お互いのことをよく知らない。表面上はよくわかっていても、その生い立ちや家庭環境までは踏み込んでいない。(杏介さんのこと、もっと知りたいかも……)そう思うのと同時に、紗良は自分のことも知ってもらいたいと思った。好きだから知りたい、好きだから知ってもらいたい。付き合うことはできないと断った後もこうして一緒にお出かけして、まるで付き合っているのと変わらないような関係が続いていることに自分自身喜びを覚えている、この矛盾した生活。自分のことを伝えたら杏介は呆れるだろうか。この関係は崩れるだろうか。だったとしても、今、伝えたい気がした。ずっと燻っている、紗良の気持ちを。紗良は海斗がぐっすり眠っているのを確認してから口を開く。「あのね、うちの両親は離婚してるの。私は母子家庭だけどお母さんが明るすぎて父親の存在なんて忘れちゃうくらい」「確かに、紗良のお母さんは底抜けに明るいよな」「でしょう。だからね、海斗を引き取るときも大丈夫だと思った。私もお母さんみたいにやれるって思ったの。でも実際はすごく大変でお母さんに頼ることも多くて全然できてないけど、でも私なりに頑張ってて……」「うん、すごいと思うよ。だって最初に出会ったときは海斗の本当の母親だと思ったから」「そう言ってもらえて嬉しいんだけど。でもね、最近はダメなの……」紗良は杏介を見る。運転している杏介の横顔は夕日に照らされてキラキラと眩しく、それでいて頼もしくかっこいい。(ああ、私ってこんなにも杏介さんのことが好きなんだ……)自覚すると胸がきゅっと苦しくなる。伝えるべきなのか、どうなのか迷う。だが杏介は「何がダメ?」と優しく問うた。
「……杏介さんがいてくれたらいいのにって思っちゃって。……呆れちゃうよね?」「いや、どうして?」「だって、そんな都合のいい話はないじゃない」「都合よく俺のこと好きでいてもらえると嬉しいけど」「私は杏介さんが好きだけど、でもそれは心の奥底では海斗の父親を求めているのかもしれない。そんな風に考えちゃう自分が嫌なの。……ごめんなさい」胸がヒリヒリと痛かった。紗良が誰かを好きになるということは必ず海斗がセットでついてくる。 紗良は誰かに海斗の父親を求めてはいないけれど、海斗を切り捨てることは絶対にない。 この先一緒に生きていくには結局のところ海斗の父親になってもらうということ。 たとえ表面上でも、だ。けれど杏介は「いい」という。杏介の優しさが紗良の鼻の奥をツンとさせた。「そんな風に謝るなよ。俺はそうやって利用してもらっても構わないよ。その話を聞いてますます紗良が好きになった」「……好きになる要素がどこにあるの?」「いいんだ。俺が好きだから。紗良がなんと言おうと口説いてみせるよ。だからまたこうしてデートしよう」「……うん、ありがとう」今度こそ紗良は鼻をすする。 こんなにも理解があって優しい人が、自分のことを好きだと言ってくれる。 待っていてくれる。 その事実がありがたいし申し訳ない。「くそ、今が運転中じゃなければ抱きしめられたのに」「物好きだよね、杏介さんって」「そうかな?」「そうだよ。普通こんな女面倒くさいでしょ」「うーん」杏介は首を傾げる。 ちょうど信号で止まり、ずっと前を向いていた杏介が紗良を見た。 視線が絡まると杏介の目元はくっと緩み、紗良の胸はドキンと悲鳴を上げる。杏介はすっと腕を伸ばし、紗良の髪を優しく撫でた。 ぐいっと引き寄せたいのを我慢し、代わりに心からの想いを告げる。「好きだよ、紗良」「っ!」そんなストレートな言葉は紗良の心を優しく包み込む。 とんでもなく胸がしめつけられて体の奥底から熱いものが込み上げてくるような、そんな気持ちになった。
