次の火曜日、ラーメン店の隣のコンビニで待ち合わせることになった。紗良にとっては自宅の近くであり、保育園のお迎えに行ってから寄るのにちょうどいい。杏介は自宅から離れているが、職場近くということもあり行きなれている場所だ。車から降りた海斗はすぐに杏介を見つけ、満面の笑みで叫ぶ。「たきもとせんせー!」「おー、海斗! 頑張って保育園行ってきたか?」「いってきたー!」水色のスモックに黄色い帽子をかぶった海斗は自分の背中に隠しきれていない画用紙を杏介に突き出す。「はい、これ。せんせーにあげる。かいとがかいたんだよ」「うわあ、すっごく嬉しい! ありがとう!」得意気な海斗から受け取ると、画用紙の縁に『おとうさん、いつもありがとう』とサインペンでしっかりと書いてあった。 紗良が言っていたのはこのことかと、杏介は苦笑いをする。けれどやはり、杏介に渡したいという海斗の気持ちが嬉しく感じる。嬉しそうな海斗の顔を見て、紗良は心底ほっとしていた。 と同時に、やはりパパの存在が恋しいのだろうかとも思ったりする。 海斗には祖父は一人いるが、遠く離れていて会う機会もない。紗良と紗良の母に育てられる海斗。 今はいいかもしれないけれど、将来的にどうだろう。ふと、そんな考えになるときがある。でもだからといって、どうすることもできないのが現状だ。 世の中には父親がいない子どもはたくさんいよう。 いても幸せだとは限らない。 人それぞれ、事情があるのだから。海斗の身近で遊んでくれる大人の男性が杏介だけだから、それで懐いているのかもしれない。
「じゃあまたプールで。早く寝て風邪引かないようにするんだぞ」「わかったー」杏介は海斗の目線に合わせるよう屈み、ニコッと爽やかな笑みで海斗の頭をくしゃっと撫でる。海斗と杏介が笑い合うのを見て、紗良は杏介が子供たちに慕われているのがわかる気がした。海斗の生き生きした表情を引き出しているのはまぎれもなく杏介なのだ。(勇気を出して頼んでよかったな)ずっと杏介に対して申し訳ない気持ちでいたけれど、今は感謝の気持ちでいっぱいだ。「海斗、これはお土産だよ。ちゃんと夜ご飯食べてからな」「ありがとう! さらねえちゃん~おみやげもらった~」「えっ! すみません」「いえ、コンビニで適当に買っただけなので」海斗が受け取った袋を覗くと、コンビニスイーツがたくさん入っている。「うわー、美味しそう! ありがとうございます。じゃあ帰ろっか、海斗」「えー。せんせーともっとあそびたい」「もう遅くなっちゃうから。先生にもらったスイーツ食べれなくなるよ」「えー」「海斗、またプールで待ってるな」「わかったー」名残惜しさも感じながら、バイバイと手を振る。紗良はペコリとお辞儀をして車に乗り込んだ。杏介は紗良の車がコンビニを出るまで見送っていた。
紗良と別れた後、杏介にはひとつの疑問が残っていた。(……海斗、石原さんのこと『姉ちゃん』って言ってなかったか?)記憶を辿ってみても、やはり海斗は『紗良姉ちゃん』と言っていたように思う。お母さんとは呼ばせない主義なのだろうか?たまに子供とは友達のような関係だからと名前で呼び会う親子もいると聞く。(いや、だけどそういうのとは違う気がするけど……)四歳児の海斗は大人と対等に会話ができるが、それでもまだおぼつかない言葉もたくさんある。その場のノリとか勢いとか、はたまたその時のブームとか。それとも杏介の聞き間違いだろうか。海斗からもらった絵には、大きく口を開けて笑った顔と『おとうさん、いつもありがとう』と言葉が添えられている。(深い意味はないとは思うけど……)海斗は杏介に父親像を見ているのだろうか。確かによく懐いてくれてはいるけれど、でもそんな子は他にもたくさんいる。海斗の父親はなぜ亡くなったのだろう。紗良も早くに夫を亡くして寂しいだろう。きっとまだ若いだろうに。様々な疑問と想いを抱えながらも、『先生のことが好きなので描いた』と言われればやはり悪い気はしない。――『深く考えずに体裁だけでいいので受け取ってもらえないでしょうか』ふいに紗良の言葉がよみがえる。(そうだよな。ありがたく受け取っておこう)杏介はそれ以上考えるのをやめ、画用紙を助手席にそっと置いて車を発進させた。
