「紗良、今日だけじゃなくて、これからも二人で出掛けないか?」「え?」「紗良、好きだよ」飛行機が通り過ぎた後の気流風が二人の間を抜けていく。 さっきあんなに近くに飛んでいた飛行機はあっという間に遠くへ行き、展望台には静寂が戻った。紗良はぎゅっとシャツの裾を握る。 杏介に「好き」だと言われて嬉しくないわけがない。 だってとっくに紗良も杏介のことを好きになっていたのだから。「……わ、わたし」紗良は考えあぐねるように杏介から視線を外す。 だがそれも定まらず、曖昧にさまよった後、また杏介の元へ行き着いた。本当はすぐにでも頷きたいしその逞しい胸に飛び込みたい。そう思うのに、杏介への気持ちは喉元で引っかかる。まるで魚の骨が刺さっているかのようにチクチクと痛い。「……海斗がいるから……」ようやく出てきた言葉は自分が思った以上に重くて残酷だった。 自分自身の心までもえぐり取られるような、そんな感覚に顔をしかめる。けれど杏介は、ふっと微笑んで紗良の頭をぽんぽんと優しく撫でる。「……わかってるよ。それでも俺は紗良が好きだよ。海斗のことももちろん好きだけど。……今一瞬だけ海斗のことを忘れて、紗良の本当の気持ちを聞かせてくれないか?」「……私も、好き。今、一瞬だけ海斗のことを忘れた私は、杏介さんのことが好きです。だけど、海斗を思い出した今は、杏介さんのことは好きだけどお付き合いはできないです」「そっか。でもよかった。俺のこと好きになってもらえて」「……杏介さんは、優しくてかっこよくて、……大好き」「……紗良」引き寄せられたのか自ら近寄ったのか。 唇から触れ合う体温は、甘く優しくあたたかだった。
展望台を下りると、公園の脇に小さな売店があった。飲み物やお菓子、空港に関連するグッズが控えめに並んでいる。「海斗、飛行機好きかな?」「乗り物は好きだから好きかも」「じゃあこれ、お土産で買ってあげよう」杏介は飛行機のデザインされたキッズ靴下を手に取る。いつも海斗のことを気にかけてくれる杏介のことをありがたく思いながら、紗良もお土産を選ぶ。「私は映画のチケットくれた同僚にお土産買おうかな」「紗良ってしっかりしてるよね」「そんなことないと思うけど、そう見えるならそれは海斗がいるから……なんだと思う」「今度は海斗も一緒に来ようか?」「うん、絶対喜ぶと思う。……でも、あの、……こんなこと言うのは矛盾してると思うんだけど……」「うん?」「また二人でデートして貰えますか?」こんなの自分勝手だと思っている。こんなに自分本意な考え方は迷惑極まりない。そう思ったけれど言わずにはいられなかった。今日で杏介との繋がりが消えてしまったら嫌だから。「お付き合いはできない」と断ったけれど、杏介を「好き」な気持ちは本当なのだ。杏介は一瞬驚いたような顔をしたものの、「もちろん、喜んで」と、くしゃっと笑った。優しさに溢れたその笑顔は紗良の胸をぎゅうっと締めつけ、涙がこぼれそうになった。
ほっとしている紗良と同様に、杏介もまた別の意味でほっとしていた。紗良に告白したのは『覚悟』を持ってのこと。紗良を好きになったら必然的に海斗もついてくる。海斗が邪魔だとか嫌だとか、当然そんな気持ちは持ち合わせてはいないが、いくら母親と一緒に育てているとはいえ子供がいたら普通のお付き合いができないのは想像できる。昼間は仕事を調整すれば会えるかもしれないけれど、夕方にはお迎えが待っている。休日には海斗がいる。泊りで出掛けることも、できないか、もしくは子供付き。それらをひっくるめて、杏介は『覚悟』を決めたつもりだった。それだけ紗良のことが好きだと思ったからだ。けれど紗良の意志は固い。杏介が思っているよりももっと意志が強くて、海斗への思いが深くて。