「実はそうなんです。 海斗の母の妹です。海斗の両親は事故で亡くなってしまって、 代わりに私が育てています」「そうだったんですか。 大変なご苦労をされているんですね」 ストンと憑きものが落ちるように、杏介は納得した。杏介が抱いていた疑問が一瞬のうちに晴れていくようだ。だから『紗良姉ちゃん』だったのだ。だから父親がいなかったのだ。紗良と海斗の境遇を思うと胸が潰れそうになる。今までどんな苦労をしてきたのだろう。どんな生活をしてきたのだろう。考えても想像に及ばない。「あ、でも家には母もいて、母と一緒に面倒見てる感じなんですけど。あの、だから、前に杏介さんに、私が愛情をもって育てているから海斗が楽しそうに笑ってるって言われて、本当に嬉しかったんです。なんだか私の努力が認められた気がして。まあ、子育てを努力っていうのも何か違う気がしますけど。……えっと、何て言うんでしょうね。上手く言い表せません」「いえ、立派です。子育てをしたことがない僕なんかが偉そうなことを言えた立場じゃないんですが、紗良さんは凄いと思います」「……ありがとうございます」誰かにこんな風に自分の気持ちを吐露したのは初めてかもしれない。もちろん会社や保育園に家庭の事情を話してはある。けれどそんな事務的なことではなくて、もっと紗良の心の奥底にあった感情を少しだけ見せてしまったような、そんな気分だった。「あの、もしよければ、またどこかに行きませんか?」「えっ?」「あー、えーっと、何て言うか、僕も楽しかったですし、海斗も喜んでくれて嬉しいって言うか……」「いいんですか? ご迷惑では?」「どうせ仕事以外は暇してるので」「嬉しいです。ありがとうございます。海斗も喜びます」「じゃあこれからもよろしくお願いします、紗良さん」「はい、こちらこそよろしくお願いします、杏介さん」二人は顔を見合わせるとはにかむように笑った。何だか心が晴れ晴れとするような、そんな爽やかさに胸が弾んだ。
自宅前まで車を着けてもらい、まったく起きる気配のない海斗に声を掛ける。「海斗、着いたよー。起きてー」案の定反応なくぐーすか眠りこける海斗に苦笑いしながら、紗良は海斗のシートベルトを外して抱っこしようと背中に手をかけた。「紗良さん、僕が運びますよ」そっと杏介に肩を引かれ、紗良は一歩下がる。軽々と海斗を持ち上げた杏介は相変わらず逞しく、それでいて頼りになる。「すみません、ありがとうございます」海斗を杏介に任せ紗良は荷物を手早く掴むと、自宅へと案内した。玄関を上がるとすぐにリビングがある。紗良は座布団を二枚並べると、そこに海斗を寝かせてもらうように指示を出した。「紗良、帰ってきたの? ……って、あら? こんにちは」別の部屋にいた紗良の母親が顔を出すと、見慣れない顔――、杏介を見て目を見張る。「こんにちは。お邪魔します」「あらあら、紗良ったらなあに? 彼氏と一緒だったの?」「やだ、お母さん、そんなんじゃないからっ。す、すみません、杏介さん」急にそんなことを言うものだから、今まで意識していなかったのに心臓がドキンと大きな音を立て、紗良は顔を赤くしながら焦り出す。そんな紗良の様子につられて杏介の心臓もきゅっと鳴ったような気がしたが、「大丈夫ですよ」と曖昧な笑顔でごまかした。「紗良と海斗がご迷惑をお掛けしたみたいですみません。疲れたでしょう? お茶でも飲んでってくださいな」「ちょ、ちょっと、お母さんったら」紗良の母はニコニコとしながら強引に杏介を座布団に座らせ、いそいそとお茶を入れ始める。「今日も暑かったわねぇ」などと世間話が始まり、完全に母のペースに巻き込まれてしまった。