ゴールデンウィーク明け出勤すると、いつも元気いっぱいの依美が休暇だった。紗良と依美は昼食もよく一緒に食べる。だからどちらかが休暇を取るときは事前に伝えておくか、メッセージなどで連絡をすることにしている。今日は依美からの連絡はないけれど、連休を繋げて長期連休にする社員も多いし、そんな時もあるだろうとさほど気にしていなかった。だが依美は翌日も休み、さらには翌週になっても出勤してこない。さすがに気になってメッセージを送ってみるも、まったく返事はなかった。どうしたのだろうと心配で何度もスマホを確認するが、何度メッセージを送っても返ってくることはなかった。「石原さん、松田さん、ちょっといいかな?」主任から声をかけられ、二人面談室に入る。松田も紗良と同じチームで働く、年配の派遣社員だ。「岡本さんなんだけど、体調不良でしばらく出勤できそうにないんだ。悪いけど、その間の仕事を分担して欲しい。少し大変になるかとは思うけど……」紗良と松田は顔を見合わせる。二人とも残業は無しという契約のため、増える作業量を定時間内にこなせるのか不安が過った。「岡本さん、大丈夫なんです? 私たち残業できないのであまり仕事が増えると捌ききれるかわかりませんけど?」松田が懸念事項を告げてくれたため、紗良も同意見だと大きく頷く。「とりあえず二週間お休みになるから、その間だけ頑張ってほしい。もちろん、契約通り定時で帰ってもらってかまわないよ。それに、我々もサポートするから」「……はい」としか返事はできなかった。しょせん紗良は派遣社員。与えられた仕事を請け負うことが仕事なのだ。「岡本さん心配ね。石原さん何か事情聞いてないの?」「はい、私も心配で何度かメッセージを送ったんですけど、返事がないんです」「そうなの。まあとりあえず分担して頑張りましょうか。復帰したらランチでもおごって貰わなきゃね」茶目っ気たっぷりに松田が言うので、紗良も「そうですね」と笑った。
分担した仕事は思いのほか重く、残業のできない紗良は毎日必死にこなしていた。 いくらまわりにサポートするからと言われても未経験の作業を教えるには時間がかかるし、効率的ではない。 紗良とて慣れない作業が発生しているため、自分のことで精一杯なのだ。最初、二週間の期間限定だという話だったが、気づけばそれは一ヶ月に延び、さらに二ヶ月目に入ろうとしていた。さすがにそこまで時間が経てば紗良も時間配分など上手くさばけるようになってくる。 だがそれは余裕で仕事ができているわけではなく、努力して頑張っているからだ。 当然、松田然りである。そんなとき、再び主任に呼び出された紗良と松田は、依美が切迫流産で入院すると聞かされた。 そのため、負担は変わることなくそのまま紗良と松田の仕事になってしまった。「岡本さん、妊娠してたのね。まあ、薄々そんなんじゃないかと思っていたけど」「そうなんですか? てっきり大病でも患ったのかと思ってました」「切迫も大変だけどねー。無事に乗り越えられるといいわよね」「本当ですよね」「まあでも、私たちの負担は変わらずだなんて、主任もひどいと思わない? 他に人雇ってくれたらいいのにねぇ」「松田さんは仕事大丈夫です? だいぶ負担じゃありません?」「しんどすぎでしょ。もうお婆だからさ、無理させないでほしいわよ。しかも帰ったら親の介護が待ってるのよ。ほんとしんどいったらありゃしない。そういう石原さんこそ、息子さんいるんでしょ」「はい、なかなかにバタバタな日々を送っています」「やっぱり私、主任に訴えてくるわ。もう一人雇ってくださいって。だいたい派遣の私たちに仕事押しつけすぎなのよ。ねっ?」「……そう、思います」決して依美が悪いわけではないことはわかっている。 わかってはいるのだが、一言くらいメッセージをくれてもいいのに、と紗良は小さくため息をついた。 疲れはピークに達していた。
