「せんせー、かいともあれやりたい!」と、イルカ調教師がイルカの背に乗って泳ぎ、一緒に大ジャンプをしているところを指差す。「せんせーはできる?」「さすがに先生もあれはできないかも。でもやってみたいよね」「やってみたい!」「えー、絶対怖いよ。なんでそんなのやりたいって思うの?」「あはは。何だろうね? スリルを楽しみたいっていうか、単純に気持ちよさそうでもあるなぁ」「かいとはねぇ、イルカさんにのりたい」「私にはわからない気持ちだわ」杏介と海斗の盛り上がりについていけない紗良は意味がわからないと首を振る。 けれど二人の楽しそうな姿が見られて、紗良の気持ちも弾みがちだ。「ところで海斗、シャツがびしょ濡れじゃないの」「びったんこー」「さすがに濡れすぎだな」「どうしよう、着替えなんて持ってきてないし」「さらねえちゃん、パンツはぬれてない」元気よく答える海斗はおもむろにズボンをずりっと脱ぐ。 まだ会場にはたくさんの人がいるというのに、海斗は恥ずかしげもなくパンツを晒した。 慌てるのは紗良だけだ。「ちょっ、海斗! ここでズボン脱がないの!」「せんせー、みて。パンツ!」紗良が海斗の服を直そうとするも、その手をすり抜けて海斗は杏介に見せびらかす。「海斗~、それが面白いのは男子だけだ。紗良姉ちゃんを困らせるなよ」「かいとのパンツかっこいいのに。さらねえちゃんのパンツはかわいいよ」「ちょ、なっ、かっ、 海斗っ!」「あはは。そりゃ紗良姉ちゃんは可愛いから、何履いても可愛いだろ」「きっ、きょっ、杏介さんまでっ」真っ赤になった紗良はやっぱり可愛いなと眺めつつ、杏介はささっと海斗のズボンを直した。「さて海斗、Tシャツでも買いに行くか」「びったんこだから?」「そう、びったんこだから。そのままでいると風邪ひくぞ」「かいと、イルカさんのふくがほしい」「売ってるかなぁ? ほら、紗良さんも行こう」「……」ムスッと不満げな顔をする紗良。杏介は苦笑いをしながら尋ねる。「もしかして怒ってる?」「……怒ってません」「せんせい、さらねえちゃんおこってるからきをつけて」「……たぶん海斗に怒ってると思うけどな?」「ええーなんでぇー。せんせーがパンツっていうから」「あっ、お前人のせいにしたな? こうしてやる」「あひゃひゃひゃひゃ」コチョ
希望通りイルカのTシャツを購入し着替えた海斗は、ご機嫌に水族館を見て回っていた。紗良と杏介と手を繋いで歩いていたかと思えば、突然手を振りほどいてお目当ての魚のところまで走り出したりと目が離せない。それでも杏介が一緒に見てくれているという安心感が紗良に心の余裕を与えてくれる。おかげで紗良自身も純粋に水族館を楽しむことができた。「かいとはガチャガチャしたい」出口直前にあるショップの前には水族館限定のガチャガチャが何台も設置されていて子どもの目にはどれも魅力的に映った。案の定、海斗はそこからピクリとも動かなくなったし、やりたいやりたいと癇癪でも起こしそうな勢いだ。「やらないよ。 海斗はイルカのTシャツ買ったじゃない」「やだやだ。ほしいもん。このイルカさんがほしい」「イルカさんが出るかわからないのよ」「イルカさんがでるまでやる」「やりません」「海斗、イルカがほしいならお店にもいろいろ売ってるよ。それと、おばあちゃんにお土産買わなくていいのか? 海斗が選んだら喜ぶと思うよ」「おばーちゃんにおみやげ。かいとがえらぶ」杏介が上手くガチャガチャから海斗を遠ざけ、三人はショップへ入った。たくさんの商品を前に、またしても海斗は目をキラキラさせる。さんざん悩んだあげく、海斗はイルカのコップを手に取った。「かいとはこれ。おばーちゃんはおまんじゅう」「よし、じゃあ決まりだな。これ買うからガチャガチャは無しだぞ」「うん、わかった」「杏介さん、ガチャガチャのほうが安いよ」「そうだけど、ガチャガチャよりこっちのほうが実用的だろ? で、紗良さんは決めた?」