「――まあ、ご親切にチケットをいただいて、車まで出してもらったの? まあ~」「とても楽しかったですよ。海斗くんは水が大好きで紗良さんに泳ぎを教えていました」「そうなのよー、この子ったら海ちゃんと違って昔から水が苦手でね。二十五年生きてきて学校以外のプールなんて初めて行ったんじゃないかしら? 水着だって持ってないから慌てて買いに行って――」「お母さん! もう、恥ずかしいからやめて!」「だからあんなに必死に浮き輪を持っていたんだね?」「きょ、杏介さんまでからかわないでください!」紗良は頬を染めながらぷんすか怒るが、そんな姿が杏介には大変いじらしく映り思わず目を細める。わいわいと騒ぎすぎたからだろうか、ふいにむくりと起き上がった海斗は目をこすりながら「あれー? せんせー? なんでいるの?」と呟く。時計を見れば思ったよりも長く石原家に滞在していた。「おはよう、海斗。じゃあ僕はそろそろおいとましようかな」「やだ! まだあそぶ!」「こら、海斗わがまま言わないの。先生だって忙しいのよ」「やだやだー」海斗は杏介の膝の上に座り、頑として動かなくなった。「海斗!」「あらあら、よっぽど楽しかったのねぇ」「海斗、今度はどこ行きたい? また先生が連れてってあげるよ」「ほんと?」「ああ本当。約束だ」杏介は小指を差し出す。海斗は小さな指を杏介の指に絡めてブンブンと勢いよく振った。「ゆーびきりえんまんーうーそついたーらはりせんぼんーとーますー」真剣な顔で言い間違えながら歌う海斗にほっこりと癒やされながら、大人たちは顔を見合わせてふふっと微笑んだ。
杏介が帰った後、紗良と母親は夕飯の準備を始めた。紗良が、彼氏ではないにせよ男性と出かけ、なおかつ家にまで上げたことに母は楽しくて仕方がない。 先ほどから杏介の話題ばかりで紗良はヒヤヒヤと受け答えをする。別にやましいことは何もないというのに、なぜこんなにもどぎまぎするのか。「優しい人だねぇ」「……うん、すごく優しい」「海ちゃんも懐いてるみたいだし、いいじゃない」「……何がいいのよ」「結婚相手に」「だから、そんなんじゃないってば。何期待してるの、お母さんったら。彼氏じゃないから」「あらそう? 残念だわ」そう言いつつも母は楽しそうに笑う。 本気なのか冗談なのか、その真意は図りかねるものの、胸のざわつきは抑えられそうにない。今日一日の楽しかったことが次から次へ思い出され、脳裏に浮かぶのは杏介の柔らかな笑顔。 そして、男らしく逞しい体。 頼りになる行動。殊更ここ二年間、プライベートで誰かに頼ったり甘えたりすることはなかったように思う。 もちろん母親に頼ることはあったけれど、そうではなくて、他人に何かを委ねるという感覚が新鮮で嬉しいと感じてしまう。それが良いことなのか悪いことなのか、判断はつかないけれど。(……それに、例え彼氏だったとしても、子持ちと結婚なんて考えられないでしょ)ため息深く、紗良はひとりごちるのだった。
杏介は帰りの車の中、今日の出来事を思い出していた。ひとえに『今日は楽しかった』それに尽きる。(紗良さんのいろいろな表情が見れたのは新鮮だったな)思い出しては勝手に頬が緩む。紗良は一児の母にして母ではなかった。ずっとモヤモヤしていた彼女たちの関係性が紐解かれ、さらにその事情を知ることでますます紗良への興味がわくようだ。(もっと紗良さんのことを知りたい)そんな気持ちになっていることに、胸のざわめきで実感する。海斗は両親がいなくて不憫だと思う反面、紗良とその母親に愛情たっぷりに育てられている。いつだって楽しそうに笑う、その顔に陰なんて見られない。それが何だか杏介には羨ましく感じる。(四歳児を羨ましいと思うなんて、どうかしているな……)予想外に石原家にお邪魔して、あたたかい家庭に触れたからそう思ってしまうのだろうか。それとも、子どもの頃の自分と無意識に比較してしまうのだろうか。モヤッとした感情が出てきそうになって、杏介は即座に頭を切り替える。自分のことなど、どうだっていいのだ。