キッズプールは屋内施設だ。まだよちよち歩きの子供でも楽しめるような噴水シャワーや浅いプール、角度の緩いスライダーやキッズ向けスライダーもある。「かいと、あれやる!」目をキラキラと輝かせた海斗はスライダーを気に入り、何度も何度も滑っては大笑いをする。「もっかい、いってくる」滑り降りた先で待っている紗良と杏介に元気よく伝えると、また一人で階段をのぼっていく。「海斗、走らないでよー」紗良が声をかけるが、聞いているのか聞いていないのか、そのスピードは落ちることを知らない。「ずいぶん気に入ったみたいですね」「こんなに喜ぶとは思いませんでした」「誘った甲斐がありますよ」くっと微笑む杏介に、紗良は感謝の気持ちでいっぱいになった。杏介がいなかったら間違いなくここには来ていなかった。例えチケットだけもらっても、紗良一人で海斗を連れてプールに来るなんてことはできなかっただろう。「さらねえちゃん、つぎはあそこにいこー!」「ちょっと海斗待って! ……きゃっ!」突然走り出す海斗を慌てて追いかける。が、紗良は足を滑らせてバランスを崩した。目の前の視界がぐるんと動き立て直すことは不可能だ。けれど予想よりも軽い衝撃と共に、紗良の視界はすぐに止まった。「危なっ! 大丈夫ですか?」「……! す、すみません!」斜め上を見上げれば、紗良の右腕を絡めるようにして受け止めている杏介の驚いた顔がある。「「……!!」」視線がぶつかれば、お互いあまりの近さに言葉を飲み込んだ。((ち、近いっ!))動揺してパッと離れれば、急激に心臓がドッドッと音を立てて暴れ出した。今まで意識していなかったのに、どういうわけか頬に熱が集まってくるようだ。(杏介さん、たくましすぎるんですけど!)(紗良さん、華奢すぎるんですけど!)お互いどぎまぎしながら、「もー、海斗ったらすぐにどっか行っちゃうんだから」「本当に」と、ぎこちなく笑うのだった。
開園から遊び倒したので、お昼も過ぎてそこそこに帰り支度を始めた。 まだ遊びたいと渋る海斗だったが、車に辿り着く前に抱っこをせがみ、杏介の胸の中であっという間に船をこぎ出した。「杏介さんすみません、重いでしょう?」「紗良さんこそ荷物持たせてしまってすみません」「いいえ、海斗の重さに比べたら全然余裕ですよ」「海斗よだれ垂れてる」「えっ! すみません!」「いや、いいんです。子供らしくて可愛いなと思って」杏介は嫌がることもなく面白そうに笑う。 その笑顔につられて紗良もふふっと微笑んだ。すっかり爆睡状態の海斗を後部座席に乗せ、今度は紗良が助手席に座ることになった。 普段自分で運転してばかりの紗良は、助手席に乗るということが初めてに近い。 開けた視界にゆったりとしたシートは贅沢だと感じ、紗良を新鮮な気持ちにさせる。 チラリと横目で杏介を見れば、整った綺麗な顔で真剣にハンドルを握っていた。(こんな風に、運転してもらえる日が来るなんて……)不思議な気分になりながら見つめていると、ふと目が合う。「あ、えっと、今日は連れてきてくださってありがとうございました。杏介さんが誘ってくれなかったら、 私、 海斗のこと一生プールに連れてきてあげられなかった気がします」「よかったです。……あの、 聞いてもいいですか?」「はい」きょとんと首を傾げる紗良に、杏介は一旦口をつぐむ。 本当に聞いてもいいのだろうかと思いつつも、でもやはり聞かずにはいられなかった。「紗良さんは、その、……海斗の母親ではないんですか?」一瞬車内がしんとなった気がした。 聞くのは時期尚早だっただろうかと焦るも、時間は戻せない。 だが紗良は何でもないようにふふっと微笑んだあと「はい」と肯定した。
