海斗のことと紗良のアルバイトの都合で、夕方には帰路についた。それが当たり前でそうじゃなくてはいけないと思っていたのに、最近は別れが惜しくてたまらなくなっている。(今日も楽しかったな……)いつもそう。杏介と出かけた後は楽しかった余韻に浸りながら、今日一日を振り返る。プレゼントしてもらったイルカのぬいぐるみと一緒に布団に入りぎゅううっと抱きしめると、得も言われぬ感情が紗良の中にわき起こった。ほんのりと鼓動が速くなる。この気持ちは自分でも薄々気づいている。(杏介さん……)杏介と海斗と、三人で出掛けるのはとても楽しい。だけどもし、これが杏介と二人きりだったらどうなんだろうと考える瞬間がある。もちろん、海斗のことをないがしろにしているわけではない。もしも……もしも、の話だ。水族館で撮った写真を見返せば、柔らかく笑う杏介がたくさん写っていた。海斗を撮っているつもりだったけれど、どうやら無意識に杏介のことも撮っていたらしい。(杏介さんと二人で出掛けてみたい……かも)もし杏介の休みに合わせて休暇が取れたら、デートして貰えるだろうか。(いやっ、デートっていうか、いやっ、そういうことじゃなくてっ)自分の思考があらぬ方向に飛んでいってしまいそうな気がして、紗良は一人布団の中で身悶えた。そんなんじゃない、と思いつつも、紗良の中で大きくなる杏介への気持ちは止められそうになかった。
杏介もまた、紗良同様に今日の出来事を振り返っていた。『海斗、紗良姉ちゃんにいつもお世話になってるから何かプレゼントしたいんだけど、何がいいと思う?』『うーん、あっ! おにんぎょう! さらねえちゃんおにんぎょうがすきだよ。ふわふわのやつ』『お人形?』『これ、このイルカさんとか』『ああ、ぬいぐるみか。紗良姉ちゃん、ぬいぐるみが好きなのか?』『だって、いっつもいっしょにねてる』『ふーん、じゃあどれがいいと思う?』『イルカさん!』『それは海斗が好きなものだろう?』『かいともすきだけど、さらねえちゃんもすき。だってこれふわふわだよ。さわってみて』『確かに。じゃあこれにするか』『かいともさらねえちゃんにプレゼントあげたい』『ん? じゃあ、俺たち二人からのプレゼントにするか』『びっくりさせるー!』『だな!』そう海斗とコソコソ購入したイルカのぬいぐるみ。紗良は瞳を潤ませながら喜んでくれた。(あれは嬉し涙だと思っていいよな)そんな紗良に心打たれたのは杏介の方だ。紗良のいろいろな表情が、いつも杏介の心をざわつかせる。(紗良さんと二人で出掛けたい……)そう思ったときに、はっとして杏介は口元を覆った。自分の言動が過去の記憶に重なったのだ。(もしかして、俺はいつも海斗を口実に紗良さんを誘っていた?)そんなことはない、……とは言い切れない自分にひどくショックを受けた。
紗良を誘うとき、海斗が喜ぶことなら紗良は必ず来てくれるだろうという自信があった。紗良と海斗を天秤にかけるわけではないが、杏介の中では紗良に会いたいが為に誘っている気持ちも少なからずあって――。『今度、家族三人で外食でもどうかしら? ほら、杏介くんステーキ好きなんでしょう? お父さんから聞いたわよ』『杏介くんってお父さんに似て本が好きなのね。今度みんなで大型書店にでも行ってみない?』新しい母から出掛けようと誘われたとき、嫌悪感がすごかった。そうやっていい顔をして、結局は気に入られたいがためなんだろうと、そんな風に思っていたのだ。それは杏介が思春期であったことも影響しているのだが、捻くれた考えは『拒否』という形で冷たく突き放すことになる。(俺はいい顔をしている訳じゃないし、紗良さんに気に入られたいから海斗と仲良くしてるわけじゃない)そう思うのだが、もしかしたらこの気持ちはあの時の新しい母も感じていたのだろうか。杏介が大人になったから、――好きな人に子供がいるからわかった気持ちなのだろうか。だとしたら、あの時の自分はなんて残酷なことをしたのだろう。妙な罪悪感に苛まれるが、だからといってどうすることもできない。杏介は深いため息と共に考えるのを放棄した。