(それにしても、紗良さんは可愛かったな)流れるプールで体を強張らせているのも、手を離さないでと必死になっているところも。滑って転びそうになったときには咄嗟に手を出してしまったが、想像以上の華奢な体の感触はまだほんのりと思い出せるほど。あの細い体で仕事をしながら海斗を育て、土日もバイトをしている紗良。普段しっかりしているくせに、母親の前では子供みたいな態度であることに妙に安心した。そして母との会話から、紗良が二十五歳だと知ることができた。杏介より三歳年下だ。(そういえば今日も夜はバイトなのかな?)海斗がいるからと早めに帰って来た訳なのだが、プールで遊んだ後はきっと疲れているに違いない。申し訳ない気持ちになりつつ、紗良への思いを馳せながら、杏介は帰宅するなりぐっすりと寝てしまった。心地良い疲労感だった。
杏介は、海斗が通っている土曜昼は初級コースの担当、平日は上級コースを担当している。昨今のプール教室は人気で、生徒数は年々増加傾向にある。特に火曜日は選手育成コースがあり、レベルが高く他よりも年齢層も高い。通常のコースとは違い、水泳検定だって受けられるようになるのだ。誰もが選手になりたいし受験を考えている子は内申書に書けるため、子供よりも親が必死になっていることもある。だから今日みたいに、レッスン後に親から呼ばれることもざらだ。「先生、最近うちの子どうでしょう?」「頑張っていますよ。持久力が上がるともっとスピードも伸びると思います」「個人レッスンも考えているんですけどぉ」「ええ、夏休みや冬休みはそういったレッスンも募集がかかりますので、ぜひ活用してみてください」「それは先生が教えてくださるんですか?」「希望制ですが、人数が多いとお断りすることもあります」「そうなんですね。うちは滝本先生じゃないとダメなのでぜひお願いします」「それは光栄です」当たり障りのない受け答えをしつつ、なおも食い下がろうとする親を軽くいなす。自分が求められてありがたい反面、親の期待が大きく、それは杏介にとってプレッシャーだ。「はぁー」レッスン後の事務所で思わずため息が漏れた。「杏介、ずいぶん粘着されてたな」ちょうど通りかかり聞き耳を立てていた同期の小野航太が、コーヒーを手にニヤニヤといやらしい笑みを浮かべる。「個人レッスン希望らしいけどやる気があるのは親御さんだけなんだよ。本人のやる気はいまいちだったな」「だってお前それ、レッスンにかこつけて杏介狙いだろ?」「うーん、やっぱり?」なんとなく、思う節はある。やたらと腕を触ってきたり、話すその距離感が近いような気がしていたのだ。あまり考えないようにはしていたのだが。
「気をつけないと食われるぞ」「食われるってなんだよ」「だってお前、人気者だもんなぁ。いやー、売れっ子は違うねぇ」「茶化すなよ」「いや、実は俺もあったんだよ。旦那とは冷めてるからって体求めてくるの」「はぁ?」「嘘みたいだろ? なんか、筋肉質が魅力的なんだと」げんなりとした顔で大げさにため息をつく航太。まさかそんなことがあるのかと杏介は疑うが、そんな二人の会話に「男性もなかなか大変ねー」とまったりお茶を飲みながら年配の深見が会話に参加する。そして更に杏介の後輩である森下リカまでも興味深げに身を乗り出した。「深見さんもそういう経験ありですか?」「あるわよ。子供プール教室よりジムのお客さん。わざと胸にぶつかってきたりとか」「いやー最低!」「さすがにチーフ呼んで注意してもらったけど。まあ、昔の話だけどね」「私も聞いてくださいよぉ。この仕事してるとなかなか出会いがないじゃないですか。ジムのお客さんと仲良くなって付き合ったんですけど、バツイチ子持ちだったんです。しかも隠してて、バレたら今度は私に母になってほしいとか言ってきて~無理って断りました。だって子供にも会ったことないんですよ! ありえなくないですか?」「ただの母親役がほしかったのかもね。災難だったわね」「子持ちって隠せるんだなー」「……案外わからないものなのかも」そう、杏介が紗良のことを子持ちだと知らなかったことのように。そんな大っぴらに『バツイチ』だの『子持ち』だのと言う人は少ないだろう。しかし、一人で子供を育てるとやはり相手が欲しくなるものなのだろうか。リカの元彼のように、『子供の親』を求めてしまうものなのだろうか。ふと思い出されることがある。杏介の父もそのタイプだった。