「え、私?」「そう。記念に何か買おう」「いや、私は……」「何がほしい?」そう言われると困ってしまう。自分が欲しいものなんて考えに及ばなかった。いや、二年前までならきっと、あれもほしいこれもほしいと物欲があったはずだ。それがいつからか、海斗のことばかり気にして自分の物欲はどこかへいってしまった。海斗が喜べばそれでいいと思っていたからだ。「……何もいらないです」「そう?」じゃあ買ってくるねと、海斗を連れてレジに並ぶ杏介の後ろ姿を見送る。紗良は邪魔にならないようにと一人店外へ出て待った。
なんだか変に胸がズキズキするのはなぜなのだろう。本当に、欲しいものは何もなかった。だけどやっぱり、何か欲しかった。そう思うのは、なぜ……?楽しそうな海斗を見ているだけで嬉しいはずなのに。自分でもよくわからないモヤッとした気持ちを抱えたままぼんやりと二人を待っていると、海斗と手を繋いだ杏介が戻ってくる。反対の手には大きな袋。「はい、紗良さん」「え、なに?」「さらねえちゃんにプレゼントだよー」「えっ?」杏介はその大きな袋を紗良に差し出した。「紗良さんぬいぐるみ好きなんでしょう?」「好き……だけど。えっ? ……私に?」「海斗にばかり買ってあげたんじゃ不公平だよね? ……ていうのは建前で、本当は紗良さんにも何か買ってあげたかったっていうか」「さらねえちゃん、いっつもおにんぎょうさんとねてるもんねー?」袋を開けてみれば、抱きかかえることができるほどのイルカのぬいぐるみ。程よい弾力で肌触りも良く、そのまま顔を埋めてしまいたいほど。「……好みじゃなかった?」紗良はフルフルと首を横に振る。体の奥の方から込み上げてくる熱いものは紗良の胸をぎゅっと痺れさせた。「……嬉しいっ!」ニコッと笑う紗良を見て、杏介と海斗は顔を見合わせてハイタッチをした。「やったー! びっくりだいせいこーう」「さすが海斗、紗良姉ちゃんの好きなものよくわかってるな」「でしょー。えへへ」「杏介さん、ありがとう。これ高かったよね? あと海斗のコップも」「気にしないで。俺が二人にしてあげたくて勝手に買ったんだから。素直にもらってくれると嬉しい」「うん、うん、……すっごく嬉しい!」イルカのぬいぐるみを大事そうに抱える紗良の瞳はわずかに揺らぐ。そんな紗良を見て、杏介の胸も熱くなる。そして紗良の頭をポンと優しく撫でた。「喜んでもらえて、俺もすっごく嬉しい」つい先ほどまで感じていた胸のモヤモヤは、もうどこかにいってしまうほど。微笑み合えば二人を纏う空気が柔らかく流れ、それだけで幸せが満たされていくような、そんな気がした。
海斗のことと紗良のアルバイトの都合で、夕方には帰路についた。それが当たり前でそうじゃなくてはいけないと思っていたのに、最近は別れが惜しくてたまらなくなっている。(今日も楽しかったな……)いつもそう。杏介と出かけた後は楽しかった余韻に浸りながら、今日一日を振り返る。プレゼントしてもらったイルカのぬいぐるみと一緒に布団に入りぎゅううっと抱きしめると、得も言われぬ感情が紗良の中にわき起こった。ほんのりと鼓動が速くなる。この気持ちは自分でも薄々気づいている。(杏介さん……)杏介と海斗と、三人で出掛けるのはとても楽しい。だけどもし、これが杏介と二人きりだったらどうなんだろうと考える瞬間がある。もちろん、海斗のことをないがしろにしているわけではない。もしも……もしも、の話だ。水族館で撮った写真を見返せば、柔らかく笑う杏介がたくさん写っていた。海斗を撮っているつもりだったけれど、どうやら無意識に杏介のことも撮っていたらしい。(杏介さんと二人で出掛けてみたい……かも)もし杏介の休みに合わせて休暇が取れたら、デートして貰えるだろうか。(いやっ、デートっていうか、いやっ、そういうことじゃなくてっ)自分の思考があらぬ方向に飛んでいってしまいそうな気がして、紗良は一人布団の中で身悶えた。そんなんじゃない、と思いつつも、紗良の中で大きくなる杏介への気持ちは止められそうになかった。
