「紗良、今日だけじゃなくて、これからも二人で出掛けないか?」「え?」「紗良、好きだよ」飛行機が通り過ぎた後の気流風が二人の間を抜けていく。 さっきあんなに近くに飛んでいた飛行機はあっという間に遠くへ行き、展望台には静寂が戻った。紗良はぎゅっとシャツの裾を握る。 杏介に「好き」だと言われて嬉しくないわけがない。 だってとっくに紗良も杏介のことを好きになっていたのだから。「……わ、わたし」紗良は考えあぐねるように杏介から視線を外す。 だがそれも定まらず、曖昧にさまよった後、また杏介の元へ行き着いた。本当はすぐにでも頷きたいしその逞しい胸に飛び込みたい。そう思うのに、杏介への気持ちは喉元で引っかかる。まるで魚の骨が刺さっているかのようにチクチクと痛い。「……海斗がいるから……」ようやく出てきた言葉は自分が思った以上に重くて残酷だった。 自分自身の心までもえぐり取られるような、そんな感覚に顔をしかめる。けれど杏介は、ふっと微笑んで紗良の頭をぽんぽんと優しく撫でる。「……わかってるよ。それでも俺は紗良が好きだよ。海斗のことももちろん好きだけど。……今一瞬だけ海斗のことを忘れて、紗良の本当の気持ちを聞かせてくれないか?」「……私も、好き。今、一瞬だけ海斗のことを忘れた私は、杏介さんのことが好きです。だけど、海斗を思い出した今は、杏介さんのことは好きだけどお付き合いはできないです」「そっか。でもよかった。俺のこと好きになってもらえて」「……杏介さんは、優しくてかっこよくて、……大好き」「……紗良」引き寄せられたのか自ら近寄ったのか。 唇から触れ合う体温は、甘く優しくあたたかだった。
展望台を下りると、公園の脇に小さな売店があった。飲み物やお菓子、空港に関連するグッズが控えめに並んでいる。「海斗、飛行機好きかな?」「乗り物は好きだから好きかも」「じゃあこれ、お土産で買ってあげよう」杏介は飛行機のデザインされたキッズ靴下を手に取る。いつも海斗のことを気にかけてくれる杏介のことをありがたく思いながら、紗良もお土産を選ぶ。「私は映画のチケットくれた同僚にお土産買おうかな」「紗良ってしっかりしてるよね」「そんなことないと思うけど、そう見えるならそれは海斗がいるから……なんだと思う」「今度は海斗も一緒に来ようか?」「うん、絶対喜ぶと思う。……でも、あの、……こんなこと言うのは矛盾してると思うんだけど……」「うん?」「また二人でデートして貰えますか?」こんなの自分勝手だと思っている。こんなに自分本意な考え方は迷惑極まりない。そう思ったけれど言わずにはいられなかった。今日で杏介との繋がりが消えてしまったら嫌だから。「お付き合いはできない」と断ったけれど、杏介を「好き」な気持ちは本当なのだ。杏介は一瞬驚いたような顔をしたものの、「もちろん、喜んで」と、くしゃっと笑った。優しさに溢れたその笑顔は紗良の胸をぎゅうっと締めつけ、涙がこぼれそうになった。
ほっとしている紗良と同様に、杏介もまた別の意味でほっとしていた。紗良に告白したのは『覚悟』を持ってのこと。紗良を好きになったら必然的に海斗もついてくる。海斗が邪魔だとか嫌だとか、当然そんな気持ちは持ち合わせてはいないが、いくら母親と一緒に育てているとはいえ子供がいたら普通のお付き合いができないのは想像できる。昼間は仕事を調整すれば会えるかもしれないけれど、夕方にはお迎えが待っている。休日には海斗がいる。泊りで出掛けることも、できないか、もしくは子供付き。それらをひっくるめて、杏介は『覚悟』を決めたつもりだった。それだけ紗良のことが好きだと思ったからだ。けれど紗良の意志は固い。杏介が思っているよりももっと意志が強くて、海斗への思いが深くて。そこへ足を踏み入れるにはハードルが高すぎた。(俺にはまだ紗良への愛情も海斗への愛情も、そして覚悟すらも足りないのかもしれないな)子持ちと付き合うというのは、前途多難なのかもしれない。杏介にとっても紗良にとっても。それぞれの想いがあり、決意があり。そしてその先に海斗がいて。「はあ、難しいな……」だから諦めるという恋ではないけれど。まだ紗良を好きになったばかりなのだ。紗良も杏介のことを好きだと言ってくれている。これからゆっくりと距離を詰めていくのも悪くないかもしれない。焦ることはない。紗良も杏介も、初めての恋だから。だからゆっくりと歩んでいく。二人の目指す未来はまだ見えなくとも。向いている方向は一緒なのだから。