紗良は悩んでいた。「うーん……」仕事中だというのにときどき眉間にしわを寄せて、思いつめたように唸る。「紗良ちゃんお昼いこーって、どした?」お昼休みに突入しても自席でうんうん唸っている紗良に、同僚の依美が不思議そうに声をかける。「ねえ依美ちゃん、男の人にお礼するときって何を渡したらいいと思う?」「え、どうしたの、急に。はっ! もしかしてついに紗良ちゃんにも春が来た?」ニヨニヨと楽し気な笑みを浮かべられ、紗良は慌てて否定する。「違う違う。そんなんじゃなくて」「えー、本当にぃ?」「ちょっとお世話になっただけで。海斗にコンビニスイーツいっぱい買ってもらっちゃったから、何かお礼した方がいいよなーって思っただけで」「ほーん」「本当だってば」「コンビニスイーツごときでお礼だなんて、紗良ちゃんって律儀なのね」「だって、貰いっぱなしじゃなんだか落ち着かないんだもん」それに、父の日の似顔絵を受け取ってもらうためにわざわざ近くのコンビニまで来てくれた。 さすがにこの事は依美には言えないけれど。 でも何かお礼をすべきだと思うのだ。「そうねえ、その人の好きな食べ物は?」「……わからない」「家族はいるの?」「独り身だって言ってたけど、実家暮らしか一人暮しかはわからない」「じゃあ年齢は?」「わからないけど、同じくらいか少し年上かなぁ」依美の問いに真面目に答えていた紗良だったが、依美の顔は質問を重ねるごとに曇っていく。「ちょっと、わからないことだらけじゃないの。どんな関係なのよ」「海斗のプール教室の先生なの」「プール教室? じゃあプロテインとか?」「いや、それはないでしょ。もう飲んでそうだし」「じゃあ、お酒?」「飲むかわかんない」「タバコ?」「吸ってるのは見たことない」依美は深いため息を落とす。「もー、やっぱりわからないことだらけじゃないの。難しいわ」「でしょ。だから困ってるのよ。依美ちゃんはいつも彼氏に何をプレゼントしてるの?」「え? うちの彼氏は甘いもの好きだからチョコさえ与えておけば機嫌がいいわよ。あとは、私自身、とか?」「……?」キョトンとした紗良の背をバシンと叩く。「もー、冗談が通じない子っ。ウブなのか真面目なのか、どっちなのよ」一呼吸おいてようやく理解した紗良は頬を赤く染めて慌てる。「え、ええっ、ごめ
その後、依美から贈り物ランキングサイトなるものを教えてもらった紗良は、家に帰り海斗の寝かしつけをしてから、スマホでいろいろと検索をした。「うーん、難しい」カタログギフトは冠婚葬祭みたいだし、スイーツは同じものを返すみたいで嫌だ。 タオルや洗剤は引っ越しのイメージがある。 コーヒーセットは無難だけれど、コーヒー好きかはわからない。「どーしよー」ゴロンゴロンと転がりながら、関連ページへのリンクへとどんどんタップしていく。 するとあるページで手が止まった。「これ、いいかもしれない」ブラウンレザーにゴールドブラウンのステッチが入ったシックでおしゃれなブックカバー。杏介はラーメンを注文した後、たびたび文庫本を読んでいる。 読書好きなのかもしれないし、いつもカバーは書店で購入時につけてもらえるものをしていることを思い出した。「これにしようかな?」ブラウンレザーのブックカバーを付け読書をする杏介を想像すると、大人な雰囲気が倍増してすごく似合っている気がした。――『そのプールの先生とはいい感じなんじゃないの?』ふいに依美の言葉が思い出され、紗良の心臓がきゅっと悲鳴を上げた。(違う違う、違うんだってば。そんなんじゃないんだから)そういう感情は海斗を引き取るときに捨てた。 依美が面白がるから、だから変に思い出してしまっただけで。紗良は枕に顔を埋めて気持ちを落ち着かせる。 浮かぶのは杏介の優しい笑顔。あれは目の潤いであり癒しで、紗良の推しメンだったというだけ。 そう、ファンだった男性がたまたまプール教室の先生だっただけなのだ。(本当に、ただお礼がしたいだけなんだから)自分に言い聞かせるように紗良は何度も心の中で唱え、ブックカバーの購入ボタンを押した。
