「暗いから足元気をつけて」おもむろに手が繋がれ紗良の胸はドキリと跳ねる。言うほど館内は暗くないけれど、杏介に握られた手に素直に従った。ずっと触れたいと思っていた杏介の手。こんなにも簡単に触れることができるなんて、まるで夢でも見ているようなそんなふわふわした気持ちに紗良の胸はまたきゅんと痺れる。指定された座席に座ると、目の前の巨大なスクリーンでは映画が始まる前の注意喚起やCMが次々に流れている。ぼんやりと眺めながら、紗良はいつか聞こうと思ってずっと聞きそびれていたことを口にした。「杏介さんって、何歳ですか?」「俺は二十八。紗良は二十五でしょう?」「え、なんで知ってるの?」「前にお母さんがそんなこと言っていたよね?」「あ、そっか……」以前ウォーターパークへ行ったとき、紗良の母は娘のことをぺらぺらと明け透けにしゃべっていた。それを思い出し、思わず苦笑いを浮かべる。「ちょうどいいね」「ちょうど、いい?」杏介の言葉の意味を汲み取る前に館内にブザーが響き渡り照明がぐっと落とされた。何がちょうどいいのか。ちょうど映画が始まるから?それとも歳の差が?妙にどぎまぎしてしまって、映画が始まってもそのことばかり考えてしまう。こっそりと横目で杏介を覗き見れば、暗闇の中、スクリーンからの光彩で浮かび上がる杏介の端正な顔。映画なんかよりずっと見ていたい、と考えてハッと我に返る。(だ、ダメだ。映画に集中しよう)紗良は落ち着くためにコーラを一口飲む。炭酸がしゅわっと弾けて鼻から抜けていき、気持ちを切り替えさせた。
映画の後は近くのレストランへ向かった。紗良はメニュー表を凝視し、うむむと悩みこむ。 時折ハッとしたり、困ったような表情になったり、顔面が忙しい。 そんな紗良の姿に杏介はふっと笑みを漏らした。「ん? 何?」「いや? 紗良が百面相で面白いなって」「はっ! 私、そんな顔してた?」「うん。でも、なんか嬉しそうだなーって」「そうかな? やだ、恥ずかしい。……私、海斗を育てるって決めたときからずっと海斗が一番で、自分のことは後回しにしてきたから、今日こうして杏介さんとデートできるなんて夢みたいで。外食も自分の好きなもの食べていいんだと思ったらつい嬉しくなっちゃって」「そっか」「あ、別にいつも我慢してるとかいうわけじゃなくて。……なんか、私の人生にもそういう彩りがあったんだなって思ったら、つい。今日は付き合ってくれてありがとうございます」「紗良が嬉しいなら俺も嬉しい。食べたいものは決まった?」「これにする。担々麺!」「じゃあ俺は――」本当に夢のようだと思った。 海斗を引き取ると決意したあと、紗良の将来に『恋愛』や『結婚』はもうないのだろうと思っていた。 むしろあってはならないのだと自分に言い聞かせてきた。子供を育てることはわからないことだらけ。 制約されることだらけ。けれどそんな日々の中でも、今日こうして杏介と二人でデートができている。 たくさんの偶然が重なって出会えたことが奇跡に思えた。
「紗良、まだ時間ある?」「今日はお迎えの時間十七時だから、まだ大丈夫」時刻は十三時。高い太陽からは日差しが燦燦と降り注いでいる。「じゃあ今度は俺に付き合ってくれる?」「もちろん」自然と二人手を繋いで、まるでそれが当たり前かのように杏介の車に乗り込む。たわいもないおしゃべりをしながら少しドライブをして、きっと三十分くらいは走っていたはずなのにあっという間に目的地に着いた。時間の流れるスピードが速い。そう感じているのは紗良だけではなく、杏介もまた同じように思っていた。小高い丘の舗装された緩やかな階段を上っていくと開けたウッドデッキが広がる。