動物園には芝生の広場もあり、たくさんの家族連れで賑わっている。紗良たちもまわりに植えられている木の影を狙って持ってきたレジャーシートを敷いた。 ちょっとした秘密基地のようで海斗のテンションも高くなる。持ってきた水筒のお茶をグビグビと飲んでからリュックをあさり出した。「まさか紗良があんなにも馬がだめだなんて知らなかったな」「実は動物も虫も苦手なの」「じゃあ動物園は嫌だった?」「ううん。檻に入っていれば大丈夫だし。海斗が楽しそうだからそれでいいよ。でもさすがに馬はきつかったかな。さ、お弁当にしよ」「お弁当作ってきてくれたんだ?」「大したものじゃないけど。杏介さん嫌いな食べ物なかった?」「ないよ。何でも食べる」ドキドキと緊張しながらお弁当箱を取り出すと横から海斗が「はやくはやくー」と急かす。 蓋を開ければお弁当独特の柔らかいにおいがふわっと香った。「やったー! タコさんウインナー!」「こら海斗! いただきますは? あっ、ほら、ほうれん草も食べなきゃダメよ。……杏介さんどうかした?」お弁当を見てじっと固まってしまった杏介に、紗良は恐る恐る尋ねる。 もしかして手作り弁当は迷惑だったのかもと心配になったのだが、どうやらそうではないようだ。「いや、なんか感動っていうのかな。タコさんウインナー初めて見たから。こんな感じなんだ……と思って」「せんせー、タコさんウインナーすき? さらねえちゃん、カニさんウインナーもつくれるよ。あとおはな」「そうなんだ、それはすごいな」「えっ! ただ切れ目入れるだけなんだけど。簡単すぎて恥ずかしいなー」「いや、すごいよ」「海斗が喜ぶかなって練習したの。保育園たまにお弁当の日あるし」「海斗は幸せ者だな」「そうかな? そうだといいけど」杏介はタコさんウインナーをまじまじと眺めてから大事そうにひとつ口に入れた。 ひと噛みひと噛み噛みしめると、じゅわっと肉の味が広がっていく。 素材は普通のウインナーと変わりないというのに特別に美味しく感じるようだ。「うん、美味い!」「……ありがとう」パクパク食べる海斗と杏介の姿を見ているだけで紗良は幸せで満たされていくようだった。
午後からは併設されているキッズ遊園地へも足を運んだ。コーヒーカップでグルグル回ったり、メリーゴーランドに乗ってみたり、海斗でも乗れるキッズ用ジェットコースターが意外とスリルがあったりと、楽しくてあっという間に時間が過ぎていた。観覧車に乗るころにはもう夕方だ。今日ばかりは紗良もシフトを入れておらず、帰りの時間を気にせず目一杯遊んだ。とはいうものの、やはり海斗の生活リズムを考慮して遅くなることは避けるのだが。帰りの車では海斗はきちんと約束を守って後部座席へ座る。紗良はドキドキしながら助手席へ乗り込んだ。杏介の隣に座ることはいつでも嬉しい。車が発進すると、早々に海斗は船をこぎ出す。そんな様子をバックミラーごしに確認して、紗良と杏介は顔を見合わせて笑った。「杏介さん、今日は連れてきてくれてありがとう。 貴重なお休みだったのに」「 紗良、それはもう言いっこなしだ。俺は二人と過ごせてすごく楽しかった。いい休日になったよ」「それならよかった」「でもまさか紗良が動物嫌いだとは思わなかったな。それなのに動物園に行きたいだなんて、やっぱり海斗のため?」「それもあるけど、そういうところで杏介さんとデートしてみたかったというか、杏介さんも一緒なら大丈夫なんじゃないかなって思ったから」「で、どうだった?」「すっごく楽しかった。馬以外は。あれはダメだよ。もう、目が怖くって」「あはは。珍しい紗良が見れたのは貴重だったな」卒倒しかけた紗良を受け止めたことを思い出して杏介はくっくと笑う。「杏介さんこそ、タコさんウインナーにあんなに感動するなんて思わなかったよ」対抗するように紗良も印象深い出来事を口にすると、杏介は「あー」と言いながら頬をかいた。