毎日の負担に加えて土日はラーメン店でのアルバイトがある。本業の仕事が忙しくなるにつれていろいろと余裕がなくなり、気づけば紗良はバイト先で杏介に会えることが唯一の楽しみになっていた。季節は夏。夏の夜でも暑さは昼間よりほんの少し和らいだ程度。仕事終わりにコンビニの前で立ち話をしていてもじわりと汗が滲む。「杏介さん、ぎゅってしてもいい?」「いいけど、どうした?」「ちょっと疲れちゃって……充電させて?」紗良から積極的に杏介に甘えるのは珍しい。一歩近づいた紗良を、杏介は優しく腕に絡め取った。思ったよりも華奢な紗良と思ったよりも筋肉質な杏介。ぎゅっとさせてと言ったのは紗良の方なのに、ドキドキと鼓動は速くなる。今は夏で夜でも汗ばむというのに、二人くっついている感覚は不思議と暑さを感じない。むしろ肌のぬくもりが心地良いとさえ感じてしばし微睡んだ。「紗良?」コテンと杏介の胸に頭を預ける紗良が微動だにせず杏介は声をかける。「――紗良」「はっ!」呼ばれて慌てて頭を上げる。「大丈夫?」「なんか気持ちよすぎて一瞬寝ちゃってた気がする」「前から思っていたけど、働きすぎなんじゃないか?」「そんなことないよ」「バイト、続けないとダメなのか? ダブルワークはしんどいだろう?」「うん……でも、やめたら……困っちゃうし。私が働かないと」アルバイトを辞める選択肢を考えたことがないわけではない。実家暮らしで母親と共同生活をしているため派遣の給料で賄えないことはないのだ。けれど海斗が成長するに従って必ずお金はかかる。小学校、中学校、高校と、今のうちに貯金できるならしておくことに越したことはない。そう思って続けているのだけど。最近は本業の方が忙しく疲れがたまっていることを自覚している。松田が上司に人を雇ってほしいと申し入れたが、なかなか難しいようだ。
「俺を頼ってくれないか? 俺が紗良を支えるから」「…その申し出は嬉しいけど、子供ってね結構お金がかかるんだよね。私は海斗を引き取った以上、海斗に不自由な生活はさせたくないと思ってる。これは親としての私の責任なの。だから杏介さんに迷惑をかけたくないんだ。気持ちだけで十分救われる。ありがとう」ニコリと微笑む紗良だったが、無理をしているのだろういうことが見て取れ、杏介は胸が痛んだ。紗良に告白し断られてからも、杏介なりにいろいろ考えたり考えさせられることがたくさんあった。 だけど紗良を好きだという気持ちは変わらないでいる。口説いてみせるといいながら全然口説けていない自分が情けない。一緒にどこかへ出掛けたりこうして仕事終わりに会って話をしたり、そうやってまるで付き合っているかのように錯覚してしまうが、結局紗良の気持ちはあの時から全然変わっていないのだと感じて悔しくなった。「家まで送るよ」「いいよ、すぐそこだし」「これは紗良を大事にするっていう俺の気持ちだから」「……ありがとう」「……何かあったら一番に俺を頼れよ」「うん、わかった」そっと紗良の頭を撫でれば紗良は上目遣いでニコリとはにかんだ笑顔を見せる。 杏介の疲れを癒してくれる魔法のような笑顔。 心臓を掴まれるようなどうしようもなく愛おしい感情がわっと押し寄せてきて、撫でていた頭をぐいっと引き寄せた。「わわっ」紗良はバランスを崩して杏介の胸にダイブする。 しっかりと抱きしめられて困惑気味に「杏介さん?」と呟けば額に触れる柔らかな唇。「おやすみ、紗良」「……おやすみなさい、杏介さん」家の前でバイバイと手を振って別れたが、紗良はしばらくその場を動くことができなかった。 口づけられた場所をそっと手で触る。 後から後からどうしようもなく心臓が騒ぎ出して胸がいっぱいになった。「私、なんで……」なんでこんなにも胸が苦しいのだろう。 つらい苦しさではない、もっと胸がきゅっとなって体の奥から湧き上がるような気持ち。これが、愛しさとでもいうのだろうか――。