小さな展望台になっていて、まわりは緑で囲まれており風が吹くたびに木々がサワサワと揺れる。ウッドデッキの手すりから顔を覗かせれば、公園の花壇に咲く花がよく見えた。「わあ、綺麗! 風が気持ちいい」「ここ飛行機がすぐ近くを飛ぶんだけど、知ってる?」「ううん、初めて来た。飛行機?」空を見上げればちょうど遠くの方に飛行機の影が見える。「あの飛行機こっち来るの?」「来るよ。きっと驚くと思う」しばらく飛行機の行方を追っていると、どんどん姿がはっきりして高度も落ちてくる。ゴォォォ――地響きのような爆音が耳を震わせ、同時に紗良の真上を飛行機が通り過ぎていく。それはもう、手を伸ばせば届くのではないかと思うほどに近い。「すごい! かっこいい! 飛行機の下、初めて見た!」「すごいよね。すぐそこに空港があるから、低い位置で飛行機が見られるんだって。ここ、休日になると飛行機を見るために結構賑わうらしいよ。今日は平日だから人がいないけど」「じゃあラッキーだったね。私と杏介さんで貸し切り」屈託なく笑う紗良は眩しいくらいに輝いていて、杏介はぐっと息をのむ。(この笑顔が見れるなら、本望だ――)紗良の笑顔は杏介の心をいとも簡単に絡め取る。紗良に癒やしを求めた。見ているだけでいいと思った。紗良の事情を知らずにラーメン店に通っていた日々が今となっては何だか懐かしい気さえする。紗良が一児の母だろうが、同僚からよく考えろと忠告されようが、そんな頭の片隅で燻っていたことは一瞬でもうどうでもよくなった。誰が何と言おうと、この気持ちは止められそうにないからだ。
「紗良、今日だけじゃなくて、これからも二人で出掛けないか?」「え?」「紗良、好きだよ」飛行機が通り過ぎた後の気流風が二人の間を抜けていく。 さっきあんなに近くに飛んでいた飛行機はあっという間に遠くへ行き、展望台には静寂が戻った。紗良はぎゅっとシャツの裾を握る。 杏介に「好き」だと言われて嬉しくないわけがない。 だってとっくに紗良も杏介のことを好きになっていたのだから。「……わ、わたし」紗良は考えあぐねるように杏介から視線を外す。 だがそれも定まらず、曖昧にさまよった後、また杏介の元へ行き着いた。本当はすぐにでも頷きたいしその逞しい胸に飛び込みたい。そう思うのに、杏介への気持ちは喉元で引っかかる。まるで魚の骨が刺さっているかのようにチクチクと痛い。「……海斗がいるから……」ようやく出てきた言葉は自分が思った以上に重くて残酷だった。 自分自身の心までもえぐり取られるような、そんな感覚に顔をしかめる。けれど杏介は、ふっと微笑んで紗良の頭をぽんぽんと優しく撫でる。「……わかってるよ。それでも俺は紗良が好きだよ。海斗のことももちろん好きだけど。……今一瞬だけ海斗のことを忘れて、紗良の本当の気持ちを聞かせてくれないか?」「……私も、好き。今、一瞬だけ海斗のことを忘れた私は、杏介さんのことが好きです。だけど、海斗を思い出した今は、杏介さんのことは好きだけどお付き合いはできないです」「そっか。でもよかった。俺のこと好きになってもらえて」「……杏介さんは、優しくてかっこよくて、……大好き」「……紗良」引き寄せられたのか自ら近寄ったのか。 唇から触れ合う体温は、甘く優しくあたたかだった。