昼休み。 社員食堂の窓際で紗良と依美は横並びでうどんを啜る。 たいていこの場所が定位置で、おしゃべりをしながら時間いっぱいまで居座るのがいつものパターンだ。「週末どこか行った?」「うん、水族館に行ったよ」「へぇー。海ちゃん喜んだんじゃない?」「そうなの。だけどイルカショーで海斗がびしょ濡れになって大変だったんだよ」紗良は思い出して苦笑いをし、依美はその光景を想像して「ウケる~」と笑い転げた。「……あのさ、水族館、……杏介さんも一緒に行ったんだけど……」「杏介さんって、前言ってたプール教室の先生のこと?」「うん」ただ事実を述べるだけなのに、紗良は顔に熱が集まるようだ。 依美に聞いて欲しくて自分からその話をしたのに、ドキンドキンと落ち着かなくなる。 依美はニヤニヤとしながら箸を止めた。「なんだかんだ上手くやってるじゃん」「うちの事情を知ってるからいつも気に掛けてくれて……。なんていうか、ありがたい存在なんだ」「うん、でも、それだけじゃないんでしょ?」依美に指摘されてなおさら心臓がドクンと鳴った。自分の中で整理しきれずにいる気持ち。 日増しに大きくなっていく杏介に対する想い。 本当は答えが出ている。 けれどそれでいいのか、自信がない。だからこうして依美に話しているのだ。 紗良は水を一口ゴクンと飲んでから依美に向き合った。「うーん、……いつも海斗が一緒なんだけど、もし、……もしもなんだけど、二人で出掛けたらどんな感じだろうって、気になってる」「二人で出掛けたことないんだ?」「うん、ないの」「紗良ちゃん、杏介さんのこと好きなんだ?」ぞわっと体が震えた。 依美に言われて、自分が薄々気づいていたこの気持ちはやっぱりそうなのかと自覚する。
「そう、かも」口に出してしまったら、ますます顔に熱が集まってきているような気がした。うどんを食べているから暑いとか言い訳できるレベルではないような気がする。ドクンドクンと速くなる心臓は止められそうにない。「いいじゃん」「で、でも、付き合いたいとか思ってなくてっ。私にはほら、海斗がいるし」なぜだか依美に対して慌ててしまう。子どもを養っている自分には恋愛など必要ないと思っていたのに、なぜこんなことになるのか。紗良の気持ちは複雑に混じり合って、自分のことなのに自分がわからなくなってしまう。あまりにも初々しい紗良に若干羨ましさを感じつつ、依美は自嘲気味に笑う。「まあ、複雑な事情はわかるし海ちゃんへの責任もあると思うけど、紗良ちゃんはもう少し自分の幸せを考えた方がいいと思うよ」「自分の幸せ?」「そう、自分の幸せ。とりあえずこれあげるから、杏介さん誘ってみなよ。海ちゃんがいるときといないときでは性格違うかもしれないし、男はちゃんと見極めないとね」依美がポケットから取り出したのは二枚の紙だ。何だろうと、紗良は受け取る。依美は小さく息を吐き出す。こんな時に水を差すものでもないなと思いながらも、愚痴りたい気持ちの方が勝った。そのために映画のチケットを持ってきたのだ。「私さ、もう彼と別れるんだ」「え、なんで?」「たぶん浮気されてる。仕事が忙しいってのも嘘」はあ、と依美は大きなため息をついた。その横顔は憂いを帯びているようで、紗良の胸は苦しくなる。「だからさ、その分楽しんできてよ。使わないともったいないじゃん、そのチケット」「依美ちゃん……」順調にお付き合いしているように見えていた依美でさえ上手くいかないのだ。恋愛とはやはり難しいものなのでは……と考えたところで背中をバシンと叩かれた。「やだ、何暗い顔してるの? 私は吹っ切れてるから大丈夫よ。ちょっと愚痴りたかっただけ。次は絶対いい男ゲットするし」「……依美ちゃん意外と肉食だね」「何言ってんのよ。紗良ちゃんもこれくらいガツガツ行きなさいよ」「あ、はは。がんばる」二人はぎこちなく笑い合う。残りのうどんを啜りながら、それぞれ思いを馳せた。「映画のチケット?」「そう。平日限定ペアチケット。彼氏と行こうと思ったんだけどさ、しばらく仕事忙しくて平日休めないって言うから」「もらっ
