Share

お互いのこと-08

last update Last Updated: 2025-01-14 05:09:05

ゴールデンウィーク明け出勤すると、いつも元気いっぱいの依美が休暇だった。

紗良と依美は昼食もよく一緒に食べる。

だからどちらかが休暇を取るときは事前に伝えておくか、メッセージなどで連絡をすることにしている。

今日は依美からの連絡はないけれど、連休を繋げて長期連休にする社員も多いし、そんな時もあるだろうとさほど気にしていなかった。

だが依美は翌日も休み、さらには翌週になっても出勤してこない。

さすがに気になってメッセージを送ってみるも、まったく返事はなかった。

どうしたのだろうと心配で何度もスマホを確認するが、何度メッセージを送っても返ってくることはなかった。

「石原さん、松田さん、ちょっといいかな?」

主任から声をかけられ、二人面談室に入る。

松田も紗良と同じチームで働く、年配の派遣社員だ。

「岡本さんなんだけど、体調不良でしばらく出勤できそうにないんだ。悪いけど、その間の仕事を分担して欲しい。少し大変になるかとは思うけど……」

紗良と松田は顔を見合わせる。

二人とも残業は無しという契約のため、増える作業量を定時間内にこなせるのか不安が過った。

「岡本さん、大丈夫なんです? 私たち残業できないのであまり仕事が増えると捌ききれるかわかりませんけど?」

松田が懸念事項を告げてくれたため、紗良も同意見だと大きく頷く。

「とりあえず二週間お休みになるから、その間だけ頑張ってほしい。もちろん、契約通り定時で帰ってもらってかまわないよ。それに、我々もサポートするから」

「……はい」

としか返事はできなかった。

しょせん紗良は派遣社員。

与えられた仕事を請け負うことが仕事なのだ。

「岡本さん心配ね。石原さん何か事情聞いてないの?」

「はい、私も心配で何度かメッセージを送ったんですけど、返事がないんです」

「そうなの。まあとりあえず分担して頑張りましょうか。復帰したらランチでもおごって貰わなきゃね」

茶目っ気たっぷりに松田が言うので、紗良も「そうですね」と笑った。
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Related chapters

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   お互いのこと-09

    分担した仕事は思いのほか重く、残業のできない紗良は毎日必死にこなしていた。 いくらまわりにサポートするからと言われても未経験の作業を教えるには時間がかかるし、効率的ではない。 紗良とて慣れない作業が発生しているため、自分のことで精一杯なのだ。最初、二週間の期間限定だという話だったが、気づけばそれは一ヶ月に延び、さらに二ヶ月目に入ろうとしていた。さすがにそこまで時間が経てば紗良も時間配分など上手くさばけるようになってくる。 だがそれは余裕で仕事ができているわけではなく、努力して頑張っているからだ。 当然、松田然りである。そんなとき、再び主任に呼び出された紗良と松田は、依美が切迫流産で入院すると聞かされた。 そのため、負担は変わることなくそのまま紗良と松田の仕事になってしまった。「岡本さん、妊娠してたのね。まあ、薄々そんなんじゃないかと思っていたけど」「そうなんですか? てっきり大病でも患ったのかと思ってました」「切迫も大変だけどねー。無事に乗り越えられるといいわよね」「本当ですよね」「まあでも、私たちの負担は変わらずだなんて、主任もひどいと思わない? 他に人雇ってくれたらいいのにねぇ」「松田さんは仕事大丈夫です? だいぶ負担じゃありません?」「しんどすぎでしょ。もうお婆だからさ、無理させないでほしいわよ。しかも帰ったら親の介護が待ってるのよ。ほんとしんどいったらありゃしない。そういう石原さんこそ、息子さんいるんでしょ」「はい、なかなかにバタバタな日々を送っています」「やっぱり私、主任に訴えてくるわ。もう一人雇ってくださいって。だいたい派遣の私たちに仕事押しつけすぎなのよ。ねっ?」「……そう、思います」決して依美が悪いわけではないことはわかっている。 わかってはいるのだが、一言くらいメッセージをくれてもいいのに、と紗良は小さくため息をついた。 疲れはピークに達していた。

