共有

お互いのこと-11

last update 最終更新日: 2025-01-16 05:07:05

「俺を頼ってくれないか? 俺が紗良を支えるから」

「…その申し出は嬉しいけど、子供ってね結構お金がかかるんだよね。私は海斗を引き取った以上、海斗に不自由な生活はさせたくないと思ってる。これは親としての私の責任なの。だから杏介さんに迷惑をかけたくないんだ。気持ちだけで十分救われる。ありがとう」

ニコリと微笑む紗良だったが、無理をしているのだろういうことが見て取れ、杏介は胸が痛んだ。

紗良に告白し断られてからも、杏介なりにいろいろ考えたり考えさせられることがたくさんあった。

だけど紗良を好きだという気持ちは変わらないでいる。

口説いてみせるといいながら全然口説けていない自分が情けない。

一緒にどこかへ出掛けたりこうして仕事終わりに会って話をしたり、そうやってまるで付き合っているかのように錯覚してしまうが、結局紗良の気持ちはあの時から全然変わっていないのだと感じて悔しくなった。

「家まで送るよ」

「いいよ、すぐそこだし」

「これは紗良を大事にするっていう俺の気持ちだから」

「……ありがとう」

「……何かあったら一番に俺を頼れよ」

「うん、わかった」

そっと紗良の頭を撫でれば紗良は上目遣いでニコリとはにかんだ笑顔を見せる。

杏介の疲れを癒してくれる魔法のような笑顔。

心臓を掴まれるようなどうしようもなく愛おしい感情がわっと押し寄せてきて、撫でていた頭をぐいっと引き寄せた。

「わわっ」

紗良はバランスを崩して杏介の胸にダイブする。

しっかりと抱きしめられて困惑気味に「杏介さん?」と呟けば額に触れる柔らかな唇。

「おやすみ、紗良」

「……おやすみなさい、杏介さん」

家の前でバイバイと手を振って別れたが、紗良はしばらくその場を動くことができなかった。

口づけられた場所をそっと手で触る。

後から後からどうしようもなく心臓が騒ぎ出して胸がいっぱいになった。

「私、なんで……」

なんでこんなにも胸が苦しいのだろう。

つらい苦しさではない、もっと胸がきゅっとなって体の奥から湧き上がるような気持ち。

これが、愛しさとでもいうのだろうか――。
ロックされたチャプター
GoodNovel で続きを読む
コードをスキャンしてアプリをダウンロード

関連チャプター

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   いちばん大事なことは-01

    まだまだ暑く夏真っ盛りのある日、朝早くに杏介のスマホが鳴った。 今日は遅番のためダラダラと布団に転がりながら起きようか起きまいかと迷っていたときだ。画面に表示された【石原紗良】という文字が目に飛び込んだ瞬間、一気に目が覚めた。「もしもし?」「杏介さん……、あの……」ひどく小さな声で言いづらそうにどもるため、杏介は起き上がってスマホに耳を傾ける。「紗良? どうした?」「あの、えっと……」何か伝えたそうなのに言葉が出てこない状況に杏介は眉をひそめる。「落ち着いて。ゆっくりでいいから」「うん、あの……実はお母さんが――」話を聞いた杏介は大慌てで着替えると、カバンひとつ、家から飛び出した。ドクンドクンと心臓が嫌な音を立てる。――お母さんが救急車で運ばれたの、どうしよう、杏介さん必死に伝えようとする紗良の声は震えていて、今にも消えてしまいそうな気がした。頼れと言ってもいつだって一人で頑張ってしまう。平気な顔をして一人で大丈夫だなんて、そんな風に笑い飛ばすくらいの紗良が、初めて杏介を頼った。 そんな気がした。海斗をかかえて一人で心細いのだろう。 杏介が行ったところでどうにかなるわけではないけれど、行かずにはいられなかった。いや、電話だけで済ますなんていう選択肢は最初からなかった。紗良のことだけではない。 海斗のことも、紗良の母親のことも、今どんな状況なのか気になって仕方がない。杏介にとっては紗良も海斗も母親も、大切な存在なのだ。 杏介に欠けていた、いや、知らなかった、家族のあたたかさを教えてくれた人たちだから――。

    最終更新日 : 2025-01-17
  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   いちばん大事なことは-02