杏介もまた、紗良同様に今日の出来事を振り返っていた。『海斗、紗良姉ちゃんにいつもお世話になってるから何かプレゼントしたいんだけど、何がいいと思う?』『うーん、あっ! おにんぎょう! さらねえちゃんおにんぎょうがすきだよ。ふわふわのやつ』『お人形?』『これ、このイルカさんとか』『ああ、ぬいぐるみか。紗良姉ちゃん、ぬいぐるみが好きなのか?』『だって、いっつもいっしょにねてる』『ふーん、じゃあどれがいいと思う?』『イルカさん!』『それは海斗が好きなものだろう?』『かいともすきだけど、さらねえちゃんもすき。だってこれふわふわだよ。さわってみて』『確かに。じゃあこれにするか』『かいともさらねえちゃんにプレゼントあげたい』『ん? じゃあ、俺たち二人からのプレゼントにするか』『びっくりさせるー!』『だな!』そう海斗とコソコソ購入したイルカのぬいぐるみ。紗良は瞳を潤ませながら喜んでくれた。(あれは嬉し涙だと思っていいよな)そんな紗良に心打たれたのは杏介の方だ。紗良のいろいろな表情が、いつも杏介の心をざわつかせる。(紗良さんと二人で出掛けたい……)そう思ったときに、はっとして杏介は口元を覆った。自分の言動が過去の記憶に重なったのだ。(もしかして、俺はいつも海斗を口実に紗良さんを誘っていた?)そんなことはない、……とは言い切れない自分にひどくショックを受けた。
紗良を誘うとき、海斗が喜ぶことなら紗良は必ず来てくれるだろうという自信があった。紗良と海斗を天秤にかけるわけではないが、杏介の中では紗良に会いたいが為に誘っている気持ちも少なからずあって――。『今度、家族三人で外食でもどうかしら? ほら、杏介くんステーキ好きなんでしょう? お父さんから聞いたわよ』『杏介くんってお父さんに似て本が好きなのね。今度みんなで大型書店にでも行ってみない?』新しい母から出掛けようと誘われたとき、嫌悪感がすごかった。そうやっていい顔をして、結局は気に入られたいがためなんだろうと、そんな風に思っていたのだ。それは杏介が思春期であったことも影響しているのだが、捻くれた考えは『拒否』という形で冷たく突き放すことになる。(俺はいい顔をしている訳じゃないし、紗良さんに気に入られたいから海斗と仲良くしてるわけじゃない)そう思うのだが、もしかしたらこの気持ちはあの時の新しい母も感じていたのだろうか。杏介が大人になったから、――好きな人に子供がいるからわかった気持ちなのだろうか。だとしたら、あの時の自分はなんて残酷なことをしたのだろう。妙な罪悪感に苛まれるが、だからといってどうすることもできない。杏介は深いため息と共に考えるのを放棄した。
昼休み。 社員食堂の窓際で紗良と依美は横並びでうどんを啜る。 たいていこの場所が定位置で、おしゃべりをしながら時間いっぱいまで居座るのがいつものパターンだ。「週末どこか行った?」「うん、水族館に行ったよ」「へぇー。海ちゃん喜んだんじゃない?」「そうなの。だけどイルカショーで海斗がびしょ濡れになって大変だったんだよ」紗良は思い出して苦笑いをし、依美はその光景を想像して「ウケる~」と笑い転げた。「……あのさ、水族館、……杏介さんも一緒に行ったんだけど……」「杏介さんって、前言ってたプール教室の先生のこと?」「うん」ただ事実を述べるだけなのに、紗良は顔に熱が集まるようだ。 依美に聞いて欲しくて自分からその話をしたのに、ドキンドキンと落ち着かなくなる。 依美はニヤニヤとしながら箸を止めた。「なんだかんだ上手くやってるじゃん」「うちの事情を知ってるからいつも気に掛けてくれて……。なんていうか、ありがたい存在なんだ」「うん、でも、それだけじゃないんでしょ?」依美に指摘されてなおさら心臓がドクンと鳴った。