    Last Updated : 2025-01-15
  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   お互いのこと-10

    毎日の負担に加えて土日はラーメン店でのアルバイトがある。本業の仕事が忙しくなるにつれていろいろと余裕がなくなり、気づけば紗良はバイト先で杏介に会えることが唯一の楽しみになっていた。季節は夏。夏の夜でも暑さは昼間よりほんの少し和らいだ程度。仕事終わりにコンビニの前で立ち話をしていてもじわりと汗が滲む。「杏介さん、ぎゅってしてもいい?」「いいけど、どうした?」「ちょっと疲れちゃって……充電させて?」紗良から積極的に杏介に甘えるのは珍しい。一歩近づいた紗良を、杏介は優しく腕に絡め取った。思ったよりも華奢な紗良と思ったよりも筋肉質な杏介。ぎゅっとさせてと言ったのは紗良の方なのに、ドキドキと鼓動は速くなる。今は夏で夜でも汗ばむというのに、二人くっついている感覚は不思議と暑さを感じない。むしろ肌のぬくもりが心地良いとさえ感じてしばし微睡んだ。「紗良?」コテンと杏介の胸に頭を預ける紗良が微動だにせず杏介は声をかける。「――紗良」「はっ!」呼ばれて慌てて頭を上げる。「大丈夫?」「なんか気持ちよすぎて一瞬寝ちゃってた気がする」「前から思っていたけど、働きすぎなんじゃないか?」「そんなことないよ」「バイト、続けないとダメなのか? ダブルワークはしんどいだろう?」「うん……でも、やめたら……困っちゃうし。私が働かないと」アルバイトを辞める選択肢を考えたことがないわけではない。実家暮らしで母親と共同生活をしているため派遣の給料で賄えないことはないのだ。けれど海斗が成長するに従って必ずお金はかかる。小学校、中学校、高校と、今のうちに貯金できるならしておくことに越したことはない。そう思って続けているのだけど。最近は本業の方が忙しく疲れがたまっていることを自覚している。松田が上司に人を雇ってほしいと申し入れたが、なかなか難しいようだ。

    Last Updated : 2025-01-15
  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   お互いのこと-11

    「俺を頼ってくれないか? 俺が紗良を支えるから」「…その申し出は嬉しいけど、子供ってね結構お金がかかるんだよね。私は海斗を引き取った以上、海斗に不自由な生活はさせたくないと思ってる。これは親としての私の責任なの。だから杏介さんに迷惑をかけたくないんだ。気持ちだけで十分救われる。ありがとう」ニコリと微笑む紗良だったが、無理をしているのだろういうことが見て取れ、杏介は胸が痛んだ。紗良に告白し断られてからも、杏介なりにいろいろ考えたり考えさせられることがたくさんあった。 だけど紗良を好きだという気持ちは変わらないでいる。口説いてみせるといいながら全然口説けていない自分が情けない。一緒にどこかへ出掛けたりこうして仕事終わりに会って話をしたり、そうやってまるで付き合っているかのように錯覚してしまうが、結局紗良の気持ちはあの時から全然変わっていないのだと感じて悔しくなった。「家まで送るよ」「いいよ、すぐそこだし」「これは紗良を大事にするっていう俺の気持ちだから」「……ありがとう」「……何かあったら一番に俺を頼れよ」「うん、わかった」そっと紗良の頭を撫でれば紗良は上目遣いでニコリとはにかんだ笑顔を見せる。 杏介の疲れを癒してくれる魔法のような笑顔。 心臓を掴まれるようなどうしようもなく愛おしい感情がわっと押し寄せてきて、撫でていた頭をぐいっと引き寄せた。「わわっ」紗良はバランスを崩して杏介の胸にダイブする。 しっかりと抱きしめられて困惑気味に「杏介さん?」と呟けば額に触れる柔らかな唇。「おやすみ、紗良」「……おやすみなさい、杏介さん」家の前でバイバイと手を振って別れたが、紗良はしばらくその場を動くことができなかった。 口づけられた場所をそっと手で触る。 後から後からどうしようもなく心臓が騒ぎ出して胸がいっぱいになった。「私、なんで……」なんでこんなにも胸が苦しいのだろう。 つらい苦しさではない、もっと胸がきゅっとなって体の奥から湧き上がるような気持ち。これが、愛しさとでもいうのだろうか――。

