プール教室で、紗良はいつも観覧席から海斗だけを見ていたはずだった。それなのに、なぜか最近では杏介を目で追っている瞬間がある。子供に向ける笑顔、真面目な指導、引き締まった体。ずいぶん前からまわりのママたちが口々に「滝本先生いいわよね」と騒いでいる意味がようやくわかってきた気がした。ふと、杏介と目が合った気がして胸がドキリと揺れる。無意識にまた見てしまっていたようだ。どうしたというのだ。今までそんなことなかったのに。紗良は慌てて視線を海斗に戻した。杏介も紗良が気になっていた。紗良が、というより、紗良と海斗の家庭の事情が、といった方が合っているかもしれない。目の前の海斗は今日も楽しく水に潜っている。他の子たちと何ら変わらない、事情さえ知らなければごく普通の家庭の子だと思う。というか、つい最近までそう思っていたのに。指導中は雑念を捨てるべきだと、杏介は無理やり頭を切り替える。だがレッスン終了後に生徒たちに夏休み短期スクールのお便りを配ったとき、その雑念が一気に引き戻された。「このお便りはお家の人に渡してね。はい、海斗も。お母さんに渡すんだぞ」受け取った海斗はじっと杏介を見ると無垢な眼差しで口を開く。「かいと、おかあさんいない」「うん?」それは父親のことかと思ったが、そうではなかった。「さらねえちゃんに、わたせばいいんでしょ?」「え? 誰だって?」「さらねえちゃん」「海斗にはお姉さんがいるの?」「いるよ、さらねえちゃん」と指差す先には観覧席に座ってこちらの様子を見ている紗良、――杏介の認識上、『海斗のお母さん』だ。 そういえば連絡先を交換したときに記憶した名前は「紗良」だったと思い出す。(前にコンビニで会ったときも海斗は紗良姉ちゃんと呼んでいたな)そのことを思い出し、さらに彼女たちの事情が気になるが、これ以上深く聞くわけにもいかない。ガラス越しに海斗に指をさされた紗良は、杏介に向かって小さくお辞儀をした。 まわりにいる母親たちに比べてやはり紗良は幾分か若く見える。(……母親なのか、姉なのか)ますます杏介の頭は混乱した。
「え、ウォーターパークですか?」いつものラーメン店で杏介の接客をした際コソコソっと話された話題に、紗良は目を丸くして驚いた。ウォーターパークとは、県内にある大型プール施設だ。流れるプールやウォータースライダー、キッズ専用屋内プールも充実していて人気がある。そのチケットを、杏介はくれるという。「仕事の関係上チケットをたくさんもらって。もし、よかったら、なんですけど。その、海斗くんプール好きですし」「とてもありがたいのですが、私泳げなくて。海斗を連れていってあげたいけど。どうしよう……」うむむ、と紗良は悩む。確かに海斗はプールが大好きだし、先日テレビでウォーターパークのCMが流れた際も「ここいきたい!」と騒いでいた。けれど自分が泳げないことがネックになっていて重い腰が上がらないでいたのだ。そんな紗良の様子を伺いつつ、杏介は数日前から考えていたことを思い切って口にする。「……えっと、もしご迷惑でなければ一緒にどうですか?」「え、先生とですか?」「はい。あ、えっと変な意味ではなく。僕は泳げますし。独り身なので暇ですし」こんなありがたい申し出があるだろうか。杏介が一緒に行ってくれるなら紗良が泳げなくてもなんとかなるだろうし、なにより海斗が喜ぶだろう。「あ、あの、ぜひよろしくお願いします」食い気味に頷けば、杏介は柔らかく笑みを落とした。翌週、ちょうど杏介が日曜日に休みがあり、それに合わせてウォーターパークへ行くことが決まった。杏介が車で迎えに来てくれ、ご機嫌な海斗はジュニアシートを抱えてちゃっかり助手席をゲットする。「車まで出していただいてすみません」「これくらい気にしないでください」「せんせー、はやくいこう! はやくいこう!」「海斗、ちゃんと大人しく乗ってるのよ」「わかってるよぉ。シートベルトした!」「じゃあ出発するぞ」紗良は後部座席から、今日がとても楽しい一日になるといいなと思いながら、海斗と杏介の会話を静かに聞いていた。海斗は終始しゃべりっぱなしで、そのテンションの高さが伺える。数日前から今日という日を指折り数えてきたのだ。その海斗のテンションに呆れることもなく、杏介も楽しそうに話を合わせてくれている。(さすが先生、子供の扱いが上手いわ)感心しているうちに、あっという間にウォーターパークへ到着した。
