海斗と買物に出かけたある日、スーパーの一角にはすっかりとお正月商品はなくなり、代わりにカラフルで目を引くたくさんのチョコがズラリと並んでいた。「そっか、もうそんな季節かぁ」「さらねえちゃん、チョコほしーい」海斗が目をキラキラさせながら商品棚に駆け寄る。子ども向けのキャラクターが付いたチョコに釘付けだ。「じゃあバレンタインだから一個買ってあげるね」「ばえんたいんってなに?」「好きな人とかいつもお世話になってる人に、ありがとうってチョコを渡す日だよ」「かいともわたしたい!」「誰に渡したいの?」「さらねえちゃん!」まっすぐな瞳で見つめられ、胸がきゅんとなる。海斗の素直な気持ちが嬉しくて紗良は目頭が熱くなり、そっと海斗の頭を撫でる。いつの間にこんな気の利いたことを言うようになったのだろうか。「ありがとね、その気持ちで十分よ」「えー。あげたいのにー。あ! あとせんせーにもあげたい」「本当に海斗は滝本先生が好きよね」「うん、だいすき。さらねえちゃんもせんせーのこと、すきでしょ?」「え、う、うん」別に深い意味はないのだというのに、そんなことを言われたら胸がざわっと揺れる。いちいち動揺してしまうなんて、どうかしている。紗良は思わず熱を帯びそうになった頬を慌てて両手で押さえた。「じゃあ、さらねえちゃんもわたしたら?」「そう……よね?」紗良は商品をぐるりと見渡す。杏介は甘いものが好きだったかどうだったか。よくわからないけれど、とりあえず小さめのチョコを買っておくことにした。(そう、これは海斗が杏介さんに渡したいって言ったから。 だから買ったのよ。 いつもありがとうございますって感謝の気持ちなんだから)などと自分自身に言い訳をして。杏介には「好き」だと伝えているのだから、別に堂々と渡せばいいだけのはずなのに、どうにも恥ずかしい気持ちが先行してしまい自分の気持ちがついて行かない。(……バイトのとき、渡せたらいいな)そんな淡い希望を抱いて、チョコをそっとカバンに忍ばせた。
土曜日のプール教室は他の曜日に比べて生徒数が多く、レッスン数も多い。 故に、杏介たちインストラクターはレッスン修了後の事務所にてそれぞれがだらりと休憩をしていた。杏介がコーヒーを飲みながら物思いに耽っていると、同じくコーヒーを飲みながら航太がニヤニヤと隣に座る。「杏介、今年も何個かもらったんだろ、チョコ」その言葉に即座に反応したのはおしゃべり好きなリカだ。「えっ。 もしかしてママたちからですか?」「いや、子供から。 断りたいけど、子供から手渡しされるとさすがにもらうしかないんだよね」「へぇ~、滝本先輩モテモテですね」「どうせ子どもにかこつけてママたちからも何個か入ってるんだろ?」「うわー、マジですか。さすがイケメンは違いますねー」リカは大げさに驚きチラリと航太を見る。「……リカちゃん、今俺のこと可哀そうな目で見ただろ」「あ、バレました? 小野先輩かわいそー。もらえないなんてー」「そう思うなら俺にくれよぉ」「私がですか? 嫌ですよ。滝本先輩にならあげてもいいけど」「何だとっ! もう少し俺を労わってくれよ。杏介も何か言ってくれ」「あー、うん、二人とも仲いいよね」「「仲良くないっ!」」杏介の嫌みのないツッコミに、航太とリカの叫びがハモる。 バツの悪くなった航太はコホンと咳払いをして話題を変えた。