    Last Updated : 2025-01-16
  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   いちばん大事なことは-01

    まだまだ暑く夏真っ盛りのある日、朝早くに杏介のスマホが鳴った。 今日は遅番のためダラダラと布団に転がりながら起きようか起きまいかと迷っていたときだ。画面に表示された【石原紗良】という文字が目に飛び込んだ瞬間、一気に目が覚めた。「もしもし?」「杏介さん……、あの……」ひどく小さな声で言いづらそうにどもるため、杏介は起き上がってスマホに耳を傾ける。「紗良? どうした?」「あの、えっと……」何か伝えたそうなのに言葉が出てこない状況に杏介は眉をひそめる。「落ち着いて。ゆっくりでいいから」「うん、あの……実はお母さんが――」話を聞いた杏介は大慌てで着替えると、カバンひとつ、家から飛び出した。ドクンドクンと心臓が嫌な音を立てる。――お母さんが救急車で運ばれたの、どうしよう、杏介さん必死に伝えようとする紗良の声は震えていて、今にも消えてしまいそうな気がした。頼れと言ってもいつだって一人で頑張ってしまう。平気な顔をして一人で大丈夫だなんて、そんな風に笑い飛ばすくらいの紗良が、初めて杏介を頼った。 そんな気がした。海斗をかかえて一人で心細いのだろう。 杏介が行ったところでどうにかなるわけではないけれど、行かずにはいられなかった。いや、電話だけで済ますなんていう選択肢は最初からなかった。紗良のことだけではない。 海斗のことも、紗良の母親のことも、今どんな状況なのか気になって仕方がない。杏介にとっては紗良も海斗も母親も、大切な存在なのだ。 杏介に欠けていた、いや、知らなかった、家族のあたたかさを教えてくれた人たちだから――。

    Last Updated : 2025-01-17
  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   いちばん大事なことは-02

    病院へ駆けつけると入口で紗良と海斗が待っていた。「紗良!」「杏介さん、わざわざ来てもらってごめんなさい。私、動揺してしまって電話をかけちゃって」「そんなことはいいんだ。お母さんは?」「朝起きたらなんか変だなって思って慌てて救急車を呼んだの。脳梗塞が再発したみたいで……あまり状態はよくなくて」「再発……?」コクンと紗良は頷く。 紗良の母親に持病があり通院しているとは聞いていたが、それが脳梗塞だったとは知らず杏介は背中に冷たい汗が流れる。だが紗良は、電話の時のあの消えそうな声とは違いずいぶん落ちついている。「せっかく来てもらったんだけど、私、一度家に帰って入院の準備をしてきます。海斗もごめんね、一回家に帰ろうか」「うん。おなかすいた」「あっ、そうだよね。ご飯食べてなかったね」着の身着のまま、といったところだろうか。 紗良は普段着に着替えているが、海斗はどう見てもパジャマ姿だ。 朝早かったために寝ている海斗を抱えて連れてきたのだ。「俺コンビニで何か買っていくから、とりあえず家に戻りな。車で来てるんだろう?」「杏介さん……」そんな迷惑はかけられない、と首を横に振ろうとするも杏介は海斗の手を引いて駐車場へ歩き出す。 慌てて紗良も歩き出すが、ふと向けられる柔らかな視線。「紗良。一番に俺を頼れって言っただろ。気にするなよ」「……うん」緊張の糸が一気に切れた気がした。 紗良の目にはじわりと涙が浮かぶ。 杏介の袖を控えめに掴めば、杏介はそれを柔らかく絡み取ってしっかりと握った。「あー! せんせーとさらねえちゃんも、てぇつないでるー。かいとといっしょー!」海斗が無邪気に茶化し、紗良も杏介も沈んでいた気分が少しだけ上向きになるようでふふっと笑った。