届いたブックカバーはあまり仰々しくならないように簡易ラッピングをして、アルバイト先に持ってきていた。ただ、いつ、どのタイミングで渡したらいいのか考えあぐねてしまう。そして今週も杏介は来てくれるのかどうか、ラーメン店の制服に着替えながら紗良は変に緊張してエプロンを結ぶ指が震えた。(さすがに仕事中に渡すことはできないよね。ほかのお客さんもいるし)とりあえずロッカーに突っ込んで、ホールへ向かう。十八時から働く紗良だが、いつも杏介が来店するのは二十一時前後。チラチラと時計を気にしていたのは最初だけで、客の入りが激しくなるにしたがってそんなことはすっかりと抜け落ちて仕事に励んでいた。ピークが過ぎ一息つくころ、ガララッと自動ドアが開く音で反射的に「いらっしゃいませ」と笑顔を向ける。「あっ」「こんばんは」紗良が声を上げたことで杏介も気づいて挨拶をする。「空いているお席へどうぞ」声をかければ杏介はいつもの窓際のカウンター席へ。普段ならばテキパキとそのまま接客するところ、杏介にどう切り出したらいいか考えているうちに他の店員が注文を取りに行ってしまう。(やばい。出遅れた。しゃべるチャンスがない)焦ると余計に普段の仕事ができなくなり、無駄に箸を落としたり水をこぼしたりと落ち着かない。「ちょっと石原さん、大丈夫?」「すみません、すぐ片づけますっ」(落ち着け、私)どうにかこうにか平常心を取り戻しているうちにラーメンが出来上がり、紗良は杏介のところまで配膳した。「失礼します。チャーシュー麺になります」「ありがとう」コトリと置いたまま動かなくなった紗良を見て、杏介は首を傾げる。「石原さん、どうかしました?」「あ、えっと……」「?」「私、今日二十二時で上がりなんです。それでその、少しだけお時間ありますか?」「じゃあいつものコンビニで待ってます」「ありがとうございます」すんなり了承を得られ、ようやく紗良は胸を撫で下ろす。少し待ってもらうことにはなってしまうが、とりあえずは杏介に渡す目途がついてよかった。 ぴったり二十二時で仕事が終われるように、紗良はいつも以上に気合を入れて働いた。
紗良のほっとしたような表情に、杏介はまた海斗のことでなにかあるのだろうかと思った。先日もらった父の日の似顔絵はせっかくなので棚の上に飾ってある。 子供が自分のために一生懸命描いたのだろうと想像すると顔がほころび、子供を相手に仕事をすることが多い杏介にとってそれは活力源にもなる。自分が必要とされているような、そんな気分になって明日も頑張ろうと思えるのだ。ラーメンを食べ終えてコンビニへ行き、ブラックコーヒーを手に取る。(石原さんは何が好みだろう?)自然とそんなことを考えて、ハタと手が止まる。(あ、いや、仕事終わりで疲れているだろうし、そういう意味だし……)などとどうでもいい言い訳を考えながら、最近美味しいと話題の抹茶ラテが目に入った。自分が買おうとしていたブラックコーヒーはやめて、抹茶ラテを二本購入する。(……最近話題だからな)と、これまた言い訳じみた考えを巡らせながら、紗良の仕事が終わるのを車の中で待った。ロッカーに突っ込んであった紙袋の中身をチラリと確認して、 紗良はよしと気合を入れる。仰々しくなっていないだろうか、 受け取ってもらえるだろうかと、ドキドキする胸を抑えながら 超特急で着替えてコンビニへ向かった。紗良が姿を見せるとすぐに杏介が車から降りてくる。