杏介は、海斗が通っている土曜昼は初級コースの担当、平日は上級コースを担当している。昨今のプール教室は人気で、生徒数は年々増加傾向にある。特に火曜日は選手育成コースがあり、レベルが高く他よりも年齢層も高い。通常のコースとは違い、水泳検定だって受けられるようになるのだ。誰もが選手になりたいし受験を考えている子は内申書に書けるため、子供よりも親が必死になっていることもある。だから今日みたいに、レッスン後に親から呼ばれることもざらだ。「先生、最近うちの子どうでしょう?」「頑張っていますよ。持久力が上がるともっとスピードも伸びると思います」「個人レッスンも考えているんですけどぉ」「ええ、夏休みや冬休みはそういったレッスンも募集がかかりますので、ぜひ活用してみてください」「それは先生が教えてくださるんですか?」「希望制ですが、人数が多いとお断りすることもあります」「そうなんですね。うちは滝本先生じゃないとダメなのでぜひお願いします」「それは光栄です」当たり障りのない受け答えをしつつ、なおも食い下がろうとする親を軽くいなす。自分が求められてありがたい反面、親の期待が大きく、それは杏介にとってプレッシャーだ。「はぁー」レッスン後の事務所で思わずため息が漏れた。「杏介、ずいぶん粘着されてたな」ちょうど通りかかり聞き耳を立てていた同期の小野航太が、コーヒーを手にニヤニヤといやらしい笑みを浮かべる。「個人レッスン希望らしいけどやる気があるのは親御さんだけなんだよ。本人のやる気はいまいちだったな」「だってお前それ、レッスンにかこつけて杏介狙いだろ?」「うーん、やっぱり?」なんとなく、思う節はある。やたらと腕を触ってきたり、話すその距離感が近いような気がしていたのだ。あまり考えないようにはしていたのだが。
「気をつけないと食われるぞ」「食われるってなんだよ」「だってお前、人気者だもんなぁ。いやー、売れっ子は違うねぇ」「茶化すなよ」「いや、実は俺もあったんだよ。旦那とは冷めてるからって体求めてくるの」「はぁ?」「嘘みたいだろ? なんか、筋肉質が魅力的なんだと」げんなりとした顔で大げさにため息をつく航太。まさかそんなことがあるのかと杏介は疑うが、そんな二人の会話に「男性もなかなか大変ねー」とまったりお茶を飲みながら年配の深見が会話に参加する。そして更に杏介の後輩である森下リカまでも興味深げに身を乗り出した。「深見さんもそういう経験ありですか?」「あるわよ。子供プール教室よりジムのお客さん。わざと胸にぶつかってきたりとか」「いやー最低!」「さすがにチーフ呼んで注意してもらったけど。まあ、昔の話だけどね」「私も聞いてくださいよぉ。この仕事してるとなかなか出会いがないじゃないですか。ジムのお客さんと仲良くなって付き合ったんですけど、バツイチ子持ちだったんです。しかも隠してて、バレたら今度は私に母になってほしいとか言ってきて~無理って断りました。だって子供にも会ったことないんですよ! ありえなくないですか?」「ただの母親役がほしかったのかもね。災難だったわね」「子持ちって隠せるんだなー」「……案外わからないものなのかも」そう、杏介が紗良のことを子持ちだと知らなかったことのように。そんな大っぴらに『バツイチ』だの『子持ち』だのと言う人は少ないだろう。しかし、一人で子供を育てるとやはり相手が欲しくなるものなのだろうか。リカの元彼のように、『子供の親』を求めてしまうものなのだろうか。ふと思い出されることがある。杏介の父もそのタイプだった。