    Last Updated : 2025-01-18
  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   いちばん大事なことは-03

    紗良が海斗を連れて帰宅すると、すぐ後に杏介もコンビニの袋を下げてやってきた。「適当に買ってきたからとりあえず食べよう」ガサガサと袋からおにぎりや惣菜パンや菓子パンを取り出せば、海斗がひょいっと覗きにくる。「なにがあるー?」「ツナマヨと鮭と明太子。海斗は明太子は食べれないかな? あとはソーセージパンとクリームパンと……」「あー! かいと、ツナマヨ! ツナマヨすきなんだよねー」「こら海斗! ありがとうといただきますでしょ」「せんせー、ありがとう。いただきまーす」海斗は器用におにぎりの包みを取り外し、大口を開けて食べ始めた。「ほら、紗良も。何食べる?」「あ、うん……」朝食は食べていないし杏介が買ってきてくれたたくさんの食べ物を前にしても、紗良はまったくお腹がすかなかった。 そんなことよりも母のことを想うだけで胸が苦しくなる。 ため息が出そうになるのを堪えていると、杏介の大きな手が頭の上に降ってくる。「落ち込むのはわかるよ。だけどちゃんと食べておかないと紗良の体がもたない。今日はまだ始まったばかりだろう? しっかり体力つけないと」「うん、わかってるけど……」頭では理解しているけど、どうにも食べる気が起きない。 どれが食べたいのかもわからない。「紗良が食べないなら、今ここでキスする。海斗の目の前で」「……はっ? えっ? 何言って……」「じーーー」杏介の突拍子もない提案に動揺したのも束の間、黙々とおにぎりを頬張っていた海斗が期待の眼差しで紗良を見ていたため、紗良の頬は一気に染まる。

    Last Updated : 2025-01-19
  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   いちばん大事なことは-03

    「き、杏介さんっ! 冗談はやめてよ! 海斗も! 何? 何なのよっ!」「せんせー、さらねえちゃんおこるとこわいんだよ。しらなかった?」「うーん、知ってた。でも海斗が怒らせたんだろ?」「えー? せんせーのせいでしょ?」杏介と海斗はヒソヒソと責任を押しつけ合う。 完全にからかわれた紗良はムスッとしながら明太子おにぎりを掴むと綺麗に包装を解いた。「まったくもう、これだから男子は」などとぶつくさ言いながらおにぎりを一口かじる。 こんな時に、と思わなくはないが、二人のおかげでずっと張り詰めていた緊張が緩んで急にお腹がすいたような気がした。まだこれから病院に戻らなくてはいけないのだ。 杏介の言うとおり、しっかり食べておかないと今日を乗り切れない気がする。紗良がもぐもぐ食べていると、「さらねえちゃんげんきになったねぇ」「元気な紗良が一番いいよな」と男子たちはまたコソコソと笑ったのだった。早々に食べ終わった海斗は、すぐに杏介にまとわりつく。海斗にとって祖母が入院したことは大事ではなく、なんとなく非日常的なことが起こったという感覚にすぎない。 朝早くに病院まで連れ出されたが今はもう家に戻ってきているため、海斗の中ではいつもの日常だ。「せんせー、あそぼ」「こら、海斗」紗良が咎めるが、杏介はそれを手で制す。「いいからいいから。俺が海斗と遊んでいるから、紗良はお母さんの入院の準備とか、やらなきゃいけないことを優先させて」そんな風に言ってくれるので、紗良はありがたく従った。