杏介が小学生のとき、母は病気で亡くなった。父親と二人になった杏介は、父が大手企業の課長だったこともあり経済的には何不自由しなかったが、元々寡黙である父との生活はひどく素っ気なかった。だからといって、その生活が嫌だったかというと、そうでもない。杏介なりに、父と二人上手く生活ができていると思っていた。だが突然、その生活が一変した。父が恋人を作り、『新しい母』だと杏介に押し付けてきたのだ。杏介の同意もなく勝手に共同生活がスタートし、ちょうど思春期に入ろうとしていた杏介にとって、それは邪魔な存在でしかなかった。その『新しい母』も、初めは杏介に気に入られようと媚を売るような態度だったのだが、杏介のツンとした態度に嫌気がさしたのか、次第に疎ましくされるようになった。後から入ってきたのは『新しい母』のはずなのに、いつの間にか自分がいらない子のような存在になっていることに気づいて、どんどんと居心地が悪くなっていく。だから杏介は高校卒業後に迷わず県外の大学へ進学した。とにかく家から出たかった。そして実家に戻ることなくこの地で就職し、今でも滅多に家に帰らない。杏介にとって『新しい母』は要らなかった。ただそれだけのこと。紗良はどうだろうか。海斗に『新しい父』をと思っているだろうか。今のところそんな感じは見受けられないし、父の日の絵をプレゼントされたけれど『父親役をしてほしい』なんていう素振りは見えない。「あー出会いがほしい」リカが嘆くように呟く。待ってましたとばかりに航太はリカの前に座り、ニカッと爽やかな笑顔を向ける。「ここにいるじゃん」「どこに?」「俺だよ、俺」「小野先輩は好みじゃないです」「うわっ、リカちゃんひどっ!」「滝本先輩の方がイケメンで優しくて好きです」「あらやだ、リカちゃん面食いねぇ」「深見さん、俺に追い打ちかけないでください。杏介もなんか言ってやれ」「え?」急に話を振られ、心ここにあらずだった杏介はキョトンとしたあと、適当に返事をした。「あー、うん、ごめん」「ガーン! ひどいです!」リカが机につっぷして大げさに泣き真似をする。航太は呆れた顔で杏介の肩を叩いた。「お前、意外と冷たいのな」「いや、なんでそうなる……」「はいはい、お遊びはその辺にして。お客さんとトラブルは起こさないように気をつけてちょうだ
カシャカシャカシャッその音に、紗良と杏介は振り向く。そこにはニヤニヤとした海斗と、これまたニヤニヤとしたカメラマンがしっかりカメラを構えていた。「やっぱりチューした。いつもラブラブなんだよ」「いいですねぇ。あっ、撮影は終了してますけど、これはオマケです。ふふっ」とたんに紗良は顔を赤くし、杏介はポーカーフェイスながら心の中でガッツポーズをする。ここはまだスタジオでまわりに人もいるってわかっていたのに、なぜ安易にキスをしてしまったのだろう。シンデレラみたいに魔法をかけられて、浮かれているのかもしれない。「そうそう、海斗くんからお二人にプレゼントがあるんですよ」「えっへっへー」なぜか得意気な顔をした海斗は、カメラマンから白い画用紙を受け取る。紗良と杏介の目の前まで来ると、バッと高く掲げた。「おとーさん、おかーさん、結婚おめでとー!」そこには紗良の顔と杏介の顔、そして『おとうさん』『おかあさん』と大きく描かれている。紗良は目を丸くし、驚きのあまり口元を押さえる。