「 俺さ、母親がいないんだよね」「え?」「いや、正確にはいるんだけど。幼いころに病気で亡くなって父子家庭で育ってさ、数年後に父親は再婚したんだけど、新しい母親と上手くいかなくて。……いや、上手くいかないっていうか、俺が毛嫌いしているだけなんだけど。だからそういうお弁当は憧れだったんだ。長年の夢が叶ったような、そんな気持ち、かな」「そう、だったんだ」「引いた?」「ううん、全然。私、杏介さんのこと全然知らなかったんだなって思って」「そうだよな。あんまりこういう話ってしないし。まあ聞いてもつまらないと思うけど」世の中にはいろいろな人がいる。 誰一人として環境が同じなわけではない。 そんなことはわかっているけれど、紗良のような家庭環境は珍しいのではないかとどこかでそう思っていた。 きっと杏介も『普通』の家庭なのだろうと決めつけていた。 そんな風に考えていた自分を反省する。「……私たちってお互いのこと全然知らないよね」「そうかもしれないな」紗良は姉の子供の海斗を育てていて、実家暮らしで母と住んでいる。 平日は事務の仕事をしていて土日はラーメン店でアルバイト。杏介は海斗の通うプール教室の先生で、仕事終わりに紗良の働くラーメン店へよく訪れる常連客。 そして一人暮らし。今までの付き合いからこれくらいの情報はお互いに知っている。 けれどそれ以上深く聞くこともなかったし、自ら語ることもなかった。それがいいのか悪いのかわからないけれど、紗良の知らなかった杏介の内面の話は紗良の固定概念を崩すには十分だった。
お互いのことをよく知らない。表面上はよくわかっていても、その生い立ちや家庭環境までは踏み込んでいない。(杏介さんのこと、もっと知りたいかも……)そう思うのと同時に、紗良は自分のことも知ってもらいたいと思った。好きだから知りたい、好きだから知ってもらいたい。付き合うことはできないと断った後もこうして一緒にお出かけして、まるで付き合っているのと変わらないような関係が続いていることに自分自身喜びを覚えている、この矛盾した生活。自分のことを伝えたら杏介は呆れるだろうか。この関係は崩れるだろうか。だったとしても、今、伝えたい気がした。ずっと燻っている、紗良の気持ちを。紗良は海斗がぐっすり眠っているのを確認してから口を開く。「あのね、うちの両親は離婚してるの。私は母子家庭だけどお母さんが明るすぎて父親の存在なんて忘れちゃうくらい」「確かに、紗良のお母さんは底抜けに明るいよな」「でしょう。だからね、海斗を引き取るときも大丈夫だと思った。私もお母さんみたいにやれるって思ったの。でも実際はすごく大変でお母さんに頼ることも多くて全然できてないけど、でも私なりに頑張ってて……」「うん、すごいと思うよ。だって最初に出会ったときは海斗の本当の母親だと思ったから」「そう言ってもらえて嬉しいんだけど。でもね、最近はダメなの……」紗良は杏介を見る。運転している杏介の横顔は夕日に照らされてキラキラと眩しく、それでいて頼もしくかっこいい。(ああ、私ってこんなにも杏介さんのことが好きなんだ……)自覚すると胸がきゅっと苦しくなる。伝えるべきなのか、どうなのか迷う。だが杏介は「何がダメ?」と優しく問うた。
「……杏介さんがいてくれたらいいのにって思っちゃって。……呆れちゃうよね?」「いや、どうして?」「だって、そんな都合のいい話はないじゃない」「都合よく俺のこと好きでいてもらえると嬉しいけど」「私は杏介さんが好きだけど、でもそれは心の奥底では海斗の父親を求めているのかもしれない。そんな風に考えちゃう自分が嫌なの。……ごめんなさい」胸がヒリヒリと痛かった。紗良が誰かを好きになるということは必ず海斗がセットでついてくる。 紗良は誰かに海斗の父親を求めてはいないけれど、海斗を切り捨てることは絶対にない。 この先一緒に生きていくには結局のところ海斗の父親になってもらうということ。 たとえ表面上でも、だ。けれど杏介は「いい」という。杏介の優しさが紗良の鼻の奥をツンとさせた。「そんな風に謝るなよ。俺はそうやって利用してもらっても構わないよ。その話を聞いてますます紗良が好きになった」「……好きになる要素がどこにあるの?」