依美からもらった映画のペアチケットを前にして紗良はうむむとスケジュールを確認する。 杏介の平日休みに合わせて休暇を取らなければ映画には行けないわけで、そんなタイミング良く休暇が取れるだろうかと心配になった。けれどこのチケットを無駄にするわけにはいかない。 くれた依美にも失礼だと思った。 そしてなにより、自分の気持ちを認めてしまった今は、何が何でも杏介と出かけたいという欲望が勝ってしまう。「杏介さん、今月のお休みいつですか?」「土日の?」「じゃなくて、平日の……です」杏介はシフトが書き込まれたカレンダーを紗良に見せる。 紗良は自分の仕事との兼ね合いでちょうどいい日を指差した。「この日……」「うん?」「えっと、あの……」よく考えたら、紗良からどこかへ行こうと杏介を誘うのは初めてだった。 いつも杏介から「どう?」と聞かれるばかりだったことを今さらながら実感して変に緊張してくる。「この日に何かあった?」「映画に……つ、……付き合ってください」「えっ?」杏介はもう一度聞き返したい衝動に駆られるが、目の前の紗良は真っ赤な顔をしてプルプルしている。 紗良から誘われることは初めてで、それだけでざわりと心臓が音を立てた。「……もちろん、喜んで」にやけそうになる頬をぐっと抑え、にこっとした上品な笑顔で大人ぶる。 紗良の前では格好つけたいのだ。紗良は「ありがとうございます」と、赤らんだ頬のまま嬉しそうに笑った。
いつもと同じように杏介は紗良を車で迎えに行った。違うことといえば、今日は海斗がいないこと。その海斗は朝から元気いっぱいに保育園へ登園している。だから誰に断ることもなく、自然と助手席は紗良専用になった。助手席に乗るのは初めてではないはずなのに、この空間に杏介と二人きりであるという事実が胸をざわりと揺らす。「お休みのところすみません。えっと、映画なんですけど、海斗いると行けないので」「今日はデートだと思っていいですか?」「でっ……は、はい。よろしくお願いします」紗良自身もこれはデートだと思っていた。けれどいざ杏介の口から『デート』だと言われると、やっぱりそうなんだと変に意識してしまって落ち着かない。運転する杏介の横顔を見れば、端整な顔立ちに綺麗な二重の切れ長の目と思いのほか長い睫毛にトクンと胸が高鳴る。少しくせ毛の髪の毛は柔らかく流れ、思わず手を伸ばして触ってみたい衝動に駆られた。「紗良は……」「はっ、はいぃぃっ」急に話しかけられて、宙をさまよいかけた手を慌てて膝の上に戻す。「どうかした?」「あ、いや、えっと、……なっ、名前呼びだったのでっ」「呼び捨ては嫌だった?」「あ……ううん。ちょっとドキドキしちゃって」「紗良も、俺のこと呼び捨てでいいよ?」「ええっ!……き、杏介」おずおずと名前を呼ぶと、杏介は手を口元に当て「……思ったよりドキドキする」と呟く。とたんに恥ずかしくなった紗良は顔を赤らめながら慌てて「……さん」と付け加えた。「いや、なんで」「だってやっぱり恥ずかしいんだもん」「そう? よかったのに」残念がる杏介だが、その言葉とは裏腹にとても楽しそうに笑った。
絨毯張りの映画館は特別感を感じさせる。 どこからか甘い匂いも漂っていて、気持ちをわくわくさせた。「楽しみです。映画なんて学生のとき以来」「そう言われると俺もしばらく映画館には足を運んでなかったかも。何か買う?」「じゃあ飲み物だけ」紗良はメニューを覗く。 よくある定番の飲み物が並んでおり、「オレンジで」と伝えると、杏介が店員に注文してくれる。「アイスコーヒーとオレンジジュースで……」「ああっ、ちょっとまってください。やっぱりオレンジじゃなくてコーラでお願いします」「はい、アイスコーヒーとコーラですね。六百円になります」紗良がお金を出そうとすると杏介が目配せし、ささっと支払ってしまった。「いいんですか?」「いいよ。はい、コーラ」「ありがとうございます」「紗良、そろそろ敬語はやめようか。お互いに」「あ、はい。……じゃなくて、うん?」「そうそう」気恥ずかしいような嬉しいようなくすぐったい気持ちになって、紗良はストローに口を付ける。 ゴクリと一口コーラを飲めば、シュワッと炭酸が強烈に鼻を抜けた。「ん~、炭酸だ!」「コーラが炭酸って知らなかった?」「ううん、違うの。久しぶりに飲んだから」紗良はふふっとはにかんで笑う。 海斗はまだ炭酸が飲めないため、たいていオレンジジュースかリンゴジュースを注文する。 それも一人で飲むには多いため紗良と半分こすることも多い。(私ったらいつも海斗に合わせてたんだなぁ)まさか飲み物の注文ひとつでそんなことを実感するとは思わず、紗良は感慨深い気持ちでまた一口コーラを飲んだ。