まだまだ暑く夏真っ盛りのある日、朝早くに杏介のスマホが鳴った。 今日は遅番のためダラダラと布団に転がりながら起きようか起きまいかと迷っていたときだ。画面に表示された【石原紗良】という文字が目に飛び込んだ瞬間、一気に目が覚めた。「もしもし?」「杏介さん……、あの……」ひどく小さな声で言いづらそうにどもるため、杏介は起き上がってスマホに耳を傾ける。「紗良? どうした?」「あの、えっと……」何か伝えたそうなのに言葉が出てこない状況に杏介は眉をひそめる。「落ち着いて。ゆっくりでいいから」「うん、あの……実はお母さんが――」話を聞いた杏介は大慌てで着替えると、カバンひとつ、家から飛び出した。ドクンドクンと心臓が嫌な音を立てる。――お母さんが救急車で運ばれたの、どうしよう、杏介さん必死に伝えようとする紗良の声は震えていて、今にも消えてしまいそうな気がした。頼れと言ってもいつだって一人で頑張ってしまう。平気な顔をして一人で大丈夫だなんて、そんな風に笑い飛ばすくらいの紗良が、初めて杏介を頼った。 そんな気がした。海斗をかかえて一人で心細いのだろう。 杏介が行ったところでどうにかなるわけではないけれど、行かずにはいられなかった。いや、電話だけで済ますなんていう選択肢は最初からなかった。紗良のことだけではない。 海斗のことも、紗良の母親のことも、今どんな状況なのか気になって仕方がない。杏介にとっては紗良も海斗も母親も、大切な存在なのだ。 杏介に欠けていた、いや、知らなかった、家族のあたたかさを教えてくれた人たちだから――。
病院へ駆けつけると入口で紗良と海斗が待っていた。「紗良!」「杏介さん、わざわざ来てもらってごめんなさい。私、動揺してしまって電話をかけちゃって」「そんなことはいいんだ。お母さんは?」「朝起きたらなんか変だなって思って慌てて救急車を呼んだの。脳梗塞が再発したみたいで……あまり状態はよくなくて」「再発……?」コクンと紗良は頷く。 紗良の母親に持病があり通院しているとは聞いていたが、それが脳梗塞だったとは知らず杏介は背中に冷たい汗が流れる。だが紗良は、電話の時のあの消えそうな声とは違いずいぶん落ちついている。「せっかく来てもらったんだけど、私、一度家に帰って入院の準備をしてきます。海斗もごめんね、一回家に帰ろうか」「うん。おなかすいた」「あっ、そうだよね。ご飯食べてなかったね」着の身着のまま、といったところだろうか。 紗良は普段着に着替えているが、海斗はどう見てもパジャマ姿だ。 朝早かったために寝ている海斗を抱えて連れてきたのだ。「俺コンビニで何か買っていくから、とりあえず家に戻りな。車で来てるんだろう?」「杏介さん……」そんな迷惑はかけられない、と首を横に振ろうとするも杏介は海斗の手を引いて駐車場へ歩き出す。 慌てて紗良も歩き出すが、ふと向けられる柔らかな視線。「紗良。一番に俺を頼れって言っただろ。気にするなよ」「……うん」緊張の糸が一気に切れた気がした。 紗良の目にはじわりと涙が浮かぶ。 杏介の袖を控えめに掴めば、杏介はそれを柔らかく絡み取ってしっかりと握った。「あー! せんせーとさらねえちゃんも、てぇつないでるー。かいとといっしょー!」海斗が無邪気に茶化し、紗良も杏介も沈んでいた気分が少しだけ上向きになるようでふふっと笑った。
病院へ駆けつけると入口で紗良と海斗が待っていた。「紗良!」「杏介さん、わざわざ来てもらってごめんなさい。私、動揺してしまって電話をかけちゃって」「そんなことはいいんだ。お母さんは?」「朝起きたらなんか変だなって思って慌てて救急車を呼んだの。脳梗塞が再発したみたいで……あまり状態はよくなくて」「再発……?」コクンと紗良は頷く。 紗良の母親に持病があり通院しているとは聞いていたが、それが脳梗塞だったとは知らず杏介は背中に冷たい汗が流れる。だが紗良は、電話の時のあの消えそうな声とは違いずいぶん落ちついている。「せっかく来てもらったんだけど、私、一度家に帰って入院の準備をしてきます。海斗もごめんね、一回家に帰ろうか」「うん。おなかすいた」「あっ、そうだよね。