「実はそうなんです。 海斗の母の妹です。海斗の両親は事故で亡くなってしまって、 代わりに私が育てています」「そうだったんですか。 大変なご苦労をされているんですね」 ストンと憑きものが落ちるように、杏介は納得した。杏介が抱いていた疑問が一瞬のうちに晴れていくようだ。だから『紗良姉ちゃん』だったのだ。だから父親がいなかったのだ。紗良と海斗の境遇を思うと胸が潰れそうになる。今までどんな苦労をしてきたのだろう。どんな生活をしてきたのだろう。考えても想像に及ばない。「あ、でも家には母もいて、母と一緒に面倒見てる感じなんですけど。あの、だから、前に杏介さんに、私が愛情をもって育てているから海斗が楽しそうに笑ってるって言われて、本当に嬉しかったんです。なんだか私の努力が認められた気がして。まあ、子育てを努力っていうのも何か違う気がしますけど。……えっと、何て言うんでしょうね。上手く言い表せません」「いえ、立派です。子育てをしたことがない僕なんかが偉そうなことを言えた立場じゃないんですが、紗良さんは凄いと思います」「……ありがとうございます」誰かにこんな風に自分の気持ちを吐露したのは初めてかもしれない。もちろん会社や保育園に家庭の事情を話してはある。けれどそんな事務的なことではなくて、もっと紗良の心の奥底にあった感情を少しだけ見せてしまったような、そんな気分だった。「あの、もしよければ、またどこかに行きませんか?」「えっ?」「あー、えーっと、何て言うか、僕も楽しかったですし、海斗も喜んでくれて嬉しいって言うか……」「いいんですか? ご迷惑では?」「どうせ仕事以外は暇してるので」「嬉しいです。ありがとうございます。海斗も喜びます」「じゃあこれからもよろしくお願いします、紗良さん」「はい、こちらこそよろしくお願いします、杏介さん」二人は顔を見合わせるとはにかむように笑った。何だか心が晴れ晴れとするような、そんな爽やかさに胸が弾んだ。
自宅前まで車を着けてもらい、まったく起きる気配のない海斗に声を掛ける。「海斗、着いたよー。起きてー」案の定反応なくぐーすか眠りこける海斗に苦笑いしながら、紗良は海斗のシートベルトを外して抱っこしようと背中に手をかけた。「紗良さん、僕が運びますよ」そっと杏介に肩を引かれ、紗良は一歩下がる。軽々と海斗を持ち上げた杏介は相変わらず逞しく、それでいて頼りになる。「すみません、ありがとうございます」海斗を杏介に任せ紗良は荷物を手早く掴むと、自宅へと案内した。玄関を上がるとすぐにリビングがある。紗良は座布団を二枚並べると、そこに海斗を寝かせてもらうように指示を出した。「紗良、帰ってきたの? ……って、あら? こんにちは」別の部屋にいた紗良の母親が顔を出すと、見慣れない顔――、杏介を見て目を見張る。「こんにちは。お邪魔します」「あらあら、紗良ったらなあに? 彼氏と一緒だったの?」「やだ、お母さん、そんなんじゃないからっ。す、すみません、杏介さん」急にそんなことを言うものだから、今まで意識していなかったのに心臓がドキンと大きな音を立て、紗良は顔を赤くしながら焦り出す。そんな紗良の様子につられて杏介の心臓もきゅっと鳴ったような気がしたが、「大丈夫ですよ」と曖昧な笑顔でごまかした。「紗良と海斗がご迷惑をお掛けしたみたいですみません。疲れたでしょう? お茶でも飲んでってくださいな」「ちょ、ちょっと、お母さんったら」紗良の母はニコニコとしながら強引に杏介を座布団に座らせ、いそいそとお茶を入れ始める。「今日も暑かったわねぇ」などと世間話が始まり、完全に母のペースに巻き込まれてしまった。