展望台を下りると、公園の脇に小さな売店があった。飲み物やお菓子、空港に関連するグッズが控えめに並んでいる。「海斗、飛行機好きかな?」「乗り物は好きだから好きかも」「じゃあこれ、お土産で買ってあげよう」杏介は飛行機のデザインされたキッズ靴下を手に取る。いつも海斗のことを気にかけてくれる杏介のことをありがたく思いながら、紗良もお土産を選ぶ。「私は映画のチケットくれた同僚にお土産買おうかな」「紗良ってしっかりしてるよね」「そんなことないと思うけど、そう見えるならそれは海斗がいるから……なんだと思う」「今度は海斗も一緒に来ようか?」「うん、絶対喜ぶと思う。……でも、あの、……こんなこと言うのは矛盾してると思うんだけど……」「うん?」「また二人でデートして貰えますか?」こんなの自分勝手だと思っている。こんなに自分本意な考え方は迷惑極まりない。そう思ったけれど言わずにはいられなかった。今日で杏介との繋がりが消えてしまったら嫌だから。「お付き合いはできない」と断ったけれど、杏介を「好き」な気持ちは本当なのだ。杏介は一瞬驚いたような顔をしたものの、「もちろん、喜んで」と、くしゃっと笑った。優しさに溢れたその笑顔は紗良の胸をぎゅうっと締めつけ、涙がこぼれそうになった。
ほっとしている紗良と同様に、杏介もまた別の意味でほっとしていた。紗良に告白したのは『覚悟』を持ってのこと。紗良を好きになったら必然的に海斗もついてくる。海斗が邪魔だとか嫌だとか、当然そんな気持ちは持ち合わせてはいないが、いくら母親と一緒に育てているとはいえ子供がいたら普通のお付き合いができないのは想像できる。昼間は仕事を調整すれば会えるかもしれないけれど、夕方にはお迎えが待っている。休日には海斗がいる。泊りで出掛けることも、できないか、もしくは子供付き。それらをひっくるめて、杏介は『覚悟』を決めたつもりだった。それだけ紗良のことが好きだと思ったからだ。けれど紗良の意志は固い。杏介が思っているよりももっと意志が強くて、海斗への思いが深くて。そこへ足を踏み入れるにはハードルが高すぎた。(俺にはまだ紗良への愛情も海斗への愛情も、そして覚悟すらも足りないのかもしれないな)子持ちと付き合うというのは、前途多難なのかもしれない。杏介にとっても紗良にとっても。それぞれの想いがあり、決意があり。そしてその先に海斗がいて。「はあ、難しいな……」だから諦めるという恋ではないけれど。まだ紗良を好きになったばかりなのだ。紗良も杏介のことを好きだと言ってくれている。これからゆっくりと距離を詰めていくのも悪くないかもしれない。焦ることはない。紗良も杏介も、初めての恋だから。だからゆっくりと歩んでいく。二人の目指す未来はまだ見えなくとも。向いている方向は一緒なのだから。
職場で回ってきた忘年会のお知らせメールに、紗良は悩む間もなく欠席と返答をした。と同時に今回幹事である依美がすっ飛んでくる。「ちょっとちょっと~。紗良ちゃんもたまには飲み会出なよ~。ていうか少しくらい悩みなよ」「うーん、機会があれば、また……」「却下! もうちょっと考えてから返事しなさい!」「ええ~?」悩むことなんてないのに……と思いつつも、確かに職場の行事ごとにあっさりと返事をしすぎなのかもと考え、一応頭を捻ってみる。 けれどやはり参加するということが現実的ではなく、申し訳なくもそのまま欠席となった。社会人になってから飲み会の類は一度も参加したことがない。 それが嫌かと言われれば、そういうわけでもなくて……。学生の時に友達とご飯を食べに行ったりすることはあったけれど、社会人になってからそういうこともすっかりなくなった。急に誘いがなくなったわけではない。 行きたくないわけではない。だったらどうしてと、その根底を辿れば『海斗がいるから』に終始してしまうわけなのだが。自分が育てると決めたのだから、母にも迷惑はかけられない。 だから別にいいのだ、飲み会なんて行かなくたって。それで職場環境が悪くなるわけでもないし、紗良は海斗と母親と、三人で年越しをして慎ましやかな新年を迎える。 それがいつもの流れなのだから。ただ今年はいつもとはちょっと違って――。