距離が近づくにつれドキドキと暴れ出す心臓は紗良をますます緊張に追いやって行った。「お待たせしました」「いえ、お疲れ様です」杏介の方こそ仕事終わりだというのに、疲れを微塵も感じさせない爽やかな笑顔を見せられて紗良は体の奥がザワリと揺らめく。「あ、えっと、これ、この前のお礼です」「お礼?」差し出された小さい紙袋を受け取りながら杏介は首を傾げた。「はい、海斗の絵を貰っていただいたし、 スイーツもたくさんいただいたので。だから……」「えっ、すみません。 逆に気を遣わせてしまいましたか?」「いえ、そんなんじゃないんです。 本当に嬉しかったから。だから、ほんの気持ちというか……貰っていただけますか?」「ではありがたくいただきます」「あの、趣味に合うかどうかわかりませんけど」「見てもいいですか?」コクリと頷くのを確かめてから、杏介は包みを開ける。中から出てきたブラウンレザーのブックカバーを見て思わず顔が綻んだ。「すごくおしゃれなブックカバーですね」「えと、いつも文
「読書好きなんですけど、大人になったらなかなか読む時間がなくて、ああいう隙間時間に読んでるんです」「わかります。大人になると本当に時間がないですよね」「海斗くんのお母さんは家事や子育てをされているから、余計に時間がないでしょう?」「そうですね。……そうかもしれないです。毎日仕事して海斗のことだけで手一杯になっています。本当にわからないことだらけで試行錯誤しています」「でもそうやって愛情をもって育てていらっしゃるから、海斗くんいつも楽しそうに笑っているんですね」本当に何気ない言葉だった。 いや、杏介にしてみたら特に意識などしていないただの感想のようなものだったのに、目の前の紗良の瞳からは大粒の涙がぽろっと零れ落ちる。「えっ、僕なにか変なこと言いましたか?」焦る杏介に紗良は慌てて涙を拭う。 紗良の方こそ、無意識に零れ落ちた涙に動揺していた。「違うんです。すみません。えっと……」この気持ちは何だろうか。 急に目の前が開けたような、救われる気持ち。 報われる気持ち。意識はしていなくとも、紗良の心の奥底ではずっと不安な気持ちが渦巻いていて、人知れず悩み苦しんできた。 それが、ふっと軽くなるような、そんな杏介の言葉だったのだ。「あの、 嬉しくて。海斗の母親だって認めてもらえたみたいで」「認めるもなにも、海斗くんのお母さんじゃないですか」「はい、先生にはちゃんとそう見えているんですよね?」「……はい」「ありがとうございます」「い、いえ……」どう受け答えしていいかわからず杏介は口ごもる。 紗良は目じりを拭い鼻をすすると、ニコリと笑顔を見せた。「すみません。 お引き留めして」「あ、いえいえ。ああ、そうだ。これ、飲んでください。今日もお仕事お疲れ様です」「いいんですか? ありがとうございます」先ほど買った抹茶ラテを渡すと、紗良はパッと花が咲くように微笑む。 その笑顔はやはり可愛くて癒しで、別れるのが名残惜しくなってしまうほど。だが、杏介はぐっと感情を抑えて 「ではまたプールで」 とクールに対応する。紗良はぺこりとお辞儀をして小さく手を振りながら、抹茶ラテを大事に抱えて杏介の元を去った。
病院へ駆けつけると入口で紗良と海斗が待っていた。「紗良!」「杏介さん、わざわざ来てもらってごめんなさい。私、動揺してしまって電話をかけちゃって」「そんなことはいいんだ。お母さんは?」「朝起きたらなんか変だなって思って慌てて救急車を呼んだの。脳梗塞が再発したみたいで……あまり状態はよくなくて」「再発……?」コクンと紗良は頷く。 紗良の母親に持病があり通院しているとは聞いていたが、それが脳梗塞だったとは知らず杏介は背中に冷たい汗が流れる。だが紗良は、電話の時のあの消えそうな声とは違いずいぶん落ちついている。「せっかく来てもらったんだけど、私、一度家に帰って入院の準備をしてきます。海斗もごめんね、一回家に帰ろうか」「うん。