「いいんだ。俺が好きだから。紗良がなんと言おうと口説いてみせるよ。だからまたこうしてデートしよう」「……うん、ありがとう」今度こそ紗良は鼻をすする。 こんなにも理解があって優しい人が、自分のことを好きだと言ってくれる。 待っていてくれる。 その事実がありがたいし申し訳ない。「くそ、今が運転中じゃなければ抱きしめられたのに」「物好きだよね、杏介さんって」「そうかな?」「そうだよ。普通こんな女面倒くさいでしょ」「うーん」杏介は首を傾げる。 ちょうど信号で止まり、ずっと前を向いていた杏介が紗良を見た。 視線が絡まると杏介の目元はくっと緩み、紗良の胸はドキンと悲鳴を上げる。杏介はすっと腕を伸ばし、紗良の髪を優しく撫でた。 ぐいっと引き寄せたいのを我慢し、代わりに心からの想いを告げる。「好きだよ、紗良」「っ!」そんなストレートな言葉は紗良の心を優しく包み込む。 とんでもなく胸がしめつけられて体の奥底から熱いものが込み上げてくるような、そんな気持ちになった。
ゴールデンウィーク明け出勤すると、いつも元気いっぱいの依美が休暇だった。紗良と依美は昼食もよく一緒に食べる。だからどちらかが休暇を取るときは事前に伝えておくか、メッセージなどで連絡をすることにしている。今日は依美からの連絡はないけれど、連休を繋げて長期連休にする社員も多いし、そんな時もあるだろうとさほど気にしていなかった。だが依美は翌日も休み、さらには翌週になっても出勤してこない。さすがに気になってメッセージを送ってみるも、まったく返事はなかった。どうしたのだろうと心配で何度もスマホを確認するが、何度メッセージを送っても返ってくることはなかった。「石原さん、松田さん、ちょっといいかな?」主任から声をかけられ、二人面談室に入る。松田も紗良と同じチームで働く、年配の派遣社員だ。「岡本さんなんだけど、体調不良でしばらく出勤できそうにないんだ。悪いけど、その間の仕事を分担して欲しい。少し大変になるかとは思うけど……」紗良と松田は顔を見合わせる。二人とも残業は無しという契約のため、増える作業量を定時間内にこなせるのか不安が過った。「岡本さん、大丈夫なんです? 私たち残業できないのであまり仕事が増えると捌ききれるかわかりませんけど?」松田が懸念事項を告げてくれたため、紗良も同意見だと大きく頷く。「とりあえず二週間お休みになるから、その間だけ頑張ってほしい。もちろん、契約通り定時で帰ってもらってかまわないよ。それに、我々もサポートするから」「……はい」としか返事はできなかった。しょせん紗良は派遣社員。与えられた仕事を請け負うことが仕事なのだ。「岡本さん心配ね。石原さん何か事情聞いてないの?」「はい、私も心配で何度かメッセージを送ったんですけど、返事がないんです」「そうなの。まあとりあえず分担して頑張りましょうか。復帰したらランチでもおごって貰わなきゃね」茶目っ気たっぷりに松田が言うので、紗良も「そうですね」と笑った。
分担した仕事は思いのほか重く、残業のできない紗良は毎日必死にこなしていた。 いくらまわりにサポートするからと言われても未経験の作業を教えるには時間がかかるし、効率的ではない。 紗良とて慣れない作業が発生しているため、自分のことで精一杯なのだ。最初、二週間の期間限定だという話だったが、気づけばそれは一ヶ月に延び、さらに二ヶ月目に入ろうとしていた。さすがにそこまで時間が経てば紗良も時間配分など上手くさばけるようになってくる。 だがそれは余裕で仕事ができているわけではなく、努力して頑張っているからだ。 当然、松田然りである。そんなとき、再び主任に呼び出された紗良と松田は、依美が切迫流産で入院すると聞かされた。 そのため、負担は変わることなくそのまま紗良と松田の仕事になってしまった。「岡本さん、妊娠してたのね。まあ、薄々そんなんじゃないかと思っていたけど」「そうなんですか? てっきり大病でも患ったのかと思ってました」「切迫も大変だけどねー。