「――まあ、ご親切にチケットをいただいて、車まで出してもらったの? まあ~」「とても楽しかったですよ。海斗くんは水が大好きで紗良さんに泳ぎを教えていました」「そうなのよー、この子ったら海ちゃんと違って昔から水が苦手でね。二十五年生きてきて学校以外のプールなんて初めて行ったんじゃないかしら? 水着だって持ってないから慌てて買いに行って――」「お母さん! もう、恥ずかしいからやめて!」「だからあんなに必死に浮き輪を持っていたんだね?」「きょ、杏介さんまでからかわないでください!」紗良は頬を染めながらぷんすか怒るが、そんな姿が杏介には大変いじらしく映り思わず目を細める。わいわいと騒ぎすぎたからだろうか、ふいにむくりと起き上がった海斗は目をこすりながら「あれー? せんせー? なんでいるの?」と呟く。時計を見れば思ったよりも長く石原家に滞在していた。「おはよう、海斗。じゃあ僕はそろそろおいとましようかな」「やだ! まだあそぶ!」「こら、海斗わがまま言わないの。先生だって忙しいのよ」「やだやだー」海斗は杏介の膝の上に座り、頑として動かなくなった。「海斗!」「あらあら、よっぽど楽しかったのねぇ」「海斗、今度はどこ行きたい? また先生が連れてってあげるよ」「ほんと?」「ああ本当。約束だ」杏介は小指を差し出す。海斗は小さな指を杏介の指に絡めてブンブンと勢いよく振った。「ゆーびきりえんまんーうーそついたーらはりせんぼんーとーますー」真剣な顔で言い間違えながら歌う海斗にほっこりと癒やされながら、大人たちは顔を見合わせてふふっと微笑んだ。
杏介が帰った後、紗良と母親は夕飯の準備を始めた。紗良が、彼氏ではないにせよ男性と出かけ、なおかつ家にまで上げたことに母は楽しくて仕方がない。 先ほどから杏介の話題ばかりで紗良はヒヤヒヤと受け答えをする。別にやましいことは何もないというのに、なぜこんなにもどぎまぎするのか。「優しい人だねぇ」「……うん、すごく優しい」「海ちゃんも懐いてるみたいだし、いいじゃない」「……何がいいのよ」「結婚相手に」「だから、そんなんじゃないってば。何期待してるの、お母さんったら。彼氏じゃないから」「あらそう? 残念だわ」そう言いつつも母は楽しそうに笑う。 本気なのか冗談なのか、その真意は図りかねるものの、胸のざわつきは抑えられそうにない。今日一日の楽しかったことが次から次へ思い出され、脳裏に浮かぶのは杏介の柔らかな笑顔。 そして、男らしく逞しい体。 頼りになる行動。殊更ここ二年間、プライベートで誰かに頼ったり甘えたりすることはなかったように思う。 もちろん母親に頼ることはあったけれど、そうではなくて、他人に何かを委ねるという感覚が新鮮で嬉しいと感じてしまう。それが良いことなのか悪いことなのか、判断はつかないけれど。(……それに、例え彼氏だったとしても、子持ちと結婚なんて考えられないでしょ)ため息深く、紗良はひとりごちるのだった。
杏介は帰りの車の中、今日の出来事を思い出していた。ひとえに『今日は楽しかった』それに尽きる。(紗良さんのいろいろな表情が見れたのは新鮮だったな)思い出しては勝手に頬が緩む。紗良は一児の母にして母ではなかった。ずっとモヤモヤしていた彼女たちの関係性が紐解かれ、さらにその事情を知ることでますます紗良への興味がわくようだ。(もっと紗良さんのことを知りたい)そんな気持ちになっていることに、胸のざわめきで実感する。海斗は両親がいなくて不憫だと思う反面、紗良とその母親に愛情たっぷりに育てられている。いつだって楽しそうに笑う、その顔に陰なんて見られない。それが何だか杏介には羨ましく感じる。(四歳児を羨ましいと思うなんて、どうかしているな……)予想外に石原家にお邪魔して、あたたかい家庭に触れたからそう思ってしまうのだろうか。それとも、子どもの頃の自分と無意識に比較してしまうのだろうか。モヤッとした感情が出てきそうになって、杏介は即座に頭を切り替える。自分のことなど、どうだっていいのだ。(それにしても、紗良さんは可愛かったな)流れるプールで体を強張らせているのも、手を離さないでと必死になっているところも。滑って転びそうになったときには咄嗟に手を出してしまったが、想像以上の華奢な体の感触はまだほんのりと思い出せるほど。あの細い体で仕事をしながら海斗を育て、土日もバイトをしている紗良。普段しっかりしているくせに、母親の前では子供みたいな態度であることに妙に安心した。そして母との会話から、紗良が二十五歳だと知ることができた。杏介より三歳年下だ。(そういえば今日も夜はバイトなのかな?)海斗がいるからと早めに帰って来た訳なのだが、プールで遊んだ後はきっと疲れているに違いない。申し訳ない気持ちになりつつ、紗良への思いを馳せながら、杏介は帰宅するなりぐっすりと寝てしまった。心地良い疲労感だった。