おなかすいた」「あっ、そうだよね。ご飯食べてなかったね」着の身着のまま、といったところだろうか。 紗良は普段着に着替えているが、海斗はどう見てもパジャマ姿だ。 朝早かったために寝ている海斗を抱えて連れてきたのだ。「俺コンビニで何か買っていくから、とりあえず家に戻りな。車で来てるんだろう?」「杏介さん……」そんな迷惑はかけられない、と首を横に振ろうとするも杏介は海斗の手を引いて駐車場へ歩き出す。 慌てて紗良も歩き出すが、ふと向けられる柔らかな視線。「紗良。一番に俺を頼れって言っただろ。気にするなよ」「……うん」緊張の糸が一気に切れた気がした。 紗良の目にはじわりと涙が浮かぶ。 杏介の袖を控えめに掴めば、杏介はそれを柔らかく絡み取ってしっかりと握った。「あー! せんせーとさらねえちゃんも、てぇつないでるー。かいとといっしょー!」海斗が無邪気に茶化し、紗良も杏介も沈んでいた気分が少しだけ上向きになるようでふふっと笑った。
まだまだ暑く夏真っ盛りのある日、朝早くに杏介のスマホが鳴った。 今日は遅番のためダラダラと布団に転がりながら起きようか起きまいかと迷っていたときだ。画面に表示された【石原紗良】という文字が目に飛び込んだ瞬間、一気に目が覚めた。「もしもし?」「杏介さん……、あの……」ひどく小さな声で言いづらそうにどもるため、杏介は起き上がってスマホに耳を傾ける。「紗良? どうした?」「あの、えっと……」何か伝えたそうなのに言葉が出てこない状況に杏介は眉をひそめる。「落ち着いて。ゆっくりでいいから」「うん、あの……実はお母さんが――」話を聞いた杏介は大慌てで着替えると、カバンひとつ、家から飛び出した。ドクンドクンと心臓が嫌な音を立てる。――お母さんが救急車で運ばれたの、どうしよう、杏介さん必死に伝えようとする紗良の声は震えていて、今にも消えてしまいそうな気がした。頼れと言ってもいつだって一人で頑張ってしまう。平気な顔をして一人で大丈夫だなんて、そんな風に笑い飛ばすくらいの紗良が、初めて杏介を頼った。 そんな気がした。海斗をかかえて一人で心細いのだろう。 杏介が行ったところでどうにかなるわけではないけれど、行かずにはいられなかった。いや、電話だけで済ますなんていう選択肢は最初からなかった。紗良のことだけではない。 海斗のことも、紗良の母親のことも、今どんな状況なのか気になって仕方がない。杏介にとっては紗良も海斗も母親も、大切な存在なのだ。 杏介に欠けていた、いや、知らなかった、家族のあたたかさを教えてくれた人たちだから――。
「俺を頼ってくれないか? 俺が紗良を支えるから」「…その申し出は嬉しいけど、子供ってね結構お金がかかるんだよね。私は海斗を引き取った以上、海斗に不自由な生活はさせたくないと思ってる。これは親としての私の責任なの。だから杏介さんに迷惑をかけたくないんだ。気持ちだけで十分救われる。ありがとう」ニコリと微笑む紗良だったが、無理をしているのだろういうことが見て取れ、杏介は胸が痛んだ。紗良に告白し断られてからも、杏介なりにいろいろ考えたり考えさせられることがたくさんあった。 だけど紗良を好きだという気持ちは変わらないでいる。口説いてみせるといいながら全然口説けていない自分が情けない。一緒にどこかへ出掛けたりこうして仕事終わりに会って話をしたり、そうやってまるで付き合っているかのように錯覚してしまうが、結局紗良の気持ちはあの時から全然変わっていないのだと感じて悔しくなった。「家まで送るよ」「いいよ、すぐそこだし」「これは紗良を大事にするっていう俺の気持ちだから」「……ありがとう」「……何かあったら一番に俺を頼れよ」「うん、わかった」そっと紗良の頭を撫でれば紗良は上目遣いでニコリとはにかんだ笑顔を見せる。 杏介の疲れを癒してくれる魔法のような笑顔。 