【あけましておめでとう。今年もよろしく】そんなメッセージが杏介から届き、携帯を眺めてはニマニマ顔になっていた紗良を見た母親が紗良以上にニマニマとする。「ねえ、今年はお節作りすぎちゃったと思わない? 食べきれないから杏介くんでも呼んでちょうだいよ」「へっ? き、杏介さん?」急に出てきた名前にドキンと心臓が脈打ち、思わず携帯を落としそうになった。しかも変に動揺してしまう。「年末年始はプールもお休みでしょ?」「そうだけど、でも実家に帰るかもよ?」「聞くだけタダだし聞いたらいいじゃない」「う、うん」などと母親から誘導されるがまま紗良は杏介に連絡を取り、連絡を受けた杏介は喜び勇んで紗良宅へ訪問したのであった。「せんせー!」「海斗、あけましておめでとう」「あけましておめでとー」「ございます、でしょ。杏介さん、わざわざ来てもらってごめんね」「いや、新年から紗良に会えるなんて今年はいい年になりそうだなって思ったよ。あ、お母さん、あけましておめでとうございます。お邪魔します」「いらっしゃい杏介くん。さあ、あがってあがって」母に促され、杏介はリビングへ入る。テーブルの上には所狭しとおせち料理がずらりと並び、伊達巻や昆布巻き、なますなどが彩を添える。「ちょっとはりきって作りすぎちゃったのよ。だから食べてくれる?」「お母さんの手作りですか?」「そうなのよ。手作りだから味は雑かもしれないけどねぇ」「かいとはねぇ、たまごまいた! おてつだいした!」「おっ! すごいな。上手にできてる」「私はローストビーフ作ったんだけど、ちょっと味が濃くなっちゃったかも」「紗良も作ったの? すごいな。俺、全部食べるよ」それぞれの主張に杏介はひとつずつ丁寧に答え、「いただきます」とありがたく箸をつける。おせち料理なんて食べたことがないに等しかった杏介は、物珍しそうに少しずつ取り皿に盛った。色とりどりのおかずを前にした杏介の箸の行方を、紗良はドキドキとしながら見守る。「うん、美味い!」杏介がニッコリ笑うのを見て、ようやく紗良は胸を撫で下ろした。
病院へ駆けつけると入口で紗良と海斗が待っていた。「紗良!」「杏介さん、わざわざ来てもらってごめんなさい。私、動揺してしまって電話をかけちゃって」「そんなことはいいんだ。お母さんは?」「朝起きたらなんか変だなって思って慌てて救急車を呼んだの。脳梗塞が再発したみたいで……あまり状態はよくなくて」「再発……?」コクンと紗良は頷く。 紗良の母親に持病があり通院しているとは聞いていたが、それが脳梗塞だったとは知らず杏介は背中に冷たい汗が流れる。だが紗良は、電話の時のあの消えそうな声とは違いずいぶん落ちついている。「せっかく来てもらったんだけど、私、一度家に帰って入院の準備をしてきます。海斗もごめんね、一回家に帰ろうか」「うん。おなかすいた」「あっ、そうだよね。ご飯食べてなかったね」着の身着のまま、といったところだろうか。 紗良は普段着に着替えているが、海斗はどう見てもパジャマ姿だ。 朝早かったために寝ている海斗を抱えて連れてきたのだ。「俺コンビニで何か買っていくから、とりあえず家に戻りな。車で来てるんだろう?」「杏介さん……」そんな迷惑はかけられない、と首を横に振ろうとするも杏介は海斗の手を引いて駐車場へ歩き出す。 慌てて紗良も歩き出すが、ふと向けられる柔らかな視線。「紗良。一番に俺を頼れって言っただろ。気にするなよ」「……うん」緊張の糸が一気に切れた気がした。 紗良の目にはじわりと涙が浮かぶ。 杏介の袖を控えめに掴めば、杏介はそれを柔らかく絡み取ってしっかりと握った。「あー! せんせーとさらねえちゃんも、てぇつないでるー。かいとといっしょー!」海斗が無邪気に茶化し、紗良も杏介も沈んでいた気分が少しだけ上向きになるようでふふっと笑った。
