「おはよう、紗良ちゃん」
「依美ちゃん、おはよう~」
ぐったりと席に座った紗良に声をかけてきた同僚、岡本依美は紗良と同じ派遣社員で一年先輩になる。
「毎朝お疲れ様だねぇ」
「今日は道が混んでたの。遅刻するかと思ったよ」
「それで走ってきたの? 汗だくじゃん。あとで化粧直ししてきなね」
「うっ……そうする」
直すほどの化粧はしていないけれど、と思いつつもよほどひどい顔をしているのだろうか、思わずため息が漏れてしまう。
「ところでさ、来週飲み会あるんだけど、どう?」
「飲み会かぁ」
「たまには参加しなよ。子供、お母さん見てくれるんでしょ?」
「まあねぇ。うーん、でもやめとくよ。お迎えもあるし、その後で行くのはキツイ」
「お迎えもお母さんにお願いできないの?」
「それがお母さん運転免許持ってないのよ」
「そうなの? そりゃ大変だ」
「でしょう?」
始業開始からそんな不真面目な会話を繰り広げられるほど社内環境はいい。
紗良はここで派遣社員として八時半から十七時半まで事務仕事をしている。
働き始めて早二年。時短勤務はできないものの、子育てしながら働くことを理解してもらえているありがたい職場だ。
とはいえ、やはり子供を育てる上でいろいろと制約はあるわけで――。
十七時半のチャイムと同時にパソコンをシャットダウンし、「お疲れ様です」と告げて足早に会社を出る。夕方の渋滞をくぐり抜け保育園へ海斗を迎えに行き、ようやく家に帰ると十八時半近く。夕飯は母が用意してくれることが多くて、それはとてもありがたく助かっているのだが……。「海斗お風呂入るよー。って、寝てる?」洗い物をしている間に、大人しくテレビを見ていた海斗はいつの間にか床にゴロンと寝転がり、すやすやと寝息を立てていた。「もー、仕方ないなぁ」こんなことは日常茶飯事だ。初めは戸惑ったり、抱っこしただけで筋肉痛になったりしたけれど、最近はもう慣れっこになった。イライラすることも少なくなり、仕方がないで済まされる。寝室の布団を雑に敷いて、海斗を担いで運ぶ。その間もまったく起きない海斗は、きっと朝まで爆睡だろう。「最近暑いから、海ちゃんも疲れてるのねぇ」「汗かいてるからお風呂には入れたかったけど。朝シャワーでもさせるか」「一日お風呂入らなくったって死にやしないわよ。紗良だって子供の時はお風呂に入らずよく寝ちゃってたわ」「子供あるあるなのね?」そういうことも、ようやく慣れてきたというかわかってきたというか。紗良なりに理解できてきた事柄だ。
紗良は海斗の叔母にあたる。今から二年前、海斗が二歳のとき、海斗の家族は交通事故に巻き込まれて亡くなった。海斗も事故に巻き込まれたけれど奇跡的に助かって、けれど海斗はひとりぼっち。海斗の母親の実家――、つまり紗良の母は、早くに離婚して一人で暮らしており持病持ち。父親の実家は遠く離れているし両親は高齢。そのため海斗を育てる環境がなく必然的に施設へ預けるように話は進んでいったのだが。まるで邪魔者扱いのように話される会話が紗良にはどうしても納得できなかった。紗良の姉はよく海斗を連れて実家に遊びに来ていたため紗良とも日ごろからよく交流があったし、海斗も紗良に懐いていた。だから紗良はその場の勢いと怒りで「私が育てます」と引き取って、今に至る。紗良の考えが浅はかだったことは否めない。一人で初めての子育てはあまりにも無謀すぎたけれど、紗良の気持ちを汲み取った母が一緒に育てると協力を申し出てくれたおかげで、今はどうにかこうにか暮らしていけている。紗良が子供の頃に両親は離婚していて、さらに母は数年前に脳梗塞を患っている。そのため持っていた運転免許も返納済みで定期的に通院もしているからあまり母には負担をかけさせられない。とはいえ、子育て未経験、ましてや出産未経験の紗良にとって、海斗の子育ては未知との連続だった。母がいなかったらとっくに音を上げていたに違いなかった。「明日はプール教室だから、お昼は外で食べてくるね」「わかったわ。海ちゃんプール楽しそうね」「お友達と行ってるから楽しいみたいよ」保育園で知り合ったママ友から誘われて、海斗は四月からプール教室に通い始めた。年中から通えるプール教室はまだほとんど水遊び程度。けれど楽しそうにしている姿を見ると、やらせてあげてよかったなと紗良は嬉しくなる。一通りの家事を終え明日の準備を整えて、ようやく紗良も寝室へ入った。隣でぐーすか寝ている海斗の寝顔はやっぱり可愛い。自分の子供ではないけれど、もう二年も一緒に生活しているのだ、可愛くてたまらない存在には違いない。海斗の寝息を聞きながら、紗良もすぐに眠りに落ちた。