ご飯食べてなかったね」着の身着のまま、といったところだろうか。 紗良は普段着に着替えているが、海斗はどう見てもパジャマ姿だ。 朝早かったために寝ている海斗を抱えて連れてきたのだ。「俺コンビニで何か買っていくから、とりあえず家に戻りな。車で来てるんだろう?」「杏介さん……」そんな迷惑はかけられない、と首を横に振ろうとするも杏介は海斗の手を引いて駐車場へ歩き出す。 慌てて紗良も歩き出すが、ふと向けられる柔らかな視線。「紗良。一番に俺を頼れって言っただろ。気にするなよ」「……うん」緊張の糸が一気に切れた気がした。 紗良の目にはじわりと涙が浮かぶ。 杏介の袖を控えめに掴めば、杏介はそれを柔らかく絡み取ってしっかりと握った。「あー! せんせーとさらねえちゃんも、てぇつないでるー。かいとといっしょー!」海斗が無邪気に茶化し、紗良も杏介も沈んでいた気分が少しだけ上向きになるようでふふっと笑った。
まだまだ暑く夏真っ盛りのある日、朝早くに杏介のスマホが鳴った。 今日は遅番のためダラダラと布団に転がりながら起きようか起きまいかと迷っていたときだ。画面に表示された【石原紗良】という文字が目に飛び込んだ瞬間、一気に目が覚めた。「もしもし?」「杏介さん……、あの……」ひどく小さな声で言いづらそうにどもるため、杏介は起き上がってスマホに耳を傾ける。「紗良? どうした?」「あの、えっと……」何か伝えたそうなのに言葉が出てこない状況に杏介は眉をひそめる。「落ち着いて。ゆっくりでいいから」「うん、あの……実はお母さんが――」話を聞いた杏介は大慌てで着替えると、カバンひとつ、家から飛び出した。ドクンドクンと心臓が嫌な音を立てる。――お母さんが救急車で運ばれたの、どうしよう、杏介さん必死に伝えようとする紗良の声は震えていて、今にも消えてしまいそうな気がした。頼れと言ってもいつだって一人で頑張ってしまう。平気な顔をして一人で大丈夫だなんて、そんな風に笑い飛ばすくらいの紗良が、初めて杏介を頼った。 そんな気がした。海斗をかかえて一人で心細いのだろう。 杏介が行ったところでどうにかなるわけではないけれど、行かずにはいられなかった。いや、電話だけで済ますなんていう選択肢は最初からなかった。紗良のことだけではない。 海斗のことも、紗良の母親のことも、今どんな状況なのか気になって仕方がない。杏介にとっては紗良も海斗も母親も、大切な存在なのだ。 杏介に欠けていた、いや、知らなかった、家族のあたたかさを教えてくれた人たちだから――。
「俺を頼ってくれないか? 俺が紗良を支えるから」「…その申し出は嬉しいけど、子供ってね結構お金がかかるんだよね。私は海斗を引き取った以上、海斗に不自由な生活はさせたくないと思ってる。これは親としての私の責任なの。だから杏介さんに迷惑をかけたくないんだ。気持ちだけで十分救われる。ありがとう」ニコリと微笑む紗良だったが、無理をしているのだろういうことが見て取れ、杏介は胸が痛んだ。紗良に告白し断られてからも、杏介なりにいろいろ考えたり考えさせられることがたくさんあった。 だけど紗良を好きだという気持ちは変わらないでいる。口説いてみせるといいながら全然口説けていない自分が情けない。一緒にどこかへ出掛けたりこうして仕事終わりに会って話をしたり、そうやってまるで付き合っているかのように錯覚してしまうが、結局紗良の気持ちはあの時から全然変わっていないのだと感じて悔しくなった。「家まで送るよ」「いいよ、すぐそこだし」「これは紗良を大事にするっていう俺の気持ちだから」「……ありがとう」「……何かあったら一番に俺を頼れよ」「うん、わかった」そっと紗良の頭を撫でれば紗良は上目遣いでニコリとはにかんだ笑顔を見せる。 杏介の疲れを癒してくれる魔法のような笑顔。 心臓を掴まれるようなどうしようもなく愛おしい感情がわっと押し寄せてきて、撫でていた頭をぐいっと引き寄せた。