    病院へ駆けつけると入口で紗良と海斗が待っていた。「紗良!」「杏介さん、わざわざ来てもらってごめんなさい。私、動揺してしまって電話をかけちゃって」「そんなことはいいんだ。お母さんは?」「朝起きたらなんか変だなって思って慌てて救急車を呼んだの。脳梗塞が再発したみたいで……あまり状態はよくなくて」「再発……?」コクンと紗良は頷く。 紗良の母親に持病があり通院しているとは聞いていたが、それが脳梗塞だったとは知らず杏介は背中に冷たい汗が流れる。だが紗良は、電話の時のあの消えそうな声とは違いずいぶん落ちついている。「せっかく来てもらったんだけど、私、一度家に帰って入院の準備をしてきます。海斗もごめんね、一回家に帰ろうか」「うん。おなかすいた」「あっ、そうだよね。ご飯食べてなかったね」着の身着のまま、といったところだろうか。 紗良は普段着に着替えているが、海斗はどう見てもパジャマ姿だ。 朝早かったために寝ている海斗を抱えて連れてきたのだ。「俺コンビニで何か買っていくから、とりあえず家に戻りな。車で来てるんだろう?」「杏介さん……」そんな迷惑はかけられない、と首を横に振ろうとするも杏介は海斗の手を引いて駐車場へ歩き出す。 慌てて紗良も歩き出すが、ふと向けられる柔らかな視線。「紗良。一番に俺を頼れって言っただろ。気にするなよ」「……うん」緊張の糸が一気に切れた気がした。 紗良の目にはじわりと涙が浮かぶ。 杏介の袖を控えめに掴めば、杏介はそれを柔らかく絡み取ってしっかりと握った。「あー! せんせーとさらねえちゃんも、てぇつないでるー。かいとといっしょー!」海斗が無邪気に茶化し、紗良も杏介も沈んでいた気分が少しだけ上向きになるようでふふっと笑った。

    最終更新日 : 2025-01-18
  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   いちばん大事なことは-03

    紗良が海斗を連れて帰宅すると、すぐ後に杏介もコンビニの袋を下げてやってきた。「適当に買ってきたからとりあえず食べよう」ガサガサと袋からおにぎりや惣菜パンや菓子パンを取り出せば、海斗がひょいっと覗きにくる。「なにがあるー?」「ツナマヨと鮭と明太子。海斗は明太子は食べれないかな? あとはソーセージパンとクリームパンと……」「あー! かいと、ツナマヨ! ツナマヨすきなんだよねー」「こら海斗! ありがとうといただきますでしょ」「せんせー、ありがとう。いただきまーす」海斗は器用におにぎりの包みを取り外し、大口を開けて食べ始めた。「ほら、紗良も。何食べる?」「あ、うん……」朝食は食べていないし杏介が買ってきてくれたたくさんの食べ物を前にしても、紗良はまったくお腹がすかなかった。 そんなことよりも母のことを想うだけで胸が苦しくなる。 ため息が出そうになるのを堪えていると、杏介の大きな手が頭の上に降ってくる。「落ち込むのはわかるよ。だけどちゃんと食べておかないと紗良の体がもたない。今日はまだ始まったばかりだろう? しっかり体力つけないと」「うん、わかってるけど……」頭では理解しているけど、どうにも食べる気が起きない。 どれが食べたいのかもわからない。「紗良が食べないなら、今ここでキスする。海斗の目の前で」「……はっ? えっ? 何言って……」「じーーー」杏介の突拍子もない提案に動揺したのも束の間、黙々とおにぎりを頬張っていた海斗が期待の眼差しで紗良を見ていたため、紗良の頬は一気に染まる。

    最終更新日 : 2025-01-19
  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   いちばん大事なことは-03

    「き、杏介さんっ! 冗談はやめてよ! 海斗も! 何? 何なのよっ!」「せんせー、さらねえちゃんおこるとこわいんだよ。しらなかった?」「うーん、知ってた。でも海斗が怒らせたんだろ?」「えー? せんせーのせいでしょ?」杏介と海斗はヒソヒソと責任を押しつけ合う。 完全にからかわれた紗良はムスッとしながら明太子おにぎりを掴むと綺麗に包装を解いた。「まったくもう、これだから男子は」などとぶつくさ言いながらおにぎりを一口かじる。 こんな時に、と思わなくはないが、二人のおかげでずっと張り詰めていた緊張が緩んで急にお腹がすいたような気がした。まだこれから病院に戻らなくてはいけないのだ。 杏介の言うとおり、しっかり食べておかないと今日を乗り切れない気がする。紗良がもぐもぐ食べていると、「さらねえちゃんげんきになったねぇ」「元気な紗良が一番いいよな」と男子たちはまたコソコソと笑ったのだった。早々に食べ終わった海斗は、すぐに杏介にまとわりつく。海斗にとって祖母が入院したことは大事ではなく、なんとなく非日常的なことが起こったという感覚にすぎない。 朝早くに病院まで連れ出されたが今はもう家に戻ってきているため、海斗の中ではいつもの日常だ。「せんせー、あそぼ」「こら、海斗」紗良が咎めるが、杏介はそれを手で制す。「いいからいいから。俺が海斗と遊んでいるから、紗良はお母さんの入院の準備とか、やらなきゃいけないことを優先させて」そんな風に言ってくれるので、紗良はありがたく従った。