翌日のプール教室は午前十時半から。保育園で知り合ったママ友の弓香と観覧席でおしゃべりをしながら、紗良は子供たちの様子を見学していた。弓香は紗良よりも十歳も年上で、子どもは二人。上のお姉ちゃんはもう小学校六年生という子育ての大先輩だ。紗良と弓香は保育園の送り迎えの時間が同じで、挨拶を交わすうちに仲良くなった。歳の差なんて気にしちゃだめよとフレンドリーに接してくれる弓香のおかげで、頼りになるありがたい存在だ。「海ちゃん順調だね。もー、うちなんてまだまだ顔付けがダメでさー」「ありがたいことに、先生とも相性いいみたいで」「滝本先生ね! あの人、格好いいわよね。体引き締まっててさ、ありゃ絶対プロテイン飲んでるわ」「弓香さん、プロテインって」「うちの旦那もああいう締まった体にならないかしら。もうお腹がボヨンボヨンなのよ~」「あはは! 旦那さんが聞いたら泣いちゃうかもよ」弓香のジェスチャーに、紗良はボヨンボヨンの弓香の夫を想像してクスクスと笑う。プール教室の先生はみな水泳キャップを被っているため、かっこいいと言われても紗良には正直顔の違いがよくわからない。いつも海斗ばかり見ているためあまり先生の顔を見ていないというのもあるけれど。「先生ってどれも同じ顔に見えない?」「紗良ちゃん、よく見てよ。全然違うって」「うーん」弓香に言われ改めて先生の顔を観察してみる。と、海斗のクラスの担当である滝本先生は他の先生に比べて確かに綺麗な顔をしているような気がする。それに男性らしく大きな背中に引き締まった手足。あれはプロテインのおかげなのか、はたまた普通の男性はみんなあんな感じなのか、紗良にはさっぱりわからない。ただ、ほんの少し、かっこいいかもと思ってしまったことも事実で。今までそんな目で先生を見ていなかった紗良は、急に心臓が変な音を立てて騒ぎ出す。(違う違う、そういうことじゃなくて)慌てて目線を海斗に戻し心を落ち着けていると、弓香がカラカラと笑いながら耳打ちする。「でも私は滝本先生より小野先生の方が好みかな」「もー、そんなことばっかり言って、旦那さんが怒るよ~」「あっはっはっ! 内緒ね~」悪びれることもなく明るく笑う弓香につられて、紗良も一緒になって笑い転げた。だけどこっそりと、(私は小野先生よりも滝本先生の方が好みかな)なんて思ったりもし
「今日はパパが迎えに来てるから」「また保育園でねー」プール教室の出入口で弓香と別れ、紗良は海斗と手を繋いだ。「さて、海斗、今日はご飯食べて帰ろっか」「おそとでごはん? やったー!」「さーて、何食べに行こうかなー?」「かいとねぇ、ポテト! ポテトたべたい!」ファストフードかショッピングセンターのフードコートでも行こうかと思考を巡らせていると、『海斗くん』と背後から呼ぶ声が聞こえ振り向いた。「水着忘れてるよー!」「あっ、せんせー!」海斗の水着を掲げながら走ってきた『先生』は、プール教室のユニフォームであるTシャツと短パンを履いていて、髪はしっとりと濡れている。海斗は紗良の手を振りほどき先生へと駆け寄った。慌ててプールバックの中身を確認すると、確かに水着が入っていない。「わ~、すみませんでした。ありがとうございます」紗良も急いで駆け寄るが、先生に妙な既視感を覚えしばし頭がバグる。先生も紗良を見て固まり――。しばしの沈黙の後、紗良と先生は声を揃えて叫んでいた。「あっ! 常連さん?」「店員さん?」お互い驚きのあまりまた声を失う。先に口を開いたのは滝本先生の方だった。「海斗くんのお母さんだったんですね」「私も、常連さんが海斗の先生だとは知りませんでした」まさかの顔見知りで変に緊張するというか恥ずかしいというか。お互いぎこちなく愛想笑いしかできない。「かいとねぇ、いまからごはん、たべにいくんだー!」「おー! いいなぁ。いっぱい食べてこいよー」滝本先生は海斗の頭を優しく撫で、バイバイと手を振った。それに合わせて紗良もペコリとお辞儀をし、海斗と共にその場を後にする。「さらねえちゃん、ポテトポテト~」「あー、はいはい、ちょっと待ってよ」ファストフード店で海斗のリクエストであるポテトを注文し、ハンバーガーや飲み物をシェアしながら、紗良は先ほどのことを思い出していた。(本当にびっくりした。まさかラーメン店の常連さんが、海斗のプール教室の先生だったなんて、まったく気づかなかったなぁ)水泳キャップを被るだけで雰囲気がガラリと変わる。常連として見ていたときは綺麗な顔の人だなと思っていたけれど、プール教室の先生として見たときはまた違ったかっこよさだった。半袖シャツから見えていた引き締まった腕は、そういうことだったのかと妙に納得