杏介は、海斗が通っている土曜昼は初級コースの担当、平日は上級コースを担当している。昨今のプール教室は人気で、生徒数は年々増加傾向にある。特に火曜日は選手育成コースがあり、レベルが高く他よりも年齢層も高い。通常のコースとは違い、水泳検定だって受けられるようになるのだ。誰もが選手になりたいし受験を考えている子は内申書に書けるため、子供よりも親が必死になっていることもある。だから今日みたいに、レッスン後に親から呼ばれることもざらだ。「先生、最近うちの子どうでしょう?」「頑張っていますよ。持久力が上がるともっとスピードも伸びると思います」「個人レッスンも考えているんですけどぉ」「ええ、夏休みや冬休みはそういったレッスンも募集がかかりますので、ぜひ活用してみてください」「それは先生が教えてくださるんですか?」「希望制ですが、人数が多いとお断りすることもあります」「そうなんですね。うちは滝本先生じゃないとダメなのでぜひお願いします」「それは光栄です」当たり障りのない受け答えをしつつ、なおも食い下がろうとする親を軽くいなす。自分が求められてありがたい反面、親の期待が大きく、それは杏介にとってプレッシャーだ。「はぁー」レッスン後の事務所で思わずため息が漏れた。「杏介、ずいぶん粘着されてたな」ちょうど通りかかり聞き耳を立てていた同期の小野航太が、コーヒーを手にニヤニヤといやらしい笑みを浮かべる。「個人レッスン希望らしいけどやる気があるのは親御さんだけなんだよ。本人のやる気はいまいちだったな」「だってお前それ、レッスンにかこつけて杏介狙いだろ?」「うーん、やっぱり?」なんとなく、思う節はある。やたらと腕を触ってきたり、話すその距離感が近いような気がしていたのだ。あまり考えないようにはしていたのだが。
紗良が望めば結婚式だって何だって杏介はするつもりでいた。だが紗良はあっさりと、しなくていいと言った。三月には新居も完成予定で引っ越し作業が待っている。そして四月になれば海斗は小学一年生になる。何かと慌ただしい日々。これ以上予定を詰め込むのは難しい。なにより、杏介と結婚できたという事実が一番嬉しいため今は結婚式にまで頭が回らない。「紗良、好きだよ」「……杏介さん」「前は断られたからリベンジ」杏介は照れくさそうに笑う。ポケットにこっそりと忍ばせていたマリッジリングを取り出し、紗良の左薬指にはめる。マリッジリング自体は二人でデザインを決めて購入した。けれどそれを杏介が持ってきていただなんて――。紗良は喜びで胸がいっぱいになる。薬指にはまった指輪はダイヤモンドが複数並んでおり、揺れるような光沢はまるで水面のようにキラキラと輝いた。「杏介さん、私のこと好きになってくれてありがとう。ずっと待っててくれてありがとう」「こちらこそ。俺のこと信じてくれてありがとう。見捨てないでいてくれてありがとう。これからもずっと紗良のことを愛し続けるよ」「……ずっとだよ?」「うん、ずっと。約束する」「私も、杏介さんのこと愛し続けるって約束する」「……まるで結婚式みたいだな」「確かに。セルフ結婚式だね」ふふっと微笑む二人は自然と唇を寄せる。甘く優しい口づけは冬の寒さなど微塵も感じない。あの時とは違う胸の高鳴りが聞こえてくる。たくさんのことを乗り越えて季節をまたぎ、次の春がまたやって来る。愛した君とここから始まるのだ。二人の進む未来は明るく輝いていた。【END】