杏介が小学生のとき、母は病気で亡くなった。父親と二人になった杏介は、父が大手企業の課長だったこともあり経済的には何不自由しなかったが、元々寡黙である父との生活はひどく素っ気なかった。だからといって、その生活が嫌だったかというと、そうでもない。杏介なりに、父と二人上手く生活ができていると思っていた。だが突然、その生活が一変した。父が恋人を作り、『新しい母』だと杏介に押し付けてきたのだ。杏介の同意もなく勝手に共同生活がスタートし、ちょうど思春期に入ろうとしていた杏介にとって、それは邪魔な存在でしかなかった。その『新しい母』も、初めは杏介に気に入られようと媚を売るような態度だったのだが、杏介のツンとした態度に嫌気がさしたのか、次第に疎ましくされるようになった。後から入ってきたのは『新しい母』のはずなのに、いつの間にか自分がいらない子のような存在になっていることに気づいて、どんどんと居心地が悪くなっていく。だから杏介は高校卒業後に迷わず県外の大学へ進学した。とにかく家から出たかった。そして実家に戻ることなくこの地で就職し、今でも滅多に家に帰らない。杏介にとって『新しい母』は要らなかった。ただそれだけのこと。紗良はどうだろうか。海斗に『新しい父』をと思っているだろうか。今のところそんな感じは見受けられないし、父の日の絵をプレゼントされたけれど『父親役をしてほしい』なんていう素振りは見えない。「あー出会いがほしい」リカが嘆くように呟く。待ってましたとばかりに航太はリカの前に座り、ニカッと爽やかな笑顔を向ける。「ここにいるじゃん」「どこに?」「俺だよ、俺」「小野先輩は好みじゃないです」「うわっ、リカちゃんひどっ!」「滝本先輩の方がイケメンで優しくて好きです」「あらやだ、リカちゃん面食いねぇ」「深見さん、俺に追い打ちかけないでください。杏介もなんか言ってやれ」「え?」急に話を振られ、心ここにあらずだった杏介はキョトンとしたあと、適当に返事をした。「あー、うん、ごめん」「ガーン! ひどいです!」リカが机につっぷして大げさに泣き真似をする。航太は呆れた顔で杏介の肩を叩いた。「お前、意外と冷たいのな」「いや、なんでそうなる……」「はいはい、お遊びはその辺にして。お客さんとトラブルは起こさないように気をつけてちょうだ
ウォーターパークへ出かけて以来、紗良と杏介はラーメン店以外でも時々連絡を取り合うようになった。話題はたいてい海斗絡みのことなのだが、海斗がいてくれることで話が盛り上がることもあり海斗様々だ。「最近はジンベエザメにはまってて、そんな動画ばかり見てるんです」「あ、じゃあ今度水族館行きます?さすがにジンベエザメはいないけど……」「いいですね、楽しそう。イルカとかペンギンも好きなんです」「じゃあ決まりですね」そんな感じで行き先が決まり、杏介の日曜休みに合わせて三人で出掛けることが増えていった。「入場記念にどうぞー」誘われるまま足を運べば、イルカのパネルと写真を撮れるコーナーがあり、海斗は意気揚々と駆けていく。「さらねぇちゃん、しゃしんとってー」「はいはい」「紗良さんも一緒に撮りますよ」「ありがとうございます。じゃあ順番に……」「よろしければお撮りしますよー」スタッフに声をかけられ、紗良と杏介は一瞬顔を見合わせるも、ぎこちなく海斗の横に並んだ。「はーい、パパママもう少し寄ってください」微妙な距離感をスタッフに指摘され、紗良はドキリと杏介を見る。杏介は何でもないように紗良に近づきそっと耳打ちした。「俺たち家族に見えるみたいですね」その言葉はひときわ紗良の心臓をドキンとさせる。嬉しい気持ちと申し訳ない気持ちが入り乱れて胸が苦しくなり、何も答えることができなかった。写真を撮ってもらったことにお礼を告げると、海斗が目をキラキラさせながらスタッフに尋ねる。「ジンベエザメいる?」「ごめんね、ここにはジンベエザメいないの。でももうすぐイルカショーが始まるから、ぜひ見ていってね」「イルカ? みたい!」「じゃあ行こっか」海斗は右手を杏介に、左手を紗良に向ける。挟まれるように手を繋ぐと、テンション高くぴょんぴょんと飛び跳ねた。(本当に、親子みたい)右手には海斗。その横には杏介。事情を知らなければ先ほどのスタッフのように、親子に見えるのだろう。妙にくすぐったいような気持になって、紗良はふふっと微笑む。「なに? さらねえちゃん」「ん? イルカショー楽しみだね」「かいとねぇ、イルカにのるんだー」「海斗、イルカに乗るためには泳げるようにならないとダメだぞ」「かいと、もうおよげるし」「えー、本当?」ドヤ顔をする海斗だが、いつもプ