海斗の母親――紗良が、滝本杏介《たきもときょうすけ》の行きつけのラーメン店の店員だと判明してからというもの、二人は店で顔を合わせるたびに一言二言しゃべるようになった。スポーツクラブで働く杏介は、たいてい土曜の仕事終わりに仕事場近くのラーメン店で食事をして帰ることがルーティンになっている。ほどよく汗をかいたあとのラーメンは格別に旨い。疲れた体に塩分を補給してくれるし、炭水化物が疲労を回復させてくれる。更にこの店は品がよく、なかなかに居心地が良いため杏介のお気に入りだ。杏介が忘れた文庫本を届けてもらったこととプール教室での出来事のおかげで、紗良とも顔見知りから少しレベルアップしたように思う。「ここのラーメン、ほんとやみつきになるんですよ」「ありがとうございます」そんな当たり障りのない会話から始まった二人の雑談。会話を重ねるうちに、プライベートの少し突っ込んだ話題にも触れる機会が訪れた。「先生は遅くまで働いてるんですね?」「ええ、僕はシフト制なので。大抵土日の遅番は独り身がシフト入れられちゃうんですよねー。あはは」「そうなんですか。私も土日の夜だけここで働いているので。……だからよく会うんですね」「へぇー」壁には常にアルバイト募集の貼り紙がしてある。彼女はアルバイトなんだろうか?この時間、海斗は家で父親と過ごしている?いろいろと気になってしまい聞きたいことはたくさんある杏介だったが、いかんせん人様の家庭を詮索するのはよくない。それくらいは社会人としてわきまえているつもりだ。けれど、紗良が海斗の母親だと判明したとき、杏介はなぜだかショックを受けた。それはもう、ハンマーで殴られたかのような衝撃だった。このラーメン店に通っていたのはただ味が好きなだけではない。仕事終わりに紗良の笑顔を見るのが癒しだったから。(だけどまさか人妻だったとは、な)見た目だけで言えば紗良はまだ若そうに見える。だが実際には四歳の子持ちだ。(人は見かけによらないな)杏介は一人ごちた。だからといって相変わらず紗良が杏介の癒しであることは間違いない。可愛いは正義とはよく言ったもので、彼女が独身であろうが既婚者であろうが、可愛いものは可愛い。別に手を出す訳じゃあるまいし、何で癒されようが自由なはずだ。お気に入りのラーメン店で働く可愛い店員さんと多少会話を
杏介がいつものチャーシュー麺を注文すると、紗良は遠慮気味に、だけど少し前のめりになって言う。「今日からデザートメニューにソフトクリームが追加されたんです。よかったらどうぞ」「ソフトクリーム?」「そうなんです。カップかコーンが選べて。私、くるくる回すの練習しました!」ジェスチャー付きで目をキラキラさせて訴えてくるので、それはもう頼むしかないんじゃないかと半ば誘導される形で杏介は頷く。「ありがとうございます。綺麗なのお作りしますね」「楽しみにしてます」紗良はニッコリ笑うと、紺色のエプロンを翻して厨房へ戻っていった。そんな彼女の背を目で追いかけながら、何とも単純な自分に笑いが込み上げてくる。杏介は普段甘いものなんてそんなに食べない。それなのにどういう風の吹き回しなのだろう。すっかりと紗良のペースに巻き込まれて、頭の中は彼女のことばかり。だからいつものルーティンである文庫本を読むのを忘れてしまっていた。あっという間にラーメンが運ばれてきてしまう。「ソフトクリームは食後にお持ちしますね」「どうも」ラーメンと共にまた可愛らしい笑顔を置いていく紗良。その後、綺麗に巻かれたソフトクリームのカップを持って杏介の前にそっと置いた紗良は、思い切りドヤ顔をしていて、杏介は思わず吹き出してしまった。「完璧なソフトクリームができました!」「確かに。食べるのがもったいないくらい」「いえ、食べてください。美味しいので」「はい、いただきます」「はーい、ごゆっくりどうぞ」言われるがまま、今日はずいぶんとゆっくりしてしまった気がする。(ラーメンからのソフトクリームも悪くないな)紗良の商売上手さに舌を巻きながらも、妙に心が弾んだのは気のせいだということにしておこう。杏介はいい気分でラーメン店を後にした。
