雰囲気にここでは話しづらいことなのかと思い、杏介はひとつ提案した。「今日は何時までですか