職場で回ってきた忘年会のお知らせメールに、紗良は悩む間もなく欠席と返答をした。と同時に今回幹事である依美がすっ飛んでくる。「ちょっとちょっと~。紗良ちゃんもたまには飲み会出なよ~。ていうか少しくらい悩みなよ」「うーん、機会があれば、また……」「却下! もうちょっと考えてから返事しなさい!」「ええ~?」悩むことなんてないのに……と思いつつも、確かに職場の行事ごとにあっさりと返事をしすぎなのかもと考え、一応頭を捻ってみる。 けれどやはり参加するということが現実的ではなく、申し訳なくもそのまま欠席となった。社会人になってから飲み会の類は一度も参加したことがない。 それが嫌かと言われれば、そういうわけでもなくて……。学生の時に友達とご飯を食べに行ったりすることはあったけれど、社会人になってからそういうこともすっかりなくなった。急に誘いがなくなったわけではない。 行きたくないわけではない。だったらどうしてと、その根底を辿れば『海斗がいるから』に終始してしまうわけなのだが。自分が育てると決めたのだから、母にも迷惑はかけられない。 だから別にいいのだ、飲み会なんて行かなくたって。それで職場環境が悪くなるわけでもないし、紗良は海斗と母親と、三人で年越しをして慎ましやかな新年を迎える。 それがいつもの流れなのだから。ただ今年はいつもとはちょっと違って――。
【あけましておめでとう。今年もよろしく】そんなメッセージが杏介から届き、携帯を眺めてはニマニマ顔になっていた紗良を見た母親が紗良以上にニマニマとする。「ねえ、今年はお節作りすぎちゃったと思わない? 食べきれないから杏介くんでも呼んでちょうだいよ」「へっ? き、杏介さん?」急に出てきた名前にドキンと心臓が脈打ち、思わず携帯を落としそうになった。しかも変に動揺してしまう。「年末年始はプールもお休みでしょ?」「そうだけど、でも実家に帰るかもよ?」「聞くだけタダだし聞いたらいいじゃない」「う、うん」などと母親から誘導されるがまま紗良は杏介に連絡を取り、連絡を受けた杏介は喜び勇んで紗良宅へ訪問したのであった。「せんせー!」「海斗、あけましておめでとう」「あけましておめでとー」「ございます、でしょ。杏介さん、わざわざ来てもらってごめんね」「いや、新年から紗良に会えるなんて今年はいい年になりそうだなって思ったよ。あ、お母さん、あけましておめでとうございます。お邪魔します」「いらっしゃい杏介くん。さあ、あがってあがって」母に促され、杏介はリビングへ入る。テーブルの上には所狭しとおせち料理がずらりと並び、伊達巻や昆布巻き、なますなどが彩を添える。「ちょっとはりきって作りすぎちゃったのよ。だから食べてくれる?」「お母さんの手作りですか?」「そうなのよ。手作りだから味は雑かもしれないけどねぇ」「かいとはねぇ、たまごまいた! おてつだいした!」「おっ! すごいな。上手にできてる」「私はローストビーフ作ったんだけど、ちょっと味が濃くなっちゃったかも」「紗良も作ったの? すごいな。俺、全部食べるよ」それぞれの主張に杏介はひとつずつ丁寧に答え、「いただきます」とありがたく箸をつける。おせち料理なんて食べたことがないに等しかった杏介は、物珍しそうに少しずつ取り皿に盛った。色とりどりのおかずを前にした杏介の箸の行方を、紗良はドキドキとしながら見守る。「うん、美味い!」杏介がニッコリ笑うのを見て、ようやく紗良は胸を撫で下ろした。