自分の中で整理しきれずにいる気持ち。 日増しに大きくなっていく杏介に対する想い。 本当は答えが出ている。 けれどそれでいいのか、自信がない。だからこうして依美に話しているのだ。 紗良は水を一口ゴクンと飲んでから依美に向き合った。「うーん、……いつも海斗が一緒なんだけど、もし、……もしもなんだけど、二人で出掛けたらどんな感じだろうって、気になってる」「二人で出掛けたことないんだ?」「うん、ないの」「紗良ちゃん、杏介さんのこと好きなんだ?」ぞわっと体が震えた。 依美に言われて、自分が薄々気づいていたこの気持ちはやっぱりそうなのかと自覚する。
「そう、かも」口に出してしまったら、ますます顔に熱が集まってきているような気がした。うどんを食べているから暑いとか言い訳できるレベルではないような気がする。ドクンドクンと速くなる心臓は止められそうにない。「いいじゃん」「で、でも、付き合いたいとか思ってなくてっ。私にはほら、海斗がいるし」なぜだか依美に対して慌ててしまう。子どもを養っている自分には恋愛など必要ないと思っていたのに、なぜこんなことになるのか。紗良の気持ちは複雑に混じり合って、自分のことなのに自分がわからなくなってしまう。あまりにも初々しい紗良に若干羨ましさを感じつつ、依美は自嘲気味に笑う。「まあ、複雑な事情はわかるし海ちゃんへの責任もあると思うけど、紗良ちゃんはもう少し自分の幸せを考えた方がいいと思うよ」「自分の幸せ?」「そう、自分の幸せ。とりあえずこれあげるから、杏介さん誘ってみなよ。海ちゃんがいるときといないときでは性格違うかもしれないし、男はちゃんと見極めないとね」依美がポケットから取り出したのは二枚の紙だ。何だろうと、紗良は受け取る。依美は小さく息を吐き出す。こんな時に水を差すものでもないなと思いながらも、愚痴りたい気持ちの方が勝った。そのために映画のチケットを持ってきたのだ。「私さ、もう彼と別れるんだ」「え、なんで?」「たぶん浮気されてる。仕事が忙しいってのも嘘」はあ、と依美は大きなため息をついた。その横顔は憂いを帯びているようで、紗良の胸は苦しくなる。「だからさ、その分楽しんできてよ。使わないともったいないじゃん、そのチケット」「依美ちゃん……」順調にお付き合いしているように見えていた依美でさえ上手くいかないのだ。恋愛とはやはり難しいものなのでは……と考えたところで背中をバシンと叩かれた。「やだ、何暗い顔してるの? 私は吹っ切れてるから大丈夫よ。ちょっと愚痴りたかっただけ。次は絶対いい男ゲットするし」「……依美ちゃん意外と肉食だね」「何言ってんのよ。紗良ちゃんもこれくらいガツガツ行きなさいよ」「あ、はは。がんばる」二人はぎこちなく笑い合う。残りのうどんを啜りながら、それぞれ思いを馳せた。「映画のチケット?」「そう。平日限定ペアチケット。彼氏と行こうと思ったんだけどさ、しばらく仕事忙しくて平日休めないって言うから」「もらっ
カシャカシャカシャッその音に、紗良と杏介は振り向く。そこにはニヤニヤとした海斗と、これまたニヤニヤとしたカメラマンがしっかりカメラを構えていた。「やっぱりチューした。いつもラブラブなんだよ」「いいですねぇ。あっ、撮影は終了してますけど、これはオマケです。ふふっ」とたんに紗良は顔を赤くし、杏介はポーカーフェイスながら心の中でガッツポーズをする。ここはまだスタジオでまわりに人もいるってわかっていたのに、なぜ安易にキスをしてしまったのだろう。シンデレラみたいに魔法をかけられて、浮かれているのかもしれない。「そうそう、海斗くんからお二人にプレゼントがあるんですよ」「えっへっへー」なぜか得意気な顔をした海斗は、カメラマンから白い画用紙を受け取る。紗良と杏介の目の前まで来ると、バッと高く掲げた。「おとーさん、おかーさん、結婚おめでとー!」そこには紗良の顔と杏介の顔、そして『おとうさん』『おかあさん』と大きく描かれている。