「ああ、そんなことより杏介は本命の彼女からちゃんともらったのか?」「えっ、先輩、彼女いるんですか?」「え、ああ、いや、まあ……」「いるんだなー。しかも子持ち」「やだっ不倫?」「違う違う」「じゃあバツイチ?」杏介が口を挟む間もなく、航太とリカは盛り上がる。航太とは日頃からお互いに何でも話すような仲ではあるが、まさかリカに対してもベラベラしゃべるやつだったとは、杏介は苦笑いだ。「未婚の母なんだよな? 杏介も物好きだよなー」「そうかな? 好きになった人にたまたま子供がいただけで――」と弁明を図ろうとしたのだが、険しい顔をしたリカがずずいと詰め寄る。「先輩、その考えは危険ですって。先輩まだ若いんだから子持ちなんてリスク背負わない方がいいですよ。自分の子じゃないのに愛せますか? 彼女が好きだから愛せるって思うかもしれないけど、恋愛期間は盲目になってるだけかもしれないですよ。ぜったい考え直した方がいいですよ。現実見てください」「……リカちゃんがまともなこと言ってる」「私はいつもまともです。小野先輩は茶化さないでください。その彼女、滝本先輩に子供のお父さんになってほしいだけじゃないです? あと経済的支援目的とか」「いや、そんなことはないと思うけど」と言いつつも、ダブルワークしている紗良はもしかして経済的に安定していないのかもしれない。だからといって杏介に対して経済的支援を求めているようには感じられないが。「とにかく、先輩早まっちゃダメです」「ありがとう、心しておくよ」リカの剣幕にとりあえずは頷いておく。決して紗良がそんなことを考えているとは思いたくない。というか、まったく思えない。「ずいぶん熱心だけど、もしかしてリカちゃん杏介のこと好きなんじゃ……」「バカなんですか、小野先輩」「ちょ、俺への当たりきつくない?」「まあ、自業自得なんじゃないか?」デリカシーのない航太にフォローなどいらないだろうと、杏介もリカ同様冷たく突き放す。「二人してひどいー」と泣き真似までする航太にリカはまたツッコミを入れ、なんだかんだ仲が良いなと杏介は一人笑った。
紗良はカバンに突っ込んだまま息を潜めているチョコの存在を気にして、一日中ソワソワしていた。土曜日の海斗のプール教室、渡す暇などないだろうし、渡す機会があったとしてもさすがに人が多すぎて目立ってしまうと考えつつも、チョコはカバンの中。結局いつも通りレッスンが終了して、何人かの子供が「滝本先生~」と甘い声をかけているのを横目にそそくさと帰ってしまった。(あんなところで渡せるわけないじゃない)しかも、子供とはいえ女子たちの乙女な顔ときたら、きっとチョコを渡す子もいるんだろうなと想像して知らず知らずモヤッとしてしまって見ていられなかった。まさか小学生に嫉妬してしまうなんて……。(どうかしてるわ、私)紗良は深いため息をつく。やはりタイミングはアルバイト時かと思いつつ、何をそんなにも緊張することがあるのだと自分を落ち着かせる。学生の時だってこんなにドキドキしたことがあっただろうか。 過去の自分を振り返ってみても、小学生のときに先生にチョコを渡した記憶しかよみがえってこない。 確かにあの時も相当ドキドキしていたけれど。 そんな記憶は遠い彼方だ。結局心が落ち着くことはなく、ソワソワしたままアルバイトに出掛けたのだった。
最近の杏介は、毎週とはいかないまでも、土曜の夜まで仕事がある日は必ず紗良の働くラーメン店へ出向いていた。その頻度は前とさほど変わらないけれど、紗良の仕事終わりに隣のコンビニで待ち合わせをして、少しだけおしゃべりをして別れるというのがいつの間にか日課になっている。「杏介さん、これ……あげますっ」満を持してカバンから取り出したチョコはぶっきらぼうに杏介の目の前へ差し出され、紗良は不自然に視線を泳がす。「……もしかしてバレンタイン?」「うん。……海斗がぜひにとも」「えっ? 海斗から?」「……いや、えっと、私から……です。迷惑じゃなかったら……」変に語尾がごにょごにょと小さくなっていく。紗良のあまりの照れように、杏介まで照れくさくなって頬を掻いた。昼間プール教室で散々生徒からチョコを貰ったが、比べものにならないくらいに嬉しい。「迷惑だなんて思うわけないだろ。ありがとう。じゃあ、ホワイトデーにはどこかデートでもしようか?」