◇年も明け、紗良と杏介は婚姻届を提出するため役所を訪れていた。ドキドキとしながら書いた婚姻届は、あまりの緊張に二枚ほど書き損じてしまった。 年末には再び杏介の実家を訪れ、証人欄に名前を記入してもらった。 杏介の本籍は実家にあるため、そちらで戸籍謄本も取った。着々と準備が進むごとに結婚するんだという実感がじわじわとわいてくる。 そして今日という日を迎えた。「おめでとうございます」窓口に提出すると職員がにこやかに対応してくれる。 不備がないかなど確認し、滞りなく受理された。 案外あっけなく終わり紗良と杏介は時間を持て余したため、以前訪れたことのある公園まで足をのばした。まだ北風冷たく春になるにはもうしばらく先。 杏介は紗良の手を握り、自分のコートのポケットへ入れた。 吐く息は白いけれど、くっついていれば寒さなど感じないくらい手のひらからお互いのあたたかさを感じる。小高い丘の上にある展望台までのぼるとちょうど飛行機が通り抜けていった。 以前来たときはまわりの木々には緑の葉が生い茂っていて葉々を揺らしたが、今は冬のため枝がむき出しの状態だ。ところどころライトが付けてあることから、夜にはちょっとしたイルミネーションが見られるのだろう。「そういえば、本当に結婚式はしなくていいの?」「うん、だって家も建てるし海斗の卒園式もあるし、やってる暇なんてないよ。お金もないし」「紗良がいいならそれでいいけど……」杏介は顎に手を当ててうむむと考え込む。 あまりにも悩んだ表情をするため、紗良は自分の考えばかり押しつけていたのかもと思い焦る。「もしかして杏介さん、結婚式したかった?」「ああ、いや、そうじゃなくて、紗良のウェディングドレス姿を見てみたいと思っただけで。だって絶対可愛いし」「ええっ? そんなこと言ったら、杏介さんのタキシード姿だって絶対かっこいいよ」お互いにその姿を想像してふふっと笑う。
紗良は小さく首を横に振る。「ううん。私の方こそ……。私、あのとき依美ちゃんにそう言ってもらわなかったら自分の本当の気持ちを押し殺したままだった」あの時は目先なことしか考えていなかった。 海斗を立派に育てなければという使命感のみが紗良を支配していた。 依美の言葉は紗良を深く傷つかせたけれど、同時に自分のことを考え直すきっかけにもなった。「あのね、実は私、結婚するの」「いい人と出会ったんだ?」「うん、プール教室の先生」「えっ? もしかしてあの映画とか一緒に行ってたプールの先生ってこと?」「うん。だからね、依美ちゃんは私にきっかけをくれたんだ。自分の幸せを考えるきっかけ。本当に、ありがとね」「紗良ちゃぁ~ん」ズビズビと泣き出す依美に紗良も思わずほろりとする。 依美にハンカチを差し出せば「うええ」と更に泣き出した。「依美ちゃんって泣き虫だったんだ?」「違うの。なんかね、子ども産むと涙もろくなっちゃって」「そうなんだ?」コクコクと依美は頷く。 その経験は紗良にはないもので、何だか不思議に思う。 けれどきっと依美もそんな感じだったのだろう。「でも、本当におめでとう。自分のことのように嬉しい」「うん、ありがとう。依美ちゃんも、結婚と出産おめでとう」「ありがとう~」紗良と依美はふふっと微笑む。人はみな、違うのだ。 だからこうやって、意見が違えたりある日突然わかり合えたりするのだろう。
海斗が一年生に上がる前までに、入籍と引っ越しを完了する予定でいる。 それまではバタバタな日々が続くが、師走ともなると仕事の方も慌ただしくなった。相変わらずギリギリで出社した紗良は、フロア内がざわめいていることに気がついた。 小さな人だかりができていて女性たちの黄色い声が耳に届く。「紗良ちゃん」輪の中心にいた人物が紗良に声をかける。「わあ! 依美ちゃん!」紗良は驚いて目を丸くした。 依美は長かった髪をバッサリ切って、腕には小さな赤ちゃんを抱えている。 切迫早産の危険があり入院していたが、無事、十月に出産したのだ。 赤ちゃんは三ヶ月になろうとしているがまだ小さくふにゃふにゃだ。「うわあ、可愛い」「よかったら抱っこしてみる?」