人気の施設とだけあってなかなかに混んでいるし、駐車場から入口までも少し距離がある。荷物を持って海斗の手を引けば、杏介がするりと紗良の腕から荷物を抜き取った。「あっ、大丈夫ですよ、私持てます」「人が多いから、石原さんは海斗くんを見てあげてください」そう言われては杏介の言葉に甘えるしかなくなる。紗良は海斗の手を握り直し、「ありがとうございます」と伝えれば、杏介はふっと小さく笑みで返す。その柔らかで優しい表情はプール教室のときにさえ見たことがなく、紗良の胸をドキリとさせるには十分すぎるほどの破壊力があった。(……さすが推しメン。良いもの見させてもらったわ)などと余計なことを考えているうちに入口まで辿り着く。「海斗くんは僕が着替えさせるので、着替えたらあっちの入口で待ち合わせしましょう」「あ、はい」杏介は海斗の荷物を持つと、海斗と手を繋ぎ手際よく男子更衣室へ入っていった。紗良も慌てて女子更衣室へ入る。一人の更衣室は広々と感じられて、子供がいない身軽さを久しぶりに味わう気がした。途中で呼ばれることもなく、ただ自分の着替えをすればいいだけ。ほんの二年前まではこれが当たり前だったというのに、今やすっかり海斗に合わせた生活になっていることを実感させられた。
入口へ行くとすでに二人は待っていて、大きな浮輪まで準備して楽しそうに談笑している。「さらねえちゃん、おそいー」「ごめんね。先生も、お待たせしました」「あの、ひとつ提案なのですが、今日は先生と呼ぶのはやめて名前で呼びませんか。僕も海斗くんのお母さんと呼びづらいですし」「あ、そうですよね。なんか変な関係に見えちゃいますよね。えっと……」「僕のことは杏介と呼んでください」「杏介さん。あ、私は紗良で……」「了解です、紗良さん」ドキリとしたのはなぜだろうか。 男性から名前で呼ばれることがない紗良は、慣れていないからか緊張してしまう。自然と早くなる鼓動に、落ち着けと何度も頭の中で唱えた。杏介が持ってきてくれた大きな浮き輪に、紗良と海斗は一緒に入った。 杏介は外側から浮き輪を持つ。流れるプールでくるくる回りながら流されるままに身を任せていると、海斗は浮き輪で弾みをつけたりバタ足を試みたりと落ち着きがない。「きーもちいー!」「海斗暴れないでぇ」「紗良さん、力抜いて。大丈夫だから。力を抜いた方が浮くから」「は、はいい」大暴れの海斗とは対照的に、紗良は必死に浮輪にしがみつく。 まるでプールに来ているとは思えないほど難しい顔をする紗良を見て、杏介は思わず吹き出した。「ぷっ、紗良さん本当に泳げないんですね」「笑わないでください。ていうか、絶対手を離さないでくださいね」「はいはい」「さらねえちゃんは、こわがりだからさ~」「海斗、余計なこと言わないで」「海斗は全然平気なんだな」「かいとはプールすきだもん! つぎ、あれやりたい」指差す先は、四人乗りのゴムボートにのって滑り台をラフティングするもの。 たちまち紗良の顔は青ざめる。「お姉ちゃん絶対無理!」「えー! じゃあせんせー、やろう?」「残念、海斗。あれは身長が足りないよ」「えー! かいとまえよりおっきくなったでしょ」「そうだな。でも子供用のプールにも滑り台あるから、そこ行こうか」「いくー!」上手く海斗を誘導できたと、紗良と杏介は目配せをして微笑んだ。