    最終更新日 : 2025-01-20
  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   いちばん大事なことは-04

    海斗はもう保育園の年長児だ。 されどまだ年長児。 できることは増え、我慢することも覚えた。それがきちんとできるときもあれば、まだまだ聞き分けがないときだってある。何より遊びたい盛り。口を開けば「さらねえちゃん」と呼ぶ。 その呼びかけに応えながら何かをすることはなかなかに時間がかかるしストレスにもなる。けれど今日は杏介がいて、海斗のことを見ていてくれて、それがどんなに助かっていることか。 紗良はカバンに母の荷物を詰めながら、それを嫌というほど実感した。「海斗、もう一回病院行くよ。出かける前にトイレ行って」「紗良。俺も行こうか?」「そんな迷惑はかけられないよ」「だったら、家で海斗と留守番していようか。その方が紗良も動きやすいだろう?」「そう、かもだけど……」口ごもる紗良が何を言おうとしているのか、もう杏介はわかっている。 だから先にはっきりと告げる。「迷惑じゃない。俺が紗良のために何かしたいだけだ」「……じゃあ。……海斗、先生とお家で待っていられる?」「いいよー」少しは抵抗を見せるかと思っていたが、海斗はあっさりと頷いた。 拍子抜けしてしまったのは紗良の方だ。 海斗は杏介にぴったりくっついたまま、真剣に絵本のひらがなを追っている。「大丈夫だよ、紗良。いっておいで」杏介がそう言うので、紗良は小さく頷いてから「いってきます」と家を出た。一人は思った以上に身軽だった。

    最終更新日 : 2025-01-21
  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   いちばん大事なことは-05

    病院では母の病状や今後の説明を受け、たくさんの書類に目を通しながら手続きを済ませる。ICUにいる母にはたくさんの管が付いていて、数年前の光景を思い出させた。初めて脳梗塞で倒れたときも同じくここに入院した。あのとき紗良はまだ学生で、ICUで作業する医療者の声と無機質な機械音を聞きながら母の様子を伺っていた。これからどうなるのだろうと思いつつも、その時は姉がいたために姉に頼りっきりだったと今さらながらに思い出す。一人で抱えるのはつらい。すぐに不安や重圧で押しつぶされそうになる。けれどすぐに脳裏に浮かぶ顔――。杏介の存在は絶対的で紗良は幾重にも助けられていた。今朝だって誰かに縋りたくて無意識に杏介に電話をかけていたくらいだ。それほどまでに紗良の中で杏介に対する信頼感は大きいことに気づかされる。今こうして一人でテキパキと手続きをこなすことができるのも、杏介が海斗を見ていてくれるから。杏介が紗良を気遣ってくれるからに他ならない。いつだって紗良に優しく、いつだって紗良の味方でいてくれる杏介。(もしもまだ、杏介さんの気持ちが変わってないのなら――)変わっていないのなら自分はどうしたらいいのだろうか。どうしたいのだろうか。このままズルズルと都合の良い関係でいて貰うことの方がよっぽど失礼ではないか。いつまでもそんな関係でいてはいけないのだと、こんなときに限って実感してしまう。いや、こんなときだからこそ、だろうか。

    最終更新日 : 2025-01-21
  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   いちばん大事なことは-06