紗良が手を差し出すと依美は赤ちゃんをそっと乗せる。 思ったよりも軽く、そうっと触らないと壊れてしまいそうなほどに繊細だ。 海斗とは比べものにならないくらい柔らかい。 そう思うと、海斗は大きくなったんだなと改めて感じた。「ああ、あとさ……」「うん?」口を開いた依美は躊躇いながら一旦口を閉じる。 紗良は首を傾げながら抱いていた赤ちゃんを依美に返すと、依美は赤ちゃんを大事そうに抱きしめた。 そして今にも泣き出しそうな顔で紗良を見る。 言いづらそうにしていたが、やがて重い口を開いた。「私、紗良ちゃんに謝りたくて……」「えっ? 何かあったっけ?」「うん……。前に……結構前のことなんだけど、紗良ちゃんに対して、自己犠牲に酔ってるなんて言ってごめん。子供ができてわかった。何より大事だよね。私、あのとき無神経だった」本当にごめん、と依美は瞳を潤ませた。 紗良はつい最近も身近でこんなことがあったようなと記憶を辿る。――紗良に出会って海斗と接したり紗良のお母さんと話をして、ようやく気づけたというか……(あ、これって杏介さんと一緒だ……)経験を経て、その立場になってみてようやくわかること。 紗良が海斗のことを一番に考えていた気持ち。 それを依美は自身が妊娠することによって得たのだった。「急に入院してそのまま退職しちゃったからさ、皆には迷惑かけたなと思って、挨拶がてらお菓子配りに来たの」「そうだったんだ」「特に紗良ちゃんには迷惑かけちゃってごめんね。私の仕事やってくれてたんでしょ? あと、メッセージも返
◇無事に親への挨拶も済み、二人は結婚に向けて歩き出した。 海斗のこと、紗良の母親のこと、お互いの仕事のこと、考える事は山ほどある。 けれどひとつも大変だとは思わなかった。 この先に待っている新しい生活に思いを馳せながら、日々できることをこなしている。季節は秋から冬に移り変わるところ。 延びていた母の入院生活もようやく終わり、紗良たちはアパートに引っ越していた。 それは母の老後悠々自適生活のためのアパートではなく、紗良たちの一時的な住居だ。紗良と杏介は悩みに悩んだ末、紗良の実家を建て替えて二世帯住宅として住むことを母に提案したのだ。 母は渋ったものの、左手足の回復が思ったより上手くいかず、近くに住んだ方が安心だと説得されて了承した。 海斗は家が新しくなることと、家が出来たら杏介と一緒に住めることを喜んで心待ちにしている。いつものように海斗をプールに送り出して、ママ友の弓香と一緒に観覧席に座る。 と、弓香が声を潜めて紗良に迫る。「ちょっと紗良ちゃん、滝本先生と結婚するってほんと?」「えっ! 弓香さん、なぜそれを……」ドキリとした紗良は思わず目が泳ぐ。「海ちゃんが保育園で言いふらしてたみたいよ。うちの子が聞いたって。もー、いつの間にそんなことになってたの?」「いや、いろいろあって。っていうか、ちゃんと弓香さんには伝えるつもりでいたんだけど、まさか海斗から伝わるとは……」「やだもう、馴れ初めとか聞きたい聞きたい!」「お、落ち着いて弓香さんっ! さすがにここでは話せないし……。今度お茶したときにでも! ねっ?」「絶対よ。約束だからね!」こんなプール教室に通う子どもの親たちがひしめく観覧席で、まさかガラス越しのプールにいる杏介と結婚する、という話題は避けたい。 紗良は冷や汗をかきながら弓香を落ち着ける。「まさか紗良ちゃんの推しが滝本先生だったとは。一番人気じゃん」「そんな競馬みたいなこと言わないでよ~」「あーあ、私も推しの小野先生と仲良くなりたいわ」「またそんなこと言って、旦那さん泣くってば」「いいじゃない、別に。なにも不倫したいとか思ってるんじゃなくてさ、芸能人とお近づきになりたいみたいなミーハーな気持ちよ。それくらい楽しみがないといろいろやってられないってば。紗良ちゃんは真面目すぎるのよ」「……真面目なんですよ、私は