そこへ足を踏み入れるにはハードルが高すぎた。(俺にはまだ紗良への愛情も海斗への愛情も、そして覚悟すらも足りないのかもしれないな)子持ちと付き合うというのは、前途多難なのかもしれない。杏介にとっても紗良にとっても。それぞれの想いがあり、決意があり。そしてその先に海斗がいて。「はあ、難しいな……」だから諦めるという恋ではないけれど。まだ紗良を好きになったばかりなのだ。紗良も杏介のことを好きだと言ってくれている。これからゆっくりと距離を詰めていくのも悪くないかもしれない。焦ることはない。紗良も杏介も、初めての恋だから。だからゆっくりと歩んでいく。二人の目指す未来はまだ見えなくとも。向いている方向は一緒なのだから。
職場で回ってきた忘年会のお知らせメールに、紗良は悩む間もなく欠席と返答をした。と同時に今回幹事である依美がすっ飛んでくる。「ちょっとちょっと~。紗良ちゃんもたまには飲み会出なよ~。ていうか少しくらい悩みなよ」「うーん、機会があれば、また……」「却下! もうちょっと考えてから返事しなさい!」「ええ~?」悩むことなんてないのに……と思いつつも、確かに職場の行事ごとにあっさりと返事をしすぎなのかもと考え、一応頭を捻ってみる。 けれどやはり参加するということが現実的ではなく、申し訳なくもそのまま欠席となった。社会人になってから飲み会の類は一度も参加したことがない。 それが嫌かと言われれば、そういうわけでもなくて……。学生の時に友達とご飯を食べに行ったりすることはあったけれど、社会人になってからそういうこともすっかりなくなった。急に誘いがなくなったわけではない。 行きたくないわけではない。だったらどうしてと、その根底を辿れば『海斗がいるから』に終始してしまうわけなのだが。自分が育てると決めたのだから、母にも迷惑はかけられない。 だから別にいいのだ、飲み会なんて行かなくたって。それで職場環境が悪くなるわけでもないし、紗良は海斗と母親と、三人で年越しをして慎ましやかな新年を迎える。 それがいつもの流れなのだから。ただ今年はいつもとはちょっと違って――。
【あけましておめでとう。今年もよろしく】そんなメッセージが杏介から届き、携帯を眺めてはニマニマ顔になっていた紗良を見た母親が紗良以上にニマニマとする。「ねえ、今年はお節作りすぎちゃったと思わない? 食べきれないから杏介くんでも呼んでちょうだいよ」「へっ? き、杏介さん?」急に出てきた名前にドキンと心臓が脈打ち、思わず携帯を落としそうになった。しかも変に動揺してしまう。「年末年始はプールもお休みでしょ?」「そうだけど、でも実家に帰るかもよ?」「聞くだけタダだし聞いたらいいじゃない」「う、うん」などと母親から誘導されるがまま紗良は杏介に連絡を取り、連絡を受けた杏介は喜び勇んで紗良宅へ訪問したのであった。「せんせー!」「海斗、あけましておめでとう」「あけましておめでとー」「ございます、でしょ。杏介さん、わざわざ来てもらってごめんね」「いや、新年から紗良に会えるなんて今年はいい年になりそうだなって思ったよ。あ、お母さん、あけましておめでとうございます。お邪魔します」「いらっしゃい杏介くん。さあ、あがってあがって」母に促され、杏介はリビングへ入る。テーブルの上には所狭しとおせち料理がずらりと並び、伊達巻や昆布巻き、なますなどが彩を添える。「ちょっとはりきって作りすぎちゃったのよ。だから食べてくれる?」「お母さんの手作りですか?」「そうなのよ。手作りだから味は雑かもしれないけどねぇ」「かいとはねぇ、たまごまいた! おてつだいした!」「おっ! すごいな。上手にできてる」「私はローストビーフ作ったんだけど、ちょっと味が濃くなっちゃったかも」「紗良も作ったの? すごいな。俺、全部食べるよ」それぞれの主張に杏介はひとつずつ丁寧に答え、「いただきます」とありがたく箸をつける。おせち料理なんて食べたことがないに等しかった杏介は、物珍しそうに少しずつ取り皿に盛った。色とりどりのおかずを前にした杏介の箸の行方を、紗良はドキドキとしながら見守る。「うん、美味い!」杏介がニッコリ笑うのを見て、ようやく紗良は胸を撫で下ろした。