心臓を掴まれるようなどうしようもなく愛おしい感情がわっと押し寄せてきて、撫でていた頭をぐいっと引き寄せた。「わわっ」紗良はバランスを崩して杏介の胸にダイブする。 しっかりと抱きしめられて困惑気味に「杏介さん?」と呟けば額に触れる柔らかな唇。「おやすみ、紗良」「……おやすみなさい、杏介さん」家の前でバイバイと手を振って別れたが、紗良はしばらくその場を動くことができなかった。 口づけられた場所をそっと手で触る。 後から後からどうしようもなく心臓が騒ぎ出して胸がいっぱいになった。「私、なんで……」なんでこんなにも胸が苦しいのだろう。 つらい苦しさではない、もっと胸がきゅっとなって体の奥から湧き上がるような気持ち。これが、愛しさとでもいうのだろうか――。
毎日の負担に加えて土日はラーメン店でのアルバイトがある。本業の仕事が忙しくなるにつれていろいろと余裕がなくなり、気づけば紗良はバイト先で杏介に会えることが唯一の楽しみになっていた。季節は夏。夏の夜でも暑さは昼間よりほんの少し和らいだ程度。仕事終わりにコンビニの前で立ち話をしていてもじわりと汗が滲む。「杏介さん、ぎゅってしてもいい?」「いいけど、どうした?」「ちょっと疲れちゃって……充電させて?」紗良から積極的に杏介に甘えるのは珍しい。一歩近づいた紗良を、杏介は優しく腕に絡め取った。思ったよりも華奢な紗良と思ったよりも筋肉質な杏介。ぎゅっとさせてと言ったのは紗良の方なのに、ドキドキと鼓動は速くなる。今は夏で夜でも汗ばむというのに、二人くっついている感覚は不思議と暑さを感じない。むしろ肌のぬくもりが心地良いとさえ感じてしばし微睡んだ。「紗良?」コテンと杏介の胸に頭を預ける紗良が微動だにせず杏介は声をかける。「――紗良」「はっ!」呼ばれて慌てて頭を上げる。「大丈夫?」「なんか気持ちよすぎて一瞬寝ちゃってた気がする」「前から思っていたけど、働きすぎなんじゃないか?」「そんなことないよ」「バイト、続けないとダメなのか? ダブルワークはしんどいだろう?」「うん……でも、やめたら……困っちゃうし。私が働かないと」アルバイトを辞める選択肢を考えたことがないわけではない。実家暮らしで母親と共同生活をしているため派遣の給料で賄えないことはないのだ。けれど海斗が成長するに従って必ずお金はかかる。小学校、中学校、高校と、今のうちに貯金できるならしておくことに越したことはない。そう思って続けているのだけど。最近は本業の方が忙しく疲れがたまっていることを自覚している。松田が上司に人を雇ってほしいと申し入れたが、なかなか難しいようだ。
分担した仕事は思いのほか重く、残業のできない紗良は毎日必死にこなしていた。 いくらまわりにサポートするからと言われても未経験の作業を教えるには時間がかかるし、効率的ではない。 紗良とて慣れない作業が発生しているため、自分のことで精一杯なのだ。最初、二週間の期間限定だという話だったが、気づけばそれは一ヶ月に延び、さらに二ヶ月目に入ろうとしていた。さすがにそこまで時間が経てば紗良も時間配分など上手くさばけるようになってくる。 だがそれは余裕で仕事ができているわけではなく、努力して頑張っているからだ。 当然、松田然りである。そんなとき、再び主任に呼び出された紗良と松田は、依美が切迫流産で入院すると聞かされた。 そのため、負担は変わることなくそのまま紗良と松田の仕事になってしまった。「岡本さん、妊娠してたのね。まあ、薄々そんなんじゃないかと思っていたけど」「そうなんですか? てっきり大病でも患ったのかと思ってました」「切迫も大変だけどねー。無事に乗り越えられるといいわよね」「本当ですよね」「まあでも、私たちの負担は変わらずだなんて、主任もひどいと思わない? 他に人雇ってくれたらいいのにねぇ」「松田さんは仕事大丈夫です? だいぶ負担じゃありません?」「しんどすぎでしょ。