「本当に、いい人と巡り会えたのね。ね、お父さん。って、あら? やだ、何でお父さんが泣いてるの? ここで泣くのは私と杏介くんだと思うんだけど?」「いや、俺も父親として夫としていろいろ申し訳なかったな、と思ったら……つい……ぐすっ」父は目頭を押さえて上を向く。 寡黙な父で言葉数は少ないが、父には父なりの想いがあった。 それは言葉にならず涙として込み上げる。「……みんな、なんでないてるの? かなしいことあった?」大人たちの会話の意味はわかるが背景を知らない海斗は理解できずきょとんとする。 ずっと神妙な面持ちでいるかと思えば急に泣き出したのだから海斗としてはわけがわからない。「違うよ、海斗。嬉しくても涙は出るのよ」「海斗くん、これからよろしくね。お昼はピザでも取りましょうか? 海斗くんピザ好き?」「すきー! やったー!」「海斗、お利口さんにする約束!」「はっ! し、してるよぅ」紗良に咎められ慌てて姿勢良くする海斗。 微笑ましさに母は思わず口もとがほころぶ。「ふふっ、私ちょっとやそっとじゃ驚かないわよ。杏介くんで鍛えられてるから」と茶目っ気たっぷりに言われてしまい杏介は頭を抱えたくなった。 とはいえすべて自分が元凶なので謝ることしかできないのだが。「……いや、本当に申し訳な……」「杏介」涙のおさまった父が低く落ちついた声で名を呼び、はい、とそちらを向く。「いろいろ経験したお前だ。これからは紗良さんと海斗くんと幸せになりなさい」「父さん……」紗良は改めて杏介の手を握る。 杏介も応えるように握り返す。 今日、ここに来て本当によかった。 心からそう思った。顔を見合わせればお互い真っ赤な目をしていて、可笑しくなってふふっと微笑む。杏介と母とのぎこちなさがなくなったわけではない。 それでも暗く閉ざされていた部分に光が差し込み、今まで見えなかった出口が見えてきた気がした。
「杏介、母さんはずっとお前のことで悩んでて――」父が厳しく咎めようとしたが、母はそれを遮った。 そして小さく頷く。「……いいのよ。思春期だったもの。私も上手くできなくて相当悩んで荒れたし、お父さんにも相談してたの。だけどもう、杏介くんが元気ならそれでいいかなって思って。……家を出て、そこで紗良さんと知り合って結婚するんだもの。今までのことは紗良さんに出会うための布石だと思えば安いものよ」ね、と母は同意を促す。 どう考えても安くはないと思った。 結婚して幸せな家庭を築きたいと願っている杏介にとって、母が結婚してから今まで味合わせてしまった負の感情は取り返しもつかない。 ましてや自分が産んだ子のことでもないのに。「本当に申し訳なかったと……思う。紗良に出会って海斗と接したり紗良のお母さんと話をして、ようやく気づけたというか、その、なんていうか、今まで……すみませんでした。許してはもらえないかもしれないけど……」「杏介くん……」大人になって、その立場になってようやくわかる気持ち。 子どもの頃はなんて浅はかで未熟だったのだろう。 もう戻れやしないけれど、誠意だけはみせたいと思った。「ううっ……」突然隣から鼻をぐしゅぐしゅ啜る音が聞こえてそちらを見やる。「さ、紗良?」「あらあら、紗良さんったら」紗良は目を真っ赤にして涙を堪えていた。 慌てて杏介がハンカチを差し出す。「す、すみません。わたし、杏介さんが悩んでいたのを知ってたし杏介さんが私の母を大切にしてくれてるから、お母様とも仲良くできたらと思ってて……ぐすっ。だからよかったなって思って……ううっ……」「俺は紗良がいてくれなかったらこうやって会いに来ようとも思わなかった。ずっと謝ることができないでいたと思う」紗良とその家族に出会って、杏介は過去を振り返り変わることができた。 杏介は紗良の背中をそっとさする。 この杏介よりも小さい体で杏介よりも年下の紗良に、どれだけ助けられてきただろう。 自分の黒歴史でしかない親との確執に付き合ってくれ泣いてくれる。 その事実がなによりも杏介の心を震わせた。