「あ、お返しなんてお構いなく、なんだけど……。うん、デートしたい……です」「どこか行きたいところある? 何か買いたいものとか」「うーん、そうだなぁ。海斗が四月から年長さんだから、新しいスモックと上靴と、あとTシャツを買いに行きたい」「紗良、それってデートなの?」「はっ!」「紗良って時々天然だよね。面白い」「いや、ごめんなさい。そうだよね、デート、デート、……デートかぁ」「いいよ、ショッピングもデートのうちだろ。どこでも付き合うよ」くっくと笑う杏介は優しく紗良の頭を撫でる。その柔らかな手つきも紗良に向ける笑顔も、すべてが愛おしく思えて胸がぎゅっとなった。
四月、海斗は年長へ進級し、プール教室もクラス替えになった。 顔付けや潜ることができるようになった海斗はひとつ上のクラスになり、担当の先生も新しくなった。海斗は担当の先生が杏介でなくなり残念そうにしていたが、子供の順応性とは高いものですぐに馴染んで楽しそうにしている。そのことについて全く問題はないというのに、なぜだか紗良の方が残念な気持ちになっている。心のどこかで海斗は杏介じゃないとだめだと思っていたのだろうか? それとも海斗をダシに杏介に近づこうと思っていたのだろうか?いずれにせよ、妙な喪失感に襲われている。きっとこれは四月だから。 年度がかわっていろいろなことに忙しいから。 だから心が弱くなっているのだと、紗良は無理やり結論づけた。そうやって慌ただしく四月が過ぎていき、あっという間にゴールデンウィークになった。休みの日は杏介に会いたいなと思っていた紗良だが、どうやら短期プール教室があるらしく杏介は出勤の日々の様子。「一日くらいどこか行こうか?」「でも杏介さんはその日しかお休みないんでしょう? お出かけしたら疲れちゃうよ」「紗良と海斗に会えるなら疲れも吹き飛ぶよ」「海斗、ますますわんぱくになってるから相手するの大変だよ」「だったら毎日海斗の相手してる紗良こそ、少しはゆっくりしないと。というわけで、お出かけ決定な」そうやって少々強引に予定が決まっていく。 甘やかされている気がして、嬉しい気持ちが大きく膨らんでいくようだ。(海斗よりも喜んでいるんじゃないだろうか、私)張り切って朝からおにぎりを握り、卵焼きとタコさんウインナーとほうれん草のおひたしをこしらえる。デザートにはパイナップルに可愛いピックを刺して。それらをしっかりとリュックに詰め込んで。「あらあら、朝から張り切ってるわねぇ」紗良の張り切り具合に母がニヤニヤと覗きに来る。「か、海斗がタコさんウインナー好きだから」「はいはい、杏介くん喜んでくれるといいわね」「うっ……うん」なにもかもお見通しのようで妙に気恥ずかしい。 言い訳をすればしただけ、自分の首を絞めるようだ。
杏介のお迎えに、海斗はジュニアシート持参で意気揚々と助手席に乗り込む。海斗はいつも助手席に乗りたがり杏介も快く受け入れている。そんな二人のやり取りを、紗良はぼんやりと後部座席から眺める。今まではそれがとても好きだったし、それでいいよと思っていた。それなのに、最近紗良と杏介二人で出かけることが増えたせいか、紗良も助手席に座りたいと海斗に対抗心が芽生えていることに気付いてそわそわと落ち着かなくなっている。(こんなの大人げないわ)そう、頭ではわかっているのだ。「海斗、この席は順番だぞ。行きは海斗が座ってもいいけど帰りは紗良姉ちゃんと交代な。わかったか?」「わかったー!」まるで紗良の心を見透かしたかのようでドキリとする。杏介は上手く海斗を説得するが、海斗は本当にわかっているのかどうなのか、空返事だ。けれどこうやって配慮してくれることが嬉しくて、いつの間にか紗良の心は落ち着いている。一喜一憂してしまう自分はなんて単純なのだろうと、紗良は人知れず笑った。やってきた動物園はウサギの餌やり、モルモットの餌やり、鯉の餌やり、と様々な体験ができる施設だ。