紗良は目を丸くし、驚きのあまり口元を押さえる。海斗とフォトウエディングを計画した杏介すら、このことはまったく知らず言葉を失った。しかも、『おとうさん』『おかあさん』と呼ばれた。それはじわりじわりと実感として体に浸透していく。「ふええ……海斗ぉ」「ありがとな、海斗」うち寄せる感動のあまり言葉が出てこなかったが、三人はぎゅううっと抱き合った。紗良の目からはポロリポロリと涙がこぼれる。杏介も瞳を潤ませ、海斗の頭を優しく撫でた。ようやく本当の家族になれた気がした。いや、今までだって本当の家族だと思っていた。けれどもっともっと奥の方、根幹とでも言うべきだろうか、心の奥底でほんのりと燻っていたものが紐解かれ、絆が深まったようでもあった。海斗に認められた。そんな気がしたのだ。カシャカシャカシャッシャッター音が軽快に響く。「いつまでも撮っていたい家族ですねぇ」「ええ、ええ、本当にね。この仕事しててよかったって思いました」カメラマンは和やかに、その様子をカメラに収める。他のスタッフも、感慨深げに三人の様子を見守った。空はまだ高い。残暑厳しいというのに、まるで春のような暖かさを感じるとてもとても穏やかな午後だった。【END】
その後はスタジオ内、屋外スタジオにも出てカメラマンの指示のもと何枚も写真を撮った。残暑の日差しがジリジリとしているけれど、空は青く時折吹く風が心地いい。汗を掻かないようにと木陰に入りながら、紗良はこの時間を夢のようだと思った。「杏介さん、連れてきてくれてありがとう」「思った通りよく似合うよ」「なんだか夢みたいで。ドレスを選んでくださいって言われて本当にびっくりしたんだよ」「フォトウエディングしようって言ったら反対すると思ってさ。海斗巻き込んだ壮大な計画」「ふふっ、まんまと騙されちゃった」紗良は肩をすくめる。騙されるのは好きじゃないけれど、こんな気持ちにさせてくれるならたまには騙されるのもいいかもしれない。「杏介さん、私、私ね……」体の底からわき上がる溢れそうな気持ち。そうだ、これは――。「杏介さんと結婚できてすっごく幸せ」「紗良……」杏介は目を細める。紗良の腰に手をやって、ぐっと持ち上げた。「わあっ」ふわっと体が浮き上がり杏介より目線が高くなる。すると満面の笑みの杏介の顔が目に飛び込んできた。「紗良、俺もだよ。俺も紗良と結婚できて最高に幸せだ」幸せで愛おしくて大切な君。お互いの心がとけて混ざり合うかのように、自然と唇を寄せた。
カシャッ「じー」小気味良いカメラのシャッター音と、海斗のおちゃらけた声が同時に聞こえて、紗良と杏介はハッと我に返る。「あー、いいですねぇ、その寄り添い方! あっ、旦那様、今度は奥様の腰に手を添えてくださーい」「あっ、はいっ」カシャッ「次は手を絡ませて~、あっ、海斗くんはちょっと待ってね。次一緒に撮ろうね~」カシャッカメラマンの指示されるがまま、いろいろな角度や態勢でどんどんと写真が撮られていく。もはや自分がどんな顔をしているのかわからなくなってくる。「ねえねえ、チューしないの?」突然海斗がとんでもないことを口走るので、紗良は焦る。いくら撮影だからといっても、そういうことは恥ずかしい。「海斗、バカなこと言ってないで――」と反論するも、カメラマンは大げさにポンと手を叩いた。「海斗くんそれいいアイデアです!」「でしょー」カメラマンと海斗が盛り上がる中、紗良はますます焦る。海斗の失言を恨めしく思った瞬間。「海斗くん真ん中でパパママにチューしてもらいましょう」その言葉にほっと胸をなで下ろした。なんだ、それなら……と思いつつ、不埒な考えをしてしまった自分が恥ずかしくてたまらない。「うーん、残念」杏介が呟いた声は聞かなかったことにした。