イルカショーの会場はすでにたくさんの客で埋め尽くされていた。空いている席を探しながらウロウロすると、海斗が「こっち」と手を引っ張る。「いちばんまえ、あいてる。ここにしよ」不自然に空く一番前の席に首を傾げるも、海斗は一人走って行ってしまう。慌てて追いかければ、近くにいたスタッフに声をかけられた。「こちらの席は水がかかりますがよろしいですか?」「えっ、水?」「はい、このレインコートを着用ください」「海斗、ここ水がかかるんだって」「やったー!」「いや、そうじゃないでしょ……。杏介さん、どうしよう」「俺はそれで構わないよ。むしろ楽しそうだよね」「……じゃあ」スタッフから簡易的なレインコートを受け取り、三人は着用してから海斗を真ん中にして座る。そうこうしているうちにショーが始まり、イルカたちが手前のプールで優雅に泳ぎだした。『さあ、お客さんにご挨拶です』司会のアナウンスと共にイルカたちが一斉に目の前に集まる。そして尾を思い切り振り、水しぶきが客席へと降り注いだ。「きゃっ」「おおっ」「あーははははは」思ったよりも多い水しぶきに、紗良と杏介はフードを被る。だが海斗はツボにはまったのか、大笑いをしながら頭から水を被った。それがまた面白いのか、レインコートの意味などまったくないくらいにびしょ濡れになってしまった。「おもしろーい! イルカさーん!」客席から立ち上がらんばかりの海斗は終始目をキラキラさせてイルカショーに釘付けだ。目の前のプールで大ジャンプを繰り広げるイルカたち。次第に紗良も海斗の服が濡れることなど忘れてしまうほどに夢中になっていた。
「せんせー、かいともあれやりたい!」と、イルカ調教師がイルカの背に乗って泳ぎ、一緒に大ジャンプをしているところを指差す。「せんせーはできる?」「さすがに先生もあれはできないかも。でもやってみたいよね」「やってみたい!」「えー、絶対怖いよ。なんでそんなのやりたいって思うの?」「あはは。何だろうね? スリルを楽しみたいっていうか、単純に気持ちよさそうでもあるなぁ」「かいとはねぇ、イルカさんにのりたい」「私にはわからない気持ちだわ」杏介と海斗の盛り上がりについていけない紗良は意味がわからないと首を振る。 けれど二人の楽しそうな姿が見られて、紗良の気持ちも弾みがちだ。「ところで海斗、シャツがびしょ濡れじゃないの」「びったんこー」「さすがに濡れすぎだな」「どうしよう、着替えなんて持ってきてないし」「さらねえちゃん、パンツはぬれてない」元気よく答える海斗はおもむろにズボンをずりっと脱ぐ。 まだ会場にはたくさんの人がいるというのに、海斗は恥ずかしげもなくパンツを晒した。 慌てるのは紗良だけだ。「ちょっ、海斗! ここでズボン脱がないの!」「せんせー、みて。パンツ!」紗良が海斗の服を直そうとするも、その手をすり抜けて海斗は杏介に見せびらかす。「海斗~、それが面白いのは男子だけだ。紗良姉ちゃんを困らせるなよ」「かいとのパンツかっこいいのに。さらねえちゃんのパンツはかわいいよ」「ちょ、なっ、かっ、 海斗っ!」「あはは。そりゃ紗良姉ちゃんは可愛いから、何履いても可愛いだろ」「きっ、きょっ、杏介さんまでっ」真っ赤になった紗良はやっぱり可愛いなと眺めつつ、杏介はささっと海斗のズボンを直した。「さて海斗、Tシャツでも買いに行くか」「びったんこだから?」「そう、びったんこだから。そのままでいると風邪ひくぞ」「かいと、イルカさんのふくがほしい」「売ってるかなぁ? ほら、紗良さんも行こう」「……」ムスッと不満げな顔をする紗良。杏介は苦笑いをしながら尋ねる。「もしかして怒ってる?」「……怒ってません」「せんせい、さらねえちゃんおこってるからきをつけて」「……たぶん海斗に怒ってると思うけどな?」「ええーなんでぇー。せんせーがパンツっていうから」「あっ、お前人のせいにしたな? こうしてやる」「あひゃひゃひゃひゃ」コチョ