    アルバイト先にもしばらく休むことを伝え、お昼時もだいぶ過ぎた頃、紗良はようやく自宅へ戻った。「ただいまー」玄関を開けると奥から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。リビングに足を踏み入れれば、散乱した折り紙や絵本、そして杏介の膝に座ってスマホゲームをしている海斗がいた。「ああ、紗良、おかえり」「ただいま。おかげで手続きとかいろいろと終わったよ。杏介さん、大変だったよね?」「あ、ごめん。部屋が散らかりすぎてるな。あと、海斗にスマホゲームさせるのはよくなかったかも」「ううん。全然いいの。すごく助かってるから。海斗、よかったね」うん!と元気のいい返事が返ってくるも海斗はゲームに夢中になったまま杏介の膝の上でご機嫌だ。「紗良、バイトは休んだ?」「うん、さすがに行けないから。しばらくお休みさせてもらうことにしたの」「そうか。それがいいな」「あ、二人ともお昼はどうしたの?」「残ってたおにぎりとかパンを食べたよ。紗良は? ちゃんと食べた?」「うん、病院のカフェで少し……」本当はアイスコーヒーを一杯飲んだだけなのだが。 それを言えば杏介は心配するに決まっているので、食べたことにしておく。 朝は杏介と海斗が気持ちを盛り上げてくれたため食べることができたが、やはり一人での食事は喉を通らなかった。「よかったら夕飯食べてって。それくらいしかお礼できないんだけど……」「ありがとう。でも今から仕事だからさ。また今度いただくよ」「えっ、お仕事だったの? ごめんなさい、こんなに長くいてもらって」「いいんだ。気にするなよ。今から仕事だけど、何かあればすぐに電話してくれて構わないから。夜中でもいつでも。まあ、何もなくてもかけてくれていいんだけど。いつでも紗良の声聞きたいし」「ありがとう、杏介さん」思わず潤んでしまった目を隠すために紗良は少し俯く。 そんな紗良の頭を杏介は優しく撫でた。「海斗も、また来るからな」「わかったー。こんどまたゲームやらせてね」「紗良姉ちゃんの言うこと聞いていい子にしてたらな」「わかった。いいこにする」海斗は親指を突き立てキリリと頷く。後ろ髪を引かれながらも、杏介は仕事に向かった。 こんなときこそ仕事を休んでずっと紗良の元にいたいと思ったが、シフト勤務でなおかつ生徒を抱える身としては早番と遅番を変更してもらうので精一杯だ

    最終更新日 : 2025-01-22
  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   いちばん大事なことは-07

    紗良は散らかった折り紙を片付けながら、杏介は一生懸命海斗と遊んでくれたんだなと思いを馳せた。隣には海斗がいるというのに、急に大きな存在が目の前から消えてしまったような感覚に陥りもの悲しさを覚える。 それにいつも元気な母がいないことも、妙に家が広く感じて仕方がない。初めて母が脳梗塞になったときは意識がなく、生きるか死ぬかという山を乗り越えた。 幸いグングン回復して支障となる大きな後遺症も残らず、元の生活に戻った。 変わったことといえば、車の免許を返納したことと定期的な通院をするようになったこと。その時に、紗良は「母が死ぬかもしれない」ということを嫌というほど経験したし、医者から「脳梗塞は再発することがある」と聞かされていた。そしてその後の姉夫婦の事故死でも、紗良は心を抉られるくらいに「死」というものに対して考えさせられた。だからいつか何かがあったときの「覚悟」はあった。 していたつもりだった。けれど月日が流れ当たり前に生活できているとそんな「覚悟」も頭の隅に追いやられ薄れていく。母はICUに入っているが意識はある。 順調にいけば一週間ほどで一般病棟に移りリハビリが始まると医師から説明を受けた。 ただいつ急変してもおかしくないのが脳梗塞だ。 元の生活に戻れるかもわからない。そんな漠然とした不安がふとした瞬間に大きくなって波のように紗良に襲いかかってくる。 どうしようもない恐怖に押しつぶされそうになるが、視界の端に海斗を捉えるたび、しっかりしなくてはと自分を鼓舞するのだった。