ある日のことだ。海斗が保育園で描いてきた絵を、得意気に披露していた。「これが、かいとで、これがさらねえちゃん、これがばあば」「すごい、上手に描けてる」「海ちゃんは絵の才能があるねぇ」お世辞にも上手とは言えないような顔っぽい何かと塗りたくった何かだが、海斗が一生懸命描いたものは何だって愛おしく感じる。「海斗、これは?」もうひとつ、顔っぽい何かが描かれていて、紗良は何の気なしに尋ねた。「これはねぇ、パパ!」元気よく言うものだから、紗良は思わず言葉に詰まった。海斗の両親が亡くなったのは海斗が二歳の時。だから両親の記憶なんてほとんどないのではないかと勝手に思っていたけれど、もしかして何か覚えているのだろうか。「あらー、海ちゃん、いいわねぇ」「いいでしょー」紗良の母は気にも止めず、キャッキャと海斗と盛り上がる。「ちょっとお母さん……」こそこそと母に耳打ちするも、逆にバシンと背中を叩かれてしまった。「紗良は気にしすぎ。海ちゃんが楽しければそれでいいのよ」「それはそうかもだけど……」「あら、それともなあに? 結婚する気になったの?」「は? そんなわけないじゃない。私には海斗がいるもの。結婚とか、ないない!」「あら、そう? でも、紗良にばかり負担をかけて申し訳ないわ」「別に、私が望んで海斗を引き取ったのよ。お母さんが気にすることないわ。それにいつもお母さんに助けられてるし」そう、結婚なんてできるわけがない。 彼氏すら作れない。でもそれは納得してのこと。 紗良が姉の代わりに海斗を立派に育てるんだって決めたのだ。 そういう決意と責任のもと、海斗を引き取った。だから紗良には結婚とか恋愛とか、まったく必要ないものなのだ。(もしも、だけど、私が誰かと結婚したならば海斗に新しい父親ができることになるけど……)ふと考えて、慌てて頭を横に振る。(いや、ないない。海斗だってそんなの望んでないもの)紗良は考えるのを放棄するように、さらに頭をブンブンと横に振った。それなのに数日後、まさか頭を抱える事態に陥るとは誰が想像しようか。
「えっと……?」保育園にお迎えに行き、先生から手渡された海斗が制作した『父の日の似顔絵』を見て、紗良は固まった。「海斗くんには父の日とは言わずに、大好きな人の絵を描こうねって言ったんですけど、皆と同じがいいって言うので……」「あー、そうなんですね……」色画用紙で枠組まれた『父の日の似顔絵』には、クレヨンで描かれた顔っぽい何か。男か女かわからないけれど、髪の毛らしきものは短いから男なのか、と思わなくもない。それはいいとして。枠には先生の字で『おとうさん、いつもありがとう』と書いてあった。「誰を描いたのか聞いたら、タキモト先生って言うので、タキモト先生ありがとうって書こうかって提案したんですけど、どうしても皆と同じ、おとうさんいつもありがとうがいいって言うので……すみません」「いえいえ、こちらこそ、気を遣っていただいて、すみません」しばらく先生と謝り合戦をしてしまった紗良だったが、何か聞き捨てならない言葉を聞いたような気がする。「海斗、これ誰を描いたの?」「たきもとせんせー」「……プールの?」「うん、プールのせんせー」「そう……」プール教室で滝本先生にやたら懐いているとは思っていた。 けれど、絵に描くほど好きだったとは。(あの先生、面倒見よさそうだもんなあ)なんてぼんやり考えていると……。「かいと、せんせーにプレゼントしたい」「は?」「たきもとせんせーに、これ、わたす」「……いや、それはちょっとどうかと思うよ」紗良は当たり障りのない言葉でサラっと流そうとするが、海斗は引き下がらない。(滝本先生が好きなのはわかった。わかったけど、あげられないでしょ。だって、おもいきり『おとうさん、いつもありがとう』って書いてあるし。さすがにもらう方もドン引きでしょ)心の葛藤が顔に出るほどに紗良の眉間にはシワが寄った。