餌を手にした海斗は目をキラキラさせて夢中になった。小さな動物は口も小さくモシャモシャと食べる姿が可愛らしい。海斗もモルモットを膝の上にのせてご機嫌だ。「さらねえちゃん、うまがいるー! みてー!」「わ、ほんとだ……きゃっ」ブルルンと鳴いて今にも柵から飛び出してきそうな勢いの馬たち。海斗は意気揚々とニンジンを手に持って餌やりする気満々だ。海斗がそっと手を出すと、ぎょろりとした目をした馬が興奮気味に口を開ける。ベロンとニンジンが持っていかれ、海斗はきょとんとした後なにが可笑しかったのか大笑いし始めた。「あはは! おもしろーい! さらねえちゃんもやってみて!」「いや、お姉ちゃんは無理だから」「えーなんでー」と海斗とやり取りをしている間に、右手にかかるあたたかい何か。嫌な予感がしてギギギと首を捻ってみれば、至近距離に馬の顔があり今にも紗良の手を舐める勢いだ。「ひっ、ひぃぃぃぃ――」卒倒しそうになる紗良を杏介が慌てて受け止める。「おっと!」「さらねえちゃん、しなないでー!」海斗が冗談なのか本気なのかよくわからない煽り方をして、理不尽にもあとでこっぴどく叱られたのだった。
動物園には芝生の広場もあり、たくさんの家族連れで賑わっている。紗良たちもまわりに植えられている木の影を狙って持ってきたレジャーシートを敷いた。 ちょっとした秘密基地のようで海斗のテンションも高くなる。持ってきた水筒のお茶をグビグビと飲んでからリュックをあさり出した。「まさか紗良があんなにも馬がだめだなんて知らなかったな」「実は動物も虫も苦手なの」「じゃあ動物園は嫌だった?」「ううん。檻に入っていれば大丈夫だし。海斗が楽しそうだからそれでいいよ。でもさすがに馬はきつかったかな。さ、お弁当にしよ」「お弁当作ってきてくれたんだ?」「大したものじゃないけど。杏介さん嫌いな食べ物なかった?」「ないよ。何でも食べる」ドキドキと緊張しながらお弁当箱を取り出すと横から海斗が「はやくはやくー」と急かす。 蓋を開ければお弁当独特の柔らかいにおいがふわっと香った。「やったー! タコさんウインナー!」「こら海斗! いただきますは? あっ、ほら、ほうれん草も食べなきゃダメよ。……杏介さんどうかした?」お弁当を見てじっと固まってしまった杏介に、紗良は恐る恐る尋ねる。 もしかして手作り弁当は迷惑だったのかもと心配になったのだが、どうやらそうではないようだ。「いや、なんか感動っていうのかな。タコさんウインナー初めて見たから。こんな感じなんだ……と思って」「せんせー、タコさんウインナーすき? さらねえちゃん、カニさんウインナーもつくれるよ。あとおはな」「そうなんだ、それはすごいな」「えっ! ただ切れ目入れるだけなんだけど。簡単すぎて恥ずかしいなー」「いや、すごいよ」「海斗が喜ぶかなって練習したの。保育園たまにお弁当の日あるし」「海斗は幸せ者だな」「そうかな? そうだといいけど」杏介はタコさんウインナーをまじまじと眺めてから大事そうにひとつ口に入れた。 ひと噛みひと噛み噛みしめると、じゅわっと肉の味が広がっていく。 素材は普通のウインナーと変わりないというのに特別に美味しく感じるようだ。「うん、美味い!」「……ありがとう」パクパク食べる海斗と杏介の姿を見ているだけで紗良は幸せで満たされていくようだった。