まだまだ暑く夏真っ盛りのある日、朝早くに杏介のスマホが鳴った。 今日は遅番のためダラダラと布団に転がりながら起きようか起きまいかと迷っていたときだ。画面に表示された【石原紗良】という文字が目に飛び込んだ瞬間、一気に目が覚めた。「もしもし?」「杏介さん……、あの……」ひどく小さな声で言いづらそうにどもるため、杏介は起き上がってスマホに耳を傾ける。「紗良? どうした?」「あの、えっと……」何か伝えたそうなのに言葉が出てこない状況に杏介は眉をひそめる。「落ち着いて。ゆっくりでいいから」「うん、あの……実はお母さんが――」話を聞いた杏介は大慌てで着替えると、カバンひとつ、家から飛び出した。ドクンドクンと心臓が嫌な音を立てる。――お母さんが救急車で運ばれたの、どうしよう、杏介さん必死に伝えようとする紗良の声は震えていて、今にも消えてしまいそうな気がした。頼れと言ってもいつだって一人で頑張ってしまう。平気な顔をして一人で大丈夫だなんて、そんな風に笑い飛ばすくらいの紗良が、初めて杏介を頼った。 そんな気がした。海斗をかかえて一人で心細いのだろう。 杏介が行ったところでどうにかなるわけではないけれど、行かずにはいられなかった。いや、電話だけで済ますなんていう選択肢は最初からなかった。紗良のことだけではない。 海斗のことも、紗良の母親のことも、今どんな状況なのか気になって仕方がない。杏介にとっては紗良も海斗も母親も、大切な存在なのだ。 杏介に欠けていた、いや、知らなかった、家族のあたたかさを教えてくれた人たちだから――。
「俺を頼ってくれないか? 俺が紗良を支えるから」「…その申し出は嬉しいけど、子供ってね結構お金がかかるんだよね。私は海斗を引き取った以上、海斗に不自由な生活はさせたくないと思ってる。これは親としての私の責任なの。だから杏介さんに迷惑をかけたくないんだ。気持ちだけで十分救われる。ありがとう」ニコリと微笑む紗良だったが、無理をしているのだろういうことが見て取れ、杏介は胸が痛んだ。紗良に告白し断られてからも、杏介なりにいろいろ考えたり考えさせられることがたくさんあった。 だけど紗良を好きだという気持ちは変わらないでいる。口説いてみせるといいながら全然口説けていない自分が情けない。一緒にどこかへ出掛けたりこうして仕事終わりに会って話をしたり、そうやってまるで付き合っているかのように錯覚してしまうが、結局紗良の気持ちはあの時から全然変わっていないのだと感じて悔しくなった。「家まで送るよ」「いいよ、すぐそこだし」「これは紗良を大事にするっていう俺の気持ちだから」「……ありがとう」「……何かあったら一番に俺を頼れよ」「うん、わかった」そっと紗良の頭を撫でれば紗良は上目遣いでニコリとはにかんだ笑顔を見せる。 杏介の疲れを癒してくれる魔法のような笑顔。 心臓を掴まれるようなどうしようもなく愛おしい感情がわっと押し寄せてきて、撫でていた頭をぐいっと引き寄せた。「わわっ」紗良はバランスを崩して杏介の胸にダイブする。 しっかりと抱きしめられて困惑気味に「杏介さん?」と呟けば額に触れる柔らかな唇。「おやすみ、紗良」「……おやすみなさい、杏介さん」家の前でバイバイと手を振って別れたが、紗良はしばらくその場を動くことができなかった。 口づけられた場所をそっと手で触る。 後から後からどうしようもなく心臓が騒ぎ出して胸がいっぱいになった。「私、なんで……」なんでこんなにも胸が苦しいのだろう。 つらい苦しさではない、もっと胸がきゅっとなって体の奥から湧き上がるような気持ち。これが、愛しさとでもいうのだろうか――。