    Last Updated : 2025-01-20
  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   いちばん大事なことは-04

    海斗はもう保育園の年長児だ。 されどまだ年長児。 できることは増え、我慢することも覚えた。それがきちんとできるときもあれば、まだまだ聞き分けがないときだってある。何より遊びたい盛り。口を開けば「さらねえちゃん」と呼ぶ。 その呼びかけに応えながら何かをすることはなかなかに時間がかかるしストレスにもなる。けれど今日は杏介がいて、海斗のことを見ていてくれて、それがどんなに助かっていることか。 紗良はカバンに母の荷物を詰めながら、それを嫌というほど実感した。「海斗、もう一回病院行くよ。出かける前にトイレ行って」「紗良。俺も行こうか?」「そんな迷惑はかけられないよ」「だったら、家で海斗と留守番していようか。その方が紗良も動きやすいだろう?」「そう、かもだけど……」口ごもる紗良が何を言おうとしているのか、もう杏介はわかっている。 だから先にはっきりと告げる。「迷惑じゃない。俺が紗良のために何かしたいだけだ」「……じゃあ。……海斗、先生とお家で待っていられる?」「いいよー」少しは抵抗を見せるかと思っていたが、海斗はあっさりと頷いた。 拍子抜けしてしまったのは紗良の方だ。 海斗は杏介にぴったりくっついたまま、真剣に絵本のひらがなを追っている。「大丈夫だよ、紗良。いっておいで」杏介がそう言うので、紗良は小さく頷いてから「いってきます」と家を出た。一人は思った以上に身軽だった。

    Last Updated : 2025-01-21

Latest chapter

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   番外編③ シアワセノカタチ-11

    カシャカシャカシャッその音に、紗良と杏介は振り向く。そこにはニヤニヤとした海斗と、これまたニヤニヤとしたカメラマンがしっかりカメラを構えていた。「やっぱりチューした。いつもラブラブなんだよ」「いいですねぇ。あっ、撮影は終了してますけど、これはオマケです。ふふっ」とたんに紗良は顔を赤くし、杏介はポーカーフェイスながら心の中でガッツポーズをする。ここはまだスタジオでまわりに人もいるってわかっていたのに、なぜ安易にキスをしてしまったのだろう。シンデレラみたいに魔法をかけられて、浮かれているのかもしれない。「そうそう、海斗くんからお二人にプレゼントがあるんですよ」「えっへっへー」なぜか得意気な顔をした海斗は、カメラマンから白い画用紙を受け取る。紗良と杏介の目の前まで来ると、バッと高く掲げた。「おとーさん、おかーさん、結婚おめでとー!」そこには紗良の顔と杏介の顔、そして『おとうさん』『おかあさん』と大きく描かれている。紗良は目を丸くし、驚きのあまり口元を押さえる。海斗とフォトウエディングを計画した杏介すら、このことはまったく知らず言葉を失った。しかも、『おとうさん』『おかあさん』と呼ばれた。それはじわりじわりと実感として体に浸透していく。「ふええ……海斗ぉ」「ありがとな、海斗」うち寄せる感動のあまり言葉が出てこなかったが、三人はぎゅううっと抱き合った。紗良の目からはポロリポロリと涙がこぼれる。杏介も瞳を潤ませ、海斗の頭を優しく撫でた。ようやく本当の家族になれた気がした。いや、今までだって本当の家族だと思っていた。けれどもっともっと奥の方、根幹とでも言うべきだろうか、心の奥底でほんのりと燻っていたものが紐解かれ、絆が深まったようでもあった。海斗に認められた。そんな気がしたのだ。カシャカシャカシャッシャッター音が軽快に響く。「いつまでも撮っていたい家族ですねぇ」「ええ、ええ、本当にね。この仕事しててよかったって思いました」カメラマンは和やかに、その様子をカメラに収める。他のスタッフも、感慨深げに三人の様子を見守った。空はまだ高い。残暑厳しいというのに、まるで春のような暖かさを感じるとてもとても穏やかな午後だった。【END】