「あの、僕は平日休みが多いんですが……」「すみません、私は平日仕事で海斗を保育園に迎えに行くのも十八時くらいなんです」「えっ、平日仕事をしてて、土日もラーメン店で働いているんですか?」「はい、実はそうなんです」「それは……大変ですね」紗良は曖昧に微笑む。海斗と生活する上で大変だと思うことはあっても、自分の仕事を大変だと思うことはなかった。むしろそうしなくては海斗を十分に養えないという使命感の方が大きく、とにかく日々がむしゃらだったのかもしれない。「先生さえご迷惑でなければ、平日に会ってもらってもいいですか?」「ええ、それは、全然構いませんよ」「えっと、じゃあ……」紗良はスマホのスケジュールアプリを開く。 杏介も同じくアプリを開き、日程を擦り合わせた。 チラリと見える紗良のスケジュール表には予定がびっしりと書き込まれている。 何かはわからないが、なかなかに忙しそうだ。「この日は海斗の歯医者さんがあるし……」などと呟いているから、きっと海斗絡みの予定ばかりなのだろう。短い付き合いだが、なんとなく紗良の性格は分かってきている。彼女はいつも真面目なのだ。だけど可愛らしい部分も多々あって――。「先生、火曜日の夜はいかがですか?」「大丈夫ですよ」「ありがとうございます」肯定すればすぐに嬉しそうな表情を浮かべる。 柔らかくて可愛らしい微笑みと声色。杏介はぐっと息を飲む。本当はプール教室に通う親に個人的な連絡先を教えるべきではないのだが、だけどこれも海斗のためと杏介は言い訳をして自然な感じを装い言った。「念のため連絡先を交換してもいいですか?」「あ、はい、そうですね」紗良も特に気にもせず、二人連絡先を交換する。スマホの画面に表示された名前。(滝本杏介さんって言うんだ……) (石原紗良さん、か…)お互い妙に照れくさく、でも嬉しいような気持ちになり、顔を見合わせふふっと控えめに笑った。
「……保育園で描いた父の日のプレゼントなんですけど。……あの、深く考えずに、体裁だけでいいので受け取ってもらえないでしょうか。それで本人納得すると思うんです。……ダメでしょうか」強張っている杏介の表情から、やはりお願いすべきではなかったかもと泣きそうな気持ちになる。なんとなく、最近は杏介と打ち解けていた気がして、だからきっと引き受けてくれるんじゃないかと思っていた紗良だったが、現実はそんなに甘くはなかったのかもしれない。「……やっぱりご迷惑ですよね。ごめんなさい、今の話は忘れてください」「あ、いや、いいんです。ちょっと驚いただけで。えっと、僕が受け取るのは全然構わないのですが、その……海斗くんのお父さんに申し訳ないな、と……」「海斗の父親は亡くなっているので、お気になさらず……」「あ、そうだったんですか。申し訳ありません、デリカシーがなくて」「いえ、海斗は先生のことがとても好きなので、だから描いたんだと思います」「そういうことなら、喜んでいただきますよ。むしろ海斗くんに好きになってもらえて光栄です」杏介はニコッと微笑む。 紗良と海斗にそんな事情が隠されていたなんて思いもよらなかったが、可愛い教え子と紗良の頼みとあらば、断る理由がない。杏介が快く承諾してくれたことで、紗良もようやくほうっと胸を撫で下ろしていた。「えっと、じゃあ、プール教室のときは持っていっても受け取れませんよね?」「あー、そうですね。レッスンが続けて入っているし濡れてしまうかも……」海斗が水着を忘れたときに杏介が追いかけて届けてくれたことがあったが、あのときはレッスンの合間をぬって急いで来てくれたことで、髪もシャツも濡れていた。だから誰かのために時間を作ることはなかなか難しい。妥協案としてはレッスン外で会うことなのだが……。
「わかりました。じゃあ隣のコンビニでどうですか?」「はい、それで。ありがとうございます」ほっとしたような、それでもまだ落ち着かないようなそんな表情を浮かべる紗良。お願いとはなんだろうか。海斗の水泳のことで何かあるのだろうか。(もっと優しくしてくださいとか厳しくしてくださいとか?)プール教室の先生をしているとそういう意見をもらうことも少なくない。だからきっとプール教室の指導に関わることなのだろうと杏介は予想して、コンビニへ向かった。ペットボトルのお茶を一本だけ買って、あとは駐車場に停めた車の中で紗良を待つ。スマホのアプリゲームで時間を潰していると、ラーメン店の方からコンビニへ向かってくる人影が見えた。