「あ、白ご飯も食べるよね? お茶も持ってくるね」「かいともおてつだいするー」紗良と海斗はキッチンへパタパタと駆けていく。 そんな様子を見た母親は人知れずクスクスと笑った。まったく我が娘ながら、杏介に対してこんなにも初心な表情をするなんて――。「お口に合ってよかったわぁ」「はい、どれも美味しいし、どれから食べていいか迷いますね。実はおせち料理を食べるのは初めてで……」「あら、そうなの? まあ、一人暮らししてると食べないわよねぇ」「それもそうなんですけど、お恥ずかしながらあまり家族と仲が良くなくて。だからこうしてお正月に集まってご飯を食べることが新鮮で嬉しいというか。あの、本当にありがとうございます」「あら、じゃあご実家には帰ってないの?」「帰ってないですね」「だったらこれからも家に来たらいいわよ。紗良も海斗も喜ぶし。もちろん私も、ね」「ありがとうございます」「あ、でもご両親に申し訳ないかしら? 杏介くん独占して」「そんなことはないです。本当にありがたい話です」ぽろっと零れてしまった杏介の家族の話。 不穏な空気を感じながらも、紗良の母親はそれ以上深く聞くことはなかった。 杏介もそれ以上語るつもりもなく、何事もなかったかのように和やかに空気が流れる。「せんせー、おちゃもってきたー」「海斗、こぼれてるこぼれてる!」「あら海ちゃん、新年早々お着替え?」「わー! 海斗ー!」急に慌ただしく大人たちが騒ぐ中、海斗はコントのようにお茶をこぼしまくり、全員の初笑いを持って行った。紗良にとっても杏介にとっても、とても心穏やかなお正月だった。
◇休みボケもそこそこに、仕事も保育園も始まり慌ただしい日々が戻ってきた。朝の渋滞を抜けダッシュで出勤するのもいつも通りだ。「紗良ちゃん、あけおめー」「依美ちゃん、今年もよろしくね」「ねえねえ、去年の忘年会でさ、彼氏できちゃった」「えっ! すごい、おめでとう」依美は秋ごろ、彼氏が浮気しているからもう別れると宣言していた。そしてもっといい男をゲットすると意気込んでもいた。それがこんなにも早く彼氏ができるとは、驚きと共に積極的な依美らしいなと紗良は思った。「たまたま別部署の人たちも同じお店でね、合同忘年会になったわけ。で、色々話してたら彼と意気投合してさ~」「すごい、そんな偶然あるんだね」「ね、びっくりだよね。運命感じちゃうよ」「うんうん、本当にそうだよね」依美はとても楽しそうで休み前に会った時より生き生きとしている。彼氏と別れると言っていた依美は少し落ち込んでいるように見えていたので、短期間での依美の行動力には脱帽だ。「ねえ、紗良ちゃんはプールの先生とどうなったの?」ドキリと胸がざわめく。どう、かと言われれば、告白されて断った事実がある。けれどお正月には家に呼んで一緒にお節を食べたというなんとも不思議な関係が続いている。それを表現するには難しく、ぐるりと考えた挙句、紗良はいたって平静に答えた。「……どうもなってないけど?」「そうなんだ? じゃあさ、 誰か紹介してあげようか?」「え?」「彼氏の部署男だらけらしくって、彼女募集中の人いるみたいよ。飲みに行くだけでも行ってみたらどう? 楽しいよ」「いやいや、私には海斗がいるから」「またすぐそうやって子供を出す。最近は子持ちだって敬遠されないってば」 「別にいいんだって。彼氏欲しいだなんて思ってないし」「事情があって育ててるのはわかるけどさ、何か自己犠牲に酔ってない? そんなことじゃ子どもが大きくなって手が離れたときに何も残らないよ。だって紗良ちゃんまだ若いんだし」「……海斗が無事に育ってくれたらそれで十分だよ」笑ってやり過ごすも、急に得も知れぬ不安に襲われた。(……それで十分だよね?)ドクンと心臓が変な音を立てる。
大学を卒業後、企業に就職が決まっていたけれど、そこは残業も転勤も有り得る仕事だった。 入社直後から育児勤務を使えるわけもなく、子供を育てながらバリバリ働くのは無理だと判断して辞退することにした。残業がなくて時間固定で家から近くて――。そんな条件を叶えてくれるのは登録型の派遣社員だった。 正社員に比べたら、ボーナスも昇級もなく給料は低め。 それでも無駄遣いさえしなければきっとやっていけるだろうと思って決断した。 だが実際働き始めて、やはりそれだけじゃ心もとない気がして週末はアルバイトも始めた。 それが今の紗良の生活スタイルだ。すべて海斗のため。 海斗が不自由なく暮らしていくため。そう思っていたのだけれど。(海斗が手を離れたら……?)依美に言われるまで気がつかなかった。 