「あ、白ご飯も食べるよね? お茶も持ってくるね」「かいともおてつだいするー」紗良と海斗はキッチンへパタパタと駆けていく。 そんな様子を見た母親は人知れずクスクスと笑った。まったく我が娘ながら、杏介に対してこんなにも初心な表情をするなんて――。「お口に合ってよかったわぁ」「はい、どれも美味しいし、どれから食べていいか迷いますね。実はおせち料理を食べるのは初めてで……」「あら、そうなの? まあ、一人暮らししてると食べないわよねぇ」「それもそうなんですけど、お恥ずかしながらあまり家族と仲が良くなくて。だからこうしてお正月に集まってご飯を食べることが新鮮で嬉しいというか。あの、本当にありがとうございます」「あら、じゃあご実家には帰ってないの?」「帰ってないですね」「だったらこれからも家に来たらいいわよ。紗良も海斗も喜ぶし。もちろん私も、ね」「ありがとうございます」「あ、でもご両親に申し訳ないかしら? 杏介くん独占して」「そんなことはないです。本当にありがたい話です」ぽろっと零れてしまった杏介の家族の話。 不穏な空気を感じながらも、紗良の母親はそれ以上深く聞くことはなかった。 杏介もそれ以上語るつもりもなく、何事もなかったかのように和やかに空気が流れる。「せんせー、おちゃもってきたー」「海斗、こぼれてるこぼれてる!」「あら海ちゃん、新年早々お着替え?」「わー! 海斗ー!」急に慌ただしく大人たちが騒ぐ中、海斗はコントのようにお茶をこぼしまくり、全員の初笑いを持って行った。紗良にとっても杏介にとっても、とても心穏やかなお正月だった。
◇休みボケもそこそこに、仕事も保育園も始まり慌ただしい日々が戻ってきた。朝の渋滞を抜けダッシュで出勤するのもいつも通りだ。「紗良ちゃん、あけおめー」「依美ちゃん、今年もよろしくね」「ねえねえ、去年の忘年会でさ、彼氏できちゃった」「えっ! すごい、おめでとう」依美は秋ごろ、彼氏が浮気しているからもう別れると宣言していた。そしてもっといい男をゲットすると意気込んでもいた。それがこんなにも早く彼氏ができるとは、驚きと共に積極的な依美らしいなと紗良は思った。「たまたま別部署の人たちも同じお店でね、合同忘年会になったわけ。で、色々話してたら彼と意気投合してさ~」「すごい、そんな偶然あるんだね」「ね、びっくりだよね。運命感じちゃうよ」「うんうん、本当にそうだよね」依美はとても楽しそうで休み前に会った時より生き生きとしている。彼氏と別れると言っていた依美は少し落ち込んでいるように見えていたので、短期間での依美の行動力には脱帽だ。「ねえ、紗良ちゃんはプールの先生とどうなったの?」ドキリと胸がざわめく。どう、かと言われれば、告白されて断った事実がある。けれどお正月には家に呼んで一緒にお節を食べたというなんとも不思議な関係が続いている。それを表現するには難しく、ぐるりと考えた挙句、紗良はいたって平静に答えた。「……どうもなってないけど?」「そうなんだ? じゃあさ、 誰か紹介してあげようか?」「え?」「彼氏の部署男だらけらしくって、彼女募集中の人いるみたいよ。飲みに行くだけでも行ってみたらどう? 