無事に乗り越えられるといいわよね」「本当ですよね」「まあでも、私たちの負担は変わらずだなんて、主任もひどいと思わない? 他に人雇ってくれたらいいのにねぇ」「松田さんは仕事大丈夫です? だいぶ負担じゃありません?」「しんどすぎでしょ。もうお婆だからさ、無理させないでほしいわよ。しかも帰ったら親の介護が待ってるのよ。ほんとしんどいったらありゃしない。そういう石原さんこそ、息子さんいるんでしょ」「はい、なかなかにバタバタな日々を送っています」「やっぱり私、主任に訴えてくるわ。もう一人雇ってくださいって。だいたい派遣の私たちに仕事押しつけすぎなのよ。ねっ?」「……そう、思います」決して依美が悪いわけではないことはわかっている。 わかってはいるのだが、一言くらいメッセージをくれてもいいのに、と紗良は小さくため息をついた。 疲れはピークに達していた。
毎日の負担に加えて土日はラーメン店でのアルバイトがある。本業の仕事が忙しくなるにつれていろいろと余裕がなくなり、気づけば紗良はバイト先で杏介に会えることが唯一の楽しみになっていた。季節は夏。夏の夜でも暑さは昼間よりほんの少し和らいだ程度。仕事終わりにコンビニの前で立ち話をしていてもじわりと汗が滲む。「杏介さん、ぎゅってしてもいい?」「いいけど、どうした?」「ちょっと疲れちゃって……充電させて?」紗良から積極的に杏介に甘えるのは珍しい。一歩近づいた紗良を、杏介は優しく腕に絡め取った。思ったよりも華奢な紗良と思ったよりも筋肉質な杏介。ぎゅっとさせてと言ったのは紗良の方なのに、ドキドキと鼓動は速くなる。今は夏で夜でも汗ばむというのに、二人くっついている感覚は不思議と暑さを感じない。むしろ肌のぬくもりが心地良いとさえ感じてしばし微睡んだ。「紗良?」コテンと杏介の胸に頭を預ける紗良が微動だにせず杏介は声をかける。「――紗良」「はっ!」呼ばれて慌てて頭を上げる。「大丈夫?」「なんか気持ちよすぎて一瞬寝ちゃってた気がする」「前から思っていたけど、働きすぎなんじゃないか?」「そんなことないよ」「バイト、続けないとダメなのか? ダブルワークはしんどいだろう?」「うん……でも、やめたら……困っちゃうし。私が働かないと」アルバイトを辞める選択肢を考えたことがないわけではない。実家暮らしで母親と共同生活をしているため派遣の給料で賄えないことはないのだ。けれど海斗が成長するに従って必ずお金はかかる。小学校、中学校、高校と、今のうちに貯金できるならしておくことに越したことはない。そう思って続けているのだけど。最近は本業の方が忙しく疲れがたまっていることを自覚している。松田が上司に人を雇ってほしいと申し入れたが、なかなか難しいようだ。
「どうしたの、海斗」「これを見て!」海斗はおもむろにランドセルを背負う。 まだまだピカピカのランドセルを、紗良に見せつけるように体を捻った。「ランドセル?」「そう! ランドセル! 写真撮りたい。リクもさなちゃんも写真撮りにいったんだって」「写真? 写真なら撮ってあげるよ」紗良は自分のスマホのカメラを海斗に向ける。「ちがーう。そうじゃなくてぇ」ジタバタする海斗に紗良は首を傾げる。 咄嗟に杏介が「あれだろ?」と口を挟む。「入学記念に家族の記念写真を撮ったってことだよな?」「そう、それ! 先生わかってるぅー」「ああ~、そういうこと。確かに良いかもね。お風呂で何か盛り上がってるなぁって思ってたけど、そのことだったのね」「そうそう、そうなんだよ。でさ、会社が提携しているフォトスタジオがあるから、予約してみるよ」「うん、ありがとう杏介さん」ニッコリと笑う紗良の頭を、杏介はよしよしと撫でる。 海斗に関することなら反対しないだろうと踏んでいたが、やはりあっさりと了承されて思わず笑みがこぼれた。「?」撫でられて嬉しそうな顔をしながらも、「どうしたの?」と控えめに上目遣いで杏介を見る紗良に、愛おしさが増す。「紗良は今日も可愛い」「き、杏介さんったら」一瞬で頬をピンクに染める紗良。 そんなところもまた可愛くて仕方がない。夫婦がイチャイチャしている横で、海斗はランドセルを背負ったまま「写真! 写真!」と一人でテンション高く踊っていた。