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   番外編③ シアワセノカタチ-10

    その後はスタジオ内、屋外スタジオにも出てカメラマンの指示のもと何枚も写真を撮った。残暑の日差しがジリジリとしているけれど、空は青く時折吹く風が心地いい。汗を掻かないようにと木陰に入りながら、紗良はこの時間を夢のようだと思った。「杏介さん、連れてきてくれてありがとう」「思った通りよく似合うよ」「なんだか夢みたいで。ドレスを選んでくださいって言われて本当にびっくりしたんだよ」「フォトウエディングしようって言ったら反対すると思ってさ。海斗巻き込んだ壮大な計画」「ふふっ、まんまと騙されちゃった」紗良は肩をすくめる。騙されるのは好きじゃないけれど、こんな気持ちにさせてくれるならたまには騙されるのもいいかもしれない。「杏介さん、私、私ね……」体の底からわき上がる溢れそうな気持ち。そうだ、これは――。「杏介さんと結婚できてすっごく幸せ」「紗良……」杏介は目を細める。紗良の腰に手をやって、ぐっと持ち上げた。「わあっ」ふわっと体が浮き上がり杏介より目線が高くなる。すると満面の笑みの杏介の顔が目に飛び込んできた。「紗良、俺もだよ。俺も紗良と結婚できて最高に幸せだ」幸せで愛おしくて大切な君。お互いの心がとけて混ざり合うかのように、自然と唇を寄せた。

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   番外編③ シアワセノカタチ-09

    カシャッ「じー」小気味良いカメラのシャッター音と、海斗のおちゃらけた声が同時に聞こえて、紗良と杏介はハッと我に返る。「あー、いいですねぇ、その寄り添い方! あっ、旦那様、今度は奥様の腰に手を添えてくださーい」「あっ、はいっ」カシャッ「次は手を絡ませて~、あっ、海斗くんはちょっと待ってね。次一緒に撮ろうね~」カシャッカメラマンの指示されるがまま、いろいろな角度や態勢でどんどんと写真が撮られていく。もはや自分がどんな顔をしているのかわからなくなってくる。「ねえねえ、チューしないの?」突然海斗がとんでもないことを口走るので、紗良は焦る。いくら撮影だからといっても、そういうことは恥ずかしい。「海斗、バカなこと言ってないで――」と反論するも、カメラマンは大げさにポンと手を叩いた。「海斗くんそれいいアイデアです!」「でしょー」カメラマンと海斗が盛り上がる中、紗良はますます焦る。海斗の失言を恨めしく思った瞬間。「海斗くん真ん中でパパママにチューしてもらいましょう」その言葉にほっと胸をなで下ろした。なんだ、それなら……と思いつつ、不埒な考えをしてしまった自分が恥ずかしくてたまらない。「うーん、残念」杏介が呟いた声は聞かなかったことにした。

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   番外編③ シアワセノカタチ-08

    ウエディングドレス用の、少しヒールのある真っ白なパンプスに足を入れた。かかとが上がることで自然と背筋もシャキッとなるようだ。目線が少しだけいつもより高くなる。「さあ、旦那様とお子様がスタジオでお待ちですよ」裾を持ち上げ、踏んでしまわないようにとゆっくりと進む。ふわりふわりと波打つように、ドレスが繊細に揺れた。スタジオにはすでに杏介と海斗が待っていた。杏介は真っ白なタキシード。海斗は紺色のフォーマルスーツに蝶ネクタイ。紗良を見つけると「うわぁ」と声を上げる。「俺ね、もう写真撮ったんだー」紗良が着替えて準備をしている間、着替えの早い男性陣は海斗の入学記念写真を撮っていた。室内のスタジオだけでは飽き足らず、やはり屋外の噴水の前でも写真を撮ってもらいご満悦だ。海斗のテンションもいい感じに高くなって、おしゃべりが止まらない。「紗良」呼ばれて顔を上げる。真っ白なタキシードを着た杏介。そのバランスのいいシルエットに、思わず見とれてしまう。目が離せない。「とても綺麗だよ。このまま持って帰って食べてしまいたいくらい」「杏介さん……私……胸がいっぱいで……」紗良は言葉にならず胸が詰まる。瞳がキラリと弧を描くように潤んだ。