希望通りイルカのTシャツを購入し着替えた海斗は、ご機嫌に水族館を見て回っていた。紗良と杏介と手を繋いで歩いていたかと思えば、突然手を振りほどいてお目当ての魚のところまで走り出したりと目が離せない。それでも杏介が一緒に見てくれているという安心感が紗良に心の余裕を与えてくれる。おかげで紗良自身も純粋に水族館を楽しむことができた。「かいとはガチャガチャしたい」出口直前にあるショップの前には水族館限定のガチャガチャが何台も設置されていて子どもの目にはどれも魅力的に映った。案の定、海斗はそこからピクリとも動かなくなったし、やりたいやりたいと癇癪でも起こしそうな勢いだ。「やらないよ。 海斗はイルカのTシャツ買ったじゃない」「やだやだ。ほしいもん。このイルカさんがほしい」「イルカさんが出るかわからないのよ」「イルカさんがでるまでやる」「やりません」「海斗、イルカがほしいならお店にもいろいろ売ってるよ。それと、おばあちゃんにお土産買わなくていいのか? 海斗が選んだら喜ぶと思うよ」「おばーちゃんにおみやげ。かいとがえらぶ」杏介が上手くガチャガチャから海斗を遠ざけ、三人はショップへ入った。たくさんの商品を前に、またしても海斗は目をキラキラさせる。さんざん悩んだあげく、海斗はイルカのコップを手に取った。「かいとはこれ。おばーちゃんはおまんじゅう」「よし、じゃあ決まりだな。これ買うからガチャガチャは無しだぞ」「うん、わかった」「杏介さん、ガチャガチャのほうが安いよ」「そうだけど、ガチャガチャよりこっちのほうが実用的だろ? で、紗良さんは決めた?」「え、私?」「そう。記念に何か買おう」「いや、私は……」「何がほしい?」そう言われると困ってしまう。自分が欲しいものなんて考えに及ばなかった。いや、二年前までならきっと、あれもほしいこれもほしいと物欲があったはずだ。それがいつからか、海斗のことばかり気にして自分の物欲はどこかへいってしまった。海斗が喜べばそれでいいと思っていたからだ。「……何もいらないです」「そう?」じゃあ買ってくるねと、海斗を連れてレジに並ぶ杏介の後ろ姿を見送る。紗良は邪魔にならないようにと一人店外へ出て待った。
なんだか変に胸がズキズキするのはなぜなのだろう。本当に、欲しいものは何もなかった。だけどやっぱり、何か欲しかった。そう思うのは、なぜ……?楽しそうな海斗を見ているだけで嬉しいはずなのに。自分でもよくわからないモヤッとした気持ちを抱えたままぼんやりと二人を待っていると、海斗と手を繋いだ杏介が戻ってくる。反対の手には大きな袋。「はい、紗良さん」「え、なに?」「さらねえちゃんにプレゼントだよー」「えっ?」杏介はその大きな袋を紗良に差し出した。「紗良さんぬいぐるみ好きなんでしょう?」「好き……だけど。えっ? ……私に?」「海斗にばかり買ってあげたんじゃ不公平だよね? ……ていうのは建前で、本当は紗良さんにも何か買ってあげたかったっていうか」「さらねえちゃん、いっつもおにんぎょうさんとねてるもんねー?」袋を開けてみれば、抱きかかえることができるほどのイルカのぬいぐるみ。程よい弾力で肌触りも良く、そのまま顔を埋めてしまいたいほど。「……好みじゃなかった?」紗良はフルフルと首を横に振る。体の奥の方から込み上げてくる熱いものは紗良の胸をぎゅっと痺れさせた。「……嬉しいっ!」ニコッと笑う紗良を見て、杏介と海斗は顔を見合わせてハイタッチをした。「やったー! びっくりだいせいこーう」「さすが海斗、紗良姉ちゃんの好きなものよくわかってるな」「でしょー。えへへ」「杏介さん、ありがとう。これ高かったよね? あと海斗のコップも」「気にしないで。俺が二人にしてあげたくて勝手に買ったんだから。素直にもらってくれると嬉しい」「うん、うん、……すっごく嬉しい!」イルカのぬいぐるみを大事そうに抱える紗良の瞳はわずかに揺らぐ。そんな紗良を見て、杏介の胸も熱くなる。そして紗良の頭をポンと優しく撫でた。「喜んでもらえて、俺もすっごく嬉しい」つい先ほどまで感じていた胸のモヤモヤは、もうどこかにいってしまうほど。微笑み合えば二人を纏う空気が柔らかく流れ、それだけで幸せが満たされていくような、そんな気がした。