楽しいよ」「いやいや、私には海斗がいるから」「またすぐそうやって子供を出す。最近は子持ちだって敬遠されないってば」 「別にいいんだって。彼氏欲しいだなんて思ってないし」「事情があって育ててるのはわかるけどさ、何か自己犠牲に酔ってない? そんなことじゃ子どもが大きくなって手が離れたときに何も残らないよ。だって紗良ちゃんまだ若いんだし」「……海斗が無事に育ってくれたらそれで十分だよ」笑ってやり過ごすも、急に得も知れぬ不安に襲われた。(……それで十分だよね?)ドクンと心臓が変な音を立てる。
大学を卒業後、企業に就職が決まっていたけれど、そこは残業も転勤も有り得る仕事だった。 入社直後から育児勤務を使えるわけもなく、子供を育てながらバリバリ働くのは無理だと判断して辞退することにした。残業がなくて時間固定で家から近くて――。そんな条件を叶えてくれるのは登録型の派遣社員だった。 正社員に比べたら、ボーナスも昇級もなく給料は低め。 それでも無駄遣いさえしなければきっとやっていけるだろうと思って決断した。 だが実際働き始めて、やはりそれだけじゃ心もとない気がして週末はアルバイトも始めた。 それが今の紗良の生活スタイルだ。すべて海斗のため。 海斗が不自由なく暮らしていくため。そう思っていたのだけれど。(海斗が手を離れたら……?)依美に言われるまで気がつかなかった。 というより、目先のことでいっぱいでそんな先のことまで考える余裕はなかった。海斗が成長し紗良の手を離れたら、いったい自分には何が残るというのだろう。十年、いや二十年後、そんなころにはもう紗良だって若くない。 再就職も難しくなってくる。 それに、いつまでもかけもちのバイトはつらいだろう。(私、ちゃんと考えてなかったのかも……)それは仕方のないことかもしれない。 なにより海斗を育てるということがイレギュラーな出来事だったのだ。目先のことばかりで自分の未来をちゃんと考えていなかったのは、当然といえば当然といえよう。(……杏介さん)脳裏に一瞬浮かんだ杏介の顔に、紗良は人知れず心を揺らした。
カシャカシャカシャッその音に、紗良と杏介は振り向く。そこにはニヤニヤとした海斗と、これまたニヤニヤとしたカメラマンがしっかりカメラを構えていた。「やっぱりチューした。いつもラブラブなんだよ」「いいですねぇ。あっ、撮影は終了してますけど、これはオマケです。ふふっ」とたんに紗良は顔を赤くし、杏介はポーカーフェイスながら心の中でガッツポーズをする。ここはまだスタジオでまわりに人もいるってわかっていたのに、なぜ安易にキスをしてしまったのだろう。シンデレラみたいに魔法をかけられて、浮かれているのかもしれない。「そうそう、海斗くんからお二人にプレゼントがあるんですよ」「えっへっへー」なぜか得意気な顔をした海斗は、カメラマンから白い画用紙を受け取る。紗良と杏介の目の前まで来ると、バッと高く掲げた。「おとーさん、おかーさん、結婚おめでとー!」そこには紗良の顔と杏介の顔、そして『おとうさん』『おかあさん』と大きく描かれている。紗良は目を丸くし、驚きのあまり口元を押さえる。海斗とフォトウエディングを計画した杏介すら、このことはまったく知らず言葉を失った。しかも、『おとうさん』『おかあさん』と呼ばれた。それはじわりじわりと実感として体に浸透していく。「ふええ……海斗ぉ」「ありがとな、海斗」うち寄せる感動のあまり言葉が出てこなかったが、三人はぎゅううっと抱き合った。紗良の目からはポロリポロリと涙がこぼれる。杏介も瞳を潤ませ、海斗の頭を優しく撫でた。ようやく本当の家族になれた気がした。いや、今までだって本当の家族だと思っていた。