というより、目先のことでいっぱいでそんな先のことまで考える余裕はなかった。海斗が成長し紗良の手を離れたら、いったい自分には何が残るというのだろう。十年、いや二十年後、そんなころにはもう紗良だって若くない。 再就職も難しくなってくる。 それに、いつまでもかけもちのバイトはつらいだろう。(私、ちゃんと考えてなかったのかも……)それは仕方のないことかもしれない。 なにより海斗を育てるということがイレギュラーな出来事だったのだ。目先のことばかりで自分の未来をちゃんと考えていなかったのは、当然といえば当然といえよう。(……杏介さん)脳裏に一瞬浮かんだ杏介の顔に、紗良は人知れず心を揺らした。
翌日、杏介は一人で病院を訪れていた。「杏介くんにまで迷惑かけちゃってごめんねぇ」一般病棟に移った紗良の母は相変わらず元気でニコニコと笑う。 一時失語症があったとは思えないくらいに回復していた。「お母さんには早く元気になってもらわないと」「これからリハビリも始まるのよ。見てよ、まだ全然左側が動かないの。わたし、呂律も回ってるかしら?」「ええ、ちゃんと聞き取れますよ」杏介は持ってきたタオルやパジャマを棚に片づける。 洗濯物としてまとめられていたビニール袋を持ってきたバックに代わりに入れた。 こうやって親のために何かをすることは初めてな気がして杏介は少し緊張した。 もちろん本当の親ではないけれど、それでも自分の母親と同世代の紗良の母の世話をすることはなんだか感慨深いものがある。「ねえ、 杏介くんから見て紗良って無理してない?」「無理してますね」「やっぱり? あの子意外と頑張り屋さんなのよ。一人で何でもやろうとしちゃって」「そう思います。僕も紗良さんの力になりたいんですけど、全然頼ってもらえなくて」杏介は頷く。 今日ここに杏介が来ることになったのも、遠慮した紗良を遮って杏介が強引に決めたことなのだ。 「ねえ杏介くん、紗良のこと好いてくれてありがとうね。親はいくつになっても子供のことが気になっちゃってねぇ」ふふふ、と紗良の母は笑う。 その表情はとてもやさしくて、眩しく見えた。「いえ、羨ましい……気がします」「そういえば杏介くんはあまり親と上手くいってないんだっけ?」「そうですね。僕が避けているというか……」言葉を濁すと母はぶはっと吹き出した。「あはは! 親はいなくとも子は育つってね。いいんじゃない、そういう人生もありよね」「そうですか? 僕はちょっと後悔もしていたりして――」「あら、そうなの?」「……出来れば仲良くやりたかったですね。今更ですけど」「そっかぁ。でも今からでも遅くないかもね? まあ頑張りなさいって」母は動く右手で杏介の腕をバシンと叩いた。 とても病人とは思えない力強さに驚くと共に勇気づけられるようだ。「お母さん、お元気でなによりです。すぐ退院できるといいですね」「そうでしょう? 元気だけが取り柄なのよ、私。動かないのが利き手じゃなくてよかったわ」紗良の母は明るく笑う。 杏介はその笑顔を見ている
杏介は交換するタオルやパジャマ一式を紗良から受け取ると、「じゃあ」と言って踵を返す。「あっ、杏介さん」「うん?」「あ、えと、おやすみなさい」杏介は紗良の髪をひと撫でする。 サラサラの髪の毛はふわりとシャンプーが香り、杏介の胸をドキンと揺らして引き留めようとした。 最近では以前にも増して頻繁に会っているというのに、どういうわけか胸の高まりは押さえられそうにない。おもむろに肩を引き寄せればポスンと杏介の腕の中におさまる紗良。「おやすみ、紗良」そっと耳元で囁いてから頬にキスを落とす。 お互い名残惜しさを感じつつも笑顔で別れた。部屋に戻れば海斗がまだ真っ赤な顔をしつつも元気そうに寄ってくる。「だれかきてたー?」「うん、先生からお見舞いもらったよ。何か食べる?」「ヨーグルトたべる。かいともせんせーにあいたかった」「先生も会いたがってたよ。でも風邪うつったら困るでしょ」「はやくほいくえんいきたい」「熱が下がったらね。ヨーグルト食べたら頑張って寝よっか」ずっしりと重たい袋から海斗の好きなアロエヨーグルトを取り出す。 奥の方には紗良の好きなとろけるプリンが入っていた。「私も食べようかな……」紗良は海斗と並んでとろけるプリンをいただく。 甘くてなめらかで口の中でつるんと溶ける優しい味わいに胸がいっぱいになった。