翌日、杏介は一人で病院を訪れていた。「杏介くんにまで迷惑かけちゃってごめんねぇ」一般病棟に移った紗良の母は相変わらず元気でニコニコと笑う。 一時失語症があったとは思えないくらいに回復していた。「お母さんには早く元気になってもらわないと」「これからリハビリも始まるのよ。見てよ、まだ全然左側が動かないの。わたし、呂律も回ってるかしら?」「ええ、ちゃんと聞き取れますよ」杏介は持ってきたタオルやパジャマを棚に片づける。 洗濯物としてまとめられていたビニール袋を持ってきたバックに代わりに入れた。 こうやって親のために何かをすることは初めてな気がして杏介は少し緊張した。 もちろん本当の親ではないけれど、それでも自分の母親と同世代の紗良の母の世話をすることはなんだか感慨深いものがある。「ねえ、 杏介くんから見て紗良って無理してない?」「無理してますね」「やっぱり? あの子意外と頑張り屋さんなのよ。一人で何でもやろうとしちゃって」「そう思います。僕も紗良さんの力になりたいんですけど、全然頼ってもらえなくて」杏介は頷く。 今日ここに杏介が来ることになったのも、遠慮した紗良を遮って杏介が強引に決めたことなのだ。 「ねえ杏介くん、紗良のこと好いてくれてありがとうね。親はいくつになっても子供のことが気になっちゃってねぇ」ふふふ、と紗良の母は笑う。 その表情はとてもやさしくて、眩しく見えた。「いえ、羨ましい……気がします」「そういえば杏介くんはあまり親と上手くいってないんだっけ?」「そうですね。僕が避けているというか……」言葉を濁すと母はぶはっと吹き出した。「あはは! 親はいなくとも子は育つってね。いいんじゃない、そういう人生もありよね」「そうですか? 僕はちょっと後悔もしていたりして――」「あら、そうなの?」「……出来れば仲良くやりたかったですね。今更ですけど」「そっかぁ。でも今からでも遅くないかもね? まあ頑張りなさいって」母は動く右手で杏介の腕をバシンと叩いた。 とても病人とは思えない力強さに驚くと共に勇気づけられるようだ。「お母さん、お元気でなによりです。すぐ退院できるといいですね」「そうでしょう? 元気だけが取り柄なのよ、私。動かないのが利き手じゃなくてよかったわ」紗良の母は明るく笑う。 杏介はその笑顔を見ている
杏介は交換するタオルやパジャマ一式を紗良から受け取ると、「じゃあ」と言って踵を返す。「あっ、杏介さん」「うん?」「あ、えと、おやすみなさい」杏介は紗良の髪をひと撫でする。 サラサラの髪の毛はふわりとシャンプーが香り、杏介の胸をドキンと揺らして引き留めようとした。 最近では以前にも増して頻繁に会っているというのに、どういうわけか胸の高まりは押さえられそうにない。おもむろに肩を引き寄せればポスンと杏介の腕の中におさまる紗良。「おやすみ、紗良」そっと耳元で囁いてから頬にキスを落とす。 お互い名残惜しさを感じつつも笑顔で別れた。部屋に戻れば海斗がまだ真っ赤な顔をしつつも元気そうに寄ってくる。「だれかきてたー?」「うん、先生からお見舞いもらったよ。何か食べる?」「ヨーグルトたべる。かいともせんせーにあいたかった」「先生も会いたがってたよ。でも風邪うつったら困るでしょ」「はやくほいくえんいきたい」「熱が下がったらね。ヨーグルト食べたら頑張って寝よっか」ずっしりと重たい袋から海斗の好きなアロエヨーグルトを取り出す。 奥の方には紗良の好きなとろけるプリンが入っていた。「私も食べようかな……」紗良は海斗と並んでとろけるプリンをいただく。 甘くてなめらかで口の中でつるんと溶ける優しい味わいに胸がいっぱいになった。