「おーい、二人ともー、いつまで入ってるの?」バスルームの扉がノックされ、紗良のシルエットが映った。 海斗と内緒話をしていたら、ずいぶんと長湯をしてしまったらしい。「今出るとこー」「でるでるー!」ザバッと勢いよく湯船を飛び出す海斗を、杏介は慌てて呼び止める。「海斗、わかってるよな?」「もちろん! 俺にまかせてよ!」二人目配せをしてからようやく湯船から上がった。 全然体を拭けていないまま裸でリビングへ走って行く海斗を見て、杏介は少々不安になる。 と、やはり「早く着替えなさい」と紗良の咎める声が響いてきて、今日も我が家は平和だなと思った。「もー、杏介さんも叱ってよ」「ん? ごめんごめん。海斗~そんなことじゃ海斗のお願い事はきけないぞ」「あー、ごめんなさーい。今着替えてるからちょっと待って」「……お願いごと?」紗良は首を傾げる。 何か欲しいものでもあるのだろうか? 誕生日はまだ先だし、クリスマスもまだまだ先のこと。 学校でなにか情報でも仕入れてきたのだろうか。それならあり得るかもしれない。「紗良姉ちゃん」海斗は紗良のことも相変わらず『紗良姉ちゃん』と呼ぶ。慣れ親しんだ名を変えることは容易ではない。紗良もわかっているから深くは追求しない。
家族になって数ヶ月、いつからだろうか、杏介の帰りが早い日は海斗と一緒にお風呂に入ることが習慣になっていた。男同士、くだらない話題で盛り上がりついつい長湯をしてしまう。「はー、さっぱりするー」海斗が湯船につかって「ごくらくごくらく」と呟く。「極楽って、どこで覚えたんだ? 意味知ってるのか?」「えー? なんかね、リクが言ってたからさ~。ごくらくって良いことって意味でしょ?」「うーん、ちょっと違うけど。あながち間違いではないな」「えー? そうなのー? うーん」海斗は小学一年生。新しい友達も増え、良い言葉も悪い言葉もたくさん覚えてくるようになった。微笑ましく感じることもあれば、きちんと正してやらなくてはいけないこともある。子育てはなかなか難しい。「ところで海斗、相談があるんだけど」「うん、なになにー?」「あのな――」杏介は少し声をひそめる。うんうんと真剣に耳を傾け、海斗は男同士の秘密ごとにはっと口元を押さえた。「先生、それめっちゃいい!」「だろ?」杏介と海斗はグッと親指を立てる。海斗は未だ杏介のことを『先生』と呼ぶ。本当は『お父さん』と呼んでほしいところだが、無理強いをするつもりはない。海斗の気持ちを大事にしたいからだ。
紗良はぐっと体を起こし、先ほどとは反対に杏介を布団に押しつける。 突然のことに驚いた杏介は目を丸くしたが、その後更に驚いた。杏介を見下ろした紗良は片方の髪を耳にかけ、杏介の上に降ってきたのだ。柔らかくあたたかい感触の唇が押しつけられ、杏介の心臓が思わずドキンと跳ねた。 ほんの一瞬だったように思う。「……続きは夜ね」紗良は恥ずかしくなって、バタバタと寝室を出て行く。 小さく呟かれた声はしっかりと杏介の耳に届いて、頭の中で反芻する。 妻のあまりの可愛さに、杏介は布団の中で一人身悶えすることになったのだった。こんな夫婦のイチャイチャなやりとりがされているなか、隣で寝ている海斗はまったく起きない。 まるで空気を読んでいるかのようでありがたいことだ。「……そろそろ海斗、一人で寝てくれないかな」もう小学一年生。 海斗もいずれは一人で寝ることになるだろう。 そうしたら存分に紗良を堪能できるのに……などとやましいことを考えつつ、まだまだ可愛くて手のかかる海斗を起こしにかかった。キッチンからはパンの焼ける良いにおいが漂ってくる。 紗良が朝食の準備を始めたのだ。「海斗~いいかげん起きろ~」何度揺すっても起きない海斗の布団をはぐ。 「まだねる~」とむにゃむにゃ呟く海斗を引きずるように起こし、自分も準備に取りかかる。こんな何気ない日常がなんて幸せなことだろうと、杏介は知らず微笑んだ。 【END】