二日ほどして海斗の熱は下がり、元気いっぱい保育園へ行く日々が戻ってきた。 数日、朝の時間を気にせず寝ていたためか、なかなか起きることができなかった海斗を引きずるように保育園へ連れて行き、紗良は時間に追われながら会社へ急ぐ。「おはようございますっ」「おはよう。大丈夫? 石原さん声かすれてない?」「そうですか? 走ってきたからかな?」今日もギリギリの時間になってしまい駐車場から思い切り走った。 海斗と一緒にダラダラと休日を過ごしたためだろうか、体がギシギシと音を立てている気がする。(運動不足だわ……)はぁ、と息を吐きながらたまっている仕事に手を付けた。 相変わらず仕事量は多い。 それに加えて、海斗の体調不良で一日休暇を取ってしまったため、その分も積みあがっている。パソコンに向かってカタカタとデータを打ち込んでいたが、昼になるにつれてどうにも喉に違和感を覚えた。 いがらっぽいと思っていたのだが、それはだんだんとチクチクイガイガと刺さるような痛みに変わっていく。(……海斗のうつったかもなぁ。今日は早く寝よ)と余裕だったのだが、海斗を迎えに行って家に帰る頃にはクタクタになっていた。 先ほどから寒気もするし、もしかしたら熱が出るのかもしれない。
翌日、杏介は一人で病院を訪れていた。「杏介くんにまで迷惑かけちゃってごめんねぇ」一般病棟に移った紗良の母は相変わらず元気でニコニコと笑う。 一時失語症があったとは思えないくらいに回復していた。「お母さんには早く元気になってもらわないと」「これからリハビリも始まるのよ。見てよ、まだ全然左側が動かないの。わたし、呂律も回ってるかしら?」「ええ、ちゃんと聞き取れますよ」杏介は持ってきたタオルやパジャマを棚に片づける。 洗濯物としてまとめられていたビニール袋を持ってきたバックに代わりに入れた。 こうやって親のために何かをすることは初めてな気がして杏介は少し緊張した。 もちろん本当の親ではないけれど、それでも自分の母親と同世代の紗良の母の世話をすることはなんだか感慨深いものがある。「ねえ、 杏介くんから見て紗良って無理してない?」「無理してますね」「やっぱり? あの子意外と頑張り屋さんなのよ。一人で何でもやろうとしちゃって」「そう思います。僕も紗良さんの力になりたいんですけど、全然頼ってもらえなくて」杏介は頷く。 今日ここに杏介が来ることになったのも、遠慮した紗良を遮って杏介が強引に決めたことなのだ。 「ねえ杏介くん、紗良のこと好いてくれてありがとうね。親はいくつになっても子供のことが気になっちゃってねぇ」ふふふ、と紗良の母は笑う。 その表情はとてもやさしくて、眩しく見えた。「いえ、羨ましい……気がします」「そういえば杏介くんはあまり親と上手くいってないんだっけ?」「そうですね。僕が避けているというか……」言葉を濁すと母はぶはっと吹き出した。「あはは! 親はいなくとも子は育つってね。いいんじゃない、そういう人生もありよね」「そうですか? 僕はちょっと後悔もしていたりして――」「あら、そうなの?」「……出来れば仲良くやりたかったですね。今更ですけど」「そっかぁ。でも今からでも遅くないかもね? まあ頑張りなさいって」母は動く右手で杏介の腕をバシンと叩いた。 とても病人とは思えない力強さに驚くと共に勇気づけられるようだ。「お母さん、お元気でなによりです。すぐ退院できるといいですね」「そうでしょう? 元気だけが取り柄なのよ、私。動かないのが利き手じゃなくてよかったわ」紗良の母は明るく笑う。 杏介はその笑顔を見ている
杏介は交換するタオルやパジャマ一式を紗良から受け取ると、「じゃあ」と言って踵を返す。「あっ、杏介さん」「うん?」「あ、えと、おやすみなさい」杏介は紗良の髪をひと撫でする。 サラサラの髪の毛はふわりとシャンプーが香り、杏介の胸をドキンと揺らして引き留めようとした。 最近では以前にも増して頻繁に会っているというのに、どういうわけか胸の高まりは押さえられそうにない。おもむろに肩を引き寄せればポスンと杏介の腕の中におさまる紗良。「おやすみ、紗良」そっと耳元で囁いてから頬にキスを落とす。 お互い名残惜しさを感じつつも笑顔で別れた。部屋に戻れば海斗がまだ真っ赤な顔をしつつも元気そうに寄ってくる。「だれかきてたー?」