けれどもっともっと奥の方、根幹とでも言うべきだろうか、心の奥底でほんのりと燻っていたものが紐解かれ、絆が深まったようでもあった。海斗に認められた。そんな気がしたのだ。カシャカシャカシャッシャッター音が軽快に響く。「いつまでも撮っていたい家族ですねぇ」「ええ、ええ、本当にね。この仕事しててよかったって思いました」カメラマンは和やかに、その様子をカメラに収める。他のスタッフも、感慨深げに三人の様子を見守った。空はまだ高い。残暑厳しいというのに、まるで春のような暖かさを感じるとてもとても穏やかな午後だった。【END】
その後はスタジオ内、屋外スタジオにも出てカメラマンの指示のもと何枚も写真を撮った。残暑の日差しがジリジリとしているけれど、空は青く時折吹く風が心地いい。汗を掻かないようにと木陰に入りながら、紗良はこの時間を夢のようだと思った。「杏介さん、連れてきてくれてありがとう」「思った通りよく似合うよ」「なんだか夢みたいで。ドレスを選んでくださいって言われて本当にびっくりしたんだよ」「フォトウエディングしようって言ったら反対すると思ってさ。海斗巻き込んだ壮大な計画」「ふふっ、まんまと騙されちゃった」紗良は肩をすくめる。騙されるのは好きじゃないけれど、こんな気持ちにさせてくれるならたまには騙されるのもいいかもしれない。「杏介さん、私、私ね……」体の底からわき上がる溢れそうな気持ち。そうだ、これは――。「杏介さんと結婚できてすっごく幸せ」「紗良……」杏介は目を細める。紗良の腰に手をやって、ぐっと持ち上げた。「わあっ」ふわっと体が浮き上がり杏介より目線が高くなる。すると満面の笑みの杏介の顔が目に飛び込んできた。「紗良、俺もだよ。俺も紗良と結婚できて最高に幸せだ」幸せで愛おしくて大切な君。お互いの心がとけて混ざり合うかのように、自然と唇を寄せた。
カシャッ「じー」小気味良いカメラのシャッター音と、海斗のおちゃらけた声が同時に聞こえて、紗良と杏介はハッと我に返る。「あー、いいですねぇ、その寄り添い方! あっ、旦那様、今度は奥様の腰に手を添えてくださーい」「あっ、はいっ」カシャッ「次は手を絡ませて~、あっ、海斗くんはちょっと待ってね。次一緒に撮ろうね~」カシャッカメラマンの指示されるがまま、いろいろな角度や態勢でどんどんと写真が撮られていく。もはや自分がどんな顔をしているのかわからなくなってくる。「ねえねえ、チューしないの?」突然海斗がとんでもないことを口走るので、紗良は焦る。いくら撮影だからといっても、そういうことは恥ずかしい。「海斗、バカなこと言ってないで――」と反論するも、カメラマンは大げさにポンと手を叩いた。「海斗くんそれいいアイデアです!」「でしょー」カメラマンと海斗が盛り上がる中、紗良はますます焦る。海斗の失言を恨めしく思った瞬間。「海斗くん真ん中でパパママにチューしてもらいましょう」その言葉にほっと胸をなで下ろした。なんだ、それなら……と思いつつ、不埒な考えをしてしまった自分が恥ずかしくてたまらない。「うーん、残念」杏介が呟いた声は聞かなかったことにした。