海斗とフォトウエディングを計画した杏介すら、このことはまったく知らず言葉を失った。しかも、『おとうさん』『おかあさん』と呼ばれた。それはじわりじわりと実感として体に浸透していく。「ふええ……海斗ぉ」「ありがとな、海斗」うち寄せる感動のあまり言葉が出てこなかったが、三人はぎゅううっと抱き合った。紗良の目からはポロリポロリと涙がこぼれる。杏介も瞳を潤ませ、海斗の頭を優しく撫でた。ようやく本当の家族になれた気がした。いや、今までだって本当の家族だと思っていた。けれどもっともっと奥の方、根幹とでも言うべきだろうか、心の奥底でほんのりと燻っていたものが紐解かれ、絆が深まったようでもあった。海斗に認められた。そんな気がしたのだ。カシャカシャカシャッシャッター音が軽快に響く。「いつまでも撮っていたい家族ですねぇ」「ええ、ええ、本当にね。この仕事しててよかったって思いました」カメラマンは和やかに、その様子をカメラに収める。他のスタッフも、感慨深げに三人の様子を見守った。空はまだ高い。残暑厳しいというのに、まるで春のような暖かさを感じるとてもとても穏やかな午後だった。【END】
その後はスタジオ内、屋外スタジオにも出てカメラマンの指示のもと何枚も写真を撮った。残暑の日差しがジリジリとしているけれど、空は青く時折吹く風が心地いい。汗を掻かないようにと木陰に入りながら、紗良はこの時間を夢のようだと思った。「杏介さん、連れてきてくれてありがとう」「思った通りよく似合うよ」「なんだか夢みたいで。ドレスを選んでくださいって言われて本当にびっくりしたんだよ」「フォトウエディングしようって言ったら反対すると思ってさ。海斗巻き込んだ壮大な計画」「ふふっ、まんまと騙されちゃった」紗良は肩をすくめる。騙されるのは好きじゃないけれど、こんな気持ちにさせてくれるならたまには騙されるのもいいかもしれない。「杏介さん、私、私ね……」体の底からわき上がる溢れそうな気持ち。そうだ、これは――。「杏介さんと結婚できてすっごく幸せ」「紗良……」杏介は目を細める。紗良の腰に手をやって、ぐっと持ち上げた。「わあっ」ふわっと体が浮き上がり杏介より目線が高くなる。すると満面の笑みの杏介の顔が目に飛び込んできた。「紗良、俺もだよ。俺も紗良と結婚できて最高に幸せだ」幸せで愛おしくて大切な君。お互いの心がとけて混ざり合うかのように、自然と唇を寄せた。
カシャッ「じー」小気味良いカメラのシャッター音と、海斗のおちゃらけた声が同時に聞こえて、紗良と杏介はハッと我に返る。「あー、いいですねぇ、その寄り添い方! あっ、旦那様、今度は奥様の腰に手を添えてくださーい」「あっ、はいっ」カシャッ「次は手を絡ませて~、あっ、海斗くんはちょっと待ってね。次一緒に撮ろうね~」カシャッカメラマンの指示されるがまま、いろいろな角度や態勢でどんどんと写真が撮られていく。もはや自分がどんな顔をしているのかわからなくなってくる。「ねえねえ、チューしないの?」突然海斗がとんでもないことを口走るので、紗良は焦る。いくら撮影だからといっても、そういうことは恥ずかしい。「海斗、バカなこと言ってないで――」と反論するも、カメラマンは大げさにポンと手を叩いた。「海斗くんそれいいアイデアです!」「でしょー」カメラマンと海斗が盛り上がる中、紗良はますます焦る。海斗の失言を恨めしく思った瞬間。「海斗くん真ん中でパパママにチューしてもらいましょう」その言葉にほっと胸をなで下ろした。なんだ、それなら……と思いつつ、不埒な考えをしてしまった自分が恥ずかしくてたまらない。「うーん、残念」杏介が呟いた声は聞かなかったことにした。