カシャカシャカシャッその音に、紗良と杏介は振り向く。そこにはニヤニヤとした海斗と、これまたニヤニヤとしたカメラマンがしっかりカメラを構えていた。「やっぱりチューした。いつもラブラブなんだよ」「いいですねぇ。あっ、撮影は終了してますけど、これはオマケです。ふふっ」とたんに紗良は顔を赤くし、杏介はポーカーフェイスながら心の中でガッツポーズをする。ここはまだスタジオでまわりに人もいるってわかっていたのに、なぜ安易にキスをしてしまったのだろう。シンデレラみたいに魔法をかけられて、浮かれているのかもしれない。「そうそう、海斗くんからお二人にプレゼントがあるんですよ」「えっへっへー」なぜか得意気な顔をした海斗は、カメラマンから白い画用紙を受け取る。紗良と杏介の目の前まで来ると、バッと高く掲げた。「おとーさん、おかーさん、結婚おめでとー!」そこには紗良の顔と杏介の顔、そして『おとうさん』『おかあさん』と大きく描かれている。紗良は目を丸くし、驚きのあまり口元を押さえる。海斗とフォトウエディングを計画した杏介すら、このことはまったく知らず言葉を失った。しかも、『おとうさん』『おかあさん』と呼ばれた。それはじわりじわりと実感として体に浸透していく。「ふええ……海斗ぉ」「ありがとな、海斗」うち寄せる感動のあまり言葉が出てこなかったが、三人はぎゅううっと抱き合った。紗良の目からはポロリポロリと涙がこぼれる。杏介も瞳を潤ませ、海斗の頭を優しく撫でた。ようやく本当の家族になれた気がした。いや、今までだって本当の家族だと思っていた。けれどもっともっと奥の方、根幹とでも言うべきだろうか、心の奥底でほんのりと燻っていたものが紐解かれ、絆が深まったようでもあった。海斗に認められた。そんな気がしたのだ。カシャカシャカシャッシャッター音が軽快に響く。「いつまでも撮っていたい家族ですねぇ」「ええ、ええ、本当にね。この仕事しててよかったって思いました」カメラマンは和やかに、その様子をカメラに収める。他のスタッフも、感慨深げに三人の様子を見守った。空はまだ高い。残暑厳しいというのに、まるで春のような暖かさを感じるとてもとても穏やかな午後だった。【END】
その後はスタジオ内、屋外スタジオにも出てカメラマンの指示のもと何枚も写真を撮った。残暑の日差しがジリジリとしているけれど、空は青く時折吹く風が心地いい。汗を掻かないようにと木陰に入りながら、紗良はこの時間を夢のようだと思った。「杏介さん、連れてきてくれてありがとう」「思った通りよく似合うよ」「なんだか夢みたいで。ドレスを選んでくださいって言われて本当にびっくりしたんだよ」「フォトウエディングしようって言ったら反対すると思ってさ。海斗巻き込んだ壮大な計画」「ふふっ、まんまと騙されちゃった」紗良は肩をすくめる。騙されるのは好きじゃないけれど、こんな気持ちにさせてくれるならたまには騙されるのもいいかもしれない。「杏介さん、私、私ね……」体の底からわき上がる溢れそうな気持ち。そうだ、これは――。「杏介さんと結婚できてすっごく幸せ」「紗良……」杏介は目を細める。紗良の腰に手をやって、ぐっと持ち上げた。「わあっ」ふわっと体が浮き上がり杏介より目線が高くなる。すると満面の笑みの杏介の顔が目に飛び込んできた。「紗良、俺もだよ。俺も紗良と結婚できて最高に幸せだ」幸せで愛おしくて大切な君。お互いの心がとけて混ざり合うかのように、自然と唇を寄せた。
カシャッ「じー」小気味良いカメラのシャッター音と、海斗のおちゃらけた声が同時に聞こえて、紗良と杏介はハッと我に返る。「あー、いいですねぇ、その寄り添い方! あっ、旦那様、今度は奥様の腰に手を添えてくださーい」「あっ、はいっ」カシャッ「次は手を絡ませて~、あっ、海斗くんはちょっと待ってね。次一緒に撮ろうね~」カシャッカメラマンの指示されるがまま、いろいろな角度や態勢でどんどんと写真が撮られていく。もはや自分がどんな顔をしているのかわからなくなってくる。「ねえねえ、チューしないの?」突然海斗がとんでもないことを口走るので、紗良は焦る。いくら撮影だからといっても、そういうことは恥ずかしい。「海斗、バカなこと言ってないで――」と反論するも、カメラマンは大げさにポンと手を叩いた。「海斗くんそれいいアイデアです!」「でしょー」カメラマンと海斗が盛り上がる中、紗良はますます焦る。海斗の失言を恨めしく思った瞬間。「海斗くん真ん中でパパママにチューしてもらいましょう」その言葉にほっと胸をなで下ろした。なんだ、それなら……と思いつつ、不埒な考えをしてしまった自分が恥ずかしくてたまらない。「うーん、残念」杏介が呟いた声は聞かなかったことにした。