こちらに近づくに連れシルエットがはっきりしてきて、それが紗良だとわかる。制服から着替えた紗良は、ロングワンピースにレギンスといったラフな格好。小さなショルダーバッグを斜めに掛けて、小走りで向かってくる。私服の紗良はやはり若くて、とても母親には見えない。(でも母なんだよなぁ……)世の中の不思議に触れた気分になりながら、杏介は車から降り紗良にわかるよう小さく手を上げた。「お待たせしてすみません」「いえ、大丈夫ですよ。それでお願いと言うのは……?」「はい、あの……」紗良はしばし目を泳がせた後、杏介をぐっと見つめる。身長差のせいで上目遣いに見つめられた杏介は、図らずも心臓がドキリと跳ねた。紗良の艶やかな唇が小さく開かれる。「……海斗が、どうしても先生に渡したいものがあって」「渡したいもの?」「はい、保育園で描いた絵なんですけど……」紗良は再び口ごもってしまう。とんでもなく言いづらいし、本来ならこんなことを
「えーっと、ここにお父さんって書いてあるじゃん。滝本先生はお父さんじゃないでしょ」「えー、あげたいあげたい。かいと、がんばってかいたもん。あげるもん。こんどのプールきょうしつにもってくの」「いやいやいや、濡れちゃうし」「わーたーすー」「ダメだって」「ヤダヤダ」言い合いをしていると、だんだん海斗の顔が曇ってくる。そしてついに不機嫌な顔でその場を動かなくなった。「ちょっと海斗、帰るよ」「やだっ」「置いてくよ」「やだっ」「保育園に泊まる?」「やだっ」「もうっ、どうしたいのよっ」「だってたきもとせんせーにわたしてくれないんでしょ」「だって渡せないじゃない」「やだっ」テコでも動かない海斗と譲らない紗良。だけど先に根負けしたのは紗良だった。「あーもう、じゃあ今度聞いてみるから。それでいいでしょ?」「……いい」「……帰ろ?」「かえる」ようやく靴を履いてくれた海斗と手を繋ぎ、駐車場へと向かう。(ああ、変なことを引き受けてしまった。寝たら忘れてくれないかしら)一気に疲れてしまった紗良は、どんよりとした気分のまま家路についた。杏介はいつものラーメン店でいつものように接客してくれた紗良を見て、首を傾げた。 上手く言い表せないのだが、何だか今日は紗良の様子がおかしい気がする。妙にソワソワしているというか、落ち着かないというか。そんな彼女は意を決したかのように口を開いた。「あの、先生にお願いがあって……」「はい、何でしょう」「あ……、えっと……」エプロンの裾をぎゅっと握りしめて、モゴモゴと口ごもる。言いづらそうな雰囲気にここでは話しづらいことなのかと思い、杏介はひとつ提案した。「今日は何時までですか
「えっと……?」保育園にお迎えに行き、先生から手渡された海斗が制作した『父の日の似顔絵』を見て、紗良は固まった。「海斗くんには父の日とは言わずに、大好きな人の絵を描こうねって言ったんですけど、皆と同じがいいって言うので……」「あー、そうなんですね……」色画用紙で枠組まれた『父の日の似顔絵』には、クレヨンで描かれた顔っぽい何か。男か女かわからないけれど、髪の毛らしきものは短いから男なのか、と思わなくもない。それはいいとして。枠には先生の字で『おとうさん、いつもありがとう』と書いてあった。「誰を描いたのか聞いたら、タキモト先生って言うので、タキモト先生ありがとうって書こうかって提案したんですけど、どうしても皆と同じ、おとうさんいつもありがとうがいいって言うので……すみません」「いえいえ、こちらこそ、気を遣っていただいて、すみません」しばらく先生と謝り合戦をしてしまった紗良だったが、何か聞き捨てならない言葉を聞いたような気がする。「海斗、これ誰を描いたの?」「たきもとせんせー」「……プールの?」「うん、プールのせんせー」「そう……」プール教室で滝本先生にやたら懐いているとは思っていた。 けれど、絵に描くほど好きだったとは。(あの先生、面倒見よさそうだもんなあ)なんてぼんやり考えていると……。「かいと、せんせーにプレゼントしたい」「は?」「たきもとせんせーに、これ、わたす」「……いや、それはちょっとどうかと思うよ」紗良は当たり障りのない言葉でサラっと流そうとするが、海斗は引き下がらない。(滝本先生が好きなのはわかった。わかったけど、あげられないでしょ。だって、おもいきり『おとうさん、いつもありがとう』って書いてあるし。さすがにもらう方もドン引きでしょ)心の葛藤が顔に出るほどに紗良の眉間にはシワが寄った。