もうお婆だからさ、無理させないでほしいわよ。しかも帰ったら親の介護が待ってるのよ。ほんとしんどいったらありゃしない。そういう石原さんこそ、息子さんいるんでしょ」「はい、なかなかにバタバタな日々を送っています」「やっぱり私、主任に訴えてくるわ。もう一人雇ってくださいって。だいたい派遣の私たちに仕事押しつけすぎなのよ。ねっ?」「……そう、思います」決して依美が悪いわけではないことはわかっている。 わかってはいるのだが、一言くらいメッセージをくれてもいいのに、と紗良は小さくため息をついた。 疲れはピークに達していた。
ゴールデンウィーク明け出勤すると、いつも元気いっぱいの依美が休暇だった。紗良と依美は昼食もよく一緒に食べる。だからどちらかが休暇を取るときは事前に伝えておくか、メッセージなどで連絡をすることにしている。今日は依美からの連絡はないけれど、連休を繋げて長期連休にする社員も多いし、そんな時もあるだろうとさほど気にしていなかった。だが依美は翌日も休み、さらには翌週になっても出勤してこない。さすがに気になってメッセージを送ってみるも、まったく返事はなかった。どうしたのだろうと心配で何度もスマホを確認するが、何度メッセージを送っても返ってくることはなかった。「石原さん、松田さん、ちょっといいかな?」主任から声をかけられ、二人面談室に入る。松田も紗良と同じチームで働く、年配の派遣社員だ。「岡本さんなんだけど、体調不良でしばらく出勤できそうにないんだ。悪いけど、その間の仕事を分担して欲しい。少し大変になるかとは思うけど……」紗良と松田は顔を見合わせる。二人とも残業は無しという契約のため、増える作業量を定時間内にこなせるのか不安が過った。「岡本さん、大丈夫なんです? 私たち残業できないのであまり仕事が増えると捌ききれるかわかりませんけど?」松田が懸念事項を告げてくれたため、紗良も同意見だと大きく頷く。「とりあえず二週間お休みになるから、その間だけ頑張ってほしい。もちろん、契約通り定時で帰ってもらってかまわないよ。それに、我々もサポートするから」「……はい」としか返事はできなかった。しょせん紗良は派遣社員。与えられた仕事を請け負うことが仕事なのだ。「岡本さん心配ね。石原さん何か事情聞いてないの?」「はい、私も心配で何度かメッセージを送ったんですけど、返事がないんです」「そうなの。まあとりあえず分担して頑張りましょうか。復帰したらランチでもおごって貰わなきゃね」茶目っ気たっぷりに松田が言うので、紗良も「そうですね」と笑った。
「……杏介さんがいてくれたらいいのにって思っちゃって。……呆れちゃうよね?」「いや、どうして?」「だって、そんな都合のいい話はないじゃない」「都合よく俺のこと好きでいてもらえると嬉しいけど」「私は杏介さんが好きだけど、でもそれは心の奥底では海斗の父親を求めているのかもしれない。そんな風に考えちゃう自分が嫌なの。……ごめんなさい」胸がヒリヒリと痛かった。紗良が誰かを好きになるということは必ず海斗がセットでついてくる。 紗良は誰かに海斗の父親を求めてはいないけれど、海斗を切り捨てることは絶対にない。 この先一緒に生きていくには結局のところ海斗の父親になってもらうということ。 たとえ表面上でも、だ。けれど杏介は「いい」という。杏介の優しさが紗良の鼻の奥をツンとさせた。「そんな風に謝るなよ。俺はそうやって利用してもらっても構わないよ。その話を聞いてますます紗良が好きになった」「……好きになる要素がどこにあるの?」「いいんだ。俺が好きだから。紗良がなんと言おうと口説いてみせるよ。だからまたこうしてデートしよう」「……うん、ありがとう」今度こそ紗良は鼻をすする。 こんなにも理解があって優しい人が、自分のことを好きだと言ってくれる。 待っていてくれる。 その事実がありがたいし申し訳ない。