ウエディングドレス用の、少しヒールのある真っ白なパンプスに足を入れた。かかとが上がることで自然と背筋もシャキッとなるようだ。目線が少しだけいつもより高くなる。「さあ、旦那様とお子様がスタジオでお待ちですよ」裾を持ち上げ、踏んでしまわないようにとゆっくりと進む。ふわりふわりと波打つように、ドレスが繊細に揺れた。スタジオにはすでに杏介と海斗が待っていた。杏介は真っ白なタキシード。海斗は紺色のフォーマルスーツに蝶ネクタイ。紗良を見つけると「うわぁ」と声を上げる。「俺ね、もう写真撮ったんだー」紗良が着替えて準備をしている間、着替えの早い男性陣は海斗の入学記念写真を撮っていた。室内のスタジオだけでは飽き足らず、やはり屋外の噴水の前でも写真を撮ってもらいご満悦だ。海斗のテンションもいい感じに高くなって、おしゃべりが止まらない。「紗良」呼ばれて顔を上げる。真っ白なタキシードを着た杏介。そのバランスのいいシルエットに、思わず見とれてしまう。目が離せない。「とても綺麗だよ。このまま持って帰って食べてしまいたいくらい」「杏介さん……私……胸がいっぱいで……」紗良は言葉にならず胸が詰まる。瞳がキラリと弧を描くように潤んだ。
そんなわけであれよあれよという間に着替えさせられ、今はメイクとヘアスタイルが二人のスタッフ同時に行われているところだ。あまりの手際の良さに、紗良はなすすべがない。大人しく人形のように座っているだけだ。(私がウエディングドレスを着るの……?)まるで夢でも見ているのではないかと思った。海斗を引き取って、一生結婚とは無縁だと思っていたのに、杏介と結婚した。そのことすらも奇跡だと思っていたのに。結婚式なんてお金がかかるし、それよりも海斗のことにお金を使ってあげたいと思っていたのに。そのことは杏介とも話し合って、お互い納得していたことなのに。今、紗良はウエディングドレスに身を包み、こうして花嫁姿の自分が出来上がっていくことに喜びを感じている。こんな日が来るなんて思いもよらなかった。この気持ちは――。嬉しい。声を大にして叫びたくなるほど嬉しい。ウエディングドレスを身にまとっているのが本当に自分なのか、わからなくなる。でも嬉しい。けれどそれだけじゃなくて、もっとこう、心の奥底からわき上がる気持ちは一体何だろうか。紗良の心を揺さぶるこの気持ち。(早く杏介さんと海斗に会いたい)心臓がドキドキと高鳴るのがわかった。
鏡に映る自分の姿がどんどんと綺麗になっていく様を、紗良はどこか他人事のようにぼんやりと見つめていた。一体どうしてこうなったのか。海斗の入学記念写真を撮ろうという話だったはずだ。それなのにウエディングドレスを選べという。掛けられていた純白のウエディングドレスは、そのどれもが繊細な刺繍とレースでデザインされている。素敵なものばかりで選べそうにない。「どうしたら……」ウエディングドレスを着ることなんて、これっぽっちも考えたことがなかった。だから果たしてこんなに素敵なドレスが自分に似合うのか、見当もつかない。ドレスを前にして固まってしまった紗良に「ちなみに――」とスタッフが声をかける。「旦那様の一押しはこちらでしたよ」胸元がV字になって、透け感レース素材と合わせて上品な雰囲気であるドレスが差し出される。肩から腕にかけては|五分《ごぶ》くらいのレースの袖が付いており、デコルテラインがとても映えそうだ。レース部分にはバラの花がちりばめられているデザインで、それがまるで星空のようにキラキラと輝く。純白で波打つようなフリルは上品さと可憐さが相まってとても魅力的だ。「でも自分の好みを押しつけてはいけないとおっしゃって、最終的には奥様に選んでほしいとこのようにご用意させていただいております」そんな風に言われると、もうそれしかないんじゃないかと思う。杏介の気持ちがあたたかく伝わってくるようで、紗良は自然と「これにします」と答えていた。