ウエディングドレス用の、少しヒールのある真っ白なパンプスに足を入れた。かかとが上がることで自然と背筋もシャキッとなるようだ。目線が少しだけいつもより高くなる。「さあ、旦那様とお子様がスタジオでお待ちですよ」裾を持ち上げ、踏んでしまわないようにとゆっくりと進む。ふわりふわりと波打つように、ドレスが繊細に揺れた。スタジオにはすでに杏介と海斗が待っていた。杏介は真っ白なタキシード。海斗は紺色のフォーマルスーツに蝶ネクタイ。紗良を見つけると「うわぁ」と声を上げる。「俺ね、もう写真撮ったんだー」紗良が着替えて準備をしている間、着替えの早い男性陣は海斗の入学記念写真を撮っていた。室内のスタジオだけでは飽き足らず、やはり屋外の噴水の前でも写真を撮ってもらいご満悦だ。海斗のテンションもいい感じに高くなって、おしゃべりが止まらない。「紗良」呼ばれて顔を上げる。真っ白なタキシードを着た杏介。そのバランスのいいシルエットに、思わず見とれてしまう。目が離せない。「とても綺麗だよ。このまま持って帰って食べてしまいたいくらい」「杏介さん……私……胸がいっぱいで……」紗良は言葉にならず胸が詰まる。瞳がキラリと弧を描くように潤んだ。
そんなわけであれよあれよという間に着替えさせられ、今はメイクとヘアスタイルが二人のスタッフ同時に行われているところだ。あまりの手際の良さに、紗良はなすすべがない。大人しく人形のように座っているだけだ。(私がウエディングドレスを着るの……?)まるで夢でも見ているのではないかと思った。海斗を引き取って、一生結婚とは無縁だと思っていたのに、杏介と結婚した。そのことすらも奇跡だと思っていたのに。結婚式なんてお金がかかるし、それよりも海斗のことにお金を使ってあげたいと思っていたのに。そのことは杏介とも話し合って、お互い納得していたことなのに。今、紗良はウエディングドレスに身を包み、こうして花嫁姿の自分が出来上がっていくことに喜びを感じている。こんな日が来るなんて思いもよらなかった。この気持ちは――。嬉しい。声を大にして叫びたくなるほど嬉しい。ウエディングドレスを身にまとっているのが本当に自分なのか、わからなくなる。でも嬉しい。けれどそれだけじゃなくて、もっとこう、心の奥底からわき上がる気持ちは一体何だろうか。紗良の心を揺さぶるこの気持ち。(早く杏介さんと海斗に会いたい)心臓がドキドキと高鳴るのがわかった。
鏡に映る自分の姿がどんどんと綺麗になっていく様を、紗良はどこか他人事のようにぼんやりと見つめていた。一体どうしてこうなったのか。海斗の入学記念写真を撮ろうという話だったはずだ。それなのにウエディングドレスを選べという。掛けられていた純白のウエディングドレスは、そのどれもが繊細な刺繍とレースでデザインされている。素敵なものばかりで選べそうにない。「どうしたら……」ウエディングドレスを着ることなんて、これっぽっちも考えたことがなかった。だから果たしてこんなに素敵なドレスが自分に似合うのか、見当もつかない。ドレスを前にして固まってしまった紗良に「ちなみに――」とスタッフが声をかける。「旦那様の一押しはこちらでしたよ」胸元がV字になって、透け感レース素材と合わせて上品な雰囲気であるドレスが差し出される。肩から腕にかけては|五分《ごぶ》くらいのレースの袖が付いており、デコルテラインがとても映えそうだ。レース部分にはバラの花がちりばめられているデザインで、それがまるで星空のようにキラキラと輝く。純白で波打つようなフリルは上品さと可憐さが相まってとても魅力的だ。「でも自分の好みを押しつけてはいけないとおっしゃって、最終的には奥様に選んでほしいとこのようにご用意させていただいております」そんな風に言われると、もうそれしかないんじゃないかと思う。杏介の気持ちがあたたかく伝わってくるようで、紗良は自然と「これにします」と答えていた。