「うん、先生からお見舞いもらったよ。何か食べる?」「ヨーグルトたべる。かいともせんせーにあいたかった」「先生も会いたがってたよ。でも風邪うつったら困るでしょ」「はやくほいくえんいきたい」「熱が下がったらね。ヨーグルト食べたら頑張って寝よっか」ずっしりと重たい袋から海斗の好きなアロエヨーグルトを取り出す。 奥の方には紗良の好きなとろけるプリンが入っていた。「私も食べようかな……」紗良は海斗と並んでとろけるプリンをいただく。 甘くてなめらかで口の中でつるんと溶ける優しい味わいに胸がいっぱいになった。
「ごめん紗良、常識ない時間だった」「ううん、大丈夫。どうしたの?」「これ、海斗にと思って」杏介はコンビニで買った袋を紗良に手渡す。 ずっしりと重い袋の中には数種類のゼリーとヨーグルトが入っている。「こんなにいっぱい?」「熱だとあんまり食べれないかもと思って」「ありがとう。海斗がすっごく喜ぶと思う」「海斗、大丈夫? もう寝てる?」「まだ起きてるよ。お熱が下がらなくてなかなか寝れないみたい。アニメ見てる」「そっか。紗良も気をつけて。何かあったらすぐ連絡して。俺にして欲しいことはない?」「大丈夫だよ」紗良はニッコリと笑う。 いつも一人で抱え込む癖のある紗良は、どうしたって弱音を吐かない。 それを杏介もわかってきているため、困ったように眉尻を下げた。「お母さんそろそろ一般病棟に移るんじゃないのか?」「うん、明日移るって」「行った方がいいんだろ?」「そうなんだけど、さすがに行けないかなって。風邪のウイルス持ち込むわけにはいかないもの」「じゃあ俺が行く。紗良の代わりに」「でも杏介さん仕事――」「そういうのは言いっこなしな」紗良の言葉を途中で遮り、杏介は強引に決める。紗良のためだけではない。 杏介にとっても紗良の母親は大切な存在だ。 自分の母と上手く接することができなかった杏介を非難することなく受け入れてくれ、なおかつ自分を息子の様に気遣ってくれる。そして石原家は、杏介が焦がれた家族のあたたかさを教えてくれる大事な場所なのだ。
母の容態に変化はなく、これ幸いにと海斗の迎えの後に病院に寄ることが日課になった。面会はほんの数分。 まだICUに入っている母は左手足と軽い失語症があるが、見た目元気そうな姿で紗良と海斗が来るのを喜んだ。 順調にいけばもう明日にでも一般病棟に移るかというところ。そんな矢先、海斗が熱を出してしまった。 突然の熱は保育園児にはよくあること。とはいうものの、数日前から海斗は鼻を何度もすすったりくしゃみが多くなったりはしていた。さすがにお見舞いに行くのは止めておかないとと思っていたらこのざまだ。土曜のプール教室を休んだことで、すぐに杏介から紗良に連絡がある。「海斗、どうかした?」「うん。保育園で風邪をもらったみたい。夏になるとよく流行るアデノウイルスだって」保育園でも流行っているし、プール教室でも静かに流行っているため杏介はなるほどと納得する。 仕事帰りにコンビニにより、ゼリーやヨーグルトを適当に買って石原家へ寄った。しんと静まり返っている石原家のインターホンを鳴らそうとして杏介は出しかけた手を一度ひっこめる。 時刻は二十一時。 杏介にとってはなんでもない時間だが、海斗はもう寝ているかもしれない。紗良に電話をかけて呼び出すと、カチャリと小さく音がしてもうパジャマ姿の紗良がそろりと顔を出した。