「ごめん紗良、常識ない時間だった」「ううん、大丈夫。どうしたの?」「これ、海斗にと思って」杏介はコンビニで買った袋を紗良に手渡す。 ずっしりと重い袋の中には数種類のゼリーとヨーグルトが入っている。「こんなにいっぱい?」「熱だとあんまり食べれないかもと思って」「ありがとう。海斗がすっごく喜ぶと思う」「海斗、大丈夫? もう寝てる?」「まだ起きてるよ。お熱が下がらなくてなかなか寝れないみたい。アニメ見てる」「そっか。紗良も気をつけて。何かあったらすぐ連絡して。俺にして欲しいことはない?」「大丈夫だよ」紗良はニッコリと笑う。 いつも一人で抱え込む癖のある紗良は、どうしたって弱音を吐かない。 それを杏介もわかってきているため、困ったように眉尻を下げた。「お母さんそろそろ一般病棟に移るんじゃないのか?」「うん、明日移るって」「行った方がいいんだろ?」「そうなんだけど、さすがに行けないかなって。風邪のウイルス持ち込むわけにはいかないもの」「じゃあ俺が行く。紗良の代わりに」「でも杏介さん仕事――」「そういうのは言いっこなしな」紗良の言葉を途中で遮り、杏介は強引に決める。紗良のためだけではない。 杏介にとっても紗良の母親は大切な存在だ。 自分の母と上手く接することができなかった杏介を非難することなく受け入れてくれ、なおかつ自分を息子の様に気遣ってくれる。そして石原家は、杏介が焦がれた家族のあたたかさを教えてくれる大事な場所なのだ。
母の容態に変化はなく、これ幸いにと海斗の迎えの後に病院に寄ることが日課になった。面会はほんの数分。 まだICUに入っている母は左手足と軽い失語症があるが、見た目元気そうな姿で紗良と海斗が来るのを喜んだ。 順調にいけばもう明日にでも一般病棟に移るかというところ。そんな矢先、海斗が熱を出してしまった。 突然の熱は保育園児にはよくあること。とはいうものの、数日前から海斗は鼻を何度もすすったりくしゃみが多くなったりはしていた。さすがにお見舞いに行くのは止めておかないとと思っていたらこのざまだ。土曜のプール教室を休んだことで、すぐに杏介から紗良に連絡がある。「海斗、どうかした?」「うん。保育園で風邪をもらったみたい。夏になるとよく流行るアデノウイルスだって」保育園でも流行っているし、プール教室でも静かに流行っているため杏介はなるほどと納得する。 仕事帰りにコンビニにより、ゼリーやヨーグルトを適当に買って石原家へ寄った。しんと静まり返っている石原家のインターホンを鳴らそうとして杏介は出しかけた手を一度ひっこめる。 時刻は二十一時。 杏介にとってはなんでもない時間だが、海斗はもう寝ているかもしれない。紗良に電話をかけて呼び出すと、カチャリと小さく音がしてもうパジャマ姿の紗良がそろりと顔を出した。
紗良と海斗はシングルの布団を隣同士くっつけて寝ている。 今日は海斗が紗良の布団にもぐり込んできた。「さらねえちゃん、てぇつなご」「うん、いいよ」ぎゅっと握ると海斗はえへへと笑う。 それほど大きくはない紗良の手だが、海斗に比べたらしっかり大人の手。 その手の中にまだ未熟な海斗の小さくて柔らかい手が包まれる。(可愛いな)そんなことを思っている間に海斗は手を繋いだまますぐに寝てしまった。いつも土日は二十二時までアルバイトで、紗良が帰る頃には海斗は寝ている。 寝かしつけは母に任せていたのだが、今までどうやって寝ていたのだろうか。 母がいるから大丈夫だろうと思っていたが、本当は寂しかったのだろうか。怒濤のような一日が終わり、しんとした室内。 母がいない、海斗と二人きりの夜。 やけに静かでもの悲しい。 あれこれと浮かぶ心配事に紗良は眠れないでいた。(ここに杏介さんがいてくれたら……)昼間は杏介が駆けつけてくれて、紗良は本当に心強くてたまらなかった。 杏介がいるというだけでほっとしたし安心した。 いつの間にこんなに弱くなったのだろうか。(私はもっと強くて一人でも平気だと思っていたのに)得も知れぬ不安が紗良を襲い胸を締めつけていく。 母のことも海斗のことも、これからの生活のことも。 