ウエディングドレス用の、少しヒールのある真っ白なパンプスに足を入れた。かかとが上がることで自然と背筋もシャキッとなるようだ。目線が少しだけいつもより高くなる。「さあ、旦那様とお子様がスタジオでお待ちですよ」裾を持ち上げ、踏んでしまわないようにとゆっくりと進む。ふわりふわりと波打つように、ドレスが繊細に揺れた。スタジオにはすでに杏介と海斗が待っていた。杏介は真っ白なタキシード。海斗は紺色のフォーマルスーツに蝶ネクタイ。紗良を見つけると「うわぁ」と声を上げる。「俺ね、もう写真撮ったんだー」紗良が着替えて準備をしている間、着替えの早い男性陣は海斗の入学記念写真を撮っていた。室内のスタジオだけでは飽き足らず、やはり屋外の噴水の前でも写真を撮ってもらいご満悦だ。海斗のテンションもいい感じに高くなって、おしゃべりが止まらない。「紗良」呼ばれて顔を上げる。真っ白なタキシードを着た杏介。そのバランスのいいシルエットに、思わず見とれてしまう。目が離せない。「とても綺麗だよ。このまま持って帰って食べてしまいたいくらい」「杏介さん……私……胸がいっぱいで……」紗良は言葉にならず胸が詰まる。瞳がキラリと弧を描くように潤んだ。
そんなわけであれよあれよという間に着替えさせられ、今はメイクとヘアスタイルが二人のスタッフ同時に行われているところだ。あまりの手際の良さに、紗良はなすすべがない。大人しく人形のように座っているだけだ。(私がウエディングドレスを着るの……?)まるで夢でも見ているのではないかと思った。海斗を引き取って、一生結婚とは無縁だと思っていたのに、杏介と結婚した。そのことすらも奇跡だと思っていたのに。結婚式なんてお金がかかるし、それよりも海斗のことにお金を使ってあげたいと思っていたのに。そのことは杏介とも話し合って、お互い納得していたことなのに。今、紗良はウエディングドレスに身を包み、こうして花嫁姿の自分が出来上がっていくことに喜びを感じている。こんな日が来るなんて思いもよらなかった。この気持ちは――。嬉しい。声を大にして叫びたくなるほど嬉しい。ウエディングドレスを身にまとっているのが本当に自分なのか、わからなくなる。でも嬉しい。けれどそれだけじゃなくて、もっとこう、心の奥底からわき上がる気持ちは一体何だろうか。紗良の心を揺さぶるこの気持ち。(早く杏介さんと海斗に会いたい)心臓がドキドキと高鳴るのがわかった。
鏡に映る自分の姿がどんどんと綺麗になっていく様を、紗良はどこか他人事のようにぼんやりと見つめていた。一体どうしてこうなったのか。海斗の入学記念写真を撮ろうという話だったはずだ。それなのにウエディングドレスを選べという。掛けられていた純白のウエディングドレスは、そのどれもが繊細な刺繍とレースでデザインされている。素敵なものばかりで選べそうにない。「どうしたら……」ウエディングドレスを着ることなんて、これっぽっちも考えたことがなかった。だから果たしてこんなに素敵なドレスが自分に似合うのか、見当もつかない。ドレスを前にして固まってしまった紗良に「ちなみに――」とスタッフが声をかける。「旦那様の一押しはこちらでしたよ」胸元がV字になって、透け感レース素材と合わせて上品な雰囲気であるドレスが差し出される。肩から腕にかけては|五分《ごぶ》くらいのレースの袖が付いており、デコルテラインがとても映えそうだ。レース部分にはバラの花がちりばめられているデザインで、それがまるで星空のようにキラキラと輝く。純白で波打つようなフリルは上品さと可憐さが相まってとても魅力的だ。「でも自分の好みを押しつけてはいけないとおっしゃって、最終的には奥様に選んでほしいとこのようにご用意させていただいております」そんな風に言われると、もうそれしかないんじゃないかと思う。杏介の気持ちがあたたかく伝わってくるようで、紗良は自然と「これにします」と答えていた。