「き、杏介さんっ。ちょっと……」杏介の甘い視線に気づき、紗良はこの先のことを想像して、焦って左側にいる海斗を確認する。 相変わらず大爆睡の海斗は起きる気配がない。 杏介もそれは気にしたようで視線をチラリと動かすが、すぐに紗良に戻ってくる。「ちょっとだけ」「んっ……」頬に手を添えながら濃密なキスを落とす。 寝ぼけ眼には刺激的なその行為に、一気に目が覚めるような、それでいてまだ眠りの淵にいたいような微睡んだ感覚に溺れそうになった。もう仕事なんて放棄して、このまま二人で過ごしたい。 一日中布団の中でくっついていたい。そんな風に思考が持っていかれたときだ。ピピピッピピピッ枕元に置いていた目覚まし時計が鳴り出し、ハッと我に返る。 杏介を押しのけて目覚まし時計に手を伸ばせば、不満顔の杏介と目が合った。「……だって、起きる時間だもん」紗良は時計の針が見えるように杏介に示す。 杏介と結婚してから、紗良の起きる時間は少しだけ遅くなった。 五時半に起きていたのを六時に変えたのだ。 出勤時間の遅い杏介が、海斗の送り出しや洗濯干しを担ってくれたからだ。「不完全燃焼……」ポツリと呟く杏介に、紗良は困ったように眉を下げる。 紗良とて、起きなくてもいいならこのまま寝ていたい。 杏介といつまでもくっついていたい。
そう思うと、もう、そうとしか思えなくなる。この紗良の異常な行動は照れているからだろうか。だとしたら嬉しすぎてたまらないと杏介の胸は逸る。杏介はイルカのぬいぐるみをそっと抜き取る。と、「あっ」と紗良は声を上げてイルカの行方を追いつつ、杏介とバッチリと目が合った。「おはよう紗良」「……おはよう」それはもうごまかしようのない状況に、紗良は観念してぎこちなく挨拶を返す。杏介にじっと見つめられて、紗良は不自然に目をそらした。「ねえ、さっきのもう一回して」「さ、さ、さ、さっきのって?」「キスしてくれたよね?」「……お、起きてたの?」「んー? それで起きた。夢うつつだったからちゃんとしてほしいなーって」「……」「照れてる紗良も可愛い。毎日紗良のキスで起きたい。一日頑張れそうな気がする」「わっ」ぐいっと腰を引き寄せられて、ひときわ杏介と密着する。こんなこと初めてじゃないのに、いつもちょっと恥ずかしくて、でも嬉しい。杏介の胸に耳を当てれば、トクトクと心臓の音が聞こえる。とても安心する音に紗良は目を閉じた。と、突然体がぐいんと回る感覚に紗良は「わわっ」と声を上げる。横向きで寝ていたのに仰向きにされ、上から杏介が覆い被さってきたのだ。
触れたい――。そう思うのに、いつも自分からは触れられない。 杏介がきてくれるから応えるだけ。 それはそれで嬉しくてたまらないのだけど。 やっぱり自分からも積極的に……と思いつつ結局勇気が出ないまま流れに身を任せている状態。もう恋人じゃない、夫婦なのだから、何となく今までとは違う付き合いになるのではなんて思っていたけれど、まだまだ恋人気分が抜けないでいる。そもそも、恋人期間があったのかどうなのか、微妙なところではあるけれど。紗良はそっと手を伸ばす。 杏介の髪に触れるとさらっと前髪が流れた。少しだけ体を起こして杏介に近づく。 吐息が感じられる距離に心臓をバクバクさせながら、ほんのちょっとだけ唇にキスを落とす。ん……と杏介が身じろいだ気がして紗良は慌てて身を隠した。杏介が目を開けると、目の前にはイルカのぬいぐるみ。いつも紗良が抱きしめて寝ているあれだ。 そのイルカのぬいぐるみに身を隠すようにして紗良が丸まっている。この寝相は新しいなと思いつつ紗良の頭を撫でると、紗良はビクッと体を揺らした。 完全に起きていることがバレるくらいの動じ方だ。「……紗良、起きてるの?」「……起きてません」なぜそこで否定を……と思いつつ、目を覚ます前に感じた唇の感触を思い出して杏介は寝ぼけて回らない頭を無理やり動かした。(あれは夢じゃなくて、もしかしてキスだった?)
