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晴れていく心-07

last update 最終更新日: 2024-12-26 11:18:31

自宅前まで車を着けてもらい、まったく起きる気配のない海斗に声を掛ける。

「海斗、着いたよー。起きてー」

案の定反応なくぐーすか眠りこける海斗に苦笑いしながら、紗良は海斗のシートベルトを外して抱っこしようと背中に手をかけた。

「紗良さん、僕が運びますよ」

そっと杏介に肩を引かれ、紗良は一歩下がる。

軽々と海斗を持ち上げた杏介は相変わらず逞しく、それでいて頼りになる。

「すみません、ありがとうございます」

海斗を杏介に任せ紗良は荷物を手早く掴むと、自宅へと案内した。

玄関を上がるとすぐにリビングがある。

紗良は座布団を二枚並べると、そこに海斗を寝かせてもらうように指示を出した。

「紗良、帰ってきたの? ……って、あら? こんにちは」

別の部屋にいた紗良の母親が顔を出すと、見慣れない顔――、杏介を見て目を見張る。

「こんにちは。お邪魔します」

「あらあら、紗良ったらなあに? 彼氏と一緒だったの?」

「やだ、お母さん、そんなんじゃないからっ。す、すみません、杏介さん」

急にそんなことを言うものだから、今まで意識していなかったのに心臓がドキンと大きな音を立て、紗良は顔を赤くしながら焦り出す。

そんな紗良の様子につられて杏介の心臓もきゅっと鳴ったような気がしたが、「大丈夫ですよ」と曖昧な笑顔でごまかした。

「紗良と海斗がご迷惑をお掛けしたみたいですみません。疲れたでしょう? お茶でも飲んでってくださいな」

「ちょ、ちょっと、お母さんったら」

紗良の母はニコニコとしながら強引に杏介を座布団に座らせ、いそいそとお茶を入れ始める。「今日も暑かったわねぇ」などと世間話が始まり、完全に母のペースに巻き込まれてしまった。
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    お互いのことをよく知らない。表面上はよくわかっていても、その生い立ちや家庭環境までは踏み込んでいない。(杏介さんのこと、もっと知りたいかも……)そう思うのと同時に、紗良は自分のことも知ってもらいたいと思った。好きだから知りたい、好きだから知ってもらいたい。付き合うことはできないと断った後もこうして一緒にお出かけして、まるで付き合っているのと変わらないような関係が続いていることに自分自身喜びを覚えている、この矛盾した生活。自分のことを伝えたら杏介は呆れるだろうか。この関係は崩れるだろうか。だったとしても、今、伝えたい気がした。ずっと燻っている、紗良の気持ちを。紗良は海斗がぐっすり眠っているのを確認してから口を開く。「あのね、うちの両親は離婚してるの。私は母子家庭だけどお母さんが明るすぎて父親の存在なんて忘れちゃうくらい」「確かに、紗良のお母さんは底抜けに明るいよな」「でしょう。だからね、海斗を引き取るときも大丈夫だと思った。私もお母さんみたいにやれるって思ったの。でも実際はすごく大変でお母さんに頼ることも多くて全然できてないけど、でも私なりに頑張ってて……」「うん、すごいと思うよ。だって最初に出会ったときは海斗の本当の母親だと思ったから」「そう言ってもらえて嬉しいんだけど。でもね、最近はダメなの……」紗良は杏介を見る。運転している杏介の横顔は夕日に照らされてキラキラと眩しく、それでいて頼もしくかっこいい。(ああ、私ってこんなにも杏介さんのことが好きなんだ……)自覚すると胸がきゅっと苦しくなる。伝えるべきなのか、どうなのか迷う。だが杏介は「何がダメ?」と優しく問うた。

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   お互いのこと-05

    「 俺さ、母親がいないんだよね」「え?」「いや、正確にはいるんだけど。幼いころに病気で亡くなって父子家庭で育ってさ、数年後に父親は再婚したんだけど、新しい母親と上手くいかなくて。……いや、上手くいかないっていうか、俺が毛嫌いしているだけなんだけど。だからそういうお弁当は憧れだったんだ。長年の夢が叶ったような、そんな気持ち、かな」「そう、だったんだ」「引いた?」「ううん、全然。私、杏介さんのこと全然知らなかったんだなって思って」「そうだよな。あんまりこういう話ってしないし。まあ聞いてもつまらないと思うけど」世の中にはいろいろな人がいる。 誰一人として環境が同じなわけではない。 そんなことはわかっているけれど、紗良のような家庭環境は珍しいのではないかとどこかでそう思っていた。 きっと杏介も『普通』の家庭なのだろうと決めつけていた。 そんな風に考えていた自分を反省する。「……私たちってお互いのこと全然知らないよね」「そうかもしれないな」紗良は姉の子供の海斗を育てていて、実家暮らしで母と住んでいる。 平日は事務の仕事をしていて土日はラーメン店でアルバイト。杏介は海斗の通うプール教室の先生で、仕事終わりに紗良の働くラーメン店へよく訪れる常連客。 そして一人暮らし。今までの付き合いからこれくらいの情報はお互いに知っている。 けれどそれ以上深く聞くこともなかったし、自ら語ることもなかった。それがいいのか悪いのかわからないけれど、紗良の知らなかった杏介の内面の話は紗良の固定概念を崩すには十分だった。

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