すべてが重く暗い闇に飲み込まれて、その重圧で押しつぶされそうになる。じわりと滲む涙を拭い、大きく息を吐き出す。 なにもかも一筋縄ではいかない。海斗を引き取るとき、生半可な意思ではなかった。 けれど育ててみて直面するイレギュラーな事態は予想以上に多い。母の脳梗塞再発だって、一回目の脳梗塞の時に医師から言われていた事。 再発する可能性もあります、と。忘れていたわけではない。 油断していたわけでもない。 それでも現実に直面するとこんなにも心が苦しくなるなんて。紗良は枕元に置いてあったイルカのぬいぐるみを手繰り寄せる。 ぎゅっと抱きしめればなぜだか心が少しだけ落ちつくような気がした。
夕方になっても全然お腹はすかなかった。 けれど海斗がいる手前、夕飯を抜くわけにはいかない。ひとまず海斗と一緒にお風呂に入ってから簡単に夕飯の準備を始める。 と、紗良の背後に静かに海斗が立っていた。「ん? どうしたの、お腹すいた?」「さらねえちゃん、いまからおしごといくの? かいとひとり?」「今日は行かないよ。お休み。おばあちゃんもいないし、海斗ひとりにできないでしょう?」海斗はおもむろに紗良のシャツの裾をぎゅっと握る。 紗良は何事かと首を傾げた。「……ごめんなさい」「え、なにが?」「かいとがひとりでおるすばんできないから、さらねえちゃんがおしごといけなくてごめんなさい」「え? やだ、そんなのいいんだってば。私だって仕事なんかより海斗と一緒にいたいし。海斗のせいじゃないんだから」「きょうはいっしょにごはんたべれる?」「食べれるよ」「いっしょにねれる?」「もちろん」「えへへ、やったー」海斗は紗良に抱きつく。「だっこして」と甘えるので、夕食作りの手を止め海斗をぐっと持ち上げた。 来年にはもう小学生になるというのに、まだまだ幼い海斗。 ずいぶん重くなったけれど、甘えん坊は変わらない。それでも、海斗は海斗なりに何かを感じ取っていたのだろう。 幼いからわからないのではなく、わかる範囲で理解して自分で考えている。(海斗もいろいろ我慢してきたんだろうな)海斗は紗良が土日の夜に仕事をしているのを理解している。 今日本来なら仕事があることをわかっていたし、いつもなら祖母と過ごすこともわかっている。 だからこそいつもと違い紗良が家にいることが海斗を不安にさせたのだ。けれどそれは、もしかしたら今まで必要以上に海斗に負担を強いてきたのではないだろうかと、紗良の胸に刺さった。(仕事もお金も大事。だけど、ごめんなさいだなんて、そんなことを思っていたなんて……)海斗に不自由させたくない。 だから働く。 お金はあればあるほどいいのだ。だけど――。お金がすべてではない。 確かにあるに越したことはないけれど、それでも今一番大事にしなくてはいけないのは海斗の気持ち。 きっと、そうなのだろう。
紗良は散らかった折り紙を片付けながら、杏介は一生懸命海斗と遊んでくれたんだなと思いを馳せた。隣には海斗がいるというのに、急に大きな存在が目の前から消えてしまったような感覚に陥りもの悲しさを覚える。 それにいつも元気な母がいないことも、妙に家が広く感じて仕方がない。初めて母が脳梗塞になったときは意識がなく、生きるか死ぬかという山を乗り越えた。 幸いグングン回復して支障となる大きな後遺症も残らず、元の生活に戻った。 変わったことといえば、車の免許を返納したことと定期的な通院をするようになったこと。その時に、紗良は「母が死ぬかもしれない」ということを嫌というほど経験したし、医者から「脳梗塞は再発することがある」と聞かされていた。そしてその後の姉夫婦の事故死でも、紗良は心を抉られるくらいに「死」というものに対して考えさせられた。だからいつか何かがあったときの「覚悟」はあった。 していたつもりだった。けれど月日が流れ当たり前に生活できているとそんな「覚悟」も頭の隅に追いやられ薄れていく。母はICUに入っているが意識はある。 順調にいけば一週間ほどで一般病棟に移りリハビリが始まると医師から説明を受けた。 ただいつ急変してもおかしくないのが脳梗塞だ。 元の生活に戻れるかもわからない。そんな漠然とした不安がふとした瞬間に大きくなって波のように紗良に襲いかかってくる。 どうしようもない恐怖に押しつぶされそうになるが、視界の端に海斗を捉えるたび、しっかりしなくてはと自分を鼓舞するのだった。