「くそ、今が運転中じゃなければ抱きしめられたのに」「物好きだよね、杏介さんって」「そうかな?」「そうだよ。普通こんな女面倒くさいでしょ」「うーん」杏介は首を傾げる。 ちょうど信号で止まり、ずっと前を向いていた杏介が紗良を見た。 視線が絡まると杏介の目元はくっと緩み、紗良の胸はドキンと悲鳴を上げる。杏介はすっと腕を伸ばし、紗良の髪を優しく撫でた。 ぐいっと引き寄せたいのを我慢し、代わりに心からの想いを告げる。「好きだよ、紗良」「っ!」そんなストレートな言葉は紗良の心を優しく包み込む。 とんでもなく胸がしめつけられて体の奥底から熱いものが込み上げてくるような、そんな気持ちになった。
お互いのことをよく知らない。表面上はよくわかっていても、その生い立ちや家庭環境までは踏み込んでいない。(杏介さんのこと、もっと知りたいかも……)そう思うのと同時に、紗良は自分のことも知ってもらいたいと思った。好きだから知りたい、好きだから知ってもらいたい。付き合うことはできないと断った後もこうして一緒にお出かけして、まるで付き合っているのと変わらないような関係が続いていることに自分自身喜びを覚えている、この矛盾した生活。自分のことを伝えたら杏介は呆れるだろうか。この関係は崩れるだろうか。だったとしても、今、伝えたい気がした。ずっと燻っている、紗良の気持ちを。紗良は海斗がぐっすり眠っているのを確認してから口を開く。「あのね、うちの両親は離婚してるの。私は母子家庭だけどお母さんが明るすぎて父親の存在なんて忘れちゃうくらい」「確かに、紗良のお母さんは底抜けに明るいよな」「でしょう。だからね、海斗を引き取るときも大丈夫だと思った。私もお母さんみたいにやれるって思ったの。でも実際はすごく大変でお母さんに頼ることも多くて全然できてないけど、でも私なりに頑張ってて……」「うん、すごいと思うよ。だって最初に出会ったときは海斗の本当の母親だと思ったから」「そう言ってもらえて嬉しいんだけど。でもね、最近はダメなの……」紗良は杏介を見る。運転している杏介の横顔は夕日に照らされてキラキラと眩しく、それでいて頼もしくかっこいい。(ああ、私ってこんなにも杏介さんのことが好きなんだ……)自覚すると胸がきゅっと苦しくなる。伝えるべきなのか、どうなのか迷う。だが杏介は「何がダメ?」と優しく問うた。
「 俺さ、母親がいないんだよね」「え?」「いや、正確にはいるんだけど。幼いころに病気で亡くなって父子家庭で育ってさ、数年後に父親は再婚したんだけど、新しい母親と上手くいかなくて。……いや、上手くいかないっていうか、俺が毛嫌いしているだけなんだけど。だからそういうお弁当は憧れだったんだ。長年の夢が叶ったような、そんな気持ち、かな」「そう、だったんだ」「引いた?」「ううん、全然。私、杏介さんのこと全然知らなかったんだなって思って」「そうだよな。あんまりこういう話ってしないし。まあ聞いてもつまらないと思うけど」世の中にはいろいろな人がいる。 誰一人として環境が同じなわけではない。 そんなことはわかっているけれど、紗良のような家庭環境は珍しいのではないかとどこかでそう思っていた。 きっと杏介も『普通』の家庭なのだろうと決めつけていた。 そんな風に考えていた自分を反省する。「……私たちってお互いのこと全然知らないよね」「そうかもしれないな」紗良は姉の子供の海斗を育てていて、実家暮らしで母と住んでいる。 平日は事務の仕事をしていて土日はラーメン店でアルバイト。杏介は海斗の通うプール教室の先生で、仕事終わりに紗良の働くラーメン店へよく訪れる常連客。 そして一人暮らし。今までの付き合いからこれくらいの情報はお互いに知っている。 けれどそれ以上深く聞くこともなかったし、自ら語ることもなかった。それがいいのか悪いのかわからないけれど、紗良の知らなかった杏介の内面の話は紗良の固定概念を崩すには十分だった。