    最終更新日 : 2025-01-23

最新チャプター

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   愛した君とここから-10

    紗良が望めば結婚式だって何だって杏介はするつもりでいた。だが紗良はあっさりと、しなくていいと言った。三月には新居も完成予定で引っ越し作業が待っている。そして四月になれば海斗は小学一年生になる。何かと慌ただしい日々。これ以上予定を詰め込むのは難しい。なにより、杏介と結婚できたという事実が一番嬉しいため今は結婚式にまで頭が回らない。「紗良、好きだよ」「……杏介さん」「前は断られたからリベンジ」杏介は照れくさそうに笑う。ポケットにこっそりと忍ばせていたマリッジリングを取り出し、紗良の左薬指にはめる。マリッジリング自体は二人でデザインを決めて購入した。けれどそれを杏介が持ってきていただなんて――。紗良は喜びで胸がいっぱいになる。薬指にはまった指輪はダイヤモンドが複数並んでおり、揺れるような光沢はまるで水面のようにキラキラと輝いた。「杏介さん、私のこと好きになってくれてありがとう。ずっと待っててくれてありがとう」「こちらこそ。俺のこと信じてくれてありがとう。見捨てないでいてくれてありがとう。これからもずっと紗良のことを愛し続けるよ」「……ずっとだよ?」「うん、ずっと。約束する」「私も、杏介さんのこと愛し続けるって約束する」「……まるで結婚式みたいだな」「確かに。セルフ結婚式だね」ふふっと微笑む二人は自然と唇を寄せる。甘く優しい口づけは冬の寒さなど微塵も感じない。あの時とは違う胸の高鳴りが聞こえてくる。たくさんのことを乗り越えて季節をまたぎ、次の春がまたやって来る。愛した君とここから始まるのだ。二人の進む未来は明るく輝いていた。【END】

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   愛した君とここから-09

    ◇年も明け、紗良と杏介は婚姻届を提出するため役所を訪れていた。ドキドキとしながら書いた婚姻届は、あまりの緊張に二枚ほど書き損じてしまった。 年末には再び杏介の実家を訪れ、証人欄に名前を記入してもらった。 杏介の本籍は実家にあるため、そちらで戸籍謄本も取った。着々と準備が進むごとに結婚するんだという実感がじわじわとわいてくる。 そして今日という日を迎えた。「おめでとうございます」窓口に提出すると職員がにこやかに対応してくれる。 不備がないかなど確認し、滞りなく受理された。 案外あっけなく終わり紗良と杏介は時間を持て余したため、以前訪れたことのある公園まで足をのばした。まだ北風冷たく春になるにはもうしばらく先。 杏介は紗良の手を握り、自分のコートのポケットへ入れた。 吐く息は白いけれど、くっついていれば寒さなど感じないくらい手のひらからお互いのあたたかさを感じる。小高い丘の上にある展望台までのぼるとちょうど飛行機が通り抜けていった。 以前来たときはまわりの木々には緑の葉が生い茂っていて葉々を揺らしたが、今は冬のため枝がむき出しの状態だ。ところどころライトが付けてあることから、夜にはちょっとしたイルミネーションが見られるのだろう。「そういえば、本当に結婚式はしなくていいの?」「うん、だって家も建てるし海斗の卒園式もあるし、やってる暇なんてないよ。お金もないし」「紗良がいいならそれでいいけど……」杏介は顎に手を当ててうむむと考え込む。 あまりにも悩んだ表情をするため、紗良は自分の考えばかり押しつけていたのかもと思い焦る。「もしかして杏介さん、結婚式したかった?」「ああ、いや、そうじゃなくて、紗良のウェディングドレス姿を見てみたいと思っただけで。だって絶対可愛いし」「ええっ? そんなこと言ったら、杏介さんのタキシード姿だって絶対かっこいいよ」お互いにその姿を想像してふふっと笑う。

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   愛した君とここから-08

    紗良は小さく首を横に振る。「ううん。私の方こそ……。私、あのとき依美ちゃんにそう言ってもらわなかったら自分の本当の気持ちを押し殺したままだった」あの時は目先なことしか考えていなかった。 海斗を立派に育てなければという使命感のみが紗良を支配していた。 依美の言葉は紗良を深く傷つかせたけれど、同時に自分のことを考え直すきっかけにもなった。「あのね、実は私、結婚するの」「いい人と出会ったんだ?」「うん、プール教室の先生」「えっ? もしかしてあの映画とか一緒に行ってたプールの先生ってこと?」「うん。だからね、依美ちゃんは私にきっかけをくれたんだ。自分の幸せを考えるきっかけ。本当に、ありがとね」「紗良ちゃぁ~ん」ズビズビと泣き出す依美に紗良も思わずほろりとする。 依美にハンカチを差し出せば「うええ」と更に泣き出した。「依美ちゃんって泣き虫だったんだ?」「違うの。なんかね、子ども産むと涙もろくなっちゃって」「そうなんだ?」コクコクと依美は頷く。 その経験は紗良にはないもので、何だか不思議に思う。 けれどきっと依美もそんな感じだったのだろう。「でも、本当におめでとう。自分のことのように嬉しい」「うん、ありがとう。依美ちゃんも、結婚と出産おめでとう」「ありがとう~」紗良と依美はふふっと微笑む。人はみな、違うのだ。 だからこうやって、意見が違えたりある日突然わかり合えたりするのだろう。