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   番外編③ シアワセノカタチ-07

    そんなわけであれよあれよという間に着替えさせられ、今はメイクとヘアスタイルが二人のスタッフ同時に行われているところだ。あまりの手際の良さに、紗良はなすすべがない。大人しく人形のように座っているだけだ。(私がウエディングドレスを着るの……?)まるで夢でも見ているのではないかと思った。海斗を引き取って、一生結婚とは無縁だと思っていたのに、杏介と結婚した。そのことすらも奇跡だと思っていたのに。結婚式なんてお金がかかるし、それよりも海斗のことにお金を使ってあげたいと思っていたのに。そのことは杏介とも話し合って、お互い納得していたことなのに。今、紗良はウエディングドレスに身を包み、こうして花嫁姿の自分が出来上がっていくことに喜びを感じている。こんな日が来るなんて思いもよらなかった。この気持ちは――。嬉しい。声を大にして叫びたくなるほど嬉しい。ウエディングドレスを身にまとっているのが本当に自分なのか、わからなくなる。でも嬉しい。けれどそれだけじゃなくて、もっとこう、心の奥底からわき上がる気持ちは一体何だろうか。紗良の心を揺さぶるこの気持ち。(早く杏介さんと海斗に会いたい)心臓がドキドキと高鳴るのがわかった。

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   番外編③ シアワセノカタチ-06

    鏡に映る自分の姿がどんどんと綺麗になっていく様を、紗良はどこか他人事のようにぼんやりと見つめていた。一体どうしてこうなったのか。海斗の入学記念写真を撮ろうという話だったはずだ。それなのにウエディングドレスを選べという。掛けられていた純白のウエディングドレスは、そのどれもが繊細な刺繍とレースでデザインされている。素敵なものばかりで選べそうにない。「どうしたら……」ウエディングドレスを着ることなんて、これっぽっちも考えたことがなかった。だから果たしてこんなに素敵なドレスが自分に似合うのか、見当もつかない。ドレスを前にして固まってしまった紗良に「ちなみに――」とスタッフが声をかける。「旦那様の一押しはこちらでしたよ」胸元がV字になって、透け感レース素材と合わせて上品な雰囲気であるドレスが差し出される。肩から腕にかけては|五分《ごぶ》くらいのレースの袖が付いており、デコルテラインがとても映えそうだ。レース部分にはバラの花がちりばめられているデザインで、それがまるで星空のようにキラキラと輝く。純白で波打つようなフリルは上品さと可憐さが相まってとても魅力的だ。「でも自分の好みを押しつけてはいけないとおっしゃって、最終的には奥様に選んでほしいとこのようにご用意させていただいております」そんな風に言われると、もうそれしかないんじゃないかと思う。杏介の気持ちがあたたかく伝わってくるようで、紗良は自然と「これにします」と答えていた。