「わわっ」紗良はバランスを崩して杏介の胸にダイブする。 しっかりと抱きしめられて困惑気味に「杏介さん?」と呟けば額に触れる柔らかな唇。「おやすみ、紗良」「……おやすみなさい、杏介さん」家の前でバイバイと手を振って別れたが、紗良はしばらくその場を動くことができなかった。 口づけられた場所をそっと手で触る。 後から後からどうしようもなく心臓が騒ぎ出して胸がいっぱいになった。「私、なんで……」なんでこんなにも胸が苦しいのだろう。 つらい苦しさではない、もっと胸がきゅっとなって体の奥から湧き上がるような気持ち。これが、愛しさとでもいうのだろうか――。
毎日の負担に加えて土日はラーメン店でのアルバイトがある。本業の仕事が忙しくなるにつれていろいろと余裕がなくなり、気づけば紗良はバイト先で杏介に会えることが唯一の楽しみになっていた。季節は夏。夏の夜でも暑さは昼間よりほんの少し和らいだ程度。仕事終わりにコンビニの前で立ち話をしていてもじわりと汗が滲む。「杏介さん、ぎゅってしてもいい?」「いいけど、どうした?」「ちょっと疲れちゃって……充電させて?」紗良から積極的に杏介に甘えるのは珍しい。一歩近づいた紗良を、杏介は優しく腕に絡め取った。思ったよりも華奢な紗良と思ったよりも筋肉質な杏介。ぎゅっとさせてと言ったのは紗良の方なのに、ドキドキと鼓動は速くなる。今は夏で夜でも汗ばむというのに、二人くっついている感覚は不思議と暑さを感じない。むしろ肌のぬくもりが心地良いとさえ感じてしばし微睡んだ。「紗良?」コテンと杏介の胸に頭を預ける紗良が微動だにせず杏介は声をかける。「――紗良」「はっ!」呼ばれて慌てて頭を上げる。「大丈夫?」「なんか気持ちよすぎて一瞬寝ちゃってた気がする」「前から思っていたけど、働きすぎなんじゃないか?」「そんなことないよ」「バイト、続けないとダメなのか? ダブルワークはしんどいだろう?」「うん……でも、やめたら……困っちゃうし。私が働かないと」アルバイトを辞める選択肢を考えたことがないわけではない。実家暮らしで母親と共同生活をしているため派遣の給料で賄えないことはないのだ。けれど海斗が成長するに従って必ずお金はかかる。小学校、中学校、高校と、今のうちに貯金できるならしておくことに越したことはない。そう思って続けているのだけど。最近は本業の方が忙しく疲れがたまっていることを自覚している。松田が上司に人を雇ってほしいと申し入れたが、なかなか難しいようだ。
分担した仕事は思いのほか重く、残業のできない紗良は毎日必死にこなしていた。 いくらまわりにサポートするからと言われても未経験の作業を教えるには時間がかかるし、効率的ではない。 紗良とて慣れない作業が発生しているため、自分のことで精一杯なのだ。最初、二週間の期間限定だという話だったが、気づけばそれは一ヶ月に延び、さらに二ヶ月目に入ろうとしていた。さすがにそこまで時間が経てば紗良も時間配分など上手くさばけるようになってくる。 だがそれは余裕で仕事ができているわけではなく、努力して頑張っているからだ。 当然、松田然りである。そんなとき、再び主任に呼び出された紗良と松田は、依美が切迫流産で入院すると聞かされた。 そのため、負担は変わることなくそのまま紗良と松田の仕事になってしまった。「岡本さん、妊娠してたのね。まあ、薄々そんなんじゃないかと思っていたけど」「そうなんですか? てっきり大病でも患ったのかと思ってました」「切迫も大変だけどねー。無事に乗り越えられるといいわよね」「本当ですよね」「まあでも、私たちの負担は変わらずだなんて、主任もひどいと思わない? 他に人雇ってくれたらいいのにねぇ」「松田さんは仕事大丈夫です? だいぶ負担じゃありません?」「しんどすぎでしょ。もうお婆だからさ、無理させないでほしいわよ。しかも帰ったら親の介護が待ってるのよ。ほんとしんどいったらありゃしない。そういう石原さんこそ、息子さんいるんでしょ」「はい、なかなかにバタバタな日々を送っています」「やっぱり私、主任に訴えてくるわ。もう一人雇ってくださいって。だいたい派遣の私たちに仕事押しつけすぎなのよ。ねっ?」「……そう、思います」決して依美が悪いわけではないことはわかっている。 わかってはいるのだが、一言くらいメッセージをくれてもいいのに、と紗良は小さくため息をついた。 疲れはピークに達していた。