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   愛した君とここから-07

    海斗が一年生に上がる前までに、入籍と引っ越しを完了する予定でいる。 それまではバタバタな日々が続くが、師走ともなると仕事の方も慌ただしくなった。相変わらずギリギリで出社した紗良は、フロア内がざわめいていることに気がついた。 小さな人だかりができていて女性たちの黄色い声が耳に届く。「紗良ちゃん」輪の中心にいた人物が紗良に声をかける。「わあ! 依美ちゃん!」紗良は驚いて目を丸くした。 依美は長かった髪をバッサリ切って、腕には小さな赤ちゃんを抱えている。 切迫早産の危険があり入院していたが、無事、十月に出産したのだ。 赤ちゃんは三ヶ月になろうとしているがまだ小さくふにゃふにゃだ。「うわあ、可愛い」「よかったら抱っこしてみる?」紗良が手を差し出すと依美は赤ちゃんをそっと乗せる。 思ったよりも軽く、そうっと触らないと壊れてしまいそうなほどに繊細だ。 海斗とは比べものにならないくらい柔らかい。 そう思うと、海斗は大きくなったんだなと改めて感じた。「ああ、あとさ……」「うん?」口を開いた依美は躊躇いながら一旦口を閉じる。 紗良は首を傾げながら抱いていた赤ちゃんを依美に返すと、依美は赤ちゃんを大事そうに抱きしめた。 そして今にも泣き出しそうな顔で紗良を見る。 言いづらそうにしていたが、やがて重い口を開いた。「私、紗良ちゃんに謝りたくて……」「えっ? 何かあったっけ?」「うん……。前に……結構前のことなんだけど、紗良ちゃんに対して、自己犠牲に酔ってるなんて言ってごめん。子供ができてわかった。何より大事だよね。私、あのとき無神経だった」本当にごめん、と依美は瞳を潤ませた。 紗良はつい最近も身近でこんなことがあったようなと記憶を辿る。――紗良に出会って海斗と接したり紗良のお母さんと話をして、ようやく気づけたというか……(あ、これって杏介さんと一緒だ……)経験を経て、その立場になってみてようやくわかること。 紗良が海斗のことを一番に考えていた気持ち。 それを依美は自身が妊娠することによって得たのだった。「急に入院してそのまま退職しちゃったからさ、皆には迷惑かけたなと思って、挨拶がてらお菓子配りに来たの」「そうだったんだ」「特に紗良ちゃんには迷惑かけちゃってごめんね。私の仕事やってくれてたんでしょ? あと、メッセージも返

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   愛した君とここから-06

    ◇無事に親への挨拶も済み、二人は結婚に向けて歩き出した。 海斗のこと、紗良の母親のこと、お互いの仕事のこと、考える事は山ほどある。 けれどひとつも大変だとは思わなかった。 この先に待っている新しい生活に思いを馳せながら、日々できることをこなしている。季節は秋から冬に移り変わるところ。 延びていた母の入院生活もようやく終わり、紗良たちはアパートに引っ越していた。 それは母の老後悠々自適生活のためのアパートではなく、紗良たちの一時的な住居だ。紗良と杏介は悩みに悩んだ末、紗良の実家を建て替えて二世帯住宅として住むことを母に提案したのだ。 母は渋ったものの、左手足の回復が思ったより上手くいかず、近くに住んだ方が安心だと説得されて了承した。 海斗は家が新しくなることと、家が出来たら杏介と一緒に住めることを喜んで心待ちにしている。いつものように海斗をプールに送り出して、ママ友の弓香と一緒に観覧席に座る。 と、弓香が声を潜めて紗良に迫る。「ちょっと紗良ちゃん、滝本先生と結婚するってほんと?」「えっ! 弓香さん、なぜそれを……」ドキリとした紗良は思わず目が泳ぐ。「海ちゃんが保育園で言いふらしてたみたいよ。うちの子が聞いたって。もー、いつの間にそんなことになってたの?」「いや、いろいろあって。っていうか、ちゃんと弓香さんには伝えるつもりでいたんだけど、まさか海斗から伝わるとは……」「やだもう、馴れ初めとか聞きたい聞きたい!」「お、落ち着いて弓香さんっ! さすがにここでは話せないし……。今度お茶したときにでも! ねっ?」「絶対よ。約束だからね!」こんなプール教室に通う子どもの親たちがひしめく観覧席で、まさかガラス越しのプールにいる杏介と結婚する、という話題は避けたい。 紗良は冷や汗をかきながら弓香を落ち着ける。「まさか紗良ちゃんの推しが滝本先生だったとは。一番人気じゃん」「そんな競馬みたいなこと言わないでよ~」「あーあ、私も推しの小野先生と仲良くなりたいわ」「またそんなこと言って、旦那さん泣くってば」「いいじゃない、別に。なにも不倫したいとか思ってるんじゃなくてさ、芸能人とお近づきになりたいみたいなミーハーな気持ちよ。それくらい楽しみがないといろいろやってられないってば。紗良ちゃんは真面目すぎるのよ」「……真面目なんですよ、私は