毎日の負担に加えて土日はラーメン店でのアルバイトがある。本業の仕事が忙しくなるにつれていろいろと余裕がなくなり、気づけば紗良はバイト先で杏介に会えることが唯一の楽しみになっていた。季節は夏。夏の夜でも暑さは昼間よりほんの少し和らいだ程度。仕事終わりにコンビニの前で立ち話をしていてもじわりと汗が滲む。「杏介さん、ぎゅってしてもいい?」「いいけど、どうした?」「ちょっと疲れちゃって……充電させて?」紗良から積極的に杏介に甘えるのは珍しい。一歩近づいた紗良を、杏介は優しく腕に絡め取った。思ったよりも華奢な紗良と思ったよりも筋肉質な杏介。ぎゅっとさせてと言ったのは紗良の方なのに、ドキドキと鼓動は速くなる。今は夏で夜でも汗ばむというのに、二人くっついている感覚は不思議と暑さを感じない。むしろ肌のぬくもりが心地良いとさえ感じてしばし微睡んだ。「紗良?」コテンと杏介の胸に頭を預ける紗良が微動だにせず杏介は声をかける。「――紗良」「はっ!」呼ばれて慌てて頭を上げる。「大丈夫?」「なんか気持ちよすぎて一瞬寝ちゃってた気がする」「前から思っていたけど、働きすぎなんじゃないか?」「そんなことないよ」「バイト、続けないとダメなのか? ダブルワークはしんどいだろう?」「うん……でも、やめたら……困っちゃうし。私が働かないと」アルバイトを辞める選択肢を考えたことがないわけではない。実家暮らしで母親と共同生活をしているため派遣の給料で賄えないことはないのだ。けれど海斗が成長するに従って必ずお金はかかる。小学校、中学校、高校と、今のうちに貯金できるならしておくことに越したことはない。そう思って続けているのだけど。最近は本業の方が忙しく疲れがたまっていることを自覚している。松田が上司に人を雇ってほしいと申し入れたが、なかなか難しいようだ。
分担した仕事は思いのほか重く、残業のできない紗良は毎日必死にこなしていた。 いくらまわりにサポートするからと言われても未経験の作業を教えるには時間がかかるし、効率的ではない。 紗良とて慣れない作業が発生しているため、自分のことで精一杯なのだ。最初、二週間の期間限定だという話だったが、気づけばそれは一ヶ月に延び、さらに二ヶ月目に入ろうとしていた。さすがにそこまで時間が経てば紗良も時間配分など上手くさばけるようになってくる。 だがそれは余裕で仕事ができているわけではなく、努力して頑張っているからだ。 当然、松田然りである。そんなとき、再び主任に呼び出された紗良と松田は、依美が切迫流産で入院すると聞かされた。 そのため、負担は変わることなくそのまま紗良と松田の仕事になってしまった。「岡本さん、妊娠してたのね。まあ、薄々そんなんじゃないかと思っていたけど」「そうなんですか? てっきり大病でも患ったのかと思ってました」「切迫も大変だけどねー。無事に乗り越えられるといいわよね」「本当ですよね」「まあでも、私たちの負担は変わらずだなんて、主任もひどいと思わない? 他に人雇ってくれたらいいのにねぇ」「松田さんは仕事大丈夫です? だいぶ負担じゃありません?」「しんどすぎでしょ。もうお婆だからさ、無理させないでほしいわよ。しかも帰ったら親の介護が待ってるのよ。ほんとしんどいったらありゃしない。そういう石原さんこそ、息子さんいるんでしょ」「はい、なかなかにバタバタな日々を送っています」「やっぱり私、主任に訴えてくるわ。もう一人雇ってくださいって。だいたい派遣の私たちに仕事押しつけすぎなのよ。ねっ?」「……そう、思います」決して依美が悪いわけではないことはわかっている。 わかってはいるのだが、一言くらいメッセージをくれてもいいのに、と紗良は小さくため息をついた。 疲れはピークに達していた。