キッズプールは屋内施設だ。まだよちよち歩きの子供でも楽しめるような噴水シャワーや浅いプール、角度の緩いスライダーやキッズ向けスライダーもある。「かいと、あれやる!」目をキラキラと輝かせた海斗はスライダーを気に入り、何度も何度も滑っては大笑いをする。「もっかい、いってくる」滑り降りた先で待っている紗良と杏介に元気よく伝えると、また一人で階段をのぼっていく。「海斗、走らないでよー」紗良が声をかけるが、聞いているのか聞いていないのか、そのスピードは落ちることを知らない。「ずいぶん気に入ったみたいですね」「こんなに喜ぶとは思いませんでした」「誘った甲斐がありますよ」くっと微笑む杏介に、紗良は感謝の気持ちでいっぱいになった。杏介がいなかったら間違いなくここには来ていなかった。例えチケットだけもらっても、紗良一人で海斗を連れてプールに来るなんてことはできなかっただろう。「さらねえちゃん、つぎはあそこにいこー!」「ちょっと海斗待って! ……きゃっ!」突然走り出す海斗を慌てて追いかける。が、紗良は足を滑らせてバランスを崩した。目の前の視界がぐるんと動き立て直すことは不可能だ。けれど予想よりも軽い衝撃と共に、紗良の視界はすぐに止まった。「危なっ! 大丈夫ですか?」「……! す、すみません!」斜め上を見上げれば、紗良の右腕を絡めるようにして受け止めている杏介の驚いた顔がある。「「……!!」」視線がぶつかれば、お互いあまりの近さに言葉を飲み込んだ。((ち、近いっ!))動揺してパッと離れれば、急激に心臓がドッドッと音を立てて暴れ出した。今まで意識していなかったのに、どういうわけか頬に熱が集まってくるようだ。(杏介さん、たくましすぎるんですけど!)(紗良さん、華奢すぎるんですけど!)お互いどぎまぎしながら、「もー、海斗ったらすぐにどっか行っちゃうんだから」「本当に」と、ぎこちなく笑うのだった。
開園から遊び倒したので、お昼も過ぎてそこそこに帰り支度を始めた。 まだ遊びたいと渋る海斗だったが、車に辿り着く前に抱っこをせがみ、杏介の胸の中であっという間に船をこぎ出した。「杏介さんすみません、重いでしょう?」「紗良さんこそ荷物持たせてしまってすみません」「いいえ、海斗の重さに比べたら全然余裕ですよ」「海斗よだれ垂れてる」「えっ! すみません!」「いや、いいんです。子供らしくて可愛いなと思って」杏介は嫌がることもなく面白そうに笑う。 その笑顔につられて紗良もふふっと微笑んだ。すっかり爆睡状態の海斗を後部座席に乗せ、今度は紗良が助手席に座ることになった。 普段自分で運転してばかりの紗良は、助手席に乗るということが初めてに近い。 開けた視界にゆったりとしたシートは贅沢だと感じ、紗良を新鮮な気持ちにさせる。 チラリと横目で杏介を見れば、整った綺麗な顔で真剣にハンドルを握っていた。(こんな風に、運転してもらえる日が来るなんて……)不思議な気分になりながら見つめていると、ふと目が合う。「あ、えっと、今日は連れてきてくださってありがとうございました。杏介さんが誘ってくれなかったら、 私、 海斗のこと一生プールに連れてきてあげられなかった気がします」「よかったです。……あの、 聞いてもいいですか?」「はい」きょとんと首を傾げる紗良に、杏介は一旦口をつぐむ。 本当に聞いてもいいのだろうかと思いつつも、でもやはり聞かずにはいられなかった。「紗良さんは、その、……海斗の母親ではないんですか?」一瞬車内がしんとなった気がした。 聞くのは時期尚早だっただろうかと焦るも、時間は戻せない。 だが紗良は何でもないようにふふっと微笑んだあと「はい」と肯定した。