微睡みのなか目を開けると、一番に目に飛び込んできた顔に、紗良は一気に目が覚めた。「きっ……」杏介さんと叫びそうになって慌てて口を閉じる。目覚まし時計のアラームはまだ鳴っていない。まだほの暗く静かな部屋の中。杏介と、反対側にいる海斗の規則的な寝息だけがすーすーと聞こえてくる。イルカのぬいぐるみを抱いた紗良は、なぜか杏介に包まれるようにして寝ていたようで、しばし思考が止まる。(……なんで?)というのも、海斗を真ん中に三人で川の字になって寝たはずである。それなのにどういうわけか海斗は紗良の背中側におり(しかも寝相が悪すぎて布団からはみ出ている)、紗良は杏介にぴっとりとくっついている状態。紗良の腰には杏介の腕が巻きついている。要するに、イルカのぬいぐるみを抱いている紗良を杏介が抱いている、という形になるわけだが。(……抱きしめられてる)それを理解した瞬間、紗良の心臓はバックンバックンと騒ぎ出した。結婚して四ヶ月ほど経つというのに、隣に杏介が寝ているというだけでドキドキとしてしまう。間近に見る杏介の寝顔は、男性なのに綺麗で可愛いと感じる。長い睫毛や通った鼻筋、形の良い唇。そのどれもが愛おしく感じて胸が騒ぐ。
◇海斗のプール教室は、いつも弓香さんと一緒に観覧席から見守っている。 全面ガラス張りなのでほとんどすべてが見渡せ、海斗のみならず別のクラスを担当している杏介さんの姿もしっかりと確認できる。「うちも海ちゃんと一緒に同じクラスに上がれてよかったわ」「一緒だとやる気も上がるしいいよね」「でも先生が代わっちゃったのがちょっとなー。どうせなら小野先生がよかったわ」「弓香さん、小野先生推しだもんね」私は杏介さん推しだけど、なんて心の中で唱える。 チラリと視線を海斗から杏介さんに向ければ、逞しい体が目に入った。……急に思い出してしまう。あの日のことを。あの逞しい体に、抱かれたんだよね。 すごくかっこよくて、何度もキスをしてくれて、何度も紗良って名前を呼んでくれて、幸せで胸が張り裂けそうになった。初めてはすっごく痛かったけど、でもそれ以上に、杏介さんとひとつになれたことが嬉しくてたまらなかった。私、こんなにも杏介さんのことを好きで愛していたんだって改めて実感した。「おーい、紗良ちゃん? 紗良ちゃーん」「は、はいっ!」「どした? 推しでも見つけた?」「いや、なんでもないよっ」あまりにも杏介さんのことを見ていたからだろう、弓香さんが不思議そうに首をかしげる。前はプール教室の先生なんて全員同じ顔に見えていたし、推しだなんて考えたこともなかった。 だけど今はもう、全員違う顔に見える。当たり前だけど、杏介さんが一番かっこいい。もうちょっとしたら、弓香さんにもちゃんと報告しよう。 杏介さんと結婚しますって。 そしたら何て言うだろう? 驚くかな?その時のことを考えて、私はまたドキドキと心を揺らした。 【END】