「ではお着替えしましょうか。海斗くんとお父様はこちらに。お母様はあちらにどうぞ」スタッフに従ってそれぞれ更衣室に入る。どうぞと案内された更衣室のカーテンを開けると、そこには大きな鏡とその横に真っ白なウエディングドレスが何着もズラリと掛けられていた。「えっ?」紗良は入るのを躊躇う。 今日は海斗の入学記念写真を撮りに来たはずだ。 せっかくなので着物を借りて写真を撮ろうと、そういう話だった気がする。いや、間違いなく杏介とそう話した。昨日だって、何色の着物がいいかと杏介とあれやこれや喋った記憶がある。それなのに、紗良の目の前にはウエディングドレスしか見当たらない。着物の一枚すら置いてないのだ。「あ、あの、お部屋間違ってませんか?」「間違っていませんよ。さあさ、奥様こちらへどうぞ。お好きなドレスを一着お選びください」「いえ、今日は子供の入学記念写真の予定なんですけど……」「何をおっしゃいますか。旦那様とお子様が楽しみに待たれていますよ」「えっ、えええ~?」スタッフはふふふとにこやかに笑い、困惑する紗良を強引に更衣室へ引きずり込むと、逃がさないとばかりにシャッとカーテンを閉めた。わけがわからない紗良は、スタッフに勧められるがまま、あれよあれよと流されていった。
杏介が予約したフォトスタジオを訪れた紗良は、思わず「うわぁ」と声を上げた。四季折々の風景をコンセプトにしている屋内スタジオに加え、外でも撮影できるよう立派な庭園が設えられている。海斗はランドセルを大事そうに抱えながらも、フォトスタジオに興味津々で今にも走りださんと目がキラキラしている。「いらっしゃいませ。ご予約の滝本様ですね」「はい、今日はよろしくお願いします」「ねえねえ、あの噴水さわってもいい?」「こら、海斗、ご挨拶!」「あっ。こんにちは。おねがいします」ピシャッと紗良が戒めると、海斗は慌てて挨拶をする。その様子を見てスタッフは海斗に優しい笑みを浮かべた。「噴水が気に入ったかな? あのお庭でも写真が撮れるから、カメラマンさんに伝えておきますね」「やったー!」海斗の入学記念に写真を撮りに来ただけなのに、そんなシチュエーションもあるのかと紗良は感心する。なにせフォトスタジオに来ること自体初めてなのだ。杏介に任せきりで予約の仕方すらわからない。まあ、杏介が「俺に任せて」と言うから、遠慮なくすべて手配してもらっただけなのだが。「海斗すごく喜んでるね」「浮かれすぎてて羽目外しそうでヒヤヒヤするよ」「確かに」紗良と杏介はくすりと笑った。
「どうしたの、海斗」「これを見て!」海斗はおもむろにランドセルを背負う。 まだまだピカピカのランドセルを、紗良に見せつけるように体を捻った。「ランドセル?」「そう! ランドセル! 写真撮りたい。リクもさなちゃんも写真撮りにいったんだって」「写真? 写真なら撮ってあげるよ」紗良は自分のスマホのカメラを海斗に向ける。「ちがーう。そうじゃなくてぇ」ジタバタする海斗に紗良は首を傾げる。 咄嗟に杏介が「あれだろ?」と口を挟む。「入学記念に家族の記念写真を撮ったってことだよな?」「そう、それ! 先生わかってるぅー」「ああ~、そういうこと。確かに良いかもね。お風呂で何か盛り上がってるなぁって思ってたけど、そのことだったのね」「そうそう、そうなんだよ。でさ、会社が提携しているフォトスタジオがあるから、予約してみるよ」「うん、ありがとう杏介さん」ニッコリと笑う紗良の頭を、杏介はよしよしと撫でる。 海斗に関することなら反対しないだろうと踏んでいたが、やはりあっさりと了承されて思わず笑みがこぼれた。「?」撫でられて嬉しそうな顔をしながらも、「どうしたの?」と控えめに上目遣いで杏介を見る紗良に、愛おしさが増す。「紗良は今日も可愛い」「き、杏介さんったら」一瞬で頬をピンクに染める紗良。 そんなところもまた可愛くて仕方がない。夫婦がイチャイチャしている横で、海斗はランドセルを背負ったまま「写真! 写真!」と一人でテンション高く踊っていた。