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気づき始めた気持ち-06

last update 最終更新日: 2024-12-29 07:50:52

「せんせー、かいともあれやりたい!」

と、イルカ調教師がイルカの背に乗って泳ぎ、一緒に大ジャンプをしているところを指差す。

「せんせーはできる?」

「さすがに先生もあれはできないかも。でもやってみたいよね」

「やってみたい!」

「えー、絶対怖いよ。なんでそんなのやりたいって思うの?」

「あはは。何だろうね? スリルを楽しみたいっていうか、単純に気持ちよさそうでもあるなぁ」

「かいとはねぇ、イルカさんにのりたい」

「私にはわからない気持ちだわ」

杏介と海斗の盛り上がりについていけない紗良は意味がわからないと首を振る。

けれど二人の楽しそうな姿が見られて、紗良の気持ちも弾みがちだ。

「ところで海斗、シャツがびしょ濡れじゃないの」

「びったんこー」

「さすがに濡れすぎだな」

「どうしよう、着替えなんて持ってきてないし」

「さらねえちゃん、パンツはぬれてない」

元気よく答える海斗はおもむろにズボンをずりっと脱ぐ。

まだ会場にはたくさんの人がいるというのに、海斗は恥ずかしげもなくパンツを晒した。

慌てるのは紗良だけだ。

「ちょっ、海斗! ここでズボン脱がないの!」

「せんせー、みて。パンツ!」

紗良が海斗の服を直そうとするも、その手をすり抜けて海斗は杏介に見せびらかす。

「海斗~、それが面白いのは男子だけだ。紗良姉ちゃんを困らせるなよ」

「かいとのパンツかっこいいのに。さらねえちゃんのパンツはかわいいよ」

「ちょ、なっ、かっ、 海斗っ!」

「あはは。そりゃ紗良姉ちゃんは可愛いから、何履いても可愛いだろ」

「きっ、きょっ、杏介さんまでっ」

真っ赤になった紗良はやっぱり可愛いなと眺めつつ、杏介はささっと海斗のズボンを直した。

「さて海斗、Tシャツでも買いに行くか」

「びったんこだから?」

「そう、びったんこだから。そのままでいると風邪ひくぞ」

「かいと、イルカさんのふくがほしい」

「売ってるかなぁ? ほら、紗良さんも行こう」

「……」

ムスッと不満げな顔をする紗良。

杏介は苦笑いをしながら尋ねる。

「もしかして怒ってる?」

「……怒ってません」

「せんせい、さらねえちゃんおこってるからきをつけて」

「……たぶん海斗に怒ってると思うけどな?」

「ええーなんでぇー。せんせーがパンツっていうから」

「あっ、お前人のせいにしたな? こうしてやる」

「あひゃひゃひゃひゃ」

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    お互いのことをよく知らない。表面上はよくわかっていても、その生い立ちや家庭環境までは踏み込んでいない。(杏介さんのこと、もっと知りたいかも……)そう思うのと同時に、紗良は自分のことも知ってもらいたいと思った。好きだから知りたい、好きだから知ってもらいたい。付き合うことはできないと断った後もこうして一緒にお出かけして、まるで付き合っているのと変わらないような関係が続いていることに自分自身喜びを覚えている、この矛盾した生活。自分のことを伝えたら杏介は呆れるだろうか。この関係は崩れるだろうか。だったとしても、今、伝えたい気がした。ずっと燻っている、紗良の気持ちを。紗良は海斗がぐっすり眠っているのを確認してから口を開く。「あのね、うちの両親は離婚してるの。私は母子家庭だけどお母さんが明るすぎて父親の存在なんて忘れちゃうくらい」「確かに、紗良のお母さんは底抜けに明るいよな」「でしょう。だからね、海斗を引き取るときも大丈夫だと思った。私もお母さんみたいにやれるって思ったの。でも実際はすごく大変でお母さんに頼ることも多くて全然できてないけど、でも私なりに頑張ってて……」「うん、すごいと思うよ。だって最初に出会ったときは海斗の本当の母親だと思ったから」「そう言ってもらえて嬉しいんだけど。でもね、最近はダメなの……」紗良は杏介を見る。運転している杏介の横顔は夕日に照らされてキラキラと眩しく、それでいて頼もしくかっこいい。(ああ、私ってこんなにも杏介さんのことが好きなんだ……)自覚すると胸がきゅっと苦しくなる。伝えるべきなのか、どうなのか迷う。だが杏介は「何がダメ?」と優しく問うた。

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   お互いのこと-05

    「 俺さ、母親がいないんだよね」「え?」「いや、正確にはいるんだけど。幼いころに病気で亡くなって父子家庭で育ってさ、数年後に父親は再婚したんだけど、新しい母親と上手くいかなくて。……いや、上手くいかないっていうか、俺が毛嫌いしているだけなんだけど。だからそういうお弁当は憧れだったんだ。長年の夢が叶ったような、そんな気持ち、かな」「そう、だったんだ」「引いた?」「ううん、全然。私、杏介さんのこと全然知らなかったんだなって思って」「そうだよな。あんまりこういう話ってしないし。まあ聞いてもつまらないと思うけど」世の中にはいろいろな人がいる。 誰一人として環境が同じなわけではない。 そんなことはわかっているけれど、紗良のような家庭環境は珍しいのではないかとどこかでそう思っていた。 きっと杏介も『普通』の家庭なのだろうと決めつけていた。 そんな風に考えていた自分を反省する。「……私たちってお互いのこと全然知らないよね」「そうかもしれないな」紗良は姉の子供の海斗を育てていて、実家暮らしで母と住んでいる。 平日は事務の仕事をしていて土日はラーメン店でアルバイト。杏介は海斗の通うプール教室の先生で、仕事終わりに紗良の働くラーメン店へよく訪れる常連客。 そして一人暮らし。今までの付き合いからこれくらいの情報はお互いに知っている。 けれどそれ以上深く聞くこともなかったし、自ら語ることもなかった。それがいいのか悪いのかわからないけれど、紗良の知らなかった杏介の内面の話は紗良の固定概念を崩すには十分だった。

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