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   番外編③ シアワセノカタチ-05

    「ではお着替えしましょうか。海斗くんとお父様はこちらに。お母様はあちらにどうぞ」スタッフに従ってそれぞれ更衣室に入る。どうぞと案内された更衣室のカーテンを開けると、そこには大きな鏡とその横に真っ白なウエディングドレスが何着もズラリと掛けられていた。「えっ?」紗良は入るのを躊躇う。 今日は海斗の入学記念写真を撮りに来たはずだ。 せっかくなので着物を借りて写真を撮ろうと、そういう話だった気がする。いや、間違いなく杏介とそう話した。昨日だって、何色の着物がいいかと杏介とあれやこれや喋った記憶がある。それなのに、紗良の目の前にはウエディングドレスしか見当たらない。着物の一枚すら置いてないのだ。「あ、あの、お部屋間違ってませんか?」「間違っていませんよ。さあさ、奥様こちらへどうぞ。お好きなドレスを一着お選びください」「いえ、今日は子供の入学記念写真の予定なんですけど……」「何をおっしゃいますか。旦那様とお子様が楽しみに待たれていますよ」「えっ、えええ~?」スタッフはふふふとにこやかに笑い、困惑する紗良を強引に更衣室へ引きずり込むと、逃がさないとばかりにシャッとカーテンを閉めた。わけがわからない紗良は、スタッフに勧められるがまま、あれよあれよと流されていった。

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   番外編③ シアワセノカタチ-04

    杏介が予約したフォトスタジオを訪れた紗良は、思わず「うわぁ」と声を上げた。四季折々の風景をコンセプトにしている屋内スタジオに加え、外でも撮影できるよう立派な庭園が設えられている。海斗はランドセルを大事そうに抱えながらも、フォトスタジオに興味津々で今にも走りださんと目がキラキラしている。「いらっしゃいませ。ご予約の滝本様ですね」「はい、今日はよろしくお願いします」「ねえねえ、あの噴水さわってもいい?」「こら、海斗、ご挨拶!」「あっ。こんにちは。おねがいします」ピシャッと紗良が戒めると、海斗は慌てて挨拶をする。その様子を見てスタッフは海斗に優しい笑みを浮かべた。「噴水が気に入ったかな? あのお庭でも写真が撮れるから、カメラマンさんに伝えておきますね」「やったー!」海斗の入学記念に写真を撮りに来ただけなのに、そんなシチュエーションもあるのかと紗良は感心する。なにせフォトスタジオに来ること自体初めてなのだ。杏介に任せきりで予約の仕方すらわからない。まあ、杏介が「俺に任せて」と言うから、遠慮なくすべて手配してもらっただけなのだが。「海斗すごく喜んでるね」「浮かれすぎてて羽目外しそうでヒヤヒヤするよ」「確かに」紗良と杏介はくすりと笑った。

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   番外編③ シアワセノカタチ-03

    「どうしたの、海斗」「これを見て!」海斗はおもむろにランドセルを背負う。 まだまだピカピカのランドセルを、紗良に見せつけるように体を捻った。「ランドセル?」「そう! ランドセル! 写真撮りたい。リクもさなちゃんも写真撮りにいったんだって」「写真? 写真なら撮ってあげるよ」紗良は自分のスマホのカメラを海斗に向ける。「ちがーう。そうじゃなくてぇ」ジタバタする海斗に紗良は首を傾げる。 咄嗟に杏介が「あれだろ?」と口を挟む。「入学記念に家族の記念写真を撮ったってことだよな?」「そう、それ! 先生わかってるぅー」「ああ~、そういうこと。確かに良いかもね。お風呂で何か盛り上がってるなぁって思ってたけど、そのことだったのね」「そうそう、そうなんだよ。でさ、会社が提携しているフォトスタジオがあるから、予約してみるよ」「うん、ありがとう杏介さん」ニッコリと笑う紗良の頭を、杏介はよしよしと撫でる。 海斗に関することなら反対しないだろうと踏んでいたが、やはりあっさりと了承されて思わず笑みがこぼれた。「?」撫でられて嬉しそうな顔をしながらも、「どうしたの?」と控えめに上目遣いで杏介を見る紗良に、愛おしさが増す。「紗良は今日も可愛い」「き、杏介さんったら」一瞬で頬をピンクに染める紗良。 そんなところもまた可愛くて仕方がない。夫婦がイチャイチャしている横で、海斗はランドセルを背負ったまま「写真! 写真!」と一人でテンション高く踊っていた。

Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status