アルバイト先にもしばらく休むことを伝え、お昼時もだいぶ過ぎた頃、紗良はようやく自宅へ戻った。「ただいまー」玄関を開けると奥から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。リビングに足を踏み入れれば、散乱した折り紙や絵本、そして杏介の膝に座ってスマホゲームをしている海斗がいた。「ああ、紗良、おかえり」「ただいま。おかげで手続きとかいろいろと終わったよ。杏介さん、大変だったよね?」「あ、ごめん。部屋が散らかりすぎてるな。あと、海斗にスマホゲームさせるのはよくなかったかも」「ううん。全然いいの。すごく助かってるから。海斗、よかったね」うん!と元気のいい返事が返ってくるも海斗はゲームに夢中になったまま杏介の膝の上でご機嫌だ。「紗良、バイトは休んだ?」「うん、さすがに行けないから。しばらくお休みさせてもらうことにしたの」「そうか。それがいいな」「あ、二人ともお昼はどうしたの?」「残ってたおにぎりとかパンを食べたよ。紗良は? ちゃんと食べた?」「うん、病院のカフェで少し……」本当はアイスコーヒーを一杯飲んだだけなのだが。 それを言えば杏介は心配するに決まっているので、食べたことにしておく。 朝は杏介と海斗が気持ちを盛り上げてくれたため食べることができたが、やはり一人での食事は喉を通らなかった。「よかったら夕飯食べてって。それくらいしかお礼できないんだけど……」「ありがとう。でも今から仕事だからさ。また今度いただくよ」「えっ、お仕事だったの? ごめんなさい、こんなに長くいてもらって」「いいんだ。気にするなよ。今から仕事だけど、何かあればすぐに電話してくれて構わないから。夜中でもいつでも。まあ、何もなくてもかけてくれていいんだけど。いつでも紗良の声聞きたいし」「ありがとう、杏介さん」思わず潤んでしまった目を隠すために紗良は少し俯く。 そんな紗良の頭を杏介は優しく撫でた。「海斗も、また来るからな」「わかったー。こんどまたゲームやらせてね」「紗良姉ちゃんの言うこと聞いていい子にしてたらな」「わかった。いいこにする」海斗は親指を突き立てキリリと頷く。後ろ髪を引かれながらも、杏介は仕事に向かった。 こんなときこそ仕事を休んでずっと紗良の元にいたいと思ったが、シフト勤務でなおかつ生徒を抱える身としては早番と遅番を変更してもらうので精一杯だ
病院では母の病状や今後の説明を受け、たくさんの書類に目を通しながら手続きを済ませる。ICUにいる母にはたくさんの管が付いていて、数年前の光景を思い出させた。初めて脳梗塞で倒れたときも同じくここに入院した。あのとき紗良はまだ学生で、ICUで作業する医療者の声と無機質な機械音を聞きながら母の様子を伺っていた。これからどうなるのだろうと思いつつも、その時は姉がいたために姉に頼りっきりだったと今さらながらに思い出す。一人で抱えるのはつらい。すぐに不安や重圧で押しつぶされそうになる。けれどすぐに脳裏に浮かぶ顔――。杏介の存在は絶対的で紗良は幾重にも助けられていた。今朝だって誰かに縋りたくて無意識に杏介に電話をかけていたくらいだ。それほどまでに紗良の中で杏介に対する信頼感は大きいことに気づかされる。今こうして一人でテキパキと手続きをこなすことができるのも、杏介が海斗を見ていてくれるから。杏介が紗良を気遣ってくれるからに他ならない。いつだって紗良に優しく、いつだって紗良の味方でいてくれる杏介。(もしもまだ、杏介さんの気持ちが変わってないのなら――)変わっていないのなら自分はどうしたらいいのだろうか。どうしたいのだろうか。このままズルズルと都合の良い関係でいて貰うことの方がよっぽど失礼ではないか。いつまでもそんな関係でいてはいけないのだと、こんなときに限って実感してしまう。いや、こんなときだからこそ、だろうか。