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   愛した君とここから-05

    「本当に、いい人と巡り会えたのね。ね、お父さん。って、あら? やだ、何でお父さんが泣いてるの? ここで泣くのは私と杏介くんだと思うんだけど?」「いや、俺も父親として夫としていろいろ申し訳なかったな、と思ったら……つい……ぐすっ」父は目頭を押さえて上を向く。 寡黙な父で言葉数は少ないが、父には父なりの想いがあった。 それは言葉にならず涙として込み上げる。「……みんな、なんでないてるの? かなしいことあった?」大人たちの会話の意味はわかるが背景を知らない海斗は理解できずきょとんとする。 ずっと神妙な面持ちでいるかと思えば急に泣き出したのだから海斗としてはわけがわからない。「違うよ、海斗。嬉しくても涙は出るのよ」「海斗くん、これからよろしくね。お昼はピザでも取りましょうか? 海斗くんピザ好き?」「すきー! やったー!」「海斗、お利口さんにする約束!」「はっ! し、してるよぅ」紗良に咎められ慌てて姿勢良くする海斗。 微笑ましさに母は思わず口もとがほころぶ。「ふふっ、私ちょっとやそっとじゃ驚かないわよ。杏介くんで鍛えられてるから」と茶目っ気たっぷりに言われてしまい杏介は頭を抱えたくなった。 とはいえすべて自分が元凶なので謝ることしかできないのだが。「……いや、本当に申し訳な……」「杏介」涙のおさまった父が低く落ちついた声で名を呼び、はい、とそちらを向く。「いろいろ経験したお前だ。これからは紗良さんと海斗くんと幸せになりなさい」「父さん……」紗良は改めて杏介の手を握る。 杏介も応えるように握り返す。 今日、ここに来て本当によかった。 心からそう思った。顔を見合わせればお互い真っ赤な目をしていて、可笑しくなってふふっと微笑む。杏介と母とのぎこちなさがなくなったわけではない。 それでも暗く閉ざされていた部分に光が差し込み、今まで見えなかった出口が見えてきた気がした。

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   愛した君とここから-04

    「杏介、母さんはずっとお前のことで悩んでて――」父が厳しく咎めようとしたが、母はそれを遮った。 そして小さく頷く。「……いいのよ。思春期だったもの。私も上手くできなくて相当悩んで荒れたし、お父さんにも相談してたの。だけどもう、杏介くんが元気ならそれでいいかなって思って。……家を出て、そこで紗良さんと知り合って結婚するんだもの。今までのことは紗良さんに出会うための布石だと思えば安いものよ」ね、と母は同意を促す。 どう考えても安くはないと思った。 結婚して幸せな家庭を築きたいと願っている杏介にとって、母が結婚してから今まで味合わせてしまった負の感情は取り返しもつかない。 ましてや自分が産んだ子のことでもないのに。「本当に申し訳なかったと……思う。紗良に出会って海斗と接したり紗良のお母さんと話をして、ようやく気づけたというか、その、なんていうか、今まで……すみませんでした。許してはもらえないかもしれないけど……」「杏介くん……」大人になって、その立場になってようやくわかる気持ち。 子どもの頃はなんて浅はかで未熟だったのだろう。 もう戻れやしないけれど、誠意だけはみせたいと思った。「ううっ……」突然隣から鼻をぐしゅぐしゅ啜る音が聞こえてそちらを見やる。「さ、紗良?」「あらあら、紗良さんったら」紗良は目を真っ赤にして涙を堪えていた。 慌てて杏介がハンカチを差し出す。「す、すみません。わたし、杏介さんが悩んでいたのを知ってたし杏介さんが私の母を大切にしてくれてるから、お母様とも仲良くできたらと思ってて……ぐすっ。だからよかったなって思って……ううっ……」「俺は紗良がいてくれなかったらこうやって会いに来ようとも思わなかった。ずっと謝ることができないでいたと思う」紗良とその家族に出会って、杏介は過去を振り返り変わることができた。 杏介は紗良の背中をそっとさする。 この杏介よりも小さい体で杏介よりも年下の紗良に、どれだけ助けられてきただろう。 自分の黒歴史でしかない親との確執に付き合ってくれ泣いてくれる。 その事実がなによりも杏介の心を震わせた。