ゴールデンウィーク明け出勤すると、いつも元気いっぱいの依美が休暇だった。紗良と依美は昼食もよく一緒に食べる。だからどちらかが休暇を取るときは事前に伝えておくか、メッセージなどで連絡をすることにしている。今日は依美からの連絡はないけれど、連休を繋げて長期連休にする社員も多いし、そんな時もあるだろうとさほど気にしていなかった。だが依美は翌日も休み、さらには翌週になっても出勤してこない。さすがに気になってメッセージを送ってみるも、まったく返事はなかった。どうしたのだろうと心配で何度もスマホを確認するが、何度メッセージを送っても返ってくることはなかった。「石原さん、松田さん、ちょっといいかな?」主任から声をかけられ、二人面談室に入る。松田も紗良と同じチームで働く、年配の派遣社員だ。「岡本さんなんだけど、体調不良でしばらく出勤できそうにないんだ。悪いけど、その間の仕事を分担して欲しい。少し大変になるかとは思うけど……」紗良と松田は顔を見合わせる。二人とも残業は無しという契約のため、増える作業量を定時間内にこなせるのか不安が過った。「岡本さん、大丈夫なんです? 私たち残業できないのであまり仕事が増えると捌ききれるかわかりませんけど?」松田が懸念事項を告げてくれたため、紗良も同意見だと大きく頷く。「とりあえず二週間お休みになるから、その間だけ頑張ってほしい。もちろん、契約通り定時で帰ってもらってかまわないよ。それに、我々もサポートするから」「……はい」としか返事はできなかった。しょせん紗良は派遣社員。与えられた仕事を請け負うことが仕事なのだ。「岡本さん心配ね。石原さん何か事情聞いてないの?」「はい、私も心配で何度かメッセージを送ったんですけど、返事がないんです」「そうなの。まあとりあえず分担して頑張りましょうか。復帰したらランチでもおごって貰わなきゃね」茶目っ気たっぷりに松田が言うので、紗良も「そうですね」と笑った。
「……杏介さんがいてくれたらいいのにって思っちゃって。……呆れちゃうよね?」「いや、どうして?」「だって、そんな都合のいい話はないじゃない」「都合よく俺のこと好きでいてもらえると嬉しいけど」「私は杏介さんが好きだけど、でもそれは心の奥底では海斗の父親を求めているのかもしれない。そんな風に考えちゃう自分が嫌なの。……ごめんなさい」胸がヒリヒリと痛かった。紗良が誰かを好きになるということは必ず海斗がセットでついてくる。 紗良は誰かに海斗の父親を求めてはいないけれど、海斗を切り捨てることは絶対にない。 この先一緒に生きていくには結局のところ海斗の父親になってもらうということ。 たとえ表面上でも、だ。けれど杏介は「いい」という。杏介の優しさが紗良の鼻の奥をツンとさせた。「そんな風に謝るなよ。俺はそうやって利用してもらっても構わないよ。その話を聞いてますます紗良が好きになった」「……好きになる要素がどこにあるの?」「いいんだ。俺が好きだから。紗良がなんと言おうと口説いてみせるよ。だからまたこうしてデートしよう」「……うん、ありがとう」今度こそ紗良は鼻をすする。 こんなにも理解があって優しい人が、自分のことを好きだと言ってくれる。 待っていてくれる。 その事実がありがたいし申し訳ない。