「ごめん紗良、常識ない時間だった」「ううん、大丈夫。どうしたの?」「これ、海斗にと思って」杏介はコンビニで買った袋を紗良に手渡す。 ずっしりと重い袋の中には数種類のゼリーとヨーグルトが入っている。「こんなにいっぱい?」「熱だとあんまり食べれないかもと思って」「ありがとう。海斗がすっごく喜ぶと思う」「海斗、大丈夫? もう寝てる?」「まだ起きてるよ。お熱が下がらなくてなかなか寝れないみたい。アニメ見てる」「そっか。紗良も気をつけて。何かあったらすぐ連絡して。俺にして欲しいことはない?」「大丈夫だよ」紗良はニッコリと笑う。 いつも一人で抱え込む癖のある紗良は、どうしたって弱音を吐かない。 それを杏介もわかってきているため、困ったように眉尻を下げた。「お母さんそろそろ一般病棟に移るんじゃないのか?」「うん、明日移るって」「行った方がいいんだろ?」「そうなんだけど、さすがに行けないかなって。風邪のウイルス持ち込むわけにはいかないもの」「じゃあ俺が行く。紗良の代わりに」「でも杏介さん仕事――」「そういうのは言いっこなしな」紗良の言葉を途中で遮り、杏介は強引に決める。紗良のためだけではない。 杏介にとっても紗良の母親は大切な存在だ。 自分の母と上手く接することができなかった杏介を非難することなく受け入れてくれ、なおかつ自分を息子の様に気遣ってくれる。そして石原家は、杏介が焦がれた家族のあたたかさを教えてくれる大事な場所なのだ。
母の容態に変化はなく、これ幸いにと海斗の迎えの後に病院に寄ることが日課になった。面会はほんの数分。 まだICUに入っている母は左手足と軽い失語症があるが、見た目元気そうな姿で紗良と海斗が来るのを喜んだ。 順調にいけばもう明日にでも一般病棟に移るかというところ。そんな矢先、海斗が熱を出してしまった。 突然の熱は保育園児にはよくあること。とはいうものの、数日前から海斗は鼻を何度もすすったりくしゃみが多くなったりはしていた。さすがにお見舞いに行くのは止めておかないとと思っていたらこのざまだ。土曜のプール教室を休んだことで、すぐに杏介から紗良に連絡がある。「海斗、どうかした?」「うん。保育園で風邪をもらったみたい。夏になるとよく流行るアデノウイルスだって」保育園でも流行っているし、プール教室でも静かに流行っているため杏介はなるほどと納得する。 仕事帰りにコンビニにより、ゼリーやヨーグルトを適当に買って石原家へ寄った。しんと静まり返っている石原家のインターホンを鳴らそうとして杏介は出しかけた手を一度ひっこめる。 時刻は二十一時。 杏介にとってはなんでもない時間だが、海斗はもう寝ているかもしれない。紗良に電話をかけて呼び出すと、カチャリと小さく音がしてもうパジャマ姿の紗良がそろりと顔を出した。
紗良と海斗はシングルの布団を隣同士くっつけて寝ている。 今日は海斗が紗良の布団にもぐり込んできた。「さらねえちゃん、てぇつなご」「うん、いいよ」ぎゅっと握ると海斗はえへへと笑う。 それほど大きくはない紗良の手だが、海斗に比べたらしっかり大人の手。 その手の中にまだ未熟な海斗の小さくて柔らかい手が包まれる。(可愛いな)そんなことを思っている間に海斗は手を繋いだまますぐに寝てしまった。いつも土日は二十二時までアルバイトで、紗良が帰る頃には海斗は寝ている。 寝かしつけは母に任せていたのだが、今までどうやって寝ていたのだろうか。 母がいるから大丈夫だろうと思っていたが、本当は寂しかったのだろうか。怒濤のような一日が終わり、しんとした室内。 母がいない、海斗と二人きりの夜。 やけに静かでもの悲しい。 あれこれと浮かぶ心配事に紗良は眠れないでいた。(ここに杏介さんがいてくれたら……)昼間は杏介が駆けつけてくれて、紗良は本当に心強くてたまらなかった。 杏介がいるというだけでほっとしたし安心した。 いつの間にこんなに弱くなったのだろうか。(私はもっと強くて一人でも平気だと思っていたのに)得も知れぬ不安が紗良を襲い胸を締めつけていく。 