「紗良さん、頭を上げてちょうだいね。私たち、結婚を反対しようなんて思ってないのよ。杏介くんから聞いてると思うけど、私は杏介くんの本当の母ではないから、複雑な家庭環境に身を置くことに対してその覚悟はあるのかしら、と気になっただけなのよ。気を悪くさせたらごめんなさいね」父が言葉足らずな分、それをフォローするかのように母は申し訳なさそうに告げた。「あ、いえ……」気を悪くなどと、と恐縮していると、杏介は紗良の手を握る。 突然のことに杏介を見やるが、握った手はそのままに杏介は真剣な顔をして母を見た。その手には力がこもっている。「……本当の、母だよ」「え?」「俺はちゃんと……あなたのことを……お母さんだと……思ってる」「……杏介くん?」杏介は一度紗良を見る。 握った手から力をもらうかのように紗良のあたたかさを感じてから、杏介は深く息を吸い込んだ。「……関係をこじらせたのは俺のせいだ。母さんはいつも俺に優しかった。冷たくしたって無視したって、ご飯は作ってくれたし、学校行事にも来てくれた。俺はずっと素直になれなくて逃げるように家を飛び出してしまったけど、本当は後悔してた。水泳の大会にも毎回来てくれてたのを知ってる」重かった口は一度言葉を吐き出したらすらすらと出てきた。 準備はしていなかった。 ずっと杏介の頭の中で燻り続けていた想いが溢れてくるようだった。杏介の母はしばらく黙っていた。 それは怒りでも喜びでもなく、まさか杏介がこんなことをいうなんてという驚きで言葉を失ったのだ。
杏介の実家の前には車が一台止まっていたが、端に寄せられてもう一台止められるスペースが開けてあった。杏介はそこに丁寧に車を付ける。インターホンを鳴らすとすぐに玄関がガチャリと開く。 出てきたのは杏介の母で、杏介と目が合うと、お互いぎこちなく無言のまま。 ここは紗良がまず挨拶をすべきと口を開いたときだった。「こんにちは!」海斗がずずいと前に出て元気よく挨拶をした。 慌てて紗良も「こんにちは」と続く。 杏介の母は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに小さく微笑む。「こんにちは。遠いところよくいらっしゃいました。どうぞ上がってくださいな」ペコリと頭を下げて、紗良と海斗は中へ入った。 杏介もそれに続きながら、「ただいま」と小さく呟いた。杏介の緊張感がひしひしと伝わってくる。 紗良はそっと杏介を見る。 いつになく緊張した面持ちの杏介は紗良の視線に気づくとようやくふと力を抜いた。「大丈夫。ちゃんとするから」紗良に聞こえるだけの声量で囁く。 それは嬉しいことだけれど、気負いすぎもよくないと思う。でもそれを今、杏介に上手く伝えることができず紗良はもどかしい気持ちになった。和室の居間に通され、杏介の父と母の対面に座った。紗良の横には海斗がちょこんと座る。「紹介します。お付き合いしている石原紗良さんと息子の海斗くん。俺たち結婚しようと思って今日は挨拶に来ました」「はじめまして。石原紗良と申します。ほら海斗、ご挨拶」「いしはらかいとです。六さいです」ピンと張りつめていた空気が海斗によって少しだけ緩む。 海斗は自分が上手く挨拶できたことにドヤ顔で紗良を見る。目が合えば「ちゃんとごあいさつできたー」と、これまた気の緩むようなことを口走るので紗良は慌てて海斗の口を手で押さえた。「……杏介、いいのか? 最初から子どもがいることに、お前は上手くやれるのか?」杏介の父が表情変えず、淡々と厳しい言葉を投げかける。緩んだ緊張がまた元に戻った。 それは杏介と杏介の新しい母が上手く関係をつくれなかったことを意味していて、杏介だけでなく母も、そして紗良も唇を噛みしめる思いになった。「いや申し訳ない。紗良さん、あなたを責めているわけではないから勘違いしないでほしい。これは我が家の問題でね……」「俺は上手くやれる。ちゃんと海斗を育てるよ。それも含めて結婚したいと思