紗良と海斗はシングルの布団を隣同士くっつけて寝ている。 今日は海斗が紗良の布団にもぐり込んできた。「さらねえちゃん、てぇつなご」「うん、いいよ」ぎゅっと握ると海斗はえへへと笑う。 それほど大きくはない紗良の手だが、海斗に比べたらしっかり大人の手。 その手の中にまだ未熟な海斗の小さくて柔らかい手が包まれる。(可愛いな)そんなことを思っている間に海斗は手を繋いだまますぐに寝てしまった。いつも土日は二十二時までアルバイトで、紗良が帰る頃には海斗は寝ている。 寝かしつけは母に任せていたのだが、今までどうやって寝ていたのだろうか。 母がいるから大丈夫だろうと思っていたが、本当は寂しかったのだろうか。怒濤のような一日が終わり、しんとした室内。 母がいない、海斗と二人きりの夜。 やけに静かでもの悲しい。 あれこれと浮かぶ心配事に紗良は眠れないでいた。(ここに杏介さんがいてくれたら……)昼間は杏介が駆けつけてくれて、紗良は本当に心強くてたまらなかった。 杏介がいるというだけでほっとしたし安心した。 いつの間にこんなに弱くなったのだろうか。(私はもっと強くて一人でも平気だと思っていたのに)得も知れぬ不安が紗良を襲い胸を締めつけていく。 母のことも海斗のことも、これからの生活のことも。 すべてが重く暗い闇に飲み込まれて、その重圧で押しつぶされそうになる。じわりと滲む涙を拭い、大きく息を吐き出す。 なにもかも一筋縄ではいかない。海斗を引き取るとき、生半可な意思ではなかった。 けれど育ててみて直面するイレギュラーな事態は予想以上に多い。母の脳梗塞再発だって、一回目の脳梗塞の時に医師から言われていた事。 再発する可能性もあります、と。忘れていたわけではない。 油断していたわけでもない。 それでも現実に直面するとこんなにも心が苦しくなるなんて。紗良は枕元に置いてあったイルカのぬいぐるみを手繰り寄せる。 ぎゅっと抱きしめればなぜだか心が少しだけ落ちつくような気がした。
夕方になっても全然お腹はすかなかった。 けれど海斗がいる手前、夕飯を抜くわけにはいかない。ひとまず海斗と一緒にお風呂に入ってから簡単に夕飯の準備を始める。 と、紗良の背後に静かに海斗が立っていた。「ん? どうしたの、お腹すいた?」「さらねえちゃん、いまからおしごといくの? かいとひとり?」「今日は行かないよ。お休み。おばあちゃんもいないし、海斗ひとりにできないでしょう?」海斗はおもむろに紗良のシャツの裾をぎゅっと握る。 紗良は何事かと首を傾げた。「……ごめんなさい」「え、なにが?」「かいとがひとりでおるすばんできないから、さらねえちゃんがおしごといけなくてごめんなさい」「え? やだ、そんなのいいんだってば。私だって仕事なんかより海斗と一緒にいたいし。海斗のせいじゃないんだから」「きょうはいっしょにごはんたべれる?」「食べれるよ」「いっしょにねれる?」「もちろん」「えへへ、やったー」海斗は紗良に抱きつく。「だっこして」と甘えるので、夕食作りの手を止め海斗をぐっと持ち上げた。 来年にはもう小学生になるというのに、まだまだ幼い海斗。 ずいぶん重くなったけれど、甘えん坊は変わらない。それでも、海斗は海斗なりに何かを感じ取っていたのだろう。 幼いからわからないのではなく、わかる範囲で理解して自分で考えている。(海斗もいろいろ我慢してきたんだろうな)海斗は紗良が土日の夜に仕事をしているのを理解している。 今日本来なら仕事があることをわかっていたし、いつもなら祖母と過ごすこともわかっている。 だからこそいつもと違い紗良が家にいることが海斗を不安にさせたのだ。けれどそれは、もしかしたら今まで必要以上に海斗に負担を強いてきたのではないだろうかと、紗良の胸に刺さった。(仕事もお金も大事。だけど、ごめんなさいだなんて、そんなことを思っていたなんて……)海斗に不自由させたくない。 だから働く。 お金はあればあるほどいいのだ。だけど――。お金がすべてではない。 確かにあるに越したことはないけれど、それでも今一番大事にしなくてはいけないのは海斗の気持ち。 きっと、そうなのだろう。
