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初めての恋-04

last update Last Updated: 2025-01-02 05:22:30

いつもと同じように杏介は紗良を車で迎えに行った。

違うことといえば、今日は海斗がいないこと。

その海斗は朝から元気いっぱいに保育園へ登園している。

だから誰に断ることもなく、自然と助手席は紗良専用になった。

助手席に乗るのは初めてではないはずなのに、この空間に杏介と二人きりであるという事実が胸をざわりと揺らす。

「お休みのところすみません。えっと、映画なんですけど、海斗いると行けないので」

「今日はデートだと思っていいですか?」

「でっ……は、はい。よろしくお願いします」

紗良自身もこれはデートだと思っていた。

けれどいざ杏介の口から『デート』だと言われると、やっぱりそうなんだと変に意識してしまって落ち着かない。

運転する杏介の横顔を見れば、端整な顔立ちに綺麗な二重の切れ長の目と思いのほか長い睫毛にトクンと胸が高鳴る。

少しくせ毛の髪の毛は柔らかく流れ、思わず手を伸ばして触ってみたい衝動に駆られた。

「紗良は……」

「はっ、はいぃぃっ」

急に話しかけられて、宙をさまよいかけた手を慌てて膝の上に戻す。

「どうかした?」

「あ、いや、えっと、……なっ、名前呼びだったのでっ」

「呼び捨ては嫌だった?」

「あ……ううん。ちょっとドキドキしちゃって」

「紗良も、俺のこと呼び捨てでいいよ?」

「ええっ!……き、杏介」

おずおずと名前を呼ぶと、杏介は手を口元に当て「……思ったよりドキドキする」と呟く。

とたんに恥ずかしくなった紗良は顔を赤らめながら慌てて「……さん」と付け加えた。

「いや、なんで」

「だってやっぱり恥ずかしいんだもん」

「そう? よかったのに」

残念がる杏介だが、その言葉とは裏腹にとても楽しそうに笑った。
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    「紗良さん、頭を上げてちょうだいね。私たち、結婚を反対しようなんて思ってないのよ。杏介くんから聞いてると思うけど、私は杏介くんの本当の母ではないから、複雑な家庭環境に身を置くことに対してその覚悟はあるのかしら、と気になっただけなのよ。気を悪くさせたらごめんなさいね」父が言葉足らずな分、それをフォローするかのように母は申し訳なさそうに告げた。「あ、いえ……」気を悪くなどと、と恐縮していると、杏介は紗良の手を握る。 突然のことに杏介を見やるが、握った手はそのままに杏介は真剣な顔をして母を見た。その手には力がこもっている。「……本当の、母だよ」「え?」「俺はちゃんと……あなたのことを……お母さんだと……思ってる」「……杏介くん?」杏介は一度紗良を見る。 握った手から力をもらうかのように紗良のあたたかさを感じてから、杏介は深く息を吸い込んだ。「……関係をこじらせたのは俺のせいだ。母さんはいつも俺に優しかった。冷たくしたって無視したって、ご飯は作ってくれたし、学校行事にも来てくれた。俺はずっと素直になれなくて逃げるように家を飛び出してしまったけど、本当は後悔してた。水泳の大会にも毎回来てくれてたのを知ってる」重かった口は一度言葉を吐き出したらすらすらと出てきた。 準備はしていなかった。 ずっと杏介の頭の中で燻り続けていた想いが溢れてくるようだった。杏介の母はしばらく黙っていた。 それは怒りでも喜びでもなく、まさか杏介がこんなことをいうなんてという驚きで言葉を失ったのだ。

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   愛した君とここから-02

    杏介の実家の前には車が一台止まっていたが、端に寄せられてもう一台止められるスペースが開けてあった。杏介はそこに丁寧に車を付ける。インターホンを鳴らすとすぐに玄関がガチャリと開く。 出てきたのは杏介の母で、杏介と目が合うと、お互いぎこちなく無言のまま。 ここは紗良がまず挨拶をすべきと口を開いたときだった。「こんにちは!」海斗がずずいと前に出て元気よく挨拶をした。 慌てて紗良も「こんにちは」と続く。 杏介の母は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに小さく微笑む。「こんにちは。遠いところよくいらっしゃいました。どうぞ上がってくださいな」ペコリと頭を下げて、紗良と海斗は中へ入った。 杏介もそれに続きながら、「ただいま」と小さく呟いた。杏介の緊張感がひしひしと伝わってくる。 紗良はそっと杏介を見る。 いつになく緊張した面持ちの杏介は紗良の視線に気づくとようやくふと力を抜いた。「大丈夫。ちゃんとするから」紗良に聞こえるだけの声量で囁く。 それは嬉しいことだけれど、気負いすぎもよくないと思う。でもそれを今、杏介に上手く伝えることができず紗良はもどかしい気持ちになった。和室の居間に通され、杏介の父と母の対面に座った。紗良の横には海斗がちょこんと座る。「紹介します。お付き合いしている石原紗良さんと息子の海斗くん。俺たち結婚しようと思って今日は挨拶に来ました」「はじめまして。石原紗良と申します。ほら海斗、ご挨拶」「いしはらかいとです。六さいです」ピンと張りつめていた空気が海斗によって少しだけ緩む。 海斗は自分が上手く挨拶できたことにドヤ顔で紗良を見る。目が合えば「ちゃんとごあいさつできたー」と、これまた気の緩むようなことを口走るので紗良は慌てて海斗の口を手で押さえた。「……杏介、いいのか? 最初から子どもがいることに、お前は上手くやれるのか?」杏介の父が表情変えず、淡々と厳しい言葉を投げかける。緩んだ緊張がまた元に戻った。 それは杏介と杏介の新しい母が上手く関係をつくれなかったことを意味していて、杏介だけでなく母も、そして紗良も唇を噛みしめる思いになった。「いや申し訳ない。紗良さん、あなたを責めているわけではないから勘違いしないでほしい。これは我が家の問題でね……」「俺は上手くやれる。ちゃんと海斗を育てるよ。それも含めて結婚したいと思

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