「実はそうなんです。 海斗の母の妹です。海斗の両親は事故で亡くなってしまって、 代わりに私が育てています」「そうだったんですか。 大変なご苦労をされているんですね」 ストンと憑きものが落ちるように、杏介は納得した。杏介が抱いていた疑問が一瞬のうちに晴れていくようだ。だから『紗良姉ちゃん』だったのだ。だから父親がいなかったのだ。紗良と海斗の境遇を思うと胸が潰れそうになる。今までどんな苦労をしてきたのだろう。どんな生活をしてきたのだろう。考えても想像に及ばない。「あ、でも家には母もいて、母と一緒に面倒見てる感じなんですけど。あの、だから、前に杏介さんに、私が愛情をもって育てているから海斗が楽しそうに笑ってるって言われて、本当に嬉しかったんです。なんだか私の努力が認められた気がして。まあ、子育てを努力っていうのも何か違う気がしますけど。……えっと、何て言うんでしょうね。上手く言い表せません」「いえ、立派です。子育てをしたことがない僕なんかが偉そうなことを言えた立場じゃないんですが、紗良さんは凄いと思います」「……ありがとうございます」誰かにこんな風に自分の気持ちを吐露したのは初めてかもしれない。もちろん会社や保育園に家庭の事情を話してはある。けれどそんな事務的なことではなくて、もっと紗良の心の奥底にあった感情を少しだけ見せてしまったような、そんな気分だった。「あの、もしよければ、またどこかに行きませんか?」「えっ?」「あー、えーっと、何て言うか、僕も楽しかったですし、海斗も喜んでくれて嬉しいって言うか……」「いいんですか? ご迷惑では?」「どうせ仕事以外は暇してるので」「嬉しいです。ありがとうございます。海斗も喜びます」「じゃあこれからもよろしくお願いします、紗良さん」「はい、こちらこそよろしくお願いします、杏介さん」二人は顔を見合わせるとはにかむように笑った。何だか心が晴れ晴れとするような、そんな爽やかさに胸が弾んだ。
自宅前まで車を着けてもらい、まったく起きる気配のない海斗に声を掛ける。「海斗、着いたよー。起きてー」案の定反応なくぐーすか眠りこける海斗に苦笑いしながら、紗良は海斗のシートベルトを外して抱っこしようと背中に手をかけた。「紗良さん、僕が運びますよ」そっと杏介に肩を引かれ、紗良は一歩下がる。軽々と海斗を持ち上げた杏介は相変わらず逞しく、それでいて頼りになる。「すみません、ありがとうございます」海斗を杏介に任せ紗良は荷物を手早く掴むと、自宅へと案内した。玄関を上がるとすぐにリビングがある。紗良は座布団を二枚並べると、そこに海斗を寝かせてもらうように指示を出した。「紗良、帰ってきたの? ……って、あら? こんにちは」別の部屋にいた紗良の母親が顔を出すと、見慣れない顔――、杏介を見て目を見張る。「こんにちは。お邪魔します」「あらあら、紗良ったらなあに? 彼氏と一緒だったの?」「やだ、お母さん、そんなんじゃないからっ。す、すみません、杏介さん」急にそんなことを言うものだから、今まで意識していなかったのに心臓がドキンと大きな音を立て、紗良は顔を赤くしながら焦り出す。そんな紗良の様子につられて杏介の心臓もきゅっと鳴ったような気がしたが、「大丈夫ですよ」と曖昧な笑顔でごまかした。「紗良と海斗がご迷惑をお掛けしたみたいですみません。疲れたでしょう? お茶でも飲んでってくださいな」「ちょ、ちょっと、お母さんったら」紗良の母はニコニコとしながら強引に杏介を座布団に座らせ、いそいそとお茶を入れ始める。「今日も暑かったわねぇ」などと世間話が始まり、完全に母のペースに巻き込まれてしまった。
カシャカシャカシャッその音に、紗良と杏介は振り向く。そこにはニヤニヤとした海斗と、これまたニヤニヤとしたカメラマンがしっかりカメラを構えていた。「やっぱりチューした。いつもラブラブなんだよ」「いいですねぇ。あっ、撮影は終了してますけど、これはオマケです。ふふっ」とたんに紗良は顔を赤くし、杏介はポーカーフェイスながら心の中でガッツポーズをする。ここはまだスタジオでまわりに人もいるってわかっていたのに、なぜ安易にキスをしてしまったのだろう。シンデレラみたいに魔法をかけられて、浮かれているのかもしれない。「そうそう、海斗くんからお二人にプレゼントがあるんですよ」「えっへっへー」なぜか得意気な顔をした海斗は、カメラマンから白い画用紙を受け取る。