ウエディングドレス用の、少しヒールのある真っ白なパンプスに足を入れた。かかとが上がることで自然と背筋もシャキッとなるようだ。目線が少しだけいつもより高くなる。「さあ、旦那様とお子様がスタジオでお待ちですよ」裾を持ち上げ、踏んでしまわないようにとゆっくりと進む。ふわりふわりと波打つように、ドレスが繊細に揺れた。スタジオにはすでに杏介と海斗が待っていた。杏介は真っ白なタキシード。海斗は紺色のフォーマルスーツに蝶ネクタイ。紗良を見つけると「うわぁ」と声を上げる。「俺ね、もう写真撮ったんだー」紗良が着替えて準備をしている間、着替えの早い男性陣は海斗の入学記念写真を撮っていた。室内のスタジオだけでは飽き足らず、やはり屋外の噴水の前でも写真を撮ってもらいご満悦だ。海斗のテンションもいい感じに高くなって、おしゃべりが止まらない。「紗良」呼ばれて顔を上げる。真っ白なタキシードを着た杏介。そのバランスのいいシルエットに、思わず見とれてしまう。目が離せない。「とても綺麗だよ。このまま持って帰って食べてしまいたいくらい」「杏介さん……私……胸がいっぱいで……」紗良は言葉にならず胸が詰まる。瞳がキラリと弧を描くように潤んだ。
そんなわけであれよあれよという間に着替えさせられ、今はメイクとヘアスタイルが二人のスタッフ同時に行われているところだ。あまりの手際の良さに、紗良はなすすべがない。大人しく人形のように座っているだけだ。(私がウエディングドレスを着るの……?)まるで夢でも見ているのではないかと思った。海斗を引き取って、一生結婚とは無縁だと思っていたのに、杏介と結婚した。そのことすらも奇跡だと思っていたのに。結婚式なんてお金がかかるし、それよりも海斗のことにお金を使ってあげたいと思っていたのに。そのことは杏介とも話し合って、お互い納得していたことなのに。今、紗良はウエディングドレスに身を包み、こうして花嫁姿の自分が出来上がっていくことに喜びを感じている。こんな日が来るなんて思いもよらなかった。この気持ちは――。嬉しい。声を大にして叫びたくなるほど嬉しい。ウエディングドレスを身にまとっているのが本当に自分なのか、わからなくなる。でも嬉しい。けれどそれだけじゃなくて、もっとこう、心の奥底からわき上がる気持ちは一体何だろうか。紗良の心を揺さぶるこの気持ち。(早く杏介さんと海斗に会いたい)心臓がドキドキと高鳴るのがわかった。
鏡に映る自分の姿がどんどんと綺麗になっていく様を、紗良はどこか他人事のようにぼんやりと見つめていた。一体どうしてこうなったのか。海斗の入学記念写真を撮ろうという話だったはずだ。それなのにウエディングドレスを選べという。掛けられていた純白のウエディングドレスは、そのどれもが繊細な刺繍とレースでデザインされている。素敵なものばかりで選べそうにない。「どうしたら……」ウエディングドレスを着ることなんて、これっぽっちも考えたことがなかった。だから果たしてこんなに素敵なドレスが自分に似合うのか、見当もつかない。ドレスを前にして固まってしまった紗良に「ちなみに――」とスタッフが声をかける。「旦那様の一押しはこちらでしたよ」胸元がV字になって、透け感レース素材と合わせて上品な雰囲気であるドレスが差し出される。肩から腕にかけては|五分《ごぶ》くらいのレースの袖が付いており、デコルテラインがとても映えそうだ。レース部分にはバラの花がちりばめられているデザインで、それがまるで星空のようにキラキラと輝く。純白で波打つようなフリルは上品さと可憐さが相まってとても魅力的だ。「でも自分の好みを押しつけてはいけないとおっしゃって、最終的には奥様に選んでほしいとこのようにご用意させていただいております」そんな風に言われると、もうそれしかないんじゃないかと思う。杏介の気持ちがあたたかく伝わってくるようで、紗良は自然と「これにします」と答えていた。