「くそ、今が運転中じゃなければ抱きしめられたのに」「物好きだよね、杏介さんって」「そうかな?」「そうだよ。普通こんな女面倒くさいでしょ」「うーん」杏介は首を傾げる。 ちょうど信号で止まり、ずっと前を向いていた杏介が紗良を見た。 視線が絡まると杏介の目元はくっと緩み、紗良の胸はドキンと悲鳴を上げる。杏介はすっと腕を伸ばし、紗良の髪を優しく撫でた。 ぐいっと引き寄せたいのを我慢し、代わりに心からの想いを告げる。「好きだよ、紗良」「っ!」そんなストレートな言葉は紗良の心を優しく包み込む。 とんでもなく胸がしめつけられて体の奥底から熱いものが込み上げてくるような、そんな気持ちになった。
お互いのことをよく知らない。表面上はよくわかっていても、その生い立ちや家庭環境までは踏み込んでいない。(杏介さんのこと、もっと知りたいかも……)そう思うのと同時に、紗良は自分のことも知ってもらいたいと思った。好きだから知りたい、好きだから知ってもらいたい。付き合うことはできないと断った後もこうして一緒にお出かけして、まるで付き合っているのと変わらないような関係が続いていることに自分自身喜びを覚えている、この矛盾した生活。自分のことを伝えたら杏介は呆れるだろうか。この関係は崩れるだろうか。だったとしても、今、伝えたい気がした。ずっと燻っている、紗良の気持ちを。紗良は海斗がぐっすり眠っているのを確認してから口を開く。「あのね、うちの両親は離婚してるの。私は母子家庭だけどお母さんが明るすぎて父親の存在なんて忘れちゃうくらい」「確かに、紗良のお母さんは底抜けに明るいよな」「でしょう。だからね、海斗を引き取るときも大丈夫だと思った。私もお母さんみたいにやれるって思ったの。でも実際はすごく大変でお母さんに頼ることも多くて全然できてないけど、でも私なりに頑張ってて……」「うん、すごいと思うよ。だって最初に出会ったときは海斗の本当の母親だと思ったから」「そう言ってもらえて嬉しいんだけど。でもね、最近はダメなの……」紗良は杏介を見る。運転している杏介の横顔は夕日に照らされてキラキラと眩しく、それでいて頼もしくかっこいい。(ああ、私ってこんなにも杏介さんのことが好きなんだ……)自覚すると胸がきゅっと苦しくなる。伝えるべきなのか、どうなのか迷う。だが杏介は「何がダメ?」と優しく問うた。
「 俺さ、母親がいないんだよね」「え?」「いや、正確にはいるんだけど。幼いころに病気で亡くなって父子家庭で育ってさ、数年後に父親は再婚したんだけど、新しい母親と上手くいかなくて。……いや、上手くいかないっていうか、俺が毛嫌いしているだけなんだけど。だからそういうお弁当は憧れだったんだ。長年の夢が叶ったような、そんな気持ち、かな」「そう、だったんだ」「引いた?」「ううん、全然。私、杏介さんのこと全然知らなかったんだなって思って」「そうだよな。あんまりこういう話ってしないし。まあ聞いてもつまらないと思うけど」世の中にはいろいろな人がいる。 誰一人として環境が同じなわけではない。 そんなことはわかっているけれど、紗良のような家庭環境は珍しいのではないかとどこかでそう思っていた。 きっと杏介も『普通』の家庭なのだろうと決めつけていた。 そんな風に考えていた自分を反省する。「……私たちってお互いのこと全然知らないよね」「そうかもしれないな」紗良は姉の子供の海斗を育てていて、実家暮らしで母と住んでいる。 平日は事務の仕事をしていて土日はラーメン店でアルバイト。杏介は海斗の通うプール教室の先生で、仕事終わりに紗良の働くラーメン店へよく訪れる常連客。 そして一人暮らし。今までの付き合いからこれくらいの情報はお互いに知っている。 けれどそれ以上深く聞くこともなかったし、自ら語ることもなかった。それがいいのか悪いのかわからないけれど、紗良の知らなかった杏介の内面の話は紗良の固定概念を崩すには十分だった。