紗良と杏介の目の前まで来ると、バッと高く掲げた。「おとーさん、おかーさん、結婚おめでとー!」そこには紗良の顔と杏介の顔、そして『おとうさん』『おかあさん』と大きく描かれている。紗良は目を丸くし、驚きのあまり口元を押さえる。海斗とフォトウエディングを計画した杏介すら、このことはまったく知らず言葉を失った。しかも、『おとうさん』『おかあさん』と呼ばれた。それはじわりじわりと実感として体に浸透していく。「ふええ……海斗ぉ」「ありがとな、海斗」うち寄せる感動のあまり言葉が出てこなかったが、三人はぎゅううっと抱き合った。紗良の目からはポロリポロリと涙がこぼれる。杏介も瞳を潤ませ、海斗の頭を優しく撫でた。ようやく本当の家族になれた気がした。いや、今までだって本当の家族だと思っていた。けれどもっともっと奥の方、根幹とでも言うべきだろうか、心の奥底でほんのりと燻っていたものが紐解かれ、絆が深まったようでもあった。海斗に認められた。そんな気がしたのだ。カシャカシャカシャッシャッター音が軽快に響く。「いつまでも撮っていたい家族ですねぇ」「ええ、ええ、本当にね。この仕事しててよかったって思いました」カメラマンは和やかに、その様子をカメラに収める。他のスタッフも、感慨深げに三人の様子を見守った。空はまだ高い。残暑厳しいというのに、まるで春のような暖かさを感じるとてもとても穏やかな午後だった。【END】
その後はスタジオ内、屋外スタジオにも出てカメラマンの指示のもと何枚も写真を撮った。残暑の日差しがジリジリとしているけれど、空は青く時折吹く風が心地いい。汗を掻かないようにと木陰に入りながら、紗良はこの時間を夢のようだと思った。「杏介さん、連れてきてくれてありがとう」「思った通りよく似合うよ」「なんだか夢みたいで。ドレスを選んでくださいって言われて本当にびっくりしたんだよ」「フォトウエディングしようって言ったら反対すると思ってさ。海斗巻き込んだ壮大な計画」「ふふっ、まんまと騙されちゃった」紗良は肩をすくめる。騙されるのは好きじゃないけれど、こんな気持ちにさせてくれるならたまには騙されるのもいいかもしれない。「杏介さん、私、私ね……」体の底からわき上がる溢れそうな気持ち。そうだ、これは――。「杏介さんと結婚できてすっごく幸せ」「紗良……」杏介は目を細める。紗良の腰に手をやって、ぐっと持ち上げた。「わあっ」ふわっと体が浮き上がり杏介より目線が高くなる。すると満面の笑みの杏介の顔が目に飛び込んできた。「紗良、俺もだよ。俺も紗良と結婚できて最高に幸せだ」幸せで愛おしくて大切な君。お互いの心がとけて混ざり合うかのように、自然と唇を寄せた。
カシャッ「じー」小気味良いカメラのシャッター音と、海斗のおちゃらけた声が同時に聞こえて、紗良と杏介はハッと我に返る。「あー、いいですねぇ、その寄り添い方! あっ、旦那様、今度は奥様の腰に手を添えてくださーい」「あっ、はいっ」カシャッ「次は手を絡ませて~、あっ、海斗くんはちょっと待ってね。次一緒に撮ろうね~」カシャッカメラマンの指示されるがまま、いろいろな角度や態勢でどんどんと写真が撮られていく。もはや自分がどんな顔をしているのかわからなくなってくる。「ねえねえ、チューしないの?」突然海斗がとんでもないことを口走るので、紗良は焦る。いくら撮影だからといっても、そういうことは恥ずかしい。「海斗、バカなこと言ってないで――」と反論するも、カメラマンは大げさにポンと手を叩いた。「海斗くんそれいいアイデアです!」「でしょー」カメラマンと海斗が盛り上がる中、紗良はますます焦る。海斗の失言を恨めしく思った瞬間。「海斗くん真ん中でパパママにチューしてもらいましょう」その言葉にほっと胸をなで下ろした。なんだ、それなら……と思いつつ、不埒な考えをしてしまった自分が恥ずかしくてたまらない。「うーん、残念」杏介が呟いた声は聞かなかったことにした。