「ではお着替えしましょうか。海斗くんとお父様はこちらに。お母様はあちらにどうぞ」スタッフに従ってそれぞれ更衣室に入る。どうぞと案内された更衣室のカーテンを開けると、そこには大きな鏡とその横に真っ白なウエディングドレスが何着もズラリと掛けられていた。「えっ?」紗良は入るのを躊躇う。 今日は海斗の入学記念写真を撮りに来たはずだ。 せっかくなので着物を借りて写真を撮ろうと、そういう話だった気がする。いや、間違いなく杏介とそう話した。昨日だって、何色の着物がいいかと杏介とあれやこれや喋った記憶がある。それなのに、紗良の目の前にはウエディングドレスしか見当たらない。着物の一枚すら置いてないのだ。「あ、あの、お部屋間違ってませんか?」「間違っていませんよ。さあさ、奥様こちらへどうぞ。お好きなドレスを一着お選びください」「いえ、今日は子供の入学記念写真の予定なんですけど……」「何をおっしゃいますか。旦那様とお子様が楽しみに待たれていますよ」「えっ、えええ~?」スタッフはふふふとにこやかに笑い、困惑する紗良を強引に更衣室へ引きずり込むと、逃がさないとばかりにシャッとカーテンを閉めた。わけがわからない紗良は、スタッフに勧められるがまま、あれよあれよと流されていった。
杏介が予約したフォトスタジオを訪れた紗良は、思わず「うわぁ」と声を上げた。四季折々の風景をコンセプトにしている屋内スタジオに加え、外でも撮影できるよう立派な庭園が設えられている。海斗はランドセルを大事そうに抱えながらも、フォトスタジオに興味津々で今にも走りださんと目がキラキラしている。「いらっしゃいませ。ご予約の滝本様ですね」「はい、今日はよろしくお願いします」「ねえねえ、あの噴水さわってもいい?」「こら、海斗、ご挨拶!」「あっ。こんにちは。おねがいします」ピシャッと紗良が戒めると、海斗は慌てて挨拶をする。その様子を見てスタッフは海斗に優しい笑みを浮かべた。「噴水が気に入ったかな? あのお庭でも写真が撮れるから、カメラマンさんに伝えておきますね」「やったー!」海斗の入学記念に写真を撮りに来ただけなのに、そんなシチュエーションもあるのかと紗良は感心する。なにせフォトスタジオに来ること自体初めてなのだ。杏介に任せきりで予約の仕方すらわからない。まあ、杏介が「俺に任せて」と言うから、遠慮なくすべて手配してもらっただけなのだが。「海斗すごく喜んでるね」「浮かれすぎてて羽目外しそうでヒヤヒヤするよ」「確かに」紗良と杏介はくすりと笑った。
「どうしたの、海斗」「これを見て!」海斗はおもむろにランドセルを背負う。 まだまだピカピカのランドセルを、紗良に見せつけるように体を捻った。「ランドセル?」「そう! ランドセル! 写真撮りたい。リクもさなちゃんも写真撮りにいったんだって」「写真? 写真なら撮ってあげるよ」紗良は自分のスマホのカメラを海斗に向ける。「ちがーう。そうじゃなくてぇ」ジタバタする海斗に紗良は首を傾げる。 咄嗟に杏介が「あれだろ?」と口を挟む。「入学記念に家族の記念写真を撮ったってことだよな?」「そう、それ! 先生わかってるぅー」「ああ~、そういうこと。確かに良いかもね。お風呂で何か盛り上がってるなぁって思ってたけど、そのことだったのね」「そうそう、そうなんだよ。でさ、会社が提携しているフォトスタジオがあるから、予約してみるよ」「うん、ありがとう杏介さん」ニッコリと笑う紗良の頭を、杏介はよしよしと撫でる。 海斗に関することなら反対しないだろうと踏んでいたが、やはりあっさりと了承されて思わず笑みがこぼれた。「?」撫でられて嬉しそうな顔をしながらも、「どうしたの?」と控えめに上目遣いで杏介を見る紗良に、愛おしさが増す。「紗良は今日も可愛い」「き、杏介さんったら」一瞬で頬をピンクに染める紗良。 そんなところもまた可愛くて仕方がない。夫婦がイチャイチャしている横で、海斗はランドセルを背負ったまま「写真! 写真!」と一人でテンション高く踊っていた。