「ではお着替えしましょうか。海斗くんとお父様はこちらに。お母様はあちらにどうぞ」スタッフに従ってそれぞれ更衣室に入る。どうぞと案内された更衣室のカーテンを開けると、そこには大きな鏡とその横に真っ白なウエディングドレスが何着もズラリと掛けられていた。「えっ?」紗良は入るのを躊躇う。 今日は海斗の入学記念写真を撮りに来たはずだ。 せっかくなので着物を借りて写真を撮ろうと、そういう話だった気がする。いや、間違いなく杏介とそう話した。昨日だって、何色の着物がいいかと杏介とあれやこれや喋った記憶がある。それなのに、紗良の目の前にはウエディングドレスしか見当たらない。着物の一枚すら置いてないのだ。「あ、あの、お部屋間違ってませんか?」「間違っていませんよ。さあさ、奥様こちらへどうぞ。お好きなドレスを一着お選びください」「いえ、今日は子供の入学記念写真の予定なんですけど……」「何をおっしゃいますか。旦那様とお子様が楽しみに待たれていますよ」「えっ、えええ~?」スタッフはふふふとにこやかに笑い、困惑する紗良を強引に更衣室へ引きずり込むと、逃がさないとばかりにシャッとカーテンを閉めた。わけがわからない紗良は、スタッフに勧められるがまま、あれよあれよと流されていった。
杏介が予約したフォトスタジオを訪れた紗良は、思わず「うわぁ」と声を上げた。四季折々の風景をコンセプトにしている屋内スタジオに加え、外でも撮影できるよう立派な庭園が設えられている。海斗はランドセルを大事そうに抱えながらも、フォトスタジオに興味津々で今にも走りださんと目がキラキラしている。「いらっしゃいませ。ご予約の滝本様ですね」「はい、今日はよろしくお願いします」「ねえねえ、あの噴水さわってもいい?」「こら、海斗、ご挨拶!」「あっ。こんにちは。おねがいします」ピシャッと紗良が戒めると、海斗は慌てて挨拶をする。その様子を見てスタッフは海斗に優しい笑みを浮かべた。「噴水が気に入ったかな? あのお庭でも写真が撮れるから、カメラマンさんに伝えておきますね」「やったー!」海斗の入学記念に写真を撮りに来ただけなのに、そんなシチュエーションもあるのかと紗良は感心する。なにせフォトスタジオに来ること自体初めてなのだ。杏介に任せきりで予約の仕方すらわからない。まあ、杏介が「俺に任せて」と言うから、遠慮なくすべて手配してもらっただけなのだが。「海斗すごく喜んでるね」「浮かれすぎてて羽目外しそうでヒヤヒヤするよ」「確かに」紗良と杏介はくすりと笑った。
「どうしたの、海斗」「これを見て!」海斗はおもむろにランドセルを背負う。 まだまだピカピカのランドセルを、紗良に見せつけるように体を捻った。「ランドセル?」「そう! ランドセル! 写真撮りたい。リクもさなちゃんも写真撮りにいったんだって」「写真? 写真なら撮ってあげるよ」紗良は自分のスマホのカメラを海斗に向ける。「ちがーう。そうじゃなくてぇ」ジタバタする海斗に紗良は首を傾げる。 咄嗟に杏介が「あれだろ?」と口を挟む。「入学記念に家族の記念写真を撮ったってことだよな?」「そう、それ! 先生わかってるぅー」「ああ~、そういうこと。確かに良いかもね。お風呂で何か盛り上がってるなぁって思ってたけど、そのことだったのね」「そうそう、そうなんだよ。でさ、会社が提携しているフォトスタジオがあるから、予約してみるよ」「うん、ありがとう杏介さん」ニッコリと笑う紗良の頭を、杏介はよしよしと撫でる。 海斗に関することなら反対しないだろうと踏んでいたが、やはりあっさりと了承されて思わず笑みがこぼれた。「?」撫でられて嬉しそうな顔をしながらも、「どうしたの?」と控えめに上目遣いで杏介を見る紗良に、愛おしさが増す。「紗良は今日も可愛い」「き、杏介さんったら」一瞬で頬をピンクに染める紗良。 そんなところもまた可愛くて仕方がない。夫婦がイチャイチャしている横で、海斗はランドセルを背負ったまま「写真! 写真!」と一人でテンション高く踊っていた。