ゴールデンウィーク明け出勤すると、いつも元気いっぱいの依美が休暇だった。紗良と依美は昼食もよく一緒に食べる。だからどちらかが休暇を取るときは事前に伝えておくか、メッセージなどで連絡をすることにしている。今日は依美からの連絡はないけれど、連休を繋げて長期連休にする社員も多いし、そんな時もあるだろうとさほど気にしていなかった。だが依美は翌日も休み、さらには翌週になっても出勤してこない。さすがに気になってメッセージを送ってみるも、まったく返事はなかった。どうしたのだろうと心配で何度もスマホを確認するが、何度メッセージを送っても返ってくることはなかった。「石原さん、松田さん、ちょっといいかな?」主任から声をかけられ、二人面談室に入る。松田も紗良と同じチームで働く、年配の派遣社員だ。「岡本さんなんだけど、体調不良でしばらく出勤できそうにないんだ。悪いけど、その間の仕事を分担して欲しい。少し大変になるかとは思うけど……」紗良と松田は顔を見合わせる。二人とも残業は無しという契約のため、増える作業量を定時間内にこなせるのか不安が過った。「岡本さん、大丈夫なんです? 私たち残業できないのであまり仕事が増えると捌ききれるかわかりませんけど?」松田が懸念事項を告げてくれたため、紗良も同意見だと大きく頷く。「とりあえず二週間お休みになるから、その間だけ頑張ってほしい。もちろん、契約通り定時で帰ってもらってかまわないよ。それに、我々もサポートするから」「……はい」としか返事はできなかった。しょせん紗良は派遣社員。与えられた仕事を請け負うことが仕事なのだ。「岡本さん心配ね。石原さん何か事情聞いてないの?」「はい、私も心配で何度かメッセージを送ったんですけど、返事がないんです」「そうなの。まあとりあえず分担して頑張りましょうか。復帰したらランチでもおごって貰わなきゃね」茶目っ気たっぷりに松田が言うので、紗良も「そうですね」と笑った。
「……杏介さんがいてくれたらいいのにって思っちゃって。……呆れちゃうよね?」「いや、どうして?」「だって、そんな都合のいい話はないじゃない」「都合よく俺のこと好きでいてもらえると嬉しいけど」「私は杏介さんが好きだけど、でもそれは心の奥底では海斗の父親を求めているのかもしれない。そんな風に考えちゃう自分が嫌なの。……ごめんなさい」胸がヒリヒリと痛かった。紗良が誰かを好きになるということは必ず海斗がセットでついてくる。 紗良は誰かに海斗の父親を求めてはいないけれど、海斗を切り捨てることは絶対にない。 この先一緒に生きていくには結局のところ海斗の父親になってもらうということ。 たとえ表面上でも、だ。けれど杏介は「いい」という。杏介の優しさが紗良の鼻の奥をツンとさせた。「そんな風に謝るなよ。俺はそうやって利用してもらっても構わないよ。その話を聞いてますます紗良が好きになった」「……好きになる要素がどこにあるの?」「いいんだ。俺が好きだから。紗良がなんと言おうと口説いてみせるよ。だからまたこうしてデートしよう」「……うん、ありがとう」今度こそ紗良は鼻をすする。 こんなにも理解があって優しい人が、自分のことを好きだと言ってくれる。 待っていてくれる。 その事実がありがたいし申し訳ない。「くそ、今が運転中じゃなければ抱きしめられたのに」「物好きだよね、杏介さんって」「そうかな?」「そうだよ。普通こんな女面倒くさいでしょ」「うーん」杏介は首を傾げる。 ちょうど信号で止まり、ずっと前を向いていた杏介が紗良を見た。 視線が絡まると杏介の目元はくっと緩み、紗良の胸はドキンと悲鳴を上げる。杏介はすっと腕を伸ばし、紗良の髪を優しく撫でた。 ぐいっと引き寄せたいのを我慢し、代わりに心からの想いを告げる。「好きだよ、紗良」「っ!」そんなストレートな言葉は紗良の心を優しく包み込む。 とんでもなく胸がしめつけられて体の奥底から熱いものが込み上げてくるような、そんな気持ちになった。