ウエディングドレス用の、少しヒールのある真っ白なパンプスに足を入れた。かかとが上がることで自然と背筋もシャキッとなるようだ。目線が少しだけいつもより高くなる。「さあ、旦那様とお子様がスタジオでお待ちですよ」裾を持ち上げ、踏んでしまわないようにとゆっくりと進む。ふわりふわりと波打つように、ドレスが繊細に揺れた。スタジオにはすでに杏介と海斗が待っていた。杏介は真っ白なタキシード。海斗は紺色のフォーマルスーツに蝶ネクタイ。紗良を見つけると「うわぁ」と声を上げる。「俺ね、もう写真撮ったんだー」紗良が着替えて準備をしている間、着替えの早い男性陣は海斗の入学記念写真を撮っていた。室内のスタジオだけでは飽き足らず、やはり屋外の噴水の前でも写真を撮ってもらいご満悦だ。海斗のテンションもいい感じに高くなって、おしゃべりが止まらない。「紗良」呼ばれて顔を上げる。真っ白なタキシードを着た杏介。そのバランスのいいシルエットに、思わず見とれてしまう。目が離せない。「とても綺麗だよ。このまま持って帰って食べてしまいたいくらい」「杏介さん……私……胸がいっぱいで……」紗良は言葉にならず胸が詰まる。瞳がキラリと弧を描くように潤んだ。
そんなわけであれよあれよという間に着替えさせられ、今はメイクとヘアスタイルが二人のスタッフ同時に行われているところだ。あまりの手際の良さに、紗良はなすすべがない。大人しく人形のように座っているだけだ。(私がウエディングドレスを着るの……?)まるで夢でも見ているのではないかと思った。海斗を引き取って、一生結婚とは無縁だと思っていたのに、杏介と結婚した。そのことすらも奇跡だと思っていたのに。結婚式なんてお金がかかるし、それよりも海斗のことにお金を使ってあげたいと思っていたのに。そのことは杏介とも話し合って、お互い納得していたことなのに。今、紗良はウエディングドレスに身を包み、こうして花嫁姿の自分が出来上がっていくことに喜びを感じている。こんな日が来るなんて思いもよらなかった。この気持ちは――。嬉しい。声を大にして叫びたくなるほど嬉しい。ウエディングドレスを身にまとっているのが本当に自分なのか、わからなくなる。でも嬉しい。けれどそれだけじゃなくて、もっとこう、心の奥底からわき上がる気持ちは一体何だろうか。紗良の心を揺さぶるこの気持ち。(早く杏介さんと海斗に会いたい)心臓がドキドキと高鳴るのがわかった。
鏡に映る自分の姿がどんどんと綺麗になっていく様を、紗良はどこか他人事のようにぼんやりと見つめていた。一体どうしてこうなったのか。海斗の入学記念写真を撮ろうという話だったはずだ。それなのにウエディングドレスを選べという。掛けられていた純白のウエディングドレスは、そのどれもが繊細な刺繍とレースでデザインされている。素敵なものばかりで選べそうにない。「どうしたら……」ウエディングドレスを着ることなんて、これっぽっちも考えたことがなかった。だから果たしてこんなに素敵なドレスが自分に似合うのか、見当もつかない。ドレスを前にして固まってしまった紗良に「ちなみに――」とスタッフが声をかける。「旦那様の一押しはこちらでしたよ」胸元がV字になって、透け感レース素材と合わせて上品な雰囲気であるドレスが差し出される。肩から腕にかけては|五分《ごぶ》くらいのレースの袖が付いており、デコルテラインがとても映えそうだ。レース部分にはバラの花がちりばめられているデザインで、それがまるで星空のようにキラキラと輝く。純白で波打つようなフリルは上品さと可憐さが相まってとても魅力的だ。「でも自分の好みを押しつけてはいけないとおっしゃって、最終的には奥様に選んでほしいとこのようにご用意させていただいております」そんな風に言われると、もうそれしかないんじゃないかと思う。杏介の気持ちがあたたかく伝わってくるようで、紗良は自然と「これにします」と答えていた。