母のことも海斗のことも、これからの生活のことも。 すべてが重く暗い闇に飲み込まれて、その重圧で押しつぶされそうになる。じわりと滲む涙を拭い、大きく息を吐き出す。 なにもかも一筋縄ではいかない。海斗を引き取るとき、生半可な意思ではなかった。 けれど育ててみて直面するイレギュラーな事態は予想以上に多い。母の脳梗塞再発だって、一回目の脳梗塞の時に医師から言われていた事。 再発する可能性もあります、と。忘れていたわけではない。 油断していたわけでもない。 それでも現実に直面するとこんなにも心が苦しくなるなんて。紗良は枕元に置いてあったイルカのぬいぐるみを手繰り寄せる。 ぎゅっと抱きしめればなぜだか心が少しだけ落ちつくような気がした。
夕方になっても全然お腹はすかなかった。 けれど海斗がいる手前、夕飯を抜くわけにはいかない。ひとまず海斗と一緒にお風呂に入ってから簡単に夕飯の準備を始める。 と、紗良の背後に静かに海斗が立っていた。「ん? どうしたの、お腹すいた?」「さらねえちゃん、いまからおしごといくの? かいとひとり?」「今日は行かないよ。お休み。おばあちゃんもいないし、海斗ひとりにできないでしょう?」海斗はおもむろに紗良のシャツの裾をぎゅっと握る。 紗良は何事かと首を傾げた。「……ごめんなさい」「え、なにが?」「かいとがひとりでおるすばんできないから、さらねえちゃんがおしごといけなくてごめんなさい」「え? やだ、そんなのいいんだってば。私だって仕事なんかより海斗と一緒にいたいし。海斗のせいじゃないんだから」「きょうはいっしょにごはんたべれる?」「食べれるよ」「いっしょにねれる?」「もちろん」「えへへ、やったー」海斗は紗良に抱きつく。「だっこして」と甘えるので、夕食作りの手を止め海斗をぐっと持ち上げた。 来年にはもう小学生になるというのに、まだまだ幼い海斗。 ずいぶん重くなったけれど、甘えん坊は変わらない。それでも、海斗は海斗なりに何かを感じ取っていたのだろう。 幼いからわからないのではなく、わかる範囲で理解して自分で考えている。(海斗もいろいろ我慢してきたんだろうな)海斗は紗良が土日の夜に仕事をしているのを理解している。 今日本来なら仕事があることをわかっていたし、いつもなら祖母と過ごすこともわかっている。 だからこそいつもと違い紗良が家にいることが海斗を不安にさせたのだ。けれどそれは、もしかしたら今まで必要以上に海斗に負担を強いてきたのではないだろうかと、紗良の胸に刺さった。(仕事もお金も大事。だけど、ごめんなさいだなんて、そんなことを思っていたなんて……)海斗に不自由させたくない。 だから働く。 お金はあればあるほどいいのだ。だけど――。お金がすべてではない。 確かにあるに越したことはないけれど、それでも今一番大事にしなくてはいけないのは海斗の気持ち。 きっと、そうなのだろう。
紗良は散らかった折り紙を片付けながら、杏介は一生懸命海斗と遊んでくれたんだなと思いを馳せた。隣には海斗がいるというのに、急に大きな存在が目の前から消えてしまったような感覚に陥りもの悲しさを覚える。 それにいつも元気な母がいないことも、妙に家が広く感じて仕方がない。初めて母が脳梗塞になったときは意識がなく、生きるか死ぬかという山を乗り越えた。 幸いグングン回復して支障となる大きな後遺症も残らず、元の生活に戻った。 変わったことといえば、車の免許を返納したことと定期的な通院をするようになったこと。その時に、紗良は「母が死ぬかもしれない」ということを嫌というほど経験したし、医者から「脳梗塞は再発することがある」と聞かされていた。そしてその後の姉夫婦の事故死でも、紗良は心を抉られるくらいに「死」というものに対して考えさせられた。だからいつか何かがあったときの「覚悟」はあった。 していたつもりだった。けれど月日が流れ当たり前に生活できているとそんな「覚悟」も頭の隅に追いやられ薄れていく。母はICUに入っているが意識はある。 順調にいけば一週間ほどで一般病棟に移りリハビリが始まると医師から説明を受けた。 ただいつ急変してもおかしくないのが脳梗塞だ。 元の生活に戻れるかもわからない。そんな漠然とした不安がふとした瞬間に大きくなって波のように紗良に襲いかかってくる。 どうしようもない恐怖に押しつぶされそうになるが、視界の端に海斗を捉えるたび、しっかりしなくてはと自分を鼓舞するのだった。