お互いのことをよく知らない。表面上はよくわかっていても、その生い立ちや家庭環境までは踏み込んでいない。(杏介さんのこと、もっと知りたいかも……)そう思うのと同時に、紗良は自分のことも知ってもらいたいと思った。好きだから知りたい、好きだから知ってもらいたい。付き合うことはできないと断った後もこうして一緒にお出かけして、まるで付き合っているのと変わらないような関係が続いていることに自分自身喜びを覚えている、この矛盾した生活。自分のことを伝えたら杏介は呆れるだろうか。この関係は崩れるだろうか。だったとしても、今、伝えたい気がした。ずっと燻っている、紗良の気持ちを。紗良は海斗がぐっすり眠っているのを確認してから口を開く。「あのね、うちの両親は離婚してるの。私は母子家庭だけどお母さんが明るすぎて父親の存在なんて忘れちゃうくらい」「確かに、紗良のお母さんは底抜けに明るいよな」「でしょう。だからね、海斗を引き取るときも大丈夫だと思った。私もお母さんみたいにやれるって思ったの。でも実際はすごく大変でお母さんに頼ることも多くて全然できてないけど、でも私なりに頑張ってて……」「うん、すごいと思うよ。だって最初に出会ったときは海斗の本当の母親だと思ったから」「そう言ってもらえて嬉しいんだけど。でもね、最近はダメなの……」紗良は杏介を見る。運転している杏介の横顔は夕日に照らされてキラキラと眩しく、それでいて頼もしくかっこいい。(ああ、私ってこんなにも杏介さんのことが好きなんだ……)自覚すると胸がきゅっと苦しくなる。伝えるべきなのか、どうなのか迷う。だが杏介は「何がダメ?」と優しく問うた。
「 俺さ、母親がいないんだよね」「え?」「いや、正確にはいるんだけど。幼いころに病気で亡くなって父子家庭で育ってさ、数年後に父親は再婚したんだけど、新しい母親と上手くいかなくて。……いや、上手くいかないっていうか、俺が毛嫌いしているだけなんだけど。だからそういうお弁当は憧れだったんだ。長年の夢が叶ったような、そんな気持ち、かな」「そう、だったんだ」「引いた?」「ううん、全然。私、杏介さんのこと全然知らなかったんだなって思って」「そうだよな。あんまりこういう話ってしないし。まあ聞いてもつまらないと思うけど」世の中にはいろいろな人がいる。 誰一人として環境が同じなわけではない。 そんなことはわかっているけれど、紗良のような家庭環境は珍しいのではないかとどこかでそう思っていた。 きっと杏介も『普通』の家庭なのだろうと決めつけていた。 そんな風に考えていた自分を反省する。「……私たちってお互いのこと全然知らないよね」「そうかもしれないな」紗良は姉の子供の海斗を育てていて、実家暮らしで母と住んでいる。 平日は事務の仕事をしていて土日はラーメン店でアルバイト。杏介は海斗の通うプール教室の先生で、仕事終わりに紗良の働くラーメン店へよく訪れる常連客。 そして一人暮らし。今までの付き合いからこれくらいの情報はお互いに知っている。 けれどそれ以上深く聞くこともなかったし、自ら語ることもなかった。それがいいのか悪いのかわからないけれど、紗良の知らなかった杏介の内面の話は紗良の固定概念を崩すには十分だった。