「ではお着替えしましょうか。海斗くんとお父様はこちらに。お母様はあちらにどうぞ」スタッフに従ってそれぞれ更衣室に入る。どうぞと案内された更衣室のカーテンを開けると、そこには大きな鏡とその横に真っ白なウエディングドレスが何着もズラリと掛けられていた。「えっ?」紗良は入るのを躊躇う。 今日は海斗の入学記念写真を撮りに来たはずだ。 せっかくなので着物を借りて写真を撮ろうと、そういう話だった気がする。いや、間違いなく杏介とそう話した。昨日だって、何色の着物がいいかと杏介とあれやこれや喋った記憶がある。それなのに、紗良の目の前にはウエディングドレスしか見当たらない。着物の一枚すら置いてないのだ。「あ、あの、お部屋間違ってませんか?」「間違っていませんよ。さあさ、奥様こちらへどうぞ。お好きなドレスを一着お選びください」「いえ、今日は子供の入学記念写真の予定なんですけど……」「何をおっしゃいますか。旦那様とお子様が楽しみに待たれていますよ」「えっ、えええ~?」スタッフはふふふとにこやかに笑い、困惑する紗良を強引に更衣室へ引きずり込むと、逃がさないとばかりにシャッとカーテンを閉めた。わけがわからない紗良は、スタッフに勧められるがまま、あれよあれよと流されていった。
杏介が予約したフォトスタジオを訪れた紗良は、思わず「うわぁ」と声を上げた。四季折々の風景をコンセプトにしている屋内スタジオに加え、外でも撮影できるよう立派な庭園が設えられている。海斗はランドセルを大事そうに抱えながらも、フォトスタジオに興味津々で今にも走りださんと目がキラキラしている。「いらっしゃいませ。ご予約の滝本様ですね」「はい、今日はよろしくお願いします」「ねえねえ、あの噴水さわってもいい?」「こら、海斗、ご挨拶!」「あっ。こんにちは。おねがいします」ピシャッと紗良が戒めると、海斗は慌てて挨拶をする。その様子を見てスタッフは海斗に優しい笑みを浮かべた。「噴水が気に入ったかな? あのお庭でも写真が撮れるから、カメラマンさんに伝えておきますね」「やったー!」海斗の入学記念に写真を撮りに来ただけなのに、そんなシチュエーションもあるのかと紗良は感心する。なにせフォトスタジオに来ること自体初めてなのだ。杏介に任せきりで予約の仕方すらわからない。まあ、杏介が「俺に任せて」と言うから、遠慮なくすべて手配してもらっただけなのだが。「海斗すごく喜んでるね」「浮かれすぎてて羽目外しそうでヒヤヒヤするよ」「確かに」紗良と杏介はくすりと笑った。
「どうしたの、海斗」「これを見て!」海斗はおもむろにランドセルを背負う。 まだまだピカピカのランドセルを、紗良に見せつけるように体を捻った。「ランドセル?」「そう! ランドセル! 写真撮りたい。リクもさなちゃんも写真撮りにいったんだって」「写真? 写真なら撮ってあげるよ」紗良は自分のスマホのカメラを海斗に向ける。「ちがーう。そうじゃなくてぇ」ジタバタする海斗に紗良は首を傾げる。 咄嗟に杏介が「あれだろ?」と口を挟む。「入学記念に家族の記念写真を撮ったってことだよな?」「そう、それ! 先生わかってるぅー」「ああ~、そういうこと。確かに良いかもね。お風呂で何か盛り上がってるなぁって思ってたけど、そのことだったのね」「そうそう、そうなんだよ。でさ、会社が提携しているフォトスタジオがあるから、予約してみるよ」「うん、ありがとう杏介さん」ニッコリと笑う紗良の頭を、杏介はよしよしと撫でる。 海斗に関することなら反対しないだろうと踏んでいたが、やはりあっさりと了承されて思わず笑みがこぼれた。「?」撫でられて嬉しそうな顔をしながらも、「どうしたの?」と控えめに上目遣いで杏介を見る紗良に、愛おしさが増す。「紗良は今日も可愛い」「き、杏介さんったら」一瞬で頬をピンクに染める紗良。 そんなところもまた可愛くて仕方がない。夫婦がイチャイチャしている横で、海斗はランドセルを背負ったまま「写真! 写真!」と一人でテンション高く踊っていた。