アルバイト先にもしばらく休むことを伝え、お昼時もだいぶ過ぎた頃、紗良はようやく自宅へ戻った。「ただいまー」玄関を開けると奥から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。リビングに足を踏み入れれば、散乱した折り紙や絵本、そして杏介の膝に座ってスマホゲームをしている海斗がいた。「ああ、紗良、おかえり」「ただいま。おかげで手続きとかいろいろと終わったよ。杏介さん、大変だったよね?」「あ、ごめん。部屋が散らかりすぎてるな。あと、海斗にスマホゲームさせるのはよくなかったかも」「ううん。全然いいの。すごく助かってるから。海斗、よかったね」うん!と元気のいい返事が返ってくるも海斗はゲームに夢中になったまま杏介の膝の上でご機嫌だ。「紗良、バイトは休んだ?」「うん、さすがに行けないから。しばらくお休みさせてもらうことにしたの」「そうか。それがいいな」「あ、二人ともお昼はどうしたの?」「残ってたおにぎりとかパンを食べたよ。紗良は? ちゃんと食べた?」「うん、病院のカフェで少し……」本当はアイスコーヒーを一杯飲んだだけなのだが。 それを言えば杏介は心配するに決まっているので、食べたことにしておく。 朝は杏介と海斗が気持ちを盛り上げてくれたため食べることができたが、やはり一人での食事は喉を通らなかった。「よかったら夕飯食べてって。それくらいしかお礼できないんだけど……」「ありがとう。でも今から仕事だからさ。また今度いただくよ」「えっ、お仕事だったの? ごめんなさい、こんなに長くいてもらって」「いいんだ。気にするなよ。今から仕事だけど、何かあればすぐに電話してくれて構わないから。夜中でもいつでも。まあ、何もなくてもかけてくれていいんだけど。いつでも紗良の声聞きたいし」「ありがとう、杏介さん」思わず潤んでしまった目を隠すために紗良は少し俯く。 そんな紗良の頭を杏介は優しく撫でた。「海斗も、また来るからな」「わかったー。こんどまたゲームやらせてね」「紗良姉ちゃんの言うこと聞いていい子にしてたらな」「わかった。いいこにする」海斗は親指を突き立てキリリと頷く。後ろ髪を引かれながらも、杏介は仕事に向かった。 こんなときこそ仕事を休んでずっと紗良の元にいたいと思ったが、シフト勤務でなおかつ生徒を抱える身としては早番と遅番を変更してもらうので精一杯だ
病院では母の病状や今後の説明を受け、たくさんの書類に目を通しながら手続きを済ませる。ICUにいる母にはたくさんの管が付いていて、数年前の光景を思い出させた。初めて脳梗塞で倒れたときも同じくここに入院した。あのとき紗良はまだ学生で、ICUで作業する医療者の声と無機質な機械音を聞きながら母の様子を伺っていた。これからどうなるのだろうと思いつつも、その時は姉がいたために姉に頼りっきりだったと今さらながらに思い出す。一人で抱えるのはつらい。すぐに不安や重圧で押しつぶされそうになる。けれどすぐに脳裏に浮かぶ顔――。杏介の存在は絶対的で紗良は幾重にも助けられていた。今朝だって誰かに縋りたくて無意識に杏介に電話をかけていたくらいだ。それほどまでに紗良の中で杏介に対する信頼感は大きいことに気づかされる。今こうして一人でテキパキと手続きをこなすことができるのも、杏介が海斗を見ていてくれるから。杏介が紗良を気遣ってくれるからに他ならない。いつだって紗良に優しく、いつだって紗良の味方でいてくれる杏介。(もしもまだ、杏介さんの気持ちが変わってないのなら――)変わっていないのなら自分はどうしたらいいのだろうか。どうしたいのだろうか。このままズルズルと都合の良い関係でいて貰うことの方がよっぽど失礼ではないか。いつまでもそんな関係でいてはいけないのだと、こんなときに限って実感してしまう。いや、こんなときだからこそ、だろうか。