紗良は散らかった折り紙を片付けながら、杏介は一生懸命海斗と遊んでくれたんだなと思いを馳せた。隣には海斗がいるというのに、急に大きな存在が目の前から消えてしまったような感覚に陥りもの悲しさを覚える。 それにいつも元気な母がいないことも、妙に家が広く感じて仕方がない。初めて母が脳梗塞になったときは意識がなく、生きるか死ぬかという山を乗り越えた。 幸いグングン回復して支障となる大きな後遺症も残らず、元の生活に戻った。 変わったことといえば、車の免許を返納したことと定期的な通院をするようになったこと。その時に、紗良は「母が死ぬかもしれない」ということを嫌というほど経験したし、医者から「脳梗塞は再発することがある」と聞かされていた。そしてその後の姉夫婦の事故死でも、紗良は心を抉られるくらいに「死」というものに対して考えさせられた。だからいつか何かがあったときの「覚悟」はあった。 していたつもりだった。けれど月日が流れ当たり前に生活できているとそんな「覚悟」も頭の隅に追いやられ薄れていく。母はICUに入っているが意識はある。 順調にいけば一週間ほどで一般病棟に移りリハビリが始まると医師から説明を受けた。 ただいつ急変してもおかしくないのが脳梗塞だ。 元の生活に戻れるかもわからない。そんな漠然とした不安がふとした瞬間に大きくなって波のように紗良に襲いかかってくる。 どうしようもない恐怖に押しつぶされそうになるが、視界の端に海斗を捉えるたび、しっかりしなくてはと自分を鼓舞するのだった。
アルバイト先にもしばらく休むことを伝え、お昼時もだいぶ過ぎた頃、紗良はようやく自宅へ戻った。「ただいまー」玄関を開けると奥から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。リビングに足を踏み入れれば、散乱した折り紙や絵本、そして杏介の膝に座ってスマホゲームをしている海斗がいた。「ああ、紗良、おかえり」「ただいま。おかげで手続きとかいろいろと終わったよ。杏介さん、大変だったよね?」「あ、ごめん。部屋が散らかりすぎてるな。あと、海斗にスマホゲームさせるのはよくなかったかも」「ううん。全然いいの。すごく助かってるから。海斗、よかったね」うん!と元気のいい返事が返ってくるも海斗はゲームに夢中になったまま杏介の膝の上でご機嫌だ。「紗良、バイトは休んだ?」「うん、さすがに行けないから。しばらくお休みさせてもらうことにしたの」「そうか。それがいいな」「あ、二人ともお昼はどうしたの?」「残ってたおにぎりとかパンを食べたよ。紗良は? ちゃんと食べた?」「うん、病院のカフェで少し……」本当はアイスコーヒーを一杯飲んだだけなのだが。 それを言えば杏介は心配するに決まっているので、食べたことにしておく。 朝は杏介と海斗が気持ちを盛り上げてくれたため食べることができたが、やはり一人での食事は喉を通らなかった。「よかったら夕飯食べてって。それくらいしかお礼できないんだけど……」「ありがとう。でも今から仕事だからさ。また今度いただくよ」「えっ、お仕事だったの? ごめんなさい、こんなに長くいてもらって」「いいんだ。気にするなよ。今から仕事だけど、何かあればすぐに電話してくれて構わないから。夜中でもいつでも。まあ、何もなくてもかけてくれていいんだけど。いつでも紗良の声聞きたいし」「ありがとう、杏介さん」思わず潤んでしまった目を隠すために紗良は少し俯く。 そんな紗良の頭を杏介は優しく撫でた。「海斗も、また来るからな」「わかったー。こんどまたゲームやらせてね」「紗良姉ちゃんの言うこと聞いていい子にしてたらな」「わかった。いいこにする」海斗は親指を突き立てキリリと頷く。後ろ髪を引かれながらも、杏介は仕事に向かった。 こんなときこそ仕事を休んでずっと紗良の元にいたいと思ったが、シフト勤務でなおかつ生徒を抱える身としては早番と遅番を変更してもらうので精一杯だ