ある日のことだ。海斗が保育園で描いてきた絵を、得意気に披露していた。「これが、かいとで、これがさらねえちゃん、これがばあば」「すごい、上手に描けてる」「海ちゃんは絵の才能があるねぇ」お世辞にも上手とは言えないような顔っぽい何かと塗りたくった何かだが、海斗が一生懸命描いたものは何だって愛おしく感じる。「海斗、これは?」もうひとつ、顔っぽい何かが描かれていて、紗良は何の気なしに尋ねた。「これはねぇ、パパ!」元気よく言うものだから、紗良は思わず言葉に詰まった。海斗の両親が亡くなったのは海斗が二歳の時。だから両親の記憶なんてほとんどないのではないかと勝手に思っていたけれど、もしかして何か覚えているのだろうか。「あらー、海ちゃん、いいわねぇ」「いいでしょー」紗良の母は気にも止めず、キャッキャと海斗と盛り上がる。「ちょっとお母さん……」こそこそと母に耳打ちするも、逆にバシンと背中を叩かれてしまった。「紗良は気にしすぎ。海ちゃんが楽しければそれでいいのよ」「それはそうかもだけど……」「あら、それともなあに? 結婚する気になったの?」「は? そんなわけないじゃない。私には海斗がいるもの。結婚とか、ないない!」「あら、そう? でも、紗良にばかり負担をかけて申し訳ないわ」「別に、私が望んで海斗を引き取ったのよ。お母さんが気にすることないわ。それにいつもお母さんに助けられてるし」そう、結婚なんてできるわけがない。 彼氏すら作れない。でもそれは納得してのこと。 紗良が姉の代わりに海斗を立派に育てるんだって決めたのだ。 そういう決意と責任のもと、海斗を引き取った。だから紗良には結婚とか恋愛とか、まったく必要ないものなのだ。(もしも、だけど、私が誰かと結婚したならば海斗に新しい父親ができることになるけど……)ふと考えて、慌てて頭を横に振る。(いや、ないない。海斗だってそんなの望んでないもの)紗良は考えるのを放棄するように、さらに頭をブンブンと横に振った。それなのに数日後、まさか頭を抱える事態に陥るとは誰が想像しようか。
杏介がいつものチャーシュー麺を注文すると、紗良は遠慮気味に、だけど少し前のめりになって言う。「今日からデザートメニューにソフトクリームが追加されたんです。よかったらどうぞ」「ソフトクリーム?」「そうなんです。カップかコーンが選べて。私、くるくる回すの練習しました!」ジェスチャー付きで目をキラキラさせて訴えてくるので、それはもう頼むしかないんじゃないかと半ば誘導される形で杏介は頷く。「ありがとうございます。綺麗なのお作りしますね」「楽しみにしてます」紗良はニッコリ笑うと、紺色のエプロンを翻して厨房へ戻っていった。そんな彼女の背を目で追いかけながら、何とも単純な自分に笑いが込み上げてくる。杏介は普段甘いものなんてそんなに食べない。それなのにどういう風の吹き回しなのだろう。すっかりと紗良のペースに巻き込まれて、頭の中は彼女のことばかり。だからいつものルーティンである文庫本を読むのを忘れてしまっていた。あっという間にラーメンが運ばれてきてしまう。「ソフトクリームは食後にお持ちしますね」「どうも」ラーメンと共にまた可愛らしい笑顔を置いていく紗良。その後、綺麗に巻かれたソフトクリームのカップを持って杏介の前にそっと置いた紗良は、思い切りドヤ顔をしていて、杏介は思わず吹き出してしまった。「完璧なソフトクリームができました!」「確かに。食べるのがもったいないくらい」「いえ、食べてください。美味しいので」「はい、いただきます」「はーい、ごゆっくりどうぞ」言われるがまま、今日はずいぶんとゆっくりしてしまった気がする。(ラーメンからのソフトクリームも悪くないな)紗良の商売上手さに舌を巻きながらも、妙に心が弾んだのは気のせいだということにしておこう。杏介はいい気分でラーメン店を後にした。