「ではお着替えしましょうか。海斗くんとお父様はこちらに。お母様はあちらにどうぞ」スタッフに従ってそれぞれ更衣室に入る。どうぞと案内された更衣室のカーテンを開けると、そこには大きな鏡とその横に真っ白なウエディングドレスが何着もズラリと掛けられていた。「えっ?」紗良は入るのを躊躇う。 今日は海斗の入学記念写真を撮りに来たはずだ。 せっかくなので着物を借りて写真を撮ろうと、そういう話だった気がする。いや、間違いなく杏介とそう話した。昨日だって、何色の着物がいいかと杏介とあれやこれや喋った記憶がある。それなのに、紗良の目の前にはウエディングドレスしか見当たらない。着物の一枚すら置いてないのだ。「あ、あの、お部屋間違ってませんか?」「間違っていませんよ。さあさ、奥様こちらへどうぞ。お好きなドレスを一着お選びください」「いえ、今日は子供の入学記念写真の予定なんですけど……」「何をおっしゃいますか。旦那様とお子様が楽しみに待たれていますよ」「えっ、えええ~?」スタッフはふふふとにこやかに笑い、困惑する紗良を強引に更衣室へ引きずり込むと、逃がさないとばかりにシャッとカーテンを閉めた。わけがわからない紗良は、スタッフに勧められるがまま、あれよあれよと流されていった。
杏介が予約したフォトスタジオを訪れた紗良は、思わず「うわぁ」と声を上げた。四季折々の風景をコンセプトにしている屋内スタジオに加え、外でも撮影できるよう立派な庭園が設えられている。海斗はランドセルを大事そうに抱えながらも、フォトスタジオに興味津々で今にも走りださんと目がキラキラしている。「いらっしゃいませ。ご予約の滝本様ですね」「はい、今日はよろしくお願いします」「ねえねえ、あの噴水さわってもいい?」「こら、海斗、ご挨拶!」「あっ。こんにちは。おねがいします」ピシャッと紗良が戒めると、海斗は慌てて挨拶をする。その様子を見てスタッフは海斗に優しい笑みを浮かべた。「噴水が気に入ったかな? あのお庭でも写真が撮れるから、カメラマンさんに伝えておきますね」「やったー!」海斗の入学記念に写真を撮りに来ただけなのに、そんなシチュエーションもあるのかと紗良は感心する。なにせフォトスタジオに来ること自体初めてなのだ。杏介に任せきりで予約の仕方すらわからない。まあ、杏介が「俺に任せて」と言うから、遠慮なくすべて手配してもらっただけなのだが。「海斗すごく喜んでるね」「浮かれすぎてて羽目外しそうでヒヤヒヤするよ」「確かに」紗良と杏介はくすりと笑った。
「どうしたの、海斗」「これを見て!」海斗はおもむろにランドセルを背負う。 まだまだピカピカのランドセルを、紗良に見せつけるように体を捻った。「ランドセル?」「そう! ランドセル! 写真撮りたい。リクもさなちゃんも写真撮りにいったんだって」「写真? 写真なら撮ってあげるよ」紗良は自分のスマホのカメラを海斗に向ける。「ちがーう。そうじゃなくてぇ」ジタバタする海斗に紗良は首を傾げる。 咄嗟に杏介が「あれだろ?」と口を挟む。「入学記念に家族の記念写真を撮ったってことだよな?」「そう、それ! 先生わかってるぅー」「ああ~、そういうこと。確かに良いかもね。お風呂で何か盛り上がってるなぁって思ってたけど、そのことだったのね」「そうそう、そうなんだよ。でさ、会社が提携しているフォトスタジオがあるから、予約してみるよ」「うん、ありがとう杏介さん」ニッコリと笑う紗良の頭を、杏介はよしよしと撫でる。 海斗に関することなら反対しないだろうと踏んでいたが、やはりあっさりと了承されて思わず笑みがこぼれた。「?」撫でられて嬉しそうな顔をしながらも、「どうしたの?」と控えめに上目遣いで杏介を見る紗良に、愛おしさが増す。「紗良は今日も可愛い」「き、杏介さんったら」一瞬で頬をピンクに染める紗良。 そんなところもまた可愛くて仕方がない。夫婦がイチャイチャしている横で、海斗はランドセルを背負ったまま「写真! 写真!」と一人でテンション高く踊っていた。