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   愛した君とここから-03

    「紗良さん、頭を上げてちょうだいね。私たち、結婚を反対しようなんて思ってないのよ。杏介くんから聞いてると思うけど、私は杏介くんの本当の母ではないから、複雑な家庭環境に身を置くことに対してその覚悟はあるのかしら、と気になっただけなのよ。気を悪くさせたらごめんなさいね」父が言葉足らずな分、それをフォローするかのように母は申し訳なさそうに告げた。「あ、いえ……」気を悪くなどと、と恐縮していると、杏介は紗良の手を握る。 突然のことに杏介を見やるが、握った手はそのままに杏介は真剣な顔をして母を見た。その手には力がこもっている。「……本当の、母だよ」「え?」「俺はちゃんと……あなたのことを……お母さんだと……思ってる」「……杏介くん?」杏介は一度紗良を見る。 握った手から力をもらうかのように紗良のあたたかさを感じてから、杏介は深く息を吸い込んだ。「……関係をこじらせたのは俺のせいだ。母さんはいつも俺に優しかった。冷たくしたって無視したって、ご飯は作ってくれたし、学校行事にも来てくれた。俺はずっと素直になれなくて逃げるように家を飛び出してしまったけど、本当は後悔してた。水泳の大会にも毎回来てくれてたのを知ってる」重かった口は一度言葉を吐き出したらすらすらと出てきた。 準備はしていなかった。 ずっと杏介の頭の中で燻り続けていた想いが溢れてくるようだった。杏介の母はしばらく黙っていた。 それは怒りでも喜びでもなく、まさか杏介がこんなことをいうなんてという驚きで言葉を失ったのだ。

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   愛した君とここから-02

    杏介の実家の前には車が一台止まっていたが、端に寄せられてもう一台止められるスペースが開けてあった。杏介はそこに丁寧に車を付ける。インターホンを鳴らすとすぐに玄関がガチャリと開く。 出てきたのは杏介の母で、杏介と目が合うと、お互いぎこちなく無言のまま。 ここは紗良がまず挨拶をすべきと口を開いたときだった。「こんにちは!」海斗がずずいと前に出て元気よく挨拶をした。 慌てて紗良も「こんにちは」と続く。 杏介の母は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに小さく微笑む。「こんにちは。遠いところよくいらっしゃいました。どうぞ上がってくださいな」ペコリと頭を下げて、紗良と海斗は中へ入った。 杏介もそれに続きながら、「ただいま」と小さく呟いた。杏介の緊張感がひしひしと伝わってくる。 紗良はそっと杏介を見る。 いつになく緊張した面持ちの杏介は紗良の視線に気づくとようやくふと力を抜いた。「大丈夫。ちゃんとするから」紗良に聞こえるだけの声量で囁く。 それは嬉しいことだけれど、気負いすぎもよくないと思う。でもそれを今、杏介に上手く伝えることができず紗良はもどかしい気持ちになった。和室の居間に通され、杏介の父と母の対面に座った。紗良の横には海斗がちょこんと座る。「紹介します。お付き合いしている石原紗良さんと息子の海斗くん。俺たち結婚しようと思って今日は挨拶に来ました」「はじめまして。石原紗良と申します。ほら海斗、ご挨拶」「いしはらかいとです。六さいです」ピンと張りつめていた空気が海斗によって少しだけ緩む。 海斗は自分が上手く挨拶できたことにドヤ顔で紗良を見る。目が合えば「ちゃんとごあいさつできたー」と、これまた気の緩むようなことを口走るので紗良は慌てて海斗の口を手で押さえた。「……杏介、いいのか? 最初から子どもがいることに、お前は上手くやれるのか?」杏介の父が表情変えず、淡々と厳しい言葉を投げかける。緩んだ緊張がまた元に戻った。 それは杏介と杏介の新しい母が上手く関係をつくれなかったことを意味していて、杏介だけでなく母も、そして紗良も唇を噛みしめる思いになった。「いや申し訳ない。紗良さん、あなたを責めているわけではないから勘違いしないでほしい。これは我が家の問題でね……」「俺は上手くやれる。ちゃんと海斗を育てるよ。それも含めて結婚したいと思

コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status