海斗の母親――紗良が、滝本杏介《たきもときょうすけ》の行きつけのラーメン店の店員だと判明してからというもの、二人は店で顔を合わせるたびに一言二言しゃべるようになった。スポーツクラブで働く杏介は、たいてい土曜の仕事終わりに仕事場近くのラーメン店で食事をして帰ることがルーティンになっている。ほどよく汗をかいたあとのラーメンは格別に旨い。疲れた体に塩分を補給してくれるし、炭水化物が疲労を回復させてくれる。更にこの店は品がよく、なかなかに居心地が良いため杏介のお気に入りだ。杏介が忘れた文庫本を届けてもらったこととプール教室での出来事のおかげで、紗良とも顔見知りから少しレベルアップしたように思う。「ここのラーメン、ほんとやみつきになるんですよ」「ありがとうございます」そんな当たり障りのない会話から始まった二人の雑談。会話を重ねるうちに、プライベートの少し突っ込んだ話題にも触れる機会が訪れた。「先生は遅くまで働いてるんですね?」「ええ、僕はシフト制なので。大抵土日の遅番は独り身がシフト入れられちゃうんですよねー。あはは」「そうなんですか。私も土日の夜だけここで働いているので。……だからよく会うんですね」「へぇー」壁には常にアルバイト募集の貼り紙がしてある。彼女はアルバイトなんだろうか?この時間、海斗は家で父親と過ごしている?いろいろと気になってしまい聞きたいことはたくさんある杏介だったが、いかんせん人様の家庭を詮索するのはよくない。それくらいは社会人としてわきまえているつもりだ。けれど、紗良が海斗の母親だと判明したとき、杏介はなぜだかショックを受けた。それはもう、ハンマーで殴られたかのような衝撃だった。このラーメン店に通っていたのはただ味が好きなだけではない。仕事終わりに紗良の笑顔を見るのが癒しだったから。(だけどまさか人妻だったとは、な)見た目だけで言えば紗良はまだ若そうに見える。だが実際には四歳の子持ちだ。(人は見かけによらないな)杏介は一人ごちた。だからといって相変わらず紗良が杏介の癒しであることは間違いない。可愛いは正義とはよく言ったもので、彼女が独身であろうが既婚者であろうが、可愛いものは可愛い。別に手を出す訳じゃあるまいし、何で癒されようが自由なはずだ。お気に入りのラーメン店で働く可愛い店員さんと多少会話を
「今日はパパが迎えに来てるから」「また保育園でねー」プール教室の出入口で弓香と別れ、紗良は海斗と手を繋いだ。「さて、海斗、今日はご飯食べて帰ろっか」「おそとでごはん? やったー!」「さーて、何食べに行こうかなー?」「かいとねぇ、ポテト! ポテトたべたい!」ファストフードかショッピングセンターのフードコートでも行こうかと思考を巡らせていると、『海斗くん』と背後から呼ぶ声が聞こえ振り向いた。「水着忘れてるよー!」「あっ、せんせー!」海斗の水着を掲げながら走ってきた『先生』は、プール教室のユニフォームであるTシャツと短パンを履いていて、髪はしっとりと濡れている。海斗は紗良の手を振りほどき先生へと駆け寄った。慌ててプールバックの中身を確認すると、確かに水着が入っていない。「わ~、すみませんでした。ありがとうございます」紗良も急いで駆け寄るが、先生に妙な既視感を覚えしばし頭がバグる。先生も紗良を見て固まり――。しばしの沈黙の後、紗良と先生は声を揃えて叫んでいた。「あっ! 常連さん?」「店員さん?」お互い驚きのあまりまた声を失う。先に口を開いたのは滝本先生の方だった。「海斗くんのお母さんだったんですね」「私も、常連さんが海斗の先生だとは知りませんでした」まさかの顔見知りで変に緊張するというか恥ずかしいというか。お互いぎこちなく愛想笑いしかできない。「かいとねぇ、いまからごはん、たべにいくんだー!」「おー! いいなぁ。いっぱい食べてこいよー」滝本先生は海斗の頭を優しく撫で、バイバイと手を振った。それに合わせて紗良もペコリとお辞儀をし、海斗と共にその場を後にする。「さらねえちゃん、ポテトポテト~」「あー、はいはい、ちょっと待ってよ」ファストフード店で海斗のリクエストであるポテトを注文し、ハンバーガーや飲み物をシェアしながら、紗良は先ほどのことを思い出していた。(本当にびっくりした。まさかラーメン店の常連さんが、海斗のプール教室の先生だったなんて、まったく気づかなかったなぁ)水泳キャップを被るだけで雰囲気がガラリと変わる。常連として見ていたときは綺麗な顔の人だなと思っていたけれど、プール教室の先生として見たときはまた違ったかっこよさだった。半袖シャツから見えていた引き締まった腕は、そういうことだったのかと妙に納得